「IR」と一致するもの

Kim Gordon - ele-king

 ダニエル・ジョンストンの追悼記事の冒頭にしたためた、サーストン・ムーアが私にサインを求めたくだりは彼がソロ作『The Better Days』リリース時に来日したさいの取材現場だった。2014年だからいまから5年前、その3年前にアルバム『The Eternal』につづくツアーを終えたソニック・ユースはサーストンとキム夫妻の不和で解散したことになっていた。「解散した」と断定調で書かなかったのは、グループ内──というかサーストンとキムのあいだ──に認識のズレないし誤解があるかにみえ、また私も当時いまだナマナマしかったこの話題について当人に真意をたださなかったからだが、この差異は永遠に解消しないかもしれないしやがて時間が解決するかもしれない。とまれ夫婦仲には第三者の考えのおよばない影も日向もあり、つまらない詮索は野次馬趣味にさえならないとすれば、愛好家にすぎないものはのこされた音源にあたるほかはない。私もソニック・ユースの、編集盤や企画盤、シングルやEPをふくめると数十枚におよぶ作品を四季おりおり、二十四節気をむかえるたびにひっぱりだして聴くことがつとめとなってひさしい。いましがたも、霜降にあたる本日なにを聴くべきか思案に暮れていたところだが、今年はなにやらこれまでといささか事情がことなるようなのである。

 なんとなれば、キムが、キム・ゴードンが新作を発表したのである。私はキムの新作といえば、ソニック・ユースの自主レーベルから2000年に出た『ミュージカル パースペクティブ』以来なのか、近作だと『Yokokimthurston』(2012年)がそれにあたるのか、としばし黙考してはたと気づいた。キムは過去にソロ作がないのである。上記の『ミュージカル パースペクティブ』もモリイクエ、DJオリーヴとの共作だったし、後者は表題どおりオノヨーコと元夫との連名である。90年代、プッシー・ガロアのジュリー・カフリッツとともに──のちにボアダムスのヨシミとペイヴメントのマーク・イボルドなども一時参加──気を吐いたフリー・キトゥンはバンドであってもソロではない。80年代から数えると長いキャリアをもつ彼女にソロ名義の作品がないのは意外ではあるが、むろんキムも手をこまねいていたわけではない。先述のツアー後のバンド解体から2年の服喪期間を経て、2013年にはビル・ネイスとのユニット「Body/Head」をキムは始動している。2本のノイズ・ギターが巣穴の蛇さながらからみあうなかをキムの朗唱と朗読ともつかない声が演劇的な空間性をかもしだす Body/Head の音楽性はその名のとおり、身体と思考、男と女、ギターと声といったいくつかの二項対立を背景に、しかし構想先行型のユニットにつきもののアリバイとしての音楽=作品のあり方に収斂しない芯の太い内実をそなえていた。彼らは数年おきに『No Waves』(2016年)、『The Switch』(2018年)を発表し、ノイズの深奥を探る活動をつづけているが、ソニック・ユース時代はサーストンとリー・ラナルドという稀代のノイズ・メイカーの影でかならずしも「音のひと」とはみなされなかったキムの音への触知のたしかさ──それはすなわち即興する身体の充溢でもある、そのことを──語り直すかのようでもあった。その一方で、西海外に出戻ったキムはサーフィンを中心にアートも音楽もひとしなみに俎上にあげるアレックス・ノストとグリッターバストなるデュオを併走し、Body/Head のファーストと同年にセルフタイトルの一作を世に問うている。ちなみにグリッターバストとは90年代のノイズ・ロックの一翼を担ったロイヤル・トラックスの楽曲タイトルの引用である。ロイヤル・トラックスは断線気味の頭中のシナプスをアンプに直結するかのごとき元プッシー・ガロアのニール・マイケル・ハガティのギターと、場末の呪術師を想起させるジェニファー・ヘレマの声を基調にしたユニットで、本邦では〈Pヴァイン〉の安藤氏が重要案件の隙を突いてせっせと世に送り出しつづける〈ドラッグ・シティ〉のレコード番号1番を彼らが飾ったのはいまいちど留意すべきであろう。“Glitterbust”はロイヤル・トラックスの1990年のアルバム『Twin Infinitives』の収録曲で、土管のなかで音が飛び交うような音響空間はガレージのロウファイ化とも形容可能だが、90年代に雨後の筍のように派生したオルタナティヴの突端といったほうがしっくりくるだろうか。パートナー関係にあったハガティ、ヘレマの作品からの引用は邪推をさそいもするが、おそらくそれ以上に、キムにとってこの数年は共同体のくびきをのがれ過去の積みのこしを精算する期間だったのであろう。というのもまた邪推にすぎないとしても、バンド解体後の助走期間がなかりせば、ソロ作『No Home Record』はこれほどふっきれたものになったかどうか。
 逆にいえば、ソニック・ユースはロック史とリスナーの記憶にそれだけしっかりと根をはっていたともいえる。
 むしろ怪物的な風情さえたたえていた。その活動はサーストンとリー・ラナルドとの出会いにはじまる。彼らがグレン・ブランカのギター・アンサンブルの同窓であることは本媒体のそこかしこや拙著『前衛音楽入門』にも記したのでそちらをあたられたいが、このふたりにサーストンのガールフレンドだったキムが加わり体制の整った彼らは1982年の同名作でデビューにこぎつけた。ファーストのジャケットに映るおおぶりのメガネをかけたキムはいまだ美大生だったころのなごりをとどめているが、バンドのサウンドもまた70年代末のノーウェイヴの影をひきずっていた。ブランカ直系の和声感覚とパンク的なリズムにそのことは端的にあらわれている。その一方で、キムの静かに燃焼するヴォーカルをフィーチャーした“I Dream I Dreamed”などは彼らをおくれてきたノーウェイヴにとどめない広がりをしめしていた。むろん80年代初頭、音楽にはのこされた余白はいくらでもあり、余白を切り拓くことこそ創作の営みであれば、ソニック・ユースほどそのことに自覚的だった集団は音楽史をみわたしてもそうはいない。その触手はロックにとどまらず、各ジャンルの先鋭的な領域にとどき、作品数をかさねるごとに山積した経験は音楽性に循環し、86年の『Evol』でドラムスがスティーヴ・シェリーへ代替わりしたころには後年にいたる指針はさだまっていた。『Sister』ははさみ、1988年に発表した『Daydream Nation』はその起点にして最初の集成というべき重要作だが、“Teenage Riot”なる象徴的な楽曲を冒頭にかかげ、疾走感と先鋭性とアクチュアリティを同居させたサウンドは不思議なことに彼らの根城であったアンダーグランドの世界を窮屈に感じさせるほどのポピュラリティもそなえていた。

 1990年の『Goo』で大手ゲフィンに移籍したソニック・ユースの活動は同時代のグランジや、その発展的総称ともいえるオルタナティヴのながれでとらえる必要があるが、高名な論者の夥しい言説があるので本稿では迂回することにして、ここで述べたいのはメジャーに活動の舞台を移してからというもの、いよいよ多方面にのびる彼らの「創作の営み」でキムのはたした役割である。キムは美大出身であることはすでに述べたが、卒業後彼女はアート方面でのキャリアを夢見てニューヨークにたどりついていた。80年代初頭のことである。当時をふりかえり、コンセプチュアル・アートの第一人者ダン・グハラムは2010年に開催した個展で来日したさい以下のように述べている。
「初めて会ったとき、彼女は途方に暮れていました。当時のボーイフレンドとニューヨークに来るはずが、彼は同行せず、キムは彼に僕を頼れと言われてこの街にやってきたんです」
 グラハムがキムにブランカを紹介し、彼のサークルにいたサーストンと彼女は出会う。だれかとの別れがべつのだれかとの出会いを演出することは、槇原敬之あたりにいわれるまでもなく世のつねではあるが、日々の営みをとおして出会いがどのような果実を実らせるかはまたべつの次元の話であろう。その点でサーストンとキムは、ひいてはソニック・ユースはバンド内の関係性の手綱を巧みにさばいた典型といえるのではないか。ことにメジャー・デビュー以後、洋の東西を問わず、感覚とセンスが主導した90年代においてフィジカル(音盤)は音楽の伝達ツールである以上にヴィジュアル言語の表現媒体として重要な役割を担っていた。そのような潮流を背景に、ソニック・ユースがアートとも高い親和性をもつバンドとして巷間に認知を広めたのも、ひとえにキュレーターであるキムの目利きに由来する。ダン・グラハムとも親交をもつジェームス・ウェリングの写真をもちいた85年の『Bad Moon Rising』を嚆矢に、『Daydream Nation』のゲルハルト・リヒター、『Goo』のレイモンド・ペティボン、『Dirty』(1992年)のマイク・ケリー、21世紀に入ってからも2004年の『Sonic Nurse』でのリチャード・プリンスなどなど、彼らはアートワークに音楽の衣としてその内実を反照するよりも聴覚と視覚の交錯のなかに生まれる三角波を聴き手に波及させる効果を託していた。これはまったくの余談だが、私は以前在籍した雑誌にペティボンの作品を掲載したいと思い、本人に連絡をとり、おそるおそる掲載料を交渉しようしたら、その作品は俺の手を離れているから金はいらない、使うなら勝手に使ってくれとの返事とともにデータが送られてきたことがある。人的物的を問わず権利の管理に汲々するエンタテインメント産業(新自由主義体制下においてマネジメントとは監視と防禦すなわちセキュリティの別称である)とは真逆の、これがDIY精神かと感動した(いまどうなっているかは知りませんよ)ものだが、キムにとってのアートも、グラハムしかり、ケリーとかトニー・アウスラーとかリチャード・プリンス(は他者作品の無断転用のカドで何件かの訴訟を抱えていたはずである)とか、ことの当否はおくとしても、既存の審美眼の視界を侵すものとしての意味合いをふくんでいたのではないか。
 映像やファッションも例外ではない。『Dirty』収録の“Sugar Kane”のMVに若き日のクロエ・セヴィニーを起用したのもキムのアイデアだというし、X-Large にかかわっていたビースティ・ボーイズのマイクDのつてでキムが姉妹ブランド X-Girl を90年代初頭にたちあげたのはことのほか有名である。そう書きながら、私は思わず目頭が熱くなったのは、なにかが老いる以上に骨抜きになる感覚を禁じえないからだが、歯ごたえのないノルタルジーなど犬も食わない。
 そのことをキム・ゴードンは知り抜いている。ソニック・ユース解体後、彼女はグラハムも所属するニューヨークの303ギャラリーに加わり、今年フィラデルフィアのアンディ・ウォーホル美術館とダブリンのアイルランド近代美術館で個展をひらいている。遠方のこととて、私は未見だが、「Lo-fi Glamour」と題した前者の、ペインティングというより広義の「書」とさえとれる「Noise Painting」シリーズの血のようにしたたるアクリル絵の具の筆致には、90年代に好事家を欣喜雀躍させた彼女の手になるアートブックに宿っていた速度感を円熟の域に昇華した趣きがある。いや円熟ということばはふさわしくないかもしれない。なにせ「Lo-Fi」であり「Noise」なのだから、おそらく2019年のキム・ゴードンはフランスの批評家ロラン・バルトになぞらえるなら、継起と切断のはてにある新章としての「新たな生」のさなかにある。

 『No Home Record』ほどそのことをあらわしているものはない。このレコードはキム・ゴードンのはじめてのソロ・アルバムであり、9曲40分強の時間のなかにはキムの現在がつまっている。プロデュースを(おもに)担当したのは、エンジェル・オルセン、チャーリー・XCXからヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルまで、手広く手がけるジャスティン・ライセンで、年少の共闘者の伴走をえて、キムの音楽はフレッシュに生まれかわっている。そう感じさせるのは、このレコードがバンド・サウンドよりもプログラムによるビート感覚を主眼にするからだが、音色とともに目先をかえてみました的なみてくれ以上に、作品の基底部を支えるデザイナブルな志向性がたんにノイジーな印象にとどまらないダイナミックな聴感をもたらしてくる。ソニック・ユースの結成後に生まれたライセンらの世代にとってはおそらくノイズも楽音も音響であることにはかわりなく、ロックというよりもエレクトロニック・ミュージックの方法論が裏打ちする点に『No Home Record』の画期がある。とはいえ“Air BnB”のようにソニック・ユースを彷彿する楽曲も本作はおさめており、聴きどころのひとつでもあるが、それさえも多様性のいちぶにすぎない。ソングライティングの面でソニック・ユースを体現していたのはサーストンにちがいないとしても、キムの声と存在感がバンドに与えていたムードのようなものの大きさを、私は2曲目の“Air BnB”を耳にしてあらためて思った、その耳で全体を俯瞰すると、レコードではA面にあたる1~5曲目ではポップな方向性を、6曲目の“Cookie Butter”以降のB面では前衛的な志向を本作はうかがわせる。とはいえときに四つ打ちさえ打ち鳴らす本作は難解さとは遠い場所にある。90年代のキムであれば、このことばにあるいは眉を顰めたかもしれないが、『No Home Record』の現在性が難解さを突き抜ける力感をもっているのはたしかである。他方歌詞の面では断片的なことばをかさねイメージの飛躍をはかっている。主題となるのは、住み慣れた東海岸の住居をたたみ故郷であるLAに戻ったのに、ふるさともまた時代の波に洗われて変わってしまった──というようなある種のよるべなさだが、ことばの端々に感じるのはその状態から逃れようともがくのではなく、そこにある自己をみつめる透徹したまなざしである。
 いうまでもなく「Home」の語にはいくつかのふくみがある。かつて「No Direction Home」と歌ったボブ・ディランの巨視的なヴィジョンともキムのホームは鋭くすれちがっている。

Lone - ele-king

 アクトレス主宰の〈Werk Discs〉から『Ecstasy & Friends』を送り出し、その後〈Magicwire〉からの『Emerald Fantasy Tracks』や〈R&S〉からの数々のリリースで、ぐんぐん知名度を上げていったプロデューサーのローンが来日する。今年は自らのレーベル〈Ancient Astronauts〉を始動させるなど新たな動きも見せているだけに、これは注目の公演だ。11月22日は VENT へ。

Radiohead からGilles Petersonまで
ジャンルを超えたレジェンド達が注目する才能、Lone

〈R&S〉を筆頭に、〈Dekmantel〉や〈Werk Discs〉などの人気レーベルからの作品が大人気! 今年には新レーベル〈Ancient Astronauts〉を始動するなど絶好調な活動を見せるエレクトロニック・ミュージック新世代を代表するアーティスト Lone (ローン)が11月22日の VENT に初登場!

UKのレイヴやデトロイトのテクノに影響を受け、ポスト・ダブステップ旋風が吹き荒れる時代にさっそうとシーンに現れた Lone。Actress 率いる〈Werk Discs〉から2009年にリリースしたアルバム『Ecstasy & Friends』が早耳リスナーの話題になり、2010年
の『Emerald Fantasy Tracks』、そして2012年に名門レーベル〈R&S〉からリリースした『Galaxy Garden』で一躍、世界的プロデューサーの地位にまで上り詰めた。

2011年には Radiohead にリミキサーに選ばれ、2014年には Gilles Peterson が Lone の“2 is 8”をベスト・トラックに選んだりと、Lone の才能はジャンルを超えたトップ・アクトにも認められている。過去には Redbull 主催の EMAF Tokyo や Taico Club などにも出演し、大きな舞台で日本のクラウドにも素晴らしい才能を披露してきた。Boards of Canada にも比肩される孤高のプロデューサーの VENT デビューは要注目だ!

