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RGM-1535
2020年の『Black Nationalist Sonic Weaponry』で鮮烈なインパクトを与えたUSのプロデューサー、スピーカー・ミュージックことディフォレスト・ブラウン・ジュニア。その新作情報がアナウンスされている。「テクノを黒人に取り戻せ(Make Techno Black Again)」を掲げて活動している彼はライターでもあり、昨年初の著作『Assembling A Black Counter Culture』を刊行しているが、『Techxodus』と題されたスピーカー・ミュージック名義の新作はその本のエピローグであり、ドレクシア神話の延長でもあるという。アートワークを手がけるのはなんとアブカディム・ハック。ダブもフリー・ジャズも呑みこんだ新曲 “Jes Grew”(イシュメール・リードの代表作『マンボ・ジャンボ』に登場する「オーディオ・ウイルス」の名)が現在公開中だ。アルバム『Techxodus』はおなじみの〈Planet Mu〉から、9月8日にリリース。
親になることを主題とするシンガーソングライターの作品は多い。いや音楽に限らず小説にしろ映画にしろ、それが人生における大きな変化の契機であり続けている以上、テーマになるのは自然なことだ。しかし……、キング・クルールの4作目『Space Heavy』ほどメランコリックに父になることを表現したものを、僕はすぐに思いつかない。
前作『Man Alive!』のリリースの際に自分が書いた文章(https://www.ele-king.net/columns/007475/)を読み返してみると、すでに僕はアーチー・マーシャルが父になったときの心理状態を心配している。余計なお世話かもしれないが、しかし、『Man Alive!』が現代の荒廃にドライで攻撃的な音を援用しながら対峙した作品だったことを踏まえた上で、彼の混乱は親になることでかえって深まるのではないかと想像したのである。個人的にもちょうど、友人や知人に子どもができて、彼らの将来への不安を聞いていたことも関係している。どうやら未来は明るいようには思えない、だとしたら、この子に何を伝えてやれるのか?
マーシャルが父親になってからすぐにパンデミックがやって来て、『Space Heavy』はその時期の内省的な日々から生まれた。そういう意味ではここ数年多く作られたロックダウン・アルバムのひとつではあるのだが、マーシャルの場合はこれまで活動してきた南ロンドンと家族と暮らすリヴァプールを行き来する過程に強く影響されたとのことで、その地に足のつかない感覚を探ったようなところがある。サウンド的には相変わらず雑食的で、ブルージーな冒頭の “Filmsier” のイントロから、ポスト・パンクというかノーウェーヴ的にも聞こえる荒々しさを持った “Pink Shell”……と、序盤はキング・クルールを聴いてきたひとの意表を大きく突くものではないだろう。だが、続く “Seaforth” で少し違うぞ、と思わせる。これまで以上にメロディアスなギターが鳴るなかで、マーシャルが優しい歌声を聴かせる。なんてことのない弾き語りのギター・チューンのように……おそらく『Space Heavy』はこれまででもっともソングライティングにフォーカスしたアルバムで、これまでの投げやりにも感じられた彼のヴォーカルもかなり変化している。4歳の娘のマリナの名前がクレジットされているこの曲で、そして、マーシャルは父親として語りかけるように歌う。「僕たちは僕たちの間にある暗い日々を共有しているんだ」。
