「ジャジューカ」と一致するもの

Savan - ele-king

 今年のクンビアはどうかしている。驚くほど飛躍がある。近年だとクンビアとレゲトンを交錯させたアトロポリスやマンボとクロスオーヴァーさせたソニド・ガロ・ネグロなど可能性を広げてきた人たちは少なからずいたものの(アルカも『KickⅢ』『KickⅣ』で導入)、それらとは少し次元が違う。ディスコ・ミュージックがアシッド・ハウスに変化した時のような発展があり、少なくとも原型は消し飛んでいる。今年の初め、ハイパー・フォーク・ブリコラージュと銘打って『Levure』をリリースしたアルゼンチンのヨトがスラップスティックなフォークトロニカとしてクンビアを刷新したとしたら、本家コロンビアからのエントリーとなったサヴァンこと環境保護活動家のホセ・ミゲル・ナバスによる『Antes del Amancer(夜明け前)』はサイケデリックなフォークトロニカというのか、ガレージ・ロックをどこかに置き忘れた『スクリーマデリカ』……というのはさすがに言い過ぎか。アルゼンチンが高度な音楽教育を背景にヘンなことをやらかす人たちだとしたら、コロンビアはストリートワイズがそのすべてで、理屈では導けないダイナミズムが本家を本家たらしめている。サヴァンは、南米の人にはありがちだけれど、熱帯雨林の医療儀式とやらに録音方法を委ねたそうで、先住民の語る神話やそのなかで鳥が果たしている役割にインスパイアされた音楽であり、アルバム全体を通してコロンビア北部にある山地(シエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ)を歩き回るシミュレーションになっている。確かに〝Pensar Bonito〟を聴いていると高いところに舞い上がっていくような、それこそ〝Higher Than The Sun〟を思い出す感じがある。

 医療儀式というのは平たくいうとヤゲと呼ばれる先住民の下剤を服用することでトリップすることのようで(推測)、感情のブロックを取り除いて無意識に没頭することを意味しているという。ハーモニカを演奏しているデヴィッド・フェリペは毎週末にヤゲを使った医療儀式に参加し、彼の演奏に導かれて儀式の再現に勤めているようで、それはどうやらシャーマンが鳥になるという幻覚状態の再現らしい。サヴァンはフクロウやコンドルなど神話と深く関係している鳥たちの声の周波数スペクトルを分析し、それらをフルート版のガイタ(ジャジューカで使われている木管楽器)で吹くメロディに応用し、それらが織り成すハーモニーを音の彫刻と称している。演奏者の視点は鳥に同化し、遠くまで見通す能力を得て、自然の再生に意識を向けることが目的になる。ヤゲはちなみにテレンス・マッケナでおなじみアヤワスカに似たものだという。また、南米のプロデューサーたちが鳥に過剰な思い入れを持っているのは『A Guide To The Birdsong Of South America』にもよく表れていた通り。

 クラフトワークを自然志向に向かわせたようなオープニングからデヴィッド・フェリペのハーモニカが重用され、これがブルースを思わせる響きを放つ。続く〝Halcón(夜鷹)〟ではヴォーカルにマイタラを起用し、本格的な儀式へと没入していく。アンデス民謡とクンビアを混ぜ合わせたようなフォークトロニカは、ふわふわと宙を舞い続け、続く〝Pagamento(自然への捧げもの)〟が最初の白眉。変調させたカエルと鳥の声を何層にもレイヤーさせ、得も言われぬモヤモヤ感に導かれる。〝Búho(フクロウ)〟は初めて楽器の音がストレートに使われ、マイタラが再び断片的なヴォーカルを吹き込んでいく。さらに〝Pensar Bonito(美しさを思う)〟はきらびやかな弦の響きを組み合わせ、ヴォイス・サンプル(?)が優雅に空を駆け巡る。ここまで自然の描写に努めてきたサヴァンは〝Condor Madre(コンドルの母)〟で躍動感に満ちた一歩を踏み出し、循環コードを執拗に繰り返すせいか、これがまたどことなくプライマル・スクリーム〝Loaded〟のアコースティックな展開に聞こえて。空へ、空へ、コンドルは舞い上がる。一転して〝Colibrí(ハチドリ)〟はオープニングに戻ったようなハーモニカの乱舞。背景に挿入されたノイズの量がハチドリの小ささを浮かび上がらせる。最後は〝Aguíla de Paramo(吹雪の鷲)〟。意外にも厳しい自然の風景でエンディングを迎える。ヤゲによって浄化され、カタルシスを得て解放された人々は心が強くなっているはずだということだろうか。あくまでも医療儀式ということだから、まあ、そういうことなのだろう(最後に〝Pagamento〟を短くリプライズさせていればアルバムの構成としては完璧だったんじゃないかなと思う)。いや、しかし、「和みました」。音楽に限らずなんらかの手段でリラックスできた時、90年代後半に「癒し」という言い方が広まる前は「和んだ~」というのが一般的だった。なんで、日本人は「和んだ~」という表現を捨ててしまったのかな。サリン事件の後で被害者意識が増大したことと関係があるのだろうか。

 コロナ禍で税制が変わり、新自由主義に苦しめられたコロンビアでは毎週のように市民によるデモが起こり、2年前にコロンビア史上初の左派政権が誕生している。現職のペトロ大統領は左翼ゲリラ出身で、親米路線が揺らぐことは必至とされるなか、通貨をドルに変えると宣言したアルゼンチンのミレイ大統領から「テロリストの人殺し」と呼ばれ、早くもコロンビアがアルゼンチンの外交官を国外追放するなど、今月に入ってから不穏な動きが活発化している。ミレイはメキシコやヴェネズエラにも批判を加え、いまや南米の治安を掻き乱す最大級の不安要因であり、アルゼンチンやコロンビアの音楽にもさらなる変化が起きることは間違いない。『Antes del Amanecer』のリリースにあたってサヴァンは「私たちがどんな状況に置かれても、私たちは常にポジティブな思考を働かなければならない」とコメント。ミレイ大統領はちなみにイスラエル支持である。

Horse Lords - ele-king

 ロックを聴かないロック・バンドもどきのバンド、ホース・ローズは、この10年間じょじょにその存在感を増し、そして今回の〈RVNG Intl.〉からの通算5枚目のアルバムによって、それこそかつての——音楽的には同類ではないが——バトルズのようなもはや無視のできない存在になっている。
 あるいは、もっとわかりやすく90年代におけるトータスのようなバンドを思い浮かべることもできそう……ではあるが、あの時代のポスト・ロック勢とはアプローチが違う。彼らが現代音楽の要素をロックに落とし込んだのに対して、ホース・ローズのミニマリズムはアカデミーの外部から来ているし、そもそもロックに落とし込んですらいない。ロック・バンドのフリをしているが、ボルチモア出身の4人組が影響を受けているのは、ディスコやハウス・ミュージックであり、エレクトロニック・ミュージックであり、アフリカ音楽のミニマリズムであり、さもなければアメリカのバンジョー・スタイルのブルーグラスだったりする。しかもそれを、ただ感覚的に「いいね」しているのでもない。極めて理論的に、西欧音楽の限界の外側へといくための知恵として咀嚼している。抜け目ない連中なのだ。
 
