「Not Waving」と一致するもの

編集後記(2018年2月1日) - ele-king

 刊行されてからだいぶ経つが、昨年読んだ小説で面白かったのは村上春樹の『騎士団長殺し』だった。物語の設定が、ここ数年個人的によく考えていることとリンクしたからだ。主人公の「私」は妻と別れ、谷間の入口の山の上の家に住むことになった。家にはパソコンもテレビもないが、ラジオと暖炉があり、レコードコレクションとその再生装置があった。屋根裏にはみみずくが住んでいる。「私」は肖像画を専門とする絵描きで、気が向けば家のレコードを聴く。外部との連絡はメールではなく、家電話を使っている(携帯も持っていない)。
 谷間を挟んではす向かいの山の上には、ひときわ人目を引くモダンな家がある。白いコンクリートと青いフィルターガラスに囲われたその3階建ての家の外側には自動制御された照明があり、家のなかにはエクササイズ・マシンを備えたジムやオーディオルームもある。住人は、「免色」という(色のないという意味の)不思議な名字を持った男。若くして金融関係の事業で財を成した彼は、脱税かマネーロンダリングかで東京地検に逮捕されたことがあるが無罪となって釈放され、会社を売ったお金でその家を買った。なかば隠居的に、ひとりで暮らしている。たまに書斎に籠もってインターネットを使って株式と為替を動かしているらしい。
 いうなれば「免色」は情報の世界に住んでいる。綺麗で明るく、そして脱魔術化された暗闇を持たない世界に住んでいると言える。対して「私」はいわばモノの世界に住んでいる。「私」の家にはみみずくが生息する屋根裏部屋がある。そこには知られるざる過去の記録が隠されている。こうした、谷間を挟んだ山のきわめて暗喩的なふたつの世界が出会うことで(あるいは暗闇をめぐって)物語は展開していく。この設定が、ぼくが音楽文化について切れ切れながらも考えをめぐらせていることと繫がる……というかぼくが勝手に繋げている。

 音楽のストリーミング・サービスは、定額制でどれだけの数量の音楽が聴けるのかというコンテンツ量が重要なポイントになる。どこも似たり寄ったりの量だから、サービスによってJポップが多いか、洋楽が多いかという“傾向”も決め手にはなるだろうが、基本は、自分が聴くであろう数量=情報量に対するコストパフォーマンスが優先される。
 いま音楽は“情報”だ。レコードという“モノ”を買って聴くという行為から得られる体験とは同じであり、違ってもいる。ぼくも定額制のサービスを利用している。自分のプレイリストを作ったりして、それなりに楽しんでいる。聴いていなかった曲をこんなにも簡単に聴けるなんて便利な世のなかだと感心する。ファンカデリックのアルバムだってぜんぶ聴ける。買うことはないであろうが聴きたいとは思うセックス・ピストルズの1976年のライヴとか、ジョイ・ディヴィジョンのライヴとか、そういう微妙な録音物を聴けるのは少し嬉しい。しかし失ったものもある。なんども言われ続けていることだが、それはアナログ固有の音質であり、アートワークのインパクトだ。
 やっぱりモノの強さというのはある。1979年、高校生だったぼくが通っていた輸入盤店の壁の新譜コーナーにザ・ポップ・グループの『Y』とザ・スリッツの『カット』が並んだときの衝撃はそうとうなものだった。恐怖の感覚さえ覚えたものだ。レジデンツやイエロのアートワークもショックだった。輸入盤を買う文化がまだ定着する前の話だ。得体の知れないこれらのレコードを欲することは、自分に悪魔が憑依したのではないかと思うほどぞっとする感覚だった。初めてジョイ・ディヴィジョンの『クローサー』のジャケットを手にしたときもものおそろしさを感じた。写真とデザインもさることながら、あのざらざらの紙はレコード・ジャケットではまず使われない材質だ。1枚のアルバムは、フェティッシュな魅力も携えていた(PiLの『メタル・ボックス』やCRASSのポスタージャケットも)。
 そんなフェティシズムはCDの登場によって後退したのだから、老いたる者の思い出話もいいかげんにしろだろう。もともとの12インチの文化だってヴィジュアルを捨てている。が、アナログ盤はもちろんのこと、CDにしたってリスナーは明瞭に1枚の作品と向き合うことになる。読み応えのあるライナーノートが封入されていれば、さらにその作品の深いところまで聴こうとするだろう。ストリーミングには、そうした音以外に踏みとどまらせる要素がない。すぐ飛ばせるし、どんどんどん他の曲を聴けてしまう(ヘタすればスマホの画面を切り替えて、『サッカーキング』と『BuzzFeed』を見てしまっている)。深い聴き方ができないとは思わないが、どうにもぼくの場合は質よりも量に向かってしまう。
 Spotifyの“人気曲”という機能も良し悪しだ。ラモーンズの人気曲には“ニードルズ&ピンズ”が入ってないし、ウルトラヴォックスの人気曲には“ヒロシマ・モナムール”も入ってないし、カンの人気曲には“ピンチ”も“マザー・スカイ”も入っていないじゃないか(カンの場合はほとんどのアルバムがSpotifyにない。レインコーツもないし)。まあ、こういう突っ込みがタチの悪いことぐらいはわかっている。すべてが網羅されていたら、それこそおそろしい事態だ。まだまだレコードやCDでしか聴けない曲はある。そして、買うほどではないが聴きたい曲を聴ける、しかも移動中に聴けるという便利さがストリーミングにはある。あの音質にさえ慣れてしまえば。
 ぼくが洋楽にのめりこんだ理由のひとつには、アートワークが日本のレコードよりも圧倒的に洗練されていたし、実験的だったということがあった。ストリーミング・サービスの画面に出てくる無数のアートワークはどれもが絵文字のように見えてしまう。それらは、情報としての音楽と同じようにフラットに並んでいる。高度情報化社会では情報がモノと同価である。モノはいらないけれど情報だけが欲しいというひとは多いし、この先もっと増えるだろう。実際のところ、文化は更新されている。何を言っても後の祭りかもしれない。そして音楽は時代の変化を敏感に感じとり、作品に反映させる。

 こうした情報としての音楽と対峙しながら批評的に創作しているのがハイプ・ウィリアムスであり、ジェイムス・フェラーロのような人たちだ。ベリアルの『アントゥルー』がフェイク時代を予見した作品だという議論が昨年の英米では盛り上がったという話だが(紙エレキングの髙橋勇人の原稿を参照)、忘れてならないのは、高度情報化社会に対するシニカルな反応として、謎かけのようなカオスを展開したのはハイプ・ウィリアムスだったということ。何度も書いているけれど、2018年のいまになっても、心底衝撃的だったと言えるライヴは2012年のハイプ・ウィリアムスだ。あれはエレクトロニック・ミュージックの歴史において、ぼくがそれまで経験したことのない、旧来とはまったく違うアプローチだった。匿名性ではなく、偽名性において表現する彼らは、本来であれば暗い照明が好まれるライヴ会場を最終的には目が明けられないほど明るく照らした。あの暗闇のない世界、異様なまぶしさは、インターネット社会の明るさのメタファーだろう。これは幻覚ではない、現実だ。そう言わんばかりの明るさ……。
 チルウェイヴ~ヴェイパーウェイヴないしはヒプナゴジック・ポップなどと言われたいっときの現象は、いま思えば、ひとから睡眠を奪う24時間フル稼働のネット型消費社会への抵抗/渇きのような反応であり、ミステリアスさ/いかがわしさを奪取せんとする動きだったと言える。個人的に苦手ではあるけれど、現在のニューエイジ・ブームがその延長にあるのはたしかだ。ちなみに日本では、元Jesse Ruins/現CVCが主宰するGrey Matter Archivesなるサイトが、サイバースペースにおける妖しい輝きを発している。ぼくがかつて感じたアートワークへの衝撃は、ひとつはいまはこういうところ、デジタル・アンダーグラウンドな世界で起きている。

 その明るさに懐疑的で、高度情報化社会にどこかで抗おうとしている自分がいる。『騎士団長殺し』をぼくのように読む人は多くはないだろうけれど、あの小説はアナログ盤にかじりついている音楽ファン目線で読んでいくとそれはそれで面白いのだ。「私」の親友がカセットテープで音楽を聴きたいがために車を古いのに買い換えたというエピソードはちとやり過ぎじゃないかと思ったけれど、カセットテープを買ってダウンロードで聴くという行為よりはスジが通っている。
 小説のなかでもっとも好きなフレーズは、その親友から「今はもう二十一世紀なんだよ。それは知ってたか?」と問われるところだ。「話だけは」と私は言った。──と小説では続く。ぼくはなんとか21世紀を生きている。シーンにおけるキーパーソンや注視すべきポイントもより見えてきている。年末年始の休みのあいだはコンピュータを持たず、本とスマホだけを持って帰省した。この1〜2年は移動中はストリーミングでひたすら音楽を聴いている。近年は12インチ・シングルが少量しかプレスされないので、すぐに売り切れる。アナログ盤にこだわっていると良い曲を逃してしまうことになる。自分はいまのリリース量/リリース速度についていけてないので、こういうときにインターネットやストリーミングはありがたい。リー・ギャンブルが見いだした、グラスゴーを拠点とするLanark Artefaxは、〈Wisdom Teeth〉のLoftなどとともに、近々間違いなくテクノ新世代としてより広く注目されると見た。Spotifyに入っている人は、「Whities 011」というシングルを聴いて欲しい。21世紀を生きるドレクシアがここにいる!
 (※リリース元は、抜け目のない〈ヤング・タークス〉傘下の〈ホワイティーズ〉です)


cupcakKe - ele-king

 カップケイクことエリザベス・エデン・ハリスは、シカゴで生まれ育ったラッパーだ。現在20歳の彼女は、14歳でラップをはじめた。注目を集めるキッカケとなった“Gold Digger”を発表したのが2012年だから、活動してすぐに名が知れたことになる。
 彼女の特徴として挙げられるのは、過剰なまでに性的なリリックだろう。“Vagina”や“Deepthroat”などは、その典型例だ。MVでも露骨な性的描写を前面に出し、“Duck Duck Goose”のMVではペニスのおもちゃを大胆に使っている。

