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photos : Erez Avissar
いまから約10年前の話――。ブルックリンのインディ・ミュージック・シーンからは、ヤーヤーヤーズ、ザ・ラプチャー、ザ・ストロークス、ライヤーズ、アニマル・コレクティブ、TVオン・ザ・レィディオなどが登場した。彼らはメディアから「ニューウェイヴ、ポスト・パンク再来」など言われた。そしてそれはずいぶん盛り上がった。
が、現在は、10年前のハイプとは違う盛り上がりがある。あるバンドは活動を続け、あるバンドは解散した。2012年、再結成するバンドも多い。USアンダー・グラウンド・シーンはひと回りした。10年前に戻っている。
こうしたブルックリンのインディ・シーンを支えている重要なひとりに、トッド・パトリックがいる。DIYバンドのフレキシブルなアイディア、それを露出できるプラットフォーム、それらを作り、DIYシーンを面白く泳がせているのがトッド・Pと呼ばれる彼である。
ブルックリンのインディ・ミュージック好きなら、彼の名前を知らない人はいない。トッド・Pは、10年以上前か、DIYバンドを精力的にサポートしつつ、斬新的なブッキング・スタイルで、バンド/オーディエンスから圧倒的な信頼を得ている。そのなかにはDIYからメジャーへ飛躍したバンドも少なくないが、彼がブッキングすれば、ヤーヤーヤーズ、ライヤーズ、アニマル・コレクティブ、!!!、ライトニング・ボルトといったバンドも違う角度から見ることができる。新しいブッカーをサポートし、オール・エイジのイヴェントが載った新聞(ショー・ペーパー https://showpaper.org/)を発行し、バンドにスタジオを貸し出し、2012年3月は、ガールズなども出演する、メキシコでのフェスティヴァル(https://thenjunderground.com/)
(https://www.brooklynvegan.com/)をオーガナイズするなど、常に新しいチャレンジを続けている。
今回はトッド・Pに、10年前と現在のUSアンダーグラウンドシーン、デジタル音楽、インターネットとDIY音楽の関係、彼のブッキング姿勢とDIYにこだわる理由、未来の音楽シーンなどを訊いた。
チケットはクレジットカードで、オンラインで買うし、家を出る前にバンドのMP3をチェックしてからショーに行く。前売りチケットが売り切れになるショーの客は、シーンのなかでも最高に保守的な人びとが中心だ。面白くも楽しくもない。
■まず自己紹介をお願いします。どのように音楽に関わって、どのようにブルックリンでショーをブッキングしはじめたのか教えてください。
トッド・P:こんにちは、僕はトッド・パトリック。2001年、ニューヨークに引っ越してきて、その秋からショーをブッキングしている。その前にはオレゴン州のポートランドで、オール・エイジの会場を運営していた。その前は、大学に行ったオースティンでバンドをしながら、ショーをブックしていた。ショーをブックしはじめたのは、僕が見たいバンドが、その町では見れなかったから。
■私は、まだマイティロボットという、伝説的なブルックリンのロフト・スペース兼アーティスト集団がいた時期から、あなたのことを知っているのですが、その頃からいろんなオーガナイザーが育ってきましたよね。
トッド・P:その通り。2000年初期にあたりには、フィッツ(ツイステッド・ワンズ)、ラス・ウエアハウス、ラピッド(カイルとタリ)、BJワルシャウ(パーツ・アンド・レイバー)、セス・ミスターカ、ハッピー・バースディ・ハイドアウトなど、たくさんのオーガナイザーがいたけど、彼らはずいぶん前に引っ越したり、やめてしまった。その頃にオーガナイザーの世代交代をみたし、幸いにも止まることなく、少なくても十分な人がニューヨークでショーをオーガナイズしているし、10年前とは違って、ショーは年ごとに増えている。
■あなたがブルックリンでショーをブックしはじめたときと比べて、現在のアメリカのアンダーグラウンド・シーンはどのように変化しましたか?
トッド・P:インターネットのおかげでサブカルがレヴェルアップしたよ。人びとが前と同じようなことを実践していない。「アンダーグラウンド・ミュージック」という言葉が昔と同じ意味で使われるのかもわからないけど、まだ評価のはっきりしない驚くべき小さいバンドがいて、彼らのショーを隠れた、ぎりぎり合法でない場所でブックする大きなコミュニティがあるのは事実なんだ。インターネットでたくさんのモノを得られるのは良いし、現在生まれるバンドは音楽的影響のある広いパレットに露出するのが簡単で、それが音楽を面白くしている。
インターネットの最初の見込みは、情報と考えの真実の分配を民主化する乗り物だった。プロモーター、バンド、レーベルが、彼らの利益のために(いつも変化するが)、インターネットをどのように使うか、実務知識があるなら、昔は「アンダーグラウンド」と社会から疎外されていたバンドとオーディエンスがコネクトするのは今は簡単だ。インターネットが持つ/持っていた、アーティストとオーディエンスを直接コネクトするというすべての約束や可能性は、よくも悪くは多すぎる情報、人びとの注意の主要なルートである企業支配にかかっている。さらにインターネットは人びとにアイデンティティのいち部として「アンダーグラウンド・ミュージック」におく価値を縮小した。ゆえに「アンダーグラウンド・ミュージック」の好みとシーンのコミュニティは、疎外からの救命ボートやメインストリームへの不満ではなくなってしまったし、そういうひとたちにとっては、音楽は生活のなかでさらに意味のないものになっている。
■2012年は、バンドやレーベルはCDやMP3ではなく、レコードやカセットテープをリリースしているし、アンダーグラウンド・ミュージックシーンは原点回帰しているように見えますが......
トッド・P:たくさんの人がインデペンデントな録音物などの「モノ」が存在し、それを手に入れることが難しかった時代を懐かしんでいる。昔の小さなシーンが持っていたより密接した感情の延長としてのモノだよね。レアレコードはなくなったものへの懐かしさの明示だし、バンドやシーンの人びとはバンドを、彼らが不明瞭で良い状態のままに残しておきたいんだ。言えるのは、バズ・バンド(=バンドをメジャーへ押し上げ、もてはやさせる)文化は良いバンドをダメにし、彼らにつまらない2枚目のアルバムを作らせる。僕は人がなぜ良い音楽を秘密にしておきたいかがわかる。ヴァイナル・レコードやテープは部屋の見栄えを良くするし、ツアー・バンドやレーベルから直接買える「物」である。だいたいね、デジタルで音楽を売っても金は儲からないんだ。
■さらに、フリート・フォクシーズのようなブルージーでシンガーソングライタースタイルの60年代から出てきたようなバンドやキャッチーでシンプルなポップ・ソングをプレイするガールズなどがいて、実際彼らがアメリカや日本では2011~2012年を代表する「成功」したバンドになっていますよね。
トッド・P:僕は良いポップ・ソングが好きで、こういった50~60年代のAMラジオや7インチ・シングルに登場するような、1曲ヒットを人々が追うような「シングル・バンド」文化が戻ってくるのを見るのは嬉しい。だけど、ほとんどのこういうバンドは他に曲がなく消えて行く。残念ながらインディ・レーベル、ブッキング・エージェンシー、ブログ、プレス業界の経済状況は、キャッチーな曲が書けて、少なくとも3年はハイプなレコードが作れるインディ・ロッカーに頼り切っている。産業や物事のトーンがわからないビジネスマンの圧力、オーディエンスの神経を苛立たせるように、快楽に飽きた偏狭な姿勢がインディ有名人の主流階層を作る。それらはすべて一貫した良質の「ヒット」音楽を作れるインディ・バンドに、事実上、不可能な状況を作っているんだ。
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photos : Erez Avissar
ヴァイナル・レコード、カセット、ファンジンなどのレアな物、実際の物体を自分の手に入れるという欲望が関係しているよ。その瞬間を具体化し、1年後に引き出したり、集めることのできる記念物を創造したいんだ。ハードコアやパンクがすでに出来上がった音楽産業に挑戦したのと同じ方法でアートでも挑戦したい。
■ショーをブッキングするときの会場、バンド、日程など、どこに気をつけますか? あなたのブッキングのスタイルを紹介してください。
トッド・P:ツアーバンド(もしくは地元でも滅多にプレイしないバンド)の予定からはいる。彼らが、ある範囲の日程を指定し、それに合わせて動きはじめる。一緒にプレイするバンド(アメリカでは大体3~4バンド)は軸になるバンドの補足だが、いつもそうとは限らない。僕は同心円のように、バンドのコネクションを考える。重要な部分は、彼らが被るところだけでなく、お互いのオーディエンスが撃退するところ。共演するバンドは似たような音である必要はないが、他のバンドのオーディエンスがそのバンドを見るのを嫌う「何か」があってはいけない。理想は、バンドの影響とオーディンスのあいだにコネクションやハーモニーを見つけ、「部分」の合計を超えるものと等しくなること。これは、そういったバンドや音にさらされない人に、新しいバンドを紹介する方法なんだ。ただ、これらの危険は、ツアー・バンドのために、会場に人をたくさんいれるブッカーの責任とし、バランスを保たなければならない。
次は場所で、何年か前までは、ダイヴバー、ロフトスペース、アートギャラリー、レストランなどで、そこでブックをしたくなくなるまで、もしくは、なくなってしまうまで、他の人の会場でブックしていた。大体一晩に、いくつかショーが同時進行している。良い人もそうでない人もいたけど、これらのスペースを運営するたくさんの人に、たくさんお金を稼いだ。そのうちに、お金を貯めて、長く借りれる新しい場所を探し、自分の好きなようにセットアップしようとした。サイレント・バーン、モンスター・アイランドの地下(ラーノ・エスタカド)、マーケットホテル、285ケントなど。僕は、初期のデス・バイ・オーディオ、グラス・ランズ/グラス・ハウス、ケーキ・ショップ、スタジオB、ドン・ペドロ、にも関わっていたけど、これらは他の人のスペース。僕は、いつも自分が快適だと思った場所を選んでいる。スペースが適度にあり、十分な音響設備、見栄えがあり、場所が便利であること。幸い、ニューヨーカーは、場所に関して愛があるので、新しく、知られていない場所だと、よりたくさんの人を呼ぶことができる。
■10年前と比べてオーディエンスは変化しましたか? 私は個人的に、新しい世代はよりオーガニックで、静かで、あまり羽目を外さないように思いますが。
トッド・P:今日のオーディエンスはインターネットで育ったからね。チケットはクレジットカードで、オンラインで買うし、家を出る前にバンドのMP3をチェックしてからショーに行く。客の構成が変ったよね。前売りチケットが売り切れになるショーの客は、シーンのなかでもとくに保守的で、退屈な人びとが中心だ。自分のナイトライフを前持って計画し、この夜のために何が必要か考えて、コンサートのチケットをオンラインで買って、小さなiPhoneカレンダーに入れているようなね。このタイプの連中は面白くも楽しくもないね。これが「クール・キッズ」と呼ばれる連中を、前売り売り切れのショーに行かなくさせている理由で、大きいスケールで人気が出たバンドがもともとのオーディエンスをなくすという、強いハイパー現象はオーディエンスを急速にほとんどひと晩で飽きさせる。
インターネットの分配とメディアの爆発は多くの人々に「インディ」をあたかもムーヴメントのようにしたてあげ、より多くの「インディ・バンド」(たぶん多すぎる)やムーヴメントの「基準」を知らない人を生んだ。オーディエンスも増えたけど、より細かく分配されて、投資は少なくなっている。昔のライトニング・ボルトのような、いろんな種類の音楽好きで鳴り響いているバンドやショーを見ることはない。ニューヨークはこれらの状況に関しては、世界でもっとも最悪な場所だと思う。ショーはどこよりも多いし、見に行く場所はたくさんあるけど、人びとはオンラインにいる(スマートフォンを通して)、どこの場所より、たくさんお金を持っている。しかも僕らの昔ながらのオーディンスは本物の偏狭な馬鹿だと評される。
しかし、彼らには「本物の愛」があって、危険でセクシーだった古き良きニューヨークを人びとに思い出させる。僕たちDIYブッカーは、疲れきったニューヨークのオーディエンスから好感を持たれる。なぜなら、都会は上流階級層のホテル・ブランドやハイエンドなカクテル・バーに支配されているけど、僕たちは安くて、気取りのないセッティングで、素晴らしくて、まだ知られていないバンドを人びとに提供して、そして同じような考えを持った人に会う機会も作っている。人は、魅力的で、価格に見合ったドリンク、新しい良い音楽、キチンとしたセッティングに興奮する。
■あなたのウェブ・サイトには、たくさんのDIYブッカーが載っていますが、なぜDIYにこだわるのですか? それとDIYのショーばかりが載っているショーペーパーとあなたの関係を教えてください。
トッド・P:僕がDIYにこだわるのは、良い音楽が生まれるところだから。このシーンやショーをブックする人がいなかったら、小さなバンドはプレイする場所がないし、音楽コミュニティは淀む。2001年に僕がニューヨークに来たときは、インディ・ミュージック業界は20年分の淀みがあったけど、たくさんの人(僕だけでなく)が働いたおかげで良くなった。ニューヨーク以外のバンドが、ニューヨークの、不完全なクラブ・システム以外でプレイできるように、型を破って、場所を設立した。
僕は、抜き取った最近のDIYブッカーのリンクをウェブサイトに載せている。こういうアンダー・グラウンドのイヴェントを人に知ってもらうのがどれだけ大変か知っているし、とくに前のように定期的にショーをブックしなくなってからは僕のサイトに来るヒットを共有したいし、良い人がオーガナイズしている良い場所でバンドがプレイできるように助けたい。
僕が『ショーペーパー』を立ち上て、エグゼクティブ・プロデューサーをやっている(毎日の仕事を回すジョー・アヘーンと一緒に運営)。『ショーペーパー』は2週間にいちど発行され、1枚の大きい紙にプリントされた、イヴェントが載った新聞だよ。フルカラーで、表にはいまのアーティストの作品がプリントされ、裏には包括的なイヴェント・リスティングが載っている。僕がたくさんいるなかから、レイモンド・ペティボン、ジェネシス・ブレイヤー・ポリッジ、マーク・マザーズバーグ、クリス・ヨハンソン、タケシ・ムラタ、アウレル・シュミッドなどのアーティストを選んでいる。ペーパーは、オールエイジと$25以下のショー、ニューヨーク、ニュージャージー、コネティカットのものしか載せていない。ほかにシーンにインスパイアされた星占いと読者がショーで見てもっと知りたい人のことを投稿する「私はあなたを見た」というセクションで構成されている。
『ショーペーパー』が、プリントのみ(オンラインがない)なのは、いろいろ理由があるんだ。これらのイヴェントは、個人の家の場合も多いので露出に気をつけている。これらのショーを見つけてほしいけど、それよりもまず『ショーペーパー』を探してほしい。ヴァイナル・レコード、カセット、ファンジンなどのレアな物、実際の物体を自分の手に入れるという欲望が関係しているよ。その瞬間を具体化し、1年後に引き出したり、集めることのできる記念物を創造したいんだ。ハードコアやパンクがすでに出来上がった音楽産業に挑戦したのと同じ方法でアートでも挑戦したいし、面白い感覚を持つ若い人のヴィジュアル・アートを表に持ってきて、ヴィジュアル・アーティストを露出する他の方法も作りたかった。現代アーティストの作品がプリントされた、1万枚のフリーポスターが、2週間ごとにニューヨークのストリートにディストリビュートされ、キッズのベッドルームのそばに存在する。
■あなたは古いダイナー、駐車場、中古冷蔵庫屋、最近では、中華レストランなど、たくさんの変わった場所で、ショーをブックしていますが、どのように場所を見つけるのですか? また、とても印象に残っている場所はありますか?
トッド・P:ショーができるところならどこでもいい。場所はたんにバンドがプレイするところだから、きちんとした会場である必要もない 。
■あなたが以前、モンスターアイランドの地下を持っていたのは知っていますが、いまの状況は自分の会場を見つけようとしているのでしょうか? それとも、いろんな会場で、もっとショーをブックしていきたいのでしょうか?
トッド・P:僕はいくつかの「会場」を立ち上げ、運営していて、さらに多くの会場運営にも関わっている。ほとんどの会場はいち時的にデザインしたモノで合法ギリギリなんだ。最近は〈285ケント〉という会場を経営していて、僕のパートナー、リック・レイチュンとジョン・ランポにブッキングを任せている。
1年半前にショーのブックを止めた〈マーケット・ホテル〉という場所にもリースを持っていて、近いうちに利益を生まない会場として再開し、ショーをブックするつもり。マーケット・ホテル・プロジェクトは、スペースに永久的に利益を生まない、合法な会場であるという許可と免許を取るため、申告書を作ったり、リノベーション工事過程をまかなうために、寛大にも10万ドルの補助金を受け取った。〈285ケント〉も同じような過程を巡り、許可を取った利益のための会場として永久的な会場になる予定なんだ。
■地元のバンドで、あなたが2012年にチェックしておきたいバンドを紹介してください。それと2012年の、アメリカのアンダーグラウンド・ミュージック・シーン(とくにブルックリン)についての予測を教えてください。
トッド・P:2012年に期待するバンドは、グレイテスト・ヒッツ、DJドッグ・ディッグ、ソウン・レザー、ジェイムス・ファラーロ、ポピュレーション1280などなど (編集部注:DJドッグ・ディッグ、ソウン・レザー、ジェイムス・ファラーロは次号紙エレキングにインタヴュー掲載されます!)。
2012年に何がヒットするかはわからないけど、使い捨てのバズ・バンド・シーンとインディペンデント・バンドが挑発するシーンが分裂するとみている。この分裂は広くて、インディ・ロックと呼ばれるのはどこかメイン・ストリームのオルタナティブ・ロックにいって、本当に音楽を愛する僕たちのための面白い音楽だけが残るとよい。
■2012年、何に期待しているか、何に不安になっているか、何をしたいか、何に気をつけるか、何か声を大にして言いたいこと、アメリカ・アンダーグラウンド・ミュージックの予測に対して意見をください。
トッド・P:いま挙げたすべてのものをアドレスしたと思うけど、いちばんの心配事はオーディエンスがインディペンデント・ミュージックを与えられたモノと取って、小さなショーや知られていないバンドをサポートしなくなることだ。あり余るものに飽き飽きし、それにタイトルを与えるのは簡単だけど、それがコミュニティを衰退させる。救われるの、新しい世代ごとのオーディエンスが新しいことや音に飢えているのを感じるってことだね。アンダーグラウンド・ミュージックとは、いちばんのっている若いアーティストたちがいつも楽しみにしていること、それが世界が成り立つところだから。
■Link
1.toddpnyc.com
2.トッドPが、オーガナイズを始めて10年記念:
https://www.villagevoice.com/2011-10-19/music/todd-patrick..
3.トッドPが最近ブックした中華レストランでのショー:
https://blogs.villagevoice.com/music/2012/01/todd_p...
4.トッドPがオーガナイズするショーは大体こんな感じ:
ジ・オー・シー・ズ @285ケント
www.pitchfork.com/tv/youtube/1-plus-one/62-thee-oh-sees
*本コラムにもレポートあり
/ele-king/regulars/randomaccessny/
野田編集長のインタヴューに答えてゴス-トラッドは、次のように話している。「やっぱりシーンの流れはちょっと変わりましたよね。2008年後半か、まあ2009年ぐらいから、ちょっとつまんなくなりましたね」( /ele-king/features/interview/002133/ )。具体的な名前が出てくるわけでもないので、誰をさしているかはわからない。僕はどちらかというとダブステップよりもグライムが好きだったので、関心は少し偏っていたかもしれないけれど、同じ時期に限界を感じてグライムであれダブステップであれ関心が薄くなりはじめたことは同じである。ロール・ディープ周辺がとりわけトーン・ダウンしたという記憶が強かったので、当時のワイリーやティンチー・ストライダーのアルバムを聴き返してみたけれど、印象は変わらなかった。同じインタヴューでゴス-トラッドが、最近はそれ以前の流れに揺り戻しているといい、なるほどラマダンマンのミックスCDにはピンチの初期作が使われていたりする。ゴス-トラッド自身のアルバムもオールド・スクールを意識したものだと話は続いていく。
「ちょっとつまんなくなりましたね」という表現は、しかし、「変化」に対してはいささかネガティヴなものも含んでいる。理由は説明されている。簡単にいえばエピゴーネンが増えたということ。その認識に異論はない。実際に僕も関心を失いはじめていたのだから、その通りだと思う。しかし、なかにはオールド・スクールに異を唱え、何か新しいことをやろうとした人もいたはずで、そうしたなかからブローステップのようなものが出てきたことを差し引いても、可能性のすべてを切り捨ててしまうのはマズいと思う(悪くいえば、自分がやっていることの正統化と捉えられかねない)。
僕は、その当時、具体的には09年のベスト・シングルにアキラ・キテシのデビュー・シングル「ピンボール」を挙げていた。ダブステップの範疇に入るものではあったけれど、どこを取ってもオールド・スクールではない。彼らが大事にしているようなソウルはあっさりと売り飛ばされ、スケートシングの言葉を借りれば、そのセンスは「ニュー・ウェイヴに裏打ちされていた」という形容がピッタリだった(いまならば「ウォンキー」だろうか?)。スクリームやスターキーにも同じ資質は感じられる。スコットランドから飛び出したトミー・フォレストによる試行錯誤は、しかし、セカンド・シングル「ブーン・パウ」で早くも暗礁に乗り上げてしまう。ラッファーティによるリミックス・ヴァージョンの方が耳を引いたので、そっちに関心がそれてしまったぐらいである。ダブステップ全体に関心を失っていなければもう少しは追ったかもしれないけれど、僕はアキラ・キテシがブリストルのレーベルに移ったことさえ知らなかった(ましてや"ミング・ザ・マーシレス"がナイキの広告に使われていたことも)。
デビューはアキラ・キテシよりも早いけれど、サード・シングル「シック・アルプス」で注目を集めたスタッガは、さっさとデビュー・アルバム『ザ・ウォーム・エアー・ルーム』を昨年、リリースしている。アキラ・キテシ「ピンボール」を聴いたときに期待していたものがそこにはけっこう実現されていた。必要以上にエレクトロニックなテクスチャーを盛り込み、地に足を着けまいとするダブステップは明らかにスクリームのネクストを構想したものだろう。悪くはない。02年にオプティマス・プライムの名義でヒップホップのアルバム『ヴォイドヴィル』をリリースしたことがあるというわりにはリズムが弱く、通して聴いていると少し飽きてしまうことを除けば、それなりに楽しめる出来であり、ジェイムズ・ブレイクの浮上でにわかに注目を集めだしたダブステップのなかでは最大の異化効果を放っていたといえる(ポスト・ダブステップというタームとの距離感はよくわからない)。
しかし、それも『インダストリアル・アヴェニュー』がリリースされるまでだった。実は、前述した通りの経過を辿っていたので、それほど期待して聴いたわけではなかった。そうか、ようやくアルバムが出るのか。ファーストぐらいは聴いてみようかなという程度の関心だった。先行シングル「トランスミッション」を含む全14曲(アナログはCD付の8曲入り)は、そして、かつてよりもビート・フリークと化していて、なかなか聴き応えがあるものにヴァージョン・アップされていた。スチャラカなSEも抑えられていて、ひと言でいえば地味になったはずなのに、まったくそうは感じられない。アートワークの変化とも呼応するように、音使いの派手さではなく、リズムだけで同じ効果を上げ、それはそのまま世界観に揺るぎがないことを証明しているともいえる(これを〈プラネット・ミュー〉からリリースできなかったマイク・パラディナスは、ジャクソンに続いて、さぞや悔しい思いをしていることだろう)。後半にはドラムン・ベースの領域に踏み込んだ曲も散見され、次にどうなるかはあまり考えたくない......
それにしても、「アキラ」は大友克洋だろうけど、「キテシ」とは......。もしかしてタケシのことか(ジョビー・ハロルド監督『アウェイク』で「住友」と発音できないアメリカ人たちの場面がちと面白い)。
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DEEPCHORD
DeepChord 01-06
DEEPCHORD / US
»COMMENT GET MUSIC
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LINDSTROM / リンドストローム
Quiet Place To Live (Todd Rundgren Remix)
SMALLTOWN SUPERSOUND / NOR
»COMMENT GET MUSIC
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DEAN 'SUNSHINE' SMITH
Sunshine Reworks #3
SOULSHARE / UK
»COMMENT GET MUSIC
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JOAQUIN JOE CLAUSSELL
Unofficial Edits and Overdubs - Very Limited 7"
SACRED RHYTHM MUSIC / US
»COMMENT GET MUSIC
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KENNY "DOPE" PRESENTS THE BUCKETHEADS
All In The Mind (国内仕様盤)
MUSIC 4 YOUR LEGS / JPN
»COMMENT GET MUSIC
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ノルウェーの森にさんさんと降り注ぐ太陽、日焼けしたメロディ、スカンジナビアの大地に響くスカとロックステディのベース......何かおかしい? ラジカは3分間ポップの復権運動における精鋭、ノルウェーのベルゲン(ロイクソップやキングス・オブ・コンヴィニエンスで知られる)出身の4人の女の子(全員1991年生まれ)によるバンドだ。ザ・スペシャルズ......などとたまに比較されるけれど、あんな深刻な政治性はない。むしろその逆で、まばゆい陽光と希望の兆しへ向かって走っている。ちょっと尖った、かわいらしいポップ・ロック・バンドだ。願わくば、暖かい春を感じながら踊りに行きましょう!