イベント概要
- Lone -

DATE : 11/22 (FRI)
OPEN : 23:00
DOOR : ¥3,600 / FB discount : ¥3,100
ADVANCED TICKET : ¥2,750
https://jp.residentadvisor.net/events/1334405

=ROOM1=
Lone
DJ Conomark
Frankie $ (N.O.S. / KEWL)
shunhor (breathless / euphony)

=ROOM2=
Shintaro & Gradate (haktúːm)
Ueno (Charterhouse Records / sheep)
Jeremy Yamamura
Kyohei Tanaka
KATIMI AI

VENT:https://vent-tokyo.net/schedule/lone/
Facebookイベントページ:https://www.facebook.com/events/402200657399623/
※ VENTでは、20歳未満の方や、写真付身分証明書をお持ちでない方のご入場はお断りさせて頂いております。ご来場の際は、必ず写真付身分証明書をお持ち下さいます様、宜しくお願い致します。尚、サンダル類でのご入場はお断りさせていただきます。予めご了承下さい。
※ Must be 20 or over with Photo ID to enter. Also, sandals are not accepted in any case. Thank you for your
cooperation.

interview with Floating Points - ele-king

 まず弦の響きに驚く。やがて極小の電子音が静かに乱入してくる。終盤、両者は混じり合い、高速スピッカートなのかエレクトロニクスなのか判然としない音の粒子が烈しく舞い乱れる。冒頭の“Falaise”が高らかに宣言しているように、弦(と管)がこのアルバムのひとつの個性になっていることは疑いない。ストリングスは4曲目“Requiem for CS70 and Strings”や10曲目“Sea-Watch”でも効果的に活用されており、そういう意味ではフローティング・ポインツによる4年ぶりのこのアルバムは、昨今のモダン・クラシカルの文脈から捉え返すことも可能だろう。
 が。やはり、それ以上にわれわれを惹きつけるのは、そのエレクトロニックかつダンサブルな側面だ。2曲目“Last Bloom”のエレクトロ、3曲目“Anasickmodular”や7曲目“Bias”におけるダブステップ~ジャングルの再召喚、そして先行シングルとなった“LesAlpx”の4つ打ちなんかを耳にすれば、いやでも身体を揺らさずにはいられない。他方で8曲目“Environments”の音の響かせ方はある時期のエイフェックスを想起させるし、穏やかな“Karakul”や“Birth”では細やかな実験が展開されている。サム・シェパードの雑食性が見事に花開いたアルバムと言えるが、ようするに、テクノなのだ。
 デビューから6年ものときを経て届けられたファースト・アルバム『Elaenia』(2015)によって、クラブ系以外のリスナーにまでその名を轟かせることになったフローティング・ポインツは、新たなファンの期待に応えるかのようにバンドを結成し、「Kuiper」(2016)や『Reflections』(2017)でロック的なアプローチを追究していったわけだけれど、ここにきて彼はふたたびダブステップやテクノの躍動と、実験に立ち戻っている。何か大きな心境の変化でもあったのだろうか?
 本作でもうひとつ注目しておくべきなのは、そのテーマだろう。たとえば“Environments”はリテラルに「環境」を意味しているが、「僕にとって、『Crush』は、じわじわと僕らを蝕んでいく破壊行為を想起させる」と、サム・シェパードはプレスリリースで語っている。「つまり、利己主義に凝り固まった政治的権力闘争、気候変動、抑圧された思想や人びとといった圧倒的に不可避な物事──日常的に僕らが怒りを覚えているこうしたすべてのことにたいし、無力だと感じてしまうような」。
 フローティング・ポインツがポリティカルな要素を直接的に作品とリンクさせたのは、おそらく今回が初めてだろう。プラッドがそうだったように、シェパード青年もまたこの暗黒の社会のなかで怒りに打ち震えている。その怒りが生み出した、しかしあまりに美しい音楽に、わたしたちは耳をすまさなければならない。(小林拓音)

今回、デジタルじゃなくて本物の楽器が使いたかったんだよね。本物の楽器を使って、その音をデジタルの楽器であるかのように扱いたかったんだ。僕からしたら同じなんだ。だから、このアルバムの曲の根本はぜんぶストリングスなんだよ。

今回ヴァイオリンやヴィオラ、チェロを入れようと思ったのは?

サム・シェパード(Sam Shepherd、以下SS):じつはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、クラリネット、フルート、バスクラリネットとフレンチホルンを使ってるんだ。僕は1日じゅうストリングスを聴いていられるほどストリングスが大好きなんだ。天国の音に聴こえるんだよね。でも木管楽器って忘れられがちな気がするんだ。とくに僕自身が忘れてたりすることが多いんだけどね(笑)。トーク・トークのフロントマンのマーク・ホリスのアルバムに木管楽器の音がたくさん使われていて、僕自身はそのアルバムの曲のアレンジはそこまで好きだとは言い切れないんだけど、サウンドは大好きなんだ。すごくオリジナルで美しい音だったから僕もいつか自分の曲でそういう音を使ってみたいなと思ったんだ。

ローラ・カネルはご存じですか?

SS:知らないなぁ……名前のスペルは? 聴いてみるよ。

いまはエレクトロニック・ミュージック全盛の時代ですが、そういうヴァイオリンのようなストリングスの音が逆に求められているのかなという気もしていて。どう思います?

SS:僕は今回、デジタルじゃなくて本物の楽器が使いたかったんだよね。本物の楽器を使って、その音をデジタルの楽器であるかのように扱いたかったんだ。僕からしたら同じなんだ。1曲目はストリングスや木管楽器がふつうにスピーカーから鳴っていて、そこからブクラ(Buchla:モジュラー・シンセサイザー。かなり特定されたもの)に通して、リブートして、音を細かく切って、その切った音をデジタルな音として扱ったんだ。

エレクトロニクスとストリングスの融合が今回のテーマだった?

SS:まったくそのとおりだよ。

冒頭“Falaise”の最後のほうで鳴っているシンセはヴァイオリンのようで、まさに両者の区分が融解しているように聞こえます。

SS:モジュラー・シンセサイザーはすごくテクニカルなんだ。ほんとうはオシレイター(oscillator)っていう、シンセサイザーの音のもとになる波形をつくり出す発振器でベーシックな音をつくるんだ。そのベーシックな音をプロセシして、音楽的な音にするんだけど、今回はオシレイターの代わりにヴァイオリンを使ったんだよね。まるでヴァイオリンがこのデジタル機材の一部であるかのように扱った。だから、このアルバムの曲の根本はぜんぶストリングスなんだよ。機械でプロセスして、フェイドインさせたり、フェイドアウトさせたりしているストリングスの音なんだ。「プロセスする」っていうのは、フィルターに通したり、パンを振ったりしてるってことね。サラウンド・サウンドなんだ。

現代音楽、クラシカルはよく聴いていたんですか?

SS:クラシカルしか聴いてなかったね。エレクトロニック・ミュージックやジャズやソウルを聴きはじめたのは14歳か15歳のときだったかな。目覚めるのが遅かったんだ。僕がそのとき聴いてたエレクトロニック・ミュージックはカールハインツ・シュトックハウゼンとかモートン・サボトニックのようなクラシカル・エレクトロニック・ミュージックで、カール・クレイグとかそっち系ではなかったんだ。

ダブステップやジャングル的なリズムの曲もありつつ、全体としてはテクノのトーンで、それが見事にストリングスと合体している──今回こういうアルバムにしようと思ったのはなぜですか? 少し前まではバンド・サウンドを追求していましたよね?

SS:Elaenia』はエレクトロニックだったんだけど、バンド・サウンドになるポテンシャルがすごくあるアルバムだったんだ。ギターやドラムの音も入っててね。だからバンドにしたんだ。アルバムを聴いたときに「バンドとしてできる!」って思ったんだよね。バンドとして世界中をツアーでまわって、よりバンドっぽくなっていって、つねにライヴしてたんだ。毎日毎日ライヴ、ライヴ、ライヴ……。それで僕ら、いや、僕の音が変わったんだよね。サイケデリック・ロック・バンドのサウンドになってしまったんだ。そのツアーが2017年のコーチェラで終わって、僕は自分のスタジオに戻ってふたたび音楽をつくりはじめた。でも、もうこのときはバンドとしてっていうのは終わったので、ひとりで帰って、ひとりでつくりはじめたんだ。べつにバンドに飽きたわけじゃなくて、ちがうことをやりはじめただけなんだよね。『Elaenia』の前はテクノっぽい感じの音楽をずっとやってたし、『Elaenia』はちょっとしたバンド・フェイズだったってだけなんだ。ツアー終了と同時にそのフェイズが終わって、僕はひとりでスタジオに戻って、それまでやってきたことに戻ったんだ。だからこのアルバムは本能的というか、より直感的なものなんだよね。僕と機材だけ。僕が愛してる音楽はそういう音楽なんだ。サイケデリック・ロックも大好きだけど、テクノも大好きなんだ。

ユースセンターや更生施設に力を入れずに警察に権力を与えまくっていることが腹立たしいよ。理解不可能だ。あとは医療制度だね。お金がないと病院に行けないっていう制度には怒りを感じるよ。

今回の『Crush』はいつごろからつくりはじめたんですか?

SS:今年の2月だね。3月にはつくり終わってたよ。5週間でできたんだ。

制作にあたり「Shadows EP」(2011)を聴き返したそうですが、原点回帰のような意識が?

SS:僕は自分がつくった音楽はあまり聴かないんだ。だって世の中はもっといい音楽で溢れてるでしょ(笑)? べつに聴き飽きてるわけではないけど、つくってるときに聴きまくってるからちょっと離れたくなるんだよね。でも何年か後に聴いたりすると、なんか予想外というか……まったくちがう聴き方ができて、自分がつくったものじゃないかのような感じがしたりするんだ。わくわくするんだよね。深い意味があって聴いたりするわけじゃないんだけど、「Shadows」はもうちょっと長くやっていたかったって気持ちはあるんだ。その気持ちにたいする答えが『Crush』なのかなって思う。僕はいま「Shdows EP」がすごく好きなんだ。8年くらい前につくったんだけど、聴くといまでもわくわくするんだ。

『Crush』をつくる際にとくに参照した作品やアーティストはありましたか?

SS:ものすごいスピードでできたんだ。32年間音楽を聴いてきた僕がいて、ロンドンにある僕の大きな、機材がぜんぶ置いてあるスタジオがあって、機材が正常に動いているのを確認してくれるティムって言う仲間がいたから作業がすごく早くなった。このアルバムはスピーディに作業ができた結果みたいなものだと思うんだ。激しかったよ。音楽を聴いて「こういうふうにしたいなぁー」とかはなかったんだ。アルバム制作中は音楽を聴いてなかったからね。ゆっくりめの曲もピアノの前に座って淡々とできていった、溢れ出てきたって感じだったよ。

《Sónar 2019》でのDJはすごくダンサブルかつ多様なセットでしたが、今回のアルバムがこのようなスタイルになった理由は?

SS:いい質問だねぇ。僕の頭のなかでは、僕がいままで聴いてきた音楽が乾燥機状態になってるんだ。頭のなかで転がりまわってるんだよね。で、僕のスタジオのなかにはブクラやコルグやローランドのようなエレクトロニックな楽器がたくさんある。だから僕のつくる音楽がエレクトロニックなサウンドなんだ。たとえば僕がスタジオに行って、ヴァイオリニスト4人が座ってたとしたら、僕はきっとヴァイオリンの音楽だけをつくるだろう。たとえば「LesAlpx」のBサイドの“Coorabell”って曲なんかはドラムを全部ローランドの新しいドラム・マシーンでつくったんだ。それで8分もあるこの曲のベースを、淡々と10分でつくったよ。できちゃったんだよね。
 やっぱりエキサイティングじゃないといけないと思うんだ。エレクトロニック・ミュージックをつくるうえで僕がたいせつだと思うのは、たとえばチェロ奏者。チェロを弾くには、楽器を抱えて、包み込んで弾かないといけない。だから、チェロの演奏をみると、そのチェロの音を通り越して演奏者の心の音まで聞こえると思うんだ。エレクトロニックの機材だとそれが難しいと思うんだよね。自分と機械だからさ。リスナーがその機械を通り越してアーティストの心が聞こえるようにするには、機材のことを知り尽くさないといけないと思うんだ。これは絶対。

『Elaenia』は音響的にけっこうクリアでしたが、今回は良い意味で濁りがあって、たくさん細やかな音が入っています。それは意図的にやりました?

SS:それもつくりあげたスピードが関係してるんだと思う。今回使った機材はツアー中でも使ってる機材で、曲を早く流したり、ディテールを足すこともできるものなんだ。でもたまに、手を離したら何もコントロールできなくなる状態のセッティングにするんだ。だからつねに機材の舵を取ってないといけないんだよね。前作よりちょっと乱雑な音になっているのはそれが原因かな。ぜんぶセッティングして、機材に声を与えたんだ。でも舵は僕が握っている。野獣に手綱をつけて、暴れすぎたら引く感じって言えばいいのかな。

怒りの根本は、僕たち人間が時間を無駄にしていることからきてると思うんだ。でも希望はある。このアルバムをつくったときは絶望を感じていたし、怒ってたけど、希望がなければ何も正せないと思うんだ。希望は捨てちゃいけない。

本作の背景には「政治的権力競争」や「環境変動」などがあるようですが、やはりいまのUKの情況に影響されたんでしょうか?

SS:グローバルな情況だね。どの問題もちょっと似ていると思う。UKやアメリカ、ブラジルなどでは右派の政治が増えていて、それにしたがって独立主義も増えているんだよね。この世代にとってはほんとうに悲しいことだと思うし、それにたいして闘わないといけないと思うんだ。僕はこの問題についてなら延々と話せるよ。

そういったポリティカルなことを明確に作品とリンクさせたのは今回が初めてですよね?

SS:そうだね。このアルバム以外の作品はもっと抽象的なものばかりだったと思うな。「自分の信じているものを最前線に」っていう形でやったんだけど、それは自分の信じてることが正しいと思ってるからなんだよね(笑)。

いま何にいちばん怒ってる?

SS:毎日ちがうんだよね。たとえばUKでは青少年犯罪がすごく増えているのに、政府はどんどんユースセンターを減らしているんだ。ユースセンターや更生施設に力を入れずに警察に権力を与えまくっていることが腹立たしいよ。理解不可能だ。あとはヘルスケア・システム(医療制度)だね。僕はすべての人間がヘルスケアにアクセスできて当たり前だと思ってる。お金がないと病院に行けないっていう制度には怒りを感じるよ。ほかにも怒ってることはたくさんあるけど、僕が生きている限りずっと怒りを感じ続ける問題は、ヘルスケア・システムだろうね。いまでもつねに頭をよぎるからね。

なぜ今回のアルバムはそういうものとリンクしたんだと思いますか?

SS:リンクしているかどうかは正直はっきりわからない。今年の初めごろに僕は、人生でこれまで感じたことのないほどの絶望を感じていたんだ。その気持ちが僕の音楽に浸透したのは間違いないと思うけどね。修道士のように毎日スタジオにこもる。毎日毎日。僕はそこにいないといけないんだ。でもそれと同時に僕は、世界から自分を締め出してしまいたくないんだよね。だからつねにいろいろ読むんだ。僕自身がより意識するようになったからなのか、ニュースがどんどんひどくなっていってるからなのかわからないけど、確実に読むニュースのひどさに意識が向いているんだよね。そのニュースが僕に怒りを感じさせているし、その怒りから生まれてきた曲も確実にあるんだ。ピアノに向かって「よし、いまからボリス・ジョンソンについて曲を書くぞ」っていう感じでつくってるわけではないんだけど、自分の心が勝手に、つくる曲に反映されているとは思うんだよね。

今回アルバムをこのような構成にした意図は?

SS:けっこう難しかったよ。最初はアップテンポで次第にゆっくり、って順番で並べてみたりもしたんだけど、ぜんぜんしっくりこなかったんだよね。その並べ方だとソフトな曲を聴いてもリラックスできないって思ったんだ。友だちのキーレンとふたりでいろんなコンビネイションを聴いてみたりしたよ。キーレンはシーケンスをすごく助けてくれたんだ。“Sea-Watch”だけはちょっと多めにスペースを与えたいって思ってね。ほかの曲との距離感をたいせつにしたかったんだ。

“Sea-Watch”はアルバムのなかでもとくに静かな曲ですよね。

SS:人道的活動グループの曲なんだ。地中海に船を出して難民を救う団体なんだけど、イタリア政府は認めていない。キャロラ・ラケット(Carola Rackete)っていうドイツ人女性の船長がいて、彼女の船だけで500人の難民を救ってるんだよね。彼女やその団体の人たちはイタリアの政府からしたら犯罪者かもしれないけど、僕はほんとうのヒーローだと思ってるんだ。政治家は揉めているだけだけど、この人たちは危険な海に出て、行動を起こして、人を救っているからね。

8曲めはいきなり唐突に終わります。これは怒りですか?

SS:トラックリストある? 8曲めがどの曲かわからないんだ(笑)。……ああ、“Environments”か。このアルバムは、どの曲もけっこう重めでディテールが強いドラムスが入ってるんだよね。メロディのほうはけっこうピアニスティックでシンプルでメロンコリックだけど。“Environments”の場合はピアノがゆっくり忍び寄る感じで入ってきて、悲しみの感覚が曲の最初から最後まで存在してるんじゃないかな。でもその悲しみのうえに怒りもつねにいる感じなんだよね。曲の最後はすべてがぐるっと回転したかのような激しい怒りで終わるんだ。このアルバムをライヴでやるときがきたら、きっともっと大きな怒りを表現するんだろうなと思うよ(笑)。

そしてアルバムは“Apoptose”という連曲で終わります。「アポトーシス」と聞くと暗い印象を抱く人もいるかもしれませんが、これにはどういう意味が?

SS:僕は学校に行って生物学者になったから、こういう言葉は日常的に使うんだよね。家のキッチンから出てすぐの壁に、プログラムされた細胞死(アポトーシス)のポスターを貼ってるんだ。オタクっぽいって言われるんだよね。友だちとかが家にくると「なんでこんなポスター貼ってんだよ」って突っ込まれるし。だから僕はふだんから「アポトーシス」って言葉に触れてるんだよね。「アポトーシス」って言葉の響きが好きなんだ(註:黙字を発音して「アポプトーシス」と読むことも)。「ポップ!」ってさ、なんかシャボン玉がはじけるような、かわいい音というか。暴力的には聞こえないんだよね。なんか……良いことのようなさ。ぜんぜんいいことじゃないんだけどね(笑)。曲も悪いことを指してるし。でも言葉の響きはいい。「ポップ!」って。日本語だと風船が割れる音をどう表現するの? パン? パン! 英語だと「ポップ!」なんだよね。「ア・ポップ!・トーセス」。その響きが好きなんだ。曲中のドラムスの音もはじけてるような音になってる。ディデールがたくさん詰め込まれた曲だからいろんな音がはじけてるように聞こえると思うんだよね。アポトーシスは末期というか、細胞が死ぬ、ようするに終わりだからアルバムの最後に持ってきたんだけど、そんな悲しいとか暗い終わりって感じじゃなくて、単純に終わりって感じで最後にしただけなんだよね。

こちらの考えすぎだったかな?

