「W K」と一致するもの

Daniel Crawford - ele-king

 ロバート・グラスパーの成功以降、ジャズとヒップホップやR&Bを同列に演奏し、その間を自在に行き来するジャズ・ミュージシャンも普通となってきた。クリス・デイヴやマカヤ・マクレイヴンのように、ビートメイカーやプロデューサーも兼ねるミュージシャンも増えている。西海岸であればスヌープ・ドッグやケンドリック・ラマーらと一緒に仕事をするテラス・マーティンとか、ニュージーランド出身で現在はロサンゼルスを拠点とするマーク・ド・クライヴローなどが、そうしたプロデューサー・タイプのミュージシャンの筆頭だろう。ロサンゼルスのサウス・セントラル出身のダニエル・クロフォードも、同じくマルチ・ミュージシャン/プロデューサーのひとりだ。5才からピアノを始めた彼は、ハイ・スクール時代の仲間とワイルド・バンチというヒップホップ・バンドを結成し(マッシヴ・アタックの前身のワイルド・バンチと同名だが、全く別のバンド)、その活動をきっかけにラファエル・サディークやメアリー・J・ブライジなどと共演するようになった。ヒップホップ、R&B、ソウル、ファンク方面の多くのセッションに参加してきた経歴は、グラスパーやクリス・デイヴなどのそれと被るところもあり、実際に彼の作品はロバート・グラスパー・エクスペリメントの影響が強い。2012年にリリースしたファースト・アルバム『レッド・ピル』では、RGEの“ムーヴ・ラヴ”を自身のピアノでリミックス(というかカヴァー演奏)しているが、ジャズ・ピアノとヒップホップ・ビートの融合から、ヴォコーダーを用いた演奏、メドレー形式やインタールードを挟んだスタイルは、まさにRGEの『ブラック・レディオ』を彼なりに咀嚼したものと言える。

 2014年にはセカンド・アルバム『ジ・アウェイクニング』をリリースするが、こちらはアンプ・フィドラー、ヴィクター・デュプレ、クリーヴランド・P・ジョーンズらをシンガーとしてフィーチャーし、インストのジャズ×ヒップホップ集だった前作から格段に音楽性の幅が広がっていた。その音楽性の拡張にはアフロやブロークンビーツなどの要素の導入もあり、ダニエル・クロフォード自身もいちミュージシャンではなく、総合的な音楽プロデューサーへとステップ・アップした姿が伺えた。『ジ・アウェイクニング』は日本でもCDリリースされ、新世代ジャズ・ミュージシャンのひとりとして来日公演も行ったのだが、基本的に彼はbandcampで自主リリースを行うスタイルをとっている。ミックステープやリミックス集、Jディラへのトリビュート作品などリリース自体はとても多いものの、グラスパーやテラス・マーティンなどに比べればまだまだアンダーグラウンドな存在である。そんなダニエル・クロフォードの『ジ・アウェイクニング』以来、4年ぶりとなるニュー・アルバムが『レヴォリューション』である。

 『レヴォリューション』は『レッド・ピル』『ジ・アウェイクニング』から続く最終章という位置づけで、ソウルの影響が色濃いジャズに、アフロビート、フュージョン、R&B、ヒップホップなどのエッセンスを融合したもの。今回は前2作に比べてずっとゲスト・ミュージシャンが増えて、DJジャジー・ジェフ、ダイン・ジョーダン、マイモウナ・ユセフ、カイディ・テイタム、オスンラデ、ジメッタ・ローズ、オマリ・ハードウィックらが参加。この中で注目すべきはUKのカイディ・テイタムだろう。そもそもカイディは、ミュージシャンとプロデューサーを結ぶスタイルや音楽を1990年代からやってきた大ベテランで、現在の南ロンドンのジャズ・ミュージシャンにも多大な影響を及ぼすひとりだが、ダニエル・クロフォードにとっても指針とすべきアーティストであることは、今回の共演を見ても明らかだろう。ジャジー・ジェフ、ジメッタ・ローズ、マイモウナ・ユセフらはダニエルとヒップホップ~R&B~ネオ・ソウルとの結びつきを示すのに対し、オスンラデの参加はアフリカ音楽との結びつきを示す。ダイン・ジョーダンはジャジー・ジェフと同じくフィラデルフィア出身の若手ラッパーで、ジェフと一緒に作品リリースも行っている。カイディ・テイタムのニュー・アルバム『イッツ・ア・ワールド・ビフォア・ユー』には、ジャジー・ジェフの息子のアミール・タウンズも参加していて、『イッツ・ア・ワールド・ビフォア・ユー』のミックスを手掛けたエリック・ロウは『レヴォリューション』でも1曲ミックスを担当しているので、そうしたピープル・ツリー的な人物相関図も浮かんできそうだ。

 “レヴォリューション・イントゥルース”は自身のヴォイスも交え、アフロフューチャリズムを通過したジャズ・ファンクを展開。オープニング的なこのナンバーは、後に“レヴォリューション”として再登場。本編はより土着性の強いアフロ・ジャズとなっているが、こうしたアフリカ色濃厚なバック・トゥ・ザ・ルーツ的な色彩がアルバムを通じてのひとつのトーンとなっている。“ケイピン”や“チェックリスト”は、プログラミング・ビートと鍵盤のコンビネーションによるジャズとファンクの融合。ハービー・ハンコックの『セックスタント』や『ヘッド・ハンターズ』以降、ジャズにおけるアフロフューチャリズムにはスペイシーな感覚がつきものだが、ここではエッジ感のあるギターと共にキーボードがそれを表現する役割を担っている。“クミコ(スペンド・ザ・ナイト)”はブロークンビーツ調のナンバーで、中盤以降のピアノ・ソロも交えたコズミックな展開はカイディ・テイタムの作品に通じる。一方、そのカイディがフルート演奏で参加した“テレパシー”は、マイモウナ・ユセフのヴォーカルをフィーチャーしたネオ・ソウル的ナンバー。メロウネス漂う中にも土台にはアフリカ音楽のリズムが横たわっている。ジメッタ・ローズが歌う“サイレンズ”も同系のオーガニックなソウル・ナンバーで、彼女の歌声からミニー・リパートンやロータリー・コネクションなどに繋がるところも感じられる。

 ジャジー・ジェフとダイン・ジョーダン参加の“イルージョン・オブ・インクルージョン”は、ヒップホップのビートメイカーとしてのダニエルの側面が表れた作品だが、あくまでキーボードを含めたジャズの生演奏が基本となっている点はRGE同様だ。“サイレンス・イズ・コンプライアンス”や”ビフォア・ザ・ストーム“では、ジャズ・ピアニストとしてのダニエルのプレイを堪能できる。美しいピアノ・ソロが大々的にフィーチャーされる“サイレンス・イズ・コンプライアンス”は、RGEではなくロバート・グラスパー・トリオの方に近い演奏だろう。終盤で俳優のオマリ・ハードウィックによるスポークン・ワードも披露される。オスンラデがヴォーカルで参加した“オール・カムズ・ダウン・トゥ・ワット”は、彼が普段やっているようなディープ・ハウスではなく、土着的でゆったりとしたアフロ~カリビアン・リズムとジャズやファンクが結びついた作品。“マーチ・オブ・ザ・ガラ”もカリブ色が強く、ディーゴ&カイディあたりに近いブロークンビーツ経由のジャズとなっている。ちなみにガラとはサウス・カロライナ州とジョージア州の海岸沿いのことで、アフリカ系アメリカ人やクレオールが多く住み、アメリカにおけるアフリカのルーツが色濃く残された地域である。この曲から次曲の“レヴォリューション”へと続く流れは、アフリカ系アメリカ人であるダニエル・クロフォードのディアスポラな意識がもっとも強く表われた場面だろう。エンディングの“13”は彼の父と兄弟も参加し、亡くなった祖父や親類たちへ捧げている。ファミリーや一族のルーツを示したこの曲は、アルバム全体のテーマを象徴しているだろう。

ジム・オルーク - ele-king

 ジム・オルークはいかなる音楽ジャンルもマスターできる人だと立証する必要がもっとあるとしたら、アンビエント/エレクトロニック音楽に焦点を絞った新レーベル〈ニューホェア・レーベル〉から6月にリリースされた『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』は確実にその証拠をもたらしてくれる1枚だ。豊かな質感を備え、ときに驚くほど耳ざわりなサウンドから圧倒的で不気味な美の感覚を作り出す音楽作品『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』は、パワフルで心を奪う。