3/28 (水)
contrarede x FILE-UNDER presents
Nagoya, APOLLO THEATER(052-261-5308)
open 19:30 / start 20:00
adv ¥3,500 / door ¥4,000 (+1drink)
Live : RAZIKA / TWINKE TWINKLES / 他
Dj : 山田岳彦((FILE-UNDER / KNEW NOISE)
3/29 (Thu)
contrarede x FLAKE RECORDS presents
TONE FLAKES vol.36
Shinsaibashi, CLAPPER(06-6213-6331)
open 18:30 / start 19:00
adv ¥3,500 / door ¥4,000 (+1drink)
Live : RAZIKA / NOKIES! / AWAYOKUBA /
DJ : DAWA(FLAKE RECORDS)
3/30 (Fri)
Shibuya, o-nest(03-3462-4420)
open 18:30 / start 19:30
adv ¥4,000 / door ¥4,500 (+1drink)
Live : RAZIKA / miila and the geeks / NEW HOUSE /
主催 : contrarede, calentito
企画制作 : contrarede, calentito
協力 : FILE-UNDER,FLAKE RECORDS,
Total info : contrarede 03-5773-5061 / epistula@contrarede.com
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Razika Program 91 Smalltown Supersound/カレンティート |
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Razika title TBA(来日記念盤) CLTCD-2012 | ¥1,260 [tax incl.] 祝日本ツアー決定! ティーン女子の若葉マーク・ミラクルが炸裂したユルめのトロピカル・ツートン・サウンドがただいま全国を席巻中、北欧ポップの聖地ベルゲンが生んだ期待の新人=ラジカによる来日記念盤は、アルバム未収録の新曲や未発表曲を収録! Amazon |
明日で世界は終わるだろう
明日で世界は終わりさ
けれど誰がそれを信じるだろう
誰がそれをきくだろう
"アンコ椿外伝"(2011)
ディストピアを声高く歌うひとを、昨年の11月、麻布の〈新世界〉で見た。「カモメよカモメ~、この世の終わりが~」、彼は未来のなさを、海の荒々しい彼方の情景を、独特の節回しの唄とギターの演奏のみで、これでもかと言わんばかりに展開した。東京という街がとにかくナイーヴで、相変わらずの励ましソングか、口当たりの良いヒューマニズムを繰り返すしか脳のないときに、1960年代末に青森からやって来て、寺山修司と精神的に結ばれながら、放送禁止用語集のような楽曲を発表していた三上寛は、いまも堂々と、そうした甘い感傷を吹き飛ばす、荒波のような唄を歌える。演奏が終わったあと、しばらく席から動けないほどに打ちのめされた。それが今回の超ロング・インタヴューの動機だ。
さて、今日のポップ・ミュージックでは、「ちんこ」「まんこ」「うんこ」といった言葉は、文脈によっては品性を欠いた挑発(からかい)、あるいは使い方によってはダダイズムの延長、ときにはずばりそのものの猥褻な名詞として、たとえばジョージ・クリントンのファンクないしはパンク・ロックを起爆剤としながら、表現の自由という大儀のもと、道徳的な見地からの批判をとうの昔に抑え込んでいる。セックス・ピストルズでもエミネムでも、彼らのこうした言葉づかいは、学校から与えられたボキャブラリーの外側へと受け手を連れ出すがゆえにときとして爽快な気持ちにさせる。
三上寛が1970年代初頭に試みた実験にもそれがある。"ひびけ電気釜!!"は、彼のけしかける無秩序の、もっとも有名な曲のひとつである。「飛んでいくのか片目の赤トンボ/キンタマは時々叙情的だ/泥沼の奥底はペンペン草の肉欲だ/赤いまむしはあみだくじだ/生命は神の八百長よ/希望の道は下水道だ」
手短に言おう。フリー・ジャズやアヴァンギャルドを取り入れた『Bang!』(1974)、死と隣り合わせの美しいバラード集『負ける時もあるだろう』(1978)といったアルバムは、日本のロックの急進派における古典としていまでは広く知られている。そして、いっさいの新曲を作らなかった10年を経て、1990年代以降の三上寛は、〈P.S.F. Records〉から怒濤のリリース・ラッシュを開始している。それら近年の作品には、1970年代の三上寛を特徴づけていた猥褻さと敵対心ないしは俗悪な描写はない。その代わりに、詩的な描写と唯一無二のギター演奏による独創的な音楽性は着実に磨かれ、光沢を増している(ブルースと講談と演歌のブレンド、津軽三味線とジャズの混合など、いろいろな説があるが、どうやら自然の成り行きで定まっていったスタイルのようである)。
多くの犠牲を払って手に入れた豊かさもぐらつき、我々は、恐怖と不安のなかでびくびくしながら生きている。学歴の高いひとの言葉ばかりを鵜呑みにしたり、金持ちに媚びてしまったり、他人の目を気にしたりする。そんなこと、まっぴらごめんだ。三上寛の音楽は我々を自由にするだろう。第三者的な良心よりも優先すべきことがあるんじゃないかと思わせる。たったひとりで行動するひとに勇気をもたらすだろう。教育システムの埒外にころがっている人生を差し出し、我々の生活をタフにする。
取材は、アンダーグラウンドの巨匠(......この巨匠という言葉は三上寛という筋金入りの反権威主義者には失礼だろうけれど、敢えていまそう記したい)がいま住んでいる津田沼のサンマルクの小さなテーブルでやった。あっという間の3時間。以下、そのほぼ全記録である。
お茶の間のヒューマニズムというのは大嫌いでしてね。「かわいそうだな、がんばれよ」っていうひとはね、どこからも突っ込まれないわけじゃないですか。世界的なレヴェルで良いことになってるわけですから(笑)。ところがね、「いちどでもそう言われたひとの身になって考えたことがありますか?」っていうね。
■津田沼にはどんなきっかけで住みはじめたんですか?
三上:津田沼はね、うちの奥さんが西千葉のひとで、それで子どもが生まれたときに実家に手伝ってもらったりで近くのほうがいいだろうということで住みはじめましたね。それで、1987年に来たからもう25年になりますね、千葉はね。
■ああ、そうですか。
三上:それが幕張だったんだけど、そこを越さなきゃいけなくなって、ひと駅こっちに出てきたって感じですね。それでこっちに出てきて6年かな。
■千葉自体は長いんですね。
三上:長い。
■90年以降の大量リリースに入る頃には、もう千葉に住まわれていたんですね。
三上:千葉にいたわけです。ですから「Jan Jan サタデー」(注)が終わったときに引っ越してきたんですよ。1986年までやりましたからね、わたしはね。あとはバトンタッチして。だからちょうど静岡に通ってたころは、阿佐ヶ谷から通ってました。そのときはまだ阿佐ヶ谷に。千葉はなかなか面白いですよ。何もないけどね。
■千葉に住まわれたことと、三上さんの音楽性に何か関連性はありますか?
三上:あるね。
■どういったところでですか?
三上:こういうことがあったんですよ、自分のなかでね。18のときに東京に出てきて、それで18年いたなあと。それで東京と青森にいた年数が同じになっちゃったなあと。そういう自分なりのある種の物語みたいなものもあって(笑)、それでどっかへちょっと行こうかなっていうのが先になったんですね。だからちょうど良くて。
そこで自分の音楽性に関係するのはね、そこは江戸川と利根川にちょうど囲まれててね、橋が両方ぶっ壊されると無法地帯というか(笑)、独立国みたいになっちゃうんですよね。水に囲まれてるっていうのが、ちょっとこう浮世離れした感じがあって。千葉に来ていちども気持ちが落ち込むということがなかった。これはびっくりしましたね。結局ね、漁師町なんだね! なんかこうね、ほかと違いますよ。だからみんな中津川ですね、ある意味で。
■ああー。天然の。
三上:天然の。
■それはいいですね(笑)。
三上:それは住んでみて初めてわかりましたね。まあむろん人間としては浮き沈みはありますよ(笑)、気持ちの上でね。ところがね、まず最初ここで暮らして「変に落ち込まないとこだな」っていうのはありましたね。そういう意味でね、土地柄と言いますかね、原始的と言おうか......自分たちから「わたしは漁師でございます」なんて言わないけれども、江戸時代はほとんど完全に漁師町だったでしょ。浦安とかあの界隈。だから染み付いてますね、漁師の感覚が。それも東京湾の豊かな漁師。それは海外に行ってた横浜と違って、ほんとに江戸のための漁師だったんじゃないですか。
■出ましたね。漁師という言葉は、"海男"であるとか、三上さんの音楽のなかでひとつ重要なキーワードですよね。
三上:ほんとにそうですね、漁師と海の歌っていう。たとえばリバプールなんかもね、ほんとに漁師町ですよ。わたしたまたま4、5年前にちょっと行ってきたんだけどもね。ほんとにもう、「あ、小泊だ」って思うぐらい(笑)、景色が似てて。カモメは飛んでるわ。まあもちろん、いまは漁業はなくて観光中心みたいになってるけれども。
そういう海どころって感覚の音楽が生まれるじゃないですか。アメリカ西海岸でも、東海岸でも。日本だけ海イコール演歌っていうことでね、そういう意味である種――まあ古い言い方かもしれないけれども、サブカルチャーというか、我々がやってきたようなことで海をテーマにしてるって意外とないんですよ。音楽で。
■ポップスで海が出てきても南国的な海だっりしますよね。
三上:湘南だったりね。わたしは北の海だったり、そうそう、働く海っていうんですか。
■そうですね、漁師がいる海っていう。
三上:意外とないんですね。 それは北島三郎さんと鳥羽一郎の特許みたいな感じでね、ふたりが歌ってればいいっていう。だから演歌がそれを示してましたわな。だから必然的にわたしの歌い方もどうしたって演歌、ってふうになるだろうし。環境もそうでしたね。海の町で聴いた音楽でしたからね。漁師が好きな音楽ばっかり聴いてましたからね。
(注)「Jan Jan サタデー」
静岡市の第一テレビ局にて1981年の春からはじまったヴァラエティ番組で、筆者は高校生のときにこの番組を通じて三上寛を知った。ロック・バンドが静岡に来ると紹介してくれたので、よくVHSに録画した。そのテープはいまも実家にある。
漁師と海の歌っていう。たとえばリバプールなんかもね、ほんとに漁師町ですよ。海どころって感覚の音楽が生まれるじゃないですか。アメリカ西海岸でも、東海岸でも。わたしは北の海だったり、働く海っていうんですか。漁師が好きな好きな音楽ばっかり聴いてましたからね。
■三上さんにはあまりにも訊きたいことがたくさんあって、演歌(怨歌)というのもそのうちのひとつなんですが、ほんとどこから話を切り出せばいいのか、すごく迷ってたんですけれども(笑)。
三上:それで、もうひとつ付け加えたいのがね、漁師の連中から話を聞くとね、いまみたいにネットとかもないので、彼らは3ヶ月同じ曲を聴かないといけないんですよ、1回陸(おか)で買ったら。だから相当チョイスするらしいんだよな。そういうものも、意外に自分のなかにあるのかもしれないですね。1曲の完成度と言うとちょっとおこがましいけれども、暮らしと本質的に結びついているっていうのは無意識にあるのかもしれない。すいません、挟んじゃって。
■いえいえいえ。あの、すごくざっくりした質問なんですけれども、三上さんが青森から出てきて、で、板前やられて、そして板前の寮を抜け出してギターを抱えて、そこからデビューして活動はじめられて、およそ40年くらい経ってると思うんですね。この40年っていうのは日本は、世界は、とにかくまあ、破壊的なまでに変化しましたよね。この40年の日本の変化というものに三上さんはどういう思いを持ってらっしゃるんでしょう?
三上:そうですね、まずひとつが若い世代がですね――若い世代っていうのはわたしたちの世代を言ってるわけです、いわゆる世に言う団塊の世代ってわけですけども。そういう日本の若いひとたちが戦争以外で――まあ戦争はちょっと違うかもしれないけれど、まさにざっくり言ってしまうと、最初に挫折したところからはじまってますよね。若者が挫折するってところから。学生運動におさらばして、髪を切って会社に勤めなきゃいけないってところから日本の文化ってはじまってますよね。戦後のというか、いまに繋がるものが。
だから彼らの失敗からはじまっている、失敗というか挫折ですよね。わたしもデビューしたときは、このままいけるんじゃないかと思いましたもんね。つまり中津川(注)で歌ったときに、このまま世のなかにばっと広がっていくんじゃないかと思いましたよ。で、3年ぐらいその気でいたら、まわりを見たら誰もいなかったっていうのが(笑)、まあ現実でしたね。それはものすごくショックだったですね。
■たとえば、60年代を生きた方々の本なんかを読みますと、やっぱり岡林信康さんという方がいかに影響力が大きかったか、ということを言われてるんですね。喩えの言葉はともかくとして、「神様」とまで呼ばれた方が、どうして失速――という言葉が合ってるのかわからないですけれども――居場所を失っていってしまったんでしょうか?
三上:それはね、個人的な情報というか、彼を大変知っている人間ですから、わたしの立場で言えるならば、やっぱり彼個人の考え方っていうのが結局あったんだと思います。彼はほら、牧師のせがれでしょう? わりとそのほら、平等意識というか、日本の風土に似合わないと言いますか、それほどアクの強い男じゃなかったんだよね。日本的なある種のミュージック・シーンのトップになっても、ある種育ちがいいというか。
しかし当時(60年代)は日本中から百姓の子どもたちが集まったわけですよね。それまでは東京に来るってことはないわけですから。たとえば地元で家業を継いで百姓をするとか。それが、「いやこれからは学問だ」つうんで、みんな田畑を売って、いままで学問を身につけたことのない人間が日本中から集まってくるわけですからね。元々は百姓ですからね、まあ言い方はそれでいいと思うんですけどね。その波で岡林みたいな、ある種西洋の教養を受けた流れがあって。それはやっぱり分離していくでしょうねえ。わたしの個人的な見方ですけれどもね。もっとアクの強いやつじゃないとだめだったんじゃないですかね。だから親分がこけたからみんなこけちゃったわけですよね。そのなかで親分が唯一生き残っていたのがね、内田裕也ですよ(笑)。彼はやっぱりちゃんと親分してたんですよ。だからここまでロックっていうのはこれたわけで。だから不思議なもんですよ、ひとりの力っていうのは。
■なるほど。
三上:だから求心力を失ったわけですよ、我々もね。〈URC〉も、なくはならないけれど、まあ終わっていってしまう。で、彼自身はそんな意識はあんまりなかったんじゃないかな、自分がトップだ、とかっていう。
■なんかこう、もっと時代的な風向きが変わってきたみたいな......。
三上:そうですね、いまの話は音楽ってことに限定して言ってるわけで、もっと大きいことで言うならば、なんて言うんでしょうかねえ、あの当時我々が影響を受けた波というんですか、1969年から世界的な流れでしたよね。まさにビートルズが来たりとか、まあ「革命」という言葉が合言葉のようになってた時代ですよ。すべてのことにおいて。音楽を変えよう、演劇を変えよう、映画、もちろん政治っていう。とくにやっぱりアメリカの――というか世界的な大きいうねりのなかでね、取り残されたと思うんですよね。つまりその、まだ機が熟してないと言おうか、まあいまだに熟してないんだろうけど日本の場合は(笑)。
つまりそういう、日本中から集まった百姓のせがれたちの感覚じゃあ、無理だったんじゃないでしょうかねえ、うん。つまり世界の動きっていうのは、ある種まあインテリ指導と言いますかね、そこそこ毒を持ってた連中ですよね、ヨーロッパでもアメリカでも。そういう連中が起こしたムーヴメントに、やっぱり格好だけじゃついていけなかったっていう。スタイルだけじゃだめだったんじゃないかな。ほんとにやる気があったらそりゃね、大学終わったぐらいでやめませんよ。社会に対するアプローチとか。やっぱり親から「いつまでそんなことしてんだ」とね、「田畑売ってお前を大学に入れさせて、せっかく公務員にしようと思ってたのに」とか、「いまだにヘルメットかぶって三上寛とだなんて、やめなさい」ですよ(笑)。
だからあっという間に消えたと思いますよ。あと下地がなかったんだと思いますね。これは明治維新とかああいうひとつのムーヴメントにはなり得ない。明治維新とかその辺はもっと切羽詰った想いがあったでしょ。流行とかそういうことだけじゃなくて。スタイルなんかじゃ全然相手にならなかったぐらい、まさにあの頃は似たような激動でしたよね。それにやっぱり耐えられなかった、つまりその、ひとが好すぎた、村社会に戻っちゃったんですよね。だから一瞬垣間見た世界ですよ、おそらくいま思うと、きっとね。70年代というのはね、きっと。
■たとえば、田川律さんなんかの日本の音楽の歴史を書かれている本を読みますと、フォークの時代からニュー・ミュージックの時代っていう言い方をされるじゃないですか。荒井由美とか吉田拓郎みたいなひとたちが出てくることによって、文化がどんどん変わっていったという。ああいうのはご自身現場にいらして、ある種価値観が揺らいでるような感覚っていうのはあったんですか?
三上:もちろんありましたよ。つまり過激なことはもうやめようっていうものですよね。それはやっぱり浅間山荘が大きいですよね。つまり最終的には、お互い殺し合うんだっていうとろこまで追い詰められるという。
だからいま思うと戦略も何もないよね。いま思うとですよ、精一杯だったとも思うから。お上っていうものに対する、なんて言うんでしょう、やり方が結局同士討ちなんだっていうことがショックで。それでもう誰もがやめようと思った、「あんなことになるんだったら」っていうね。それはやっぱりそこまで追い詰められたんだと思いますけどね。それもやっぱりある意味で、格好だけでいった部分も大きいんじゃないかな。本気でやろうと思ったら違ったんじゃないかなと思いますね、いま思うとね。
■だからそのやっぱり、60年代的なものを忘れたかったっていうような世のなかの風向きみたいなものがあったんですか?
三上:そうですね、それは「もういやだ」って言おうか、脈々と続いてきたお上に対する奴隷根性と言いますかね。ずっと虐げられてきたでしょ、日本人って。百姓も、侍もそうだと思うんですよね、実はね(笑)。そういうことに対する1000年にいちどあるかないかのチャンスにビビったっていうのがほんとのとこじゃないかなー。そこそこだったらいけるけれども、変えようと思ったらほんとに変わっちゃったんだから。しかも世界一のレヴェルでね。
■って言いますよね。すごかったってね、当時の日本の学生運動っていうのは。
三上:ええ、ええ。マイク・モラスキーっていうジャズ評論家のアメリカ人で、サントリーの賞もらったぐらい日本語の文章が上手いひとがいて。そのひとが書いた本の一節で引用がありましてね、オランダのある学者によると日本の70年代はルネッサンスよりもすごかったっていうことを言ってますね。あの当時アングラから発生した文化っていうのはルネッサンス以上だって外国の学者が言ってるぐらい、まあチャンスだったんですな。それを逃してしまった脱力感というのは非常に大きいと思いますよ。
■たしかにそうですよね。寺山修司さんや唐十郎さんの演劇もあったし、若松孝二さんがやっていたような前衛映画もありましたし。
三上:前衛もありましたし、フリー・ジャズもそうだし、それから舞踏なんかそうですよね、
■土方巽さんをはじめとする。
三上:彼らはまさに生き残った、生き残ったっていうのはおかしいけれども、立派に外で花咲かせてるわけですよね。舞踏なんて、あんなもの世界を見渡したってなかったわけですからね。
■すさまじいエネルギーがあった時代なんですね。
三上:だから面白いじゃないですか。津軽から出てきたですよ、漁師の末裔の、まあ勤め人の人間がですよ、ぽっと東京に出てきてその中心にいれるっていうかね、みんなをとらえたって言いますかね。それはやっぱり、それだけでもすごい話ですよね。
■それがね......三上さんは、1978年に『負ける時もあるだろう』というアルバムを出されてますけれども、あの「負ける時もあるだろう」という言葉はどういうようなところから出てきたものなんですか?
三上:あれはね、種明かしをしますとね、これはふたりしか知らないですけれども。あるとき新聞を見ましたらね、東映のヤクザ映画のね、たしか77年ぐらいかなあ......わたしがちょうど東映に出入りしていたときに、鶴田浩二のね、何ていう作品だったかな、最後のほうの作品だったと思うんだけどもね、それのキャッチだったんですよ。「負ける時もあるだろう、わたしは」って、「あ、これいただき」っていうね。それであの曲ができて。そしてね、実はあのキャッチを作ったのが深作欣二なんですよ。夜中に電話来ましてね、「三上、お前も売人だな」って。つまりあの「商売人だな」って(笑)。
■はははは。
三上:「見ただろう」、「はい、いただきました」っつって(笑)。「じゃあいちどどういう内容か教えてくれ」と言われて。それは曲を作った直後でしてね、30分ぐらい監督がチェックしましてね、それで向こうは何も言いませんでしたけどね。あのキャッチはわたしと彼しか知らないですね(笑)。
■でもその『負ける時もあるだろう』という言葉がピンときたっていうのはやはり時代のにおいのようなものを嗅いだっていうか......。
三上:だと思います。それはもうある種の世のなか全体を覆っていた、我々のようにいろいろなことをやっていた人間の、敗北感と言おうか、「もうダメだな」感ですよね。
■あの歌のなかで、「夢にまで見た不幸の数々が今目の前で行われ様としている」っていうね。あれは心に刺さる言葉なんですけれども。あの「夢にまで見た不幸」というようなフレーズは、当時の三上さんの気持ちとしては何を指していたんですか?
三上:それはまず、具体的に何だっていうのはないと思うんですよね。それは、いわゆる芸術家と言いますか、歌い手、ものを作る人間の予感ですよ。予感のないアートはダメですよ。
それは分析するとこういうことになるんじゃないかと思うけど、つまり、それで新しいアルバム(『閂』)でわたしは「みんなこのことを知ってた」って歌ってるんですよね、実はね。要するにね、ひとびとの無意識っていうのはね、迫りくる危機っていうものに対してね、直観ってものがあるはずなんですよ。それは著名な文学者であるとか占い師だけじゃなくてね、普通に生きているひともまるで獣のごとく来たるべき危機に対しても備えてるわけですよ、いまこうやってる時点でもね。
ミュージシャンはやっぱりそこに反応すると思うんです。そうしないとわたしはダメだと思っているんだけども。それでほとんど無意識の状態で、そこそこの詞を書くテクニックがあって、その当時ある種のこだわりっていうのかな、自分のスタンスっていいますかね、それを考えて見つめてあの歌は自然にできたんだと思うんですよ。きっとそうなんだと思いますよ。アートはね、後付けじゃダメ。政治とかジャーナルは後付けだけどね、アートは先に行ってそこで「まさか」って言われるんだけども(笑)。誰でもみんなそうですよね。
■たぶん、おっしゃる通りだと思います。でも、またその言葉を繰り返し歌わなければならないっていうのも、宿命的とはいえ非常に重たいものを感じます。
三上:そうですよね。だから「ミュージシャンって何なんだろうな?」っていうことになりますよね、私なんかは。あれだといまから30年前に作ってるわけでしょ。それでいま......何て言うんでしょう、現実が追いついてきてるわけじゃないですか。自分が作った曲にね。極論するとね、三島(由起夫)はこういうこと言ってるんですよね。「自然は芸術を模擬する」。つまり芸術のほうが先だっていう。「地震が来る」って言ったら地震が来るっていうのはこれはもうね......。
■三上さんはあるインタヴューのなかで「三陸のひとたちはDNAのレヴェルで津波が来ることをわかっていた」っておっしゃってます。三上さんにとっての三陸は『怨歌に生きる』という著書のなかでも書かれていますけれども、長年ツアーで行かれていた場所でもありますよね。
三上:行きましたねえ。しらみつぶしに、なぜかね、それもね。ほかの県でも良かったはずなのに。きっかり10年やりましたね。80年代ね。
だから振り返って、80年代、わたしは曲も1曲もできなくてね、東芝に行ったり大手に行くのもダメになったりして、それで世のなかデジタルになったりして......っていうようなことで、あの頃は自分の音楽の経験のなかでもどん底だったんじゃないかとしばらく思い込んでたんだけれども、「えっ、俺、そう言えば80年代ってオール三陸だったよな」っていうね。ええ。それは東京にいなかっただけで、まあいなかったって言うとおかしいけれども。だから静岡で「JanJanサタデー」やって、それで1年に2週間のツアーをやって、それは大変なツアーでしたよね。10年間やり続けました。
それでねえ、岩手っていうのはですね、四国より面積が大きいんだから。移動が大変だったり、あの狭い道だったり(笑)。あるときなんて洞窟でまでやったことあるんだな、なんかやるとこなくなっちゃって。自然に開いてる洞窟がありましてね、みんなロウソク持ってやったり。まあつまりね、ありとあらゆることをしたんですよね、三陸で。わたしの答が出るまでやってみたいっていうことを、受け入れてくれたひとたちもすごいと思うし。
■それは三上さんがご自身で企画されて?