 こうした表現から、彼女はキワモノ扱いされることが多かった。しかし、それはあまりにも一面的な見方だ。このことを示す例としては、“LGBT”が最適かもしれない。2016年のデビュー・アルバム『Audacious』に収められたこの曲は、彼女のファン層であるLGBTの人たちに捧げられたもの。アップテンポなトラックに乗せて、セクシュアル・マイノリティーを讃えるポジティヴな言葉を紡いでいる。セカンド・アルバム『Queen Elizabitch』に収録の“Scraps”も、彼女のシリアスな側面が見られる良曲だ。差別、貧困、暴力といった、自身の背景を語る思慮深さが際立つ。
 このように彼女は、表現者として奥深い存在だ。強烈なユーモアセンスはとてもおちゃめだが、目の前の風景を切りとる鋭い批評眼もある。そのおかげで、彼女の音楽には、聴いていてあくびが出てしまう場面は一切ない。チャーリーXCXと息の合ったコラボができるところも含め、多面的な表現方法は筆者を夢中にさせる。

 いま、彼女のサード・アルバム『Ephorize』が手元にある。1月5日にリリースされた本作は、彼女の最高傑作と呼ぶにふさわしい内容だ。これまで以上にシリアスで、どこか祝祭的な雰囲気を醸している。その象徴といえるのは、オープニング・トラックの“2 Minutes”だ。この曲で彼女は、自らの人生について深い省察を試みている。詩情的ともいえるラップは風格を漂わせ、表現者としてまたひとつ進化したことを雄弁に物語る。たおやかなピアノの響きに、賛美歌を想起させるサンプリングが乗るシンプルなサウンドも美しい。
 “Crayons”も見逃せない。レインボーフラッグを指すタイトルからもわかるように、多様性を寿く言葉が並ぶ名曲だ。ヘヴィーなダンスホールのビートに、彼女の力強いラップが合わさることで、果てしない高揚感と肉感性を醸してみせる。

 彼女の高いラップスキルも本作の聴きどころだ。ドリル、ダンスホール、ハウスなど、本作はさまざまなタイプのトラックを揃えているが、そのすべてを彼女は難なく乗りこなす。速射砲のように次々と言葉を紡いだかと思えば、“2 Minutes”では言葉を聞かせる静謐さも披露する。こうしたエンタメ性は彼女の過去作でも見られたものだが、それを飛躍的に進化させている。この点だけを見ても、彼女がただのキワモノではないとわかるというものだ。

 本作を聴いて、あらためて感じたことがある。それは、彼女の表現に黒人女性ラッパーの歴史を見いだせるということだ。トリーシャ・ローズが著書『ブラック・ノイズ』で論じたように、自身のセクシュアリティーや想いを自由に表現できる場を開拓したという意味で、黒人女性ラッパーたちが果たした功績はとてつもなく大きい。他者の視線やフィルターを通してではなく、自分本位で欲望を示し、そのこと自体を祝うのだ。
 もちろん、その過程で多くの議論に晒された。たとえば、ソルト・ン・ペパの“Shake Your Thang”は、あえて“お尻(Thang)”を強調することで、自由を表現してみせた。しかし“お尻”は、多くの男性たちにとっては“的”でもあり、それを自ら差しだすことに疑問を抱く人も少なくなかった。
 だが、それが自分のコントロール下でおこなわれたとしたら、どうだろうか? 筆者からすると、これも立派な“自由”に見える。他者の意思による強制的なものではなく、自分の意思で欲望を表し、同時に他者の欲望も操ろうとする姿勢には、明確な自立心と抵抗があるからだ。それこそ、映画『エル ELLE』におけるミシェルのように。

 カップケイクがたびたび用いる過剰な性的描写も、こうした歴史的文脈のうえで語れる。“Duck Duck Goose”のMVにしても、男性向けのポルノみたいな内容だが、それを自ら戯画的にやっているというのが重要なポイントだ。このような姿勢に筆者は、ミシェルに通じる自立心や抵抗と、それに基づいて“男性的”とされるものを手なづけていくしたたかさを感じる。

Various Artists - ele-king

 現代のアンビエント音楽が生成する「アンビエンス」は聴き手にどういった「イメージ」を与えることになるのだろうか。
 それは抽象的な「ムード」かもしれないし、ときには具体的な景色や光景、あるいはモノなどの「何か」かもしれない。もしくは身体的「効用」を感じとっているかもれない。
 私見だが2010年代以降の「アンビエント音楽」が聴き手に与える「イメージ」は、「環境」「時間」「空気」を取り込みつつも、どこかアブストラクトなアート作品のような「存在感」を放っているように思える。
 ブライアン・イーノの提唱した「アンビエント・ミュージック」から40年以上の月日が流れたのだから現代のアンビエント作家たちが奏でる音が「環境のための音楽」だけに留まらず、さまざまなフォームへと多様化を遂げつつあるのは当然のことだ。そもそもロックもジャズも、いやオーセンティックなクラシック音楽ですらも音のアンビエンスは時代と共に変化をし続けている。であれば「アンビエント音楽」も今と昔では違う響きを放っていて当然ではないか。

 2017年末、国内有数のアンビエント・アーティストであるダエンが自ら主宰するカセット・レーベル〈ダエン・レーベル〉から「風景画」をテーマとするアンビエント・コンピレーション・アルバム『Landscape Painting』がリリースされた。このようなテーマに即した方法論も現代アンビエント音楽の重要な要素である。じじつ、同レーベルは2016年11月にフランシスコ・ロペス、DJオリーブ、ローレンス・イングリッシュ、ニャントラ+ダエンらが参加した『TIME EP』という「時間」をテーマとしたアンビエント・コンピレーション・アルバムをリリースしている。
 前述した『TIME EP』でも国境を超えて才能豊かな音響作家が集結していたが、本作『Landscape Painting』でも同様である。〈アントラクト〉からのリリースでも知られるオランダの電子音響作家マシーン・ファブリック、〈ゴーストリー・インターナショナル〉のアルバムも素晴らしいフィラデルフィアの音響ハープ奏者メアリー・ラティモア、Alive Painting としても活動する中山晃子、ベルギーのフィールド・レコーディング作家リーヴォン・マーティンス・モアーナ、そしてダエンなど、まさに現在最高峰ともいえる世界各国のアンビエント/エクスペリメンタル音響作家たちがトラックを提供しているのだ。さらに音響のアンビエンス感覚を見事に表現したスリーブ・アートワークを手掛けたのは、mihara aya。何はともあれ素晴らしいエクスペリメンタル・アンビエント・ミュージック・コンピレーション作品なので、まずは聴いて頂きたいと思う。

 アンビエント的なムードが横溢していた『TIME EP』と比べると、曲のムードがトラックごとに異なり、それぞれのアーティストの手法がより全面化しているエクスペリメンタルな作品集にも思えるがアルバム全編を聴き終えたときは、不思議と統一したトーンを感じたものだ。多層的な音響の線が交錯し、確かに「風景画」を思わせるアトモスフィアを感じてしまうのである。このあたりは主宰ダエンのキュレーション力の賜物といえよう。そう、手法やフォームが違えども共通するトーン、アンビエント感覚があったのだ。
 1曲め、マシーン・ファブリックの“Metallic”は、その名のとおりメタリックな質感の電子音響サウンドだが、その音の多層的に生成変化していくさまに「絵画的」な表層の美を感じてしまう。続く2曲めのメアリー・ラティモア“Stupid Porches”はハープによるフォークロア・ミニマル・ミュージックといった趣で、その音楽のむこうに風景のイマジネーションを感じた。3曲め中山晃子の“Drawing”は、電子音と環境音のミニマムな音の連なりが繊細な線の集積のようである。アルバム中、もっとも短いトラックだが印象に残るサウンドであった。
 B面1曲め、リーヴォン・マーティンス・モアーナの“A VILLAGE SCENE”は現れては消えてゆく柔らかな音色のアンビエント・ドローン。風景画の全体と部分が同時に生成するような感覚を聴き取ることができた。この淡い感覚は、ダエンによる時間が止まるように美しい静謐なアンビエント・トラック“seeing it self”へと受け継がれ、アルバム全体を風景画と、それが存在する(展示される?)架空の空間の澄み切った空気を生成するような音響空間を鳴らすことになるだろう。アルバムのラスト・トラックとして、これ以上ないほどに素晴らしいアンビエンスを生成している。

 さて、アンビエント・ミュージックは環境音楽でもあるのだが、ではその「環境」は、どのようなイメージで生まれるものなのか。そのヒントに「絵画」などのアート作品との関係性が挙げられると思う。現代アンビエントの複雑にして多用な音の質感は、絵画/アートの色彩のそれに近いものかもしれないし、そのアートがモノとして存在する空間もまたアンビエント・ミュージックの存在を意識するものになるように思える。
 ダエンは昨年2017年、日本の〈きょうレコード〉から2枚組アンビエント・アルバムの傑作『monad』をリリースしたが、このアルバムもまたアートワークと音響が饗宴するかのように存在する作品であった。この「感覚」が本作『Landscape Painting』にも継承されているように思えてならない。それは絵画やアート作品と連携することで生まれる、より具体的な「存在する」音への希求かもしれない。また。「それ」よって身体に「効く」アンビエントの生成を実践しているのかもしれない。
 じじつ、ダエンの音を聴くと耳から身体が綺麗な空気によって「浄化」される気分になるのだ。これはいささかも神秘主義的なものではなく、その音の精度がかつてのアンビエント・ミュージックの何十倍も柔らかく、そして高まっているから、とはいえないか。『Landscape Painting』を聴いて感銘を受けた方でもしも『monad』を未聴ならば、ぜひともCDを手に取って聴いて頂きたい。「アンビエント・ミュージックの現在」が、ここにもある。