 ディスコやハウス・ミュージック、アフリカ音楽のミニマリズムに影響を受けているということは、ホース・ローズの音楽には陶酔があるということだ。彼らの音楽を少しでも聴けば、しかしこの音楽が理論的で、楽曲には複雑な拍子記号が散りばめられていることがわかる。が、彼らの驚異的な演奏能力はリスナーの頭を混乱させるためにはない。思考をふっ飛ばす(相対化する)ためにある。つまりある種の恍惚状態で、ある意味CANのアップデート版であり、ときにはジャジューカやラ・モンテ・ヤングのようなトランス・ミュージックの変異体だったりもする。
 しかしながら非西欧の音楽の流用に関して、ホース・ローズはとくに慎重に考えている。ヴァンパイア・ウィークエンドを反面教師とし、白人がアフリカの音楽の表層を誇張することを回避するようかなり意識しているようだ。だから彼らは、わかりやすい「アフロ」はやっていない。
 アルバム冒頭の“Zero Degree Machine”におけるミニマリズムへのこだわりとその素晴らしく流動的な展開には非西欧的な音階が巧妙に配置され、トランスの精度を上げている。“Mess Mend”(この曲名は、資本主義支配に対抗する労働者の地下抵抗運動を描いた幻想文学に由来する)はハウス・ミュージックめいたピアノにはじまりながら、唐突に濃縮されたジャズ/ブルースの断片の雨あられとなる。変拍子にはじまる“May Brigad”ではサックスが暴れ、ディス・ヒートを圧縮したかのようなタイトな躍動を見せる。1949年に一種のユートピア共同体として設立されたポーランドの通り名を題名とした“Solidarity Avenue”なんていう曲もあるが、バンドがすでにアルバム・タイトルもってこの音楽を「同士たちの客体(Comradely Objects)」と手短に説明しているように、リスナーがこの音楽を介して好き勝手に仲良く感じればいいだけの話である。
 ドローンからはじまる10分あまりの“Law Of Movement”では、強度の高いリズムが挿入されるとURのエレクトロ・ファンクに接近しながら催眠的な境地に達し、クローサー・トラックの“Plain Hunt On Four”にいたっては言葉が音に追いつけないほど異次元のグルーヴを創出している。それを構成する音階もリズムも、そしてその空間も、本質的な意味でのエクスペリメンタル(実験/体験)であって、いや、もう何だこれはというか、舌を巻くしかないです。なんにせよ、ホース・ローズは過去の様式を参照しまくって再構成するバンドではなく、既存の音楽の歴史や本質を咀嚼し、まだ足を踏み入れられていない領域に足を上げているバンドなのだ。
 バンドは、(なかば冗談めいて)ハウス・ローズ名義でハウス・ミュージックをやるかもしれないそうだが、いや、ぜひやっていただきたい。彼らはただ楽理を極めているのではなく、その研究心は哲学や社会学にもおよんでいる。彼らの特殊な音階も、『ワイアー』の記事によれば、歴史的12音階へのフェミニズム的批判の影響にもうながされているそうだ。まあ、本格的な知性派ということで。ちなみに、ホース・ローズはここ数年、地元の友人であるマトモスあるいはザ・ソフト・ピンク・トゥルースの諸作に参加している。

 まずは1曲目 “Narrow Road” を聴いてみてほしい。ニコラス・ジャーによる憂いを含んだヴォーカルがエディットされ、デイヴ・ハリントンによる蠱惑的なギターが空間を引き裂いている。グリッチと、いくつかの細やかな具体音。アンビエントの要素もある。シングル曲 “The Limit” やサイケデリックな “I'm The Echo” で聴かれるジャーの高い声のある部分はどこかボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノンを想起させ、“The Question Is To See It All” ではハリントンがロック・ギターの種々のパターンを披露、“Inside Is Out There” では感傷的なピアノが曲全体の強烈なサイケデリアを中和している。あるいは、アルバムの随所で顔をのぞかせる、中期カンの即興性。本作にはじつにさまざまな音楽のアイディアが凝縮されている。
 ダークサイドは、ふたりがソロではできないことをぶつけあい、美しく結晶化させるプロジェクトだ。ジャーの側から眺めればこれは、『Space Is Only Noise』をバンド・サウンドと衝突させた作品であり、ハリントンの側から眺めればこれは、即興のダイナミズムを編集によって制御し、電子音響の氷室へと封じこめた作品である。このアルバムではカンのように、セッションとエディット双方のすばらしいマジックが発動している。
 だれかひとり圧倒的なスターがいて、そいつが180度世界を塗り変える──物語としてはわかりやすいが、現実はそうではない。ポップ・ミュージックは組み合わせであり、幾多の先人たちの試みを後進が継承し、新たな創意工夫をもって前進させていく。ダークサイドは、そんなポップ・ミュージックの本質そのものを表現しているようだ。

 デイヴ・ハリントンについて補足しておこう。マルチ・インストゥルメンタリストの彼はNYのインディ・ロック・バンド、アームズの元メンバーとしても知られているが、もともとはジャズに入れこみ、ビル・フリゼールやジョン・ゾーンから影響を受け、ニッティング・ファクトリーでプレイするなど、当地の即興シーンで活躍していたギタリストだ。
 ダークサイドでの成功のあとも即興演奏家として活動をつづける一方、2018年にはバロウズ作品に登場する「ドリーム・マシーン」なる装置を具現化するコンサートを企画、ザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカ、イギー・ポップ、ジェネシス・P=オリッジオリヴァー・コーツ、ジーナ・パーキンス、グレッグ・フォックス、〈PAN〉のビル・クーリガスら、そうそうたる顔ぶれに召集をかけてもいる。
 ダークサイドが最初に注目を集めたのは2011年の「Darkside EP」。その後2013年に彼らはダフトサイド名義でダフト・パンクのアルバム『Random Access Memories』をまるごとリミックス、オリジナルとは似ても似つかぬ特異なサウンドへとつくり変えている。同年にはファースト・アルバム『Psychic』もリリースされ、サイド・プロジェクトの域を超える高評価を獲得するに至った。ツアーも精力的にこなし、2014年におこなわれたライヴは2020年に音盤化されている。それから8年のときを経て届けられたのが、今回の新作『Spiral』だ。
 録音は2018年だという。なぜこのタイミングで? 『Spiral』の魅力はサウンドだけではない。たとえば “Lawmaker” のリリック。「彼は必要な治療法を知っている/人びとは喜び笑う/これまでどれほど大変だったか/でもそれも楽になる、と人びとは口にする」「彼は白衣を着ていた/だがその手には議員の指輪」。この背筋が凍る歌詞からは、2020年以降のパンデミック下における政治的なあれこれを連想せずにはいられない。きわめてタイムリーだ。
 注目の新作について、ジャーとハリントン、双方がメールで質問に答えてくれた。

俺たちは音楽制作を、内側から外側へとおこなっている。そして俺は個人的には、音楽がつくられているときには、なるべく、いま現在のその瞬間をたいせつにしたいと思っている。(ハリントン)

まずはダークサイドの基本的なことからお聞かせください。スタートは2011年のようですが、このプロジェクトはどういう経緯で、どういう意図のもとはじまったものなのでしょう?