三上:企画して。もちろん受け入れるひともいるわけですよね。三陸のひとたちも受け入れるわけですから。で、あんまり知られてないんだけれどもね、三陸岩手っていうのは大変な音楽王国でしてね、ジャズ王国ですよ。そこのジャズ喫茶の連中は、ちょっとずつ金出して、カウント・ベイシーを直接呼んで直接返すってことをやってるようなひとたちなんですよ。だからものすごく音楽が好きなひとたち。音楽もわかる、まあわかるって言ったらあれですけれども。ただ意外とフォーク・シンガーが生まれてないんですよ。ロック・シンガーも生まれてない。聞き手のプロって言いますかね。
■それこそ宮沢賢治なんかは、生前、仙台までレコードを買いに行ってるんですよね。盛岡から汽車に乗って。
三上:だから賢治っていうパブリシストがいるっていうことで安心してそういうことにハマれるっていうのもあるかもしれない。宮沢賢治ってものすごく大きいですからね、岩手のひとたちにとっては。
■我々にとってもでかいひとですからね。で、『怨歌に生きる』には、はからずとも陸前高田の写真が見開きで載ってらっしゃる。写真を見ていても、物凄い盛り上がりを見せていますよね。
三上:要するに三陸に行くきっかけっていうかね、『おんなの細道』っていう日活ロマンポルノの最後のオールロケ作品で、その後日活が潰れるんですけど、たまたまわたしも準主役でやって。それが物凄い厳しい撮影でね、神経が参りそうになった瞬間っていうのがあったんだな。あまりにも寒くて。あの寒い冬のロケで、ロマンポルノですから8割裸になってないといけなくて(笑)。いちいち着てたら余裕ないですしね。まあ裸ってわけじゃないですけども、何か羽織って待ってるという状態で。この年ではとてもできないけれども、20代でまだ丈夫だったからできたんですね。
で、神経しかないなっていうときに、人間ってああいう状態だと何か見るんですよ、幻ですわな。三陸っていうのは景色がいいんですよ。それが津波だったんでしょうね、いま思うと。それが後で"大感情"って曲になるんだけども。その縁で行くようになったんですよ。「何だろう? これ見たことのない景色だな」っていう。「感じたことのない予感だな」という。それでこだわっちゃったんでしょうね、いま思うとね。それがこの前の津波に繋がるんだと思いますね。きっとね。30年前に「えっ、何これ」というような感情があったんじゃないでしょうかね。
これは意外とわたしのなかでは繋がってることでね、そしてその去年の3月の16日にメキシコシティでアンダーグラウンドのアート・フェスティヴァルがあったんですよ。まあアンダーグラウンドだけじゃなくて、メキシコシティ挙げての祭で、ハービー・ハンコックも出てたぐらいの祭だから。1ヶ月ぐらい、ロンドンからパリから、世界中からミュージシャンが来て。それが3月の16日だった。それでわたしは、予感というかいんでしょうか......ヨーロッパでもアメリカでもなくてメキシコか、どんなところだろうなっていう、ある種の期待と不安のなかでどーんと来ちゃったんですよね。行く4日前に。
だから去年のいまごろはずっとメキシコ行くこと考えてましたよ。津波とか関係なくね。ところがメキシコっていうまだ見知らぬところに行くっていうある種の期待と不安が、それとも繋がってた気がする、予感で言えばね。だから物語がすっきり終わっちゃったような感じがあるよね、そういう意味では。だから車も全部止まってて、必死で羽田まで行って。なんか自分のなかでね、物語っていうか......だからあのとき見た「これは何だ」っていう景色はもしかしたら遠くメキシコを見てたのかもしれないし。だから初めてこう裏側から見たわけだよな。メキシコ行ってね。それでメキシコにもちょうど10年前に大きい地震があって15000人ぐらい死んだらしくて。物凄かったらしいんですよ、10年前ね、ちょうどね。そういう縁で行ったのかなと思ったりしましたけれども。だから、三陸、津波、いまの音楽、自分の立場っていうのはきれいには整理されてないけれども、きっと何かあるんだと思いますね。
(注)中津川
ウッドストックに触発された日本で最初の音楽フェスティヴァル「全日本フォークジャンボリー」。1969年8月、3千人規模ではじまったそれは1971年には2万を超える規模へと発展した。1回目には遠藤賢司、岡林信康、ジャックス、高田渡、田楽座、中川五郎など出演。三上寛は3回目に出演している。
三上は学生運動を挑発してああいう時代の華だったいう、そういう捉え方もあるかもしれないけれども、「冗談じゃないよ」っていうね。それもあったんですよね、わたしのなかで。そんなことよりも、永山則夫、中卒でひとを殺した男のほうが俺は大事だっていうスタンスでしたからね。
■では、震災がありまして、今度は福島の原発の事故がありましたよね。あれに関しては三上さんはどのように思われましたか?
三上:これはね、筋違いというかびっくりしたといいますかね。あれは地震だけだと、そこそこ災害ということでわかりやすかったと思うよね。ところが、いまは事故のほうが中心になっちゃってますよね。
結局、何て言うんでしょう、津波が教えたと言いますか、日本の現実を。「お前たちはその上で暮らしてきたんだよ」ってことを。だから神の声ですよね、津波っていうのはある意味でね。死んだ方には申し訳ないけれども。人間の仕事っていうと非常に冷めた言い方かもしれないけれども、役目を果たして死んでいったんだと思いますよ、それは遺族の感覚ではもちろんないけれども。福島というものがあったおかげで、結局世界の問題になっちゃったんですよね。日本も、三陸も。日本の現実が世界にバレちゃった。日本人というのは覆い隠してここまで来たわけですよ。こんな小さい国がね、どこにも攻められずに。
海というものがあるとはいえ、イギリス見ればわかりますけど、海なんてあんなもの国境だなんて生易しいもんじゃないと思いますね。日本人は、いかに大きく見せるかっていうことに関してスーパー・テクニックがあった。日本には天皇がいて、その天皇がいかに大きい力を持ってるかとか、日本人が隅々までそういう能力を持っていて。物語として世界に向かうときに、数倍大きく見せてるはずなんですよ。それで世界の一番や二番にもなるわな、って話ですよ。それがバレたんじゃないでしょうか、世界中に。
■それで昨年、3.11以降は2枚連続で去年出されていますね、『閂』と『門』。
三上:あれはね、自分のなかでは説明できない、ある種の勘と言いますかね、ガガガッと。音楽って、漁師に喩えたりしますとね、魚ってプランクトンを食べてるわけですよね。プランクトンって海のなかに平等にあるんですよ。ところが潮の流れであるところにぶつかって、そこだけに溜まっちゃうんですよね。それで魚が集まってくる。音楽もそうだと思うね。音がぶつかっちゃってるっていうかね。四国のあの場所(高知の)、井上(賀雄)くんたちがやってるあの場所に世界中の音が集まってきちゃってるな、っていう感覚があったんだと思う、わたしのなかで。
■四国の井上さんというのは?
三上:(『閂』と『門』の)リリース元の、小さいショップとライヴハウス(CHAOTIC NOISE)を兼ねたところなんだけども。なんかこう、あくまでも感覚なんですけれどもね、「ここに音が集まってきてるな」っていう感覚があったんですよ、わたしのなかで。じゃあタモですくっちゃえっていうか(笑)、いま捕らなきゃていう。だからあそこでコンスタントにするかどうかはわからない。ほんとに漁師の感覚で、いけるときにゴンゴンっていくっていう。その上でまた今月レコーディングですからね。だからほとんど半年の間で。
■では、そこで2枚続けて出したっていうのは、とくに3.11と関係があったわけではない?
三上:とくに関係ないですね。3.11からの1年というのは早い者勝ちでやったわけですけれども。もしかしたら、3.11の関係があるとすれば、四国もね、高知も丸亀もものすごく地震にいじめられたところですからね。城がすごく地震に対応するようになってるでしょ、まあ城っていうのは元々そういうものだけど。やっぱり大地震がいっぱいあったとこでしょ。そういうのもあるのかもしれないね。
■去年の秋でしたか、新世界で三上さんがライヴやられたときに、観に行ってとても感動したんですね。3.11直後の日本っていうのは、最初は音楽なんて不謹慎だって声もあったり、あるいはひとびとが落ち着きを取り戻して音楽が聞こえてきた頃には、「がんばろう日本」みたいなね、口当たりのいい言葉でもってまとめられてたりとかね、そういうなかで、三上さんのライヴでは「この世界は終わる」とか、いわゆるマスメディアで流れてる言葉とは正反対の言葉を歌われていて、逆に勇気付けられたっていうのがあるんです。みんなが「悲しいよね」とか「頑張ってほしいよね」とかそんなことを言ってるなかで、「この世は終わる」と歌うことはすごく勇気があることだというか......。
三上:それはだからその、厳密に言うならばね、こうやって何年も経つとね、三上は学生運動を挑発してああいう時代の華だったいう、そういう捉え方もあるかもしれないけれども、実際70年代の頃もわたしは実はそうだったんですよ。要するに岡林たちとの学生運動にしてもそうですけど「冗談じゃないよ」っていうね。それもあったんですよね、わたしのなかで。そんなことよりも、永山則夫、中卒でひとを殺した男のほうが俺は大事だっていうスタンスでしたからね。そういう意味じゃ慣れてると言おうか(笑)、それが俺のやり方なんだろうなと思ってると思うんですよね。
わたしはお茶の間のヒューマニズムというのは大嫌いでしてね。その「かわいそうだ」とか「がんばろう」とかいうのはいちばん無責任だと思うんですよね。世界中のヒューマニズムが戦争を起こしているって言ってもいいぐらいなわけでね、それは寺山さんがよく言ってましたよね。理性が戦争を起こすんだ、感情なんかじゃケンカは起こらない。ああいう世のなかのひとが同じ方向を見てるときってね、こう胸くそが悪いんですよね。
■やはり意識されて歌ってたんですね。
三上:もちろんです。
■......そっか、それは素晴らしいですね。
三上:そういうことをしていかないとね、気がついたら何も残ってないんですよ。やっぱりね、「冗談じゃねえよ」っていう。「ボランティアなんかやる暇あったら自分で仕事したらどうなんだ」っていうのがいまだに自分のスタンスですし。それとまったく同じように、三陸の漁師たちはね「俺たちといっしょに悲しもうとなんて思うなよ、てめえらはてめえらの仕事をすることが俺たちを元気にするんだから」って言ってて、ものすごくよくわかりますよ。
要するにね、「かわいそうだな、がんばれよ」っていうひとはね、どこからも突っ込まれないわけじゃないですか。世界的なレヴェルで良いことになってるわけですから(笑)、人助けっていうのは。ところがね、「いちどでもそう言われたひとの身になって考えたことがありますか?」っていうね。「がんばれよ、大変だな」って言われることほどつらいことはないんですよ。自分が同情されるっていうね。それはプライドを拒否することでしょ、そのひとの。わたしはメディアがやってることは、ぜんぜん筋が違うと思いますよ。
■あのヒューマニズムは、ほんと胸糞悪いですからね。
三上:迷惑してる。ひとを馬鹿にしてる感じがする。そりゃあ「ざまあみろ」と言う必要はないですよ。ところがね、形だけじゃ何にも進みません。何にも進んでないわけじゃないですか。つまりボランティアをやってるってことで少しずつ動いてるっていう社会的な風評があるだけで、ゴミひとつ取り除けてないわけでしょ。だからこの前総理官邸に三陸の小学生が5人ぐらい訪れて、ひとりがこう言ったそうですよ、「ほんとにやる気があるんですか?」、そういうことですよね。
原発もそうですよ。わたしなんかも原発反対の運動もやってきましたけどね、それは何かおかしいんじゃないかって気がつくまでそれほど専門的な知識もないわけですし。いまごろになってね、雁首揃えたようにね、知識人たちやある種のひとたちが一生懸命署名してやりましょうっていうのはね、「じゃあいま働いてるやつはどうすんの?」とか、そういうことがまずないですよね。頭のなかに大きい流れっていうものがね。
■ただ、いまこれを契機にして、三上さんの言葉を借りれば津波のおかげで、またいちど潰された市民運動がまた再生しようとしている機運も僕は感じているんです。
三上:それは絶対しないといけないですよ。こんなチャンス逃したらもうちょっとダメだと思うよ(笑)。
■そういえば、永山則夫をテーマにした曲がファースト・アルバムに入っていますけど、三上さんは永山則夫のどこに共感するものがありましたか?
三上:まあ何て言うんでしょうかね、人を殺した男と同じ景色を見たっていうことでしょうな。
■それはやはり津軽の。
三上:ええ、同じ環境にいたっていうね。
■北の生まれっていう?
三上:ええ、もうすぐそばですし。彼の同級生とわたしが同級生だったり、そんなとこのやつか、っていうところじゃないですかね。だからね、市民運動でいまやらなきゃいけないことはね、「市民とは何か」なんだよ。
日本のなかの市民意識っていうのはね、俺さっき言ったけれども百姓根性とかね、奴隷根性っていうもののね、それの反対ですよ。だからまだ市民になってないんですよね。市民っていう概念がまず日本にはないですよ。何となく、「いまやっとこう」なんだろうな、ってことになっているわけで。
国民なんていうのは天皇しか使えないじゃないですか(笑)、大きい意味で言うならね。だから市民運度のトップに立った菅直人ってやつが何もできなかったわけですからね。考え直すべきですよね。政治にもプロがあっていいんじゃないかって。そして市民っていう概念は日本人の場合どうなんだっていうね。キリスト教の文化だったら神と自分ってことでわりと簡単に決められるでしょ。日本の場合は天皇と自分ってことで日本人の市民って概念を作っていくのか、「それもあんまりパッとしねえな」、とかね。いったいこれから日本人は市民とか個人とかいうものをね、どうやって確認しあうのか。もちろんわたしはうっすら感じてますよ、やっとできつつあるなっていうのはありますけれども、やっぱりそれは、そういう市民像っていうのがしっかりあって、「日本人にとって市民とは何か」って誰か作ってほしいぐらいだけれどもね(笑)、それではじめて運動になったり、改革になったりすると思うんですよ。まだ選挙民でしかないですから(笑)。
つまり中津川で歌ったときに、このまま世のなかにばっと広がっていくんじゃないかと思いましたよ。で、3年ぐらいその気でいたら、まわりを見たら誰もいなかったっていうのが、まあ現実でしたね。それはものすごくショックだったですね。
■で、もうひとつ今日テーマにしたかったのが、三上さんが「田舎」というものをどのように考えてらっしゃるか、っていうのを聞きたかったんです。というのは、たとえばいまのミュージシャンの音を聴きますとね、シティ・ポップスが多いんですよね。シティ・ポップスが悪いとはべつに思わないんですけれども、たとえばアメリカだとカントリーという田舎の音楽が若いひとたちにいまも支持されている。ブルースなんていうのはまさにメンフィスの音楽であって、僕はデトロイトの黒人なんかと話す機会が多いんですが、彼らは北部の工業都市で暮らしていてもいつかはメンフィスの田舎に戻りたいという気持ちを持っているんですね。あるいは、イギリスだったらアイリッシュ・トラッドとかケルト文化が、ビートルズの曲にもレッド・ツェッペリンの曲にも、いまのテクノにも出てくるわけです。つまり権力に対抗するときに、欧米の音楽はいまも田舎を持ち出すんです。それが日本で「田舎」というと、「田舎もん」という言葉が侮蔑の言葉として使われているように、いっぽうで田舎は美化されながら片方では否定されているような、奇妙な意味を持ったものになってます。三上さんの音楽は、そういう意味では、日本が隠蔽したがる田舎を物凄く開放しているというか、さらけ出している。さっきも漁師っていうものが自分にとっては重要だからとおっしゃっていましたが、漁師が重要だというミュージシャンに初めてお会いしました(笑)。とにかく、三上さんには周縁化されてしまった「田舎」というものに対する何か強い気持ちを感じるんですよね。
三上:ありますね。その、何て言うんでしょうかね......。まず「田舎もん」というのはだんだんなくなりましたよね。要するにイギリスで「ジェントルマン」っていうのは「田舎もん」って意味らしいのよ。要するに3代も前のじいちゃんの三つ揃えを着て、こんな帽子かぶってるっていう(笑)。まあそれはいいとして、ミュージシャンにとってそれはいますごく重要な話ですよね。要するにね、ロックっていうのはほとんど田舎もんですよね。まずエルヴィスがそうでしょ、ジョン・レノンもそうじゃないですか。イモなんですよ。イモのパワーなんですよね、音楽って。
■ハハハハ(笑)。
三上:ええ。土着のパワーなんですね。というのは音楽っていうのは元々作物ですから。やっぱり土地がないと生まれないんですよ。音楽って大根と同じですよ。それがいちばん顕著なのが声質でしょ。これは田舎の声なんですよ、わたしの声は。ジョンはね、アイリッシュとかケルトとか、あの声なんですよ。
■イギリス人ではじめてロックを歌うときに、アメリカ訛りでなくイギリス訛りで歌ったひとがジョン・レノンって言いますよね。
三上:そうでしょ。あれも完全に田舎ものの声なんですよ。あの潮枯れしたようなね。エルヴィスなんかも南部の畑のなかで、音楽でカッコつけてたやつの声ですよ。よくいるじゃないですか、田舎で音楽でカッコつけるやつが(笑)。
■黒人のブルースもまさに黒人訛りなわけですよね、南部の訛り。
三上:だって黒人の声なんていうのは完全にアフリカの作物でしょう。
■ははははは!
三上:そうだと思うんですよ、わたしは。
■たしかに(笑)。レゲエに至っては完全にジャマイカ訛りでね、ほんと堂々としてますよね。
三上:そういう意味で言うとね、音楽は都会からは生まれないですよね、だって作物ないわけですから。消費文化でできてるわけですから。でしょう? 世界に話広げなくたって、日本でもそうですよね。わたしのような声、それから九州の連中のような声。わたしはああいう甲高い声出ませんし、これはもう声聞いただけでわかるっていうぐらいですよね。どこの出かっていうのはね。だからわたしは「あんたどこ出身?」っていうのはね、声で想像を巡らすっていうのがあるぐらいですよ、ええ。
田舎っていうことで言えば、それはねえ、どうなんですかねえ。結局日本はみんなね......わたしなんかも最近ふと気づいたことなんだけれども、やっぱりそれはあれでしょ、近代化っていうことでしょ。要するに明治維新が起きて、それまでは藩っていうものが、田舎がそこのポップだったわけですよね。標準語も何もない。
そうじゃなくて、近代的になるっていうことは、なるべく同じヨーロッパ・スタイルと言いますか――まあヨーロッパだって普通に田舎だけどね、ほんとはね(笑)――そういうものにしようじゃないかっていうことで、自らが田舎を否定しようっていう流れに乗ってしまったんですよね。もっと詳しく言うならば、田舎にはね、死があるんですよね。ひとの死があるんですよ。近代化っていうのは死から遠ざかることだって言ったひとがいますけれども、死人からつき離れていく状態ですよね。田舎イコール死人ですよ。父が死に、母が死に、兄弟が死に、っていうね。都会ではやっぱり、そういう意味では死はないですよね。養老孟司も言ってたけれども、都会とは言ってないけれども、いまある死はただの「数」だってね。死ぬのは他人ばかりですよね。今日何人死んだって新聞に出ているのが死であって、あのおばあちゃんが、俺と同じ景色を見た母親が死ぬっていうのとは、死の概念がぜんぜん違いますよね。
■たとえばイギリスなんかはね、アイルランド人とかってイギリスでは下層階級なわけですよね、白人でもね。主流では差別されてる。しかし、アイルランドとかスコットランドとかみたいなイギリスの上流階級が馬鹿にするようなひとたちを、「あいつらこそ最高だ、あのアイリッシュ・ソウルの素晴らしさを見ろ」っていう風にむしろ言うひとが同時にいるわけですよ、とくに音楽のシーンには。三上さんの音楽っていうのは、日本の近代化のなかで周縁に追いやられてしまったものを同じように取り戻そうとしているように感じるんです。
三上:これもっと話を広げるとね、結局東洋と西洋っていうものになっていくと思うんですよね。つまり仏教国とキリスト教みたいなことになっていくんじゃないかと思うんですよね。ていうのはアイリッシュなんかでも、元々は発祥はインドのほうですよね。東洋人なんですよ。これはヨーロッパのひとなんかもびっくりして。あの文化っていうのはやっぱりインドのどっかから発祥してる。ケルト民族なんていうのは、だから我々も不思議とわかるヴァイブレーションっていうものがありますし。日本の唱歌なんていうのは、ほとんどアイルランド民謡ですよね。
■ああ、そうですよね。スコットランドも多いですよね。
三上:何でアイルランドなんだろうと考えたら、血が呼び合うっていうんですか(笑)。結局我々はいま、どっちを選ぶべきかになってるんですよね。いま田舎ってものをもういちど見直そうってなるってことは、大きい意味ではヨーロッパ的な洗練された文化っていうものの反対を見ているわけですよね。反対ですからね、都市と田舎っていうのはね。田舎っていうのは土着的であり......もっと言うと、科学なのか自然なのかですよ。簡単に言うと。
■しかもまた都会っていうことで言っても、三上さんが住まわれた60年代や70年代の東京といまの東京ではまるで違いますからね。
三上:そう、そう。ただわたしは、土着がサイエンスだと思ってるんです、わたしはね。それは無知なだけで、我々が。
わたしが田舎に帰りまして非常に面白いこと発見しましたのはね、青森津軽町にイタコっていうのがいるんですよね。シャーマニズム的な。わたしはそういうものが嫌いで東京に出てきたわけですけれどもね、ところがあるとき何かの取材でそういうことをしたら、イタコが何かこういうことをやってるわけですよ。ひとがこういっぱいいて、で、わたしの隣にね、50ぐらいのひとかなあ、まあ百姓の親父が寄ってきましてね、「どうやってやるもんですか、どうやってイタコの話を聞けるんですか?」と。だからちょうど5~60代のひとはやり方がわからないんですよ。昔のばあさん連中は行って、イタコの前にいくらか出して「お願いします」って言えばやってくれるんだけど、そのひとは知らないわけだな。そういう文化にいないし、また忌み嫌ってたっていう。その男にですね、ばあさんの前に行っていくらか出せばやってくれるんじゃないのって言ったら、「ああそうですか」って言って、イタコのところに座って千円札かなあ、それを出して、座ったと途端に「わー」っと泣き出したんですよね。その親父がね。そのときにね、これはある種天然の都会だなって思ったんですよ。
要するに、想像するに彼は百姓の長男で母親を亡くしてるわけですよ。ところが百姓のうちっていうのは個人の部屋がないんですよ。ひとりだけでこもるなんてことがないんですよ。ガラガラなわけでしょ。で、長男は泣いちゃいけないんですよ。田舎の長男は母親が死んでも泣いちゃいけない。泣く場所がなかったんですよ。だからやっと泣けるわけだ。だから、イタコの前で泣くことには誰も後ろ指を指さないわけね。要するに気持ちの便所ですよ。それは音楽と同じですよ。音楽聴いて泣くのはいいんですよ。ところが一歩外に出たらね、泣いたら負けるんですよ。弱みと受け取られますからね。ちゃんと都会で音楽があるように、田舎には泣いてもいい場所がちゃんとあるんだっていうのは、これは非常に合理的ですよ。
■ゴスペルと同じような社会的な機能をしているんですね。
三上:でしょ? 泣いてもいいんだと思うんですよ。決してそれは人生に負けたことでもないし、闘いを放棄したわけでもない。
■行き場をなくした感情を開放してるんですよね。
三上:そういうことですよ。つまり、ガス抜きですよね、ある種のね。
■なるほどね。で、そういうことで言うと、三上さんがよくシュールレアリスムという風に昔おっしゃられてますけど、それこそ初期の頃の曲には、それこそ、「チンポ」「まんこ」「センズリ」......。
三上:近親相姦。何でもあり。さすがにカニバリズムはね、あれは都会のもんですから。うちらは畑に撒くものですから(笑)。
■はははは(笑)。とにかく夥しい放送禁止用語のリストがあるわけですけれども、これも田舎と同じように、タブーに挑戦していたというか、表現における自由の限界を試していたようにも思うのですが。
三上:そうですね。まあ......シュールでもダダでもね、要するにヨーロッパのああいう芸術運動ってのはね、ほんとに土着みたいなところから出てるんだよね。日本に来たりすると何かカッコいいものに見えたりしちゃうけれども、ああいうある種のデタラメって言うんですか、起爆力って言おうか、新しいものが。で、俺が使ったのもスラングでしょ。つまり日常会話じゃみんな言ってるわけですよ。
■そうですよね。しかもこれだけ時間が過ぎたいまでもパブリックになると包み隠されてるっていうね、おかしな話で。
三上:そうですよ。だからそれは自負がありますね。わたしからだろうな、こういうことをやったのは。それまでは、音楽の作詞っていうのはちゃんとありましてね、まず「センズリ」なんていうのは歌詞じゃないっていうね(笑)。わたしが歌う前はそうでしたよ、ちゃんと歌詞の作り方があるんだみたいなね。それが寺山さんの一言でね、「いや、いいんだ」っていう。そういうスラングでいいんだっていう。それはほら、寺山さんなんかが洗礼を受けたビートニクなんかがちょうどね、アメリカ60年代であって。それまでもギンズバーグ以前でも、ファックだのプッシーだのやってませんよね。それもわたしのあれも外来なんですよね。いきなりじゃなくて。筋というか流れで言えば(笑)。
■それにしても「キンタマは時々叙情的だ」は名文句ですけどね(笑)。
三上:それはまあそうですよね(笑)。だからあの当時の現代詩なんかは、「キンタマ」でも「女陰」でもそういったものがアカデミックな使い方をされてたんで、そこでああやって金玉を叙情的にしたんでしょうね。まったく遠いものを。
■ははははは。何でしたっけ......「荒波や 佐渡に横たふ わがチンポ」とか、最高っす(笑)。
三上:ひどい歌だよね(笑)。
■僕、すごく感心するんですけど、あれだけ「オマンコオマンコ」っていう、「女なんてやっちまえばいいんだ」っていう。ああいうのもひとつの逆説なわけじゃないですか。
三上:まあそうですわな。
■パラドックスですよね。日本社会の封建的なものに対する逆説的な表現としてあって、で、ちゃんと三上さんは中山千夏さんという、あの当時のフェミニストの代表格のひとりにもちゃんと理解されてるんですよね。中山さんのアルバムに参加してますもんね。
三上:だから千夏なんかにもさ、「結局寛しかいないね、女のことちゃんと考えてくれてるの」なんて言われて。わかるやつにはそうなんだよな(笑)。わかるやつって言っちゃあおかしいけれども。
■それを考えると、いま大衆文化の空間で話されているボキャブラリーっていうのは、ずいぶん見事にまた統制されてきてしまってるんじゃないかっていうね。
三上:そうですね。いまのポップスがこういう風にちゃんとなっていけばいくほどね、結局、「いったい何が失われていくんだろうな?」っていうのを考えるとね、意外とね、本当の意味でのエンターテインメントっていうのがなくなっていくんですよ、これが。不思議なことに。わたしはアンダーグラウンドっていうかサブのほうでやってきた立場なんでしょうけれども、わたしはエンターテインメントの視点っていうのは忘れてないんですよ。あれはあれでまた、狂気っていうものがないといけないし、やっぱりこのままだと第二のマイケルなんて生まれないだろうっていうぐらい。マイケルだって相当おかしいやつですからね(笑)。
■黒人音楽の芸当に対する思いはすごいものがありますからね。
三上:でしょう。それが表現以前に、何て言うんでしょうかね、エンターテインメントってことは、わたしももちろん他人事じゃ言えませんけどね、我々との結びつきって言いますか、アングラとの太い絆って言いますか(笑)、あるんですよ、これが何となく。
■たしかに三上さんのステージを観ると、エンターテインメントってことをすごく意識されている。
三上:意識しますよ。そこがギリギリわたしがノイズ・ミュージックと離れる部分でね。やっぱり完全なアートになりすぎないっていう。それはやっぱり街のもんだっていうのがありますよね。エンターテインメントっていう考え方がこれを支えてくれてるっていう、どこかでね。オールアートって行くとあれはやっぱりどこか閉じこもって、2、3年かけてCD1枚作ってさ、「どうだ」っていうので気が済むわけですよね。それはちょっと違うんですよね。やっぱり自分を支えた言葉っていうのは、全部エンターテインメントのひとたちですよね。わたしを支えてくれたのは。
■寺山さんも歌謡曲やってますしね。
三上:寺山さんもそうですしね、モハメド・アリの「チャンプ、次はいつの試合だ?」って「町のひとと相談する」というのも「いいなあ」って。アリが「次のボクシングの試合はいつだ」っていうのを聞くのはプロモーターじゃないっていう。町のひとに聞くっていう、「これは何だろう、町のひとと相談するのか」って。「そうか、町でいいんだな」って思ったり。それはいろいろありましたね、エンターテインメントとかそういうものに支えられたっていうものはありますよね。
■なるほど。そのエンターテインメントの変遷で言いますと、三上さんは「ストリッパーはいない」と歌われてますけど、やっぱりストリッパーとAVとの確固たる違いっていうのはあると思いますか?