 そのアルバムをライヴ・パフォーマンスへと置き換える行為には常にチャンレジが付きまとうもので、というのもライヴ会場のリスニング環境次第でその音楽経験も変化するからだ。エリック・サティが開拓しブライアン・イーノによって統合された本来のアンビエント・ミュージックは「音楽的な家具」――すなわちその聴き方に特定のモードを押し付けてこない音楽だった。しかし、数多くの観衆がひとつのホール内に囲い込まれ、立ったまま、ステージを見つめながらの状態で集団としてアンビエントのパフォーマンスを体験するというのは、そうしたライヴ環境そのものの性質ゆえに、音楽をとある決まったやり方で味わってくださいと求められることでもある。
 
 それだけではなく、2年越しでまとめられ、『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』を形作っていくことになった繊細にバランスがとられたテクスチャーと音の重なりとを、このライヴ・パフォーマンスがそっくりそのまま再現するはずがない。ジム・オルークのようなミュージシャンは、いったん自分の中から外に送り出してしまった作品を再び訪ねたり再構築しようという試みくらいでは満足できない、変化を求め続けるアーティストである点も考慮に入れるべきだろう。そもそも、彼のおこなったアルバムのライヴ解釈の演奏時間はCD版の倍の長さであり、ルーズな構成の中に新しいサウンドやアイディアを盛り込みつつ、それでもアルバムに備わっているのと同じ音響面での文法のいくつかはちゃんと維持している、そういう内容なのだから。

 アンビエント・ミュージックの本質はロックのリズムを否定するというものではあるが、『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』には特有のリズムがあり、完全な静寂の瞬間とは言い切れないものの、それにかなり近いものによって句読点を記されながら、そのリズムは満ち欠けしていく。アルバムにはキーとなるふたつの静止場面があり、そこで聴き手は可聴域のぎりぎりのところで音や振動波を探しまわることになるのだが、音楽はごく漸次的で慎重なペースでもってしか耳に聞こえるレヴェルにまでこっそりと忍び戻ってはこない。ライヴの場でも、同様に静寂がたゆたうプールふたつの存在がパフォーマンスの構成を定義するのを助けていた。それでも会場のウォール&ウォールに訪れたそうした静寂の瞬間は、スタジオに生じる漠たる静寂にはなり得ない──それは屋根で覆われたコンクリートの箱の中にめいっぱい詰まった、たくさんの押し黙った身体が懸命に息をひそめようとしている、そんな場に生まれる静けさの瞬間だ。

 音源作品としての『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』とオルークがしょっちゅうやっている「スティームルーム・セッションズ」のオンライン・リリースとの関係が、少なくとも同アルバムに何かしらの痕跡を残しているらしきことは、オルークが「スティームルーム」で発表されたもののいくつかはある意味『スリープ・ライク・イッツ・ウィンター』の「できそこねたヴァージョンなのかもしれない」と示唆していることからもうかがえる。今年6月にあのアルバムが発表されて以来、「スティームルーム」からは他にもう2作が浮上してきているし、これらの新音源に備わった遺伝子が、音楽をまた新たな何かに変容させつつあるという印象を抱かされる。そこから生まれるのは刻々と変化する奇妙な日没、ぼんやりとした、歪んだ「蜃気楼(Fata Morgana)」(※)が溶け出し、彼方に浮かぶサブリミナルな拍動へと組み変えていくようだ。

※筆者補遺=Fata Morganaは蜃気楼(訳者註:アーサー王物語に登場する魔女・巫女Morgan le Fay=モーガン・ル・フェイにちなみ、イタリア読みがファータ・モルガーナ。水平線や地平線上に見える船や建物などの「上位蜃気楼」を意味する)を意味する言葉だが、このパフォーマンスとも関係がある。オルークの演奏中、その背景には異星の景色っぽく見える歪曲されたヴィデオ・プロジェクションが流れていたのだが、友人はその映像の元ネタはヴェルナー・ヘルツォークの映画『蜃気楼(Fata Morgana)』(1971年)ではないかと指摘していた。


Jim O'Rourke

Live@Wall & Wall Aoyama, Tokyo
17th Nov, 2018

text : Ian F. Martin

If the world needed any further evidence of Jim O'Rourke's ability to master any musical genre, the release in June of Sleep Like It's Winter for new ambient/electronic-focused label Newhere Music provided it in spades. A richly textured piece of music that creates an overwhelming sense of eerie beauty out of sometimes surprisingly harsh sounds, Sleep Like It's Winter is a powerful and captivating album.
Turning it into a live performance was always going to provide challenges, due to the way a live listening environment changes the experience of the music. Ambient music as originally pioneered by Eric Satie and consolidated by Brian Eno was musical furniture – music that doesn't insist on a particular mode of listening. However, a large crowd of people all corralled into a hall to experience an ambient performance collectively while standing, facing the stage are by the nature of the environment being asked to consume the music in a certain way.
There's also no way a live performance is going to recreate exactly the delicately balanced textures and layers that over the course of two years combined to form Sleep Like It's Winter, and you've got to guess a musician like Jim O'Rourke is too restless an artist to be satisfied attempting to revisit or recreate a work he has already got out of his system. For a start, his live interpretation of the album is twice as long as the CD, incorporating new sounds and ideas into a loose structure that nevertheless retains some of the same sonic grammar as the album.
While the nature of ambient music is that it rejects the rhythms of rock music, Sleep Like It's Winter has a particular rhythm of its own, waxing and waning, punctuated by moments of, if not exactly silence, then something quite like it. The album features two key moments of stillness, where your ears are left to hunt for tones and frequences at the very edge of your hearing, the music creeping back into the audible range at only the most gradual and deliberate pace. Live, two similar pools of silence help define the structure of the performance, although at Wall & Wall, these moments cannot be the silence of the studio: they are the silences of a high-ceilinged concrete box filled to capacity with quietly shuffling bodies, trying not to breathe.
The relationship between the recorded form of Sleep Like It's Winter and O`Rourke`s frequent Steamroom Sessions online releases appears to have left at least some mark on the album, with O'Rourke suggesting that some of the Steamroom releases might be in part “failed versions” of Sleep Like It's Winter. Since the album's release in June, two more Steamroom releases have emerged, and it feels like the DNA of these new recordings has gone to work mutating the music into something new. The result is an ever-shifting alien sunset, a blurred, distorted Fata Morgana dissolving and reformulating to a distant, subliminal pulse.

The reference to "Fata Morgana" is maybe a bit difficult to translate. Of course the phrase has a meaning in relation to optical illusions and visual distortions in the atmosphere. However, it's also relevant to Jim's performance. While he was playing, there was a distorted video projection of what looked like an alien landscape, and I was talking to a friend about it who thought it looked like the original clip was from the Werner Herzog documentary movie called "Fata Morgana" . I don't know how you'd translate that, but there is a kind of double-meaning in the phrase.

東京DUB ATTACK - ele-king

 2018年を締めくくる、国内サウンドシステム・ダンス大一番! 同じフロアの中に3つのサウンドシステムを入れて交互に鳴らしあう、ゴマカシ効かないガチンコ・セッション。
 レゲエ(Reggae)において、もっともタフでハードコアな要素にサウンドシステムがある。DIYに設計された独自のスピーカーの山、規格外の低音、1ターンテーブルに置かれる破壊力抜群のダブ・プレート、シャワーのように降り注ぐダブワイズ……あくまでもオリジナルな音を追求し、その場でしか生まれ得ない究極のサウンド体験。それがサウンドシステムにおける”Dub”である。
 “過去(Roots)”、“現在(Present)”そして”未来(Future)”を体現するサウンドシステムが一同に介し同じ空間にて鳴らし合う、シンプルかつ危険なセッション。初開催となる今回は、説明不要のレゲエ帝王マイティークラウンのサウンドシステムを要するScorcher Hi Fi (STICKO & COJIE of Mighty Crown)と“世界基準のサウンドシステム・ミュージック”を掲げるBim One Production + eastaudio Soundsystem、そして関西より唯一無二のサウンドを響かせる最高音響とDub Meeting Osaka (Sak-Dub I, HIROSHI and Dub Kazman)がユナイト(団結)し年末の代官山Unitを揺らす。
 国内ではあまりない純粋なスピーカーの鳴らし合い、日本における新しいサウンドシステム・カルチャーの幕開けがここにはじまる。


TOKYO DUB ATTACK

3 Soundsystem Sessions by :
SCORCHER Hi Fi with Sound System
Bim One Production feat. MC JA-GE with eastaudio Soundsystem
Dub Meeting Osaka (SAK-DUB-I, HIROSHI and DUB KAZMAN) with 最高音響Soundsystem