Grizzly Bear - ele-king

 2017年、もっとも過小評価されたうちの1枚かもしれない。インディ・ロックがセールス面でも批評面でも影響力を落としているのはいまに始まった話ではないが、『ペインテッド・ルーインズ』に対する世間的なリアクションの薄さはどうも「グリズリー・ベアがいま高度なことをやっても驚かないし、波及しない」と見なされているようで、そこに危うさを感じてしまう。じっくりと時間をかけて作られた工芸品よりも、感情的に即効性のある製品としてのポップスが求められている時代だとして――「ポスト・トゥルース」以降の――そのことにリスナーや批評家が追従してしまっていいのだろうか。声の大きい連中やスキャンダルな見出しばかりが注目されるのだとしても。

 とはいえ、僕自身『ペインテッド・ルーインズ』を何度か聴いて率直に抱いたのは、過去2作に比べてやや地味だという印象だった。現在からUSインディ・ロックのひとつのピークだと振り返られる2009年にリリースされた『ヴェッカティメスト』における忘れがたいオープニング・トラック“Southern Point”の鮮烈さ、あるいは『シールズ』で狂おしく疾走する“Speak in Rounds”のダイナミックさは控えめだからだ。近いと感じたのは『イエロー・ハウス』(2006)における統制された抑揚のなか浮上してくる翳りで、いまのグリズリー・ベアなら簡単にそれはできてしまうものだろうと思えたのだ。彼らの世間的な注目がもっとも高かった『ヴェッカティメスト』~『シールズ』におけるダイナミックな構成は何だったかと言えば、クラシックにおける極端なクレッシェンドやフォルテシモの大胆な導入によるもので、それは従来のインディ・ロック的な価値観とはかなり距離のあるものだった。チェンバー・ポップをたんに(ストリングスや管楽器の導入といった)楽曲の装飾という点ではなく、演奏や構成からクラシック/現代音楽に接近させたバンド音楽などというものは、それこそ相当な音楽的素養と演奏力がないと到底不可能なものだ。ティンパニのようにドラムが叩き鳴らされる「インディ・ロック」なんてそれまでは考えられなかったし、僕もまたそれに大いに興奮した人間だったので、『ペインテッド・ルーインズ』では抑えられているのが少しばかり寂しかった。もちろん、メランコリックなメロディがじわじわと広がっていくコーラス・ワークや和音の進行は一級品だが、それはすでに知っているものだった。
 が、本作の聴きどころは和声ではなくむしろリズムにあるのだと聞き、その観点で別の快楽を発見することになる。たとえばもっともキャッチーで「ロック的」とも言える2曲め“Mourning Sound”は8ビートのような均等なビートが叩かれるのだが、タムの音色と音の配置は巧みに振り分けられ、それらがアンサンブルに自然に寄り添っていく。エレクトロニカのプログラミングを生ドラムで再現したような“Aquarian”における打音の手数の多さは、それ自体が複雑なグルーヴを、しかしこれ見よがしにではなく生み出していく。“Three Rings”では奇数の拍がそれとなく挿しこまれており、アフロ的なポリリズムがよく耳を澄ませなければ感じられないような作りになっている。
 それはつまり、本作においては過去作よりも非西洋の音楽的要素がさりげなく、しかし楽曲の根幹を成す要素として入りこんでいるこということだ。あり方としてはフリート・フォクシーズの『クラック‐アップ』とも近い。「ワールド」を、しかし「ワールド」と呼ぶときの線引きを無効にするように取り入れる。深読みすればそれは、文化的/政治的国境が厳格になっていく時代への違和感の表明だろうし、自分たちを搾取する側に置かないようにする配慮であり知恵だろう。『ペインテッド・ルーインズ』のなかには西洋のクラシックの歴史が培った楽理、ウェストコースト・ロックの陶酔、アフリカのリズムのグルーヴ、エレクトロニカの繊細な音の配置……といったものが混在しているが、それらはグリズリー・ベアらしい甘美なサイケデリアのもと、それぞれの個体がわからなくなるまで溶け合っている。

 ひとつ思うのは、この甘美さはじゅうぶんな時間を用意して身を預けないと感じられないということだ。簡単に消費することなどできない……そして、彼らはそのことに意識的なのではないか。「印象」の奥にある細やかな音のやり取りに耳を傾けること。そうした能動的な態度をリスナーに求めるのがこのアルバムで、そこでは分断を融解させるアンサンブルにおける理想主義が広がっている。
 消費のスピードが加速する現代において、グリズリー・ベアのこうした生真面目な態度は不利だということなのかもしれない。だがそれでも聴き手を信頼することを諦めないと、彼らは音で語りかけている。耳を澄まそう。


φonon - ele-king

 その特異な音楽性とDIYな活動で80年代に大きな足跡を残した伝説のユニット、EP-4。その中心人物・佐藤薫が新たにレーベルを始動する。その名も〈φonon(フォノン)〉。まずは2月18日に EP-4 [fn.ψ] と Radio ensembles Aiida のCD作品2タイトルがリリースされる。EP-4 [fn.ψ] は EP-4 の別働ユニットで、佐藤薫と家口成樹のふたりから成る。Radio ensembles Aiida は A.Mizuki のソロ・ユニットで、今回発売されるのは昨秋リリースされた初作品集の続編にあたるもの。かつて EP-4 はサウンドだけでなくその発信の方法に関しても独自の実践をおこなっていただけに、今後この新レーベルがどのような動きを見せていくのか目が離せない。

φonon (フォノン) について

新レーベル〈φonon (フォノン)〉は、EP-4の佐藤薫が80年代に立ち上げたインディー・レーベル〈SKATING PEARS〉のサブレーベルとして始動する。〈SKATING PEARS〉は当初カセットテープ・メディアを中心に多彩な作品をリリースしてきたが、φononは佐藤薫のディレクションによって主にエレクトリック/ノイズ系の作品を中心にリリースする尖鋭的なレーベルだ。

EP-4 [fn.ψ]
OBLIQUES

作品概要
EP-4 の別動ユニット EP-4 [fn.ψ] の初CDとなる『OBLIQUES』。EP-4 の佐藤薫と PARA や EP-4 のサポートなどマルチに活動する家口成樹の2人によって2015年に組まれたユニット EP-4 [fn.ψ]。ラップトップ・ガジェット、シンセサイザー、エフェクターなどが織りなす即興的音の立体空間は、ノイズでありアンビエントでもあるという対語的多面的要素を見事に融合した音のアマルガムを構成する。
本作は2017年6月大阪で行われたライヴの演奏を収録した作品だ。フィールド録音の変調や現実音を切り取って即興編集される佐藤のソニックスコープと純正律チューニングを自在に操る家口の重畳的シンセサイザーが、ときにストリームのように、ときにはフィルミーに立体的な音空間を織りなす。安易なリズムやビートを徹底して排除したかのような音の洪水が空間を切り裂く、約60分間のシームレスなライヴ録音となっている。※ [fn.ψ] = [ファンクション サイ]

アーティスト:EP-4 [fn.ψ]
アルバム・タイトル:OBLIQUES
発売日:2018年2月18日(日)
定価:¥2,000+税
品番:SPF-001
JAN:4562293382516
発売元:φonon (フォノン) div. of SKATING PEARS
流通:p*dis / 株式会社インパートメント
Tel: 03-5467-7277・Fax: 03-5467-3207

〈トラックリスト〉
01. Panmagic
02. Enantiomorphs
03. Sonic Agglomeration
04. Pluralism
05. Pogo Beans
06. Hyperbola
07. Diagonal
08. Flyby Observations
09. Plural (outro)

Radio ensembles Aiida (ラヂオ Ensembles アイーダ)
From ASIA (Radio of the Day #2)

作品概要
A.Mizuki のソロ・ユニットであるラヂオ Ensembles アイーダ『From ASIA (Radio of the Day #2)』。2017年11月に発表された初作品集『IN A ROOM (Radio of the Day #1)』の続編であり、Radio of the Day シリーズの第2作となる。複数のBCLラジオが偶然織り成す一期一会の受信音と、リレースイッチの電流制御などによって生まれるビート/グルーヴをコンダクトし、類のないサウンドスケープ的な音世界を紡ぐ。前作では自室の音風景を切りとり繊細かつ大胆な不思議空間を表現していたが、本作ではタイトルどおり、BCLチューナーを抱えて訪れたアジアの街角でのフィールド・レコーディングで構成された不思議空間を創出している。つまりその不思議が、待ち受け開放から本来の開放を求める不品行な能動へとシフトしたのがこの作品集だ。彼女とラヂオの出会う世界をひとはラヂオデリアと喚ぶ!