それから “That Is My Life, That Is Yours”、“Tortoise Of Independency” とダウナーなギター・ナンバーが2曲。“Empty Stomach Space Cadet” ではイグナシオ・サルヴァドーレスのサックスとともにキング・クルールらしいジャジーな感覚がムードを高めつつ、断片的なストリングスが抽象的な響きを残すアンビエントの “Flimsy” 辺りから、アルバムはより曖昧な領域に踏みこんでいく。ダークで陰鬱なジャズ・ロック “Hamburgerphobia”、マーシャルの気力のないヴォーカルに対して存外に爽やかなギター・ロック・チューンにも聞こえる “From The Swamp”、気鋭のソウル・シンガーであるラヴェーナが参加するアンビエント・ポップ “Seagirl”。気分が定まらない様をそのまま捉えているような危うさがここにはあるし、世界に対する混乱も家族に対する愛情も明瞭な形を見つけられないまま過ぎ去っていく。たしかに存在するのは、解決することのない憂鬱だ。
前作には社会に対する苛立ちや怒りがはっきりと入っていた。『Space Heavy』はそれを通過したあとで、あらたに家族を持つということとパンデミックという予想を超えた変化が自分の人生にやってきた心象をぼんやりと眺めているようなアルバムだ。湧き上がってくる娘に対する愛情と世界が壊れているという認識との間のどこかを彷徨い、自分の場所を見つけられない。これはいま、多くのひとが共有しうる感覚ではないだろうか。その言葉では捉えがたいタッチを追い求めるように、ギターは乱暴に鳴らされたり繊細に爪弾かれたりしながら、空間に溶けて消えていくようにはかない響きを残していく。
恐るべき子どもとしてアイコニックな佇まいでシーンに現れた頃を思えば、マーシャルは自身の人生を作品にダイレクトに注入するタイプだったということだろうし、それが彼の作品により複雑なニュアンスを与えることになった。人びとが忘れ去ったものとしてのビートニクに憧憬していた少年は――それはどこか厭世的な逃避でもあっただろう――若い父親になり、自分の小ささになおも震えている。そしてアルバムは、アブストラクトな美を頼りなく求めるような “Wednesday Overcast” で「多くのことが変わって、いまは多くのことが僕に意味を持っている」との言葉で締めくくられる。不安と憂鬱に苛まれながらも、変化することをどうにか受容するような一枚だ。
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4月の来日公演からそろそろ3か月が経とうとしている。楽しいはずなのにそれだけではない、あのえもいわれぬフィーリングの正体はなんだったのだろう。徐々に記憶が薄れていくなか、彼ら初のライヴ盤『Live at Bush Hall』を何度も聴き返しながら、あの日の感慨の答えを探りつづけている。冒頭 “Up Song” で友だち同士であることを強調するバンド BCNR が、主要メンバーの脱退を経て送り出した音楽は、いったいなにを暗示していたのか──
昨年12月のパフォーマンスを収録したこのライヴ盤が現時点での彼らの完成型であることは、O-EAST でのアレンジやセットリストが本作とおおむねおなじだったことからもうかがえる(当日初公開された新曲を除く)。すでに持っている手札を放棄し、新たにライヴで練り上げていった楽曲を収める『Live at Bush Hall』は、けして穏やかではなかっただろうここ1年の彼らの、試行錯誤の結晶だ。
解散せずおなじグループ名を引き継いだのだから、当然これまでの BCNR を特徴づけていた要素もある程度は継承されている。通常の4ピース・バンドにはない多彩さをもたらすジョージア・エラリーのヴァイオリンに、ルイス・エヴァンズのフルート&サックス。“Turbines/Pigs” や “Dancers” の終盤で聴かれるミニマル風の短い反復。あるいは “Laughing Song” で顔をのぞかせるディストーション、もしくは静と動の対比。
全体としてはしかし、だいぶ作風が変わった。全曲ヴォーカル入りなのが大きい。“The Boy” や “I Won't Always Love You” のように、ほとんどの曲が親しみやすい主旋律を搭載しているのはかつてない変化だ。どこか不穏でダークな気配が漂っていた1枚目とも、彼らなりにクラシック音楽を消化した2枚目ともまるで異なる世界がここに展開されている。端的にいえば、かなりキャッチーになった。