12月30日@代官山ユニット
OPEN : 17:00
START : 17:00

CHARGE :
Adv 2,800yen / Door 3,300yen
(共にドリンク代別)
※再入場不可
※小学生以上有料/未就学児童無料(保護者同伴の場合に限る)

TICKET :
>> >>一般販売 : 11/3(SAT) on sale
チケットぴあ 0570-02-9999 [P] 131-788
ローソン 0570-084-003 [L] 72780
e+

>> >>STORE
代官山UNIT 03-5459-8630
RAGGA CHINA 045-651-9018
diskunion 渋谷クラブミュージックショップ 03-3476-2627
diskunion 新宿クラブミュージックショップ 03-5919-2422
diskunion 下北沢クラブミュージックショップ 03-5738-2971
diskunion 吉祥寺 0422-20-8062
DISC SHOP ZERO 090-7412-5357 
Dub Store Record Mart 03-3364-5251
UP DOWN RECORDS


Unitイベントページ
https://www.unit-tokyo.com/schedule/2018/12/30/181230_tokyodubattack_2.php

追悼 ピート・シェリー - ele-king

 近頃はみんながハッピーだ
 僕たちはみんなそれぞれのインスタグラムでポップ・スターをやっていて、最高に楽しそうな、もっとも自己満足できるヴァージョンの自らのイメージを世界に向けて発している。僕たちは文化的なランドスケープの中を漂い、愉快そうでエッジがソフトな人工品に次から次へと飛び込んでいく。そこでは硬いエッジに出くわすことはまずないし、蘇生させてくれる一撃の電気を与えることよりもむしろ、締まりのない、無感覚なにやけ笑いを引き起こすのが目的である音楽に自分たち自身の姿が映し出されているのに気づく。

 近頃では、バズコックスにしてもポップ・カルチャーのほとんどに付きまとう、それと同じ麻痺した喜びのにやけ顔とともに難なく消費されかねない。ノスタルジーの心あたたまる輝き、そして40年にわたって続いてきたポップ・パンクのメインストリーム音楽に対する影響というフィルターを通じてそのエッジは和らげられてきた(AKB48の“ヘビーローテーション”はバズコックスが最初に据えた基盤なしには生まれ得なかったはずだ、とも言えるのだから)。ピート・シェリーとバズコックスはファンタスティックなポップ・ミュージックの作り手だったし、その点を称えるに値する連中だ。

 だがもうひとつ、ポップ・ミュージックはどんなものになれるかという決まりごとを変えるのに貢献した点でも、彼らは称えるに値する。ザ・クラッシュとザ・セックス・ピストルズの楽曲が、それぞれやり方は違っていたものの、怒りや社会意識と共に撃ち込まれたものだったのに対し、バズコックスは60年代ガレージ・ロックの遺産を労働者階級系なキッチン・シンク・リアリズムの世界へと押し進め、十代ライフのぶざまさを反映させてみせた。彼らのデビュー作『スパイラル・スクラッチEP』に続くシングル曲“オーガズム・アディクト”は自慰行為の喜びを祝福するアンセムだった(同期生のジ・アンダートーンズも同じトピックをもうちょっとさりげなく歌ったヒット曲“ティーンエイジ・キックス”で好機をつかんだ)。そのうちに、ハワード・ディヴォートがマガジン結成のためにバンドを脱退しシェリーがリード・ヴォーカルの座に就いたところで、“ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?”や“エヴァー・フォールン・イン・ラヴ(ウィズ・サムワン・ユ―・シュドゥントヴ)”といった歌では欲望というものの苦痛を伴う複雑さを理解した音楽作りの巧みさを示すことになった。

 バズコックスだけに焦点を絞るのはしかし、ピート・シェリーの死を非常に大きな損失にしている点の多くを見落とすことでもある。バンド結成の前に、彼はエレクトロニック・ミュージックで実験していたことがあり、その成果はやがてアルバム『スカイ・イェン(Sky Yen)』として登場した。そして1981年にバズコックスが解散すると、彼はシンセサイザーに対する興味と洗練されたポップ・フックの技とを組み合わせ、才気縦横でありながらしかしあまり評価されずに終わったと言えるシンセポップなソロ・キャリアを、素晴らしい“ホモサピエン”でキック・オフしてみせた。

 シェリーはバイセクシュアルを公言してきた人物であり、概して言えば満たされない欲望やうまくいかずに終わった恋愛といった場面を探ってきたソングライターにしては、“ホモサピエン”でのゲイ・セックスの祝福は一見したところ彼らしくない直接的なものという風に映った。ここには事情を更に複雑にしている層がもうひとつあり、それは当時の一般的な英国民が抱いていたホモセクシュアリティは下品で恥ずべきものという概念を手玉にとる形で、シェリーがホモセクシュアリティを実に喜ばしいロマンチックなものとして描写した点にあった。言うまでもなくBBCは躍起になってこの曲を放送禁止にしたしイギリス国内ではヒットすることなく終わったが(アメリカではマイナーなダンス・ヒットを記録した)、ブロンスキー・ビートやザ・コミュナーズといったオープンにゲイだった後続シンセポップ・アクトたちは少なくともシェリーに何かを負っている、と言って間違いないだろう。
 
 ピート・シェリーはポップ・ミュージックのフォルムの達人であったかもしれないが、我々アンダーグラウンド・ミュージック・シーンにいる連中にとって、彼の残した遺産そのものもそれと同じくらい重要だ。『スパイラル・スクラッチEP』はその後に続いたDIYなインディ勢の爆発そのものの鋳型になったし、ミュージシャンがそれに続くことのできる具体例を敷いたのは、もっと一時的な華やかさを備えていてポリティカルさを打ち出したバズコックスの同期アクトがやりおおせたことの何よりも、多くの意味ではるかに急進的な動きだった。その名にちなんだ詩人パーシー・ビッシュ・シェリーのように、ピート・シェリーもまたラディカル人でロマン派だったし、彼の影響は深いところに浸透している。

R.I.P. Pete Shelley

text : Ian F. Martin

Everybody’s happy nowadays.
We’re all pop stars of our own Instagram accounts, projecting the happiest, most self-actualised version of ourselves out to the world. We drift through a cultural landscape, bouncing from one cheerfully soft-edged artefact to another without encountering any hard edges, finding ourselves reflected in music whose goal is to induce a slack, anaesthetic grin rather than a resuscitating jolt of electricity.
Nowadays, Buzzcocks can be comfortably consumed with the same slack grin of numb enjoyment that accompanies most pop culture, the warm glow of nostalgia and the filter of 40 years of subsequent pop-punk influence on mainstream music softening its edges (AKB48’s Heavy Rotation could arguably never have existed without The Buzzcocks having first laid the foundations). Pete Shelley and The Buzzcocks made fantastic pop music and deserve to be celebrated for that.

However, they also deserve to be celebrated for helping change the rules for what pop music could be. While The Clash and The Sex Pistols’ songs were, in their own differing ways, both shot through with anger and social consciousness, Buzzcocks pushed the legacy of ‘60s garage rock into the realm of kitchen- sink realism, reflecting the awkwardness of teenage life. Orgasm Addict, which followed their debut Spiral Scratch EP, was a celebratory anthem about the joys of masturbation (contemporaries The Undertones made hay from the same topic slightly more subtly in their hit Teenage Kicks). Meanwhile, as Shelley settled into the role of main songwriter following Howard Devoto’s departure to for Magazine, songs like What Do I Get? and Ever Fallen In Love (With Someone You Shouldn’t’ve) showed a knack for music that recognised the tortured complexities of desire.
Focusing only on Buzzcocks misses a lot of what made Pete Shelley’s death such a loss though. Prior to the band’s formation, he had experimented with electronic music, the results of which eventually appeared as the album Sky Yen, and following his band’s dissolution in 1981, he combined his interest in synthesisers with his knack for sophisticated pop hooks, kicking off a brilliant if underappreciated synthpop solo career with the magnificent Homosapien.

Shelley was openly bisexual, and for a songwriter who typically sought out moments of frustrated desire and love gone wrong, Homosapien was on the face of it uncharacteristically direct in its celebration of gay sex. The complicating layer here lay in the way Shelley played with the British public’s perception at that time of homosexuality as something tawdry and shameful by depicting it in such joyous and romantic terms. Obviously the BBC fell over themselves to ban it and it was never a UK hit (it was a minor dance hit in America) but the subsequent success of openly gay synthpop acts like Bronski Beat and The Communards surely ows at least something to Shelley.
Pete Shelley may have been a master of the pop music form, but for those of us in the underground music scene, his legacy is just as important. The Spiral Scratch EP was the template for the whole DIY indie explosion that followed and as an example for musicians to follow was in many ways a more radical move than anything Buzzcocks’ more flashily political contemporaries managed. Like the poet Percy Bysshe Shelley, from whom he took his name, Pete Shelley was a radical and a romantic, and his influence runs deep.