アーティスト:Radio ensembles Aiida(ラヂオ Ensembles アイーダ)
アルバム・タイトル:From ASIA (Radio of the Day #2)
発売日:2018年2月18日(日)
定価:¥2,000+税
品番:SPF-002
JAN:4562293382523
発売元:φonon (フォノン) div. of SKATINGPEARS
流通:p*dis / 株式会社インパートメント
Tel: 03-5467-7277・Fax: 03-5467-3207

〈トラックリスト〉
01. Secret SW - Singapore
02. Market - Singapore
03. Restaurant - Singapore
04. Square - Singapore
05. Changi Airport - Singapore
06. Secret MW - Japan
07. Revolve! - Japan
08. Specter × Festival - Japan
09. Radio TUK-TUK - Thailand
10. Squall - Thailand
11. T-Rap announcer - Thailand
12. Radio Free Bangkok - Thailand


Filastine & Nova - ele-king

 いまエレクトロニック/クラブ・ミュージックはどんどんワールド・ミュージックと交錯していっている。とはいえ、一言で「ワールド・ミュージック」といってもそのあり方はじつに多岐にわたる。その多様性や複雑さを損なうことなく新たな形で示してくれるアクトのひとつが、世界各地の音楽を実験精神をもって表現しているデュオ、フィラスティン&ノヴァだ。バルセロナを拠点としているフィラスティンとインドネシア出身のノヴァから成るこのユニット、詳しくは下記のバイオを読んでいただきたいが、なかなかに尖っている(ちなみにフィラスティンは先日亡くなったECDこんな曲を共作してもいる)。そんな彼らの久しぶりの日本ツアーが開催されるとのことで、これは足を運ばずにはいられない。東京公演には KILLER-BONG や ZVIZMO(伊東篤宏×テンテンコ)らも出演。要チェック。

越境するマルチメディア・デュオ、FILASTINE & NOVAのジャパン・ツアー決定!
東京公演は2/11(sun)に代官山のSALOONにて開催!

 2月にバルセロナを拠点とする作曲家/映像作家フィラスティンと、インドネシア出身のネオ・ソウル・ヴォーカリスト、ノヴァ・ルスによるデュオが来日、ジャパン・ツアーを敢行する。「都市の未来を崩壊させるようなベース・ミュージック(Spin)」、「ワールド・ミュージックというよりも、もう一つの世界から来た音楽(Pitchfork)」と評される、映像、音楽、デザイン、ダンスを駆使したダイナミックなライヴ・パフォーマンスは必見だ。

FILASTINE & NOVA
Drapetomania Japan Tour 2018

2/6 福岡 art space tetra
2/7 尾道 浄泉寺
2/8 名古屋 K.D Japon
2/9 京都 octave
2/11 東京 SALOON
2/12 札幌 第2三谷ビル6F 特設会場

 2/11(sun)に代官山のSALOONにて開催される東京公演では、“最も黒い男” KILLER-BONG、アヴァン・エレポップ/ストレンジ・テクノイズを響かせる ZVIZMO(伊東篤宏×テンテンコ)がライヴを披露、また、オリジナルなワールド・ミュージック/伝統伝承の発掘活動も展開する Shhhhh、空族の映画『バンコクナイツ』への参加でも知られる Soi48、ヒップホップやアンビエントを行き来しながら活動を展開する YAMAAN といった独創的なDJたちがスペシャルなプレイをくり広げる。VJとして rokapenis の参加も決定している。世界各地域の音楽、文化を実験精神をもって独自に表現する面々によるクレイジーでダンサンブルな一夜になるだろう。

FILASTINE & NOVA
Drapetomania Japan Tour 2018 in Tokyo

2018.02.11 (sun)
@代官山 SALOON
Open/Start 18:00
Adv 2500yen(1D付き)/ Door 3000yen(1D付き)

| Live |
FILASTINE & NOVA
KILLER-BONG
ZVIZMO

| DJ |
Shhhhh
Soi48
YAMAAN

| VJ |
rokapenis

| Ticket |
前売りチケット取扱い店
・IRREGULAR RHYTHM ASYLUM
・disk union
└ 渋谷クラブミュージックショップ
└ 下北沢クラブミュージックショップ
└ 新宿クラブミュージックショップ
└ 新宿ラテン・ブラジル館
└ 吉祥寺店
└ 池袋店

・予約 filastine.tokyo2018@gmail.com

| Info |
IRREGULAR RHYTHM ASYLUM
https://ira.tokyo/filastine-nova-tokyo/ | 03-3352-6916


【PROFILE】

●FILASTINE & NOVA

バルセロナを拠点とする作曲家/映像作家フィラスティンと、インドネシア出身のネオ・ソウル・ヴォーカリスト、ノヴァ・ルスによるデュオ。ブラジルのカーニバルのバトゥカーダやモロッコの神秘主義者たちとの関わりから打楽器を学び、ラディカル・マーチングバンド The Infernal Noise Brigade を率いたフィラスティンと、幼い頃からペンテコステ派の霊歌やコーランを歌い、ガムラン・パーカッションを演奏し、インドネシアのヒップホップ・シーン草創期にラッパーとしても活躍したノヴァが生み出す音楽は、まさに「ワールド・ミュージックというよりも、もう一つの世界から来た音楽(Pitchfork)」である。世界各地の音楽フェスティバルに出演する以外にも、ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』の公式ミックステープ制作や、フランス・カレーの巨大難民キャンプ「ジャングル」でのライヴ、掃除婦や鉱夫などの底辺の労働者がダンスによって解放される映像シリーズの制作など、音楽を通して「もう一つの世界」の実現を目指すラディカルな表現活動を続けている。2017年に最新アルバム『Drapetomania』を発表した。
https://soundcloud.com/filastine

●KILLER-BONG

〈BLACK SMOKER RECORDS〉主宰、最も黒い男。

●ZVIZMO

蛍光灯音具 OPTRON (オプトロン) プレイヤーの伊東篤宏と、アンダーグラウンド⇔メジャーを縦横無尽に行き来する テンテンコ によるデュオ・ユニット。テンテンコの聴き易いが意外に重たいエレクトロ・ビートと伊東のフリーキーだが意外とキャッチーな OPTRON が作り出すその音世界は「奇天烈だが何故かフレンドリー」な響きに満ちている。2017年11月に〈BLACK SMOKER RECORDS〉より1st アルバムをリリースした。

●Shhhhh(El Folclore Paradox)

DJ/東京出身。オリジナルなワールド・ミュージック/伝統伝承の発掘活動。フロアでは民族音楽から最新の電子音楽全般を操るフリースタイル・グルーヴを発明。13年に発表したオフィシャルミックスCD、『EL FOLCLORE PARADOX』のコンセプトを発展させた同名レーベルを2017年から始動し、南米から Nicola Cruz、DJ Spaniol らを招聘。アート/パーティ・コレクティヴ、Voodoohop のコンピレーションLPのリリースなど。dublab.jp のレギュラーや、オトナとコドモのニュー・サマー・キャンプ“NU VILLAGE”のオーガナイズ・チーム。ライナーノーツ、ディスク・レヴューなど執筆活動やジャンルを跨いだ海外アーティストとの共演や招聘活動のサポート。全国各地のカルト野外パーティー/奇祭からフェス。はたまた町の酒場で幅広く活動中。
https://soundcloud.com/shhhhhsunhouse
https://twitter.com/shhhhhsunhouse
https://www.facebook.com/kanekosunhouse

●Soi48(KEIICHI UTSUKI & SHINSUKE TAKAGI)

旅行先で出会ったレコード、カセット、CD、VCD、USBなどフォーマットを問わないスタイルで音楽発掘し、再発する2人組DJユニット。空族の新作映画『バンコクナイツ』にDJとして参加、〈EM Records〉タイ作品の監修、『爆音映画祭タイ・イサーン特集』主催。フジロックや海外でのDJツアー、トークショーやラジオなどでタイ音楽や旅の魅力を伝えている。その活動の様子はNHKのTV番組にも取り上げられ大きな話題となった。CDジャーナル、boidマガジンにて連載中。英Wire Magazineにも紹介された、『Soi48』というパーティーを新宿歌舞伎町にて不定期開催中。Brian Shimkovitz (AWESOME TAPES FROM AFRICA)、Zack Bar (FORTUNA RECORDS) からモーラム歌手アンカナーン・クンチャイ、弓神楽ただ一人の後継者、田中律子宮司など個性的なゲストを招いてのパーティーは大きな反響を呼んでいる。タイ音楽と旅についての書籍『TRIP TO ISAN: 旅するタイ・イサーン音楽ディスクガイド』好評発売中。
https://soi48.blogspot.jp/
https://www.instagram.com/soi48/

●YAMAAN

HIPHOPやAMBIENTを行き来しながら活動中。2017年2月に“NN EP”をリリースした。
@Mirage______

Ambient Jazz Ensemble - ele-king

 ジャズとアンビエントの結びつきを見ると、1950年代や1960年代のマーティン・デニー、アーサー・ライマン、レス・バクスターといったエキゾティック・サウンド、ジャン・ジャック・ペレイ、ガーション・キングスレイ、モート・ガーソンといった電子音楽にまで遡る。アンビエントは流動性のある概念なので、ジャズ系でもアリス・コルトレーン、ビル・プラマー、デヴィッド・アクセルロッドなど、さまざまなアーティストの中にその要素を見出すことができる。そして、アメリカよりもヨーロッパで発展する傾向が見られるが、それはクラシックやミュジーク・コンクレートとの結びつきが強いヨーロッパのジャズならではだろう。当然、ジャズ・ロック、プログレ、クラウト・ロックなどもそこに絡み、エレクトロニック・サウンドの発展と同調してニール・アードレイ、ラルフ・ルンドステンなど幅広いタイプのアーティストが登場する。ドイツの〈ECM〉は、こうしたアンビエント性の高いジャズを多く発信してきたレーベルでもある。クラブ・ジャズ以降を見てみると、やはりイギリス勢が強い。そもそもマイク・ウェストブルックやニール・アードレイなどのジャズ・オーケストラの歴史があり、ジョン・テイラーやノーマ・ウィンストンなどアンビエント性の高いアーティストを輩出してきたので、そうした伝統がクラブ世代のアーティストにも受け継がれてきた部分がある。そこへトリップ・ホップはじめ英国ならではの先鋭的なエレクトロニック・サウンドの要素が加わり、シネマティック・オーケストラやクリス・ボウデン、ヘリテッジ・オーケストラ、ヒドゥン・オーケストラなどが登場する。その多くがオーケストラ編成、もしくはそれに類する形態のプロジェクトというのが特徴で、ジャズに多いインター・セッションや即興演奏よりも、理論的かつ構築的な作曲技法をもとにしている。近年登場したアーティストでは、アンビエント・ジャズ・アンサンブルがこうしたアンビエントな英国ジャズ・オーケストラの系譜に属する。