三上:そうですよ、それは手書きとワープロの違いみたいなもんじゃないでしょうか(笑)。
■ははははは。
三上:要するにストリップにはほら、死があるじゃないですか。バッと開いてさ、あそこで生まれるものはエロスっていうか、死があって。AVには想像力とかね、そういうものが必要でしょ。死っていうのはまたちょっと違うよね。だからエロスつうもんでもないような気がしてますけどねえ。うん。あれはある種こちら側の想像力で成り立っている世界であって、そのものがどうのっていうもんじゃないですよね。まあもちろんストリップもたしかにそうだけれども、ストリップはもっと強引でしょ。想像を拒否するわけじゃないですか、だって、バカッと開くわけですから(笑)。「参りました」しかないわけでしょ(笑)。
■ハハハハ! ほんとそうですよね(笑)。
三上:そういう部分かもしれないですよね、エンターテインメントっていうのはある種強引に語りかけていくっていうのがあるんじゃないですか。観客を圧倒しちゃうってことじゃないですかね、おそらく。独裁ですよね。
■はははは。三上さんの音楽っていうのは「怨歌」という言葉で形容されてますけれども、そもそもその言葉はどこから出てきてるんですか?
三上:その論争が起きたのがちょうど70年代ぐらいなんですよね。「演歌とは何か?」みたいな。誰もそんなものを一流誌で議論する以前の歌だったわけでしょう、あれは民衆の歌、まさに漁師だったり百姓だったりが聴く音楽であって。もちろん都会のひとも聴く。そこにインテリたちが入り込んできたわけですわな。「演歌とは何だろう?」、「怨みなのか? 演ずるなのか?」と。それは五木寛之さんなんかが入ってきたことで。ヤクザ映画なんかもそうですよ。何かいままでサブカルチャーというか、下々のものだったものが、さっきの質問の通り「この力は何か?」ってことですよね。みんな気になっちゃったんだと思いますよね。
で、あの当時それからだけども、大衆演劇なんて観に行くやつをみんな馬鹿にしてたものでしょ。つまり、踊って村祭で行くひとたちを。いまやもう歌舞伎座で公演やるぐらいになるわけじゃないですか。インテリがやって来るわけですからね。それは嗅いでるわけですよね、力をね。きっと。だからいまの話が全部繋がると思うんだけれども、パワーだったり、死だったり、自分の遠い遠いルーツだったり。つまりひとっていうのは自分のなかに物語がないと生きていけませんよ。どんなひとでも。そのネタがないんだよ、いま。それが「田舎」だったりね、そういうもののなかにあるんですよ。いままで差別したり軽蔑したり蔑んできたもののなかに自分たちの物語があるんですよ。それらを無視してきて、物語を作れなくなって、それで占いブーム宗教ブームでしょ。代わりにストーリーを作ってくれたものに黙って入っていけばいいわけですから。そしてそれも崩壊するわけでしょ。そうすると、もちろんコンクリートの上でも物語ははじめられると思うけれども、人間ってもっとヤワですから。だって我々の腹を切ったらもう臭いんですから。ただの糞の塊ですよ。だからそういうことに気づいてきたっていうことですよ。でないと物語を作れない、自分を成立できないんですよ。
日本中から集まった百姓のせがれたちの感覚じゃあ、無理だったんじゃないでしょうかねえ。世界の動きっていうのは、インテリ指導と言いますかね、そこそこ毒を持ってた連中ですよね、そういう連中が起こしたムーヴメントに、やっぱり格好だけじゃついていけなかったっていう。
■なるほど。で、そこにその「怨み」という字を乗せられてるわけですけども、作者自身として自分の音楽を形容するのに当たっていると思いますか?
三上:これは自分でつけてないですよ。自分から言うとね、これは「怨歌」どころじゃないね。つまり怨みどころじゃないですよ。
■ははははは。
三上:それは誰かが言ったんですね。誰も彼もが演じてるんじゃない、怨み歌であるであるっていう。もしかしたら深沢七郎さんかもしれないですね。深沢さんがね、わたしが初めて本出したときに、帯にこう書いてくれたんだよ。「この三上の歌は、怨みの歌である。これはいままでの文学にはない世界だ」と。おそらくそこで初めて三上は怨みだってそういうことになったんだと思いますよ。
■深沢七郎さんと三上さん、土着的な文化を使って権力に抗するというか、すごく共通してると思います。
三上:そうです。わたしの心の師ですよ。
■とくに1990年以降の三上さんの作品に感じるんですけど、やはりそのブルースやジャズなんかに混じって、仏教の声明であるとかね、浄瑠璃みたいなものとか――声明が日本の音楽のはじまりだって説がよくありますけれども、ああいうものとのブレンドっていうものを感じるんですけど、それは意識されてるんですか?
三上:それはもちろん。わたしはブッディストというか仏教を信じてる立場としてもそうなんですけれども、ただ、声明やあの辺との自分との接点っていうのはまずないですね。もしあるとするならば、万葉集とかのほうが、勉強はしてないけれどもあるかもしれないですね。要するにあれ全部歌ですから。あれは字ではないですから、みんな声に出して歌っている。そういう意味で、ヴォーカルってヴォイスっていうことであれば、万葉のひとたちの作品とは通じているけれども、仏教のああいうものっていうのは全然あの......まあ声仏事をなすって言葉があるぐらいで、声も生き物であるってことから来てるんでしょうけれども、あまり詳しいことはわからないにしろ、形作られるところではね、わたしはむしろそっちに歌を感じる。音楽的に聞くと。
■でも演歌の節回しは声明から来てるってよく言われるじゃないですか。
三上:そうですかねえ。それはまあ、そうだと思いますよ。要するに仏教で言うね、妙音菩薩っていうのはどもりっていう意味ですからね。要するに汚い声っていうのが仏になるわけですから。仏教ってみんなそうじゃないですか。泥のなかに咲く花があるとか。美は乱調にあるとか。要するにダメなものがいいっていうのが仏教でしょう。西洋音楽の教会音楽みたいに、「あー」ってまっすぐ行かないんですよ。必ず「あーあーあーあー」ってどもらなきゃダメなんですよ。
■なるほどなるほど。
三上:汚い声じゃないとダメなわけですよ。十分そこでロックじゃないですか。わたしは釈迦なんてのは一世一代のロック・スターだと思ってます。あれは不良ですから。
■空海はヒッピーですか(笑)。
三上:空海だとあの辺だと多少エリートの匂いがしますけどね。まあわたしは創価学会でも何でもないですけど、わたしは日蓮が好きでしてね、あのひとだってまさにエタの子ですからね。だからいちばん下のひとですよ。そこでしびれるわけですよね。
■なるほど。いま仏教の話が出ましたけれども、90年代以降の三上さんは、やはり独特のスタイルを作られたと思うんですけれども、何をヒントに、どのようにあれは生まれたものなんですか?
三上:あれはね、結局ね、80年代、三陸のライヴ盤っていうのはやりましたけどね、80年代にほとんど曲もできてなかったんですよね。実際新曲がないわけで。ところが何かの拍子でね、80年代後半からいわゆるオタクというものがわたしの前にも現れるわけです。レコードおたくというか、コレクターと言いますかね。
70年代というのは同じような世代のやつらと同じような空気を吸って、作ったやつを聞かせてっていう、まあ丸ごとそれでいってたんですよ。ところが10年から20年近く経って、まったくわたしの知らない少年が、いちどに全部にわたしのことを知るわけですね、音楽で。わたしが研究されてるんですよ。癖とかをね。「あ、これはもうバレてるな」っていう感じでしたね。いままでのわたしの曲の作り方が。「こう来るか、じゃあもう1回わからなくしてやろう」っていうのがありましたね。
■ほおー。じゃあまあそれが最初にあったんですね。
三上:それが最初。いままでのように物語性もないし、キーワードもすごく個人的なものになるし、それはもう賭けでしたよ。「絶対あるはずだ」っていう。さっきの市民意識じゃないけれども、「ひとりをどこまで深めるか」ですよ。音楽を聴くリスナーと、一対一ですよ、ですからね。わたしが90年代でやったことは。たったひとりのため、あるいはたったひとりの歌い手でいるため。もちろん客は何人かいるとしても。90年代はそれでずっとやってきましたね。一対一でどこまで音楽が力があるのかという。どの領域まで詰め込んでいけるのかというね。音と言葉で。
いま一対一って言ったけれども、それも前フリがちょっとあってね。それはね、ちょうど90年代に入る前ぐらいにね〈曼陀羅II〉でライヴをずっとやってましてね、そのときに親子で来た客がいたんですよ。つまり70年を生きてきたお父さんと、17歳の子がお父さんの書斎からたまたま俺を発見して「このひと聴きに行ってみたい」っていう。親子で来たことがあるんですよ。そのときにね、「俺はどっちを向いて歌えばいいのか」っていうような感覚だったんですよ。だからつまり、「70年代の空気を吸ったやつらの多少の思い出の苦味を含めて歌うべきなのか?」、まあ言い方でいうならばね、「それともいま俺が感じてることを17に向かって歌うべきなのか?」という、迷ったんです。で、そういうことが何回か続いて、俺は誰に向かって歌うかっていうことに迷っちゃったのね。つまり、70年代は70年代で良くて、そのままテレビやったりいろんなことして、ちょっと変えていこうかなと思っていた矢先にそれでしょ。それでね、結局考えて、「あっ血だな」と思ったんだよね。この親と子どもと同じものに訴えかければいい。それは血というものだなと。
それは80年代に意識としてありましたね。だから三陸なんかに行ったのも多少ありましたし。それで90年代以降のアルバムっていうのは全部北海道で作ってるんですよ。アイヌ民族のわたしの友人と。自分の血のルーツ、行き着くところはどうしたってアイヌですよね。
アイヌっていうのも元々はヨーロッパのひとたちなんだけれどもね、調べると。だけどそのなかに、早い話「俺の血」があるんですよ。親がいて、じいちゃんがいて、そのじいちゃんがみんな漁師だったと。みんな北海道にいた。で、みんなアイヌと暮らして、ばあちゃんがハーフと結婚して。だから俺も何十分の一か入ってるわけですよね。そういうものを探していって、あのとき見た津波の不思議な景色であるとかも、そういう能力なのかもしれないし。そういう予知するような能力。っていうものかもしれないし。それは北海道に行って、70年代に作ったものっていうのを再認識というか、はっきりわかったんです。だからいまは意外とそういう迷いはないですね、自分の居場所として。
■じゃ特別なトレーニングとか研究とか、そういうことじゃなしに――。
三上:なしですなしです。
■いまのスタイル、あのギターのフレーズから――。
三上:フレーズから、言葉の選び方とか。だからそれは全部ステージの上で作ったんです。いちども練習はしなかった、わざと。もうとにかく、そのときわかるものを身体に覚えさせなきゃいけないっていう。だからお客さんに喜んでもらったっていうのは救いだけれども、「何だこりゃ」でおきゃくさんが非常に離れた部分もあるんですよ、最初はね。
だいたいアコースティックで曲を書いたでしょ。すると電気っていうものがどういうものかわからなくなっちゃって。だから「電気っていうのはわからないけれど」って歌ってるわけですからね。ちょっと待って直すからっていう。だからそういうことにお客さんも付き合ってくれたのはすごいと思うんですよね(笑)。それは前の世代だと「何やってんだ三上、ひっこめ」で終わるんだけれども、若いリスナーって――。
■三上さんは、まあ、CDやデジタルに対しても相当警戒心を抱かれたようなので(笑)。
三上:ありましたね(笑)。(音楽が)「信号なわけねえだろ」っていうね。
■ははははは。
三上:だから「信号じゃねえだろ」と思いつつも、「狼煙かよ、じゃあ俺の十八番じゃねえか」っていうことになっちゃうんだな、デジタルっていうものにものに対して、0101ですからね、元々。こういうものはさ。
■狼煙?
三上:狼煙でしょ。消えるか落とすかで昔は連絡取ってたんですから(笑)。いま狼煙ですよ、携帯も何もかも全部。そういう意味じゃかなり「わたし寄り」になってるというか(笑)。
■なるほど(笑)。
三上:ということは十八番じゃない、原住民としては(笑)。
[[SplitPage]]歌い手、ものを作る人間の予感ですよ。予感のないアートはダメですよ。アートはね、後付けじゃダメ。政治とかジャーナルは後付けだけどね、アートは先に行ってそこで「まさか」って言われるんだけども(笑)。誰でもみんなそうですよね。
■なるほど(笑)。ところで三上さんの歌には、多くの固有名詞が出てくるじゃないですか。木下明夫とかね。古谷くんとか弥吉とか落合恵子とか(笑)。あれはどういうような意図なんですか?
三上:要するにね、固有名詞ってね、ある種浄化みたいなものでね。ある種リスナーに対する拒絶ですよね、ええ。つまりテクニックとしてはね。ただね、リスナーに対しての拒絶なんだけれども、そこで諦めないんですよ、いまのリスナーっていうのは。その固有名詞にあるね、まあ三上なら三上の等身大の見方を想像していくんですよ。
だから日本のお客さんがいないとあれできないですよね。俺のいまのやりかたって。固有名詞がいままで拒絶していままで使われてたんだけれども、放射能じゃないけど、そういうものを乗り越えていく感覚っていうのが日本人はあるし。また俺本来言葉ってね、固有名詞の羅列なんじゃないかと思うんだよね、意外と。
■あの、外国の歌って固有名詞が出てくるじゃないですか。ひとの名前が。でも日本の歌でひとの名前が出てくることってあんまりない。まずありえないですよね。
三上:そして、アメリカの映画でもヨーロッパの映画でも、我々が観るでしょ。すると字幕があるけど、ヒアリングが優れてるひとはどうか知らないけれども、わたしなんかだと何言ってるのかほとんどわかりませんよね。全部ひとの名前ですから。ジョージが何したとか、ジャックが何したって話でしょう。あと行くか行かないかぐらいは小学生でもわかるから、あと80パーセントぐらいはひとの名前呼び合ってますからね。ジョージがどうしたとか、あいつがどうしたとか、どんなギャング映画でも。それと同じですよね。だから結局無意識にでも想像してるわけですよ。固有名詞の意識でね。
■外国の方って、知らない分サウンドとして聴くからわかるんですよね。
三上:そうなんですよ。固有名詞を使えば使うほど、外人には伝わるっていうのはこれも不思議なんだよなあー!
■ゆらゆら帝国っていうバンドをやっていた坂本慎太郎くんっていますよね。彼と昔飲んだときに「三上さんは海外ですごいんだよ」ってことを僕に教えてくれたんですね。それを聞いたときは意外に思ったんですね。三上さんは言葉が面白いから。でも、実際、海外からも作品を出されているし、よくよく考えれば、三上さんの好きなコルトレーンなんかもそうですけど、ものすごく土着的なものを追及していくとユニヴァーサルになっていくっていうか、そういうことなんだろうなと思ったんです。海外に関しては意識されたんですか?
三上:うーん、意識したのはねえ、昔は何と言いますか、文化的なナショナリストと言おうか、「てめえらにわかるわけねえだろ」っていうのがスタンスだったんですよね。
■はははは。
三上:「わかってたまるか」っていうね。それが70年代ごろの私のスタンスで。実際あの当時はドラッグ・カルチャーっていうか、アメリカのインテリたちがみんなインドに行ってた時期で。そこそこレヴェルの高い連中は一回新宿にいたんですよね。だからそういう外人を見てきてるから、「てめえらにわかるか」っていうね。あるときね、ピンク・レディーの振り付けか何かでたまたま俺のライヴ観に来たやつがいて、「お前、いますぐニューヨークへ行こう!」って(笑)。それが24~5のときですからね。そういう意味では、なめてかかってたっていうか。それでずっといたんですけれども。
ですから最初にヨーロッパに来ないかって言われたときも、破格のギャラをね提示するくらい思い上がってたっていうかね(笑)。意識も何もあんまりなかったんだけれどもね。ところがね、アイヌ民族と自分の血のルーツってことを考えていろいろ部落を回ってみたり話を聞いたりして、それでネコヤナギっていうのが物凄くキーワードになってるんですよね。
■ネコヤナギ?
三上:はい。ネコヤナギってアイヌ民族のキーワードになってるんですよ。なぜかと言うとね、川端に咲くんですけれどもね、キラキラとパール上に光るんです。それが大きくなるとネコヤナギの木を5センチぐらい切りましてね、それを乾かして、イナウっていうのを作るんですよ。だから日本で言うと何て言うんですか、神社にこうついてるのがあるじゃないですか。あれと同じようなのでイナウっていうのがあって、それをネコヤナギの木で作るんですよ。ナイフを曲げてきゅうっと縮れさせて、作るんですよ。
ネコヤナギのツアーを10年北海道で毎年やりまして。そのなかでぜんぶ曲を考えて。で、やっていくうちにそういう話が来て。「じゃあヨーロッパにネコヤナギ見に行く」っていう。どうせアイヌなんてヨーロッパから来たんだからね。それがあったんですよ。そして初めてパリに行くと、あのセーヌ川の領域っていうのは、もうわーっとネコヤナギだったんですよ。
■へえー。
三上:それで筋が通ったの。だからそれが自分のなかで10年間の遠心力ですよね。ぐーっと置いてどーんと行った感じですよ。だからアイヌ民族の血の流れですよ。そういう意味じゃ、きっと。流れで言うならばね。戦略的なものも多少あったにしろ、自分のなかじゃそういうことになってますね。で、向こうのひとなんかネコヤナギなんてまったくみないですからね。「ネコヤナギ? 何だその木は?」って全然興味ないですけど(笑)。
■ハハハハ。
三上:そういう導きみたいなものがありましたけどね(笑)。
■ちなみにパリで出したアルバム......2004年の『Bachiー撥(ばち)』ですか、あと、2009年にも出してますよね。『Nishiogi No Tsuki』とか。
三上:うんうん。2枚出しましたね。
■現地でライヴもやられてるわけですよね。
三上:やりました。
■どのようなリアクションなんですか?
三上:だから最初にね、レコーディングしたときに......『撥』のときですね。録音するじゃないですか。するとね、いままで聞こえていなかった音がいっぱい入っているわけよ。ていうことは、エンジニアが聴いたとおり録音されているわけじゃないですか。たとえばその「青い空」って歌ったときに、意味の分だけ音が引かれてるんですよね。「青い空」ではわかっちゃうわけですから。ところが「青い空」っていう意味を知らないと、「あ」「お」「い」「そ」「ら」っていう音になるわけじゃないですか。しかし我々は、無意識に意味の部分でまとめてるんですよ、輪郭をつけてですよ。意味がないと、「あおいそら」ってこんな声を出してるんだな、ってことに物凄くびっくりして。それでさらにさっきの固有名詞に対する自信もそこで深めたんですよ。
■なるほどね。
三上:「やまだひろし」、「きのしたあきお」、微妙に違うわけじゃないですか。それでこっちが固有名詞だと言わないにしろ、絶対薄く匂ってるはずですよね、名前から。
これも非常に感覚的なことかもしれないけれども、わたしは物凄くひとの名前を覚えにくいんですよ。だから自分の言葉にするまで、たとえば「山田一郎」でも半年ぐらいかかっちゃうんですよ。これは変な感覚で。やっぱり最初からそういうものとして捉えてるのかもしれないですね。ひとの名前が一番ねえ......一度覚えたら自分のなかにぱっと入ってきて、物語の仕組みを作ってくれるひとっていうと変なんですけれどもね(笑)。
■なるほどねえ。
三上:これはだからまあ......謎っていうか、隠してるわけでも何でもないんですけれども。不思議ですよね。たとえば人名でも土地の名前でもいいから、固有名詞に力があるんだったら全部羅列でラップでもやってみようかっていう。でもこれはまったく違う話ですよ。それを「固有名詞でございます」って周りで仕掛けてやらないと、固有名詞にならないですよ。ばーっとやったからって、誰も固有名詞と思わない。いかに固有名詞で、そこを浮かせないとね(笑)。
だからこういうことかもしれないね。拒絶させたと見せかけて、入り込む、あるいは入ってもらうっていうね。これは隠しですよね。意外と。だからね、音楽には絶対隠しがないとダメ。
■トリックみたいなものですよね。
三上:ええ。でないと、風化しちゃうんですよ。つまり権力、お上、既成事実に吸い込まれちゃうんですよ。だからわかるやつにしかわからない部分がないと。
■隠語みたいなものですね。
三上:隠語がないと。ちゃんと「訓練がいる」っていう風に緊張感を持ってないと、音楽っていうかありとあらゆる芸術はここまで伸びてこなかったと思うんですよね。力のあるものは壊すことができるわけですから。
■それこそ日本の大衆音楽に「うたごえ運動」(注)があったことを忘れちゃいけない、ってことをおっしゃられてましたけど。
三上:それだよ。だって全部バレちゃったらさ。
■とは言え僕は、三上さんの言葉からはこう漠然としたイメージというか、「どうとでも取れる」ってものではなく、ある方向性というものはすごく強く感じまして。近年の作品に。たとえばまあ、それこそ「丘の上で転んで乞食に笑われる」とかね。あるいは「覚えたての英語を忘れる」とかね。何かを失っていく感覚。それは先ほどから言われている死っていうことに繋がるのかもしれないですけれども。
三上:100パーセント伝わってるっていうかね、お互い入れ替わることができるんならそうですけど、それはないですよね。音楽っていうのは完全に入れ替わることはできない。それはありますよね、おそらくはね。
■入れ替わるっていうのは?