もっとも多くマイクを握るのはタイラー・ハイド(ベース)。彼女がシンガーとしての技術をしっかり身につけていたことに驚く。その声の震わせ方に脱退したアイザック・ウッドの影をみとめてしまうのはさすがにうがちすぎかもしれないが、来日公演時みごと日本語でMCをこなしてみせたメイ・カーショウ(キーボード)も、男性で唯一ヴォーカルを務めるエヴァンズもやむをえず歌っている感は皆無で、あらためてメンバーたちの底知れぬマルチっぷりを確認させられる。BCNR はひとりひとりがフロントマンたりえる技術や才能を持った集団なのだ。
重要なのは、歌ごころ満載なはずの本作が、逆説的に、ヴォーカリストの地位を下げているところだろう。歌い手が男女3人に分散されたことは、バンドの声をひとりの人格に代表させないというアティテュードのあらわれにほかならない(O-EAST ではさらにエラリーがヴォーカルを務める新曲も披露されている)。かねてより彼らはだれかひとりのバンドではないことを主張してきたが、にもかかわらずウッドの脱退がニュースとして価値を持ったのは、歌詞を書きメインで歌う彼が中心として機能する(もしくはそう見える)側面が少なからずバンドに具わっていたからだ(でなければ大して話題になるはずがない)。今回のライヴ盤で BCNR は、ほんとうの意味で中心を持たないバンドになったのだと思う。同時期に浮上してきたスクイッドにもブラック・ミディにもない BCNR の魅力のひとつは、(ホモソーシャルではないという点もさることながら)このフロントマンの欠如にある。かつてイーノはオーケストラのピラミッド構造に社会の縮図を見出していたけれど(紙エレ19号)、それにならえば全員が同列で対等の BCNR はまさに民主主義の実践者だ。
最良の瞬間は冒頭 “Up Song” に含まれている。「BCNR は永遠の友だち」という彼らの本質を要約する声明が叫ばれた直後──。静かに、ドシラソとシラソミが異なる楽器で反復されていく。カーショウのキーボード、マークのギター、エヴァンズのサックスはおなじ8分音符を奏でているにもかかわらず、絶妙にズレつづけ、けっしてぴったり重なることはない。「私はバラバラになり/半分になってしまった」と、ハイドがことばを添える。すれ違い、断片化が表現された途端、しかし今度はキーボード、ギター、サックスがおなじ河口に流れこみ、みごとユニゾンを成立させるのだ。「断片化されていること」と「一緒であること」がともに、友情を宣言するこの1曲で表現されている。
多様性の時代、ぼくたちは互いに異なっていることを美化し、称揚する。分断の時代、ぼくたちは信じるにたる共通の物語が欠けていることを強調し、悲歎にくれる。それ自体は必要なプロセスなのかもしれない。でもさらに一歩進んで、「あのひとも “おなじ” なんじゃないか」と想像してみること。
BCNR はとくに社会的なメッセージを発するバンドというわけではないけれど、自分たちのことを描いたとも解釈できるメタ的なこの曲で、時代の大いなる転換期を生きるぼくたちに小さくはない示唆を与えてくれている。互いにばらばらであると同時におなじ人間でもあること。それが彼らのいう「友だち」なのかもしれない。
同じ形の繰り返しで出来上がったビル群が作り出す蜃気楼のグリッチのような光景の上に、赤や緑に光る企業ロゴの花が咲いている。ビル群に近づいて各階層の細部が見えるようになっても、全身を覆い尽くす高密度な湿気を孕んだ夏の空気が、その光景は本当に蜃気楼なのかもしれないと私に思わせようとする。湿気に喘ぎながら少しでも澄んだ空気を取り入れようと顔を上げれば、忠誠だけが取り柄の騎士たちのように等間隔に並んだ監視カメラと目が合って別の息苦しさをおぼえ、歩道の中に居場所を見出そうと立ち止まれば、私のシャツの裾を掠めるように猛スピードで電動バイクが走り去ってゆく。そのバイクが吠えたてるクラクションのドップラー効果の余韻も、どこかで別の誰かに向かって吠えている別のクラクションにかき消されてしまった。
