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「しあわせな人っているの?」
「しあわせなようにふるまってる人はたくさんいるね」
「どうしてそんなことするの?」
「しあわせじゃないってことが、恥ずかしいんだね。認めるのがこわいんだ。勇気がないんだ」
チャールズ・ブコウスキー著『日常のやりくり』(原著1983年)青野聰訳
少しばかり2009年の秋に戻ろう。現代の東京におけるボヘミアンの足跡を追った『remix』誌(219号)、その特集に根差す、ある種のロマンティシズムに冷や水をぶっかけるようなECDの寄稿、「ボヘミアン・ラプソディ」は衝撃的だった。引用するのがためらわれるほど直截的な、平成20年の年収・雑所得の1円単位までの記載。「自発的に貧しい生活」をするのがボヘミアンの前提であると言われれば、メジャーからの脱離とそれに伴う年収の大幅な減額を、「まあ、成り行きである」とあっさり振り返る。かっこつける、という振る舞いが根本的に嫌いなのかもしれない。それにECDは、幸せぶるということをしない。塞いだ傷口を自ら破るように、ECDはすべてを語る。少しずつ沈んでいく自分を見つめる、諦めたような視線。しかし、そこから最終段落に待つパンチ・ラインに向けての告白は、まさに自発的な人生、クラシックな表現を使えば、人間の思想と呼べる類のものだ。引用は無粋なので控えるが、重要なのは、ECDは決して貧しさの賞賛者ではない、ということだろう。ECDは、ただ金がある生活も、ただ金がないだけの生活も否定する。必要なのは、いつも、そう......
さて、「社会的・日常的現実に対する、音楽という夢(を見続けるのか/醒めてみるのか)」という対立の図式は、これまでの原稿にも度々持ち出している、筆者のなかでは重要なテーマのひとつだが、そんな人間からすれば、本作『Don't Worry Be Daddy』に数回登場する目覚まし時計のベル音は、実に両義的に響いて聞こえる。人の睡眠を効率的に妨げるためだけに空気を揺らすその目障りな連続音は、「起きろよECD!」、それこそ「働けECD!」と言っているようにも聞こえるし、「この人、どれだけベル鳴らしても起きないんですけど......」「やれやれ」と言っているようにも聞こえる。
経歴25年、もう14枚目だそうだ。"まだ夢の中"とは言いつつ、たぶん、現在のドメスティック・ラップのシーンでもっとも夢から醒めているのはECDだろう。本作に、ベテランらしい余裕はない。早い話、ECDはここ数年、植本一子がブログに綴っているような個人的な現実的生活から、反原子力運動に関わる社会的生活までに加えて、「ラッパーはどう歳を取ったらいいのか?」というややこしいテーマ、より大きな枠で言えば、「ユース・カルチャーの草分けとなった存在は、いつまでそのシーンにいていいのか(いられるのか)?」という問題に直面している。
もちろん、それくらいのことはECD本人も自覚しているはずだし、その本音は、SEEDA以降/S.L.A.C.K.以降の感覚でははっきり「ダサい」とも言われかねない、無骨なフロウと飾り気のない言葉によって、ごつごつと積み重ねられている。「あっちもこっちもやばい新人の/うわさでもちきりの界隈を/にっちもさっちももうどうにも/こうにも行き詰まりのクソオヤジの/ラップでジャックする今回も」"Recording Report"
奇しくも3月7日は、今年いちばんの人気者・SALUのアルバム・デビュー日でもある。ECDはTR-808の頑丈なチキチキ・ビートや"Flip the Script"(Gang Starr、1992)のまんま使いで対抗、もしくは開き直っている。また、家庭を持った切実な50代男性として、あるいは活動開始から25年を数えるベテラン・ラッパーとして、ECDはしかし自分を必要以上に大きく見せることをせず、むしろ誰よりも大きな声で自分を笑ってみせるのだ。「眉毛ねー目の下くま/頬こけた自称ラッパー/歳のせいかシミ小じわ」"対自核"、「まちがいなく父親先にいなくなる/はたちになるころ70だぞオヤジ/のことはマジあてにするな」"まだ夢の中"、「外を出歩くと減るかかと/針を載せると削れる溝/同じだ自分のことのような気分」"家庭の事情"
そう、ECDはライフ・スタイル誌のいう「美しい歳の取り方」とは遠く離れた場所で逃げ場もなく歳を取り、ユース・カルチャーの世界にとどまるべく懸命にしがみついている。「昔はよかった」なんていう無根拠な昭和懐古を、昭和歌謡(ジャズ?)を引用しながら皮肉たっぷりに否定する"大原交差点"は、現代を生きることに対する覚悟の裏返しだろう。しかしここに、かつての鬱屈さはない。朝5時に起きて夜9時に寝るいまの生活に、充実感にも似た感慨をにじませる"5to9"は、粋なタイトルが与えられた本作に辛うじて前向きさを打ち出している。
とはいえ、家族ができて、小さな共同体のなかでECDが素朴に救われたと思ったら大間違いだ。ECDはいまでもアルコール中毒に怯え、レコード中毒に生き、家庭を愛しつつもひとりの時間を切実に求め、掛け持ちの仕事と、保育園と、原発のあいだで相変わらずもがいている。そう、本作『Don't Worry Be Daddy』は、ブログに綴られているいまの実生活に初めてECDの表現が追いついた作品だ。たぶん、これはボヘミアンの表現とは呼ばない。いわばオルタナティヴな特殊労働者、その生き様、破れかかった傷物の履歴書そのものだ。
"Wasted Youth"......仮に「浪費された青春」とでも訳そうか、本作中でもっともメロウなトラックの上で、ECDは鳴りやまない目覚まし時計を完全に無視し、夢の続きに待つパーティの旋律を19歳に戻ってリフレインする。この最高の1曲を聴いていると、現実と夢(音楽)は、決して対立していたり、断絶しているわけではないことがわかる。あるときはECDを追い込んだ夢がいま、ECDの日常をいっぽうでは支えている。もちろん、そうした暮らしの後味は必ずしも甘くないし、のど越しはこれでもか! というくらいにタフだ。将来、年頃になった娘に恨まれることをいまから心配する"まだ夢の中"などを聴いていると、私はとても結婚などできないなと思ってしまう。
が、『Crystal Voyager』(2006)から聴きはじめた後追い世代の人間からすれば、本作でのECDは別人かと思うほどにパワフルだ。禁酒、定期労働、規則正しい生活習慣、例えば退廃に類するアウトサイダー・ミュージックの悪ぶったクリシェを、それらの背水的な自律によって卒業したECDは、いま、理想としての「place to be」から、切実な「be here now」へと向かう。
これは......聴きようによっては、勇気の音楽だ。自分が自分であること、そして、自分の人生が自分のものであることを、歯を食いしばって、そして願わくば少しくらい胸を張って認めてあげるための。あなたは本作を前に、どうしようもなく自身の人生と向き合うことになるだろう。
「つーかこれサイコロの判定/受け入れるしかないしょうがないこの不安定/まだ揺れる一生しやしない反省」
"大原交差点"
竹内正太郎