Home > Reviews > Album Reviews > Matmos- Ultimate Care II
どうして洗濯機なのだろう……マトモスの新作を聴きながら、そのことばかりを考えてしまう。ワールプール社製の洗濯機が発する音だけで構築された本作『アルティメット・ケアII』は、現代のライフスタイルと音楽との関係性をコンセプチュアルにユーモラスに問う彼ららしい作品だと言えるし、生活音で作り上げられたハーバートの『アラウンド・ザ・ハウス』(02)を思い出すまでもなく、モダンなミュージック・コンクレート――もしくは「コンセプトロニカ」――としては正統なあり様のように感じられる。ただ逆に言えば、コンセプトのみにおいては強烈な真新しさを感じなかったのは正直なところで、ドリュー・ダニエルのソロ・プロジェクトであるザ・ソフト・ピンク・トゥルースの近作における、社会学的なアプローチが続いたコンセプトのほうがキャッチーなようにはじめは思えた。だが、意地の悪いインテリジェンスをつねに武器としてきたマトモスの功績を思い返すほど、冒頭の問いに立ち返るのである。そこにはきっと何か理由があるはずだ。どうして洗濯機なのだろう……。
その回答のヒントは、38分12秒にわたるアルバムが1曲のみで構成されていることにあるように思う。たとえば「注水」「洗い」「すすぎ」「脱水」といった行程によって分割する曲構成もあり得たはずだ。が、そうならなかったのは、その38分12秒――もちろんそれは1回の洗濯にかかる時間である――にひとつのストーリーを見出しているからだろう。汚れた服を入れ、ボタンを押したらあとは放っておかれる機械の架空の物語がここでは繰り広げられる。
興味深いのは、全体としてブレイクコアやIDMといったマトモスの「節」は炸裂しながらも、得意の優雅でポップなハウス的展開がほとんど見当たらないところだ。冒頭、ダイヤルを回して洗濯の水が注がれれば徐々にパーカッシヴなビートが入ってくるのだが、なにせBPMが140近くある。せわしなく機械は動き、そしてノイズがギリギリと雄叫びを上げる……それは比喩ではない。本当に機械が上げる悲鳴のように聞こえるのだ。やがてもう一度水音が聞こえればビートは消え、ダーク・アンビエント/ドローン的展開になだれ込んでいくのだが、その幻影的な音像の隙間から抽象的だがとても物悲しげなメロディが漏れてくる。それはこの秘密めいた音楽的冒険のなかの、もっともエモーショナルでメランコリックな瞬間だ。そしてそのまま、中盤は陶酔的な時間が引き延ばされ続け、25分あたりの完全にビートレスの瞬間はほとんど官能的ですらある。
この物悲しさを、僕はマトモスの音楽のなかにずっと忘れていたことにそのとき気づかされた。テレパシーを主題にした前作『ザ・マリアージュ・オブ・トゥルー・マインズ』の突飛さもあったし、何より彼らの作品には素っ頓狂で黒い笑いがつねに滾っているからだ。だが、その隙間では声にならない悲鳴もつねに上げられていたのではないか。
「アルティメット・ケア」、すなわち「究極の世話」とは何と皮肉めいた名称だろう。洗濯という必要不可欠な、しかし取るに足らない日々の家事において毎度上げられる機械の悲鳴。それが「究極」だろうと何だろうと人間は気にも留めないし、そうした煩雑なルーティンのなかで少しずつ心を削っていく。だがマトモスが言うには、想像力を働かせれば、そこでも音楽は鳴らされているのである。もし本作のことをインダストリアル・テクノと呼ぶのであれば、それは空虚な労働の横で鳴らされている機械音が生み出すエモーションと物語がでっち上げられているからだろう。だとすれば、これはミューザックが姿を変えて全世界的なBGMとなった現代の資本主義社会に対する、愉快で哀しい抵抗にも思えてくる。
終盤10分はほとんど冗談のような打撃音の応酬が繰り広げられる。ファンキーだと言ってもいい。何も聞かされていなければ、これが洗濯の音なんて誰も思わないだろう……と僕はほくそ笑みつつ、ビートに合わせて頭を振る。洗濯の完了を告げるブザーが鳴れば我に返るが……次回の洗濯はいつもよりも楽しめるかもしれない。
木津毅