三上:要するにつまり、わたしはね、人間のなかにある語彙っていうものはね、同じだと思ってるんですよ。わたしが知らない言葉をみなさんがいっぱい持ってるだけでね。言葉の仕組み、ひとのDNAを支える言葉のロジックというものは、それを支えている言葉っていうものは、まず立って歩いている限り、みんな同じだと思ってるんですよ。
大学の先生が多いっていうわけではなく、たとえばうちのじいちゃんなんて本なんか読んだことあるかっていうか、まず字が書けるのかよっていうまさに無学なひとだったですけれども、それでも何万という言葉を持ってるわけですよね。魚の動きから、風の流れ。それはわたしがわからないだけで。で、残る言葉、自分を支えているっていうか気になる言葉っていうものが同じではないにしろ、配置が同じだから気になるんじゃないですか。この言葉を歌ったとか、あるいは「何でここにこういう言葉があるの?」とか(笑)。で、「何でここにこういう言葉があるのか」っていう、自分の番号とあってるんじゃないですか? そこに反応してるんじゃないでしょうか。
(注)
「うたは闘いとともに」、1950年代に日本で大きく展開された、おそらく唯一の政治的な大衆音楽のムーヴメント。三上寛は自分の音楽の源流のひとつをこのうたごえ運動にも求めている。
田舎にはね、死があるんですよね。ひとの死があるんですよ。近代化っていうのは死から遠ざかることだって言ったひとがいますけれども、死人からつき離れていく状態ですよね。田舎イコール死人ですよ。父が死に、母が死に、兄弟が死に、っていうね。
■ある種の虚無であったりとか、うまくいかなさ。たとえば寺山修司さんはね、ニヒリズムってことをよく言ってますけれども、そういうニヒリズムみたいなものっていうのは、三上さんのなかで意識されてるんですか?
三上:それはあります。いや、わたしはニヒリズムありますよ。スイスのジュネーヴにね、わたしはライヴでそこに寄るんですけれどもね。そこの連中がネットで配信するわけですよ。わたしの音楽はね、彼らにとってはね、究極のニヒリズムなんですよ。ジュネーヴとかね、いろんな人間見てるでしょ? いろんな人種がいて。でね、説明を見ますとね、「究極のニヒリズム」だって。
■ああ、書かれるんですね。
三上:それは実際わたしの出発はそこなんですよね。それはね、本に書いたんじゃないかと思いますけどね、15歳のときに父親が死んだんですよね。そのときちょうどいまごろ、雪が降っていて。15歳ですよ。父親が死んだ、って聞いて、死んだんだなあって。病院の外行ったら雪が降ってて、何も変わってなかったんですよね、世界は。わたしにとって父親が死ぬってことは全部の崩壊ですよ、価値観から何から。死ぬと思ってなかったですから。それはね、まさに恐ろしいまでの虚無感ですよね。ニヒリズムですよね。
ただわたしはニヒリストではないかもしれないけれど、わりとその虚無からはじまってますよ。わたしの音楽的な出発点はまずそこで、それはトラウマじゃないけどそういう風にまず感じてしまったから。それを超える思想にも哲学にも会ってますね。それを受け入れながらいきてますよ、いまはもちろんね。うん。
だから「もっとも行動的なやつはもっともニヒリストだ」って言葉があるんだよね。これはまさにそのとおりだよね。何か欲があったらね、行動って限定されますよ。ニヒリストっていうのは行動が無限ですよね。変な話はじめからやる気ねえんだから。
■ハハハハ!
三上:変なことになっちゃったけど(笑)。だからいつでもね、やる気ができると言おうか、さっきの話じゃないけど、「何か落ち込まないなあ」っていう。それは最初から落ち込んでるのかもしれない(笑)。
だからニヒリズムってね、もうちょっと馬鹿らしいですよね、ある意味ではね。いまの子たちはね、あれですよね、答え探しですよね。世界中のあらゆる情報があるのに、自分ひとりのたったひとつの言葉を探せないで悪戦苦闘しているんだと思いますよ。要するにね、思い込めない世代ですよね。たとえば僕らは何もなかったから、答がなかったらてめえで勝手に答を作って思い込むんですよね。そういう処理の仕方ができたんですよね。ほとんど思い込みでオーケーだったわけですよね。ところがいまは情報でその思い込みが、自分の思い込みとまったく違うっていう裏がちゃんと出てきたりする。これも違う、あれも違う、だけど答は探しているからあるんでしょうね。疑問と答っていうのは、脳のなかでは同じらしいじゃないですか。ぽーんといっしょにはじまって真んなかで繋がるっていう。だから物凄く複雑で、さっきのデジタルの話みたいに、狼煙なんていちばん単純な伝達方法なんだけれども。だから選択する、チョイスするっていう新しい革命っていうか、頭のなかで。だから何でしょう、誤訳・誤読・思い込み、そういうもので伝達したほうがまだわかりやすいって気がしますけどねえ。でもそれが作れない。もっとも核になる言葉が作れないっていうか。だからインスピレーションがなくなるんですよね、情報があるから。考え込んじゃうんですよねえ。だからインスピレーションって非常にわがままなものでしょ?
■いまはみんな何が怖いかって言うと、貧乏が怖いんじゃないのかなって思うんですよね。
三上:わたしなんかはね、まあ極貧だったからね。貧乏って言ったらね、いまの若い世代について言うならばね、消費社会のなかで育ってるわけでしょ。ものを買わなきゃいけないっていう半分強迫観念っていうか。ものを買うっていうことで自分を作ってきたわけじゃないですか。わたしはね、むしろ「いつか反乱を起こせ」って言ってるんですよね。
■ああ......UKの去年の暴動がまさにそうですよね。
三上:そうですそうです。みんなね、欲しくて買ってんじゃないんだよな。あれは自分の呼吸と同じように、ものを買うっていうことで自分の暮らしが成り立ってる。だから金が欲しいんでも、貧乏が怖いんでもないんだと思うんですよ。そういう風に改造されちゃってる。完全にダメにされてる。ロボコップじゃないけど(笑)。「買いなさい」っていう。
■でもそれがいま行き着くところまでいって、消費社会の暴走した結果が、たとえばUKの暴動なわけですよね。
三上:そうだね。俺はだけど、人類は突然変異っていうのが出てくる可能性があるからね。まったく違う観念っていうか。それで人類がここまで来てるわけだけれども。だから期待しているって言うとちょっと何だけれども、やっぱり180度転回するような、ショックなことがあるかもしれない。
まだ震災から1年も経ってないんであれだけど、これがじわじわと来れば。いま、「結婚なんてどうでもいいや」っていう若いひとたちが、結婚しはじめたりしてるじゃない。ああいうものを見ちゃうと、「何だろうなこれは?」と思いますよね。だから「ものを買うだけじゃない」「何か変だ」ってことをみんな目の当たりにしたでしょう。多少意識は変わるんじゃないかなと思うけどね、うん。
だからあの、きっとこの意識の変化っていうのは確実に起こってるはずなんだけれども、まだ世のなかにそういう意識が変革するよっていうことがね、現れていないのはね、いままでのように「せーの」の意識革命じゃなくて、まったく違う個人的な革命が同時に起きてるっていうわけで。全世界的に。だからマスでは捉えられないと思ってる。マスメディアは。そういう意識が変革されているのに、大きく変わっていないっていうのは捉えられないですよ。だってひとりずつインタヴューしなけりゃいけないわけじゃん。そういう風になったら。実際はそれぐらい意識は変わってると思うんですよ。ひとりずつ変わってるから。だからますますマスっていうのは気づかなくなっていくというか。
■そういう意味で、原発の話にもいかがわしさもあるんですよね。
三上:だからあれがなければ、マスメディアはものすごく非難されてましたよね。こういう津波とか災害みたいなものを、これだけ無視してきたある種の精神構造にいろいろ問題があるんじゃないかとか。ほんとはある種の哲学的な議論っていうのができるはずなのに、原発一個のことを言ってれば、ジャーナリストは仕事してるっていう気分になってるから。まったく進んでないですよ、逆に。
つまり、人間の若い子たちの「ものを買う」っていうところから少しずつ目覚めて、世界同時に個々のなかでものすごく意識が変わってきているんじゃないかと。それをマスメディアを捉えることはできないだろうってことで話をしてたんだけども。結局そのひとりずつ聞かなきゃいけないわけじゃないですか、要するに「せーの」の革命じゃないでしょ。災害に対する意識って物凄く意識が違うわけですよ。見るひとによって。確実に若いひとたちのなかで結婚するであるとか、意識の変化が起こっているのは事実なんだけれども、それが大きいムーヴメントとして、世のなかに出てくることはないけれども、しかし、変わっているだろうという。でもマスメディアはそれを捉えきれないから、原発をとりあえず取り上げておくとテレビにはニュース流せるなと、いうことじゃないかという話をいましてたんですけど。でも確実に意識変わってますよ、確実に。
■なるほど。
三上:ただね、さらにね面白いのがね、意外にこれでも変わらないっていうのが、この日本の極東の小島のね、いちばんすごいテクなんじゃないかっていうね(笑)。
■テク(笑)?
三上:テクですよ、これは! 津波もあと5年したら忘れるだろうなみたいなね(笑)。
■なんでしょう、ある種の無常観、これは三上さんの音楽のなかにあると思いますか?
三上:無常観はないですね。それはね、無常の反対の言葉何て言うか知らないけれどもね、無常って「常が無い」でしょう? わたしは常はあるっていう考え方なんですよ。いまここでこうしているじゃない。またいつかこうなるだろうな、永遠にこうだろうなっていう。わたしが死んでもまた生まれ変わってきて、またこうやってコーヒー飲んでるだろうな、とか。それは無常じゃないですよね、わたしの場合は。常常ですかね(笑)。
■常常(笑)。それはどういうところからなんでしょうかね?
三上:どうだろう、仏教的なものかわからないですけれども。子どもの頃からわたしは何となくそういうことを考えるやつでしたね。子どものころはそこそこ普通だったけれども、まあ性格っていうのはあるからね、考え方だったりね。どうなんでしょう、どっちかって言うと楽天的なんですかね。性格で言うなら。
■「落ち込まれたことがない」って言っていたように(笑)。
三上:究極の落ち込みを経験してるからね、それは恐ろしい世界でしたよ。
■そこでやめなかったっていうのは?
三上:そこでやめるひとはもちろんいるし、ほかのやり方に向かうひともいるけれども。どん底までいちど落ちないと......何て言うんでしょうかね、いちど負けなきゃね、相手の奥の手がわかんないんですよね。わたし自身にも敵がいますよね、自分の歌をやめさせようとする力。それは70年代にじゅうぶん感じてきましたからね。そのときにやっぱり若いながらも直観力で、ギリギリわざと負けるしかないって。何が俺の歌を潰そうとしてるのか、っていうのは身体で何となくわかってますよ、いまは。それはもう寸前に見たっていう瞬間はありますから。
■生きるか死ぬかみたいな。
三上:そりゃそうですよ。負けた瞬間に相手の顔を見てるわけですから。奥の手を使ったみたいな。そういう部分はありますよね、命がけと言いますかね。
[[SplitPage]]わたしはね、人間のなかにある語彙っていうものはね、同じだと思ってるんですよ。大学の先生が多いっていうわけではなく、たとえばうちのじいちゃんなんて無学なひとだったですけれども、それでも何万という言葉を持ってるわけですよね。魚の動きから、風の流れ。それはわたしがわからないだけで。
■なるほど。だいぶ時間も経ってますが、まだ訊きたいことがありまして(笑)。90年代以降は吉沢元治さんや石塚俊明さんなどとのコラボレーション、とくに灰野敬二さんとのバサラ(Vajra)とか、いろんなインプロヴァイザーと共演されてますね。
三上:灰野からはいろいろと学びましたしね、もちろん吉沢さんからも。勉強って言っちゃあれだけれども、やっぱり自分のいないところでやってるひとたちっていうのからはね。だってえ灰野なんかは、(ライヴの最中、歌が)全然聴こえてないわけです、爆音すぎて。それでもね、一緒に歌って、演奏できる、何か伝わるっていうことが、さっきの話じゃないけれども、驚きというか、音楽っていうのはこういう力があるんだなと思ったり、「耳ってすげーな」と思ったりね。最近では、そのことをさらに教えてくれたのはね、古澤良治郎さんだよねー。まったくわたしが歌っている音楽と違う解釈で叩いて、わたしの歌を変えちゃうわけですからね。
■ドラミングで変えてしまう。
三上:変えてしまう。最初に驚いたのはね、高校の先生に呼ばれて高校生の前で歌ったことがあるのね。そしたらわたしの歌が彼らには難解っちゅうか、言葉が。それを古澤さんのドラムで翻訳してみせたんだから。だからね、そのときはね、「音ってなんだろう?」ですよね(笑)。
■なるほど、伝わってしまう。
三上:だからコラボレーションはそうですよ、わたしは。そういうのに限らずね、いまの若いひとたちとやるのもそうだし。「この子たちって何だろう」っていうね。テクニックや年齢は関係ないですよ。だって同じステージに立ってるってことはそこでタメですからね。どっちを聴いてるかっていうのは感じたりするし。これはもう、いつも驚きですよ。何気にやってることだけれども、スケベ心っていうか欲ですよね。物好きっていうと失礼だけども(笑)。やっぱり必ずもらうものがあるんですよね。まあわたしが与えたものもあるでしょうけれど。
■最後に、あともうひとつ訊きたかったことがありまして、三上さんにとって寺山修司さんからの影響とは、どういうものだったんでしょう?
三上:いちばん大きい影響ですか、それはやっぱり家を出たことですね。それは昔で言うなら出家ですよね。そこでカタギじゃなくなるわけですから。やくざものになるわけですからね。言うならば、素人じゃないわけですから。曲がりながらも家を捨てたっていうことは、自分の好きなように生きるってわけで。好きなようにって言うと格好いいですけど、まあ世間じゃなくなるってことですからね。家にいて世間じゃないっていう。だからわたしを取り出してくれたっていうか。頭剃ってくれたようなもんですわな。
■ははははは(笑)。なるほど。
三上:やっぱりね、大きいことをやっていけばいいと思うんですよね、若いひとたちが。プロとしてのシニカルってあるんだよね。素人とは違って。わたしが世界に行ってわかったのは、要するに「世界には二種類しかいない」ってことで、カタギかやくざか、プロかアマチアか、ふたつしかない。だから若いひとたちがいま置かれているなかに、情報だけじゃなくてある種のやる気、一歩踏み出す感じをい持ってほしい。我々のときはそういうものがありましたからね。「一歩前へ」とか「やっちゃえ」とかね。身体が動いちゃう感じっていうかですね。いまそういう文化がなくなってるよね。みんな同じで、そこがちょっと足りないところじゃないですか。
■一線を踏み越えられなくなってるってことですか?
三上:そういうことでしょうね。そしてまず一線を踏み越えるという感覚がまずないですよね。ただね、要するに権力そのものもいま(一線を踏み越えることが)できてないでしょ。意味わかりますか(笑)。権力そのものも同じ飽和状態なんですよ。だから、要するに反権力ってものもないんですよ、若いひとにとっては。同じなんですよ、情報社会のなかで。「あいつらは違う」って感覚ていうのがないんだよ。
要するにあれでしょ、昔は孤立・孤独っていうのは自分は選んだもんだからね、そこにこそ自由があったんですよ。進んで孤立したわけでしょ。俺なんかは先頭きって孤立してたし、俺は自由だったわけですよ、ある意味では。そういうセンスはいまないかもしれないですね。それは何て言うのかねえ、孤立が怖いっていうのとか、ひとりぼっちになるのが怖いっていうのと違うと思うんだよね。
要するにね、わたしはですよ、なんで若いひとたちに興味持ってるかっていうとね、やっぱり俺たちよりレヴェルが上だと絶えず思っているわけ。これはほめ言葉でも何でもなくね。後から生まれてきたやつはやばい、といつもわたしは思ってるわけね。というのはこの一瞬でわたしの人生が終わっても、そいつらはその先を経験してるわけじゃないですか。それはおそらくその先と繋がってるわけですよね。ていうことは、俺が見たことのない世界を見る能力が備わってるってことでしょ? それはすごいと思ってますね。
そうすると、いまのように喋っている孤立・孤独ってものに対する防衛、あるいは利用の仕方っていうのは、我々のときの孤独感や孤立感というものと比べることはできないと思うんです。別の能力で通じ合ってるんじゃないかなと思うな。たとえば若いひとたちが仲がいいって言っても、話聞いてるとそれともちょっと違うんだね。だから40年前の感覚とは違うあり方っていうんでしょうか、人間関係なんじゃないかなあ、きっと。うん。それはまさにその場の連中じゃないと確認できないことだと思います。
■でも三上さんの歌には、それこそさっきの17歳とお父さんの話じゃないですけれど、若いひとたちにも強くアプローチできるものがあると信じてますけどね。それでは、いま録音されてるアルバムについて、がんがんプロモーションしてください(笑)。
三上:ありがとう(笑)。わたしは韓国のキム・ドゥスとすごく友人になって。たまたま去年遊びで「ちょっと行ってみようかな」ってなって。韓国のフォーク・ソングの親分みたいなやつだけどね。やっぱりあの、行ったら行ったで、「どうせ来たんなら歌っていけよ」ってことになって(笑)。楽器持って行ってなかったんですけれども、ギターを用意してくれて。で打ち上げかなんかでみんなでガンガン飲んで、朝起きて、フラーっとしてたらね、さっきの津波じゃないけどインスピレーションが沸いてきてですね。古い古い農家からね、いかにも死にそうな真っ白い大きな犬が出てきたんですね。で、犬はその何十年前にも捨てられたガチョウの小屋を守ってるんですよ。ガチョウも逃げちゃったわけ。でもそのガチョウを守ってるんだよね。「これはちょっと、歌だよなあ」っていう(笑)。それが、今度も来ちゃったんですよね(笑)。そういう韓国でのこともあって......まだ全然固まってませんけどね。
■リリース予定とかは?
三上:まだないけど、秋頃になりますかねえ。
■じゃあ、目先のことで言うと、3月20日の62歳を迎える、生誕記念ライヴ(@西麻布「新世界」)ですね。
三上:そのための話だった(笑)!
私は黙って下を向いたままで
彼らの話を聞かないように
下を向く
"冬の午後"(2010)
三上寛 生誕記念 スペシャルワンマンLIVE
『まだ解らないのか!』

今回の生誕記念ライヴはサプライズとして、三上寛をリスペクトすべくDJ 2741も駆けつけて来てくれる!"ふなよい"っていうだけに、あのお方が? リキッドルーム以来の顔合わせ、万感胸に迫る!
●日時:
3月20 日(火・祝日)
開場18時30分 / 開演19時30分
●出演:
LIVE:三上寛 (Vocal & Guitar)
DJ:DJ 2741
●会場:西麻布「新世界」https://shinsekai9.jp/
●料金:
前売予約:¥2,700(ドリンク別) / 当日券: ¥3,000(ドリンク別)
※〔インフォ・チケット予約・お問い合わせ先〕
西麻布「新世界」
https://shinsekai9.jp/2012/03/20/mikami/
https://shinsekai9.jp/
TEL: 03-5772-6767 (15:00~19:00 )
東京都港区西麻布1-8-4 三保谷硝子 B1F
以下に紹介するのは、三上寛の膨大な作品のなかのほんのいち部である。これから聴いてみたいという人のガイドになれば幸いである。1990年代以降の大量リリースに関して筆者なりに言えば、『閂 』や『弥吉』も捨てがたいが、まずは『-1(minus 1)』と『門』、そしてバサラの『Live 』をとくにお薦めしたい。また、挙げてはいないが、手頃なベスト盤としては、『寛 Best Selection (1975~1976) 』(1992)がこのアウトサイダーの70年代の軌跡を知りたい方には便利である。
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三上寛の世界
Nippon Columbia (1971)
デビュー・アルバムで、音楽的にはまだフォークからの影響を多分に引きずっている。「星を見ると悲しくなるから/小便だらけの湖にあなたと二人でとびこんで」「なんでもいいからぶち壊せ」、これをパンク・ソングと言わずして何と言おう。永山則夫歌った"ピストル魔の少年"も収録。
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怨歌集:ひらく夢などあるじゃなし
URC (1972)
もっとも有名な初期のアルバム。"ひびけ電気釜!!""あなたもスターになれる""夢は夜ひらく""パンティストッキングのような空""昭和の大飢饉予告編"など代表曲が収録されている。必聴盤。
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Bang!
URC (1974)
名盤として知られる1枚。山下洋輔や坂田明、古澤良治郎らによる躍動感溢れるジャズと三上寛の言葉のアクロバティックな出会い。友部正人も参加。ミュージック・コンクレートとフリー・ジャズによる圧倒的なタイトル曲の"Bang! "は必聴。 |
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負ける時もあるだろう Bellwood Records (1978)
バブル期へと突入、1980年代を控え、1960年代的な空気がいっそうされていく気配を見事に嗅ぎ取る。アルバムのいたるところには死が待っている。そしてクローザー・トラックの"負ける時もあるだろう"には素晴らしいクライマックスが待っている。 |
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三上寛,吉沢元治, 灰野敬二 / 平成元年Live! 上/下 P.S.F. Records (1990)
この20年の三上寛の活動において、吉沢元治と灰野敬二との共演は強烈な閃光である。"Bang! ""なんてひどい唄なんだ""きちがい""サマータイム"といった過去の曲は、新たな演奏とともに混沌の闇のなかに蘇る。 |
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古澤良治郎+三上寛 / デレキ ゆうげい出版 (2007)
1945年生まれのジャズ・ドラマーとのコラボレーション。歌と語りの境界線をゆらめくような三上寛の音楽、もしくはそのアンチ・ロマンのなかの自由をさらに拡張する。古澤良治郎のドラミングの、なんと軽快なことか。 |
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Vajra / Live P.S.F. Records (2008)
竜巻のようなノイズと言葉の、強力なライヴ盤。1995年『東日流』から1998年の『声聞 』まで4枚のアルバムを発表、そして2002年の『Mandalaキ・『やっと』』の次にリリースされた石塚俊明(頭脳警察として知られる)と灰野敬二とのバサラ名義の最新作。 |
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-1(minus 1) P.S.F. Records (2009)
曲名は"#501 "~"#506"、計6曲。間合いの効いたギター、言葉は音となってさらに反響する。誰も三上寛のように弾けないし、歌えない。「丘の上で滑った/滑ったそして転んだ/それを見ていた乞食に笑われた/村人が集まり/唄が始まり/喧嘩が始まる」......"#505"は涙を誘う名曲のひとつである。 |
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閂 [Sun] Chaotic Noise Recordings (2011)
2010年のアルバム『弥吉 』の収録曲、"ぞうきんをしぼる理由""古谷くんとふくろう""とんかつ日和"......などを中心に構成されたライヴ盤だが、これを聴くと三上寛がいまもなお前進を続けている歌手であるということがよくわかる。最後で歌われる"負ける時もあるだろう"は発表から30年を経てさらに凄みを増している。 |
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門[Mon] Chaotic Noise Recordings (2011)
現時点での最新オリジナル盤。"台風十五号 二千十一年九月二十日""KOSHI空港""ボーンボーン"など......すべての曲(ギターも歌も言葉も)が胸を貫くが、『負ける時もあるだろう』をアップデートさせたような、破滅の予感に満ちた"アンコ椿外伝"はとくに圧巻。高知の〈Chaotic Noise〉からのリリース。 |
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『三上寛 怨歌(フォーク)に生きる』 彩流社 (2000)
津軽の漁村~板前見習い~フォーク歌手という三上寛は、バイオグラフィーそのものが魅力的で、大ざっぱな自伝として本著をお薦めする。その半生はもちろんん、彼の音楽に関する思想に関しても詳しく記されている。 |
「しあわせな人っているの?」
「しあわせなようにふるまってる人はたくさんいるね」
「どうしてそんなことするの?」
「しあわせじゃないってことが、恥ずかしいんだね。認めるのがこわいんだ。勇気がないんだ」
チャールズ・ブコウスキー著『日常のやりくり』(原著1983年)青野聰訳
少しばかり2009年の秋に戻ろう。現代の東京におけるボヘミアンの足跡を追った『remix』誌(219号)、その特集に根差す、ある種のロマンティシズムに冷や水をぶっかけるようなECDの寄稿、「ボヘミアン・ラプソディ」は衝撃的だった。引用するのがためらわれるほど直截的な、平成20年の年収・雑所得の1円単位までの記載。「自発的に貧しい生活」をするのがボヘミアンの前提であると言われれば、メジャーからの脱離とそれに伴う年収の大幅な減額を、「まあ、成り行きである」とあっさり振り返る。かっこつける、という振る舞いが根本的に嫌いなのかもしれない。それにECDは、幸せぶるということをしない。塞いだ傷口を自ら破るように、ECDはすべてを語る。少しずつ沈んでいく自分を見つめる、諦めたような視線。しかし、そこから最終段落に待つパンチ・ラインに向けての告白は、まさに自発的な人生、クラシックな表現を使えば、人間の思想と呼べる類のものだ。引用は無粋なので控えるが、重要なのは、ECDは決して貧しさの賞賛者ではない、ということだろう。ECDは、ただ金がある生活も、ただ金がないだけの生活も否定する。必要なのは、いつも、そう......