Leonardo Marques(レオナルド・マルケス) - ele-king

 たとえば、晴れた日の椰子の木の倒れかかっている浜辺を、あなたの愛人と歩いているとき、いまここで起こっていることがいつかずっと以前ににあったことなのではないか? もしくはこれから起こることなのではないか? と考えることがある。そのような不思議な情緒をキャッチしてしまったら最後、ただそれを待ち続けることになるほどに、自己の真相に触れた気分になる。かといっていつもそう簡単に舞台は整わない。不思議な消息が脳裏にとどめられていたとして、その後たとえばホテルの一室にて、次に来るべきものは、急激な現実。自己の喪失。結局のところまだ誰もいない浜辺で旋回する鳥のように、来たるべきときを思い描くことしかできない。
 いや、冒頭からつまらないことを書いてしまったが、3年振りに届いたレオナルド・マルケスのニュー・アルバム『アーリーバード』は、まどろみと現実と自己との距離感のダイナミクスが織りなす、限りなくパーソナルな「ヒーリング・ポップ」だ。

 ブラジルのミナス・ジェライス州出身のシンガーソングライターで、ミナスのバンド、トランスミソールで活動するほか、スタジオ「イーリャ・ド・コルヴォ」を所有しながら様々なミュージシャンのプロデュースなどもしているようだ。ミニマリスタことタレス・シルヴァ、アンドレ・トラヴァッソスのソロユニットMOONS (ムーンズ)、ギ・アルグレアヴェスなどなど興味深い作品が次々とこのスタジオで録音されている。どことなくスタジオの音、また集まってくる音楽には通底するものが感じられて、それは「that was the ideia, to mix old and new sounds」というミニマリスタのアルバムの発売時メールしたときの言葉通り、アナログ機材を生かしたさりげないマルケスらしさに与るところ少なくないと思われるのだが、『アーリーバード』を聴くとそれがよくわかる。ミキシング含め自身でやり通してることもあって、彼の音全開だからだ。その点、「ジョン・レノン、エリオット・スミス、マック・デマルコ、そしてジョビンに影響を受け」ながら、確実に繋がっているものの、それらのどこにもない質感をまとっている。そして、ささやかに色とりどりな各楽曲と、その質感は不可分の関係だろう。
 #1“THE GIRL FROM BANEMA"は、アルバム・ジャケットからも覗えるA&M期のジョビンのオマージュ的タイトルだろうか。コラージュ作品のようなPVが様々な想像をもたらす。#2“I'VE BEEN WAITING"はマルケスらしいディレイ処理が施されたヴォーカルが印象的なキラー・チューン。ドラムは、シンプルな8ビートだが、ハットの入れどころが絶妙で全然退屈しないので、思わず名8ビートプレイリストに追加してしまった。僕は、2015年の来日公演でドラムを叩かせてもらったのだが、シンプルな曲のなかでも止まらないリズムが通底していて、8ビートのような一見ブラジルらしいわけではないようなリズムでも、パルチード・アルトを肉削ぎしたような頭にバスドラがないリズムでも、幅があるというのだろうか、すんなり乗ってブラジルの底力を知らされた。前作に比べて『クルービ・ダ・エスキーナ』の感じは薄くなったかもしれないが、確実に生きていることがわかる。

 アルバム一周聴いて、また頭に戻ってここまで聴いて、前文を書いた。インディーのよさのひとつに、想像力をリスナーに委ねられることがある。作戦立てからくる広く求められる共感も、今日明日に差し障りなく過ごしたい場合ならいいのだろうが、僕たちはそもそも見放される手前にいる。パーソナルな作品な分、想像力をかき立てられて、前文駄文全部取っ替えて、好きなように楽しんでみるのもいい。僕は、好きなように楽しんでいいと言われるとどうしていいかわからなくなることに対して、そろそろどうにかしないといけない、と言われている気もした。でも、わざわざそんなことせずにまどろみの中に浸るのもいい。きっと、まどろむだけで終わりにはしてくれないアルバムだからである。

11 上野日記 - ele-king

 10/25
 京成上野駅のすぐ裏に当たる不忍池の東側から、ベンチに座って窓明かりが消えかかる対岸の建設中のビル群を眺めることが日課となってしまった。元来打ち上がることや、なにかをやりきった雰囲気が苦手で、ここはそういうものから逃げ込む場所になりつつある。
 大分に住んでいることを忘れるかけるほどには長い間東京にいることになりそうだ。今年10往復目の今東京滞在は、いろいろなことが重なって、途中わずかの期間大分に戻ることはあるものの、4ヶ月程になる。この生活に当たってLCC以上の恩恵に与っているのが上野の家で、戦前に建ったとも聞いたそれは義父の実家に当たり、長い間様々な人間が都合に合わせて住んできた場所で、自分も大分に移る直前の一年間暮らし、その後の楽器倉庫と東京滞在の寝床として使わせてもらっている。ここが来年2月いっぱいで使えなくなりそうなことも今滞在を延ばす一因なのだが、ここを拠点に音楽ばかりをやるのは随分久しぶりのことになりそうだ。
 久しい間、途切れない流れるリズムはなにか、それさえあれば普段考えていることがリズムに流れ込んで音楽に参加できるだろうと思っていた。そんなことは「当たり前」のことにしてしまわなければいけないと思い直して30代が始まって、既に2年が経つ。今日のOkada Takuro Bandのリハ音源をベンチで聴いていると、どこか物足りないドラムだ。ドラムだけを聴いたらそれなりだけど、ハットをキープだけに使うことと、周囲の音の聴き方が面白くない。トニー・アレンもエルヴィンも4肢を駆使してプレイすることでドラムを押し拡げてきた。最も器用に動くはずの右手をキープだけに充てるのはもったいないし、右手の動きに対しての他の動きが制限される節がある。フレーズで覚えるのではなくて、フレーズを作り出せる程ウゴくようにしておかないといけない。音は聴かないといけないけど、聴いて合わせれば微妙なタイムラグがうまれる。カウントから我先にスタートするベイシー楽団を思い出した。ラス・カンケルもCSN&Yのライブで自分のリズムを固持しているじゃないか。あれは、はまっているとも思えないが、James Taylorのときは、後ろからやってくる歌とギターに対して有効で独特のアンサンブルを勝ち得ている。もしくは、リーランド・スカラーのプレイに与るところが多いのだろうか。
 新しいことをはじめたいにしても、結局「当たり前」のことを進めることに戻ってくるのではないか。早速岡田から無言の参考音源が届く。Noname"Blaaxploitation"の胸の辺りでリズムを感じたまま16分ハットを刻むのだが、切れよくハットを空けて閉じたりやブレイクをうまくフレージングしているのなんてよく気が利いている。Sly&The Family Stone"In Time"ほどフレーズをマニュアル化せずに、音楽を邪魔しないドラミングはあまり聴いたことがない。相当考え込まれているのだろうが、やはりアルバム『Fresh』全体にそう浸透しているとは言い難く、それなりに根気のいる作業だったのだろうと妄想する。
 Joe Henryにおけるジェイ・ベルローズも思い出して聴いてみる。もう少し即興的だが、楽曲に合わせて展開させるドラミングとしては最高峰に思う。缶ビールが進むにつれてそんなことどうでもよくなってスライ名曲試聴会と成り果てる。

 11/3
 まず10日ほどの東京滞在を終え1週間だけ大分へ帰って来た。東京で気づいたことをモノにさせるに当たって大分の山はわるくない場所だ。しかし、これまでの10日間も、また東京に戻ってからの向こう1ヶ月もよく埋まったものだ。それぞれの準備はそれぞれの時間にやるとして、音の返ってこない山練習の醍醐味である最大出力のアップに勤しむ。Ivan Lins"Quadras De Rodas Medley"で四肢を自由にしてもらい、NonameとSly&The Family Stoneにアイデアを、Eugene McDaniels"The Lord Is Back"にガシガシ前にいる感覚を伝授してもらう。時代も場所もめちゃくちゃだけど、「ソウルフルな音楽か、リズミックな音楽かどうかってことがすべてなんだしさ」と語るカマール・ウィリアムスよろしく、どこか繋がっているような気分になる。この大分の期間でアフリカンチームの練習とサバール研究会も1度づつできたのは幸運だった。これらは僕にとって、リズムの発信以上に、リズムを捉える力を与えてくれる最良の行為だ。