SS:いや。この曲はたまたまゆるい感じの曲なんだ。逆に“Sea-Watch”とかにはすごく献身的な意味がある。クリアな意味というか。でも“Apoptose”はゆるめなんだ。

今回のアルバムは、オプティミスティックですか? それともペシミスティック?

SS:オプティミスティックだね。“Birth”は新しい命を祝福する曲だし、いま僕らが目の当たりにしている環境問題や政治問題は人間がつくってしまった問題で、だから人間で正せる問題なんだ。新しく生まれてくる人間たちでね。怒りの根本は、僕たち人間が時間を無駄にしていることからきてると思うんだ。でも希望はある。このアルバムをつくったときは絶望を感じていたし、怒ってたけど、希望がなければ何も正せないと思うんだ。希望は捨てちゃいけない。

Stereolab - ele-king

 1993年から2004年にかけてのステレオラブは、1970年代のデヴィッド・ボウイにも似た活躍を見せ、毎年、新しくて非凡な作品をリリースしていた。個々の作品は単体で見ても優れているのだが、全体として捉えてみると、それがバンドの成長と進化の記録そのものとなって我々を魅了する。

 今回のキャンペーンで再発されるのは、グループ(彼らはたびたび自分たちのことを“group”ではなく“groop”と称する。発音は同じだがgroopには「排水溝」という意味がある)がこの期間にリリースした7枚のスタジオ・アルバムだが、この数字だけでは、当時のステレオラブがどれほど旺盛に制作を行っていたかを説明するにはいささか物足りない。7枚のアルバム以外にも、2枚のミニアルバム、2作品からなるコンピレーション・シリーズ『Switched On』、さらには前衛音楽の伝説的バンド、ナース・ウィズ・ウーンドとコラボレーションした数枚のEPが、同じ時期に生み出されているのだから。彼らに関して興味深いのは、結成して活動を始めたときからバンドとしての完全な形態を成立させており、下積みの期間を飛び越えて、そのままデビューアルバム『Peng!』と複数のシングルとEPを完成させ、それを『Switched On』の1作目に繋げたことだ。

 ステレオラブの下地となっているのは、1980年代のイギリスおよびアイルランドのギター・ポップ・シーンである。このころティム・ゲインが中心メンバーだった騒々しく反抗的な左翼バンド、マッカーシーに、レティシア・サディエールが加入し、バンドにとって最後の(そして最高傑作である)アルバム『Banking, Violence and the Inner Life Today』が制作された。マッカーシーの歌詞は、1980年代のイギリス左派による政治闘争を主要なテーマとしており、しばしば皮肉を込めて、敵対する政治スタンスをあえて標榜し、そうすることで相手の明らかな不合理や偽善を風刺しようとした。マッカーシーの最後のアルバムを聴けば、そこからステレオラブのサウンドが芽生え始めていたことがわかる。ギターの騒がしい音はわずかに鳴りを潜め、それまで以上に瑞々しく多層的なキーボード主体のサウンドが“I Worked Myself Up from Nothing”などの楽曲に現れている。このアルバムでとりわけ興味深い楽曲が“The Well Fed Point of View”で、マッカーシーの定番とも言える、敵の立ち位置を歌に乗せて風刺する手法を採用している──この曲では、自身の幸福と感情の安寧は本質的に個人の問題だと捉えるべきだと聴き手をけしかける。反面、この世界にある残酷さと不公正さもまた、個人に帰する問題だとしている。マッカーシーが言外に主張しているのは、これらは本来、個人の問題ではなく社会の問題だということだ。こうして培われた思想の中核が、やがてはステレオラブの世界観の根幹を成すことになる。すなわち、個人の問題と、社会的もしくは政治的問題の間には、切り離せない相互関係があるということだ。

 ステレオラブが活動を始めたころ、バンドは主にロンドンのミュージシャンたちと交流を持っていた。こうした集まりは「自画自賛の界隈」などと軽蔑されながらも、後のブリットポップに繋がる、何でもありのインディー・ロックシーンを形成していた。当時ステレオラブの周辺には、スロウダイヴ、チャプターハウス、ラッシュなどのシューゲイザーのバンド、またはマッドチェスターの残り火から熱を受け取って早々に名を上げたブラーのようなバンド、そしてシー・シー・ライダー、ガロン・ドランク、ザ・ハイ・ラマズなどの一風変わったパフォーマンスをするバンドなどが存在していた。初期のステレオラブのサウンドには、周囲から受けたさまざまな影響が渾然となっていて、マッカーシーが築いたものをある程度引き継ぎながら、ギターポップとシンセサイザーを組み合わせるだけでなく、シューゲイザーや実験的ポップスの要素も取り入れられている。

 他に初期の彼らに多大な影響を与えたのがクラウトロック、とりわけノイ!というバンドの存在だった。1992年に壮大な叙事詩的傑作『Jehovahkill』をリリースしたジュリアン・コープとともに、ステレオラブは90年代初めにクラウトロックへの注目が再燃した際に中心的役割を果たした。その影響が何よりも華々しく描かれているのが、新たに〈Warp Records〉から再発される作品の中でもっとも古い『Transient Random-Noise Bursts with Announcements』である。再発されるアルバムの中でも──そしておそらくステレオラブの全アルバムのなかでも──これがバンドにとってもっとも荒削りで、獰猛なサウンドの作品だ。冒頭の曲“Tone Burst”は素っ気なく始まるが、次第にサウンドは分裂し不協和音の層に溶け込んでいく。それでいて、このサウンドを際立たせるのがサディエールによる幻想的で夢のような歌詞だ。このように粗さと優美さを並列させるスタイルは、次の“Our Trinitone Blast”でも続き、ヴォーカルは前面に出る声と後ろを支える声に分かれ、片方が粗野に歪めば一方が甘く歌うというように、まるでラッシュのようなハーモニーを奏でている。“Golden Ball”では、間断なくかき鳴らされるギターコードとともに、特定の箇所で明らかにテープが途切れたかのような効果が再現され、ノイ!のセカンド・アルバム後半で積極的に採用されているような、故意に曲のスピードを変化させる一筋縄では行かない演出を真似ている。対して“I'm Going Out of My Way”では、ほとんど若者向けのバブルガム・ロックと言っていいようなガレージ・ロックのグルーヴを取り入れ、ひたすら反復を続けることでトランス・ミュージックに似た作用を引き出している。

“Pack Yr Romantic Mind”では、ステレオラブの原動力を示す別の重要な一面が見られる。それは、情念もしくは冷笑主義のどちらかに裏打ちされたサディエールの抑揚のない平板な歌い方と、その後ろに聞こえるメアリー・ハンセンによる「ba ba ba」という歌声との間に生まれる相互作用だ。また、『Transient Random-Noise Bursts』が、ザ・ハイ・ラマズのメンバーだった(その前はアイルランドのインディー・バンド、マイクロディズニーのメンバーだった)ショーン・オヘイガンを正式に迎え入れ、初めてその存在を前面に出して制作されたステレオラブのフルアルバムだという点も見逃せない。この時点で、オヘイガンはギター・ポップからより実験的な方向へという自身の転向を踏まえてバンドを導いていた。そこにはブライアン・ウィルソン、ヴァン・ダイク・パークス、バート・バカラック、フィル・スペクターの他、多くのアーティストの影響があった。アルバムの持つ粗さにもかかわらず、“Pack Yr Romantic Mind”のような曲を聴くと、このころから前衛的なイージーリスニングの影響を受けるようになったことが明白だ。これは後にステレオラブの作品においてますます重要な特色となるものであり、ザ・ハイ・ラマズの1994年のアルバム『Gideon Gaye』にも、オヘイガンによる特色として現れている。それでもやはり、この歌とアルバムの他の曲との共通点をひとつ挙げるなら、それはマントラのような繰り返しに専念していることで、歌詞はひとつのフレーズを途切れることなく何度も復唱するものになっている。

 しかしながら、ノイ!が用いたような4ビートのモータリック・サウンドこそが、『Transient Random-Noise Bursts』の特徴としてもっとも強力なもので、楽曲“Jenny Ondioline”の要となっている。歓喜に満ちた18分の歌を構成するのは、のらりくらりと奏でられるキーボード、幾層にも重なるシューゲイザーのギター、反抗的でありながら純真さのあるサディエールの独特な歌声であり、そうした寄せ集めの中で、無限に広がる至福の音が神々しいまでの領域に達している。

 『Transient Random-Noise Bursts』がステレオラブのもっとも荒削りなアルバムであるとすれば、1994年の『Mars Audiac Quintet』は、もっとも激しい怒りが歌われているアルバムかもしれない。明るい曲調の“Ping Pong”の軽快なメロディーは、それまでにない都会的なポップ・サウンドで、同時期に日本で渋谷系と呼ばれ始めていたものと類似する。だが、表面的には前向きなこの曲も、歌詞を見ればその様相が一変する。マッカーシーの戦略を引き継いで、語り手は作詞者の真意とは対極にある考え方を持ち、安心させるような口調で、世の中のことで悩むのはやめるようにと聴き手を促す。

「心配いらない 歴史のパターンはもうわかっているから/経済のサイクルがどんなふうに回っていくか/何十年という周期の中で 3つの局面が繰り返し現れる/不況と戦争があっても そこから挽回して元に戻り さらに上を目指していく」

 この架空の語り手は、厳しい時代でも悩むことはないと聴き手を煽る。なぜなら「ものごとは自然に良くなっていく」からであり、「凄惨な戦争があって死ぬのは数百万人 だから心配いらない/せいぜい彼らの命とその次の世代の命が失われただけのこと」と強調する。最終的には、社会の現状に対してメンバーたちが抱く怒りや不安が、「悩まなくていい 何も言わず そのままでいい 受け入れて幸せになりなさい」という言葉で封殺されていることを明らかにする。

 “Three Longers Later”は、平和を実現するという名目で戦争を行うことの不合理について語る。これは、徴兵制度によって家族から父親を奪われた子供の目を通して描かれる──作詞をしたサディエールの祖国フランスでこの徴兵制度が終了したのは、アルバムリリースの2年後だった(そして本稿執筆時の2019年夏、現大統領エマニュエル・マクロンが何らかの形でこの制度を復活させようと試みている)。このテーマを表現するため、楽曲は童謡と言っていいほど穏やかなメロディーから始まり、やがて爆発してスペースロックと呼ぶにふさわしいクライマックスを迎える。

 “Transporte sans Bouger”では、ますます断片化していくように見える世界を嘆く。人びとは空しい「仮想の夢」の中で生き、「隣人のことを知る必要がない」夢の世界で「一定の距離を置いて愛し合う」。1994年には、まだインターネットが人びとの生活に深く浸透していなかったことを考えれば、これは見事な先見性ではないだろうか。徐々に失われていく友好的な地域社会を懐かしむというのは、いくぶん保守的な考え方だ。だが、ステレオラブは左派としてのスタンスにもかかわらず、現在の問題の解決策を探るために過去を振り返ることを決して厭わなかった。
“International Colouring Contest”は、エキセントリックな音楽家で塗り絵帳の制作者であるルチア・パメラの持つ、創造性と宇宙時代的な楽観主義に対する賛辞のようなものだ。曲の冒頭は、ルチア・パメラによる「私の頭の中はアイデアでいっぱい 最高のアイデアを教えてあげる!」という高らかな声のサンプリングから始まっている。ステレオラブは、創造性とは根本的な変革をもたらすものであり、自由の概念と密接につながっているという意識に繰り返し立ち返っている。

 反対に、想像力を発揮するための道筋を塞いでしまうものがあれば重苦しく感じられるだろう。“L'Enfer Des Formes”は、冷笑的な態度が、変化をもたらすための行動をどのように阻害するかということを述べ、クラウトロックの影響を受けた“Nihilist Assault Group”は検閲制度と道徳的な危機を題材に、それがいかに批評的な感性を潰えさせ、問題を効率的に対処するためのあらゆる現実的な手段が犠牲になるかということを描く。“Wow and Flutter”とアルバムを締めくくる“New Orthophony”は、現在の状況を避けられないものとして受け入れるのではなく、異議を唱えることの必要性に触れる。

 『Mars Audiac Quintet』では、前作同様クラウトロックのリズムセクションの技法に頼っているが、それとともに、紛れもなくアヴァンポップの分野に進んでいる。“Ping Pong”に加えて“L’Enfer Des Formes”もまた、表面的には明るいポップなメロディーを奏で、一方“The Stars Our Destination”と“Des Etoiles Electroniques”では、リズムマシンによる陽気なループ音と、夢幻的なシンセと、絡み合うヴォーカルのメロディーラインが組み合わさって流麗で重層的なサウンドを生み、バンドが進む新たな方向性を示している。

 歴史を辿る旅の次なる停車駅は、1996年の『Emperor Tomato Ketchup』だ。本作でこのバンドのサウンドは完全に刷新されているが、それにもかかわらずステレオラブとすぐに認識できる特徴が残っている。前作までと同様、バンドは前進する過程において過去の芸術を参考にしていて、例えばタイトルは日本の劇作家で映画監督の寺山修司による1971年の同名の映画(『トマトケチャップ皇帝』)から取られたものであり、ジャケットのアートワークは1960年代にリリースされたベラ・バルトーク作曲の『Concerto for Orchestra』のジャケットを下敷きにしている。やはりステレオラブにとってお馴染みの要素がアルバムの中核を成しており──繰り返しのリズム、多層的な音作り、あえて外した曲調のポップス、作用しあうサディエールとハンセンのヴォーカル、そしてマルクス主義を遠回しに表現する歌詞──たとえ今作でいっそう洗練された姿へと進化していても、その点は変わっていない。

 最初の“Metronomic Underground”では、クラウトロックの中でもファンク寄りの部分、つまりノイ!ではなくカンのようなサウンドを引き出しているが、フレーズの繰り返しとドラムのループが変わらず全体を包みながら、それぞれの歌がモータリックのリズムを刻み続ける。例えばアルバムと同タイトルの楽曲“Emperor Tomato Ketchup”や“Les Yper Sound”では、そこにヴォーカルが融合し、数々のアルバムのなかでもとくに甘美でポップなメロディーが用いられている。華麗な“Cybele's Reverie”はプルースト風の内省によって記憶を巡り、ステレオラブのポップ・ミュージックへの傾倒を踏まえて、より豪華でオーケストラ的な演出を志向している。一方他の場面では、バンドは繰り返しとループ再生を探求する中で、さらに新しくて興味深い手法を発見しており、それはミニマル・ミュージックの“OLV 26”や左右のギターが鏡合わせのように鳴らされる“Tomorrow is Already Here”といった曲で窺える。

 歌詞においては、それまでのアルバムと比べてさらに抽象的な世界を探求しているが、このアルバムが個人と社会の関係性というテーマをもっとも明示的に扱っていると言えるかもしれない(少なくとも、ステレオラブの全作品の中で、確実にこのアルバムが一番多く「社会」という言葉を使用している)。“Spark Plug”は、個々の人間やあるいは人間の集団が見せる内なる生命の輝きを、抽象的に捉えるのではなく、実際にあるものとして認識することの重要性を描く。“Tomorrow is Already Here”では、本来は社会に資するために用意された、いくつもの制度が、今では対象を抑圧する元凶となっていることに着目する。対して“Motoroller Scalatron”は、子供向けの歌のように質問と答えを歌詞にするという構成になっていて、社会というものが脆弱な基盤の上に成り立っているのだと語り、現在の社会を維持するには、脆弱な基盤が確かに存在し、そしてそれがしきりに変動しているという考えを共有するしかないと述べる──そして皮肉なことに「言葉の上に築かれた」社会では、我々が言った言葉、あるいは言わないことを選択した言葉が、最後には計り知れない結果を招くことがあるのだとも述べる。

 そしておそらく、さらに意義ある変革が、次のアルバム『Dots and Loops』で成された。『Emperor Tomato Ketchup』がリリースされたのと同時期に、シカゴ出身のバンド、トータスが画期的なアルバム『Millions Now Living will Never Die』をリリースし、その少し前にはドイツ生まれのデュオ、マウス・オン・マーズがセカンド・アルバム『Iaora Tahiti』をリリースしていた。3つのグループはいずれも、急速に拡大したにもかかわらず定義が曖昧なままだったポスト・ロックというジャンルのなかで大きな役割を担った。1990年代当時のポスト・ロックを理解するには、ジャーナリストのサイモン・レイノルズの記述がもっとも適しているだろう。「ロックの楽器編成をロックではない用途に使い、ギターはリフやパワーコードを奏でるのではなく、音色や響きを補助するものとして使用される」