 アンビエント・ジャズ・アンサンブルは英国ミッドランド生まれのベーシスト兼マルチ・ミュージシャン、コリン・バルドリーを中心とするスタジオ・プロジェクトである。バルドリーはオックスフォード近郊で長らくスタジオ・ミュージシャン/コンポーザー/プロデューサーとして活動し、ライブラリーや映画音楽の仕事もいろいろ行っている。そこにピアニストのニール・カウリー、サックス&フルート奏者のフィン・ピーターズが加わって、2013年にアンビエント・ジャズ・アンサンブルが誕生した。カウリーはブラン・ニュー・ヘヴィーズやゼロ7、ピーターズはマシュー・ハーバート・ビッグ・バンドや2バンクス・オブ・4などで演奏してきたほか、それぞれリーダー・アルバムも発表している。この3人のほか、ドラマーのベン・レイノルズ、ベーシストのクリス・ヒルなどを交え、2014年にファースト・アルバムの『スイート・ショップ』をリリース。このアルバムは映画『フィフス』のサントラとして作られたものでもあり、長らく映画音楽の仕事をしてきたバルドリーの作曲技法が生かされている。アンビエントやエレクトロニカな要素を持ち込んだ英国ジャズ・バンドには、近年でもゴーゴー・ペンギンポルティコ・カルテットなどいくつかあるが、3、4人などミニマムな編成のそれらに比べ、アンビエント・ジャズ・アンサンブルはホーン・アンサンブルやストリングスを交えた大掛かりな編成により(もしくはスタジオ・ワークでそれに準じる演奏を作り出している)、ダイナミックでスケールの大きなサウンドスケープを生み出している点が特徴だ。エレクトロニクスも用いているが、あくまでアコースティックな楽器群のアンサンブルを補助するもので、そうしてでき上がった作品はシネマティック・オーケストラあたりに近いだろう。

 その後、2015年の『スイート・ショップ』のリミックス集を挟み、3年ぶりのニュー・アルバム『AJE』が完成した。今回はニール・カウリーの代わりに、ジャズ・ロック・トリオのトロイカなどで活動するキット・ダウンズがピアノ/キーボードを担当するが、全体的にアンサンブルを拡大してクラリネットやパーカッションなど楽器が増え、本格的なストリングス・アンサンブルのほか、ヴォーカリストとしてドナ・ガーディアーも加わっている。アシッド・ジャズ時代にはロウ・スタイラスでも歌ったベテラン女性シンガーだ。内容としては『スイート・ショップ』を発展させ、それぞれミュージシャンの演奏やアンサンブルがより濃密なものとなる一方、そのスケール・アップした演奏に沿うべく、作曲面でもさらに緻密さや洗練度に磨きが掛かっている。そして、自らが歌として前面に出ることはなく、あくまで楽器の一部として機能するヴォーカル&コーラスが、作品に彩りや生命力を与えている。ブレイクビーツと美しいピアノのアンサンブルが印象的な“ブレス・イット・イン”でのコーラスは、どこか民族音楽的な風合いを感じさせるものだ。それに対し、“エングレイヴド”でのコーラスはゴスペル的なスピリチュアルなものを感じさせる。“アグファカラー”の導入部は、ブラインアン・イーノとジョン・ハッセルがやっていたようなアンビエント・ミュージック的なもので、そこから次第にアンビエント・ジャズ・アンサンブルらしいオーケストラル・ジャズへと展開していく。“フェルト”と“マイ・ファイナル・シーン”はネオ・クラシカルな曲想で、特に前者においては静と動の切り替えが鮮やかである。重厚なモーダル・ジャズの“イレヴン・デイズ”やバレアリックなムードの“サマー・スリップス・アウェイ”は、英国らしいダークでメランコリックな色彩を帯びている。哀愁のメロディを奏でつつ、次第に疾走感を帯びていくジャズ・ロックの“ザ・シークレット”には、ファースト・アルバムからさらに向上した作曲のスキルが反映されている。クラブ・ジャズの観点では、全盛期の4ヒーローを思わせるフューチャリスティックな趣の“シー・ザ・スカイ”が素晴らしい。そして、ギター、ソプラノ・サックス、オーケストレーションの見事なアンサンブルが飛翔感を放つ“ワン・オブ・ザ・ベスト・デイズ”。なお、アルバム・ジャケットはマリオン・ブラウンの『ヴィスタ』(1975年)を彷彿とさせるものだが、このアルバムもハロルド・バッドの作品を演奏していた。ブラウンはパリ時代にエリック・サティの作曲技法の影響を受けており、そうした点でジャズとアンビエントを結びつけた先駆者でもあったのだ。

6 ムードとモード - ele-king

 「ある雨上がりの夜。霧さえ出ていないものの、道路のミラーや駐まっている車のフロントガラスは、白く水蒸気の寄り場となり、映るすべてのものを抽象化して、妖気を与えている。街灯の光は月のように、自分の姿は知らない他人のように。幻覚のようなそこに映るものは、いつか見たことがあるような気がするというよりは、これから出会うかもしれないという妙な不安を誘うものである。そこで、はっと気づいた。いつか見たことがあるようなものと、これから出会う予感のするものに些かの違いがあるのだろうか」
 これは 2014 年くらいのメモにあったもので、僕は以前そんなムードの切れ端をメモしておこうという気を起こして『グッド・ナイト』の歌詞を書いた。さて、ドラムにもこのような郷愁を持ち込んでいいものかどうか。

 今は、このようなムードは一旦去った。ただ、モードが帰ってきている。モードは「~モード」とかよく一般的に言われているものと同義で差し支えない。ムードはある時期にしか属してくれず、すぐどこかへ行ってしまうけど、モードこそ気持ちでどうにかできるものでもないと気がついた。ただ、モードさえ帰ってくればムードは思い返すことならできるかもしれない。そういった点、僕は今図らずも「森は生きている」のよきリスナーになっているのかもしれない。当時ムードをドラムにまで持ち込みたかったどうかは覚えていないが、所謂きちんとしたドラマーの仕事をするというよりは、パーカッションからの影響を8ビートに還元することに執念を燃やしたり、ライヴではロイ・ブルックスやスティーブ・リードのように少し喋り過ぎていたようだ。
 そんな「森は生きている」のいつかのライヴのあとにgonnoさんと口約束したプロジェクトが約3年越しに実行する。(https://diskunion.net/latin/ct/detail/1007589182)僕は、周りをぐっと昇華させるようなレヴォン・ヘルムやナナ・ヴァスコンセロスに憧れる反面、喋り過ぎる(喋ることができる)ドラムを叩くロイ・ブルックスやスティーヴ・リードにずっと憧れていた。gonnoさんの音楽はどこか懐かしく柔らかい。それなのに強度もある。僕が喋り過ぎたくらい包み込んでくれる懐の深さがきっとある。というか、今回はあまり作戦立てをし過ぎず、お互いの処女の会話を作品にしたいと思っている。作戦立ては今後いくらでもできるし。だから、ムードをドラムに持ち込むモード全開だ。

 もう一つ新しいバンドのプロジェクトは歌を生かさなければならない。シンガーソングライター特有の曲の間にできる真空のようなものを共有しなければならない。これが絶妙で、一からドラムをやり直さなければならない練習モードにさせられている。最近、作詞の依頼から資料集めの一環で尾崎亜美などを聴いていたのだが、言葉のことより林立夫氏のドラムに驚いた。『大滝詠一』『HOSONO HOUSE』のドラミングはすごく聴いてきて、やはり一種のなつかしさがあって(駒沢氏のペダル・スティールが助長している節も大きい)、それなりにコピーにも取り組んできたのだが、それ以降のドラミングはなつかしさが多少去って、それでもかっこよさは残りながら、上手さと凄みを湛えている。はっきり言って勝手に凹んだ。でも、ちょうどいい。大分に一人でいるのも申し訳ない気持ちになることがいつも山に叩きに行かせるので、練習モードは歓迎だ。そして、最近話題の大貫妙子『SUNSHOWER』におけるクリス・パーカーや、ジェイムス・テイラーにおけるリーランド・スカラーと組んだ時のラス・カンケルのドラミングに改めて驚嘆した。”Nobody But You”の間奏明け1:52~1:56までスネアを抜いたプレイは圧巻。そしてスネア一発帰って来たときのなつかしさは言葉にできない。スティービー・ワンダー”bird of beauty”におけるボビー・ホールのドラミングも思い出した。なんだか急に色々思い出してきた。

 2月になったらすぐ東京へ行って2週間ほど滞在しながら、このどちらもを一気に進めます。岡田とのプロジェクトも並行して行います。あと一週間はスウェディッシュ・トーチの力を借りて、寒さに負けず山へ。


サバール練習会

R.I.P. ECD - ele-king

ECDさんといつまでも(Together forever)