 11/8
 東京に再度着いて早速Okada Takuro Bandのリハを終えたら、岡田とベースの新間さんが上野の家にやって来た。相変らずレコードを漁っているのだが、どうも大分の家で1人で聴いていても調子が上がらない。誰かと音楽を聴くと、相手がどのように聴いているのか自然と伝わってくるから面白い。定期的にそういう機会があれば、無言の参考音源もよく喋るように感じるし、部屋で1人で聴くことも楽しめる。
 そういえば、昨日成田空港から直接向かった新宿のレコード屋で、ブラジル音楽のバイヤーの江利川さん、筋金入りのコレクターのルーシーさん、母船の墓場戯太郎さんにたまたま会った。それぞれのバイブスが音楽を聴きたくさせてくれるので、今日に至ったところもあるのだと思い返した。それはそのあと飲みにいったダニエル・クオン、マルチプレーヤーの芦田勇人も同じ。上野駅に着いて、飲み屋街に紛れたい気持ちを押さえて、不忍池へ。対岸のビル群の明かりもほぼ消えてしまったなかで、イヤホンから流れる音楽を聴くにあたって、こちらのほうがよかったと思う。聴きたくて聴く機会は思っているほど多くないからだ。

 11/10
 水面ラジオという名のレコード試聴会で足立小台のブリュッケへ。ポール・モチアンのドラミングだって3時間も集中して聴いているとなじんでくる。いや、どう考えても真似できないのだが、やはり音楽は誰かと聴いたほうがよいと思う。「降りてくる感覚をそのまま絵に描くかのようなドラミングを'ジャズ'が支えている」という感想まで浮かんだけれど、どこか足りない気がする。町家で投げ銭分少し飲んで、明日のOkada Takuro Bandの準備のため足早に帰宅。終えてみるとやはりいつも通り上野公園へ。3月以降それもできなくなると思うと、無駄じゃないような気さえしてくる。

 11/11
 Okada Takuro Bandのライブを終えて、小雨が降るのを気のせいにして不忍池へ。GONNO×MASUMURAに向けてクラブ・ミュージックとスピリチュアル・ジャズを聴く。Kieran Hebden×Steve Reidは確かにこのプロジェクトに当たって、大きな知恵と予想図を与えてくれたけど、やはり以前から知っていた『Nova』でのドラミングはよく喋る。「迸るエネルギーがリズムにまで表象されるドラミングが'ジャズ'を突き破っている」という感想もまた缶ビールともに適当に流し込んで、最近お気に入りのFolamourにスクロール。イヤホンで目の前が不思議に映るのなら悪くない。GONNOさんとは、アルバム制作のあと、初めてのライブ、切り込んでみるライブ、リラックスしてみるライブとしてきて、来週4回目のライブはそれらのグラデーションを付けることができそうな感触がある。そういえば、GONNOさんとの演奏前は不思議と淡い夢を見ることが多く、演奏中はとかくいろんなことを思い出す。

 11/17
 昨晩名古屋vioでのGONNO×MASUMURAのライブは7曲演った。5曲目までは、グラデーションを付けながら様々な局面を提示して、あとは自由に楽しんで欲しかったし、それなりの感触もあった。行きの沼津から名古屋の間GONNOさんに運転を任せているとき、後部座席で信じられないほど気持ちのよい眠りについて、数え切れないほどの夢をみたのだが、ライブ中それを思い出す瞬間があって、そんなもの別に求めてもいないのだが、感触と照らし合わせるといい状態のひとつではあるようだ。6曲目"Circuit"は、この場を借りて最大出力の実験とさせてもらって、手足絡まること覚悟でブーストしてみた。結果山からやり直そうと誓う始末だったが、チャレンジがないと進歩もない。7曲目"Missed It"は踊らせることだけ。フロア帯同率は1番だったとか。このプロジェクトでは、リズムだけでも面白いということを自分なりに提示すべく4つ打ちライクのルールから外れないよう、5(7)拍子を2拍5(7)連や、2小節で5(7)発バスドラムを均等に打ってみたりしたのだが、演奏後のクラブ体験から察するに、決して無駄ではなかったにしろお互いまだ歩み寄る隙間があるようだ。そのうちお酒も回ってどうでもよくなったし、どうでもよくなってもらえたらそれでいいじゃないかとホテルに帰った。
 戻りの車内は格好のDJスペースで、エンジニアの葛西さんも交じって昨日の続きのようだ。トニー・アレン元ネタのよくやるプレイがあるのだが、その曲を聴かせると、GONNOさんが「元ネタはリラックスしていますね」と漏らす。
 ドラムを叩くと、瞬時的にフィードバックがある。今日のタイムは悪くない、体のテンポはこのくらいだなと、リラックスして叩き続けられることもあれば、小さなことが重力を加えてきて、リズムに乗れず叩くことをやめてしまうこともある。いずれにせよ、意志ではなくて、まずリズムの少し強引な力が働く。叩き続けることができていても、いつの間にか意志が大きくなり、リズムに抵抗してしまって身の程を知らされることもあれば、一度叩くことをやめてしまっても、その時に合った小さい音と力で、少しずつリズムに乗っていこうとすると、いつの間にか意志のスイッチが切れて無駄な重力がなくなっていることもある。
 GONNOさんの一言で、この「小さい音と力」でも太鼓が鳴るという当たり前のことに気がついた。太鼓を下の方からしっかり鳴らす、最大出力を上げる、そういう今までやってきたことのバランスがなんらかのはずみで崩れると、ハットが鳴りすぎる、右手に頼りすぎる、ということに、往々にしてなる。最近、あるバンドのレコーディングにドラムセット一式をかして、ラフミックスを聴かせてもらったのだが、鳴りきっていないなと思うところある以上に、こんなにリラックスしてシャープな音が出るのかと関心してしまったこともあった。自分の楽器だからよりよくわかる。上野の家に着いてからは夢も見ずに泥のように寝た。

 11/24
 FolamourのDJを体感しに青山Ventへ。レインボー・ディスコ・クラブ、名古屋vioと出演でのクラブ体験はあったが、純粋なそれは初めて。幼少期ギターとドラムからスタートしたという彼の音楽は、確かにクラブミュージックにあって驚くほど生の躍動が伝わる。『Umami』では、「クラブミュージックとホームミュージック、踊っている時と考えている時、憂鬱と楽しさそれぞれを表現したかった」作品なところも分け隔て無いファンを勝ち得ているところだが、かなり深酒していたこともあって、やはり後半はどうでもよくなって、見知らぬ黒人女性と踊り狂った。
 昼に酔いざめ特有の悪夢で目を覚ましたが、音楽の多様性を示唆するDJの仕事を思い出して、レコードの処理は、それを必要とする他のリスナーに譲ることになるから、傍に置いておくよりよいかと思い至る。オリジナルでわざわざ買い直す作業はどうしても続くが、その分安価なリイシューや日本盤を処理すれば多少役立てるだろう。しかし、どうだろう、サブスクでなんでも聴けるから、聴くためだけの安価なレコードに手を出さず、何度も失敗せずにとも、初めからオリジナル盤を狙う例えば高校生がいるとしたら末恐ろしい。

 12/9
 水面トリオ、影山朋子バンド、OLD DAYS TAILOR、ツチヤニボンドのライブ、ニカホヨシオ、GONNO×MASUMURA、伊賀渡さんとの録音などしていたら、不忍池もコートを着ないとベンチに座っていられない季節になっていた。それらの合間にFolamourとToninho Hortaを観て、Laurel Haloは諦めてしまった。
 午前中からダニエル・クオンが上野の家にやって来て、キッチンにドラムセットを拡げて録音。掟破りのハンドマイク録音は、2人でヘッドフォンをしながらマイキングを聴きながら、すでにミックスが始まっているかのようだ。シンバルにマイクを近づけるとこんなに低い音が出ているのかとか、家での録音なので自然小さい音になるのだが実はこれで充分鳴っているじゃないかとか、リズムに幅があってわざわざ針の穴を通さなくても波に乗れば気持ちいいことなど感じられて、この期間に感づいていたこととどこかリンクする。ドラムを叩いているというよりは、相変らずナイトメアに犯されながら浄化されることのないまま次々飛び出す掌編的な曲の断片になっていくようで面白い。ムードは重くなく発生地点と矛盾するような気楽さが包み込む。1曲生ピアノと複数の声だけのディープトラックがあったが、それを僕に聴かせながら他人事のようにずっと笑っていたこともそれを物語っていた。送る車内で、なにか思い出したかのように「Life...ジンセイ」と漏らしたら、車を降りて新宿の雑踏の中に消えていった。