約四年ぶりに訪れた深圳の街は相変わらずサイバーパンクものの舞台のような、猥雑さと支配の曖昧なバランスの上に成り立っていた。以前、重慶に行ったときに現地の友人から「ここは『ブレードランナー』の街の造形にも影響を与えたサイバーパンクの街だ」と言われ、街全体に降り続いていた雨と、排水溝から立ち上る水蒸気がその話に説得力を持たせていた。しかし深圳はシリコンの街であり、今世紀に入ってから急成長したという街の成り立ちや、海沿いに位置して横長に成長しているという形状も含め、深圳の方がギブスンの小説に登場するスプロール化したLAや、『サイバーパンク2077』の中のLAに近いような印象がある。至る所に生える椰子もそのイメージの形成に協力しているようだ。
『ニューロマンサー』に登場する「チバ」ではあらゆるものが手に入るが、この街にもそんな印象がある。深圳のあるエリアには伊勢丹や東急のような、百貨店の形状をした建物が大量に並んでいるが、その中で売っているのはエルメスのスカーフやルイ・ヴィトンのトランクなどではない。ドローンや電子顕微鏡、あらゆる種類のディスプレイやチップなどである。深圳の友人から聞いた話だが、この街でそれなりのスキルを持っていれば、iPhoneを300ドル程度で作れ、さらにはカスタムまでできるらしい。この街にある程度のまとまった期間滞在して、自分でシンセサイザーやドラムマシンを作ることができたら楽しいに違いないと思い、いくつかのモールを少し徘徊し、店主が無造作に置いた茶器や、別の店の主と打ち合っている途中の碁盤の下で影になったガラス・ショーケースの中を覗いてみたが、ある種の実用品向けのものが多く、ピッタリ目当てのものはうまく見つけられなかった。どこかにはあるのだろう。
合理化と支配
北京がファシズムの力を使って推し進めるDX化に、深圳の存在がどれほど重要なのかは知らないが、見たもの全てがそのふたつを一直線に繋いでいるように思えてならない。レジに1ダースほどの決済ブランドが並ぶ日本と違ってWechat PayとAli Payのふたつの決済システムが非常に高い利便性を提供しているが、同時に国が個人の経済状況を把握することを容易にしている。街路に並んだ監視カメラは顔認証システムで警察と連携し、行動や経済状況から個人を格付けするシステムが出来上がっている。日本もマイナンバーをあらゆるものに紐づけることで経済状況や行動から体内まで把握しようとしているが、いまのところ利便性も安心も提供されず、国の方もうまく支配できるシステムを構築できないでいる。
中国の小学校ではスマートフォンのアプリを使ってやらなければいけない宿題が出るらしい。デジタルの時代に適応させるための教育の一環ではあるようなのだが、家にお年寄りしかおらず、スマートフォンがない家の子どもたちや、経済的な事情などでスマートフォンが買えない家庭の子どもたちには、その宿題をやる方法がないそうだ。家庭の経済格差が教育格差を生み、教育格差が経済格差の再生産に繋がるという話は前世紀から言われ続けているが、DX化でそれが目に見えて加速するとは全く思っていなかった。中国に限らず、この世界がすでにそうなっているが、健康状態についても同じことが言える。経済的に力のあるものはあらゆる医療にアクセスすることができ、スマートウォッチなどで日々の健康状態を管理し、時間の余裕の中でマインドフルネスなどを駆使して心身の健康の維持ができる。そしてまたビジネスに取りかかる。しかし、心身のいずれかにでも健康状態に困難を抱えていれば、経済的な力を得るまでの障壁も多くなり、負のループがそこに生まれる。
支配のシステムがうまく働けば、ある程度の利便性は確実に提供されるだろう。しかし、安心と安全が監視の強化によって提供されるかといえば全くそうではない。伊藤計劃が『虐殺器官』の中で書いたように、あるいはフーコーがアウトローと権力の構造的な蜜月関係について書いたように、それはまやかしなのである。市民にとってアウトローたちは危険な存在であるが、権力にとって危険な存在はアウトローではなく、その政敵である。治安が悪化すれば権力の側は「安心安全のために」というスローガンのもとで監視権力を強化でき、その監視は政敵に対して使われるのである。陰謀論のように聞こえるかもしれないが、日本共産党が公安の監視対象であるという事実が、この説を非常に説得力のあるものにしている。そして逆に完全にアウトローであるはずのカルトが権力の中枢にまで深く入り込んでいる。こうして権力は恣意的な善悪の空気を市民の中に作り上げていく。