矢野利裕

 ECDさんが亡くなってしまったことが、とても悲しく、つらいです。

 ele-kingのかたより「ECDさんの追悼文を書きませんか」と連絡をいただきました。わざわざ人前で追悼文を発表することに抵抗感があるし、「オレなんかが」という気持ちもあります。しかし、そういう局面において、いつでも覚悟を持って言葉を発することを選び続けることが、ECDさんをはじめとする日本語ラップの格闘だったはずで、僕自身、この20年、日本語ラップのそういうアティテュードにおおいに勇気づけられてきたので、自分なりにECDさんについて書かせてもらいます。

 紋切の言いかたですが、20年まえ、14歳のときに『BIG YOUTH』という作品でECDを知ったことからこそ現在の僕がいます。本気でそう思っています。具体的に言うと、地に足をつけた労働者であるとともに、表現者であるということ。僕はいま、自分なりのヒップホップ観の延長で、中高一貫校の教員という仕事をしています(ようするに、KRS ONE的「TEACHA」による「Edu-tainment」を目指している、ということです)。幸いなことに、それなりにまともな給料をもらっています。ただ、よく言われるように、教員というのはなかなか休みに恵まれません。運動部の顧問ということもあり、土日の休みもままならず、肉体労働の側面も強いと感じます。疲労とストレスがたまって、肉体的・精神的に弱ってくるたびに「いっそ文章を書くことに専念したい」と思います。でも、辞めない。なぜか。でも、お金の問題は関係ない。仕事を続けるのは、労働をしながら表現をすることが誠実でかっこいいことだ、と思っているからです。労働者であることと表現者であることが深く結びついていること。生活が表現を生むこと。その表現が生活に戻ってくること。そういう生きかたを強烈に体現した人が、ECDさんでした。「21世紀のECD」以降を生きる僕にとって、「好きなことをして食べる」という一途な生きかたは、それほど魅力的には映っていないのです。

 『BIG YOUTH』を初めて聴いたとき、ヒップホップというものに触れること自体がほとんど初めてだったから、めくるめくサウンドとラップに本当に衝撃を受けました。ああ、こんなにもスリルと喜びに満ちた音楽があるのか! すぐに心を奪われました。『BIG YOUTH』は、自分が音楽にのめり込むきっかけの大きなひとつで、例えば、マーヴィン・ゲイを聴くようになったのは、「ECDのロンリー・ガール feat. K DUB SHINE」で下敷きにされていたからでした。その他、ミュート・ビートにしてもデ・スーナーズにしても、「ECDが使ったから」が根拠になって、自分の音楽の世界は広がりました。『BIG YOUTH』の冒頭、クール・ハーク、グランドマスター・フラッシュ、ラキム、KRS ONEの名前が出てくるのですが、無知な自分としては、それらがなにを意味しているのかまったくわからない。人の名前だったと知るまで、まるで呪文のように頭にこびりついていました。あるいは、「復活祭」においてシャウトアウトされるポール・Cや江戸アケミの名前。こちらは、人名だとは分かったけど、いくらヒップホップの棚を見ても、ポール・CのCDなどないし(エンジニアだから当然だ)、江戸アケミという人も見つからない。だから、さらに調べて探す(遅いぞ、追いついて来い)。僕にとって1998年とは、ECDさんに導かれるように、次々と新しい音楽に出会う幸福な時期でした(この点においては、実はもうひとり、同時期のDEV LEARGEという存在もすごく大きかったです。ECDさんもDEV LEARGEさんも亡くなってしまい、僕の音楽的原風景が無くなってしまった気持ちです)。

 ECDさんはその後、ヒップホップ自体から距離を取るようになりました。「ヒップホップでなければ何でもいい」という態度で制作された『MELTING POT』をはじめ、この時期の作品(ka『MELTING POT』『THRILL OF IT ALL』『SEASON OFF』)は、アルコール中毒に悩んでいた時期ということもあるのか、いびつな印象もありますが、そのぶん、ECDさんが切り拓く新しい領域に食らいついて行こうと、熱心に聴き込んだことを覚えています。だから、いずれも大好きな作品です。avexを辞め、ECDさんが本格的に働き始めるのもこの時期で、個人的には、このあたりからECDさんがまた違うフェーズに入ったと思っています。自主盤として『失点 in the park』『ECDVD』『Private Control』シリーズなどが、安価で発売されました。『失点 in the park』のジャケットは、「反戦」「スペクタクル社会」と書かれた公衆トイレの写真です。この公衆トイレがあるわかば公園は、まさにECDさんを聴き始めた中学生時代、友人たちとのたまり場になっていたところだったので、驚きました。この頃から、音楽以上にECDさんの生きかたや態度について、深く受け止めるようになった記憶があります。正確に言えば、ECDさんの音楽に向き合うことがそのままECDさんの生活や考えに向き合うことを意味した、という感じでしょうか。例えば、アルバム『失点 in the park』はたしか、定価が1500円でした。レコード会社を通して高くするより自主盤で安く届けたほうがいい、というECDさんの信念の反映です。あるいは、サウンドデモの不当逮捕に対して作られた「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」という曲は、著作権とは関係のないところで朱里エイコの曲をそのまま使い、即日ウェブにアップされました。政治的なリリックだから政治的なのだということではなく、音楽にともなうECDさんの振る舞いすべてが、政治的なアティテュードとしてありました。僕自身、社会問題や政治思想を自分の問題として考えるようになったのは、明確にこの時期、ECDさんがきっかけでした。僕が刺激を受け、惹かれていたのは、労働も生活も表現もすべて飲み込んで、全身で社会と対峙しているECDさんのありかたでした。意欲的であり続けるECDさんの新作を聴くたび、生活人としての自分の中途半端さに恥じ入るような気持ちとともに、またエネルギーが湧いてくるのでした(遅いぞ、追いついてない)。

 日々、仕事して給料をもらう。充実してもいるが、ときには疲弊もする。そんなときは、愛すべき音楽を聴いて、明日へのエネルギーとする。日々の労働のなかで感じたことや考えたことを、言葉にして文章を書く。生活のなかから言葉を練り上げる。その言葉をまた生活のほうに戻す。僕の暮らしは、だいたいこんなものです。でも、このなかに、話したこともないECDさんから受け取ったものがどれほどあることか。もちろん僕は、教員になるような退屈な男で、ECDさんのようなラディカルさやアナーキーさはありません。個別には、意見の違いもあるでしょう。とは言え、個人的な思いとしては、いま、この文章を書いている、明日、また仕事に行く、その行動ひとつひとつのなかに、ECDさんの存在が入り込んでいるように感じます。もしECDさんがいなかったら、いまの僕はばらばらにほどけてしまいそうです。その意味で、多くのファンと同じように、自分にとっていちばん大事なミュージシャンでした。とても悲しく、つらいです。

 昨年、ECDさんの自伝的エッセイ『他人の始まり 因果の終わり』が出ました。家族をめぐるこの作品は、パンクスとして「個」になったECDさんが、その地点から、ヒップホップによって新しい「つながり」(POSSE)を築く物語だと思いました。大学院生のとき、アルバイトさきの中古レコード店が素人の乱の近くでした。夕方になると、近所のバンドマンから冷えた味噌汁の差し入れがあるなど、オルタナティヴな「つながり」を肌で感じていました。素人の乱店主のひとり、松本哉さんがおこなった「高円寺一揆」にECDさんが来るかもしれない、ということを、僕がECDファンであることを知っている、インテリパンクさんという年上の友人に教えてもらいました。当日、フィラスティンのDJ中にふらりと現れたECDさんは、アカペラで「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」を披露しました。高円寺駅前に出現した一時的自律ゾーンで大好きな「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」がラップされる、というスリリングな状況に、僕はずいぶん興奮し、いちばんまえで、ECDさんに合わせて、ずっと大声でラップをしていました。このときのことについては、ECDさんの『いるべき場所』という音楽的自伝の最後に書かれています。

 しばらくして、司会らしきひとのリクエストで僕はアカペラで「言うこと~」をやることになった。最近のライヴではレパートリーから外れていた「言うこと~」は歌詞がうろ覚えで誤魔化し誤魔化しのラップだったが、ひとびとのレスポンスがそれを補って余りあるものだった。コール&レスポンスがあんなに自然発生的に盛り上ったのは自分のライブでは初めてのことだった。

 いまでも思い出すのは、このとき、ECDさんが「わかっちゃいるけど路上解放区」という一節が出てこなくて、大声で歌っていた僕の声だけが一瞬、鳴り響いてしまったこと。僕のなかでは気恥ずかしい思い出として残っていたのですが、のちの『いるべき場所』によれば、ECDさんはその場面を「ひとびとのレスポンス」として捉えていました。ECDさんが書いている場面と僕が思い出している場面が同じという保証もないのですが、『いるべき場所』を読んだとき、自分がECDさんの「音楽的自伝」のなかに参加したようで勝手に嬉しくなりました。なかば妄想として自分に言い聞かせるように書きますが、単にテンションが上がっているだけの僕の声が、目のまえのECDさんにとって、ほんの少しだけでも力になったのなら、それはなんと喜ばしいことでしょう。涙が出そうです。もっとも、僕がECDさんから受け取ったエネルギーに比べたら、ほんの微々たるものですが。まったくの「他人」である僕は、「他人」であるからこその仕方でECDさんとともに歩ませてもらった、という気持ちがあります。ここには書ききれませんが、アルバムから12インチから、本当に全作品がそれぞれに素晴らしいです。そのようなECDさんの表現に触れることは、僕にとって生きることの一部でした。これは、ECDさんの言う「つながり」(POSSE)と言えるでしょうか。言いたい気持ちはあるけど、わかりません。ECDさんの死後も、そのような「つながり」(POSSE)の感覚は維持されるでしょうか。ECDさんといつまでも。

