Home > Regulars > 打楽器逍遙 > 6 ムードとモード
「ある雨上がりの夜。霧さえ出ていないものの、道路のミラーや駐まっている車のフロントガラスは、白く水蒸気の寄り場となり、映るすべてのものを抽象化して、妖気を与えている。街灯の光は月のように、自分の姿は知らない他人のように。幻覚のようなそこに映るものは、いつか見たことがあるような気がするというよりは、これから出会うかもしれないという妙な不安を誘うものである。そこで、はっと気づいた。いつか見たことがあるようなものと、これから出会う予感のするものに些かの違いがあるのだろうか」
これは 2014 年くらいのメモにあったもので、僕は以前そんなムードの切れ端をメモしておこうという気を起こして『グッド・ナイト』の歌詞を書いた。さて、ドラムにもこのような郷愁を持ち込んでいいものかどうか。
今は、このようなムードは一旦去った。ただ、モードが帰ってきている。モードは「~モード」とかよく一般的に言われているものと同義で差し支えない。ムードはある時期にしか属してくれず、すぐどこかへ行ってしまうけど、モードこそ気持ちでどうにかできるものでもないと気がついた。ただ、モードさえ帰ってくればムードは思い返すことならできるかもしれない。そういった点、僕は今図らずも「森は生きている」のよきリスナーになっているのかもしれない。当時ムードをドラムにまで持ち込みたかったどうかは覚えていないが、所謂きちんとしたドラマーの仕事をするというよりは、パーカッションからの影響を8ビートに還元することに執念を燃やしたり、ライヴではロイ・ブルックスやスティーブ・リードのように少し喋り過ぎていたようだ。
そんな「森は生きている」のいつかのライヴのあとにgonnoさんと口約束したプロジェクトが約3年越しに実行する。(http://diskunion.net/latin/ct/detail/1007589182)僕は、周りをぐっと昇華させるようなレヴォン・ヘルムやナナ・ヴァスコンセロスに憧れる反面、喋り過ぎる(喋ることができる)ドラムを叩くロイ・ブルックスやスティーヴ・リードにずっと憧れていた。gonnoさんの音楽はどこか懐かしく柔らかい。それなのに強度もある。僕が喋り過ぎたくらい包み込んでくれる懐の深さがきっとある。というか、今回はあまり作戦立てをし過ぎず、お互いの処女の会話を作品にしたいと思っている。作戦立ては今後いくらでもできるし。だから、ムードをドラムに持ち込むモード全開だ。
もう一つ新しいバンドのプロジェクトは歌を生かさなければならない。シンガーソングライター特有の曲の間にできる真空のようなものを共有しなければならない。これが絶妙で、一からドラムをやり直さなければならない練習モードにさせられている。最近、作詞の依頼から資料集めの一環で尾崎亜美などを聴いていたのだが、言葉のことより林立夫氏のドラムに驚いた。『大滝詠一』『HOSONO HOUSE』のドラミングはすごく聴いてきて、やはり一種のなつかしさがあって(駒沢氏のペダル・スティールが助長している節も大きい)、それなりにコピーにも取り組んできたのだが、それ以降のドラミングはなつかしさが多少去って、それでもかっこよさは残りながら、上手さと凄みを湛えている。はっきり言って勝手に凹んだ。でも、ちょうどいい。大分に一人でいるのも申し訳ない気持ちになることがいつも山に叩きに行かせるので、練習モードは歓迎だ。そして、最近話題の大貫妙子『SUNSHOWER』におけるクリス・パーカーや、ジェイムス・テイラーにおけるリーランド・スカラーと組んだ時のラス・カンケルのドラミングに改めて驚嘆した。”Nobody But You”の間奏明け1:52~1:56までスネアを抜いたプレイは圧巻。そしてスネア一発帰って来たときのなつかしさは言葉にできない。スティービー・ワンダー”bird of beauty”におけるボビー・ホールのドラミングも思い出した。なんだか急に色々思い出してきた。
2月になったらすぐ東京へ行って2週間ほど滞在しながら、このどちらもを一気に進めます。岡田とのプロジェクトも並行して行います。あと一週間はスウェディッシュ・トーチの力を借りて、寒さに負けず山へ。
サバール練習会