デイヴ・ハリントン(Dave Harrington、以下DH):2010年に、ニコがアルバム『Space is Only Noise』のツアー・バンドを結成するというときに、ウィル・エプスタイン(ニコラス・ジャーのライヴ・バンドのメンバー)からニコを紹介されたんだ。俺はそのバンドの一員となり、一緒に練習をしたり、即興演奏をしたりして、2011年の初めからツアーを開始した。 その年の夏、ニコと俺はツアーのオフの日に、ホテルの部屋で一緒にジャムをはじめて、それが結果として俺たちのファーストEPになった。それ以来、俺たちは一緒に演奏をして、音楽をつくり、実験的なことや即興的なことをやっていたというわけさ。

ニコラス・ジャー(Nicolás Jaar、以下NJ):デイヴが答えてくれたね :)

ニコラスさんによれば、ダークサイドは「ジャム・バンド」で「休みの日にやること」とのことですが、つまりこのプロジェクトにはある種の気軽さがあるということでしょうか?

NJ:そう、ダークサイドはデイヴと一緒に音楽をつくるという美しい体験がもとになっているんだ。そのプロセスは、穏やかで、長い視点を持っている。彼と一緒にいるとき、自分は2021年に向けて音楽をつくっているという感覚がないんだ。俺たちは、どんな場所にでも、いつの時代にも存在していられるという感覚がある。

デイヴさんはダークサイドを「ぼくらが一緒に音楽をつくるときにあらわれる、部屋のなかの三番めの存在」と説明していますが、三番めの存在ということは、たんに1+1ではなく、ふたりで為しえること以上のなにかがこのプロジェクトにはある、ということでしょうか?

DH:俺たちが一緒にこのプロジェクトをやるときは、普段とはちがうことをしていて、アプローチも普段と異なったり、アイディアも普段とはべつのものを使うようにしている。ダークサイドらしいと感じられるアイディアを追求する余白をつくるようにしているんだ。もちろん、そういうアイディアは俺たち個人の嗜好や探求心から来ている部分もあると思うけれど、俺たちがダークサイドとして音楽をつくるときは、基本的ななにかを共有しているという実感があるんだ。

俺たちは鏡をのぞいて正直にならなければいけなかった。ごまかしなどいっさいせずに。でも俺たちは未来を見据えることもできなかった。すべては、現在という瞬間に感じる直感を原動力にするのが狙いだった。(ジャー)

「ダークサイド」という名前にしたのはなぜですか? おふたりそれぞれの活動では出せないダークな部分を出そうということ?

NJ:最初は冗談でつけたんだけど、それが定着したんだ。ありえないほど壮大な名前だよね、いろいろな意味で大きすぎる! でも、こういうのって一度選んでしまうと変えるのが難しいから、俺たちはダークサイドのままなんだよ!

レーベルが〈マタドール〉になったのはどういう経緯で?

NJ:〈マタドール〉から連絡が来て、〈マタドール〉からリリースするのが合っていると思ったから。ちょうどそのときに俺とデイヴは、『PsychicPsychic』の収録曲となったダークサイドの音楽をつくっていたからね。

〈マタドール〉のカタログでいちばん好きなアルバムを教えてください。

DH:ワオ。〈Matador〉の歴史は長いから、好きな作品はほんとうにたくさんあるよ。選ぶのが難しいけど、〈Matador〉の新譜でいちばん好きなのは、すばらしいエムドゥ・モクターの『Afrique Victime』だね。 あのレコードは最高だよ。

NJ:キャット・パワーのアルバムは、俺の青年時代にすごく大事なものだった!

今年はダフト・パンクが解散しました。彼らについてコメントをください。

NJ:最高なバンド。

ニコラスさんはここ数年のあいだ、アゲンスト・アール・ロジックとしての作品やFKAツイッグスのプロデュース、自身のソロ作など活動が多岐に渡っていますが、そのなかで大きな転機となる仕事はありましたか?

NJ:とくにこれという瞬間があるわけじゃない。でも、『SIRENS』のツアーが終わったときに、人生のちょっとした転機が訪れた。俺はニューヨークを離れてヨーロッパに移り、酒やタバコ、その他もろもろをやめた。2017年以降、すべてのことが俺にとっては違うように感じられたけれど、それは外から見てもわからないかもしれないね :)

デイヴさんは、デイヴ・ハリントン・グループやライツ・フルアレセント(Lights Fluorescent)としての作品がある一方、Chris Forsyth たちとのセッション盤もリリースされていますが、ご自身のなかではそれぞれどういう位置づけなのでしょう?

DH:俺は即興演奏が大好きでね。即興演奏のような音楽の練習の仕方をしていると、刺戟的で驚くようなコラボレイションにつながっていく。自分にその気さえあればね。俺はそういうコラボレイションにすごく興味を持っている。俺が興味を持っている音楽にはさまざまなモードやギアがたくさんあるんだ。そういったさまざまな音楽──たとえそれらが根本的に異なる音楽であるとしても──を追求することを自分にとっての練習の一部として認めれば認めるほど、さまざまな状況のなかで挑戦することができ、さまざまな音楽のシナリオに貢献できるということがわかった。 多様性はインスピレイションにつながるということ。

デイヴさんは、チボ・マットの羽鳥美保ともカセットを出していたようですね。どういう経緯で彼女とセッションすることに? また、たったの35本限定だったようですが、いつかわれわれ一般のリスナーが聴くチャンスは訪れるのでしょうか?

DH:ミホはほんとうにすばらしいミュージシャンだよ! 最後に会ったのはもう2年近く前だから、また彼女と一緒に演奏したい。彼女に電話して、あのカセットのことを聞いてみようかな。いつかちゃんとリリースできたら嬉しいからね。ミホと俺は、ニューヨークの即興/ジャズ界のミュージシャンのネットワークを通じて知り合った。俺の記憶が正しければ、ふたりとも大規模なアンサンブルの即興コンサートに招待されたんだけど、そのときに意気投合して、その大人数のバンドのなかでも、ふたりのあいだにおもしろい瞬間があった。その後、彼女は俺のバンドであるメリー・プランクスターズと一緒に何度かライヴに参加してくれた。俺と彼女は即興演奏にたいするアプローチがとても似ているから、その後も一緒に音楽をつくろうと思ったのは自然な流れだったね。

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俺にとってこの2枚のレコードは、ある瞬間の記録であり、イメージであると同時に、それらはつねに未完成であり、人びとがこの2枚を聴き、俺たちがこの2枚に収録されている曲を演奏し、探求していくなかで、この音楽は生き続け、変化していく。(ハリントン)

前作『Psychic』は高い評価を得ました。今回、それがプレッシャーになることはありましたか?