Laibach - ele-king

 80年台中盤、インダストリアル・バンドとしては少し出遅れた存在だったライバッハは、ユーゴスラヴィアで活動しているということがまずは関心を引いた。いまでこそ中国のボディミュージックでもスペインのトラップでもすぐにネットで聴くことができるけれど、80年代当初、ベルリンの壁が屈強に「東側」を覆い隠していた時期だったのでユーゴスラヴィアにロックやオルタナティヴな音楽活動があることも知られていなかった(実はいろいろあったことが最近の発掘対象となっている→https://www.youtube.com/watch?v=Y4B0vUIQXBY)。〈L.A.Y.L.A.H. Antirecords〉からリリースされたシングル「Boji / Sila / Brat Moj」を最初に聴いたんだったかなんだったか、ライバッハのサウンドはヘヴィで物々しく、ゴシックとしか形容のしようがないもので、戸川純がベルリン映画祭に招かれた際、「わざわざベルリン近郊から車を走らせ、ライバッハを大音量で流しながらブランデンブルグ門に向かった」と話してくれたのがなるほどと思える通り、異様なまでにドラマティックでゴージャスな音楽性を強調する音楽ユニットだった。そして、『Nova Akropola』(86)こそ〈チェリー・レッド〉からのリリースだったものの、以後は現在に至るまで〈ミュート〉から12枚のアルバム・リリースがあり、『ツァラトゥストラかく語りき』(17)に続く『The Sound of Music』のカヴァー集も〈ミュート〉からとなった。

 そう、1曲目から『サウンド・オブ・ミュージック』をきっちりとカヴァーしている。いきなりズッコけたというか、妙に聴き惚れてしまったというか。ヴォコーダーを使った“ド・レ・ミの歌”や荘厳な“エーデルワイス”など一応はデス声で歌われているものの、滑らかな高揚感があり、意外にもニューウェイヴの原点のようなサウンドに仕上がっている。80年代には古典なりクラシックをからかって遊ぶという意識で、こういったアレンジが百出したようにも思うけれど、結果的には原曲の魅力にとりつかれ“ハッピー・トーク”や“風のささやき”を好んで聴くようになった者としては往時の面白さがぶり返してしまったようで、ついつい何度も聴いてしまう。ライバッハにもビートルズ『レット・イット・ビー』(88)を丸々1枚カヴァーしたという過去があり、西側のクラシックに東側の統制された美意識を反映させるという意味では同じなのかもしれないけれど、“マリア”などは、しかし、それにしても透き通るようなコーラスワークにブレイクの取り方まで、まるでビーチボーイズのようで、似たようなことをやっていても突き抜け方が以前とは比べものにならない。

 実は今年、ライバッハが北朝鮮に公式に招待されてライヴをやった時のドキュメンタリー映画が公開されていたそうで、『サウンド・オブ・ミュージック』はそのサウンドトラックのようなアルバムなのである。北朝鮮の人たちは誰もが映画『サウンド・オブ・ミュージック』に親しんでいるということから、これらのカヴァーを披露することになったらしく、ドキュメンタリーは観ていないので正確なところはわからないけれど、やはり普段とは勝手が違ったようで、必要以上にヴァラエティ色を強調してつくられる予告編の体質を割り引いてみても、ちょっとした珍道中であったことは確からしい。北朝鮮の人たちも初めて公式に国内でライヴ演奏される「洋楽」がライバッハというのは目が点だったことだろう。ライバッハの面々も「なんで自分たちが選ばれたんだろう」と疑問に思いながらのパフォーマンスだったらしい……といったようなことを何も知らずに僕はこのアルバムを聴いていたので、余計にその落差に面白みが増してしまった。北朝鮮の人たちに「洋楽」を聴かせるという使命を背負ってしまったために、無意識に手加減した結果、ここまでわかりやすいサウンドになってしまったのかもしれない。一応、確認してみたけれど、前年の『ツァラトゥストラかく語りき』では彼らのスタイルはとくに緩められていたわけではないし、さすがに代わり映えしなすぎた(どうしてライバッハに興味を持ったのかというと、ドミューンでザ・KLFの番組をやった時にムードマンが「ライバッハ縛りの次はザ・KLF縛りのDJ?」と宇川くんにメールを送っていて、それをCCで読んでいたから)。

 僕はこういった結びつきこそグローバリゼイションのいいところだと思っている。それこそアメリカが「アメリカ・ファースト」を掲げるのはまだわかるとしても、安倍政権がアメリカ・ファーストを推進し、アメリカのカジノ業者や水道会社を国内に引き込み、兵器を爆買いし、辺野古を埋め立て、ファーウェイに部品を収めている京セラや村田製作所の株価が下がることもお構いないしに公的機関ではファーウェイを使わないと即決してしまうのはどうかと思うし、このところアメリカのチャート・ミュージックを持ち上げる音楽サイトが増えていて、その無邪気さにも違和感があってしょうがない。日本では以前からグローバリゼイション=アメリカニゼイションでしかないという声は少なからずあったものの、政治でも文化でもそれらがまたしても色濃くなっていくのはいやな感じだなあと。
 ライバッハは『サウンド・オブ・ミュージック』から9曲のカヴァーに加えて“アリラン”もカヴァーしている(思わず戸川純さんにも薦めてしまいました)。

[12/20編集部追記]Twitterにてご指摘いただいたように、ライバッハはいまはスロベニアのバンドです。ご指摘ありがとうございました。

メアリーの総て - ele-king

 クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』を観て4ヶ月後に封切られたジョー・ライト監督『ウィンストン・チャーチル』を観た方は驚いたんじゃないでしょうか。僕は驚きました。ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍がフランスから撤退する経過をフランス側から描いたのが前者で、まったく同じ一週間の間にイギリスの議会で起きたことを扱ったのが後者でしたから。指示を待つ側の苦しみと指示を出す側の事情がそこで初めて結びついたわけで。多分、まったくの偶然で、テーマ的にも補完性はないし、どちらもある意味で駄作だったから歴史の勉強にはなったけれど、それだけのことだといえばそれまでなんですけれど(『ウィンストン・チャーチル』に関しては日本では辻一弘の特殊メイクに話題が集中し、実際それは大した出来栄えだったものの、ありもしない地下鉄のシーンがやはりインド系の方々の逆鱗に触れて欧米では批判の声の方が強烈だった)。同じようにハイファ・アル=マンスール監督『メアリーの総て』と1ヶ月遅れで公開されるビョルン・ルンゲ監督『天才作家の妻』も驚きます。前者は『フランケンシュタイン』を書いたメアリー・シェリーの前半生を描いたもので19世紀前半が舞台、後者は現代の話だというのに、それはまるで続きもののようだったから。それこそ連続で観てしまうとこの200年はなんだったのかという虚しさが倍増し、人類というものに愛着が薄れてしまいかねない。だからメアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』を書いたのだと言われればそれまでなんですけれど。

 父親が経営する書店で、その後妻に疎んじられながら、家の手伝いをしたり義姉と遊んだりしているメアリー。イギリスではフェミニズムの先駆とされる実の母親、メアリー・ウルストンクラフトはすでに他界し、残された著作の中にしか母親の痕跡を見つけることはできない。体の弱いメアリーは義母から逃れるためにスコットランドに静養に赴き、ロマン派の詩人、パーシー・シェリーと出会う(これは必ずしも史実ではなく、全体的にストーリーは端折り気味)。パーシー・シェリーは結婚していて子どももいる。そして、彼はメアリーの父親、ウイリアム・ゴドウィンのアナキズム思想に傾倒している。導入部はややこしい人間関係と彼らの心の動きを実に手際よく紐解いていく。パーシー・シェリーとメアリー・シェリーがどのように結びつき、関わりあっていくかがひとつめの軸となる。そして、嫌なことがあると墓場に行って三文小説を読みふけるメアリー。父も母もいわば高尚な思想の持ち主で、B級小説にうつつを抜かす姿は見せられない。メアリーとシェリーは時代の寵児たるバイロン卿と交友を深め、これも史実ではないと思うけれど、カエルの死体に電気を通して足が動く様を見せるショー(「ファンタスマゴリア」)などに出かけて行く。これがフランケンシュタインの怪物に命を吹き込むプロセスのアイディアに結びつくなど、ふたつめの軸はメアリーの創作過程に迫る部分である。実は「ファンタスマゴリア」のシーンまで、メアリー役はエル・ファニングじゃなくてもいいんじゃないかと思いながら僕は観ていたのだけれど、このシーンでファニングが見せる表情はまさに「ひらめき」を表しているとしか言いようがなく、ここからは完全にファニングのペースでしか観られなくなってしまった。『フィービー・イン・ワンダーランド』でトゥレット障害を持つ小学生の役を演じたファニングは以後、エキセントリックな少女の役をやらせたらほかに敵うものはなく、最近では『ネオン・デーモン』や『パーティで女の子に話しかけるには』などで際立たせた「ヘンな女」の存在感をそのままメアリー・シェリーに注ぎ込むことでSF作家の元祖とさえ言われる女性作家の誕生を見事に演じきったという感じ。