 労働と生活と表現のすべてを飲み込んで、最後まで全身でこの社会を生ききったECDさんが亡くなってしまいました。ECDさんのファンである僕も、ECDさんのように、働き、生活をし、表現をし、全身で生ききりたいという気持ちがあります。でも。でも、ECDさんが亡くなった以降にそれを実践するのは、とても厳しいよ! ああ、悲しいよ! 体がばらばらになって、ふとしたとき、自分が自分でなくなってしまうようだ! だって、いまの仕事をしていることも、それを続けていることも、その合間にこうやって文章を書いていることも、その出発点にはECDがいるじゃないか! あの、まっすぐに社会と対峙し、そこから唯一無二の表現を練り上げるECDの姿が! ECDがいたから! 本当にありがとうございました! 本当に本当にありがとうございました! これからがんばってみます! どうか、安らかに。


追悼ECD

野田努

 ぼくが石田さんの曲でいまでも強く印象に残っているのは、“言うこと聴くよな奴らじゃないぞ”だ。2003年の対イラク戦争への反戦集会で、石田さんは1枚100円でこの曲のCDRを手売りしていた。その曲はデモ隊への励ましの曲だった。2年前のSEALDs主宰の国会議事堂前の抗議集会のときに、酸欠か何かでひとりの女性が倒れたことがあった。数人の男性がその女性を救護していたのだが、そのひとりが石田さんだった。あ、ECDがいる、と遠目に見ながら思った。石田さんはずっと変わらずに、仕事をしながら音楽活動を続け、ある時期からご家族を支えようと奮闘し、現場での献身的な(反戦、反原発、反差別などの)抗議活動も続けていた。そんなアーティストがこの世から消えたのだ。覚悟していたこととはいえ、あらためてその喪失感を感じている。とても悲しい。24日朝方の悲報に日本中のファンが大きな悲しを覚えたことと思う。
 ぼくが初めてお会いしたのは『Big Youth』(1997年)のときだった。「最近は働きながらバンドやっている連中に共感する」みたいなことを、当時はメジャーレーベルに所属して、ヒップホップのスポークスマン的な立場をこなしていた彼は言った(まだミュージシャンがそれなりに潤っていた時代にである)。『シック・オブ・オール・イット』のときは自分はヒップホップと同じようにパンクも好きなんだと、この元ロック少年はなんども「パンク」を強調した。それ以降も断続的にお会いする機会があった。2000年代前半の『ファイナル・ジャンキー』の頃はライヴハウスでなんどかライヴを観ている(共演者はハードコア・バンドのSFPであったり、ヒップホップ・グループのMSC であったり……まさにパンクとヒップホップのECDだった)。個人的に好きな曲がMute Beatをサンプリングした“ECDのAfter The Rain”だったので、こだま和文さんと対談してもらったこともあったな。
 ぼくが最後に編集長を務めた009年の『remix』で(『天国よりマシなパンの耳』の頃)、「ボヘミアン」をテーマに原稿を依頼したことがあった。そうしたら文中に当時の自分の所得額をしっかり書いて、月40万もらっていたメジャー時代の収入の半分にも満たない「いま」のほうが、もちろん不安を抱えてはいるが、生きていて楽しいというようなことを書いてきた(家族がある身でそれだけじゃダメなんだけど、とも加えて)。そういうことを本心からさらっと言えてしまうのが、ECDだった。ピュア、あるいはピュアリストという言葉は、ときにシニカルな使われ方をするけれど、石田さんはぼくから見て、デヴィッド・ボウイの歌詞の世界を本気で実践しているかのような、あまりにもピュアで、ある意味ピュアリストだった。その真面目さに息苦しさを感じたこともあったけれど、ぼくが知る限りで言っても、ECDは見えないところで人を助ける人だった。くだんの原稿のときは、ジョージ・オーウェルの『葉蘭を窓辺に飾れ』の翻訳本の表紙を自分のページのヴィジュアルに指定してきたが、この世知辛いご時世のなか、ある種プロレタリアートめいた自分を誇りにさえ思っていたのではないだろうか。それはいわゆる清貧主義ではないと思う。それはいまになってもぼくには説明がつかない、ひとつの信念のようなものが彼にはあるんだとずっと感じていた。そうえいば、ECDとは稲垣足穂の『弥勒』に出てくる江美留について話したこともあった。
 昨年の春頃、紙エレキングのヒップホップ特集の際に取材でお会いしたのが結局は最後となってしまった。貧困問題をテーマに喋ってもらったそのときにも「お金がなくても自由だぜ」ってことを伝えたい、と彼は言った。気の利いた未来像などラッパーは言わない、ただ「生きてるぜ」ってことを見せるのがラッパーだ、と彼は言った。なんて力強い言葉だろう。いつだってECDは弱き者、不器用な者、ドロップアウター、スマートには生きられない者たちの味方であり、基本的にそこから外れたことはなかった。石田さん、本当に本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。心からご冥福を祈ります。
(※写真は、カメラマンの小原泰広が2007年に『失点 in the Park』で描かれた下北沢の公園で撮影したものです)
 
 


『いるべき場所』のこと

大久保潤

 ECDによる私的音楽史を書いてほしいと思ったのは、『RECORDer』というミニコミと『クイック・ジャパン』誌に載った「ECDの音楽史」という記事がきっかけだ。前者は日本のパンク/ニューウェイヴ、後者は日本のヒップホップ・シーンについての貴重な目撃証言だった。
 とはいえ、当時の自分はECDとは面識もなく、紹介してもらえるような知人もいない。どうやって連絡を取ったらいいか考えた末、『SEASON OFF』収録の“GO!”という曲で、自分の住所をラップしていたので(!)、それを頼りに手紙を書くことにした。
 「もう引っ越してるかも……ていうかそもそも本当の住所なのかな?」とか思いつつ投函するとほどなくメールが届き、下北沢駅前の、駅舎に隣接したドトールで会うことになる。寡黙だが発言に無駄のない人なので、話は早かった。音楽的自伝という趣旨で、基本的に1章につき10年分とすること(1960年生まれなので、産まれてからのことを10年ごとに書いていくとちょうど60年代、70年代……となるのだ)にして、毎月1章ずつ書いてもらうことにした。途中から内容の濃くなる時期は5年で1章になったりもするが、それでも半年くらいで書き上がる計算だ。
 それから月に1度、同じドトールで会うことになる。原稿用紙に鉛筆書きで推敲の跡も生々しく残った原稿を受け取り、その場で目を通す。書いた本人が目の前にいて、無言でじっと見ている中で原稿を読むというのはこちらも緊張する時間だったが、さいわい毎回面白かった。そのドトールはもうずいぶん前になくなってしまったけれど、下北の南口に出ると今でも当時の店内の様子とECDの顔が目に浮かぶ。
 締め切りはきっちり守ってくれて(時にはちょっと前倒しでくれることすらあり)、そこから本が出るまではスムーズだった。こちらは『ECDの音楽史』というタイトルを考えていたのだが、本人が『いるべき場所』にしたいという。ちょっとわかりにくいでは?という気もしたのだが、居場所を求めて様々なシーンを転々とする軌跡を描いた本なので、すぐに納得した。一冊の本のタイトルであることを超えて、ECDの人生を表すキーワードのとなったと思う。
 最後に新しく彼女ができたことを明かしてこの本は終わっている。その「彼女」と結婚して間もなく子供も生まれ、ECDの人生はまた新たな局面を迎えた。それ以外にもいろんなことがあったその後10年のことを加えた『増補版 いるべき場所』を作りたかったのだけれど、それもかなわなくなってしまった。「直したい箇所がある」とは聞いていたので、せめてそこだけでもちゃんと教えてもらっておけばよかった。今はそのことばかり考えている。

R.I.P. Mark E. Smith - ele-king

 1990年代にイギリスで大きくなった人間として、僕はザ・フォールのことをただ「そういうバンドがいる」という程度にぼんやりとしか認識していなかった。ザ・フォールとマーク・E・スミスは影の集団のような存在だったし、ポップ・カルチャーの背後で不可解に動き回っては、たまにそのスクリーンを突き破ってこちらをまごつかせる超俗的な何がしかをカルチャーの中へとすべり込ませていた。

 スミスの声はインスパイラル・カーペッツの“アイ・ウォント・ユー”での電話を通してがなり立てるようなかすかにアメリカ英語っぽいマンチェスター訛りのヴォイスとして、そしてエラスティカとの共演曲“ハウ・ヒー・ロート・エラスティカ・マン”でおなじみだった。

 コメディアンのステュワート・リー&リチャード・へリングのコンビはザ・フォールの“キュリアス・オレンジ”を自分たちのテレビ・コメディ番組(*1)のテーマ曲に使い、同番組に出てくる「ザ・キュリアス・オレンジ」なるへんてこな常連キャラもその曲が元にしていた(キュリアス・オレンジは人間の顔をした巨大なオレンジで、回答には興味がないくせにもったいぶった質問を発し、どういうわけか人間の肉が好きなキャラでもあった*2)。

 ラジオ界では元ザ・フォールのメンバーのひとりのマーク・ライリーがDJとしてレギュラー番組を抱えていた。一方でザ・フォール最大のファンのひとりとしてもよく知られていたジョン・ピールは、BBCのお恥ずかしい番組編成のごたつきのせいで番組の時間枠をあっちこっちに動かされても必ずザ・フォールの曲はかけてくれる頼りになる存在だった。