DH:俺が(ニコラスと)ふたたび一緒に音楽をつくりはじめ、『Spiral』の制作に取り組んだのは、ニコと一緒に音楽をつくりたいと思ったからだった。またふたりで音楽をやりはじめたら楽しくて、刺戟的で、作曲のプロセスは自然に勢いを増していった。俺たちは音楽制作を、内側から外側へとおこなっている。そして俺は個人的には、音楽がつくられているときには、なるべく、いま現在のその瞬間をたいせつにしたいと思っている。いろいろと外部要因について考えすぎても気が散漫してしまうから、その音楽でその瞬間に起こっていることに集中するほうが気分的にも良い感じがする。だからつねにそういう姿勢でいたいと思っているんだ。

NJ:俺たちはプレッシャーを感じていたとは思うけど、なにかをつくりたいなら、そういうプレッシャーのことはまったく気にしないほうがいいってことをわかっていたんだ。

制作はどういうプロセスで進められるのでしょう? 今回はふたりでニュージャージーはフレミントンのスタジオにこもったそうですが、役割分担のようなものはあるのでしょうか?

DH:今回はじつは、ニュージャージー州に家を借りてそこに滞在していて、そこに小さな、持ち運び可能なレコーディング機材を設置していたんだ。家で料理したり、裏庭に座って話をしたりしながら仕事をするのは素敵だった。俺たちの役割としては、歌うのはいつもニコで、ギターを弾くのはいつも俺だけど、それ以外はふたりともその瞬間の感じによってなんでもやるよ。

NJ:制作プロセスはすごく楽しかった。デイヴと一緒に音楽をつくっていく過程がすごく楽しいんだよ。デイヴと一緒にいると、音楽制作は独自の世界なんだと感じる。アルバムのアートワークに写っているオーブみたいな。その世界のなかでは、独自の方法ですべてが屈折されたり、維持されたりする。デイヴと一緒に音楽をつくっていると、俺はすぐべつの世界に迷いこむ。それは喜びであり、俺自身の仕事からの休暇でもあるんだ。

録音時期は2018年とのことですが、今作をつくるにあたりインスパイアされたものはありますか? 音楽でも、音楽以外のもの/出来事でも。

DH:インスピレイションは、ふたりが「一緒にジャムをしたい」「また一緒に音楽をつくりたい」という想いからはじまり、そこからすべてが流れていった。

“The Limit” は前作収録曲 “Golden Arrow” にたいする自分たち自身からの応答のようにも聞こえます。そのような意識はありましたか?

NJ:それはなかったね :) でも、そういうふうに捉えてくれてすごく嬉しい :)) !

今回の新作『Spiral』と前作『Psychic』との最大のちがいはどこにあると思いますか?

DH:俺はこの2枚のレコードのなかに存在していて、そのときの感情がどんなものであるかを知っている。レコーディング過程の記憶やイメージもあるし、俺たちがそのとき、どんな世界にいて、どんな生活をしていたのかということを覚えているから、これについて話すのは難しい。俺にはちがいや対照というものは見えないし、類似点も見られない。俺にとってこの2枚のレコードは、ある瞬間の記録であり、イメージであると同時に、それらはつねに未完成であり、人びとがこの2枚を聴き、俺たちがこの2枚に収録されている曲を演奏し、探求していくなかで、この音楽は生き続け、変化していくものだと考えている。

NJ:『Psychic』のときの俺たちはもっと野心的な心境にあった。『Spiral』においては、俺たちの原動力は野心からくるべきじゃないと考えていた。俺たちは鏡をのぞいて正直にならなければいけなかった。ごまかしなどいっさいせずに。でも俺たちは未来を見据えることもできなかった。すべては、現在という瞬間に感じる直感を原動力にするのが狙いだった。

“Lawmaker” のリリックは、奇しくも2020年以降のパンデミック下における政治を連想させます。録音時は、どのような状況をイメージしてリリックを書いていたのですか?

NJ:たしかにこの曲の歌詞は、いまとなっては奇妙な響きがあるよね。でも俺たちはアルバムのすべてを2018年に作曲したんだ。俺たちが語ろうとしていたのは、ある種の人間(男性)についての物語で、俺たちはそういう人間から成長して卒業したいと思っている。つまり、周囲の人たちにたいして規則や条件を課すような人間のこと。人びとを癒すのではなく、締めつけるような法律の社会に生きている人間。その法律は、共感や思いやり、あるいは愛と呼ばれるものを生み出すのではなく、分離や孤立を主な目的としている。

俺たちが抜け出そうとしている軸は、野心、キャリア、お金、仕事かもしれない。それ以前には、宗教や君主制が、多くの物事が動く軸になっていたようだ。俺たちの世界にとって次なる軸とはなんだと思う?(ジャー)

アルバム・タイトルの『Spiral』にはどのような意味がこめられているのでしょう?

NJ:『Spiral』という名前は、俺たちの新曲に使われている言葉なんだ。これがその歌詞だよ──「もしそれが螺旋を巻いたら、方向に関係なく、きみの顔をそこに見た(And If It Went Into A Spiral, Regardless Of Direction, There I Saw Your Face)」。これは最愛のひとの顔について歌っている。地面の位置が不明瞭でも、そのひとの顔は正しいほうを向いている、ということ。螺旋は、俺たちの時代の状況をあらわしていて、それは自分のなかへと入っていく動き(そこにはナルシシズムの意味合いももちろんある)。だけど、もっとポジティヴな意味合いとして、物事を複数の視点から見るという可能性でもあり、螺旋は軸のまわりに沿った複数の視点を提供してくれる。その軸はまだ定義されていない。俺たちが抜け出そうとしている軸は、野心、キャリア、お金、仕事かもしれない。それ以前には、宗教や君主制が、多くの物事が動く軸になっていたようだ。俺たちの世界にとって次なる軸とはなんだと思う?

報道によれば、ニューヨーク州ではワクチン接種率が70%に達したため、ほぼすべての制限が解除されたそうですね。日本は政府がほぼなにも有効なことをしないため、まだまだパンデミックの真っ最中です。にもかかわらず一ヶ月後にはオリンピックが強行開催される予定になっています。『Spiral』のリリース日は、ちょうど開会式の日にあたります。そんな状況でこのアルバムを聴くリスナーにメッセージをお願いします。

DH:世の中には、俺たちの音楽を聴くという選択をしてくれるひとたちがいることを知って、いつも謙虚な気持ちになる。俺たちがつくった音楽が、どんな小さな形であれ、だれかの人生の一部になれるということは、とても光栄なことだと思う。このような形で俺たちと時間を共有してくれるすべてのひとたちに感謝しています。

NJ:日本の現状(2021年7月8日現在)を見ると、日本ではまだひどい緊急事態の状況なんだね。オリンピックは、他の多くの団体と同様に、「通常通りの営業」を継続することを第一に考える、金目的の団体だ。俺たちが生きているこの時代では奇妙なことが起こっていて、世界の一部では通常の生活に戻りつつある一方で、他の地域では危機が残酷な形で進行している。これはとても重要なことで、俺たちはオリンピックを見ながら、このことについて考えなくてはいけないと思う。俺たちは、豊かで、主に「西洋」の国々の視点からでは、この世界をほんとうに見たり理解することはできないのだと。

The Master Musicians of Joujouka - ele-king

 過去5年の間、もしくは、これまでに観たなかで最高のライヴのひとつが、2017年の音楽フェスティヴァルFRUE(フルー)でクロージングを飾ったザ・マスター・ミュージシャンズ・オブ・ジャジューカだった。このモロッコ人たちは二度のアンプリファイド(音響ありの)・パフォーマンスで、メイン・ステージの観客の心を揺さぶる能力を披露し、すでにその週末のスターとなっていた。