さて、「社会的・日常的現実に対する、音楽という夢(を見続けるのか/醒めてみるのか)」という対立の図式は、これまでの原稿にも度々持ち出している、筆者のなかでは重要なテーマのひとつだが、そんな人間からすれば、本作『Don't Worry Be Daddy』に数回登場する目覚まし時計のベル音は、実に両義的に響いて聞こえる。人の睡眠を効率的に妨げるためだけに空気を揺らすその目障りな連続音は、「起きろよECD!」、それこそ「働けECD!」と言っているようにも聞こえるし、「この人、どれだけベル鳴らしても起きないんですけど......」「やれやれ」と言っているようにも聞こえる。
経歴25年、もう14枚目だそうだ。"まだ夢の中"とは言いつつ、たぶん、現在のドメスティック・ラップのシーンでもっとも夢から醒めているのはECDだろう。本作に、ベテランらしい余裕はない。早い話、ECDはここ数年、植本一子がブログに綴っているような個人的な現実的生活から、反原子力運動に関わる社会的生活までに加えて、「ラッパーはどう歳を取ったらいいのか?」というややこしいテーマ、より大きな枠で言えば、「ユース・カルチャーの草分けとなった存在は、いつまでそのシーンにいていいのか(いられるのか)?」という問題に直面している。
もちろん、それくらいのことはECD本人も自覚しているはずだし、その本音は、SEEDA以降/S.L.A.C.K.以降の感覚でははっきり「ダサい」とも言われかねない、無骨なフロウと飾り気のない言葉によって、ごつごつと積み重ねられている。「あっちもこっちもやばい新人の/うわさでもちきりの界隈を/にっちもさっちももうどうにも/こうにも行き詰まりのクソオヤジの/ラップでジャックする今回も」"Recording Report"
奇しくも3月7日は、今年いちばんの人気者・SALUのアルバム・デビュー日でもある。ECDはTR-808の頑丈なチキチキ・ビートや"Flip the Script"(Gang Starr、1992)のまんま使いで対抗、もしくは開き直っている。また、家庭を持った切実な50代男性として、あるいは活動開始から25年を数えるベテラン・ラッパーとして、ECDはしかし自分を必要以上に大きく見せることをせず、むしろ誰よりも大きな声で自分を笑ってみせるのだ。「眉毛ねー目の下くま/頬こけた自称ラッパー/歳のせいかシミ小じわ」"対自核"、「まちがいなく父親先にいなくなる/はたちになるころ70だぞオヤジ/のことはマジあてにするな」"まだ夢の中"、「外を出歩くと減るかかと/針を載せると削れる溝/同じだ自分のことのような気分」"家庭の事情"
そう、ECDはライフ・スタイル誌のいう「美しい歳の取り方」とは遠く離れた場所で逃げ場もなく歳を取り、ユース・カルチャーの世界にとどまるべく懸命にしがみついている。「昔はよかった」なんていう無根拠な昭和懐古を、昭和歌謡(ジャズ?)を引用しながら皮肉たっぷりに否定する"大原交差点"は、現代を生きることに対する覚悟の裏返しだろう。しかしここに、かつての鬱屈さはない。朝5時に起きて夜9時に寝るいまの生活に、充実感にも似た感慨をにじませる"5to9"は、粋なタイトルが与えられた本作に辛うじて前向きさを打ち出している。
とはいえ、家族ができて、小さな共同体のなかでECDが素朴に救われたと思ったら大間違いだ。ECDはいまでもアルコール中毒に怯え、レコード中毒に生き、家庭を愛しつつもひとりの時間を切実に求め、掛け持ちの仕事と、保育園と、原発のあいだで相変わらずもがいている。そう、本作『Don't Worry Be Daddy』は、ブログに綴られているいまの実生活に初めてECDの表現が追いついた作品だ。たぶん、これはボヘミアンの表現とは呼ばない。いわばオルタナティヴな特殊労働者、その生き様、破れかかった傷物の履歴書そのものだ。
"Wasted Youth"......仮に「浪費された青春」とでも訳そうか、本作中でもっともメロウなトラックの上で、ECDは鳴りやまない目覚まし時計を完全に無視し、夢の続きに待つパーティの旋律を19歳に戻ってリフレインする。この最高の1曲を聴いていると、現実と夢(音楽)は、決して対立していたり、断絶しているわけではないことがわかる。あるときはECDを追い込んだ夢がいま、ECDの日常をいっぽうでは支えている。もちろん、そうした暮らしの後味は必ずしも甘くないし、のど越しはこれでもか! というくらいにタフだ。将来、年頃になった娘に恨まれることをいまから心配する"まだ夢の中"などを聴いていると、私はとても結婚などできないなと思ってしまう。
が、『Crystal Voyager』(2006)から聴きはじめた後追い世代の人間からすれば、本作でのECDは別人かと思うほどにパワフルだ。禁酒、定期労働、規則正しい生活習慣、例えば退廃に類するアウトサイダー・ミュージックの悪ぶったクリシェを、それらの背水的な自律によって卒業したECDは、いま、理想としての「place to be」から、切実な「be here now」へと向かう。
これは......聴きようによっては、勇気の音楽だ。自分が自分であること、そして、自分の人生が自分のものであることを、歯を食いしばって、そして願わくば少しくらい胸を張って認めてあげるための。あなたは本作を前に、どうしようもなく自身の人生と向き合うことになるだろう。
「つーかこれサイコロの判定/受け入れるしかないしょうがないこの不安定/まだ揺れる一生しやしない反省」
"大原交差点"
今週だけで4枚目の、日本のインディ・シーンからの新作で、今月後半には老舗の〈クルーエル〉のコンピレーション・アルバムのリリースも控えているとはいえ、こうして新しい名前が続けざまに出てくることは嬉しい話である。昨年はフォトディスのデビュー・アルバム『言葉の泡』やトーフビーツの「水星」が意外なほどの好セールスを果たしていることからも、どうやら新世代への関心もしっかり高まっているようで、こうした前向きな機運を感じてきっとさらにまた新たな作り手も出てくるんじゃないだろうか。良かった良かった。
2010年に始動した〈コズ・ミー・ペイン〉は、原宿の〈BIG LOVE〉や下北沢の〈Jet Set〉ないしは〈Warszawa〉あたりで、たった1枚の7インチまで注意深くチェックするような、東京においてもっともマニアックにインディ・ミュージックを聴いている連中である。もし渋谷にまだ〈Zest〉があったら、彼らは間違いなく常連だっただろう。早い話、彼らは20年前の瀧見憲司なのである(といっても若い人にはわからないか......)。
昨年はザ・ビューティが〈クルーエル〉から12インチ・シングルをリリースしている。また、ジェシー・ルインズがUKの〈ダブル・デニム〉を通じてインターナショナル・デビューを果たし、ブルックリンの〈キャプチャード・トラックス〉から『Dream Analysis』をリリースしたばかり。この勢いのなかでリリースされるのが、レーベルとしては2枚目となるこのコンピレーション・アルバムである。
『Compilation #2 』には、4人のメンバー(ナイツ、ヴィジット、ザ・ビューティ、ツッカ)の他、新人のアトラス・ヤングとスカム・ボーイズ、〈ノット・ノット・ファン〉からデビューしたサファイア・スロウズも1曲提供。リミキサーとして〈セカンド・ロイヤル〉からホテル・メキシコ、マジカル・ギャングも参加している。
〈コズ・ミー・ペイン〉の音楽性は主として同時代のUSインディ・シーンに触発されたもので、ことシンセサイザーのリフにおいては、チルウェイヴ/ダークウェイヴあたりと深い関係を持っている。とはいえ、『Compilation #2 』のオープニングに選ばれたマスキュイン(ツッカ)による"エクスタシー"が、まずはその曲名からして涙で水浸しの日本の音楽シーンに対するアンチテーゼであるかのように、いままでの彼らにはない太いダンス・ビートを打ち鳴らしている。
手短に言えば『Compilation #2 』は総じてエネルギッシュである。ジェシー・ルインズもまたアグレッシヴに突き進んでいる......が、ディスコの力強いベースラインが唸っているとはいえファロン・スクウェア、そしてアトラス・ヤングは意図的にであろう、その深いエフェクト、籠もった音質、80年代的なシンセサイザーのリフ、喉元を締め付けられながら歌っているかのような聴き取りづらいヴォーカル・パートなど、チルウェイヴのクリシェをちらつかせている。
あらためて思うのは、彼らのトラックにおいてヴォーカルは装飾ないしひとつの音に過ぎないということだ。歌詞を重視するロック/フォーク・リスナーにとっては苛つく限りだろうが、歌は彼らにとって何か意味のある言葉を伝達する手段ではなく、空間を演出するいち要素なのだ。こうした装飾としての歌は、欧米の模倣品という危険な領域とも隣り合わせであるわけだが、サファイア・スロウズは美しいミニマリズムによって彼女の茫洋とした歌をある種のムードへと転換させることに成功している。ヴィジティッドの"タッチ・ユア・ハート"における歌もそれらと同様に言葉を聴かせるものではないが、80年代テイストを引用しながらのメリハリのあるファンクな展開はレーベルにとっての新しいポップないち面をかいま見せている。
いずれにせよ"ダンス"という大きなコンセプトに向かっているのが『Compilation #2 』で、ザ・ビューティの"ザ・ソロウ・オブ・パーティング"やナイツの"MO-メンツ・ライク・ディス・フルート"もまた今回の方向性を華麗に脚色し、彼らの躍動を際だたせている。それでもベスト・トラックをひとつ僕が選ぶとするなら、ナイツの"ホワイル・ユー・ワー・スリーピング"のホテル・メキシコによるリミックスだ。女性ヴォーカルがフィーチャーされたダウンテンポのこのトラックは、チルウェイヴにおけるMOR路線、つまり毒にもならないラウンジ・ミュージックというこれまた微妙な領域をしっかり忌避しながら、新しい夢に向かっている気がする。
実は......2012年はドラムベースがさらにまた飛躍するんじゃないかと言われている。やはり、dブリッジのような人のジャンルをまたいだ活躍も大きいのだろうし、先日ロンドンに行った知り合いに聞いたらプラスティック・ピープルはダブステップ、ブロークンビーツ、ジャングルと3世代にわたる熱狂の混じり具合がすごかったと。そういう意味ではこの先、DBSにはますます幅広く注目が集まりそうだ。
さて、3月24日はピンチである。Pinch & Shackleton名義でのアルバムが記憶に新しい、ブリストルのダブステップの王様の来日だ。いまもっとも聴いてみたいDJのひとりだ。
彼のレーベル〈テクトニック〉の新しいコンピレーション・アルバムのリリースも控えているし、なんか今年はオリジナル世代がまた脚光を浴びそうな予感もある。もうひとりのV.I.V.E.Kもロンドンのアンダーグラウンドの深さを見せてくれそうで楽しみだが、今回はやっぱりピンチが聴きたい! Pinch & Shackletonがあまりにも良すぎた!
DBS presents
"DUBSTEP WARZ 2012"
feat. PINCH & V.I.V.E.K
3.24 (SAT) @ UNIT
feat. PINCH (Tectonic, Bristol UK)
V.I.V.E.K (DEEP MEDi MUSIK, London UK)
with: YAMA a.k.a SAHIB
DOPPELGENGER
DUBTRO
vj/laser: SO IN THE HOUSE
B3/SALOON: ALL JAPAN DRUM & BASS SESSIONS 2012
JZT, DJ MASSIVE, DJ MIYU, DJ TAKAKI, TETSUJI TANAKA
open/start 23:30
adv.¥3500 door¥4000
info. 03.5459.8630 UNIT
★This is Dubstep 2012 !!
融合・拡散するダブステップの最前線に立ち、ロンドンfabricを始め世界のフロアを揺さぶるヴァイナル・マスター、DJ PINCHが3年ぶりにDBS@代官山UNITに帰ってくる! そして超絶ディープ&ダビーなサウンドで俄然注目を浴びるV.I.V.E.Kが衝撃の初来日!
未来を先行するダブステップ・ミュージックの真髄を体感してほしい! feel the future, feel da bass !!

ダブ、トリップホップ、そしてBasic Channel等のディープなミニマル・テクノに触発され、オーガニックなサウンドを指向し、'03年頃からミニマル・テクノにグライム、ガラージ、エレクトロ等のミックスを始める。ロンドンのFWD>>でダブステップに開眼し、'04年からブリストルでダブステップ・ナイトを開催、'05年に自己のレーベル、Tectonicを設立、DJ Pinch & P Duttyの"War Dub"を皮切りにDigital Mystikz、Loefah、Skream、Distance等のリリースを重ね、'06年にコンピレーション『TECTONIC PLATES』を発表、ダブステップの世界的注目の一翼をになう。自作ではPlanet Muから"Qawwali"、"Puniser"のリリースを経て、'07年にTectonicから1st.アルバム『UNDERWATER DANCEHALL』を発表、ヴォーカル曲を含む新型ブリストル・サウンドを示し絶賛を浴びる。'08~09年にはTectonicの他にもSoul Jazz、Planet Mu等から活発なリリースを展開、またFlying Lotus、Skream、Benga、2562、Martynらをフィーチャーしたアルバム『TECTONIC PLATES VOLUME2』を発表。近年はミニマル/テクノ、アンビエント・シーン等、幅広い注目を集め、"Croydon House" 、"Retribution" (Swamp 81)、"Swish" (Deep Medi)等の革新的なソロ作と平行してShackleton、Distance、Loefah、Quest等と精力的にコラボ活動を展開。Shackletonとの共作は11年、アルバム『PINCH & SHACKLETON』(Honest Jon's)の発表で世界を驚愕させる。2012年1月、MIX CD『FABRICLIVE 61』を発表、3月には既にシングル50作を超えたTectonicの最新コンピ『TECTONIC PLATES VOLUME3』がリリースされる。
https://www.tectonicrecordings.com/
https://twitter.com/tectonicpinch
https://www.facebook.com/PinchTectonic

ウエストロンドン出身のV.I.V.E.KはJah Shaka、Aba Shanti-i等のダブ/ルーツレゲエ・サウンドシステム、Metalheadz系のドラム&ベースの影響下に育ち、2000年頃からベース/サウンドシステム音楽の制作を目指し、'04年からドラム&ベースの制作を本格化させ、エイジアン・アンダーグラウンド・シーンのShiva Soundsystemとリンクする。やがてToasty Boyの"Skinny"やMalaの"Bury Da Bwoy"に触発されダブステップの制作に転じ、07年の"Natural Mystic / Sunshine" (On The Edge)により、Silkieを介してMalaと知り合う。そして09年、MalaのレーベルDeep Mediから"Kulture / Meditation Rock"をリリースして以来、"Feel It EP"、"Soundman / Diablo"、"Eyes Down EP"、"Pulse / Roots"といった傑作を連発、ディープサウンドの旗手として評価を高め続けている。DJとしてもDMZやDeep Medi nightのレギュラーに抜擢され、俄然注目を集めている。待望の初来日!
https://twitter.com/VIVEKMEDI
https://www.facebook.com/VIVEK.MEDI
https://deepmedi.com/
Ticket outlets: 2/10チケット発売!
PIA (0570-02-9999/P-code:161-942 )、 LAWSON (L-code: 78925 )
e+ (UNIT携帯サイトから購入できます)
clubberia / https://www.clubberia.com/store/
渋谷/disk union CLUB MUSIC SHOP (3476-2627)、TECHNIQUE(5458-4143)、GANBAN(3477-5701)
代官山/Bonjour Records (5458-6020)
原宿/GLOCAL RECORDS (090-3807-2073)
下北沢/DISC SHOP ZERO (5432-6129)、JET SET TOKYO (5452-2262)、
warszawa(3467-1997)、disk union CLUB MUSIC SHOP(5738-2971)
新宿/disk union CLUB MUSIC SHOP (5919-2422)、Dub Store Record Mart(3364-5251)
吉祥寺/Jar-Beat Record (0422-42-4877)、disk union (0422-20-8062)
町田/disk union (042-720-7240)
千葉/disk union (043-224-6372)
Caution :
You Must Be 20 and Over With Photo ID to Enter.
20歳未満の方のご入場はお断りさせていただきます。
写真付き身分証明書をご持参下さい。
UNIT
Za HOUSE BLD. 1-34-17 EBISU-NISHI, SHIBUYA-KU, TOKYO
tel.03-5459-8630
https://www.unit-tokyo.com
JUZU a.k.a. MOOCHYJUZU presents Movements "Beyond"
crosspoint
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渋谷の東急本店の近くの路地にあるビルの2階だった。50人も入ればいっぱいの小さな手作りのクラブには100人ほど入って、1990年代後半のある時期、リズム・フリークスは東京のクラブ・シーンにおける噂の頂点となった。3人のDJのなかでもっとも背が高く、そしてもっとも若いひとりのDJはとくに多くの目と耳を惹きつけた。それがMOOCHYだった。あのミキシング、我々は......あるいは小林は、忘れられないほど熱狂した。やがて夜空が白み、センター街にカラスたちが集まってくる時間帯になると、リズム・フリークスの爆音もおさまって、MOOCHYはいつも大型バイクのエンジンを吹かしながら、「じゃ、おつかれっす」と言って、街のどこかに消えるのだった。
そして彼はバイクを飛ばしたままジャングルのシーンから飛び出て、インドネシア、ブラジル、キューバ、沖縄や青森......といった場所との新たな関係性を築いていった。すべての文化に対してオープンでいようとするワールド・ミュージックというコンセプトを彼なりのやり方で実践するため、MOOCHYはさまざまな人種や宗教との出会いを果たしながら、彼の音楽活動を展開している。彼は「失われた記憶を取り戻す」をテーマに2年前にアルバム『Movements』を発表しているが、これは我々の遠い祖先たちの音への旅行であり、彼のこの10年の活動のひとつの結実だ。誰にもっとも近いのかと訊かれれば僕はセオ・パリッシュじゃないかと思う。セオがサン・ラーやファラオ・サンダースらにアプローチするような手法で、MOOCHYは彼の全世界的なヴィジョンに向かっているように思える。
もっとも昨年リリースされたDVD、『Beyond』は『Movements』の映像版というよりも、彼のユートピア志向のまさにその"裏"、大いに問題提起をはらんだものとなっている。MOOCHYを知る人間が観たら「よくまあ、こんなものを作った」とびっくりするだろう。イスラムの人、ホピ族の人、六ヶ所村の人、辺野古の人、彼はいろんな人の話を収録して、自らの音楽に取り入れた。これはひとりのDJがジャーナリスティックな意識で、自主的に作った異議申し立てである。
今回は、MOOCHYの歴史を振り返りつつ、『Beyond』について話してもらった。たっぷりと......。

音楽が無かったらもっと酷かったと思う。微力かもしれないけど、音楽があったから俺は社会的な意識を持てたし。音楽がなかったら...。音楽がなかったら、ホントにみんなロボットみたいになってしまうと思う。
■よろしくお願いします。
JUZU:お願いします。
■......で(笑)、何でこんなとんでもないDVD、作ったんですか? しかも自主制作で。
JUZU:もともとはPVを作るのが目的だったんです。最初に作ったPVは"R.O.K."という、リノ君(RINO LATINA II)が出てくるトラックですよ。彼は、僕が昔やってた「リズム・フリークス」のカジ君(KAJI PEACE)と17歳くらいのときのダンサー友だちで。そういう繋がりでリノ君を紹介されて。
僕がキューバに行く前か、行った後かで、リノ君もキューバにライヴしに行ってるんです(『キューバ・ヒップホップ・フェスティヴァル・シンポジウム』/2008年8月)。そういうところでの繋がりもあってね。あるとき、カジ君のDJでリノ君が落語みたいなラップをやってて。それでオモロいなと。で、リノ君に「じゃぁ、オレにもなんか演らせてよ」みたいな感じで言われて。僕の地元の高円寺とか、中野、新宿とかって、そういうお祭りの粋なノリじで、落語みたいなラップを使ったトラックでなんかやりたいって思ってて。
■そうだったんだ。
JUZU:それで「武器売買と売春」っていうのをテーマにしようってリノ君に伝えて。
■へぇ。
JUZU:どっちが売り手買い手? みたいなことを、そういうトンチみたいにして。でも、「踊る阿呆に見る阿呆も同じ阿呆なら踊らにゃ損損」みたいなオチをつけるみたいな。とにかく、もともとは映像コラージュと音楽というテーマですね。
■とにかく、もともとの企画はPV集だったんだね。
JUZU:『Movements』(『Re:Momentos "Movements"』/2010年)っていうアルバムを2年前に自分のレーベル〈crosspointから出して。『Beyond』っていうのはその「裏」って言う意味ですね。『Movements』というアルバムの曲を収録している。
■あぁ、なるほど。
JUZU:『Movements』というCDではできなかった映像を足すことによって、僕が思ってることをもっと伝えられると思ったんです。沖縄のこともホント......中学生の頃、それこそタサカ(DJ Tasaka)も一緒だったけど(笑)、修学旅行でひめゆりの塔に行ってるんです。それで沖縄戦とか、歴史が刻み込まれてて。沖縄にはその後いっぱい友だちができて。いまとなっては居住者もすごく多いし、前から沖縄の基地問題には関心があった。基地問題に関するそのインタヴューもここに収めてるけど。それも"Koza"っていう曲で、(楽曲に参加している)ラス・ツイード(Ras Tweed)っていう人とは、ウィーンにDJに行ったときにたまたま知り合って。彼も沖縄のことを知ってて。空手とか好きで(笑)
■へぇぇ、ウィーンで。
JUZU:はい。ウィーンで録音して。ちなみにミックスはステレオタイプ(Stereo:Type)という、なんか変なバイレ・ファンキみたいの作ってる白人のスケーター。
■あぁ、いたね。
JUZU:そうそう。そいつらとなんか偶然というか、出会って。ラス・ツイードとも、彼はカリブ系でイギリス人だけど、沖縄の基地のことも知ってていた。ジャマイカなんかもそうだし。そういう、植民地化されてる島のことをちゃんと歌いたいって言ったら、すごく意気投合して。その場で歌詞作って、歌ってくれたのが"Koza"。あとは、沖縄の基地に何回か自分で足を運んで、いろいろ撮ったインタヴューとか。
■あの、よくインタヴューしたなとホント思うんですけどね。
JUZU:そうですね......。
■もともとはMOOCHYの、ま、言ってしまえば、全世界的なっていうか、マルチ・カルチュラルなヴィジョンがあるじゃない? この10年、音楽的に追求したことってそうでしょう? その延長線上に(『Beyond』の)コンセプトははじまってるって考えていいんだよね。その上でできたのがこのDVDで、MOOCHYが発表した曲に、セネガル、モロッコ、アリゾナのホピ族、辺野古、......とか、いろいろな場面やその現地の人たちの話が出てくる。で、作品ではひとり案内役を務める人がいるじゃない。スケーター?
