Home > Reviews > Film Reviews > メアリーの総て- 監督:ハイファ・アル=マンスール
配給:ギャガ
2018/イギリス、ルクセンブルク、アメリカ/121分
© Parallel Films (Storm) Limited / Juliette Films SA / Parallel (Storm) Limited / The British Film Institute 2017
2018年12月15日(土) シネスイッチ銀座、シネマカリテほか 全国順次公開
https://gaga.ne.jp/maryshelley/
配給:松竹
原題:THE WIFE
2017/スウェーデン、アメリカ、イギリス/英語/101分
日本語字幕:牧野琴子 後援:スウェーデン大使館
(c)META FILM LONDON LIMITED 2017
2019年1月26日(土) 新宿ピカデリー他 全国公開
https://ten-tsuma.jp/
クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』を観て4ヶ月後に封切られたジョー・ライト監督『ウィンストン・チャーチル』を観た方は驚いたんじゃないでしょうか。僕は驚きました。ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍がフランスから撤退する経過をフランス側から描いたのが前者で、まったく同じ一週間の間にイギリスの議会で起きたことを扱ったのが後者でしたから。指示を待つ側の苦しみと指示を出す側の事情がそこで初めて結びついたわけで。多分、まったくの偶然で、テーマ的にも補完性はないし、どちらもある意味で駄作だったから歴史の勉強にはなったけれど、それだけのことだといえばそれまでなんですけれど(『ウィンストン・チャーチル』に関しては日本では辻一弘の特殊メイクに話題が集中し、実際それは大した出来栄えだったものの、ありもしない地下鉄のシーンがやはりインド系の方々の逆鱗に触れて欧米では批判の声の方が強烈だった)。同じようにハイファ・アル=マンスール監督『メアリーの総て』と1ヶ月遅れで公開されるビョルン・ルンゲ監督『天才作家の妻』も驚きます。前者は『フランケンシュタイン』を書いたメアリー・シェリーの前半生を描いたもので19世紀前半が舞台、後者は現代の話だというのに、それはまるで続きもののようだったから。それこそ連続で観てしまうとこの200年はなんだったのかという虚しさが倍増し、人類というものに愛着が薄れてしまいかねない。だからメアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』を書いたのだと言われればそれまでなんですけれど。
父親が経営する書店で、その後妻に疎んじられながら、家の手伝いをしたり義姉と遊んだりしているメアリー。イギリスではフェミニズムの先駆とされる実の母親、メアリー・ウルストンクラフトはすでに他界し、残された著作の中にしか母親の痕跡を見つけることはできない。体の弱いメアリーは義母から逃れるためにスコットランドに静養に赴き、ロマン派の詩人、パーシー・シェリーと出会う(これは必ずしも史実ではなく、全体的にストーリーは端折り気味)。パーシー・シェリーは結婚していて子どももいる。そして、彼はメアリーの父親、ウイリアム・ゴドウィンのアナキズム思想に傾倒している。導入部はややこしい人間関係と彼らの心の動きを実に手際よく紐解いていく。パーシー・シェリーとメアリー・シェリーがどのように結びつき、関わりあっていくかがひとつめの軸となる。そして、嫌なことがあると墓場に行って三文小説を読みふけるメアリー。父も母もいわば高尚な思想の持ち主で、B級小説にうつつを抜かす姿は見せられない。メアリーとシェリーは時代の寵児たるバイロン卿と交友を深め、これも史実ではないと思うけれど、カエルの死体に電気を通して足が動く様を見せるショー(「ファンタスマゴリア」)などに出かけて行く。これがフランケンシュタインの怪物に命を吹き込むプロセスのアイディアに結びつくなど、ふたつめの軸はメアリーの創作過程に迫る部分である。実は「ファンタスマゴリア」のシーンまで、メアリー役はエル・ファニングじゃなくてもいいんじゃないかと思いながら僕は観ていたのだけれど、このシーンでファニングが見せる表情はまさに「ひらめき」を表しているとしか言いようがなく、ここからは完全にファニングのペースでしか観られなくなってしまった。『フィービー・イン・ワンダーランド』でトゥレット障害を持つ小学生の役を演じたファニングは以後、エキセントリックな少女の役をやらせたらほかに敵うものはなく、最近では『ネオン・デーモン』や『パーティで女の子に話しかけるには』などで際立たせた「ヘンな女」の存在感をそのままメアリー・シェリーに注ぎ込むことでSF作家の元祖とさえ言われる女性作家の誕生を見事に演じきったという感じ。