 そんな彼らの最終ステージは、会場を音楽祭のマーキー(大テント)に移しての深夜のアコースティック・セットだったが、PAなしで耳が聴こえなくなるぐらいの大音量を出すことのできるバンドには、そのような違いは、ほとんど意味を持たない。舞台のセッティングは、リフ山脈の麓にある彼らの村で毎年開催されているフェスティヴァルを再現したもので、舞台を覆うように敷かれた、すり切れたラグまでもが忠実に再現されていた。

 そのイベントを二回ほど体験していた自分としては、何が起こるか、大方の予想はしていたものの、彼らの音楽がFRUEの数百人の観客にもたらした効果には、やはり驚かされた。その喜びに耽る夜は、本物の、ハンズ・イン・ジ・エア(両手を空にあげる)なレイヴのようで、4時間近くに及ぶパフォーマンスで、グループが新たな高みへと昇華する度に観客は喜びの雄叫びをあげた。

 このような体験をレコードに収めるのは常に難儀なことであり、非常に優れたいくつかのリリースを含むマスターズのディスコグラフィでも、彼らのライヴ・パフォーマンスほどの恍惚感をもたらしたものはない。彼らの名を世に知らしめた1971年のアルバム『ブライアン・ジョーンズ・プレゼンツ・ザ・パイプス・オブ・パン・アット・ジャジューカ』では、サイケデリックな特性を際立たせるために、音楽に電子的な処理が施され、そのフィジカリティ(肉体的な衝動)が犠牲になってしまった。

 それ以来、グループのリリース(バシール・アッタール率いるライヴァルの一団であるThe Master Musicians of Jajoukaも含む)は、フィールド録音から、2000年にアッタールがその一団とタルヴィン・シンとで制作した、グループの名を冠したアルバム(これはスルーしてよい作品。信じてほしい)のような作り込み過ぎたワールドビート・フュージョンのようなものなど、多岐にわたっている。しかし、2016年にパリのポンピドゥー・センターで行われた「ビート・ジェネレーション展」でのコンサートを収録した『ライヴ・イン・パリ』ほど、好き勝手に、力強くやっている録音はないと自信を持っていえる。

 2017年の日本ツアーの際に限定盤として販売されたCDの、正式なLPレコードとデジタル音源のリリースは、1年以上にわたるCOVID-19煉獄の後では、より歓迎されるに違いない。これは、マスター・ミュージシャンズのアンプリファイド・モードであり、2017年のErgot Recordsからリリースされた『Into The Ahl Srif』のフィールド録音とは全く異なっており、私が記憶しているジャジューカのフェスティヴァルでのサウンドに近いものになっている。

 とくにカーマンジャ(ヴァイオリン)奏者のアハメッド・タルハは、アンプの使用により、驚くべき微分音が際立つという恩恵を受け、より力強い演奏となっている。彼は1枚目のB-SIDEで中心的な役割を果たしており、故・アブデスラム・ブークザールがリード・ヴォーカルを務めた“ブライアン・ジョーンズ・ジャジューカ・ヴェリー・ストーンド”などの定番曲で、喜びにあふれんばかりの演奏を披露。裏面にも同じような曲がいくつか登場するが、ここでは音楽は曲がりくねったような、コール&レスポンスのリラ(笛)とパーカッションがヒプノティックにブレンドされており、複雑なポリリズムが各曲の終わりに突然跳ねて、アッチェレランドで加速していく。

 しかし、最大の魅力は、アルバムの2枚目に収録された、トランス状態を誘発するような“ブゥジュルード”のフル・ヴァージョンだ。伝統的には、これはジャジューカ村のフェスティヴァルの最終夜に、火の灯された儀式のサウンドトラックとして演奏される組曲で、普段は寡黙なモハメド・エル・ハットミが、伝説の半人半獣(人間とヤギ)のブゥジュルードとして知られる生き物を体現する。

 武骨な毛皮の衣装を身に纏い、悪霊を追い出すために人々を激しく叩くハットミの姿は、秋田県男鹿半島のナマハゲを思い出すが、音楽は全くの別物で、感覚を奪われるようなダブル・リード楽器のライタ(あるいはガイタ)が、雷鳴のようなパーカッションを背景に、群がり合い、渦を巻くように襲ってくる。

 ライナー・ノーツのなかで、グループのマネージャー兼プロデューサーであるフランク・リンは、コンサートのこの部分は、音楽の原始的なオーセンティシティ(真正性)を保つために、ペアのステレオ・マイクロフォンを2つ使用したと洒落た言葉で説明しているが、これは、非常に激しくロックしているという意味だ。44分近くに及ぶ曲の中央部では、ライタが集結し、奇妙なフェイジングの効果を発揮して、音楽そのものが錯乱しているかのようだ。
 
 グループのライヴを体験できる機会が不足しているなか、このもっとも純粋な形のトランス・ミュージックは、自分自身を解き放ち、身をゆだねるべき音である。唯一、このLPヴァージョンの批判をするとしたら、半分聴いたところで、こいつをひっくり返さなくてはならないことだ。リンによると、ポンピドゥー・センターでのコンサートでは、ステージへの客の侵入で最高潮に達したというが、これはスーサイドが演奏して以来の出来事だったそうだ。この証拠に基づけば、それこそが、道理にかなった反応だったと思う。

(アラビア語読み協力:赤塚りえ子)