少し前に、このコラムを載せているele-kingの編集長である野田さんに誘われ、ジェフ・ミルズの作品に合わせて洗脳をテーマにしたDommuneの番組に出演し、トークに参加した。内容は大雑把にまとめればミクロ、マクロ、あらゆる角度から洗脳を検証し、脱洗脳へ向かうために音楽がどう機能できるのかというものだった。話の文脈上、私はそのときに洗脳を「自律心を奪い、恣意的に操作すること」と定義づけようとしたが、それに従えば先に書いた支配の形は洗脳と呼ぶに相応しいものだろう。
私はこの番組にサイキックTVのTシャツを着て行ったのだが、これは「自律」を重要視しAnti-Cultを掲げるTemple Ov Psychick Youthの思想が、私を支えるバックボーンのひとつであり、私にとってのパーソナルな「自分だけの身体」「自分だけの精神」そして「自分だけの魔術」がとても重要で、ダンス・ミュージックをやる上で不可欠な要素だからである。
私の肉体
私にはずっとサイボーグ願望がある。それは幼少期にキカイダーやターミネーターなどへの憧れから生まれ、成長した後も塚本晋也の『鉄男』や、石井聰互とアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの『1/2 Man』、そしてクローネンバーグの諸作品などを経て、『攻殻機動隊』の草薙素子や『ニューロマンサー』のモリーへと引き継がれた。そこには冷たい金属が持つ生々しさや、クローム仕上げの眼窩へのフェティシズムと、自己決定あるいは自律の象徴であるサイボーグへの憧憬が同居している。先天的な要素でなく、純粋な自身の選択によって自分自身を形作りたいという願望である。身体的な部分では、この願望を少しでも埋めるために私はタトゥーを入れ、ピアスを着け、ネイルをしている。カリフォルニアのサイボーグ・コミュニティであるGrinderや、サイボーグ化によって色を聴くことができるようになった色盲の青年ニール・ハービソンにまつわる記事などを読んで希望を感じ、サイボーグ化が普及する未来を夢想していた。
身体の気軽な改造は、フィクションの世界ではもちろん可能である。冒頭でも少し触れたゲーム、『サイバーパンク2077』の中で「もう少し身体のベースにいろいろなヴァリエーションがあれば」とか「男/女の性別の境界をもっとグラデーションにしてほしい」など、要望はいくつかありつつも、私は大いに身体の改造を楽しんだ。ヘアスタイルやタトゥー、ピアス、ネイルはもちろん、眼球のデザインまで変えることができたし、モジュール化した身体を改造して、理想の戦い方を追い求めることができた。しかし、その過程で私は思わぬ気づきに頭を打たれることになった。理想の身体を手に入れるためにはお金が必要であり、お金のためにはあらゆる仕事をしなければならず、仕事のためには仕事を効率的にこなせる身体にならなければならなかった。『サイバーパンク2077』の世界は企業が支配するデフォルメされた極度の資本主義世界だが、いまの私たちが生きるこの世界にもその兆しのような事象は多々見受けられる。
私たちのほとんどはスマートフォンを外部記憶装置として機能させ、インターネットに繋がることと社会的なつながりを持つことをほぼ同義とし、テクノロジーなしには生きていけない身体になっている。これをある種のサイボーグ状態と呼ぶことは的外れではないだろう。テクノロジーによる身体の改造という点では、レーシック手術や美容整形も近いポジションに置くことができる。「もっと良い視力を手に入れたい」「もっと好きな顔にしたい」、こう書けば「先天的な要素でなく、純粋な自身の選択によって自分自身を形作りたいという願望」に合致するように思えるかもしれないが、パイロットが仕事を続けるためにレーシックをしたり、社会が持つルッキズムに劣等感を煽られての美容整形や、企業のルッキズムを抱えた審査をパスして仕事にありつくための美容整形をするとなったら、話は全く変わってくる。自分が望んだのか、何かに望まされたのか。