 コラボレーション相手としてマウス・オン・マーズを選び、トータスのジョン・マッケンタイアをプロデューサーに迎えたことで、『Dots and Loops』はポスト・ロック黎明期の才能がぶつかり合う場となった。ディストーションのかかった電子音で始まり、そのまますぐに軽快なブレイクビーツに続く“Brakhage”では、サディエールが夢のような声で、消費主義の影響を受けて感覚が麻痺してしまうことを嘆く。一方、先行シングルの「Miss Modular」は、ラウンジ・ミュージックの美しい作品で、歌詞は、戯れや神秘、そして目の錯覚といった比喩に言及している──抽象的な比喩表現のために主題がわかりにくいかもしれないが、フランスの状況主義(人の行動は状況によって決定されるところが大きいとする考え方)の先導者ギー・ドゥボールが消費主義を批判したその著作『スペクタクルの社会』にバンドが親近感を抱いていることからも明らかなように、こうした比喩表現が暗示しているのは、人為的なもの──すなわちスペクタクル──が現実と想像、あるいは歴史と終わらない現在の違いを見極める人間の能力を圧倒してしまうときに、社会的な関係性がより広い意味を持つということであるのは確かだろう。このアルバムに特定のテーマがあるとすれば、それは孤立かもしれない。社会や近しい人たちからの孤立だけでなく(そして個人と社会は不可分だとするステレオラブの世界観を考えれば必然的に)自我や自身の感覚からの孤立もまたテーマである。

 マッケンタイアとの関係は続く2枚のアルバム、1999年の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』と2001年の『Sound Dust』でも続き、その2作には、共同プロデューサーとしてジム・オルークが加わった。『Dots and Loops』に比べればエレクトロニック・サウンドはあからさまではなく、この2枚のアルバムでは、バンドはジャズの影響を取り入れて純然たるアヴァン・ポップの方向に進んでいった。

 『Dots and Loops』が孤立の感覚を携えているとすれば、『Cobra and Phases』はバンド史上もっとも希望に満ちた音が鳴るアルバムである。少なくともその要因の一端は、ゲインとサディエールの間に子供が誕生したことにある。それは“People Do it All the Time”ではっきりと言及されていて、歌詞では、創造的営みの混沌たる作用である生命の誕生を大いに喜んでいる。「混沌のなかから創造が生まれる/ひとつの形に結びついて/酒飲みが正気になるように」そして子供は希望で満たされるべき器であると位置づけ「あなたにはのびのびと育ってほしい/私たちが守っている古い考えを蘇らせて」と宣言する。

 自由に育っていくことは「古い考えを蘇らせる」ことと両立しなければならないという考え方は、ステレオラブが繰り返してきた、前に進むには振り返ることも必要になるだろうというテーマに対する新しい切り口だ。アルバム全体を通して、(単なる誕生や発見ではなく)生まれ変わりや再発見というイメージが繰り返し登場する。“The Free Design”でサディエールは「願いが届きいつでも復活させられる/私たちにできるのはプロジェクトを再生させるだけ」と歌い、過去のプロジェクトで未完成のまま残されたものがあることをほのめかしている。一方“Puncture in the Radax Permutation”に登場する「孤独に歩む人の形をしたもの」は、それが「五感を取り戻」そうとする姿を通して「自分の歩調を再発見する」ことの象徴として描かれる──新しさとは過去を振り返ることに結びついている、そして、生命のサイクルと生まれ変わりが意味するのは、新しいものは必ず何か古いものと同一であるということだ。そのような考えが、ここで再度強調されているのかもしれない。

 『Cobra and Phases』は官能的なアルバムで、最初と最後には愛についての歌が並び、大地と自然のイメージに何度も立ち返っている。本作は、サディエールが女性として生きることをはっきりと単刀直入に歌っている希有な事例であり、フェミニズムのテーマが「Caleidoscopic Gaze」や、クラウトロックにわずかながら回帰した「Strobo Accelleration」で前面に出ている。

 『Cobra and Phases』では楽観的な姿勢が念頭にあったが、『Sound Dust』はさまざまな意味でステレオラブのもっとも陰鬱なアルバムで、資本主義に内在する人間性の剥奪と社会の抑圧を扱うテーマに戻っており、“Gus the Mynah Bird”では「自己決定とは事実として存在しなければならない/本来は権利などではない」と断言して、資本主義は偽りの自由を提供し、嬉々として社会の抑圧と結託するのだと示唆する。“Space Moth”で参考にしているのは2人の映画監督、ジャン・ルーシュとエドガール・モランで、彼らによる1960年の映画『ある夏の記録』は、フランスの多様な人々、なかでもとりわけ労働者階級の人々にとっての幸福をテーマに、幸福とは政治と自由に密接な関連があるという考えのもと、戦争、検閲制度、人種の問題に触れ、ホロコーストを痛切に描いている。この歌の「人間はその職に応じて変わる」というフレーズは、再度、資本主義を自由と相反するものとして位置づける。

 “Nothing to Do with Me”の歌詞は、イギリスの風刺作家クリス・モリスによる陰気でシュールなコメディーから直接引用されている。そのテレビ番組『ジャム』は、不気味なアンビエントミュージックを短編コメディーに組み合わせ、タブーを破り、ドクターと呼ばれる人種は利他的な人々ではないという描写を用いたことで、イギリスで議論の的となった。モリスが描くドクターは、しばしば混沌の仲介者となる。それは自分たちに頼る人々の信頼を不明確な理由で悪用する権威の象徴である。「私の娘に1ポンドのヘロインを処方したの?」と歌の途中でサディエールは尋ねる。他の箇所では、顧客と依頼人という微妙に異なる立場の関連性に混乱が生じ、ひとりの女が配管工に頼みごとをする。「先日は本当に助かりました/おかげでボイラーが直りました/今度はうちの赤ちゃんを直してくれませんか/あの子はもう3週間も動かないの」どちらの例においても、社会的な関係性が悪用されているのだが、社会的に定められた当事者同士の関係性は、それでもなお形式的には妥当な手続きに守られており、穏やかで理性のある様子を見せることは、他者を威圧する非常識な人間に付け入られることに繋がる。

 だが、それ以上に『Sound Dust』は二重性についてのアルバムだと思われる。ステレオラブの曲の多くが、対立する概念を考察して真理に至ろうとする弁証法的アプローチを採用し、2つの対立する勢力や立場に折り合いをつけることを論じていて──命題とそのアンチテーゼがあってこそ、総合的な判断ができるということだ──その構造が変わらず存在する。「Baby Lulu」の歌詞は「両極端なものは一致していた/即興を奏でる/合理的にそして詩的に/すぐに矛盾を見極めながら」と述べている。そしてこれは、バンドにとって、これまででもっとも率直に邪悪という概念に向き合ったアルバムだということでもある。「Naught More Terrific than Man」の歌詞に「ふたつの対極点が人の歩みを導く」とあり、対極点のうちのひとつが邪悪そのものとして描かれる。そして「Suggestion Diabolique」では、邪悪の概念が明らかに聖書を意識した内容で表される。メロディーの華麗さや温かさや美しさは、歌詞の暗さや厳粛さと相まって、アルバムのテーマと同様の二重性を有している。

 このような特徴は、アルバムの音楽的な構成にも反映されており、多くの曲がふたつのパートで構成されている。曲の前半と後半では、メロディーもアレンジも、まったく別のものが展開される。もっとも際だった事例が、楽しげな“Captain Easychord”で、生と死のサイクルというテーマに戻り、それを突き詰めた結果、もっとも基本的な息を吸って吐くという行為のサイクルによってそのテーマを表現している。

 『Sound Dust』はメアリー・ハンセンが参加した最後のアルバムとなった。ハンセンが翌年、交通事故で他界したからだ。今回の再発キャンペーン最後のアルバムとなる2004年の『Margerine Eclipse』には、ハンセンに捧げるという側面がある。楽曲“Feel and Triple”では直接別れに言及し、“Need to Be”では、今あるものを認めるために、痛みや寂しさや死への恐れを受け入れることの必要性を語り、そして“…Sudden Stars”では、愛に向き合って喪失の悲しみを尊重することを伝える。

 当時のヨーロッパやアメリカの政治状況もまた、アルバムのあちらこちらに影を落としている。それは、アフガニスタンやイラクでの戦争、自分たちの中にムスリムという「他者」がいることで具体化したテロの恐怖の増大、そしてますます過度になる国家の監視という姿で現れている。“La Demeure”はこの他者への恐怖を描き、“Bop Scotch”は、我々は自由と安全を天秤にかけられるのかという問いかけを論じる。

 死と恐怖が影を落としているにもかかわらず(あるいは、だからこそと言うべきか)『Margerine Eclipse』はステレオラブのもっとも明るいアルバムのひとつでもあり、また、間違いなくもっともファンク寄りのアルバムで、豊かで濃密なシンセとベースのサウンドが派手に鳴らされながら推進する。そしてこれはもっとも明確に愛を謳ったアルバムであり、最後の曲“Dear Marge”では愛することと学ぶことを関連づけていて、反面、愛と共感が欠けていれば人は学ぶことも成長することもままならないという含みを持たせている。

 『Sound Dust』と同様、弁証法的な構成が『Margerine Eclipse』の基礎を作っている。『Margerine Eclipse』では、ミックス時にすべての楽器の音が極端に右か左にパンをした状態で配置されていて、左右それぞれのサウンドが独立して成立していながら、それでいて同時に聴いたときに2つが統合されるように設計されている。

 この期間に製作された作品を聴いた上で改めて問うてみよう。ステレオラブにとって、バンドとして本当に重要なことは何だろうか?

 このバンドを理解するためのひとつの手段は、同じ時代の見地から彼らを探ってみることだ。この7枚のアルバムは、ソビエト連邦の崩壊に始まり、2001年9月11日にワールドトレードセンターが攻撃され冷戦後のアメリカにもはや敵はいないという意識が粉砕された10年間と、密接に重なっている。

 経済学者フランシス・フクヤマによって「歴史の終わり」と表現されるこの時代には、社会全体が持つ大規模な想像力が通用しなくなったという特徴がある。20世紀に繰り広げられた巨大なイデオロギー同士の闘争は終焉を迎え、自由資本主義が勝利を収めた。それに取って代わるものは存在しなかった。そして評論家マーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」と呼んだ考え方が浸透した結果、さまざまな未来の展望が示されても、すべてが必ずしも「二番煎じ」とは限らなかったにもかかわらず、それらを一律に実現不可能なものとして扱う風潮が生まれた。

 この考え方こそ、ステレオラブが繰り返し非難してきた敵そのものだ。『Mars Audiac Quintet』収録の“Wow and Flutter”の歌詞が、それをもっとも明快に表現している。

 「IBMはこの世界とともに誕生したのだと思っていた/アメリカの旗は永遠に漂うのだろう/冷淡な敵対者は早々にいなくなった/資本家はこれからもついていかなくてはならない/それは永遠でも不滅でもない/そう きっと変わっていくだろう/それは永遠でも不滅でもない/化石のような法律なのだから」

 資本主義リアリズムは人の想像力に制限を加えることで、狡猾で抑圧的な力を持つ。そしてステレオラブにとって、これを克服するには、意識を高く持ち、独創的な(そして夢想的な)精神を発揮するより他にない。状況主義の誕生と、1968年のパリで起こった五月革命(学生たちの運動に端を発したフランスの社会的危機で、世界中の社会運動に多大な影響をもたらした)で示されたように、個人の創造性と構想力が発揮される類まれな瞬間に、社会にショックを与えて、ひとつのサイクルを終わらせ、世のなかを新しい段階へ引き上げることができる。ちょうど『Emperor Tomato Ketchup』のジャケットに描かれた螺旋のように、変わらず周回を続けながらも、常に空に向かって上昇するのである。この意味で、ステレオラブの展望には、フィッシャーが不慮の死の直前まで展開していた思想や、彼が「アシッド共産主義」と称した概念と共通する部分がある。この意味における共産主義とは、資本主義者の自己満足に向かって投げ込まれた修辞上の爆弾であり、20世紀の共産主義体制の再現ではない。そもそもスターリンの抑圧体制は、フィッシャーやステレオラブのような人びとにとっては常に恐怖の対象だった。むしろ彼らは五月革命の子供世代(フィッシャーとサディエールは共に1968年生まれ)であり、アシッド・ハウス全盛のときに成人を迎えた──両者の展望は、地域社会に分散した自発的な活動の影響を受けている。「アシッド共産主義」の「アシッド」という名称は幻覚剤から取られたものかもしれないが、その真の意味は、言葉が持つ以上のものがある。アシッドすなわちLSDは、意識を上昇させ新たな段階に引き上げる行為の同義語となっており、さらにその背後には実験や探求という意味合いも込められるようになった。これはまた、ステレオラブが新たな表現に至るために再三にわたって創造性を引き出そうとしていることと深く合致している。そして『Mars Audiac Quintet』では明確にこのテーマに向き合っており、“Three-Dee Melodie”にはこう歌われている。

 「存在することの価値は/宗教やイデオロギーによって与えられるのではない/意味があろうとなかろうとそれは崖っぷちに出現する/それこそが創造的に生きることで得られる唯一の力」

 では、フィッシャーが語っていたように「未来が取り消された」とき、それをもう一度、発見し直すにはどうすればいいだろうか? ひとつの手段は過去に目を向けることだ。

 取り消された未来の幻影は、現在を生きる我々を苛む。その姿は、あるときはノスタルジーとなり、あるときは俗悪なものとなり、あるときは我々の充実感を潰えさせるほどの威力を持ったままで現れる。フィッシャーは、過去と現在が共存する不自然なこの状況を「憑在論」と呼んだが、前を向く人々にとっては、このように未来が失われたことは、一旦退いた上で新たな道を探して前進するための好機となる。1960年代のヒッピーによるカウンター・カルチャー、1968年の五月革命、昔のサイエンスフィクション作家たちが描いた理想郷の姿というように──ステレオラブの美的価値観は、彼らが過去を掘り進め、独自の理想郷への道を開いていることから、ときに「レトロフューチャー」と評される。初期におけるクラウトロックへの執着もまた、過去の光景を想像しながら再訪し、その先に何か新しいものを追い求めることで、未来に目を向けるためのものである──この結果として、図らずもポスト・ロックが誕生する一助となったのである。

 往々にして革命の実体は幻影のようなものだ。なぜなら、それは現実となるまでは物質的な姿を持たない概念として存在し、静かに現在の体制を脅かしていくからだ。よく知られているように、マルクス自身が共産主義を「ヨーロッパに取り憑いた」亡霊であると表現したが、この場合のより適切な描写は、1819年のピータールーの虐殺(選挙法の改正を求めてマンチェスターの広場に集まった群衆を騎兵隊が鎮圧しようとして多くの死傷者を出した事件)で犠牲になった人びとについて急進的詩人パーシー・ビッシュ・シェリーが述べた「彼らの墓所からは輝かしい幻が飛び出してくるだろう」という表現だろう──果たされなかった革命は、それでもなお、いずれ蘇ってその目的を達成するかもしれないという脅威を孕んでいる。1960年代に成し得なかった革命の数々は、取り消されたその他のあらゆる未来と同じように、ステレオラブの楽曲に息づいている。

 ステレオラブの作品で中核となる弁証法的手法があるとするならば、彼らは問題を解決するために、常に意識を高めて創造性を抑制しないという方向性を目指しているように見受けられる──想像や創作から何か新しいものが生まれる希有な瞬間、それはより自由な世界へ突き進むための革命的手段として世界に登場する。そこに立ちはだかるのが、世界はともすると同じパターンやサイクルを繰り返してしまうという事実だ。例えば、不況で経済が落ち込み戦争が起こり回復していくように、愛が花開いて枯れていくように、そして死と再生のサイクルがあるというように。ステレオラブの音楽は、それ自体がこの世界に呼応している。その形式は繰り返しによって定められながら、創造的発見が生まれる類まれな瞬間に前進して新しいパターンを獲得する。あるいは別の言葉で表すなら、これはまさにアルバム『Dots and Loops』のタイトルのごとく「点とループ」が織りなすシンフォニーだ。

 

Stereolab in the years 1993 to 2004 were like David Bowie in the 1970s in that every year saw them release something new and extraordinary, each a wonderful record in its own right, but taken together adding up to a fascinating document of a band’s growth and development.

The current batch of re-releases encompasses the seven studio albums the group (or “the groop”, as they often referred to themselves) released over that period, although this slightly understates just how productive Stereolab were at that time, with two mini-albums, two volumes of their excellent “Switched On” compilation series, and a couple of collaboration EPs with avant-garde legend Nurse with Wound also falling within the same timeframe. What’s interesting about them is that they start off with the band fully-formed in their first incarnation, skipping over the period of finding their feet that that defined their debut album “Peng!” and the singles and EPs that made up the first “Switched On” compilation.