The Master Musicians of Joujouka
Live in Paris

Unlistenable Records
bandcamp

James Hadfield

One of the best shows I’ve seen in the past five years―maybe ever―was the closing set that the Master Musicians of Joujouka played at Festival de Frue in 2017. The Moroccans were the stars of the weekend, having already done a pair of amplified performances that demonstrated their ability to rock a main-stage crowd.
For their final appearance, they shifted to a marquee in the festival campsite for a late-night acoustic set―though such distinctions mean little to a band that’s capable of achieving deafening volumes without the need for a PA. The setting was a convincing recreation of the festival that the group hold each year at their village in the foothills of the Rif Mountains, right down to the threadbare rugs covering the stage.
Having been to that event a couple of times myself, I had a fairly good idea of what to expect, but the effect the music had on the assembled crowd of a few hundred people at Frue still took me by surprise. It was a night of joyous abandon: proper hands-in-the-air rave stuff, people howling with joy as the group kept ascending to new heights of intensity over a performance lasting nearly four hours.
Capturing that kind of experience on record is always going to be a challenge, and the Masters’ discography―while featuring some very fine releases―has never delivered anything quite as ecstatic as their live performances. On the 1971 album that first introduced them to a wider audience, “Brian Jones Presents the Pipes of Pan at Joujouka,” the music was subjected to electronic treatments that accentuated its psychedelic properties at the expense of its physicality.
Since then, the group’s releases―and those by rival outfit The Master Musicians of Jajouka led by Bachir Attar―have ranged from field recordings to over-produced worldbeat fusion efforts like the self-titled 2000 album that Attar’s troupe recorded with Talvin Singh (trust me: you can skip it). But I’m confident in saying that nothing has kicked out the jams quite as emphatically as “Live in Paris,” which captures a 2016 concert at the Centre Georges Pompidou, held as part of an exhibition dedicated to the Beat Generation.
Sold in a limited CD edition during the group’s 2017 Japan tour, the album has finally had a proper vinyl and digital release, and after over a year of COVID-19 purgatory it feels all the more welcome. This is the Master Musicians in amplified mode, and it’s very different from the field recordings heard on the 2017 Ergot Records release “Into The Ahl Srif,” which came closer to how I remember them sounding at the festival in Joujouka.
Kamanja (violin) player Ahmed Talha in particular benefits from amplification, letting his astonishing microtonal playing assert itself more forcefully. He takes a central role on the B side of the first disc, which features ebullient renditions of staples like “Brian Jones Zahjouka Very Stoned,” with lead vocals by the late Abdeslam Boukhzar. Some of the same pieces pop up on the flip side, though here the music is a hypnotic blend of sinuous, call-and-response lira flutes and percussion, with complex polyrhythms that leap into sudden accelerandos at the end of each piece.
However, the biggest draw is the album’s second disc, which contains a full version of the trance-inducing “Boujeloud.” Traditionally performed on the final night of the festival in Joujouka, this suite provides the soundtrack for a fire-lit ritual, in which the normally retiring Mohamed El Hatmi embodies the mythical half-man, half-goat creature known as the Boujeloud.
The spectacle of Hatmi, dressed in a ragged fur costume and vigorously thwacking people to drive out evil spirits, brings to mind the Namahage of Akita’s Oga Peninsula, but the music is something else altogether: a sense-scrambling assault of double-reeded ghaita that seem to swarm and swirl around each other, backed by thunderous percussion.
In the liner notes, the group’s manager and producer, Frank Rynne, explains that this part of the concert was recorded with two stereo pair microphones to “maintain the primordial authenticity” of the music, which is a fancy way of saying that it rocks very hard indeed. During the central stretch of the nearly 44-minute piece, the massed ghaita start creating weird phasing effects, like the music itself is becoming delirious.
Short of catching the group live, this is trance music in its purest form―sounds to lose yourself in, surrender to―and my only criticism of the vinyl edition is that you have to turn the damn thing over halfway through. The Pompidou concert culminated with a stage invasion, which Rynne says had only previously happened when Suicide played there. On this evidence, it was the only sensible response.

Various - ele-king

 この熱気。エナジー。爆発力。本誌26号で「またの機会」とした北アフリカのテクノからエジプトのフロントラインを凝縮したコンピレーションを。最初にレーベルについて説明しておくと、〈ナシャズフォン〉はこれまでアメリカのノイズ・ドローンやヨーロッパのサイケデリック・ロックなど、ダンス・ミュージックとは距離を置いたアヴァンギャルド・ミュージックをメインに手掛けてきたレーベルで、これがエレクトロ・シャアビと呼ばれるダンス・ミュージックのコンピレーションを企画するということは、ドイツの〈パン〉が辿った変化と同じ道を進み始めたことを意味している。アルジェリアやモロッコに起源を持つシャアビは70年代からエジプトに根付き、ユーモラスで極端に政治的なストリート・ミュージックとされ、これが「アラブの春」(と西側が称した政権交代)以降、エレクトロ・シャアビとして一気に先鋭化することになる。〈ナシャズフォン〉も2014年にE.E.K. のライヴ盤を世に送り出して打楽器の洪水がクラブの熱気を煽る一部始終を広くアナウンスし、エジプトのアンダーグラウンドがどうなっていくか大いに期待させたものの、それ以上シーンを追うことはなく、〈ナシャズフォン〉のリリースもラムレーやスカルフラワーといった昔のイメージに戻ってしまう。エレクトロ・シャアビをイギリスのDJでフォローしたのはマムダンスで、フィゴやサダトといった人気MCをフィーチャーしたミックステープがその熱気を伝えてくれた一方、エジプトからはヨーロッパのテクノを模倣するタイプも増え、ミコ・ヴァニアやサイクリック・バックウォッシュなど14の名義を使い分けるネリー・ファルーカ(Nelly Fulca)がパトリック・パルシンガーの〈チープ〉からねっとりとしたインダストリアル・テクノをリリースするなどエジプシャン・テクノのスキルと信用度も高めていく。そうした交点から、まずはズリ(Zuli)がリー・ギャンブルのレーベルからデビュー・アルバム『Terminal』をリリース。高橋勇人のレビューを引用すると「ここにあるのは、IDMの理念でもある、サウンドのカテゴライゼーションの魔の手からの逃避と、カイロという空間の激ローカルな視点からの再定義」(本誌23号)だという。一方的に外国に追随するわけでもなく、かといって自国でホームグロウンとして開き直るわけでもない環境が整ったということだろう。その上で3フェイズや1127が改めてエレクトロ・シャアビの新手として噴出し、〈ナシャズフォン〉もそれらを1枚にまとめたわけである。つーか、この熱気をまとめざるを得なかったほどシーンは沸騰していたのだろう。

 オープニングは実験音楽の要素を残したアバディール。このあたりはレーベルの意地であり、〈パン〉がそうであったように音楽的な脈絡を重視したのだろう。ガッツガッツと繰り出されるインダストリアル・パーカッションはしかし、ベース・ミュージックのそれであり、実験音楽の要素がダンス・ミュージックの価値を削ぐものではない。続いて〈ナシャズフォン〉から昨年、デビュー・アルバム『Tqaseem Mqamat El Haram』をリリースした1127。“gharbala 2020”はインダストリアル・ポリリズミック・ミニマルというのか、ダンスホールのリズムを一応のメインとしながら、あちこちからリズムが降ってきてぐちゃぐちゃになった1曲。といってもいわゆるでたらめとか、ヤケクソではない。誰かの名前を出したいけれど、誰も思い浮かばない。リズムの背後ではアラビックな旋律も乱れ飛んでいる。続いて本誌でも取り上げた3フェイズ。デビュー・アルバム『Three Phase』でもそうだったけれど、甲高い打楽器の叩き方がハンパなく、ぶっといベースとの落差は常軌を逸している。実際、3フェイズはランニングしながら聴いていて意識が飛びかけ、運動しながら聴くのはやめたほど。『Terminal』に続いてリリースされた2枚のアルバムがコンセプチュアルすぎて僕にはよくわからなかったズリもここではエレクトロ・シャアビに取り組み、ノイジーなイントロダクションから怒涛のパーカッション・ストームになだれ込む。『ジャジューカ』でおなじみガイタがループされ流というか、まさに『ジャジューカ』のパンク・ヴァージョンである。激しい。どこからこんなパッションを得ているのだろう。ズリはまたラマと共にIDM寄りのコンピレーション『did you mean: irish』も昨年、パンデミック下の記録としてリリースしている

