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耳を澄ませば、海が囁く声が聞こえる。目を凝らせば、温かな木漏れ日が見える。
フリート・フォクシーズの6年ぶり、3枚めのアルバムには、気をつけていなければ聴き逃してしまいそうな小さな音がたくさん録音されている。まずもってその幕開けに用意されたのが「静けさ」だ。ポロンと小さく弾かれるアコギの弦と、呟くように抑制された男の歌声。それは1分を過ぎた辺りでバッと視界が開けるように多人数・多楽器によるアンサンブルとなるが、よく聴けば、鳥のさえずりが後ろで響いている。雄大なストリングスの旋律と、聴いていると背筋が正されるような毅然とした歌声。そしてそれは、やがて波の音を導いてくる……。ダイナミックな風景の移り変わりの後景には、たくさんの生き物や自然の気配がざわめいている。密室的なところがまったくない。これは旅の音楽だ。見たこともない場所へと、自分の足で踏みこんでいこうとするフォーク・ミュージック……。
2011年の前作『ヘルプレスネス・ブルーズ』とそれに伴うツアー以降、おもにバンドとフロントマンのロビン・ペックノールドの内的要因から活動を休止していたフリート・フォクシーズだが、この『クラック・アップ』では彼らの最大の美点が見事に返り咲いている。つまり、清らかさだ。研ぎ澄まされたアコースティック楽器の音と、迷いなく完璧な音程で発せられる歌声、そしてそれらが折り重なることによって生み出される美しいハーモニー。その厳格なまでの「調和」がフリート・フォクシーズの魅力だったわけだが、それは6年の時を経てもまったく色褪せないまま蘇っている。
その若々しい潔癖さ、凛々しさは相変わらずだが、ひとつバンドの成熟を見て取れるのは録音である。クレジットを見ると大量の楽器が使用されていることがわかるが、それらは大抵ごくごく繊細な形でアンサンブルに溶け込んでいる。たとえば“サード・オブ・メイ/大台ケ原”はタイトルの通り日本がテーマになっているため琴が使われているが、それはこれ見よがしなオリエンタリズムとして導入されておらず、他の弦楽器と同等のものとして扱われている。ギター、ピアノ、ハモンド・オルガン、メロトロン、ムーグ、マリンバ、パーカッション、ハーモニカ、フルート、クラリネット……それら多彩な音色は少しずつ登場し、ざわざわと雑多な人間の息づかいのように共存している。彼らが登場したときというのは、どこかノイズや余分なものを「許さない」厳かさが目立っていたように思うが、それを幾分緩めた前作を経て、『クラック・アップ』では細やかな音の集合がお互いを疎外せず、むしろ総体としての輝きを高めている。近年の音楽作品のなかでもっとも近いのは、森は生きているのセカンドだろう。小さな音を執念深く拾い集めて丁寧に録音することで、より複雑な色彩の風景を描こうとしている。“ケプト・ウーマン”、“イフ・ユー・ニード・トゥ、キープ・タイム・オン・ミー”で精妙に演奏される鍵盤がもたらす豊穣な陰りは、これまででもっとも奥行きのあるものとして響いている。
ストリーミング時代に逆行するように、1曲のなかで組曲形式となっている曲も多く、また、アルバムは全体を通して途切れのない流れを作っている。あるいは、濱谷浩による写真を掲げた厳かなアートワーク。それはまさに、『クラック・アップ』が現代におけるボヘミアン精神を体現する作品だということを示しているように思える。つまり、まだ見ぬ場所を想像し、その景色を探す過程を実際に音で表そうとすること。初期はアパラチアン・フォークやバロック音楽などいまよりも参照元がはっきりしていたが、アフリカ音楽や中近東の音楽も取り入れられているというし、クラシックからの影響も多様な時代へと広がっている。さらに多様な土地と時代の音楽が融合しているのだ。フリート・フォクシーズの音楽がその寓話性や文学性からある種のフォークロアなのだとしたら、これはいわば架空の土地の伝承歌だ。どこにも属さず、様々な場所を移動しながら、そこで偶然出会ったひとたちと夜の焚き火を囲んで演奏する歌。歌詞はペックノールド個人の内省を綴った叙情詩だが、それはたくさんの人間のざわめきとともに発せられる……「ハーモニー」として。“アイ・シュッド・シー・メンフィス”の優しげな酩酊、そしてタイトル・トラック“クラック・アップ”の壮麗なブラス・アンサンブルのスケールは、それ自体が「ここではない場所」への渇望の凄みを宿しているようだ。
世界は今日も誰かが引こうとする線によって閉じていく。だがそんな時代だからこそ、フリート・フォクシーズの清廉と高潔が眩しい。
木津毅