Stereolab’s background lies in the British and Irish 1980s guitar pop scene, with Tim Gane having been a key member of the jangly and defiantly left-wing McCarthy, joined by Laetitia Sadier for their last (and best) album “Banking, Violence and the Inner Life Today”. McCarthy’s lyrics mostly focused on the political struggles of the 1980s British left, often ironically adopting the stance of political enemies in order to satirise their perceived absurdities or hypocrisies. It was on that final McCarthy album that you start to hear the early murmurs of Stereolab, with the band dialing the guitar jangle back slightly in favour of a more lush, layered, keyboard-based sound on songs like “I Worked My Way Up from Nothing”. A particularly interesting song on this album is “The Well Fed Point of View”, which takes the standard McCarthy approach of satirically vocalising their enemy’s position – in this case, a voice encouraging listeners to see their happiness and emotional wellbeing as essentially individual issues, with the flipside of that being that the cruelty and injustice of the world is also the problem of individuals. McCarthy’s implied message, that these are actually social rather than individual issues, lays down a key idea that would become a key part of Stereolab’s worldview: the inseparable interrelationship between the personal and the social or political.

In Stereolab’s early days, they were connected to a cluster of musicians in London, known cynically as “the scene that celebrates itself”, as well as the eclectic pre-Britpop indie scene. Around them at that time were shoegaze bands like Slowdive, Chapterhouse and Lush, bands like Blur, who had risen to early fame heated by the dying embers of the Madchester scene, and oddball acts like See See Rider, Gallon Drunk and The High Llamas. The early Stereolab sound shows a mixture of these influences, picking up in part from where McCarthy left off, combining guitar pop with synthesisers, but also drawing on elements of shoegaze, and experimental pop.

The other big influence in these early days is krautrock, and Neu! in particular. Along with Julian Cope, whose epic cosmic masterpiece “Jehovahkill” came out in 1992, Stereolab were key figures in the revival of interest in krautrock that bloomed in the early ’90s. It’s this influence that and the expresses itself most spectacularly on the oldest of the new Warp Records re-releases, “Transient Random-Noise Bursts with Announcements”. Of all the re-releases – perhaps of all Stereolab albums – this is the band’s rawest and most sonically brutal. The opening song, “Tone Burst” begins simply, but gradually dissolves into layers of sonic discord, but set against this are Sadier’s deamily romantic lyrics. That juxtaposition of harsh and sweet continues on “Our Trinitone Blast”, with the vocals pinging back and forth, one part harsh and distorted and the other sweet, Lush-like harmonies. “Golden Ball”, with its relentless, clanging guitar chord, fakes an apparent tape breakdown at one point in a way that echoes the frequent, deliberately awkward speed-changes in side two of Neu!’s second album. Meanwhile, “I’m Going Out of My Way” takes a garage rock, almost bubblegum, groove and turns it into something trancelike through sheer repetition.

“Pack Yr Romantic Mind” showcases another key aspect of the Stereolab dynamic: the interplay between Sadier’s plain vocal delivery, uninflected by either passion or cynicism, and Mary Hansen’s backing “ba ba ba”s. It’s telling as well that “Transient Random-Noise Bursts” is Stereolab’s first full album to feature Sean O’Hagan of The High Llamas (formerly of Irish indie band Microdisney) as an official member. O’Hagan was at this point navigating his own transition from guitar pop to something more experimental, drawing on the influences of Brian Wilson, Van Dyke Parks, Burt Bacharach, Phil Spector and more. Despite the album’s harshness, tracks like “Pack Yr Romantic Mind” reveal the beginnings of an avant-garde easy listening influence that would become an increasingly important feature of Stereolab’s work, as well as O’Hagan’s on The High Llamas’ 1994 album “Gideon Gaye”. Nonetheless, one thing the song has in common with the rest of the album is its dedication to mantric repetition, with the lyrics just a single phrase repeated over and over again in a loop.

The motorik sounds of Neu! are what most powerfully define “Transient Random-Noise Bursts” though, and the centrepiece is Jenny Ondioline, a joyous 18 minutes of droning keyboard, layered shoegaze guitars, and Sadier’s uniquely disaffected-yet-wide-eyed vocals that punches through pastiche into a heavenly realm of cosmic sonic bliss.

If “Transient Random-Noise Bursts” is Stereolab’s harshest sounding album, 1994’s “Mars Audiac Quintet is perhaps their lyrically angriest. On the upbeat “Ping Pong”, the bouncy melody parallels the sophisticated emerging pop sounds that were starting to get called Shibuya-kei in Japan at this time, but the song’s superficial positivity is undercut by its lyrics. Following the McCarthy playbook, the narrator adopts a position opposed to the author’s true intentions, taking the reassuring tone of someone urging the listener to stop worrying about the world.

“It's alright 'cause the historical pattern has shown / How the economical cycle tends to revolve / In a round of decades, three stages stand out in a loop / A slump and war, then peel back to square one and back for more.”

The fictional narrator urges the listener not to worry about bad times because “things will get better naturally”, noting that “There's only millions that die in the bloody wars, it's alright / It's only their lives and the lives of their next of kin that they are losing,” and finally revealing their own anger and disquiet at seeing the status quo questioned by declaring, “Don't worry, shut up, sit down, go with it and be happy.”

“Three Longers Later” talks about the absurdity of waging war in order to achieve peace through the eyes of a child seeing their father ripped away from his family by military conscription – a system that wouldn’t be ended in lyricist Sadier’s home country of France until two years later (and which current president Emile Macron is, at the time of writing in summer 2019, trying to bring back in some form). It does this over a melody that begins quietly, almost like a nursery rhyme, and then explodes into a spacerock climax.

“Transporte sans Bouger” laments a world that seems to be becoming increasingly atomised, with people living in a lonely “virtual dream” with “no need to know your neighbour”, in which we “make love at a distance”. Given that the internet hadn’t penetrated people’s lives very deeply in 1994, this seems prescient. It is also rather conservative in its yearning for an increasingly lost sense of neighbourly community, but despite their leftist outlook, Stereolab were never averse to looking back to the past to find solutions to the problems of the present. “International Colouring Contest” is a tribute of sorts to the creativity and space-age optimism of eccentric musician and colouring book creator Lucia Pamela, who is sampled at the beginning of the song exclaiming, “I’m so full of ideas, and here’s a good one!” Repeatedly, Stereolab return to the notion that creativity is a fundamentally revolutionary act, and one inextricably bound up with the idea of freedom.

The inverse of that is that anything that closes off routes through which the imagination can travel is oppressive. “L’Enfer Des Formes” notes the way cynicism kills action for change, while the krautrock-influenced “Nihilist Assault Group” is concerned with censorship and moral panic, and how that annihilates critical sensibilities at the expense of effectively dealing with problems in any real way. “Wow and Flutter” and the closing “New Orthophony” both touch on the need to challenge rather than accept as inevitable the way things currently are.

While “Mars Audiac Quintet” relies on a similar toolbox of krautrock rhythms as its predecessor, things are also clearly moving forward into avant-pop territory. In addition to “Ping Pong”, “L’Enfer Des Formes” is another superficially upbeat pop melody, while “The Stars Our Destination” and “Des Etoiles Electroniques” both combine bubbly rhythm machine loops, dreamy synths and intertwining vocal lines into a smooth, layered sound that points a new way forward for the band.

The next stop on that journey was 1996’s “Emperor Tomato Ketchup” which completely blew apart the band’s sound while remaining instantly recognisable as Stereolab. As before, there are nods to the past in how the band move forward, with the title being drawn from Japanese playwright and director Shuji Terayama’s 1971 film of the same name and the cover artwork being based on a 1960s release of Bela Bartok’s “Concerto for Orchestra”. Nevertheless, the familiar Stereolab elements still make up the core of the album – the repetitive rhythms, the layered production, the off-kilter pop tunes, Sadier and Hansen’s vocal interplay, and the obliquely Marxist lyrical themes – albeit now developed into something far more sophisticated.

The opening “Metronomic Underground” draws from a funkier side of krautrock, more Can than Neu!, but still wrapped up in repetition and looping rhythms, while the songs that retain motorik rhythms, like the title track and “Les Yper Sound” marry it with vocal lines that employ some of the albums sweetest pop melodies. The gorgeous “Cybele’s Reverie” is a Proustian meditation on memory, that takes Stereolab’s pop inclinations in a more lushly orchestral direction, while elsewhere the band find ever more new and interesting ways to explore repetitions and loops, from the minimal “OLV 26” to the mirrored guitar clang of “Tomorrow is Already Here”.

Lyrically, it explores more abstract places than previous albums, but it’s perhaps the album most explicitly concerned with the relationship between the individual and society (certainly it’s the album in Stereolab’s catalogue that uses the word “society” most). “Spark Plug” is concerned with the importance of recognising the innate spark of life in an individual or collective group rather than viewing them in the abstract. “Tomorrow is Already Here” deals with institutions originally set up to serve society, now become something oppressive. Meanwhile, “Motoroller Scalatron”, with its children’s song-like question-and-answer structure talks about the fragile basis on which society is constructed, maintaining its existence only on a shared agreement that it exists, and constantly in flux – as well as the irony that, in a society “built on words”, the words we say, or choose not to say, can end up having huge consequences.

Perhaps an even more significant shift came with the next album, “Dots and Loops”. At around the same time that “Emperor Tomato Ketchup” was being released, Chicago-based Tortoise were releasing the landmark “Millions Now Living will Never Die” and German duo Mouse On Mars had recently released their second album “Iaora Tahiti”. All three were key acts in the burgeoning but nebulous genre of post-rock, which at this point in the 1990s can best be understood using journalist Simon Reynolds’ description as, "using rock instrumentation for non-rock purposes, using guitars as facilitators of timbre and textures rather than riffs and power chords."

Bringing in Mouse on Mars as collaborators and Tortoise’s John McEntyre as producer, “Dots and Loops” was a collision of early post-rock talent. Opening with a burst of electronic distortion, it swiftly moves into the skittering breakbeats of “Brakhage”, Sadier dreamily bemoaning the narcotising effects of consumerism. Lead single “Miss Modular”, meanwhile, is a beautiful slice of lounge pop with lyrics touching on imagery of games, mystery and tricks of the eye – abstract imagery with an opaque subject, but one that, for a band undoubtedly familiar with French situationist leader Guy Debord and his consumerist critique “The Society of the Spectacle”, surely hints at wider social relevance in the way the artificial – the spectacle – overwhelms our ability to discern a difference between reality and representation, history and endless present. If there’s a particular theme of the album, it might be that of alienation, not only from society and people close to you, but also (and necessarily given the way the individual and society are inextricable in Stereolab’s worldview) alienation from the self and one’s own feelings.

The collaboration with McEntyre continued over the next two albums, 1999’s “Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night” and 2001’s “Sound Dust”, with Jim O’Rourke joining as co-producer on both albums. Less explicitly electronic than “Dots and Loops”, these two albums see the band picking up on its jazz influences and advancing with them into pure avant-pop.

If “Dots and Loops” carried a sense of alienation, “Cobra and Phases” is the band’s most hopeful sounding album, with at least part of that coming from the birth of Gane and Sadier’s child, explicitly referenced on “People Do it All the Time”, which revels in the birth as a chaotic act of creation, “Out of chaos, a creation / Binding into one form / Lucid drunkenness” and positions the child as a vessel of hope, declaring, “I want you free when you grow, boy / Revive the old idea that we carry.”

The idea that growing up free should go together with “reviving an old idea” is a new angle on Stereolab’s recurring theme that moving forward may require looking back. Throughout the album, images of rebirth and rediscovery (rather than simply birth and discovery) keep cropping up. On “The Free Design” Sadier sings “The request is here ready to resurrect / What else can we do but recover the project” hinting at a past project left unfinished, while the “lonely walker humanoid” of “Puncture in the Radax Permutation” is described as “rediscovering your own pace” as it tries to “repossess the senses” – the idea of newness being linked to going back to something, and perhaps also of the cycle of life and rebirth meaning that everything new is something old just come round again.

“Cobra and Phases” is a sensual album, opening and closing with songs about love, and constantly returning to images of earth and nature. It’s also a rare example of Sadier singing explicitly and directly about being a woman, with feminist themes coming to the fore in “Caleidoscopic Gaze” and krautrock slight return “Strobo Accelleration”.

With the positive attitude of “Cobra and Phases” in mind, “Sound Dust” is in many ways Stereolab’s darkest album, returning to themes touching on the dehumanisation and oppression inherent in capitalism in songs like “Gus the Mynah Bird”, which declares “Self determination should be a fact / not essentially a right,” and suggests that capitalism offers false freedom, and will happily collude with oppression. “Space Moth” references the filmmakers Jean Rouch and Edgar Morin, whose 1960 film “Chronicle of the Summer” deals with the subject of happiness among various, mostly working class, people in France, touching on war, censorship, race, and poignantly the Holocaust, with the idea that happiness is closely linked to politics and freedom. The line in the song “L'homme est réduit à son travail” – “man is reduced to his job” – again positions capitalism as antagonistic to freedom.

The song “Nothing to Do with Me” takes its lyrics directly from the dark, surreal comedy of British satirist Chris Morris, whose TV show “Jam” combined eerie ambient music with comedy sketches and was controversial in the UK for breaking the taboo against portraying doctors as less than altruistic people. Morris’s doctors were often agents of chaos: figures of authority who abused the trust of people who relied on them, for opaque reasons. “Did you prescribe my daughter a pound of heroin?” asks Sadier at one point in the song. Elsewhere, the relationship between customer and client is turned on its head as a woman asks a plumber, “You did such a great job / With the boiler last time / Please can you mend my baby / He hasn't moved for three weeks.” In both instances, a social relationship is being abused, but the socially defined relationships between the participants are still followed in a formally proper way, the form and appearance of calm rationality put into the service of the terrifying and absurd.

More than this, though, “Sound Dust” feels like an album about duality. Many of Stereolab’s songs are dialectic in that they deal with reconciling two opposing forces or positions – the thesis and antithesis birthing a synthesis – and that structure is still present here. “Baby Lulu” delivers the line “extremes reconciled / improvisation / rational and poetical / summing up contradictions”. It’s also the most direct the band ever were about the notion of evil, referencing it as one of the “two poles guiding his step” in “Naught More Terrific than Man”, and giving it an explicitly Biblical face in “Suggestion Diabolique”. The lushness, warmth and beauty of the melodies works in a similar dualistic way with the darkness or gravity of the lyrics.

This is reflected in the musical structure of the album too, with many of the songs having a two–part structure, where the first and second half of the song follow quite different melodies and arrangements. The most striking example is the joyous “Captain Easychord”, which returns to the theme of the life and death cycle, boiling it down to its most basic representation in the cycle of inhaling and exhaling breath.

“Sound Dust” was the final album to feature Mary Hansen, who was killed in a road accident the following year. The last album of this current batch of re-releases, 2004’s “Margerine Eclipse” is in part a tribute to Hansen, with the song “Feel and Triple” a directly addressed farewell, “Need to Be” talking about the need to embrace pain, loneliness and fear of death in order to recognise the now, and ‘…Sudden Stars’ dealing with embracing love and respecting loss.

The political situation in Europe and America at the time also hangs over parts of the album, in the shape of the wars in Afghanitan and Iraq, rising fear of terrorism embodied in the “other” of the Muslim in our midst, and increasingly intrusive state surveillance. “La Demeure” references this fear of the other, while “Bop Scotch” deals with the question of whether we can trade freedom for security.

Despite (or perhaps because of) the death and fear hanging over it, “Margerine Eclipse” is also one of Stereolab’s most upbeat albums, and certainly their funkiest with its rich, thick, squelchy synth and bass sounds. It is the album that most explicitly addresses love, with the closing “Dear Marge” tying love up with learning, with the implied flipside that lack of love or empathy prevents us from learning or growing.

Like “Sound Dust” there is a dialectical structure underlying “Margerine Eclipse”, with the album being mixed with all the instruments panned to the extreme right or left, with each channel designed to work either independently or as a synthesis of the two made when both are listened to together.

After listening over this span of work, what is Stereolab really about as a band though?

One way to make sense of the band is to look at them through the prism of their times. These seven albums closely overlap with the ten-year period after the fall of the Soviet Union and the aftermath of the September 11th, 2001 attack on the World Trade Center that shattered America’s sense of post-Cold War invulnerability.

This period, described by Francis Fukuyama as “The End of History”, was characterised by a shutting down of the public imagination on a mass scale. The struggle between great ideological movements of the 20th Century was over and liberal capitalism had won: there was no alternative. A mindset took hold of what the critic Mark Fisher called “capitalist realism”, which made any vision of the future that didn’t essentially amount to “more of the same” seem impossible.

This mindset is the enemy against which Stereolab constantly rail. The lyrics to “Wow and Flutter” from “Mars Audiac Quintet” express it most clearly:

“I thought IBM was born with the world / The US flag would float forever / The cold opponent did pack away / The capital will have to follow / It's not eternal, imperishable / Oh, yes it will go / It's not eternal, interminable / The dinosaur law.”