「ホッサム・サイド」から「イブラヒム・サイド」に移ってKZLKは誰よりも混沌としたインダストリアル・シャアビをオファー。1127と同じくダンスホールを思わせるリズム・パターンを一応の柱としながら、これもポリリズミック過ぎて頭では処理が追いつかない……体に任せるしかない(このサウンドを形容するのに「メルツバウィアン」という単語を初めて見た)。なお、KZLKはは〈ニゲ・ニゲ・テープス〉が年末ギリギリにリリースしたダンスホールのコンピレーション『L'Esprit De Nyege 2020』(48曲入り)にも参加している。ナダ・エル・シャザリはまったくの新人だろうか。ナース・ウイズ・ウーントのようなサウンド・コラージュを導入に古代を思わせる勇壮としたコンポジションで、これもエナジーを隅々まで漲らせている。そして、最後にウォール・オブ・ガイタからブレイクコアともつれ込むユセフ・アブゼイド。ポスト・ロックやシューゲイズのアルバムをリリースしてきた人なので、少し毛色が異なるが、あらゆる種類の混沌を並べた後にさらに異質の混沌が配置されることで、これはこれで一気に異次元へと連れ去られる。エジプトでは、しかし、いったい何が起こっているのだろう……と思ってしまうほど、とにかく全体の熱気が凄まじい。ユーチューブにはヒドい音で全曲のライヴ・ヴァージョンが上がっていて、映像を見る限りはみんな楽しそうにクラブで踊っているだけなんだけれど……。

 安倍政権はまるで70年代のインドネシア政府みたいだと思っていたけれど、年明け早々、アメリカの議事堂襲撃を見てドナルド・トランプはアフリカの大統領にしか見えなくなってしまった。大規模なデモによってムバーラク大統領が退いた後もエジプトの政治は混乱を極め、通貨の暴落に加えてエチオピアとの紛争が持ち上がったりしたことを思うと、アメリカでもこれからアンダーグラウンド・ミュージックが盛り上がるのかなあなどと思ってしまう。

万華鏡のような真夏の夜の夢 - ele-king

■政治に踏みにじられた沖縄の民意

 日本政府による暴力的な土砂搬入が続く沖縄県辺野古の米軍海兵隊基地キャンプ・シュワブ。同基地の正面ゲート前に設置された仮設テントでは、連日、「辺野古新基地」建設に抗議する市民らが「沖縄に基地はいらない」とシュプレヒコールを上げている。真夏の太陽の下、仮設テント内では「美ら海埋めるな」「ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」の横断幕がはためき、汗を流しながら「ジュゴン解放戦線」のプラカードを胸に掲げる女性の姿も目に付いた。

 大型車両が出入りする搬入ゲートからは1日に何回かコンクリートミキサー車が長蛇の列をなし、轟音と排気ガスを撒き散らしながら基地の中に吸い込まれていく。それを阻止しようと搬入が始まる時間になると反対派の市民らがゲート前に腕を組みながらみっちり座り込むのだが、機動隊員に抱え上げられ次々に排除されていく。数分でも数秒でも資材や生コンの搬入を手間取らせることで工事そのものの進捗を遅らせようとするささやかな抵抗はこうして国家権力のむき出しの暴力によって根こそぎ摘み取られていった。

 7月12日。辺野古新基地建設に反対する「オール沖縄」闘争はこの日、1832日目を迎えていた。実に5年あまり沖縄県民と支援者が反対運動を続けてきたことになる。それは、たび重なる選挙や県民投票で示されたはずの沖縄の「民意」が安倍「独裁」政権によって踏みにじられてきた歴史でもある。


搬入ゲート前に座り込む《風車の便り》発起人の翠羅臼ほか

■辺野古にホーンが炸裂

 午前10時、フリー・ジャズ・バンド「渋さ知らズオーケストラ」の小編成楽団が仮設テント前をズンチャカズンチャカ練り歩いた。先頭で両手を振って楽団を指揮するのはベーシストでリーダーの不破大輔。ふたりの女性ダンサー、ペロとすがこが演奏に乗って、サルサ、サンバ、アラビアン風に気ままに踊りまくり、北陽一郎のトランペットと高岡大祐のチューバが青空を突き抜けるように炸裂すると、ゲート内の米兵と警備員たちが何ごとかとこちら側をうかがうのが見える。


渋さ知らズ、仮設テント前

 50年代に誕生したフリー・ジャズは、それまでのビバップやハードバップのコード(和音)進行を否定したジャズの新しい革新的ムーヴメントだ。オーネット・コールマンがドン・チェリー、チャーリー・ヘイデンらとともにニューヨークのファイヴ・スポットで演奏し始め、ジャズ界に一大センセーションを巻き起こした。フリー・ジャズ誕生を告げた歴史的なアルバム『ジャズ来たるべきもの』はそのタイトルからして挑発的だ。コールマンは後にローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ同様、モロッコ・ジャジューカ村の音楽集団の影響を受けてもいる。渋さのエンドレス奏法にジャジューカ風トランス・ミュージックの片鱗を感じるはそのせいだろうか。

■南と北の鬼神が競演

 そこへいきなり登場したのは、なまはげとトシドンとパーントゥ。それぞれ、秋田の男鹿半島、鹿児島の甑島、沖縄の宮古島に伝わる鬼神、来訪神だ。昨年、ユネスコの無形文化遺産への登録が決定した。包丁を手に鬼の面をかぶって子供を脅すなまはげはよく知られているが、甑島のトシドンもまた大晦日に鬼の顔をして悪い子供を懲らしめる。宮古島のパーントゥは体につる草をまとい、ンマリガー(産まれ泉)の井戸の底に溜まった泥を全身に塗りたくり、集落を巡回して厄払いする。

 3人の来訪神は仮設テントの奥からドラを打ち鳴らしながら乱入。「獅子の星座に散る火の雨の、消えてあとない天野がはら、打つも果てるもひとつのいのち……ダーダーダーダー、スコダダー……」とヒップホップ調のリズムに乗った後、「運玉義留(うんたまぎるー)はどこだ! 運玉義留を探せ!」と叫び、仮設テントの袖へと消えた。野外天幕劇団「水族館劇場」の主演女優・千代次が率いる路上芝居ユニット「さすらい姉妹」の芝居『陸奥の運玉義留』(辺野古版)はこうしてスタートした。


さすらい姉妹・3来訪神

 運玉義留は18世紀に琉球で活躍したとされる農民出身の義賊。運玉の森に住み王族や士族の家を狙って盗みに入り、奪った金品は貧民に分け与えた。18世紀の琉球は大飢饉の発生などで民衆が苦しんだ時代だ。目に余る収奪に抗して闘った反権力の象徴的存在として語り継がれ、明治時代には沖縄演劇のヒーローになった。劇作家の翠羅臼は運玉義務留を熊襲や蝦夷という“鬼の棲む”辺境地と結びつけ、「南と北の鬼」が競演する時空を超えた抵抗の芝居を辺野古に持ち込んだ。

■「タックルせ」の叫び、再び沖縄へ

 翠羅臼は70年代、テントで公演する反体制的なアングラ劇団「曲馬舘」を主宰した演劇人だ。83年に劇団「夢一族」を立ち上げ、山谷や横浜寿町、名古屋笹島など寄場での興行を続けてきた。88年に夢一族を脱退しフリーの演出家になり、辺野古新基地反対を訴える一方、パレスチナでの演劇プロジェクトでも芝居を演出した。今回の沖縄公演には劇団「唐組」の“伝説の怪優”大久保鷹が友情出演している。大久保は翠の盟友でパレスチナの演劇プロジェクトにも参加している。