 ハイファ・アル=マンスール監督が、そして、この作品をメアリー・シェリーにまつわる史実よりも「女性作家」というテーマに絞り込んだことはいやでもストレートに伝わってくる。アル=マンスールは3年前にようやく女性に参政権が認められたサウジアラビア出身で、デビュー作は小学生の女の子が自転車に乗ってはいけないという慣習を覆す『少女は自転車にのって』であった。女性も大学に行くことが認められ、今年に入って初めて女性も映画館に入ってもいいことになったというほど差別されていた女性たちにアル=マンスール監督が『メアリーの総て』をぶつける意図はあまりに明らか。メアリー・シェリーという題材を通して、彼女はサウジアラビアの女性たちに自分と同じように文化活動に手を出して欲しいのである。それはもうシンプルなことこの上ない。メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』の着想を得た背景を論じるものの中にはメアリー・シェリーは子どもを産みたくなかったので人造人間によってそれに代えようとしたという説もあったりするけれど、アル=マンスールはそうした解釈をまったく視野に入れていない。あくまでも男性たちの横暴な振る舞いがあり、それに抗う女性の創作活動に重きが置かれている。それこそそうした主題からはずれてしまうメアリー・シェリーの後半生もすべてカットされているので『メアリーの総て』という邦題はあまり適切ではないとも。アル=マンスールが描くのは女性が書いた小説を女性の名前で出版することが19世紀前半のイギリスではどれだけ難しいことだったかということに集約され、史実ではパーシー・シェリーが溺死してから彼女を取り巻く物事に変化があるということもここでは無視して話は進められている。物語の結末は完全なる創作で、これは男性の役割に大きな変化を期待しているというメッセージだと受け止めればいいのだろうか。男性が考え方を変えてくれれば、こんなにも世界は女性たちにとって住みやすいところになるという希望的なエンディングを甘いと切り捨てるのは少し酷ではないかと僕には思えたというか(史実ではパーシー・シェリーもメアリー・シェリーも早逝で、この作品とはまったく別種の信頼関係を保っていたように伺える)。


 ビョルン・ルンゲ監督『天才作家の妻』はジョナサン・プライス演じる小説家、ジョセフ・キャッスルマンのもとに電話がかかり、「あなたがノーベル文学賞を受賞しました」と伝えられるところから話は始まる。タイトルだけで、大体、想像はつくと思うけれど、実はキャッスルマンの作品は本当は妻が書いていたのではないかという疑惑を誰もが抱き、実際、クリスチャン・スレーター演じるナサニエル・ボーン記者がキャッスルマン夫妻を追ってスウェーデンの授賞式に乗り込んで行く。『フランケンシュタイン』も初版は匿名で出版されたために夫のパーシー・シェリーが書いたものだろうと噂が立ったわけだけれども、『天才作家の妻』ではその図式はもう少し複雑に入り組んでいる。そして、その核心にはなかなか辿り着かない上に、ノーベル賞の式自体やそのリハーサルがなかなかに面白く撮られていて、クライマックスへゆっくりと突き進むプロセスはとても巧妙だった。そして、パンフレットの解説などでは一義的な解釈で埋め尽くされていたものの、最後の争いの最中に断片的に聞き取れるセリフから真実を推測するのは観客自身であり、ある意味、そこから観客同士(できれば男女)で論じ合うのが本番かもと思うような展開が訪れる。(以下、ネタバレ)僕は初めから共作の名義で発表すればよかったじゃんよとしか思わなかったし、そうはできない事情があったとしたらそのことも描くべきだったのではないかという意見を持ったのだけれど、さて、皆さんはどうでしょう。ちなみにこの作品でメタ的な皮肉になっていると思うのは、妻を演じるグレン・クローズはかつて『ガープの世界』でフェミニストの運動家を演じ、彼女が脚本も手がけた『アルバート氏の人生』がかなりの傑作であったにもかかわらずアカデミー賞を取ることは叶わず、これまでに6度もノミネートだけで終わっていることにある。グレン・クローズにオスカーを与えなかったことがそのまま映画化されているような作品ではないかと。また、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したということもあって、ジョナサン・プライスの演技があまりに上手いために、もしかしてノーベル文学賞なんてなくてもいいかもと思ってしまうようなところもこの作品の妙味ではある。ちなみにノーベル賞は女性にはほとんど与えられていない。


『メアリーの総て』予告編

『天才作家の妻 40年目の真実』予告編

Matmos - ele-king

 2018年のトピックのひとつにIDMのクィア化というのがありましたが(ソフィーロティックサーペントウィズフィートイヴ・トゥモア……などなど)、そのルーツのひとつにビョークの存在が大きくあり、そして彼女のエレクトロニカ期を支えたのがIDMシーンの愉快な実験主義者=マトモスでした。作品ごとに風変わりなコンセプトを打ち出してきたマーティン・シュミットとドリュー・ダニエルのふたりは公私ともに長く付き合っているゲイ・カップルであり、様々な意味で現在に続くエレクトロニック・ミュージックの先駆者であることは間違いないでしょう(古今東西の実在のクィアたちの“サウンド・ポートレイト”である『The Rose Has Teeth in The Mouth of A Beast』を聴き返してみましょう)。
 そんなふたりが、彼らの記念日を祝ってニュー・アルバムをリリースすることを発表しました。はたしてそのテーマは、プラスチックです!

 タイトルは『Plastic Anniversary』で、いろいろなプラスチック製品やそのゴミを鳴らした音で作り上げたものだそう。前作『Ultimate Care II』が洗濯機の鳴らす音で作ったアルバムであったことを思い出せばその連続性も窺えますが、それ以上に、本作の背景に現在世界で大問題になっているプラスチック製品のゴミによる環境汚染があることは明らかです。リリース元の〈スリル・ジョッキー〉のプレス・リリースによれば、プラスチックが持つ“環境破壊の力”について考察したものであるそうです。今年のG7サミットで発表された「海洋プラスチック憲章」ではプラスチック製品を減らすことがかなり厳格に提唱されましたが、それにアメリカは署名しませんでした。つまりこれは非常に政治的なテーマを持つ作品であり、トランプ政権への異議申し立てをこのような独創的な手法でやってのけてしまうマトモスはさすがと言うほかありません。
 アルバム制作のトレイラー映像ではプラスチックのゴミをドンドンと叩いて録音するふたりの姿が確認でき、それがマトモスらしいファンキーでファニーなIDMへと変貌していく様にはワクワクしてしまいます。

 え? G7のプラスチック憲章に署名していない国がもうひとつあるじゃないかって? そうでした。それはもちろん、日本です。だからこそ、『Plastic Anniversary』は日本の音楽リスナーも現在の社会を考える上で、あるいはわたしたちに何ができるかを想像する上で必聴のアルバムとなるでしょう。

 トラック・リストには“Thermoplastic Riot Shield”といったタイトルも見えますが、警察がデモと対峙するときに使うプラスチック製のライオット・シールドの奥でふたりがキスをしている最新のアーティスト写真も、知的かつユーモラスに示唆的で最高です。ディアフーフのドラマー、グレッグ・ソーニアもゲスト参加しているとのこと。
 毎日大量に発生するプラスチックのゴミと向き合いながら、リリースを待ちましょう。 (木津毅)

Matmos
Plastic Anniversary
Thrill Jockey
March 15, 2019

Tracklist
01. Breaking Bread
02. The Crying Pill
03. Interior With Billiard Balls & Synthetic Fat
04. Extending The Plastisphere To GJ237b
05. Silicone Gel Implant
06. Plastic Anniversary
07. Thermoplastic Riot Shield
08. Fanfare For Polyethylene Waste Containers
09. The Singing Tube
10. Collapse Of The Fourth Kingdom
11. Plastisphere