The limits capitalist realism place on the imagination are what make it such an insidiously oppressive force, and one that, for Stereolab, can only be overcome by the lifting of consciousness and the opening up of the creative (and the romantic) mind. As with the situationists and the 1968 Paris Spring, unique moments of individual creativity and imagination can jolt society out of one of its cycles and elevate it to a new level, like the spiral on the cover of “Emperor Tomato Ketchup”, ever-circling but always reaching skyward. In this sense, Stereolab’s vision shares something in common with the ideas Fisher was developing before his untimely death, and which he referred to as “acid communism”. In this sense, communism is really functioning as a rhetorical bomb thrown into the midst of capitalist complacency rather than a recreation of the communist regimes of the 20th century. The repressiveness of Stalin would have been a horror to people like Fisher and Stereolab: rather they were children of the Paris Spring (both Fisher and Sadier were born in 1968), who came of age at the height of acid house – both visions of decentralised, spontaneous, communal action. The “acid” of “acid communism” may take its name from psychedelic drugs, but its true meaning perhaps lies more in what it represents. Acid or LSD has become synonymous with the act of elevating consciousness to a new level, with an underlying meaning of experimentation and exploration. This again locks in very well with Stereolab’s repeated invocation of creativity as a route to revelation. Again, “Mars Audiac Quintet” tackles the theme explicitly, this time on “Three-Dee Melodie”:

“The meaning of existence / Can't be supplied by religion or ideology / The sense or non-sense that will emerge from the precipice / Is only the impact of a creative activity”

So when, as Fisher put it, “the future has been cancelled”, how do we rediscover it anew? One way, is to look to the past.

The ghosts of cancelled futures haunt the present, sometimes as nostalgia, sometimes as kitsch, sometimes as something that still has the power to jolt us out of our complacency. Fisher referred to this uneasy coexistence of past and present as “hauntology”, but for those of us looking ahead, these lost futures can provide opportunities to step back and find a new route forward. The hippy counterculture of the 1960s, the 1968 Paris Spring, the utopian visions of old science-fiction authors – Stereolab’s aesthetic is often described as “retro-futurist” because of the way they mined the past for routes towards their own utopia. Their early obsession with krautrock is another way of looking to the future by revisiting past visions of what it might be like and pursuing those lines towards something new – in this case, helping to bring post-rock into existence in the process.

Revolution often takes the form of a ghost because, before it can become real, it will exist as an idea without corporeal form, silently threatening the status quo. Marx himself famously described communism as a spectre that “is haunting Europe”, but more pertinent in this case might be the radical poet Percy Bysshe Shelley’s depiction of the victims of the 1819 Peterloo Massacre as “graves from which a glorious Phantom may burst” – an unfinished revolution that nevertheless threatens to return and complete its work. The failed revolutions of the 1960s live on in Stereolab’s songs, as do all the other cancelled futures.

If there is a central dialectic process at work with Stereolab, the direction they seem to be trying to resolve it in always leans towards a kind of raised consciousness and unrestrained creativity – unique moments of imagination and creation bringing something new into the world as a revolutionary means towards pushing forward into a place of greater freedom. Against that lies a tendency of the world to fall into repeating patterns and cycles, whether they be destructive cycles of economic depression, war and recovery, the blooming and dying of love, or the cycle of death and rebirth. Stereolab’s music itself parallels this, its own forms defined by repetition, driven forward into new patterns by unique moments of creative revelation – or to put it another way, it is a symphony of “dots and loops”.

 北海道出身のエレクトロニック・ミュージシャンのNoahが新作 『Thirty』をリリースする。英『ガーディアン』も絶賛したファースト・アルバム『Sivutie』から4年ぶりとなるアルバムで、東京に移住してからの最初の作品。そして、 『Thirty』は東京の混沌としたさまざまなイメージが彼女の折衷的なエレクトロニカ・ポップによって表現されている。まったく……渋谷にそびえ立つ高層ビルを見ているとこの風景が冗談のように思えてくるが、まさにそんな、この現実から自分だけが取り残されていくような感覚が描写されている。ぜひ、チェックしてみてください!

■ Noah「Thirty」

タイトル:Thirty
アーティスト:Noah
CAT#: FLAU81
発売日:2019年10月18日

tracklist:
1. intro
2. 像自己
3. 夢幻泡影
4. 18カラット
5. メルティン・ブルー
6. 愛天使占
7. シンキロウ
8. 風在吹
9. 像自己 alternative ver

https://flau.jp/releases/thirty/


Noah

北海道出身の音楽家。子どもの頃から慣れ親しんできたピアノの繊細さ、印象的なビートとR&Bの要素、VaporwaveのLo-Fiさとノスタルジーが同居する彼女の楽曲には、妖艶さと可憐さを併せ持った独創的な個性が形作られている。3枚のミックステープに続くファースト・アルバム『Sivutie』を2015年にリリース。英ガーディアンでMura Masa、Little Simz、Tinkらと共に同年のBest New Bands5組に選ばれるなど注目を集める。イギリスのプロデューサーkidkanevilとのプロジェクトnemui pjや、Teams、Repeat Patternと共にコンセプトアルバム「KWAIDAN」のリリース、SELA.やJoni Voidへの客演を経て、4年ぶりの新作『Thirty』を今年リリース。

DJ Python - ele-king

 ニューヨーク、と聞くとやはりまずハウスのことを思い浮かべてしまう方が多いと思われるが、じつは近年かの地ではテクノのシーンが盛り上がりを見せている。ブルックリンのプロデューサーでありヴィジュアル・アーティストでありプロモーターでもあるオーロラ・ハラル、彼女の運営するパーティ《Mutual Dreaming》やフェスティヴァル《Sustain-Release》の成功はそのひとつの証左だが、クイーンズのDJパイソンことブライアン・ピニェイロも、そのようなNYアンダーグラウンドの勢いを体現するプロデューサーのひとりだ。

 エクアドルとアルゼンチンにルーツを持つ両親のもと、NYで生まれ育ったピニェイロは、14歳のときに兄からもらったハーバートの『Bodily Functions』とボーズ・オブ・カナダの『Music Has The Right To Children』がきっかけで、〈Warp〉や〈Rephlex〉、〈Kompakt〉といったレーベルの音楽を好むようになったという。同時にミックスマスター・モリスやクルーダー&ドルフマイスター、MLOなどのアンビエントも摂取していたようだが、高校時代にマイアミへと移り住んだ彼は、そこでレゲトンをはじめとするラテン・カルチャーの洗礼を受けることになる。その後NYへと舞い戻った彼は自分でも音楽をつくりはじめ、友人だったフエアコ・Sを介してアンソニー・ネイプルズと出会う。
 ディープ・ハウスとレゲトンとの融合を思いついたピニェイロは、2016年にネイプルズの〈Proibito〉から12インチ「¡Estéreo Bomba! Vol. 1」を送り出し、翌年おなじくネイプルズの〈Incienso〉からファースト・アルバム『Dulce Compañia』をリリース、「ディープ・レゲトン」なるスタイルを確立し、一気に高い評価を得ることとなる(その間、ディージェイ・ザナックスやDJウェイ、ルイスといった名義でこつこつとジャングルやハウスにも挑戦)。そんな彼が今年、アムスの〈Dekmantel〉から放ったEPがこの「Derretirse」だ。

 先行する「¡Estéreo Bomba! Vol. 1」や『Dulce Compañia』では軸足がハウスに置かれていたが、本作でレゲトンと融合させられているのはいわゆるIDMで、たとえばアンビエント・タッチのシンセで幕を開ける“Lampara”は、キックの外し方もおもしろいんだけど、全体のムードや細やかなノイズの散らせ方はボーズ・オブ・カナダを想起させる。あるいは“Cuando”の上モノは初期のエイフェックスを彷彿させるし、“Espero”や“Pq Cq”には初期のオウテカがこだましている。ようするに「Artificial Intelligence」シリーズである。
 そのような「部屋で聴くテクノ」がきれいにレゲトンのリズムと共存しているところこそ最大のミソで、その相互作用の結果だろう、EP全体は催眠的であると同時に妙な肉感も伴っていて、なんとも不思議な空気に覆われている。レゲトンの機能性がもっとも発揮されているのは“Tímbrame”だが、“Be Si To”にはたしかにハーバートっぽさもあるので、このEPはきっと、彼がマイアミで発見したラテンという、みずからのルーツの掘り下げであるとともに、初めて夢中になった電子音楽の回想でもあるのだろう。グローバル・ビーツの観点からもIDMの観点からも(そしてノスタルジーの観点からも)捉えられる、じつに興味深い作品である。

消費税廃止は本当に可能なのか? (3) - ele-king

消費税に替わる”財源”を考えよう。

 10月16日の予算委で共産党・大門みきし議員は、IMFの「世界経済が大きく後退する」とした報告を引用しながら、メルケル、マクロン、トランプ政権それぞれが、世界経済悪化に対して個人消費の底上げを図るべく数兆円規模の減税を予定していることを伝えた。そのうえで世界経済はリーマンショック並みの落ち込みが予測されており、日本の消費者マインドも実際に東日本震災並みに下落しているのだから、消費減税すべきだと主張した。(https://www.youtube.com/watch?v=FVXSiPt60aY


10/15 予算委 共産党・大門議員質疑より「消費者態度指数」

 10月4日のNHKの報道によると、米国の新聞も左右問わず日本の消費増税を批判しているようだ。

ウォールストリート・ジャーナル
「消費税率の引き上げは、日本の経済成長に再びブレーキをかけるリスクが大きい。日本の最大の課題は財政ではなく、需要の弱さで、消費税率を引き上げる必要はない」
ワシントンポスト
「消費税率を5%に引き上げた1997年と、8%に引き上げた2014年には景気が後退した。日本経済は去年の後半から減速していて、来年のオリンピックに向けた建設ブームによる需要も薄れている。需要の低迷による物価の下落が、成長のけん引役である投資を押し下げ、デフレからの脱却に向けた長年の努力が後退するおそれがある」
ニューヨーク・タイムズ
「成長懸念にかかわらず日本は消費税率引き上げ」「日本経済の牽引役として貢献する消費者に打撃を与えるだろう」
コロンビア大学・ヒュー・パトリック名誉教授
「消費税は直接、国民のポケットからお金を奪うものだ。日本政府が、財政支出を増やして増税の影響を緩和しなければ、世界経済はやや減速する可能性がある」「駆け込み需要が起きないほど、そもそも消費が弱くなっている可能性がある」

 日本の問題は財政赤字ではなく、需要(投資や消費)が減少していることで、その需要をさらにシュリンクさせる消費増税は悪手だということだ。そして、需要減少への対抗策は財政支出であるとしている。世界経済を減速させる一因となりかねないのがこの消費増税であり、世界にとって迷惑行為でしかないのだ。

 WSJやNYT、パトリック教授らに言われるまでもなく、「不景気時には財政出動」という話は当然のことで、中学校の公民の教科書にも書かれている常識だ。

「不景気のときは、道路工事などの公共事業をして、民間企業に入るお金を増やします。公共事業のほかにも、減税を行うことで、民間企業の持つお金を増やす場合もあります。
 (中略)
このように、政府が、公共事業の増減や、減税・増税などで、景気を調節することを財政政策(ざいせい せいさく)といいます」

出典:中学校 社会・公民

 景気の悪い時には、減税し、公共事業などに財政支出をするのが財政政策なのだ。日本政府には、中学校の教科書からお読みいただくことをお勧めする。


 前回コラムで、「需要の減少」が起こる悪循環をどう断ち切れば良いのかという課題に対して、反緊縮派は一つに「消費税廃止」を提案していることをお伝えした。加えて、二つ目の有効策がこの「財政出動」になる。これは消費税廃止で無くなった消費税収に替わる財源を得るため、また国民経済を後押しするための政策となる。減税と財政出動、上述した中学校の教科書通りの財政政策だ。

 「財政出動すると財源が減ってしまうのではないか」と思われる方もいるかもしれない。それも当然だろう。普通の人は、政府が何か税金などを貯めている金庫のようなものを持っていて、そこからお金を支出していると考えている。しかしその考えは誤りである。政府が支出すると、実体経済市場に通貨が創造されるので、支出することそれすなわち財源となることを意味する。政府が誰かに支払いをすると、新しい通貨がこの世に「無から生まれる」のだ。

 このことをMMTerは「万年筆マネー」や「スペンディング・ファースト(Spending First)」という概念をもって説明するが、少し複雑な仕組みなので我慢して以下を読み進めてもらいたい。

 信用創造(通貨を創造すること)には経路が2つある。一つは、金融機関によって保有される既発国債と交換する形で中央銀行が創造した貨幣(実体経済市場では使用不可能な準備預金)を元手にして、金融機関が一般企業や個人に貸し出すときに起こる。中央銀行が国債を買い入れることを「買いオペ」と言い、国債と交換する形で貨幣を増やすことを「量的金融緩和」と言うが、基本的には同じことを指している。何を言っているのかわからないという方は下記の「教えて!にちぎん」と「ニチギンマン」の説明も見てもらいたい。

国債買入オペは、日本銀行が行うオペレーション(公開市場操作)の一つであり、長期国債(利付国債)を買い入れることによって金融市場に資金を供給することです。
出典:日本銀行「教えて!にちぎん」より


出典:日本銀行「ニチギンマンのきんゆうせいさく」

 ニチギンマンは、日銀が国債を買い入れ、貨幣(準備預金)を銀行に供給し、金利を下げることにより「景気が活発になり、物価が安定する」と誇らしげに言っているが、実際は量的質的金融緩和を続けても、金融市場以外、つまり実体市場は活発になっていないばかりか、個人消費が落ち込み、需要が減少、逆にデフレ状況で物価が不安定化するような状態が続いている。

 これは企業や国民があまり消費も投資もできないから、銀行からお金を借りることもないし、信用創造(通貨創造)されないということが原因だ。銀行などの金融機関同士の決済にしか使うことができない準備預金のままでは実体市場では流通しえないのだ。このことが6年間続けた金融緩和の効果の薄さに繋がり、多くのエコノミストたちもやっとこの仕組みの綻びを理解し、指摘するようになった。金融市場の外にお金が出ないのだから、とにかく株屋だけがマネーゲームで儲けるばかりで、私たち庶民にはほとんど関係がない話だった。

 ちなみに信用創造とは、誰かが銀行から借金した時に通貨が創造される仕組みとなる。貨幣は、発行元である銀行がただペンで記帳するだけで生まれることから「万年筆マネー」と言われる(現在ではコンピューターで打ち込むだけなので「Key Stroke」とも表現される)が、かいつまんで言えば、お金の正体とは誰かの借金であり、貨幣とはその借金に対して発行された債務証書だということになる。また、通貨と貨幣の違いにも気をつけてもらいたい。貨幣は紙幣やコイン、また私たちが使えない準備預金などお金全般のことを指すが、通貨は私たちが使える紙幣やコイン、預金などのお金だけを指す。(参考:社会人の教科書「貨幣・通貨・紙幣の違い」

 そこで、信用創造のもう一方の経路が重要となる。政府支出(財政出動)を介した経路がそれだ。これは、政府の支出により生まれた銀行の預金を、一般企業が受け取るときに起こる。この場合は政府が企業に仕事を発注する形をとるので、必ず信用創造され、実体市場に通貨が生まれる。MMTの視点では、政府は国債や税収などの財源がなくても、支出するだけでお金を創造できるとし、このことをスペンディング・ファースト(最初に支出ありき)と呼んでいる。政府債務である国債は政府支出した後に発行され、民間銀行を介して中銀からファイナンスされるとしているため、支出が先なのだ。

 なにやらややこしい概念だと思われたかもしれないが、少し考えてみれば実感できるだろう。政府は毎年、税収がいくら集まるかわからないのに、予算を決定し、支出している。言い換えれば、財源などなくても支出できるということだ。だから「最初に支出ありき」なのだ。

「ここに人々が見落としているものがあります — 連邦政府の支出は”自己資金(Self-Financing)”だということです」
「政府が支出すると、支出そのものの副産物として新しいお金は創造されます」
「そして新しくできたドルは、誰かのバランスシート(貸借対照表)に追加されます」
出典:ステファニー・ケルトン ツイッターより

MMTは、政府の財政は家計や企業のそれとはまったくの別物だと主張している。
(中略)
主権を有する政府が、自らの通貨について支払い不能となることはあり得ない。自らの通貨による支払い期限が到来したら、政府は常にすべての支払いを行うことができるのである。
それどころか、政府が支出や貸出を行うことで通貨を創造するのであれば、政府が支出するために租税収入を必要としないのは明らかである。さらに言えば、納税者が通貨を使って租税を支払うのであれば、彼らが租税を支払えるようにするために、まず政府が支出しなければならない
出典:L.ランダル.レイ「MMT 現代貨幣理論入門」p39

 MMTの創設者の二人、先般来日を果たしたステファニー・ケルトン教授(NY州立大学)と、近日来日予定もあるランダル・レイ教授(バード・カレッジ)は、政府の財政の仕組みについてこのように簡素な形で語っている。このことは民間銀行からお金を借りる時に起こる信用創造の場合も同じだ。中野剛志氏(元・京都大学大学院准教授)は以下のように解説する。政府も銀行も「最初に支出ありき」なのだ。

実際には、銀行は、人々から集めたお金を元手にして、貸し出しを行っているのではありません。その反対に、貸し出しによって、預金という貨幣が創造されるのです。そして、借り手が債務を銀行に返済すると、預金通貨は消滅するのです。
(中略)
「銀行の貸し出しの段階で預金は創造される」のですから、銀行の貸し出しが、元手となる資金の量的な制約を受けるということはありません。
この点は資本主義経済の仕組みの根幹にかかわる話です。
出典:中野剛志「奇跡の経済教室」p98,p100