社会は「売春」を悪とし、売春をおこなっていない者は汚れがないかのように振る舞っているが、ゴダールが「全ての職業は売春である」と語ったり、マーク・フィッシャーが「生きることの不可避な売春性」と語ったように、自身を物として売ることが避けられない社会になっている。アンディ・ウォーホルが「誰でも15分は世界的な有名人になれるだろう」と言った世界から55年が経ち、SNSが支配する「スマートフォンひとつで稼げる、誰にでもチャンスがある時代」になったらしいが、これは自身を物として売ることがさらに簡単になったというだけの話なのではないか。そして買う側の基準に見合わなかった人の困難が「自己責任」で片付けられるようになっているように思えてならない。この市場の原理が身体をも支配するのが現代のサイボーグである。これは私が理想とし、憧れたサイボーグ像とは全く異なったものだ。私が憧れたサイボーグはいつ自律を獲得することができるのだろうか。
そして私の精神と魔術
17世紀に世界から魔術が失われ、純粋理性は悩みを抱える人間に対して「太陽光に当たってセロトニンを分泌させましょう」あるいは「この薬を飲めばそんなことは忘れて働けます」と説くようになった。私は以前、自身の抱える問題の解決の一助になればと臨床心理士のカウンセリングにかかったことがある。人選を間違えたのかもしれないが、話の行き着くところは「仕事ができるか」だった。私の精神が物質と経済活動における有用性へと分解され、全く自分のものではないかのような経験をすることになった。痛みを取り除くためにはシステムに身を委ねるか、寝そべり族のように太陽光を浴びながらシステムの崩壊を待つかしかないのだろうか。しかし、私は確実にその痛みを取り除き、束の間ではあるが私の精神に解放をもたらす場所をふたつ知っている。ひとつは多くの人が経験があるだろう利害関係に依らない人と人の愛情の中であり、もうひとつが暗闇に鳴る重低音の中である。「低音とエコーの向こう側」というのは私も所属するBS0Xtraのコピーであり、Protest Raveでもセッティングのときに低音を重要視している。「ONLY GOOD SYSTEM IS A SOUND SYSTEM」という言葉があるが、サウンドシステムという祭壇が放つ重低音という魔術は、何度も私の精神を救ってきた。私の精神が救われたことに対して、純粋理性や再魔術化後の世界がどういう説明をするかは知らないが、私はあくまで重低音と私の精神との関係の中に、自分だけの魔術を見出したいのである。
Temple Ov Subsonic Youth
行動を支配し、肉体を支配し、そして精神を支配する。徐々に伸ばされてきた支配の触手。私はサイボーグとしてそれらに抵抗し、自身を守り、一時的にでも自律を感じたい。「自分だけの身体」「自分だけの精神」そして「自分だけの魔術」を手に入れるための儀式として、私は自分が望んだ装飾で身を覆い、ドラムマシンやシンセサイザーを外部の臓器とし「半分人間」の状態から重低音を響かせてみることにした。その儀式の名前は「Temple Ov Subsonic Youth」。このプロジェクトは、私が持つ解放へのパトスとポスト・ヒューマン的フェティシズムが絡み合った欲望のために始まった。願わくはこの欲望が、ダンスフロアを共にした者たちそれぞれの欲望に火を着けんことを。
アルバムごとにそのサウンドの表情を変え、より表現力を豊かに、そして幅を広げてきているアンソニー・ネイプルスですが、新作『Orbs』では、前作『Chameleon』(2021年)の方向性も踏襲しつつ、アンビエント・テクノ〜ダウンテンポの傑作アルバムを仕上げてきました。
2010年代の幕開けとともにニューヨークのアンダーグラウンドではじまった彼のキャリアと言えば、そのDJプレイも含めてローファイなハウス・サウンドの要といった印象で、〈Mister Saturday Night〉〈The Trilogy Tapes〉、もしくは自身の〈Proibito〉でのそうしたハウス路線のシングル群で注目を集め、2018年にはフォー・テットの主宰レーベル〈TEXT〉からファースト・アルバム『Body Pill』をリリースし、その評価を確かなものにしたというのが初期のイメージです。