ハテナ・フランセ - ele-king

 ボンジュールみなさん。今日は「ジレ・ジョーヌ=黄色いベスト」のデモについて。日本のメディア でも大きく取り上げられているが、私なりの解釈をお話ししたく。
 このデモを端的に表現すれば、富裕層の方しか向いていないマクロン政権に対して溜まりに溜まったフランスの低所得者層からの怒りの発露、と言えるのではないだろうか。12月8日で4回目となる「ジレ・ジョーヌ」のデモは、装甲車も出る非常に物々しい雰囲気の中、パリだけで1082人、フランス全土で2000人近くが拘束された。これまで「ジレ・ジョーヌ」のデモで拘束されたのは4500人に及ぶ。この数字だけ見ると日本でもよく報じられているとおり、デモ隊が暴徒化したと思われるかもしれない。実はそのほとんどがデモ隊が暴徒化したものではない。昨今の色々なデモによく出現する「Casseurs=壊し屋」と呼ばれる輩が、「ジレ・ジョーヌ」の人々に紛れて破壊、略奪行動に及ぶのだ。もちろんデモ隊が機動隊と衝突して、投石などの暴力行為に及ぶことはある。だが、拘束された中には相当数の「壊し屋」が入っている。12月8日のデモ当日、マクロン大統領の率いる「La Republique en Marche=共和国前進」党の女性議員の車が燃やされた。彼女は「“ジレ・ジョーヌ”のこのような蛮行は許されない」と涙ながらにメディアで訴えた。だが、放火犯が捕まっていない時点で、放火犯を「ジレ・ジョーヌ」の仕業と決めつけるのは、 明らかな情報操作だ。
「共和国前進」党議員は、その党首のように若く政治経験がない議員がほとんど。そして他党の議員よりずっとまとまりがいい。マクロン大統領の政策を闇雲に押し進めようと全力を尽くす彼らを見ていると、どう見てもマクロン親衛隊にしか見えない。国民議会はそのマクロン親衛隊が過半数を占めている。そしてマクロン大統領誕生以来、国民議会では専制君主型政治が行われてきた。
 若い、ハンサム、高学歴、議員経験なしだが企業経験あり、妻は25歳年上の元恩師、流麗なフランス語での演説、など全方位隙のない優等生型政治家に見えるマクロン大統領。だが、当選前から「デモクラシーには王のような絶対的な存在が必要」と言っていたことからも伺える通り、自分がナポレオンや絶対権力者太陽王に例えられるのを肯定的に捉えているのではないだろうか。就任以来、過半数議席を誇る自らの党に物を言わせ、富裕税を廃止、解雇が容易になるよう労働法を改正、低所得者層の家賃補助の減額などを採択。議会で十分な議論がおこなわれることもなく、強引な改革を推し進めてきた。時には大統領令も駆使しながら行われた改革では、金持ち優遇政策が目立つ。
 マクロン大統領が生まれた背景は、実はある意味トランプ大統領のそれと重なるところがある。「働かざる者食うべからず」と堂々と言ってのけたサルコジ前々大統領。その拝金主義的政治姿勢と下品な人柄に国民は辟易した。その後に就任したのは、社会的弱者により目を向けた政策ができるはずだった社会党のオランド前大統領。だが、その優柔不断さにより経済面でも社会面でも国政を恐ろしく停滞させた。連続したダメ大統領に、国民は「右も左もダメなのか」と政治への不信が高まった。そこで出てきたのが「右でも左でもない。これまでの既得権益にとらわれない新しい政治を進める」を標榜したマクロン大統領。つまり既存の政治への不信によって生まれた大統領なのだ。そしてその期待に応えるようにマクロン大統領は旧来の政治システムを壊し、政党や労働組合などの影響力をより小さくするべく精力を注いだ。そして富裕層を優遇し、そこから景気の底上げをし、それが低所得者層まで行き渡るように経済を立て直す、という政策をはっきりと打ち出した。だが、そのようなトリクルダウン効果は本当にもたらされるのだろうか。例えばフランスの大企業は、これまで税金対策に使ってきた慈善活動への寄付を、富裕税撤廃後大幅に減らした。
 貧富の差は広がるばかりで、今まで社会福祉に手厚かったはずの自国が新自由主義になりつつあるように感じる国民が多かったのではないだろうか。少なくとも、その流れに強引に持っていこうとしているのが大統領であることは、誰の目にも明らかだった。そして上品だが強権的な言動の裏には「愚かな国民たちよ、俺様の言うことを黙って聞いていれば良い」という太陽王ばりの尊大な意識が徐々に透けて見えてきたのでは。その王様への不満は、2017年年金改革時などにはまだ大きな波とならなかった。だが、今回の燃料税の引き上げがきっかけとなり、このマクロン専制君主政治に対してついにノンの声があがったのだ。しかも、マクロン大統領を作った流れと鏡像関係にあるような、従来のデモの形を覆す流れでもって。これまでデモは、労働組合が中心になって行ってきた。だが今回は、SNSを牙城にこれまでデモに参加してこなかったような、主婦や労働組合などに所属しない労働者などが多く参加している。
 その流れを組んでか、極右の「国民連合党」の党首マリン・ル・ペンはここぞとばかりにいち早くジレ・ジョーヌへの支持を表明。非労働組合員、非政党員が多いデモ隊の抱える不満を、まるで自分たちの言い分かのように取り込もうとしたのだ。その流れに少し乗り遅れた左派の「屈しないフランス」党。その中で唯一すぐに反応したのが「フランスのジェレミー・コービン(と言ってしまおう)」こと、フランソワ・リュファンだ。彼は議員給与を最低賃金分の1100€しか受け取らず、残りの3000€を毎月非営利団体に寄付している、私が知る限り唯一の議員だ。彼はマリン・ル・ペンの支持表明と違わなぬ早さで、「ジレ・ジョーヌ」が活動拠点としている地方の環状交差点に赴き彼らの話を聞いた。そして自らが主催する「 La fête à Macron=マクロン祭り(なんという皮肉とユーモア!)」という集会で、「ジレ・ジョーヌ」との対話を試みた。リュファンは最低賃金しか給与を受け取っていないが、自らを中流と捉えている。彼が「マクロン祭り」で試みているのは、低所得者層と彼らに共感する自分のような中流市民との架け橋になり、彼らを繋ぐことだ。これも従来の労働組合や政党員とは違った、新しい流れになり得るだろうか。
 12月10日にマクロン大統領はテレビ演説を行い「生活に苦しむ人々の痛みが取るに足らないものだと、私が思っていると受け取られたかもしれない。私の言葉によって傷ついた人がいるかもしれない」と神妙な面持ちと芝居がかった口調で語った。また、最低賃金補助(最低賃金ではない)を100€引き上げたり、残業手当を課税対象から外したり、年金生活者への課税を免除したりした。だが、低所得者層の怒りをもっともかっている一つ、富裕税の復活は否定された。こうしたマクロン大統領の提案に対し、「ジレ・ジョーヌ」は12月15日に第5回目のデモを決行。だが、参加者は前週より半減。このままこの運動は収束していくとみられている。
 アメリカと違い、フランスではアーティストはあまり政治的発言をしない。政治はアーティストが足を踏み入れる範疇にない、というのがフランスの一般的な認識のようだ。だが、ブリジット・バルドーやミッシェル・ポルナレフなど、もはや治外法権的立ち位置にいる元気な老人たちは「ジレ・ジョーヌ」への支持を表明。また、夏にBoobaとオルリー空港で乱闘したKaaris(1年2ヶ月の執行猶予中)も「ジレ・ジョーヌ」を支持。黄色いベストを着てインスタに「お前ら(警察)のあそこにジレ・ジョーヌ突っ込んだろか」と書き込んだ。フランス映画の傑作『憎しみ』の監督で俳優でもある、マチュー・カソビッツは、フランスでは炎上物件としても有名。その彼が「ジレ・ジョーヌ」でもやらかした。大統領のテレビ演説の後、極左の政治家フィリップ・プトゥに「おまえまだ不満なのか? ベンツの新車でも寄こせっての?」と噛み付いたのだ。またテレビの討論番組に出て「屈しないフランス」党の議員に「そういうあなたは去年まで富裕税を納めていたのでは?」と指摘されブチ切れ。「馬鹿馬鹿しい!お前はバカだ!バカ、バカ、バカ!」と子供の喧嘩のような姿を披露した。とはいえカソビッツの暴走はフランスでは日常茶飯事になっているので、失笑を買うくらいで済んでいる。
 フランソワ・リュファンはYoutubeのリュファン・チャンネルの番組で「ブラボー“ジレ・ジョーヌ”。あなたたちが暴走する政治を一時停止させた。市井のあなたたちがヒーローになった。敵がひるんだ時にはさらに攻勢をかけるんだ!」と抗議の声を上げ続けることを訴えた。果たしてこの新しい座組みの運動は、新しい太陽王の確固たる政治方針を変えることができるのだろうか。それともこのままフランスは、低所得者層を切り捨てた国へと邁進していくのだろうか。個人的には貧富の差撤廃に本気で取り組むリュファンのような政治家に大統領になってもらいたいと心から思っている。
 

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