JUZU:あぁぁ、アレはクロマニヨン(cro-magnon)の剛(小菅剛)ですね、はい。彼も彼でいろんなことあるけど。彼自体は顔とかすごい趣があるなと僕は思っていて。この男は俳優でも絶対イケるぐらいに思ってて。
■それで主役(笑)。
JUZU:そうです。(主役に)指名して。"Silence Mind"って曲は、もともと僕の後輩のイケガミケンジ(Kenji Ikegami)ってヤツが虚無僧尺八やってて。彼のソロ・アルバム(『SILENCE MIND』)も僕のレーベルから出してて。そのPVを作る過程のなかで、僕がリミックスもして。そのテーマっていうのが、あれ(PVのロケ地)って高円寺なんですけど。
■あれ、高円寺か。
JUZU:僕が10代のときに、台風かなんかでムチャクチャ土砂降りで、みんなで逃げ惑ってキャーキャー言ってる状況で、高円寺の駅前で本物の虚無僧が、ただひたすらつっ立ってたんですね。そういう鮮烈なインパクトがあって。この人だけはいまの時代とぜんぜん違うっていうか。
■たしかに(笑)。
JUZU:いまの僕らがコンクリの上で住んでる世界は、300年前は違ったじゃないですか? そういう感覚を喚起するんです。あの"Silence Mind"って曲はやっぱり、ラティール(・シー/Latyr Sy)とかウスマン(Ousmane)とか、僕のセネガルの友だちに高円寺でパーカション叩いてもらったり、彼には虚無僧の格好で尺八吹いてもらったんで。その尺八にしてもジャンベにしても、僕らの記憶っていうか、いまの時代とは違う時代から存在する楽器を演奏することで、いまのコントロールされた世界に対してのアンチテーゼ。
■MOOCHYの求めているものって、言ってしまえば、あれだよね、ユニバーサルな感覚っていうようなモノだよね。
JUZU:うん、まぁ、どこにでもある。
■......語弊はあるかもしれないけど、すべては繋がっているって言うよな。そう、それでさ、セネガルのこととか。
JUZU:はい、ゴレ島。
■......が出てきたり。ホピ族が出てきて。六ヶ所村が出てきて、コザが出てきて、最後はモロッコで。
JUZU:カサブランカですね。
■いろんな文化に対するアプローチ、というか、オープンな気持ちだよね、すべての文化に対するオープンな態度。だから、最初はこのDVDは反原発とか、3.11とか、そうした時事ネタのものかと思っていたんだけど、違ったね(笑)。DVDのなかではイスラム教と中東での宗教問題なんかの話もかなり占めているよね。で、沖縄の基地問題も六カ所村もイスラム教も、いろんな人に取材して語らせて、そしてMOOCHY自身は自分の言葉を抑えているんだよね。これはもう、観る人と一緒に考えたいって話なわけでしょ?
JUZU:うん、まぁ、そうですね。
■すべての宗教、すべての文化も受け入れるっていうようなことなわけでしょう、究極的に言えば。
JUZU:まぁ、そうかもしれない。
■そういうアプローチがMOOCHYのなかでどうやって養われていったのかっていうかさ。それが反抗心にも結びついてると思うんだけど。最初はハードコアのバンド? ジャングルのDJ?
JUZU:並行しながらやってましたね。
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いまの僕らがコンクリの上で住んでる世界は、300年前は違ったじゃないですか? そういう感覚を喚起するんです。尺八にしてもジャンベにしても、僕らの記憶っていうか、いまの時代とは違う時代から存在する楽器を演奏することで、いまのコントロールされた世界に対してのアンチテーゼ。
■この10年の自分のアプローチ。いろんな文化のいろんな場所に行ってやるっていう。文化をミックスしていく、ブレンドしていく、繋げていくっていうコンセプトはどういう風に生まれたの?
JUZU:分け隔てなく良い物は良いって、前からホントに思ってたし。デスメタルでもボサノヴァでも、(スティーヴ・)ライヒみたいなものもガムランみたいなものも、いちいちチャンネルを変えなくても、すぐに入ってくる感覚はあるから。それが自分の感覚だから、なんとも、それを理由付けるのは難しい。
■自分が成長していく過程、生きていく過程のなかで、聴く量も当然増えていくわけだから、聴いていく分だけ自分が拡張されていったみたいな。
JUZU:そうですね、拡張。そういうこと。あと、中央線育ち的な感覚はあるから。中央線のレコード屋〈レア〉とか、あとやっぱ渋谷新宿のレコード屋とか。僕の小さい頃の新宿や、渋谷もそうだけど、レコード屋事情、やっぱりいろんなジャンルのレコード屋があったし。レコード屋の人にやっぱすごい影響受けたと思うし。
■いまでも残っているものね。
JUZU:レゲエにしてもヒップホップにしてもパンクにしても、そういうのが入ってきてて。現代音楽とかフリー・ジャズとかも。
■ひとつのジャンルを追求するってタイプのDJじゃないよね。
JUZU:いろんなジャンルの人の前座DJをやらせてもらってたし。そのなかで(客層の違う)いろんなジャンルに対応するっていうミッションも楽しめてたし。デニス・ボーヴェルからジュノ・リアクターから、例えばなんだろ? デリンジャー・エスケイプ・プラン(The Dillinger Escape Plan)から、ファビオから、もうセオ・パリッシュやムーディーマンから、ジェフ・ミルズからって。いろんな人と一緒にやるなかで、自分がこの国に育った意味みたいなものを考えたときに、すごい悔しさを覚えて。
■どういうこと?
JUZU:もう幼少からっていうか、ハードコアな感覚っていうか。「モノマネはヤダ」っていうか。別にワン・アンド・オンリーでありたいとか思ってるわけじゃないけど、来日したいろんな国の人たちは、オリジナルなシーンのなかでオリジナルなスタイルをちゃんと持って来てるのに。でも、この国のほとんどの人たちは、ただ憧れてるだけで。全然自分たちのスタイルを持たないってところに悔しいなと思ってて。
■あぁぁ。
JUZU:そこで〈サウンドチャンネル〉(大阪SOUND-CHANNEL)なんかと知り合って、みんな「オリジナルなスタイルを作ろう」って......けど、まぁ、そこら辺でも、みんなそれぞれやり方、スタイルがあって。多くの人たちは、ヨーロッパ、西洋志向だったけど、僕は20歳ぐらいでアジアに行ったんですよね。「リズム・フリークス」の途中で、インドネシアとかタイとかに旅して、アジアですごいインスパイアを受けたから。
■「リズム・フリークス」のときって20歳だったのか! スゲェなぁ......あ、でも、そうかそうか、タサカ君も大学生だったもんな。
JUZU:若い(笑)。だから、そういう方向で僕は遠回りしてきたというか。多くの人はニューヨーク、ロンドン、ベルリンなんかに憧れて、そのまま行くけど、僕はバリとかに行っちゃって。そこでアジアのカルチャーの奥深さとか、そこで「ワールド・ミュージックとエレクトロニックなものを混ぜる」というコンセプトを、自分のなかで編み出したというか。で、「リズム・フリークス」をやってる最中に帰ってきて、ガムランとか尺八とかとジャングルとかドラムンベースを混ぜて、グチャグチャな......。
■やってたね(笑)。渋谷のビルの2階だったね。ターンテーブルでガムランとドラムンベースをミックスするってスゴかったよね(笑)。
JUZU:なんか、グチャグチャのカオスのなかの美みたいなものが、僕はすごい好きだから。
■でも、あの当時のDJだったら、欧米に行く、行って当たり前だと思うんだけれども、そこでアジアっていうものにさ、目を向けたっていうのは何? 鼻が利いたって感じなの?
JUZU:でも、やっぱり最初にガムランとかインドネシアの音楽を映像で見て。それは18歳のときですね。
■それじゃぁ、もう全然DJカルチャーに出会う前?
JUZU:いや全然。もう僕15歳からDJやってるから。
■ドハハ(笑)。
JUZU:だからバンドとDJは、ホント15歳のときから同じようにはじめてて。僕はもうアティテュード・アジャストメント(Attitude Adjustment)っていうジャケも超ポリティカルなアメリカのハードコア。ってか、小学校からパンクとか聴いてたから。小学校で同級生の兄ちゃんのライヴで、それこそラフィン・ノーズとかザ・ブルー・ハーツとか聴いて。小学校からそういうのを聴くと、それこそ原発のこととかも言ってたと思うし。
■まぁ、そうだよね。
JUZU:中学ぐらいの時にチェルノブイリがあって。中学のときにはもう「NO NUKES」って渋谷の電力館に描いてたみたいな感じだから。タサカの影響もあって、ヒップホップもパブリック・エナミーとかビースティ(・ボーイズ)とか、ああいうのは普通に聴いて。やっぱパブリック・エナミーで、ジャケットから見るKKKのこととか。
僕のなかでは、その後、ENT(Extreme Noise Terror)とKLFが一緒にやったりとか、UKのハードコアとKLFが一緒にやったのとか。その当時、808ステイトとか東京エアランナーズの人とか。やっぱ僕らが遊びに行ってたのが、DJドックホリデーって、須永辰緒さんがヒップホップやってたところに僕ら毎週通ってたから。15歳のとき。そこで聴いてる音楽っていうのは、もうジャクソン・シスターズみたいなレア・グルーヴからNYヒップホップとか。聴けるものは全部聴いてたし。もっと言えば宝島みたいな雑誌も全盛期だったから。
■えぇぇ! ホント? でも全盛期じゃないよ、終わりかけの頃だと思うよ。
JUZU:でもまだ「LAST ORGY」とかやってて。タイニィ・パンクスがまだちょっとやってて。で、そっからECDとか出てきて。ECDが「Check Your Mic」でボーイ・ケンとかも一緒にやってて。まだヒップホップもレゲエも未分化で。で、高校1年か2年のときにスチャダラパーが出てきて。最初のPVにサクラで僕ら呼ばれて、〈ゴールド〉にダイヴしに行ったりとか。そういう、グチャグチャな感じだったから。自分のなかでDJも、自分が掛けたい曲かけて、暴れにいって、終わっちゃって、戻ってきてみたいな。
■(笑)そうだったんだ。
JUZU:新宿の〈サンボーズ〉ってとことか、ガス・ボーイズ(GAS BOYS)が、ちょっと先輩みたいな感じ。ああいう、ちょっとバカなノリっていうか。ビースティみたいなノリ。ああいうのも好きだったし。ひとりで、あんまり仲間いなかったけど、UKのハードコアも好きだった。
■ホント、節操なく聴いてたんだね。
JUZU:重要なのは、原宿に〈デッドエンド〉っていう、ジャパコアのお店があって、鋲付きの革ジャン......っていうか、革も使わないような、ベジアタリアンの。UKのハードコアってベジタリアンが多くて。
■クラスティとかね。
JUZU:そう。そういうのにも個人的に僕は影響受けてて。、高くて買えなかったけど。毎週のように新宿とか原宿とかブラブラして、そこ行ったら、フリーペーパーがあって。そこにマクドナルドがやってることとか、石油会社がやってることととか、フリーペーパーに載ってて。
■そうなんだね。
JUZU:で、そっから「マクドナルド食わねぇ」とかなったりとか。そういうマルチ・ナショナル・コーポレーション、多国籍企業がどういうことを世界中でやってるのかを知って。それはすごい自分の食生活にも影響を与えた。
■デトロイトのクラブに行ったら、フライヤーがたくさんあって、何のフライヤーかと思ったら、ゲイ解放とか、ネイティヴ支援とか、環境系とか(笑)。まあ、日本もなかなか捨てたもんじゃないんだねぇ。
JUZU:いや、ジャパコアはすごい誇るべき、唯一日本で誇るべきはジャパコアぐらいに僕は思ってる。他はほとんどがモノマネだと思うけど。ジャパコアの「ウォォォォ」とかなってる唸り声とか、UKのハードコアとか、アメリカのハードコアとかみんな影響を真似してたぐらい。〈スカル・ディスコ〉のジャケも日本のハードコアから影響を受けてるらしいですよ。あのドロドロしたの(笑)。
■あぁ、そうなんだ(笑)。
JUZU:僕、ジョー・クラウゼルと対談したときに、偉そうに言ったことがあって。僕がやってたネクサス(NXS)っていうバンドを彼はすごく気に入ってくれてて「未来的な音楽だ」って言うから、(それを受けてジョー・クラウゼルに)「何でかわかるか? オレらは核戦争後の社会から来てるんだ」って言ってやって。すごい言いたかった。僕らの国は、原爆落とされて。他の国がみんなSFだと思ってることが、この国だけは事実、核戦争後の社会で、完全に焼け野原にされた後に、こんな55基も原発作らされて。
■なんとも不条理な話だよね。
JUZU:その不条理さが、ドープな感性っていうか。アメリカに連れてこられた、南米に連れてこられた黒人たち。UKもそうだし。彼らも不条理のなかで(独自の文化を)編み出していったと思うから。僕らは僕らで、GHQとかいろんな洗脳があって。愚民化政策で、軟弱化させられて、馬鹿にさせられてる。させられてるけど、でも、やっぱり、不条理さで言ったら、はっきり言って(ブラック・ディアスポラと)あんまり変わらないんじゃないかな。だから、コンプレックスを持つ必要はないと僕は思ってて。この国はこの国で年間3万人自殺してて。虐殺状態がずっと続いてて。
■3万......だもんな。どんな良い国だ(笑)。
JUZU:お金はあっても一寸先は闇。
■そのお金もヤバイし......。でもさ、話、ちょっと戻すと、そこでMOOCHYがアジアに向かったっていうのが、ひとつ、大きいなと思ったんだよね。今回の作品を聴いても......いわゆる雅楽のさ、サンプリングとかを使ったりしてるけど、それをひとつのサンプリング・ネタっていうよりも、旋律としてブレンドしようとしてるでしょう? それが独特の、ある種のユニヴァーサル・ヴィジョンに結びついていく。最初にアジアを旅しようと思ったのは何でなの? なぜガムランだったの?
JUZU:あの芸術にインスパイアされたし、結果的にガムランだけじゃなくてウブドっていう、いまではもうすごい有名になってるけど、僕みたいな環七育ちの人間とはぜんぜん違うカルチャーで、すごい芸術があって、誇るべきだと思うし。
■まるでドビュッシーだね(笑)。
JUZU:ドビュッシーもね、ガムランに影響受けて。
■そうそう、19世紀末のパリの万博でね。
JUZU:はい、らしいですね。だから、いまだに僕、自分がDJっていう感覚も無いですよ、ネクサスでも僕バンド・リーダーであったけど、いまでも続いてるっちゃ続いてるし、ある意味、永遠に終わらないと思ってて。あと、リーダーとかコンダクターとか......なんていうのかな、コントロール? ある程度はガムランもコントロールされてるけど、あれってメインの演奏者がいるわけでもなくて。それがいまだに、DJの考え方にも染みついている。
■考え方も違うからね。
JUZU:そういう森羅万象的な感覚っていうか、全部の音が。それこそジョン・ケージとか、ああいう人たちも全部の音が。だから、ガムランなんか、蛙の声と、人間の演奏と、月明かりとロウソクと、(その場にある)すべてが並列で。いわゆる西洋的な人間社会っていうのは、また違う捉え方で音楽があるっていうのが、環境音楽と人間の演奏が完全にミックスされてるというか。
■なるほど。取りあえず話を整理すると、そこでインドネシアに行って、そのあとますますいろんな文化......。
JUZU:そうです。ワールド・ミュージックを混ぜようっていうか。あと、自分なりに、なにか、作りたい。自分なりのことをやりたいっていうのは根底にはずっとあるから。とにかくモノマネはしたくないなぁっていうのは、すごいあって。途中で、それこそみんながジャングルからドラムンベースになって、みんながそういう方向になったときに、僕自体疎外感を感じて。ひとつのクラブ・シーンが巨大化しすぎて、みんなが金に狂ってきたっていうか。まぁ、言い方すごい悪いけど。でも、僕なりになんか違うなぁって思ってて。自分のスタイルを変える意味で、ジュズ(JUZU)っていうもうひとつのあだ名を戻してきて。
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ワン・アンド・オンリーでありたいとか思ってるわけじゃないけど、来日したいろんな国の人たちは、オリジナルなシーンのなかでオリジナルなスタイルをちゃんと持って来てるのに。でも、この国のほとんどの人たちは、ただ憧れてるだけで。それが悔しいなと思っていた。
JUZU a.k.a. MOOCHYJUZU presents Movements "Beyond"
crosspoint
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■何で「ジュズ」っていうの?
JUZU:スケボーしてるときから、数珠をつけてて。
■それでジュズって言われてたんだ。
JUZU:っていうのもあって。それがネクサス(=「連鎖」を意味する)とか、繋がりとか、数珠とか。まぁ、自分のコンセプト的にそこに行きたかったし。MOOCHYっていう名前がね、ちょっとね、それこそ『エレキング』の影響もあったり、いろいろ知られた部分があって。反対にジャングルとかドラムンベースのDJっていうイメージが僕的には邪魔だったから。それを払拭したかった。もともと何でも聴いてたから。だから、あの当時(1990年代末)のディーゴにも、ちょっとしたシンパシーは感じるんすよ。そんな会って話したわけじゃないけど、あの人ももっと違うところに向かっていたし。で、僕も、よりいろんなところでDJをはじめるようになった。僕、トランスのレコードは1枚も持ってってないんですけど、でもトランスのレイヴ・パーティにすごい呼ばれてて。
■なんでだろうね? それはね(笑)。
JUZU:たぶん、サイケデリックな感じだと思うんですけど。そういうとこに行ってて。でも、やっぱり、そういう人たちの感覚はわかるから。僕も遊び人としていろいろ遊んでるし。そのなかでどうやってみんなが、いろんな人たちが(楽しめるか)。それはさっきの前座の話も含めて。そうしたら、共通項みたいなことでいうと、100~130ぐらいのあいだのBPMで、いろんなパターンを組み合わせるとグルーヴをキープできる。その当時からパーカッショニストと絡むこともすごく多くなってたから、BPM170~180のジャングルのリズムって、ちょっとやっぱり、そういう人たちは絡みづらくて。BPM100~120くらいのほうが演奏者が関わりやすい。そういう現実的なところで、段々BPMも落ちついてきて。それが自分のスタイルになって。
そこに、反対に、いろんなワールド・ミュージック的な要素を組み込んでって。そんなこんなやってて2001年に9・11が起きて。そのとき、僕もうニューヨークに住もうと思ってて。子供もアメリカに産みにいって。アメリカ移住しようと思ったらアレが起きて。アレがすごい、僕にとって、もうひとつのターニングポイント。
■何でアメリカに住もうと思ったの?
JUZU:ワールド・ミュージック的な要素を取り込みはじめた頃から、ネクサスっていうバンドとかで、いろんなミュージシャンと絡みはじめたんですけど、もっとホントの外国人と、もっとやりたい。現場っていうか。そういうのがあったし。次の旅で、インド行くか? 西洋に行くか? 迷って。「インド行ったら、たぶん戻ってこねぇかもなぁ」とか思って(笑)。まず、アメリカに行った。サンフランシスコから入って。
サンフランシスコでは、シェブアイ・サバー(Cheb I Sabbah/シェビー・サバー、シェビサバとも)っていうDJがいて、その人はドン・チェリー(Don Cherry)と幼馴染の白人の人で、南アフリカの人でね。今、ガンで60歳ぐらいなんですけど。そのチャリティに僕も参加したんですけど、その人のパーティがすごかった。当時「『リズム・フリークス』とかもう辞める、もう演らない」って言って、結構、悶々としてたんですよ。なんか、もう、どんな感じかなぁ......みたいな。で、サンフランシスコから入って、ニューヨーク行って、ロンドン行って、ブリストル行って、アムス(テルダム)行って、ロンドン戻って、LA行って、帰ってくるって、旅だったんですけど。まずサンフランシスコで、シェブアイ・サバーのパーティに衝撃を受けた。
新聞かなんかに「World Music」って告知が書いてあって、どういうんだろうと思って行ったら、ヘイト・アシュベリーにある、なんだっけ? ニッキーズ・バーベキューっていうレゲエとかR&Bとかやる箱で、サウンドシステムもゴツくて。そこで彼がやってて。150人くらいでパンパンで。ホント、あのウィー・アー・ザ・ワールド状態で。いろんな人種、アジア人から白人からアフリカ系からインド系から何からグァァって集まっていて。そのシェブアイ・サバーはホントにいろんな音楽をかけてて。なんか......もう、いきなり洗礼で。「こういうのがやりたいな」と思って。すごいまず影響を受けて。
■へぇぇぇ。
JUZU:で、ニューヨークは元ミュート・ビートの今井(秀行)さんってドラマーの人の家に世話になって。ヤン冨田のバンド・メンバーだったりもするのでシンセサイザーの使い方とかシゴかれて。マジで涙流すくらいシゴかれて(笑)。そこに世話になりながらニューヨークで1ヶ月近くいて。まだ全然人がいない「ボディ・アンド・ソウル」とか、あと何見たかな? ゴールディとかもたまたまやってたり。あと、前衛のDJスプーキーとか......。ジャズからスカイジュース(Skyjuice)みたいなダンスホールから、イケるもんは片っ端からいっぱい行って。
そのなかで、トシオ・カジワラ(Bing a.k.a Toshio Kajiwara)っていう通称ビン君、ビンさんって、いま、日本に戻ってきてるけど、A-1レコード(A-1Record)の店長をNYでずっとやってた人。ブルックリンに〈ダブ・スポット〉ってレコード屋があって、ビン君もそこで働いてて。僕のリズム・フリークス時代のミックステープを、カジくんがニューヨークにいたときに、そのトシオ君に渡してて。僕はその当時のミックスいろいろ混ぜてたから、トシオ君もイルビエント・シーンのもう真っ只なかで。デヴィッドの「ロフト」でもDJやってるぐらい。もう、とにかく、日本でいちばんぐらいのレコードの知識がある人。まだ42歳くらいだけど。その人と会って、またすごくいろいろとドバァァって広がって。で、彼は僕のミックステープをカジ君系由で聴いてて。意外とカジくん重要なんだけど。
■はは(笑)。
JUZU:「オッ! お前かぁ!」みたいな。アッチも僕の音をまず聴いてたから、すぐに僕の感覚を理解できて。ちなみにトシオ君もガーゼとかリップクリームとか日本のハードコアに影響受けてて。ジブラと同級生だったりとか変な繋がりもあって。そんなんで、ニューヨークでも発展があって。その頃にロンドンに弟がちょっと留学したんです。で、ヤツとジャー・シャカとかいろいろ行って。ひとりでブリストル行って。やっぱブリストルも、マッシヴ・アタックとかトリッキーだったりロニ・サイズだったり......オリジナリティのある音楽を地方都市で作ってるってイメージがあったから。ブリストル行って、なんかロンドンよりもカッコイイなって。スケーターも多かったり、人も良かったり。ブリストルは1日しかいなかったけど、地方都市住むのもありだなって思ったきっかけで。
■へぇぇぇ。
JUZU:東京、キャピタルに住むことのメリットもあるけど、キャピタルに住まないことでの(メリットもある)。いまの、その後10年ぐらいの(活動に繋がるものを得た)。やっぱり僕のスケートの後輩で、森田(貴宏)って、アイツがブルー・ハーブ(THA BLUE HERB)と繋がって。
僕も日本で最高のクラブは札幌の〈プレシャス・ホール〉だと思うから。すごい世話になってて、そういう繋がり。(高橋)KUNIYUKIさんでもそうだし。地方都市にいながらオリジナリティのあるヤツらに出会ってたから。反対に、東京ではカネカネになり過ぎて出来ないことを地方都市がやってる、ってことにも、インスパイアされて、その後、福岡に住むことになったり。
■福岡はなんで住んだの?
JUZU:福岡は元カミさんの実家が山口なんだけど。なんかそういう繋がりがあって。僕自体、そのニューヨークが9.11の後、それこそブラジル行って、ニューヨーク経由で行って。国旗だらけのニューヨークになっちゃって。あのブッシュの。「もうここじゃないな」と思って。でも東京から出てどうにか自分のネクスト・ステージに行きたいと思ってたから。いわゆる西洋に行く上昇志向とは逆で、福岡に行くことで、まぁ子供にもイイし、自分にとっても、試したかった。昔、ネクサスでライヴやりに行ったときに泊めてもらった田舎のプレハブを借りることになって。2年間、後ろが古墳。哺乳類がいないようなところに家族と別でひとりで住みながら、毎月東京にDJに行ってて。
■へぇぇ、電話とかは?
JUZU:携帯だけ。
■携帯だけで。トイレとかは?
JUZU:あるけどボットンだし。家のなかに蛇がいたり。
■(笑)風呂は?
JUZU:風呂も......なんか離れにあって。しかも、すごい体験......そういうの全部話出したらハンパじゃないぐらいいろんなことがあるんですけど(笑)。でも、そこで、ものスゴい人里離れたところに2年間ずっとひとりでほぼいて。必然的にサイケデリックっていうか。なんかもう、音楽の聴き方も全然変わってきたし。流行りもんとかそういうのとか、どうでもいいっていうか。永遠性のあるもの、じゃないと。そこでは歯が立たないっていうか。いくらロンドンで流行ってようがベルリンで流行ってようが、そこでかけたときに、虫の音やいろんな状況のなかで......。
■それ面白い話だね(笑)。福岡市内の市街地からどれくらい?