本作へと通じる転機と言えそうなのが、その後にフランスの〈Good Mornign Tapes〉と自身の〈ANS〉からリリースしたアルバム『Take Me With You』(2018年)。すでに『Body Pill』でも片鱗を見せていたアンビエント・テクノ〜ダウンテンポ方面へのアプローチをさらに深めたアルバム・サイズの作品で、それ以前のシングルとはまた違った側面をみせはじめました。続く2019年のアルバム『Fog FM』も、いやこれも傑作でありまして、初期のハウス路線とその後のリスニング路線のバランスの良い配合のアルバムで、「ダンスもの」のアルバムとして非常にクオリティの高い作品を出してきたなという印象でした。このあたりでサウンド的にも初期のローファイな音質から、クリアでカラフルなサウンド・イメージへの変化も感じるられるものでした。
そしてコロナ禍を挟んでリリースした2021年の『Chameleon』。多くのDJ出身のクリエイターたちがロックダウンな凡庸なアンビエントに埋没してしまった印象にあったあの時期に、キャリアのなかでも初めてとなるドラムやギター、生楽器のサウンドを取り入れたある種のポスト・ロック的な手法でダウンテンポ・アルバムを作り上げ、その色鮮やかな色彩のサウンドも相まってシーンに鮮烈な印象を与えました。同時期には「Club Pez」、2022年にはドイツの老舗重要ハウス・レーベル〈Running Back〉からもシングル「Swerve」をリリースし、こちらでは相変わらず高品質のハウス・トラックもリリースしています。
こうした自身の活動とも併走しながら、〈Proibito〉を閉じた後に写真家でDJでもあるジェニー・スラッタリーと共同で設立した〈Incienso〉の運営においても、たびたびこの欄で作品を紹介していますが、ゴリゴリのクラブ・トラックから、DJパイソンを世に送り出したり、朋友フエアコ・Sのアルバムなどリスニングに主眼を置いた作品まで幅広くリリース、シーンの枠を広げるような多彩かつエポック・メイキングな作品をリリースし続けています。
で、前段が長くなりましたがこうした動きを俯瞰し、これを補助線とすると、全く納得の音楽性を獲得したとも言えるのが本作ではないでしょうか。ボーズ・オブ・カナダを彷彿とさせるチルアウトなブレイクビーツ・ダウンテンポ “Moto Verse” でスタートするわけですが、こうしたダウンテンポ感覚や、例えば “Orb Two” “Gem” “Tito” などでつま弾かれるギターとエレクトロニクスの融合を果たしたサウンドは前作『Chameleon』での成果を感じさせる音楽性です。ただし、クリアな解像度の『Chameleon』に比べて、全体的な音質はわりと今回はローファイですね。そしてわりとフィーリング的に、「ニューエイジ〜バリアリック過ぎない」というのも本作の絶妙なムードを決定している要素で、そのあたりはグローバル・コミュニケーションなど1994年あたりのアンビエント・テクノを参照したようなメランコリックなムードを携えた『Take Me With You』を踏襲する感覚ではないでしょうか。
またアルバムの中盤を締めるマイルドでスローなイーヴン・キック・トラック “Ackee”、“Scars”、そしてアルバムのハイライトとも言える “Strobe” あたりは、絶妙なダブ・ミックス具合も含めて、初期のローファイなハウス感を思い出したかのようなトラックでもあります。アルバム全体に対して、ここにはめ込まれた抑制されたハウス・グルーヴの見事な流れにとにかくハッとさせられるわけです。このセンスの良さ。これまでの作品、そして〈Incienso〉の作品群にも言えることですが、ある種のリスニング向けの作品で実験性の獲得や音楽性の拡張をしながらも、どこかダンス・ミュージック的な快楽性があるというのは彼の重要な立ち位置ではないでしょうか。こうした流れにDJ的な感覚が働いているのはもちろん間違いないでしょう。穏やかなサウンドながら昨年のフエアコ・S『Plonk』と同様に、リスニング・テクノを新たな地平線へと押し出すそんな確かな力強い意志を、その高いクオリティから感じさせる作品です。