 MMTerの視点では、政府が支出したその後に、金利を調整する為に国債は発行されるとしているが、このような国債発行の視点は主流経済学の常識を覆す論理となり、賛否の分かれる騒動ともなっているわけだが、この騒動の一端は、以前に拙コラムでお伝えした西田議員と雨宮日銀副総裁の財金委員会でのやりとりで垣間見ることができる。政府支出を介した信用創造の仕組みについて実務的な詳細を知りたい方もぜひご覧いただきたい。
 参考:「黒船MMTと参議院選挙の行方



画像提供: @nonsuke38 氏

 長々と3回にもわたっていろんな話をしてきたが、これまでの話をまとめるとこうなる。政府には通貨発行権があって、過度なインフレにさえならなければ、いくらでも無からお金を作って国民経済のために支出できる。もちろん財政破綻などするわけがない。さらに、政府は自分でお金を作って支出できるのだから、税は財源ではない。税は主にインフレを抑える景気調整のためにある。だから、このような貨幣観を持つ反緊縮派にとっては、景気調整機能もない消費税を人々に課す理由がまったく理解できないというわけだ。

 加えて言うなら、日本においては「税は再分配のために徴収されている」とも言えない。下図のように、税による再分配効果はOECDで最低のミジンコレベルだ。「社会保障を支えるために税金が必要だ」と思い込んでいる人たちには、この事実もよく考えていただきたいと思う。


出典:内閣府 再分配効果の国際比較

 前述した「消費税に替わる財源は政府支出である」とした論理は、貨幣システムの会計的事実から導き出されている。「でも結局、それは借金ではないのか」と言う方もおられるだろう。その疑問に対する回答は次回、最終回につなげたい。

BS0 - ele-king

 ブリストルのサウンドとスピリットを伝えてきたBS0が、彼の地からサム・ビンガとライダー・シャフィークを迎え2年ぶりに開催。これにあわせ、2人は名古屋/金沢/東京/高知/沖縄/大阪を巡るツアーを敢行する。

 サム・ビンガとライダー・シャフィークは、一緒にそして個別に、現在の英国アンダーグラウンドで非常に重要な存在となっている。〈クリティカル・ミュージック〉での爆発的なダンスホール・コラボレーションで知られる2人のアーティストは、2012年以来さまざまなスタイルとテンポで共同作業を行っており、ロンドン〈ファブリック〉からクロアチア〈アウトルック〉まで、そして遠く離れたニュージーランド〈ノーザン・ベース〉で、共同のサウンドを獲得。

 サム・ビンガは、プロデューサーとしてヒューストンの伝説的なポール・ウォールとの「オール・キャップ」のダーティなサウス・ヒップホップから、ブリストルのカルトなレーベル〈ホットライン・レコーディングス〉でのマーカス・ヴィジョナリーとのUKファンキーのコラボレーションまで、多種多様なスタイルとサウンドを制作してきた。ロディガン、トドラT、DJターゲットなどのDJによる定期的なラジオ・プレイによって、DJとしての彼に対する世界的な需要も高まっており、南アメリカから中国まで、そしてその間のあらゆるところでヘッドライン・ショーが開催されている。

 ベースビンとダブプレートの世界を超えて、ライダー・シャフィークは、スポークンワードや、英国でさまざまな背景を持つ黒人として育った彼自身の人生経験を検証するパフォーマンス「アイ・デンティティ」など、幅広く豊かな表現で知名度を上げている。写真家と協力し、彼自身が根付いているコミュニティとの自然なつながりを活かし、ライダーはブラック・ブリティッシュ・ヘアスタイルの美しさ、多様性、繊細さ、およびそれらの自己アイデンティティとの関係を記録することを目的とした写真展「ロックス」も進行中。また、サム・ビンガがエンジニアリングとプロダクションで関わるポッドキャスト「i-MC」では、英国およびその他の国のMCやヴォーカリストとのインタヴューを行い、彼らの人生経験とそれらが音楽にどのように影響したかについて話し合っている。

 BS0プロジェクトとのコラボレーションによる今回の日本への初ツアーは、英国のサウンドシステム文化の音の伝統に根ざした幅広いサウンドとスタイルが導くことだろう。

Gr◯un土 - ele-king

 大阪の音楽シーンには得体の知れないモノを生む出す力がある。ことクラブ・カルチャーにおいては90年代初頭からそれはずっとあったし、いまも失ってはいないようだ。
 大阪らしさのひとつには、ボアダムス的な折衷主義がある。思いも寄らないものが同じ宇宙で渦巻くようなアレである。Gr◯un土(グランド)にもそうした大阪らしさを感じる。彼の音楽は、ハウス・ミュージックを基調にしながら、今福龍太のクレオール主義よろしく世界のいろんな文化がパッチワークされる。じっさい彼が音楽を作るのは移動中=旅先なのである。南米や欧州やアジアや、それぞれのとある街で作られた彼の音楽には、日本には欠落しているのであろうなにか(文化)が注入されている。ゆえにその響きは、感性を拡張させる。
 昨年リリースされたアルバム『Sunizm』がひとつのきっかけになって、じょじょにではあるが、彼のスロー・ハウスの魔力により広く注目が集まりはじめている。とはいえGr◯un土(グランド)は、すでに10年以上のキャリアを持っているので、もうベテランと言ってもいいかもしれない。なんにせよ、ぼくはようやくこの天性の旅人と話すことができた。

自分が影響を受けたDJは京都のMamezukaさん、Sinkichiさん、Daichiさん、大阪だとマスモト・アツコさん、Dr Masher。YA△MAさんにダビーなハウスを教えてもらったり、Akio Nagase君からもダブとエレクトロニクスが融合してる感じのをたくさん教えてもらいました。

DJをはじめたのは何年?

G:クラブで働きはじめたのが19歳くらいのときでそのタイミングです。

大阪のクラブ?

G:大阪のfireflyというクラブです。東心斎橋というエリアに、fireflyという小さいクラブがあって。

15年とか17年くらい前の話?

G:はい。

じゃあ2000年代頭?

G:はい。

2000年代初頭の大阪には何があったんですか?

G:たくさんあったと思いますが、ひとつはMamezukaさんがオーガナイズしていたJAMs、あとはお店の先輩Dr.Masherがオーガナイズするアンビエントを主体にしたClearというイベント、単純に自分が働いていたお店でやっているパーティからの影響が強かったと思います。大阪・味園ビルの一角に週末だけオープンするクラブ『鶴の間』や京都の『活力屋』など、自分はFireflyで働いていたので、なかなか週末抜けるのは難しく、仕事が終わってから、先輩や同僚と鶴の間やMACAOに遊びに行ったりもしました。でも、なかなか他の箱に遊びにいくのは難しかったりしましたけど。

ALTZ君とか?

G:ALTZさんの名前はもちろん知っていました。ベータランドというVJユニットだったり、YA△MAさん。FLOWER OF LIFEに遊びに行ったりもしました。毎回参加はしていませんが、EYEさんが17時間? 18時間?セットをMACAOでやってたのはいまでも記憶に残っています。「凄いな〜」って。

じゃあ、影響を受けたDJも?

G:自分が影響を受けたDJは京都のMamezukaさん、Sinkichiさん、Daichiさん、大阪だとマスモト・アツコさん、Dr Masher。もともとFireFlyで働くきっかけを作ってくれた服屋の方がFireFlyでダブのイベントをやっていたので、初めはニュー・ルーツ、ON-U関連とか、そこからNew Tone RecordsでYA△MAさんにダビーなハウスを教えてもらったりして。あ、こういうのもかっこいいなって。YA△MAさんは本当にいろいろ好みな音を教えてくれましたね。他にもAkio Nagase君からもいろいろなUKのムーディー・ボーイズとかダブとエレクトロニクスが融合してる感じのアーティストをたくさん教えてもらいました。

そこから自分でもDJをはじめたの?

G:はい。働いているクラブでイベントをオーガナイズしながら。自分でオーガナイズをすると、自分でもDJをする時間ができるので、そこからはじめました。

最初からグラウンドという名義だったんですか?

G:はい。Groundです。10年経ったときに土をつけたんですよ。Оをでっかくして、グラウンドのDを土にして(Gr◯un土)、10年目だし進化させて変えていこうと(笑)。

いまはでも普通の表記だよね。

G:いまは。この前〈ESP institute〉というレーベルからアルバムを出したんですけど、あのときに名義が英語じゃないとややこしいからというレーベル側とのやりとりがあったんです。ならGroundにしようって。DJ Ground名義でもいろいろ出していますが。いまでも日本でDJする時はGr◯un土って表記して貰ったりしてますが。

〈Chill Mountain〉というのは?

G:〈Chill Mountain〉は2005年大阪・南河内でスタートした野外のキャンプ・イベントの名前で、5年前に野外での活動はストップしたんですが。その後もコレクティブとして各自メンバーは活動しています。自分は大阪のエンジニアKabamixさんの協力もあって、Chill Mountain Recという名でレーベルを運営したり、オリジナルメンバーにDJ のTOSSYとKAZUSHI、ギタリストのCHILLRERU(現在は陶芸家の松葉勇輝)、デコレーションを担当するm◎m◎、BARBA(現在 ウッドワーカー)、デザインやSILKSCREEN PRINT(SILK LOAD)をしているMT.CHILLs。いま現在も各自、形は変われど表現者として活動しているので、タイミングでまた集まって開催したいなとも思ってもいます。

いつから曲を作りはじめたんですか? 

G:25歳とか。11年前くらいですかね。はじめはDJだけでした。働くクラブが変わって。もともと東京で〈SOUND CHANNEL〉というレーベルをやっていたTAIYOさんが、大阪、難波、味園に『鶴の間』をオープンさせて、その移転後、大阪、大正(SOUND CHANNEL)をオープンさせて、僕自身もそこで併設されてたレコ屋でAkio Nagase君のMake dub recordsを手伝いながらSOUND CHANNELで働いていました。
Taiyoさんに手伝わせて下さいって言ったのを今でも覚えています。その時にじゃあAKIOの店を手伝えよって。
いままでのオーナーはザ・オーナーという感じだったんですけど、そのクルーは自分たちでも曲を作っていて。何をやっていきたいのかをTAIYOさんに訊かれたときに、「DJで食べていきたいです」と言ったら「じゃあ曲を作らなくちゃだめだよ」って。初めてパソコンで曲を作るやり方を見せてくれたのもTAIYOさんでした。機材が無いと作れないと思っていた自分に、「MAC BOOKに元から入っているGarage Bandっていうソフトでもできるよ、初めはそこからやってみ」、と。仕事明けに横に座って付き合ってくれたのをいまでも覚えています。ヨシオ君(Dollop)も丁寧に教えてくれましたね。みなさんもうそんなこと忘れていると思いますが……。

ファースト・アルバムは2015年の『Vodunizm』?

G:はい。それまではミックスCDだったり、1曲だけコンピに提供したりしていました。2008年(『Sync』)がたぶんいちばんはじめです。

どういうコンピレーションだったの?

G:アンビエントとかブレイクビーツとか。〈Chill Mountain〉メンバーのTOSSYがO.Rとはじめたレーベルでしたね。

とにかく、ずっとアンダーグラウンドでやっていたんだ?

G:はい。オーヴァーグラウンドというものにまだ触れていません。触れる機会すらないですよ。あるんですかね? 触れる機会……。

自分の音楽性みたいなものの方向には、野外でパーティをやった影響が大きかった?

G:だと思います。

グローバル・ビートというか、エスニックな感性がグラウンド君の音楽の特徴だと思うけど、それはどこからきたの?

G:レコードを買っていくときに、無機質なものよりワールド・ミュージック・テイストなものがやっぱり好きで。どつぼやったのがオーブとか、レネゲイド・サウンドウェイヴとか、レーベルでいうと〈セルロイド〉とか。先輩がそういうのを教えてくれて。だからダブからはじまったんですよね。最初はジャマイカのダブを聴いていたんですけど、その後ダブっぽいベースラインのエレクトロニクスを好きになって。それでレネゲイド・サウンドウェイヴとかムーディ・ボ-イズとか知って。それで24歳くらいのときにイギリスに行きました。ユースさんとかアレックス・パターソンさんは実際どんな感じでやってんねやろみたいな(笑)。

会いに行ったんだ(笑)。すごいな。本人とは会った?

G:会いました。ホワイトチャペルっていうエリアに2ヶ月半くらい住んで、ユースさんがブリクストンのJammという箱でイベントしていて、通いました。もう成熟した大人の方々なので、「日本からこいつ好きで来たらしいで」みたいな感じでしたが。ただ、同世代の子がユースさんのパーティを手伝っていて、その子が興味を持ってくれて、仲良くなって。「DJやらしてもらえるように俺が言うから」ってその子が言ってくれたんですけど、しばらく住んでてヨーロッパの他の国に行ったんですけど再入国できず、結局イベントに参加できずDJできませんでした(笑)。フライヤーはいまも部屋に飾ってあります(笑)。ちょうど地下鉄テロが起きたときで、とくに厳しかったみたいですね。ドーバー海峡のトンネル経由のバスでドーバー海峡渡る前のイミグレーションで引っかかり、フランスからドーバー海峡渡れず、フランスに2週間くらいいました。

よく日本に帰ってこれたね(笑)。フランスでは何をしていたの? 

G:とりあえずパリに行って、ゲストハウス探して、荷物は全部イギリスにあったので、カバンひとつでって感じで。記憶が結構断片的というか。相当テンパってたんだと思います。泊まったゲストハウスの壁がベロンベロンに破れてたのが記憶に残ってるくらいですね(笑)。あと、大阪で過去に共演したDJの方と偶然の偶然に再会したり、みんなで地べたでサラダ作って食べたのとか覚えてますね。どこかでまた再会したいですね。パリから航空チケット買って名古屋空港経由で帰ってきました。

いきなりミックスマスター・モリスの家に行ったのも笑えるな。

G:日本人の友だちのYUKIさんという方の誕生日会をやっていて、行ったらフラットメイトがモリスさんで。レコードもたくさん持っていて、すごく優しい人でしたね。でも何年かあとに日本にモリスさんが来て、そのときのことを話したら覚えてなくて。いっしょにサン・ラーのヴィデオ見たのにって(笑)。ま、そんなもんですよね(笑)。

ALTZさんはバンドマンなので、ただのDJとは違って音楽的な部分もちゃんとあって。ああいうふうに歳をとれたらいいなぁって思いますね。みんなでバンドして楽しそうだなって(笑)。同級生の親友と見に行ったんですが、2人で見ながら、こういう風なの憧れるよなって。ALTZさんは天才です。

『Vodunizm』はどういう意味なの?

G:これは4年前に東京のDJの7eちゃんが「Voodoohop(ヴードゥーホップ)のトーマッシュというプロデューサーが来日するんだけど、絶対合うよ!」って紹介してくれて、大阪で彼をゲストに〈Chill Mountain〉コレクティブでパーティしたんですけど、そのときに。2歳かな?  僕の年上なんですけど、話をきいたら世界中を飛び回っていて。すごくおもしろいコレクティブで。世界には同世代にこういう子らがおるんかと思いました。で何故かヴォダンとかブードゥとかアフリカ発祥のいろんな文化も興味が出て調べたりして。精霊のこととか、すごくおもしろいなと思って。それでヴォダンにニズムを付けて「Vodunizm」。造語を作るのが好きなんですよ。精霊別のイメージで曲作ったりして。
トーマッシュに、どうやったらそんな風に海外を回れるのと訊いたとき、サウンドクラウドに曲をアップして良かったら連絡がくるよみたいな感じで教えてくれて。とりあえず曲ができる度にひたすらSOUND CLOUDにアップしていた時期があるんですよ。そのときにいろんな方面から連絡がきまして。そっから海外からのリリースや海外でのDJ活動もはじまりましたね。3年前にはじめてドイツ、ケルンとか、ヨーロッパに行きました。その前に韓国に行ったこととかはあったんですけど、ヨーロッパはそのときがはじめてでした。去年はメキシコ、チリ、ブラジルに行ったり。

中南米ツアーだね。それはどういう繋がりなの?

G:Voodoohopにフローレンスさんというフランス人の美しく敏腕な女性がいるんですけど、その人が全部繋いでいってくれて。ここでできるから、もう話しているからと進めてくれて。その人がチケットとかも用意してくれたり。泊まるところを提供してくれたり。本当に感謝しています。

行く先々で曲を作っているみたいだけど。

G:はい。

それはPCで?

G:いまも持っているんですけど、ラップトップだけで。あとは一応レコーダーみたいなものも持っています。それで録ったものを取り込んだり。

じゃあ誰か人の家で作るの?

G:そうですね。いちばん多いのはプロデューサーの家に行って一緒に作ろうって。あとはどこでも。アパートの階段で作ったりもしますよ(笑)。

そうやって作ったものが去年出たアルバム(『Sunizm』)?