 ポップ・カルチャーに走ったひびを縫って入り込んでくる、こうした混乱を招くようなザ・フォール(:転落)の断片の数々は面白可笑しく不思議に思えたものだったが、同時に彼らは常にどこか少々ダークで危険でマジカルで、何かしら魔法めいた(hexen)ところも備えていた。心をそそられるとはいえ、それらの断片を踏み越えていざ実際にザ・フォールの世界へと歩を進めるのは、もっと難易度の高い行為だった。その世界というのは当のバンド側もあっぱれな自覚と共に既に「素晴らしくも恐ろしい」(*3)と称していた世界だったわけだが、実はその形容の上をいくものだったし、90年代のイングランドには彼らを手っ取り早く押し込められるような場所が存在しなかった。

 90年代のブリテン島におけるポップおよびロック音楽に関するメディアの論調というのは、オアシスのようなバンドに代表される「労働者階級、英北部出身でリアル」とブラーが都合のいいステレオタイプを提供することになった「中流階級、英南部出身で気取り屋」のふたつの間に存在する、極端に単純化された二次元的な分かれ目に特徴づけられていた。

 マーク・E・スミスはそうした安易な時代に向いてはいなかったし、メディアの側も彼を分類し、彼を人びとの口に合うように仕立て、彼の魔法の技を中和するのに四苦八苦していた。その結果、彼は有名人のキャラを表現する形容詞のいくつかにまとめられてしまった。「気むずかしい」、「怒りっぽい」、「強情な」。時間が経つにつれて陳腐なクリシェにまで使い古されていったこれらの形容詞によって、マーク・E・スミスは気むずかしい年寄りのカリカチュア、支離滅裂でとりとめがなく風変わりな、でもそのエキセントリックさで愛すべきおじさんへと変えられていった──そうやってあの、もっともグロテスクかつ害のない文化的な概念である「人間国宝」というやつに取り込まれてしまったのだ。こうした単語の数々は彼の周囲を魔法陣で囲むことで彼をイギリス人にとって安全な存在にし、彼に備わっていた本当の意味での危険性からイギリス人を保護する役割を果たした。

 イギリス文化は労働者階級出身のインテリという概念への対処の仕方に常に頭を抱えてきた。ワーキング・クラスの人びとは素朴な民で、地に足が着いていて、気取りがなく(これは「想像力に欠けている」という意味合いを持つ)、読書をはじめとする文化エリート主義めいた匂いを放つものには何であれ懐疑的な態度をとるものとされてきた。労働者階級はその点を誉めたたえられるわけだが、と同時に彼らはその点ゆえに見下されてもいる──彼らが分をわきまえおとなしくしているように仕向ける、それは支配階級側のやり口のひとつだ。その一方で、芸術、詩、知的な野心は中流のリベラル人が追求するものとされる──中流リベラルとは僕のような人間のことであり、ワーキング・クラス側は僕らのことを(概して正しい見方なのだが)軟弱な、現実は見て見ぬふりのリアリティと接点を持たない連中として考えるよう促されている。

 マーク・E・スミスはイギリス文化を理解するためのこうした類型を脅かしてみせた。70年代終わりから80年代初期にかけて「労働者階級の音楽」という概念をもっともすんなり定義してみせたのはポール・ウェラーとザ・ジャムのキッチン・シンク型リアリズム(*4)だった。それに対してスミスは詩人だったし、彼の詩は謎めいたオカルト調な飛躍を見せ、ナヴォコフやラヴクラフト、実存主義作家コリン・ウィルソンらを引用し、またバンド名そのものもアルベール・カミュを踏まえていた(*5)。

 彼のソングライティングはまたポストパンク時代に備わっていた芸術学校あがりの知性偏重主義に耳ざわりな風穴を開けるものでもあって、否定しようがない偉大な同期生バンドだったギャング・オブ・フォーやザ・ポップ・グループの表したラディカルな情趣、同じくカミュ好きだったザ・キュアーといった連中すらザ・フォールに較べると取り澄まし抑制されたものに聞こえるほどだった。

 作詞家としてのスミスは知性、神秘主義、下品さと辛辣な観察眼を併せ持つユーモアとを組み合わせ、そしてそこに言語の持つ美的価値観に対する本能的でまったくもって彼特有な理解も混ぜ込んでいた。スミスは「プロレタリアートによるアートへの威嚇」(*6)であり、その威嚇はがっちり形成されていた労働者階級に対する偏見、そしてブロジョワによるアート独占状態の双方に向けられたものだった。

 言葉の面ばかりではなく、スミスがザ・フォールと共に作り出した音楽そのものも同じくらい重要だった。仮に、基本的にザ・ダムドとザ・セックス・ピストルズは「ストリートにたむろす音才のないごろつきの誰にでもロックンロールは演奏できる」ことを証明したバンドだったとすれば、ザ・フォールは同じく音才のない輩にもひとつの音楽世界を生み出せると証明したバンドだった。反復型で、雑然としていて執拗な彼らの作品の多くはシンプルなパンク・ロックあるいはガレージ・ロックのコードやリフを基本に据えていたが、そこにはまたスカスカで現実離れした、ノイ!とCANのインダストリアルな亡霊も漂っていた。彼らの音はどんなパンク・ロックにも引けを取らないくらい直観的かつ直接的だったとはいえ、あの寓話的な要素、真の意味でもっとも霊感に満ちた音楽的な幻視者だけが掴むことのできる、あの転位してバランスがずれた現実の感覚も備えていた。

 僕からすれば、ザ・フォールをあれだけ重要なバンドにし、またマーク・E・スミスをあれだけ素晴らしいフロント・マンにしていた要素のすべてはアルバム『ヘックス・エンダクション・アワー』収録曲の“アイスランド”でひとつになっている。ピアノの鍵ふたつがえんえんとループしながら前景で叩かれていき、曲が進むにつれ増していくドラムスと引っ掻かれたギター、さまよう右手が弾くピアノから成る不協和音を曲の背景に流れる質感へと抑えていく。その間スミスは我々に向かって「最後の神聖なる者たちを目撃せよ(witness the last of the god-men)」、「さあさあ寄ってらっしゃい、男性下着ショウですよ(roll up for the underpants show)」、「祈禱書を引っ掴め(make a grab for the book of prayers)」、「己の魂に向けてルーン文字を投げかけよ(cast the runes against the self-soul)」とけしかける──無意味そうでいて、しかしやはり何かを心に喚起する一連のイメージ群であり、魔法(hex)は1980年代のイギリスのポップ・カルチャーの地平のそこかしこに無差別にばらまかれ、その後の数ディケイドに神秘的なマジックをにじませ続けている。

 30枚以上にのぼるアルバム群を通じてマーク・E・スミスとザ・フォールは充分なだけの足跡を残してきたし、彼らの与えた影響の大きさをこれ以上証明する必要もない。それでもやはり、彼らのかけた魔法がまだ効果を発揮しているのを知ると励まされるものだ。

 これは興味深くも悲しい偶然だが、スミスの死とほぼ時を同じくして日本人ラッパーのECDが亡くなった。彼もまたスミスと同じようなバックグラウンドから出てきたカテゴライズしにくいアーティストであり、ユニークな詩の感覚で愛され、そしてその影響がさりげなくもパンクに地下音楽、ヒップホップ・シーンからそれを越えた場所にまで浸透している人だった。

 2017年を振り返るレヴューを書こうと思い、去年出会った日本のインディおよびアンダーグラウンド界発のベスト・アルバムをいくつか聴き返す作業をしていたところ、そこにもザ・フォールの残響が流れ続けていた。ボストン・クルージング・マニアの『アイデア』の奇妙なガレージ・ロックとうねうねしたわめき声、トリプルファイヤーの『ファイヤー』に響く反復性リズムのミニマリズム、世界的なバンドの『ニュー』およびWBSBFKの『オープン・ユア・アイズ』に鳴るドライで不満を抱えたポストパンクなどにそれらを聴き取ることができるはずだ。

 昨年発表された『ニュー・ファクツ・イマージ』がおそらくザ・フォールの最後のアルバムになるであろう状況で、あの魔法を未来の世代にまでかけ続けていく任はいま名前をあげたようなバンドたちや他にももっといる連中たちにかかっていくことになるだろう。

<補記>
「hex」という言葉について。この言葉を僕は文章の中で何度も繰り返しているが、それはマーク・E・スミス自身が歌の中で多く使った単語だったからだ。「hex」というのは英語の中でも変わった言葉で、普通は「magic」、「sorcery」(いずれも魔法/魔術の意味)、「enchantment」(魔法/魔法にかかった状態)といった単語を用いるものだし、場合によっては「curse」(呪い)もありかもしれない(それがどういう類いの「hex」なのかによるが)。このかなり耳慣れない単語の方を彼が好んだ事実は大事なことだと思うが、この文章を日本語に翻訳した際にその微妙な違いを表現するのが難しいのではないかと察するので、短く説明を加えさせてもらった。

<註>

*1:BBCが90年代末に放映したコメディ番組『This Morning with Richard Not Judy』。

*2:キュリアス・オレンジのコーナーは番組内で進化し、映画『エイリアン』に登場するチェストバスターそっくりな人肉好きキャラ=キュリアス・エイリアンに取って代わられた。

*3:『The Wonderful And Frightening World Of The Fall』は1984年発表のザ・フォールのアルバムのタイトル。

*4:戦後イギリスで起こった社会主義リアリズムを備えた演劇•小説•映画他の風潮で、恵まれない庶民や労働者階級の暮らしぶりを実直に描いた。

*5:カミュの小説『La Chute』(1956年:邦題『転落』)の英語タイトルが『The Fall』。

*6:ザ・フォールのエP『Slates』(1981年)収録曲のタイトル(“Prole Art Threat”)。

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