ハイファ・アル=マンスール監督が、そして、この作品をメアリー・シェリーにまつわる史実よりも「女性作家」というテーマに絞り込んだことはいやでもストレートに伝わってくる。アル=マンスールは3年前にようやく女性に参政権が認められたサウジアラビア出身で、デビュー作は小学生の女の子が自転車に乗ってはいけないという慣習を覆す『少女は自転車にのって』であった。女性も大学に行くことが認められ、今年に入って初めて女性も映画館に入ってもいいことになったというほど差別されていた女性たちにアル=マンスール監督が『メアリーの総て』をぶつける意図はあまりに明らか。メアリー・シェリーという題材を通して、彼女はサウジアラビアの女性たちに自分と同じように文化活動に手を出して欲しいのである。それはもうシンプルなことこの上ない。メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』の着想を得た背景を論じるものの中にはメアリー・シェリーは子どもを産みたくなかったので人造人間によってそれに代えようとしたという説もあったりするけれど、アル=マンスールはそうした解釈をまったく視野に入れていない。あくまでも男性たちの横暴な振る舞いがあり、それに抗う女性の創作活動に重きが置かれている。それこそそうした主題からはずれてしまうメアリー・シェリーの後半生もすべてカットされているので『メアリーの総て』という邦題はあまり適切ではないとも。アル=マンスールが描くのは女性が書いた小説を女性の名前で出版することが19世紀前半のイギリスではどれだけ難しいことだったかということに集約され、史実ではパーシー・シェリーが溺死してから彼女を取り巻く物事に変化があるということもここでは無視して話は進められている。物語の結末は完全なる創作で、これは男性の役割に大きな変化を期待しているというメッセージだと受け止めればいいのだろうか。男性が考え方を変えてくれれば、こんなにも世界は女性たちにとって住みやすいところになるという希望的なエンディングを甘いと切り捨てるのは少し酷ではないかと僕には思えたというか(史実ではパーシー・シェリーもメアリー・シェリーも早逝で、この作品とはまったく別種の信頼関係を保っていたように伺える)。
ビョルン・ルンゲ監督『天才作家の妻』はジョナサン・プライス演じる小説家、ジョセフ・キャッスルマンのもとに電話がかかり、「あなたがノーベル文学賞を受賞しました」と伝えられるところから話は始まる。タイトルだけで、大体、想像はつくと思うけれど、実はキャッスルマンの作品は本当は妻が書いていたのではないかという疑惑を誰もが抱き、実際、クリスチャン・スレーター演じるナサニエル・ボーン記者がキャッスルマン夫妻を追ってスウェーデンの授賞式に乗り込んで行く。『フランケンシュタイン』も初版は匿名で出版されたために夫のパーシー・シェリーが書いたものだろうと噂が立ったわけだけれども、『天才作家の妻』ではその図式はもう少し複雑に入り組んでいる。そして、その核心にはなかなか辿り着かない上に、ノーベル賞の式自体やそのリハーサルがなかなかに面白く撮られていて、クライマックスへゆっくりと突き進むプロセスはとても巧妙だった。そして、パンフレットの解説などでは一義的な解釈で埋め尽くされていたものの、最後の争いの最中に断片的に聞き取れるセリフから真実を推測するのは観客自身であり、ある意味、そこから観客同士(できれば男女)で論じ合うのが本番かもと思うような展開が訪れる。(以下、ネタバレ)僕は初めから共作の名義で発表すればよかったじゃんよとしか思わなかったし、そうはできない事情があったとしたらそのことも描くべきだったのではないかという意見を持ったのだけれど、さて、皆さんはどうでしょう。ちなみにこの作品でメタ的な皮肉になっていると思うのは、妻を演じるグレン・クローズはかつて『ガープの世界』でフェミニストの運動家を演じ、彼女が脚本も手がけた『アルバート氏の人生』がかなりの傑作であったにもかかわらずアカデミー賞を取ることは叶わず、これまでに6度もノミネートだけで終わっていることにある。グレン・クローズにオスカーを与えなかったことがそのまま映画化されているような作品ではないかと。また、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したということもあって、ジョナサン・プライスの演技があまりに上手いために、もしかしてノーベル文学賞なんてなくてもいいかもと思ってしまうようなところもこの作品の妙味ではある。ちなみにノーベル賞は女性にはほとんど与えられていない。
『メアリーの総て』予告編
『天才作家の妻 40年目の真実』予告編
三田格