G:これはレコードが出たのは去年ですけど、曲自体は2016年にできたものなんですよ。

これ、とくに1曲目、2曲目が最高にかっこいいです。

G:ありがとうございます。“Osaka Native”というのは、大阪ごちゃまぜで、あんまりポリシーみたいなものを持っていないというか。アフリカの音楽だけでとか南米の音楽だけでとか、僕の頭のなかではそれがごちゃまぜになって、地球民族音楽みたいな。(笑)。おもしろいところを組み合わせたらおもしろいんちゃうかなみたいな。そういうところが根本なので。“Osaka Native”も大阪ネイティヴと言っているんですけど、いろんなところの、日本民謡とかも混ぜていたりとか。結局自分は大阪人なんで。笑えてなんぼなんですよ。

なるほどね。全然大阪ネイティヴじゃないね。

G:人によってそう感じるかもしれませんが、これは自分にとっては“Osaka Native”なんですよね(笑 )。ごちゃっとした感じというかいろいろ混ざってるというか。かっこいいと感じでもらえてたら自分的には何でもいいです(笑)。

大阪の人ってそういう感覚があるよね。ボアダムスもそうだったし、いろんなものをいろんなところから持ってくる独特の雑食性。しかも、わけのわからない、脈絡のないものを持ってくるみたいなところがあるよね。

G:発想力が重要なんじゃないでしょうか? 面白さというか、人が思いつかないようなもの。とか。そういうことが沁みつきすぎていて、それが自分の色になっているんかなみたいな。これとこれは絶対やらんやろとか。そんなことばっかり。これとこれを混ぜたらめっちゃおもろいねんけどみたいな。コピーみたいなものを自分は全然面白いと思わないので。

今年出たアルバムの『Cashoeiracid』。これはいつの録音なの?

G:これは去年の音源です。去年、ヨーロッパと南米で。

大阪にいるときは作らないんだ(笑)。

G:作らないわけではないんですが、最近は海外で作ってきた作品を、大阪にあるKabamix氏のLMDスタジオでミックスを教えてもらいながら作業したり、海外で作ったものを作品として仕上げる、のに一杯一杯な所もあります。で出来上がったらリリースして次の国へ、みたいな感じです。

旅しているときに作るんだね。おもしろいね〜。

G:ずっと住んでいる場所は安心はするんですけど。初めての場所にいると全てが違うので、なんていうかゾーンに入りやすいんですよね。作りたいというスイッチが絶えず入っていて。ずっと作っています。観光いかんでいいんかとか、みんなに言われますけど(笑)。今年行ったエクアドルもけっきょく全然観光していない。ずっとPablo君(Shamanic Catharsis)とJuan diego Illescas君のスタジオで曲を作っていましたね。あ、何箇所かは行きましたよ!

グランド君の音楽のベースにあるのはハウス・ミュージックだと思うんだけど、ハウスはどこに行っても通用する?

G:難しい質問ですが。通用するとこ通用しないところいろいろあるんではないかと思います。サンフランシスコやカナダのバンクーバーの野外フェスに行ってきましたが、主流はベース・ミュージックなんだと思いましたし。世界のいまのシーンはテクノの人が多いかなと感じることはありますが。それはRAが主体な(これが世界のクラブ・ミュージックの中心)的な風潮なんじゃないでしょうか、この地球は本当に広いので、そういう媒体に取り上げられていないシーンもたくさんあると思います。そういうシーンをもっと知りたいなって。自分の目で耳で見たものが自分にとってはリアルなんで。媒体に取り上げられてない素晴らしい天才達を自分は知っているので。
インターネットが地球上に普及しているので。そういう媒体からみんなこういうのがいまの主流と錯覚して拾ってきている感じがしますね。以前だと雑誌から情報を得ていたと思うので。ただそれは全て日本人が日本人用に作ったもので、あって、という感じですね。日本で異常に人気がある海外アーティストがヨーロッパの同世代のなかでは全然知られてないっていうのもたくさんありますね。誰それ? みたいな。

すごいね。スケールがデカいなぁ。

G:10数年前に比べると自分たちの世代はめっちゃ恵まれていると思っているんですよ。インターネットにしても、海外に行くにしても、昔は本当に大変だったんだろうなと感じます。google翻訳やgoogle mapもあるし、情報を調べればなんでも出て来る。十数年前は海外の現場とかまで行くにしろ、その現地の言葉で運転手に伝えて、行くわけじゃないですか、騙されたりたくさんあったと思います。いまは最悪どうしようもなければアプリのUberに目的地入れてそこまでの料金が出てドライバーが迎えに来てそのまま現場に行けるので、騙されることもだいぶ減っていると思うんです。料金も出ているし、そのドライバーは騙したら自分のポイントも下がるので。そういう意味でもテクノロジーが発達したことによって海外でもDJは動きやすくなっているんじゃないかなと思います。自分はマネージャーもいないので、そう感じます。マネージャーがいるDJの方々はまた違うと思いますが。音源のデモテープとかもいまはメール1本で1秒後には地球の裏まで届くわけじゃないですか。なんで昔の方に比べると本当に時代が変わったんだと思います。あ、あくまで自分の場合は、ですよ。

新しいアルバムはいつでるの?

G:8月にエクアドルで作ったEPが自分たちのレーベル〈Chill Mountain Rec〉からリリースされます。いままではずっと〈Chill Mountain Rec〉という自分らの媒体でリリースもやってきているんですけど、僕はほんまにプロモーション能力もひく過ぎて。

これからもっと売れるますよ! ところでALTZ君とか元気ですか?

G:この前会いました。Kabamix氏がP.Aで所属しているALTZ.Pというバンドのリリース・パーティで豊橋まで見に行ってきました。ALTZさんの歌のパートも増えていて、ボコーダーで。めっちゃかっこよかったです。もともとALTZさんはバンドマンなので、ただのDJとは違って音楽的な部分もちゃんとあって。ああいうふうに歳をとれたらいいなぁって思いますね。みんなでバンドして楽しそうだなって(笑)。同級生の親友と見に行ったんですが、2人で見ながら、こういう風なの憧れるよなって。ALTZさんは天才です。

いまの大阪のシーンはどうなっているの?

G:一時期の壊滅期に比べると新しく発生しているクラブとかもあって。厳しい環境でも止めずにDJとして頑張ってシーンを作っている方もたくさん知っています。いま現場で残っている人たち筋金入りの本気な人たちだと思います、死ぬまでみんな活動するんだなと思います。いまは箱で働いているわけじゃないので、細かなシーンの様子は自分は把握していませんが。僕はいまレギュラーパーティを持っていないのでMamezukaさんとChariさんが主催する『奇奇怪怪』というパーティに定期的に参加させてもらっています。Mamezukaさんは京都で昔、Mashroomというクラブ作ったり、MEGA道楽というライヴや喜怒哀楽やJAMsというパーティをやっていたり、フジロックの前夜祭で毎年DJしていたり、活動、人間性、すごく影響を受けました。関西で豆さんの影響を受けた方々はたくさんいるんじゃないでしょうか。

あの人はすごい初期からがんばってるよね。同じ世代なのでね。昔からアンダーグラウンドでやっている。

G:自分にとって心のお父さんみたいな感じです。

でもマメちゃんは京都じゃなかった?

G:京都です。おもしろいパーティやってます。新しい音楽も取り入れていて。いまだに進化しています。なので、最新の音をやっていますね。クラシックに頼らず、進化する姿勢は本当に素晴らしいです。歳を取っても自分もそうありたいなと思います。ただ、マメさんはデータにはいかずに、自分の曲も絶対に「レコードで出んと俺はかけられへん」って。「マメさんめっちゃええ曲できたんですよ!」って。報告しても「ごめんな」って(笑)。レコードにならないとマメさんに使ってもらえないんで、そういう部分含めて自分にとって心の父なんです。簡単にはかけてもらえないという。
あ、でも、いちばん新しいのは「AMANOGAWA EP」というレコードなんです。ドイツの〈SVS〉というレーベルから最近出たやつで。Bartellowというドイツ人アーティストと僕が一緒にプロデュースしたやつで、彼の来日ツアー時にKabamix氏のLMDスタジオで作った曲で。
シンセサイザーにMAYUKoさん、ヴォーカルにArihiruaさんやMt.Chills、Kabamix氏も参加してくれています。BARTELLOW & DJ GROUNDという名義で出てます。それはマメさんに使って貰えるかもですね。笑

消費税廃止は本当に可能なのか? (2) - ele-king

私たちが日々疑問なく支払っている消費税は本当に必要なのだろうか?

 とうとう10月1日から消費税が10%に上がった。今回の消費増税に関しては、社会保障を支える為に必要だという賛成意見もあり賛否両論となっているが、ちょうどこの日にタレントのロンブー敦氏がツイッターで面白いアンケートを実施していたので紹介させてもらいたい。「さぁ今日から消費税増税 8%~10%へ どうか消費が冷え込みませんように… 僕もガシガシ消費しまくります!」と添えたアンケートでは以下のような結果になっていた。

 消費税0%に戻して欲しい! 45%
 消費税5%に戻して欲しい! 26%
 消費税8%に戻して欲しい! 5%
 消費税10%は仕方ない!   25%

 全属性がツイッター民であるというバイアスがあるものの、ロンブー敦氏のフォロワーは主にノンポリ層のはずで、その彼らが65,636票も投じているのだから、大変興味深いサンプルと言えるだろう。実に45%もの人たちが消費税廃止を望み、全体で76%が減税ないし廃止を望んでいるのである。マスコミの世論調査とは随分と違う結果になったことに驚くばかりだ。

 さて、前回コラムでは経済における「合成の誤謬」についてお伝えした。良かれと思って貯蓄や無駄の削減に励むことは、経済全体にとって富の喪失につながるという理論だ。

 この「合成の誤謬」のままに、レッセフェール的な資本主義体制を進めると、富の偏りが生まれてしまうため、政府がその財政的権力をもって是正すべく介入しなければならない。富の偏在、つまり経済的格差の拡大が経済停滞を招くことは、過去にもIMFやOECDをはじめとする国際的機関や数多くの経済学者に指摘されていて、すでに常識とされるところだが、この資本主義の負の側面の拡張を放任するばかりか、後押しし続けたのが我らが日本政府であった。

 日本政府は、公務員数や公共投資などを削り、無駄という無駄を削減し続け、財政と経済を緊縮化させた。経済が緊縮状態になると、その収縮効果に伴いデフレスパイラルが形成される。それによって所得税や法人税などの税収も減少することは火を見るより明らかだろう。しかし政府は、そのデフレにより足りなくなった税収の穴埋めを、あろうことか人々の消費行動への罰金である消費税に求め、さらなる経済のシュリンクを加速させた。

 本来ならこのことは、「合成の誤謬」だとか「レッセフェール」だとかという専門用語を使って説明する必要すらない。政府は「飢饉で米が取れないから、さらに年貢を増やす」とやっているのだから、説明不要の愚策と言える。しかもこの年貢は、飢饉で苦しむ庶民の中でも最弱者である病人や子供からも等しく徴収する人頭税に等しい。よしんばこの人頭税を課すにしても取り方というものがあるのではないか。

 庶民の消費行動に、足かせである消費税を課し、消費活動を減退させるということは、そのまま誰かの所得の減少に繋がる。誰かの所得が減るということは、その彼の消費も減り、また他の誰かの所得も減少させることになるため、ここに経済の悪循環が完成してしまう。「誰かの消費は誰かの所得」であるので、当然の帰結だ。

 実際にこの20年間(96年~16年)の日本のGDP成長は1.00倍で、まったく増えておらず、戦争や紛争が起こっている国を除けば断トツで世界最下位の成績だ。中国は13倍、米国は2.3倍、先進国で日本の次に悪いドイツでさえ1.4倍に増えている中でだ。加えて国民の年収の中央値も100万円以上も下がっている。こんな衰退国家は日本をおいて他に存在しない。日本政府や大本営マスコミは「いざなぎ越えの好景気」と喧伝するが方便でしかない。

 政府は税率を上げて庶民から召し上げ、大企業は野放図な資本主義体制のもと、庶民や中小企業からお金を取り上げる。需要の足りないデフレ下で、決してやってはならない経済運営を進めてきた。はっきり言って、わが国の「衰退途上国」化は、大企業経営者たちや無能な日本政府が推し進めてきたと言っても過言ではない。

 では、この悪循環をどう断ち切ればよいのだろうか。反緊縮派の多くは、一つに「消費税の廃止」、そして二つ目に「政府による財政出動」が有効策であると考えている。

 まず、消費税、ひいては租税の意義について考えてみたい。そもそも徴税の役割とは財源を得るためにあるのではなく、景気の調整のみにあるという考えがある。「景気自動調節機能=ビルト・イン・スタビライザー」と呼ばれる政策がそれだ。これは累進課税制度により、儲かっていない分野はそのままに、そして儲かっている分野、景気が過熱し過ぎた分野からは相応の額の徴税を通じて、景気の安定化を図ろうという仕組みだが、中学・高校の公民や政経の教科書にも載っている、いたって一般的な概念となる。

 17世紀のオランダでチューリップ・バブルが起こったことはよく知られている話だろう。人々が価格高騰するチューリップの球根への投資に熱狂し、僅か数年で球根ひとつに平均年収の10年分もの価格がつくほどになったが、突如バブルが崩壊し、価格が100分の1にまで暴落、投資家たちが債務不履行に陥り、景気が悪化したというものだ。ビルト・イン・スタビライザーはこういった過熱する分野(主に金融や不動産)に所得税や法人税などで累進課税制をしき、自動的に増税を行う形で需要を減少させ、行き過ぎた景気過熱やバブルを防ごうという考え方だ。

 立命館大学の松尾匡教授は「なぜ、わざわざ税金を取るのか。政府がお金を作り続けると、世の中にお金が出過ぎて、購買能力がその国の供給能力を超え、インフレが激化していく。これを防ぐために税金を取って購買力を抑える。目的はインフレの管理なのだ。財源が必要だから税金を取るという考えは家計の場合であって、家計と一緒にしてはいけない」と語っているが、税の役割は財源の確保のためではなく、インフレ管理などの景気調整にあるということだ。

 翻って消費税を見た場合、その景気自動調節機能がない。よく考えればわかるはずだが、消費税を課せられている病人や子供を含む庶民全般に、儲かって儲かって仕方がないという景気過熱の状況が生まれることなどあるだろうか? 答えは否である。

 もうひとつ一般的に税の役割として考えられているものが、所得や資源の再分配機能となる。しかしこれも消費税にはほとんどないと言える。そりゃそうである。病人や貧困層から税金を集めて、これを再び病人や貧困層に戻すという仕組みなのだから、二度手間だし、こんなバカげた話もない。下図のように、消費税は富裕層には優しく、貧困層には地獄のような、逆進性の高い税なのだ。これが再分配のための税といえるだろうか。


画像:山本太郎氏・街頭演説より

 因みに、諸外国の消費税・付加価値税のほとんどにはしっかりと軽減税率が設定されており、累進課税の機能も担保されているため、日本の消費税のような性格──日本の軽減税率は、主に食料品と新聞にかかる2%分のみが対象で、その他の生活必需品の購入にはそのまま10%が課税されるが、ほとんどの諸外国では日用品も軽減税率の対象となっている──にはない。そのため、日本の全国税の税収に占める消費税収の割合は、福祉国家といわれる北欧と比べても遜色ない状況になっている。

 実際に、日本の消費税収は、25%の消費税を設けるデンマークより多い状態にあるが、日本人は、北欧のような充実した福祉サービスを受けられているだろうか。このことから、北欧並みの消費税を課すべきだという議論がいかにナンセンスであるかがわかるだろう。すでに北欧並みに課税されているわけだから。

 消費税には景気自動調節機能がなく、また所得や資源の再分配機能も乏しいことがわかった。それ以外にも、日本の消費税の不公平性は多岐にわたる。すべて社会保障に使われると約束されていたはずの消費税収分の8割ほどが、実際は国債償還等に充てられ、多くが再分配されていないばかりか、通貨をこの世から消滅させているという事実まであるうえに、──前述した経済団体のロビイング活動の賜物としてだが──消費税が、大企業を優遇するための法人税減税で目減りした財源の穴埋めにも使われてきた側面もあるのだ。もしどうしても、消費税廃止の穴埋めを税だけで賄いたいと言うのなら、この30年間かけて減税してきた法人税や所得税の累進性を復活させ、租税特別措置などを元に戻せばよいだけのはずだ。


画像:山本太郎氏・街頭演説より

 今まで消費税は社会保障費を賄うために必要だと信じられてきた。「いろいろ問題があるからと言って消費税を廃止にすることまではないんじゃないか」といった意見もあるだろう。でも財源を逆進性の高い消費税に求めては、国民経済が停滞することに繋がり本末転倒だ。自らの首を絞めることに繋がってしまうのだから、再考する必要があるだろう。

 そこで、消費税収に替わる財源を得るため、そして国民経済を後押しするための政策が、反緊縮派が二つ目に挙げる「財政出動」ということになる。

 「財政出動すると財源が減ってしまうのではないか」と思われる方もいるかもしれないが、それは誤りである。財政出動すると、実体市場に通貨が創造されるので、支出することそれすなわち財源となることを意味する。

 おそらく、ケインズ派(ニューケインジアン左派、ポストケインジアン、MMTer)の議論を知らない人にとって、この「財政支出すること自体が財源となる」という概念は意味不明だろうと思う。次回はこの概念「スペンディング・ファースト(Spending First)」の説明を中心に続けたい。

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