JUZU:車で1時間とか。もうぜんぜん田舎。その家の家主のおばあさんはそこに越した年に、その1年の間に息子と旦那を亡くしていて。僕がまず与えられた部屋がその亡くなった息子さんの部屋で......それを荷物入れたあとに事実を聞いて、そのおばあさんが「ここは強い人しか住めないから!」って言って、娘がいる奈良に行ってしまって......。そこで、悔しいから、荷物入れた日の夜中だけど、取りあえず音は出そうって(機材)繋いで、最初はそれこそガムラン系の何か掛けて。うーん? って。
■はははは。
JUZU:でハワイアン系のヤツ掛けて。うーん? って。その後、アフリカン系のヤツ掛けたら、スゴい違和感感じて。ヴァイブレーションが。で、慌てて、モーツァルトの映画で『アマデウス』のサントラをレコードでかけたらすごい落ち着いたんですよ。そっからいろいろ掛けたら、なんか落ち着いて。そこには、前そこに住んでいた息子さんの遺品もいっぱいあって。そのなかに(チェ・)ゲバラの本があったり、『ルーツ』(アレックス・ヘイリー『ルーツ』)って、あのアメリカの、ああいう本があったり。
■結局は8年間もいたんだね。
JUZU:そうですね。8年間(東京・福岡間を)行き来しながら、やっぱり東京ってことを意識しはじめて。あらためて地元っていうか。福岡は福岡ですごく良いところだけど、シンク・グローバル、アクト・ローカルっていう言葉があって、「ここ(福岡)でのアクトが自分にとってローカルなのか?」って。8年間っていても、年間でいったら実質4年間ぐらいしか住んでないぐらい(福岡に)いなかったと思うんですよ。DJやったり、いろいろ行ってたから。アクト・ローカルっていう意味でのローカルさはちょっと僕のなかでは、(福岡は)日が薄いっていうか......そのなかで東京は東京で、やっぱり自分は東京の人間なんだなぁって思ってて。僕のなかでは家族で東京に戻る、家族内でもそういう案があったんですけど。カミさんのほうは仕事がドンドン進んで、それはそれで良いと思うんだけど。
僕が、こうやっていま、ある意味、東京に戻って。ああいう原発事故が起こって。。まぁ、福岡も佐賀の原発とかあるから。別に安心とは全く思わないけど。結果的に、僕がこうやってこういうことやれて。何にしても必然的かなぁって。で、東京戻って来て早々っていうか。『ホピの予言』っていう映画も、これ(『Beyond』)にホピの人たちが出てくるのも、すごい重要で。
■なるほどねぇ。
JUZU:20歳くらいのときに、『ホピの予言』っていう映画を友だちの紹介で西荻(窪)のほぴっと村というところで観て。ナヴァホの居留地のホピ系の人たちのエリアで、ウラン、プルトニウムが採掘されて、それがヒロシマ・ナガサキに落ちたことをホピの人たちは予言してたっていう映画で。80年代にパンクスとかはみんな観てた映画らしく。それに衝撃を受けて去年末に息子たち連れて、ホピのところに行った。息子を連れてったことで、彼らもオープンになったんですよね。ネイティブ・アメリカン・マニアみたいな人も入れないキバっていう儀式、儀礼所? にも入れてもらえて。普通絶対入れないらしんだけど。でも、そこに入るとなまはげ見に来たような感じっていうか。言葉は通じないけど、同じモンゴロイドで。ただちょっと僕らと道がズレただけっていうか。そんな体験もあって、それから帰ってきて。アフリカ、セネガル、ラティールの故郷に、行って帰ってきて。で、3.11がすぐ起きて。
■(東京に)帰ってきたのは何年なの?
JUZU:2010年。12月のもう末で。そのまますぐ、アリゾナのホピのところに行って。1月の中旬に帰ってきて、2月頭からアフリカに行って。
■そのときは、これを作るつもりだったんだよね?
JUZU:いやぁぁ......そんなにね、なんか......でも、映像集的なものは考えては......いましたね。2009年くらいにPVをまとめるみたいなアイディアはあったから。『Movements』ってアルバムを2009年に出したから、そのときにPVは4つくらいもう作ってて。それをまとめて何かしたいって思ってて。やっぱり3.11以降、より明確になっていった部分はあるけど。
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多くの人はニューヨーク、ロンドン、ベルリンなんかに憧れて、そのまま行くけど、僕はバリとかに行っちゃって。そこでアジアのカルチャーの奥深さとか、そこで「ワールド・ミュージックとエレクトロニックなものを混ぜる」というコンセプトを自分のなかで編み出したというか。
■なるほどねぇ。じゃぁ、自分自身のこの10年の成果みたいなものも集約されてるっていうかね。その、DJをやっててさ、自分がいちばん良かったなって思うのはどういうとき?
JUZU:あぁ。個人的には、僕、ターンテーブル3台、CDを使って、DJでいちばん面白いのは、自分がコントロールできなくなったときっていうか。3枚、4枚......ジェフ・ミルズなんか、そういうことずっとやってるんだと思うんだけど、なるべくコントロールしようと思うけど、(DJ自身の意識を超えて)もうそこで何か生まれはじめたみたいなところが、個人的には音楽の体験としてはすごい。
■ジェフ・ミルズは逆だと思うよ。自分で100%コントロールしたい、コントロールするタイプだと思うから、真逆の発想だよね、それは。
JUZU:でも、それまで(自分でも思いもしなかったものが出てくるまで)、まとめはするんですよ。そこで生まれて来る何か。おぉ、できてきてるみたいな。それはDJでしかあり得ない面白さだと思うし。人間的なところでいえば、そういうコミュニケートだったり一体感。鎮魂もそうだし、それ以降(前述の死者に対する選曲)から、目の前にいる人だけじゃなくて、変な話、目の前にいない、そういう霊みたいなものも、どこにでもみんなあるっていうか。そういう意味ではフロアの人の顔だけを見るだけじゃなくて、ま、スティービー・ワンダーでもなんでも、目が見えない人のように、そうやってヴァイブレーションとか感じて、そのなかの一体感みたいなものを、全体で、何かが......作る、っていうのもおこがましいから。自分が献身的な心じゃないとできないと思うし。
■8年いて実質4年くらいしかいなかったってことは、ほとんど全国津々浦々行くの?
JUZU:世界も行きましたよ。ヨーロッパも行ったり、アメリカも行ったり、オーストラリアも行ったり、ハワイでもDJやったりとか。アジアは、DJはないかな。ベトナムでの録音はあるけど。
■こないだの土曜日は岡山だっけ?(岡山YEBISU YA PRO/2012年2月25日)
JUZU:うん。岡山も面白かった。札幌は〈プレシャスホール〉が、ホントにすごいいろんなこと教わって。その後、デヴィッド・マンキューソとか紹介されて。デヴィッドの「ロフト」の35周年とか、スピーカー組むのからデヴィッドの部屋にアップ運ぶのまで手伝いに行ったりとか。
■へぇぇ。それニューヨークで?
JUZU:ニューヨークで。で、ジョー・クラウゼルがやってるパーティでDJやって。ジャマイカ行ってレコーディングもして。それを2週間以内に全部やるみたいな(笑)。
■スゴいねぇ。
JUZU:デヴィッドっていま、43周年? DJのゴッドファーザーだと思うし。あの人がやろうとしてたパーティって、僕が何も知らないで「リズム・フリークス」とかデコ(レーション)とかも、みんなでやってたし、サウンドシステムも入れたし。僕はもっとハードコアにやってたけど、デヴィッドも昔はウーハーとか入れて、ベースもけっこう出してたらしいけど。
■たしかにデヴィッド・マンキューソって、ミキシングとかブレンドではない、もうひとつのDJカルチャーのゴッドファーザーだよね。
JUZU:でも、あの人の(プレイを)最初から最後まで聴くと、トータルでは8時間とか、昔だったら20時間ぐらいやってた、あの人のDJのなかで、すべてはミックスされてるっていうか。
■あぁぁ。テクニカルな意味じゃなくてね。
JUZU:1コンマとか、1秒なのか、10秒なのか。それはミックスっていうものの幅だと思う。
■たしかにね。
JUZU:1時間のなかでミックスを凝縮するのか。8時間でひとつのデカいパックを作るのか。デヴィッドのああいうのは、プロデューサー的な感覚としても、あの人が掛ける音楽は、良いサウンドシステムで掛けると、40年前の音楽もいま鳴っているように再現されるんで。プロデューサー的には嬉しいことだと思うし。やっぱり自分の一生懸命作った音楽が、40年後でもみんなが楽しんでくれるっていうのはすごい素晴らしいことだと思うから。そういう音楽を作りたいなってあの人からインスパイアされた部分も。DJ的には、繋がないで1曲ずつ掛けるっていう、ああいうスタイルもやったことはあるけど。あの人の存在もデカい。
■DVDの話にまた戻すと、とにかくPVを作ろうと思いはじめて。作ったわけだけれども、途中3.11という大事件が起きてしまって。急遽、そこに(DVD制作に)新たなアイディアが注がれたと。当初予定したものは、ある意味では全く違うものになって、こういう風にリリースされたわけだけど。ここに収録されている以上の、膨大な量の取材をしたわけでしょ?
JUZU:まぁ、いろんな人には会ってるから。ある意味そうかもしれない。取材って感覚なのか、まぁ、あれですよね、話を訊いて......。
■ドキュメンタリーだよね。いろんな人に喋らせるっていう。何故、こう、いろんな人の語りを、こういう風に入れようと思ったの?
JUZU:最初にそうやってインタヴュー的にやったのは沖縄が最初かもしれないですね。あのおばあちゃん。あと、マンちゃんっていう辺野古の基地の反対やってる、色黒のサーファーみたいなゴッツい女の人。あの人の話もその後に撮影して。
■まぁ、3.11以前。
JUZU:以前ですね。ホピの人たちも2011年のお正月前だから。そこでああいう会話、2012年問題について。
■あぁ。
JUZU:やっぱり『ホピの予言』っていう映画、いまも一応持ってきたんですけど、その映画を3.11以降、もう一回、こう......北山耕平さんっていう、70年代に『宝島』の編集もやって、ネイティヴ・アメリカン関係の(第一人者の)。あの人と熊本を一緒に旅したことがあって。そこですごく仲良くなって。まぁ変な話で。福岡で、マナバーガー(MANA BURGERS)ってベジバーガーやってる、えっと、トラさんって人がいて。で、〈ライフフォース〉のニック・ザ・レコードがベジタリアンで。〈ライフフォース〉のパーティで、ニックのまかない係もやってて。で、そのトラさんが、たまたま?僕のCDを買ったら良くて。サンクス欄見てたら〈ライフフォース〉の名前があって。福岡の僕のパーティに来てくれて。その人が「北山さん呼ぶから、MOOCHY君、一緒に遊ぼうよ」みたいな感じで。
で、僕が九州住む上ですごい影響を受けた押戸石っていう、熊本の阿蘇山のふもとっていうか、火口ら辺にある、5000年前、6000年前からある祭事場があって。ストーンサークルがあるんですよ。そこはすごい光景で。そこに行った時に天皇家の支配じゃない日本をすごい感じて。ほとんど本土って天皇家の支配下だから、そこまで行くともっと原始時代っていうか。
■縄文時代。
JUZU:そこに北山さん連れてったら、北山さんもすごい喜んで。そっから交流ができて、3.11以降、5日後ぐらいに北山さんに電話して、「『ホピの予言』もう一回観たいから、ちょっと連絡取りたい」って言って。北山さんから『ホピの予言』の制作者の人を教えてもらって。いろいろ話して受け取ったんですけど。で、もう一回見直したら、10年? 15年前に観た映画だから、よく覚えてなくて。でも、インパクトはあったから(実際に)ホピのところまで行ったけど、もう一回見直したら、「今後あまりにも文明が進んで、どこかの原発が津波かなんかで壊れて、みんなが大変なことになるだろう」って86年の映画で言ってて。鳥肌が立つっていうか。そのままになっちゃってんじゃんみたいな。
■ホピの人とか、ああいう沖縄の人たちに取材をして。ひとつのドキュメンタリーを作りたいっていう意識があったの?
JUZU:いや......そういうのはあんまり無かったですけどね。ただやっぱりとにかく行って話聞くんだったら、リノ君のPV然りだけど......「何で?」って言われると、そこまでDVDを意識していたわけじゃなかった。
なんか、自分自体が...そうですね、メディア自体、ある意味、僕を取り扱ってくれるところがないって思ってるから、多くの雑誌はスポンサードされたものでしか仕事受けなかったりとか、それでもいち部、良心的なジャーナリストとかやってくれるけど。自分自身がジャーナリスト的な感覚にならざる得なくなってきたし。自分自身がメディアにならなきゃいけないなと思ったし。今回、なんていうか、黙ったじゃないですか。雑誌も、新聞も、テレビも。でも、それを僕は3.11以降じゃなくて、以前から、そういう傾向がすごい強いなぁと思ってたし。たとえば音楽雑誌でも裏表紙が50万みたいな。そういうの聞いてたし。全部のメディアが金で動いてるっていうのがすごいあったから。だから自分がファンジン作ろうとか、アイディアは昔からあるはあるけど、それを仕事にするっていうよりは、さっき言った中高生のときにマクドナルドのことを知ったように、なんか音楽でもそれができるんじゃないかって。メッセンジャー的な......伝えなきゃ。自分が得たものを誰かに伝えないと、知恵と知識そのものは共有してナンボだと思うから。
■東電の場面まで入ってるもんな(笑)。あれは何? 自分で東電に行って?
JUZU:ひとりで行って、ヴィデオだけ持ってて。なんでか、とにかく、どういう状況になってるのか見たくて。
■それで、例の、逮捕されたさ、六ヶ所村のシール事件(笑)。
JUZU:はい、六ヶ所村の。はいはい。
■あれはたまたまDJに行ったときにじゃないよね?
JUZU:たまたまじゃないですよ。もう全然六ヶ所村目的。目的として、六ヶ所村に行くことと、青森の弘前、ねぷたの人たち、ねぷたのオジサンのインタヴューもあるけど。ねぷたのオジサンたちと会って。9・11以降、僕がもういちど日本にちゃんと住もうって思ったきっかけは2002年の青森のねぷたっていうのデカくて。あそこに、500万人、来るのかな。
■ホントにそういうモノが好きなんだね。
JUZU:いや、まぁ(笑)。ネクサスで、マドモアゼル朱鷺ちゃんがメンバーだったんですよね。朱鷺ちゃんの影響とかもすごいあるし。僕のまわりのメンバー〈ライフ・フォース〉のMassaさんにしても〈プレシャス・ホール〉のホールのサトルさんって店長にしても、そういう人の影響もあるとは思うし。自分の親父の影響もあると思うし。
■ねぷただったんだ。
JUZU:ねぷたですね。
■で、『ホピの予言』の上映会を自分でやってたんだよね。それは自分の持ち込み企画みたいな感じ?
JUZU:交通費も貰わないで、単純に1000円。見に来る人の1000円の7割だけだから。まぁ、交通費になるかならないか。しかもバイクで!
■3.11の1ヶ月、2ヶ月後ぐらい?
JUZU:2ヶ月後ですね。4月にボランティアで行ってたから、被災地の状況も見てたし。それも今回の映像にも各所で入ってるけど。もう......びっくりっていうか。ホント酷い。ちょうど、なんかまた、縁が縁で、四十九日ら辺に行ってたんですよ。3.11から49日後。だから喪服の人とかもいて。やっぱり涙出ちゃう。野田さんも子供いるだろうから、自分の子供が死んじゃったよとか......。
■まあね。だからね、シール事件もあったし、ぶっちゃけ、反原発とか、脱原発とかね。そういうモノを、もっと前面に押し出してるような企画モノなのかなって最初は思ってたのね。
JUZU:あぁ。
■あと、(見終わって)2時間もあったんだって。長いよね?
JUZU:長いですよね。
■作り込まれてないし、みんな正直に話してるじゃない?
JUZU:そうですね。
■たとえばさ、六ヶ所村の人もさ、お金、いちばん貧しい村にいきなりお金が降ってきたって。やっぱり、そのお金の話は沖縄の人も言っていて。みんな放射能のことは言うけど、お金の話はしないじゃない。そこがやっぱ現地の人の感覚としてひとつ大きいっていうのがわかる。お金とか、ネオリベラリズムとか、そういう問題にもなってくるっていうかさ。で、最後はカサブランカのタクシー運転手に宗教を語らせて終わるっていう(笑)。
JUZU:ま、厳密には、最後は剛が湖でっていうところなんですけど。だから僕、CD(『Movements』)の方にもちょっと文章とか載っけてて。「失われた記憶を取り戻す」っていうのが、そのテーマなんですよ。それの裏っていう感じで。
■だよね。それをまさに、太古の自分たちの、ユニヴァーサルな音で表現しようとしてるのは、伝わってくるんだけどさ。だけどもっと、オレ、反原発みたいなテーマで完結しているのかなと思っていたの。デモのシーンもあるんだけれど、MOOCHYの場合、こういうことをひとりでやるってところが良いよね(笑)。
JUZU:ハハハ(苦笑)。協調性がないのかな。ただ、3.11以降も、僕は別に、(作品コンセプトを)曲げられたっていうか、『ホピの予言』じゃないけど、必然的なことだったと思うんですよね。こうなったのは。アレがなかったら、みんな無関心なまま、この国だけで(原発が)100基ぐらいできてた可能性だってあるじゃないですか。
■浜岡も余裕で動いてたろうしね。
JUZU:ね? そう。僕は中学生の頃から「No Nukes」とかやってたから、核の問題とか戦争とかに興味あったし。パンクの影響とかもあったし。人種差別は、ヒップホップやレゲエやジャズから教わったし。やっぱり同じような何かを感じてたから。いまも自分なりに勉強、本読んだりとか、調べていくと、やっぱり奴隷制とか、原発の輸出、採掘、全部がやっぱ繋がってて。コンゴのウランの採掘と奴隷制っていうのは、ものすごく密接だし。ネイティブアメリカンやアボリジニ、沖縄の今のネイティブの人たちに対する扱いとかも、全部やっぱりそういう必然的な何かを感じてたから。だから3.11以降、やっぱり来たと思ったし、ぶっちゃけ。「やっぱ言わんこっちゃねぇ」って。ずっと福岡で住みながらも、玄海原発の反対署名、僕らのパーティやってたから。別に3.11以降に言いはじめたことでも何でもなくて。
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僕は中学生の頃から「No Nukes」やってたから、核の問題や戦争に興味あったし。パンクの影響もあったし。人種差別はヒップホップやレゲエやジャズから教わったし。やっぱり同じような何かを感じてたから。
JUZU a.k.a. MOOCHYJUZU presents Movements "Beyond"
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■音楽の力っていうのは、微力だと思う?
JUZU:音楽が無かったらもっと酷かったと思う。微力かもしれないけど、音楽があったから俺は社会的な意識を持てたし。音楽がなかったら...。
■そこは間違いなく音楽の影響だからね。
JUZU:モチロン。
■学校では教わってないと。
JUZU:モチロン。だって、音楽がなかったら、ホントにみんなロボットみたいになってしまうと思う。さっきの「失われた記憶を取り戻す」っていうのは、楽器だったり音色だったり、そういうところから先人の知恵を貰わないと、こういう現状の中で、ねぇ? こういうコップでコーヒー飲んで、iPhoneと西洋タバコみたいな状況になってて、音楽が心に響いてこなかったら、たぶん、そのまま管理されちゃうっていうか。すごい、なおさら音楽の重要性は大きいと僕は思ってるし。だから、微力とも思わない。
■世のなかを動かしてるような人たちから見れば、微力だよ。
JUZU:いやぁ、でも、反対に言えば、彼らにとっても脅威だと思う。だから、いまのクラブとかデモとかに対する、この管理化はその裏返しでしょ。音楽って人を結びつけて、会話して、学び合ったり、協調し合ったりすることだから。管理する側にとってはすごくそれは邪魔なことだから。六ヶ所村のアレでも1週間以内で彼ら、僕のウェブとか全部チェックしてたから。PVまでちゃんと見てくれて(笑)。
■ハハハハ。
JUZU:取り調べの刑事から、「アンタ、ホント音楽ちゃんとやったほうがイイよ」「アンタ、やってること間違いないから」って。「オレだって原発とかぶっちゃけヤダよ」だって彼も子供がいて、20km圏内1日で即死になるぐらいの量があそこにあって知っていて。あれが福島みたいなことになったら北半球全部が住めなくなるみたいなもんだってことを、多くの人はやっぱ知らないし。福島どころじゃないっていう。それを僕は伝えたかったから、、でも結果的に犠牲はすごく多かったんですよ。パクられたことで、それこそ家族にも迷惑かけたし、まわりの友だちに迷惑かけたし。すごい散々な思いはしてるけど。
■なるほどね。どんなシールを貼ったんだっけ?
JUZU:「反原発」と「STOP KILLING OUR FUTURE」。核爆弾の製造と原発は全部リンクしてるから。
■それは六ヶ所村のどこ?
JUZU:(六ヶ所原燃)PRセンター。
■ハハハ、そんなね、シールを貼るのって、バンクシーみたいな、映画になるような芸術家のアート表現だってわかって欲しいね。
JUZU:ボム。ボムって......僕らみたいなスケーターとかは、当然、自分らのストリートはストリートだし。自分らのスタイルってあって。そういう攻撃対象っていうのもあって。いろんなメッセージをボムするっていうのも。自分がいるって言うこともひとつのボムだけど。バンクシーにしてもそうだけど。ああいうスタイルっていうか。別に中高生からやってるから。別に......って、説明すると大人気ないですけど(笑)。
■(笑)そこだけは変わらないっていうか。
JUZU:変わらない。まぁ、しょうがないですよね。
■DVDの最後はイスラム教の話で終わるけど。
JUZU:この何年かで、イスラム教に対してすごい関心が深まってて。でも本当の最後は、(沖縄の)マンちゃんの話で、ジュゴンの話があって。で、ラスト・シーンは剛が彼の実家の滋賀の琵琶湖に行くところで終わるんですけど。なんか、まぁ、自然回帰的というか。
■あれがオチなんだね。
JUZU:あれはもっとパーソナルなところ。人間社会の(サイケデリックな)宗教っていう話から、ジュゴンみたいな同じ哺乳類で、予言、予兆的なことをやるそういう生命体の話。で、最後は湖。まぁ水に帰るみたいなのは、けっこう僕のなかでテーマとしてあって。故郷に帰るっていうのも、ひとつのムーヴメントだと思っているし。ま、今後も映像作品作るだろうから、もっといろいろやってみたいことはありますね。
■今回のクライマックスとしては、世界中のいろんなところで起きているデモの映像のコラージュ映像なわけでしょ?
JUZU:それぞれ戦わなきゃいけないことがあるのかなぁって。デモすりゃいいとは思ってはいないし、違うやり方も全然あると思うんだけど。いま、良くも悪くもネットで、ねぇ? 情報交換出来るようになったから。覚醒しはじめてるのは間違いないし。
■でも、よくひとりで作ったなぁと思いましたよ、コレをホント、労作を。
JUZU:(笑)。
■ひとりのDJがコレを作ったっていうのが、すごい大きいなって思った。
JUZU:厳密にはマニュピレーターがいますけど、そうですね。なんか、偶然、必然な。もう作らざる得なかったっていうか。
■MOOCHYってけっこう饒舌で、話しだす止まらないようなところがあるじゃない。いろんな話があって。
JUZU:(笑)あぁ。
■だから、そういう意味で言うと、これは自分の言葉を抑えたよね
JUZU:聞き手な感じ。そういう意味では、DJっていう感覚はないけど、そういう感覚。素材を扱ってストーリーを組み立ててみたいな。そういう感覚は、最後のオチまで。最後はチルアウトみたいな(笑)
■うんうん、まぁ、たしかにね。
JUZU:2時間のトリップっていう感じ。
■なるほどねぇ、たしかにそうだわ(笑)。
JUZU:それで、認識をみんな、それこそ高めてもらいたい。
■はい(笑)。
JUZU:なんかむちゃくちゃ喋ってるけど(笑)。
取材:野田 努
Movements
https://go-to-eleven.com/schedule/detail/547/2012/3
2012.03.10 Sat @ eleven
▼Dance Floor
SHHHHHH / BING aka TOSHIO KAJIWARA / JAKAM&THE SPECIAL FORCES / KUNIYUKI /
TRIAL PRODUCTION feat TWIGY / JUZU aka MOOCHY / DJ TASAKA / BING aka TOSHIO KAJIWARA / Paint: KEPTOMANIAC / Dance:Nourah, Tanhq, Ayazones
▼Lounge Floor
DAI / ZIP(Zipangu Steel Orchestra) / MACKACHIN / Q / KILLER BONG / ALAYAVIJANA / SAHIB a.k.a. YAMA / 東京月桃三味線&RYOJIN / Dance: Nourah, Tanhq / Paint : WITNESS, LUVVINE