 実は翠は1978年にコザと首里で公演した曲馬舘の芝居『地獄の天使──昭和群盗伝』で沖縄を旅したことがある。1970年のコザ暴動をモチーフにしたこの芝居の大団円で、出演者はたいまつを掲げたオートバイ十数台で天幕の内外を爆走し、コザ暴動の民衆の合い言葉「タックルせ、クルせ、クルさんけ(たたき殺せ、黒人は殺すな)」を絶叫、「灼熱の炎に身を焦がし/廃墟の街を駆ける……だから地獄の天使たちよ、箱船の羅針を帝都へと向けろ」と歌った。それから40年以上がたち、翠の航路は再び沖縄へと向かった。

 辺野古と高江の闘争に共感する翠は「渋さ知らズ」の不破と「水族館劇場」を主宰する桃山邑に相談した。桃山は日雇い労働者として働きながら翠が主宰した曲馬舘で役者デビューし、1987年に主演女優の千代次とともに水族館劇場を立ち上げた。その千代次はさすらい姉妹を率い、毎年正月には寄せ場で路上演劇を披露してきた。

■理想を幻視する芸能の力

 「下層で暮らしている人たちと連帯し、旅と生活と芝居を同時にやってきた」と桃山は振り返る。布川徹郎監督の映画『沖縄エロス外伝 モトシンカカランヌー』に登場するしぶとく生き抜く最下層の娼婦たちの姿に感銘を受けたという桃山は「音楽祭は沖縄の現実を変えないかもしれないが、リアリズムを生きる底辺の人たちは変わらない日常に閉塞感を覚えている。現実よりも理想を幻視するという芸能の法則を信じて沖縄の舞台に立ちます」

 音楽祭開催の中心メンバーのひとりとなった不破大輔は翠の提案に乗り、沖縄公演を決めた。実は渋さはアングラ演劇の“劇伴”としてスタートした楽団だ。劇伴とは映画や演劇の伴奏音楽のことだ。あるアングラ劇団の入りが少なかったことから、客席を埋めるため知り合いのミュージシャンに声を掛けたのがオーケストラ結成のきっかけだったという。

■キーワードは暴動と自由

 翠との出会いもやはり劇伴だった。1991年、翠が演出し上野の水上音楽堂で上演された芝居『暗闇の漂泊者』の劇伴を担当し、「本多工務店のテーマ」という曲をつくった。必ずといっていいほどライヴのラストで演奏される不朽の名曲だ。この曲の冒頭、朗読される詩は「この曲を聴いて鳥肌が立った」という翠によって書かれた。キーワードの「暴動」と「自由」は、従来のジャズ演奏につきまとう予定調和をぶっ壊し、アドリブ演奏がつくりだす渋さ特有のフレキシブルな演奏スタイルを物語っている。

 こうして音楽と演劇による沖縄公演に向けて「風車の便り 戦場ぬ止み音楽祭」の実行委員会が結成された。沖縄では97歳になると子供に返るという言い伝えがあり、この年齢のお祝いのことを「風車祭」という。「路地でくるくる回る風車、空が哭いている、海が哭いている……」と翠は夢想する。美ら海を埋め立て、沖縄の人びとの心を埋め立てようとする悪政に抗して、夢の風車をかざそうと翠たちは辺野古にやって来た。

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■フランス革命は娼婦が先頭に立った

 キャンプ・シュワブゲート前の仮設テントではさすらい姉妹の芝居が続いている。沖縄県読谷村在住の彫刻家・金城実は仰天大王の役で特別出演した。「チビリガマ世代を結ぶ平和の像」や三里塚闘争をモチーフにした「抗議する農民」などの作品で知られる金城はこの夏、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止された問題に憤り、自ら初の「慰安婦像」の制作に取り組んでいる。「世の中を変えるのはインテリじゃない。芸術と女性だ。フランス革命はパリの娼婦が先頭に立った」。独特な“金城史観”が仮設テントに響きわたると、反対派住民から笑みがこぼれた。

 金城によると、1609年の第一次琉球処分は琉球の漁民が仙台藩に流れ着いたのがきっかけで起きたという。薩摩藩は中継貿易で繁栄する琉球を侵略し、徳川幕府から琉球王国を賜った。金城は鬼退治に向かった桃太郎の伝説に琉球処分を重ね合わせる。

■あの世はこの世、この世はあの世

 「イヌやサル、キジを従えた桃太郎がヤマトンチュで、鬼ヶ島が琉球と陸奥ってわけだ。南と北の鬼たちの競演を是非やろうじゃないか」。仰天大王はこう語ると豪快に笑い、脱いだ下駄を両手に持ちエイサーにも似た下駄踊りを披露。金城が自ら考案したという得意技に仮設テントの観客から大きな歓声と拍手が起きた。


金城実の下駄踊り(背後に大久保鷹)

 芝居は第2場に進み、主演女優の千代次演ずるレラが腕にフクロウを乗せ、アイヌ民族の姿で登場。錫杖を手にした白装束のイタコ(風兄宇内)との「あの世はこの世、この世はあの世」「アメリカ世(ゆ)はヤマト世、ヤマト世はアメリカ世」といった時空を超えたやりとりが観客を夢幻の世界へと引きずり込む。


千代次と風兄宇内

 「ここは初めて来た場所なのに、懐かしい匂いがする」と言うレラに、童女の姿をしたフクロウの精霊(増田千珠)は「ここは、魔物たちが跳梁跋扈する魔の森、運玉森だ、気をつけろ、レラ」と不穏な言葉で応じる。その時、それまで真夏の太陽が輝いていた空がみるみる暗雲に覆われ、激しい雨が降り出した。全身びしょ濡れになりながら演技を続けるレラと精霊。さすらい姉妹の母体である水族館劇場は大団円で必ず、大量の水が天井から降り注ぐが、辺野古では天の恵みがその役目を代行した。


激しい雨

■風車の便りは闘争へのエール

 芝居の後半、大久保鷹演ずる男の口から97歳になると老人が子供に還るという風車の言い伝えが語られる。それに千代次演ずるレラが応える。「風車はいろんな風を届けてくれる。いにしえの風、明日の風、優しい風、不吉な風、嘆きの風、そして炎の風……」。翠にとって“風車”は沖縄の長い抑圧の歴史の象徴だ。“風車の便り”は、不屈の魂を胸に暴虐の荒波を乗り越えようとする「オール沖縄」闘争へのエールなのだ。

 芝居は出演者全員による「森が哭いている、海が哭いている……」という合唱でフィナーレを迎えると、観客席から温かい拍手が送られた。その後、ミュージシャンの海勢頭豊が新基地建設への抗議を込めて琉球ことばで歌った。翠が夢想した祝祭的な路地での風車は「オール沖縄」の反対基地闘争への便りとなって歌から歌へと伝えられ、くるくる回り続けているようだ。


海勢頭豊

 夜は那覇市の新都心公園内の特設天幕ステージで渋さ知らズオーケストラの単独公演があった。タイトルは「天幕渋さin沖縄」。竹で編んだ骨組みを大きな凧を伏せたように組み立てた天幕は、出演者のノボリが周りをぐるりと取り囲み、一見すると旅芸人の股旅興行に見える。「サーカスの巡業ですか」と尋ねる散歩者の姿も。「いつも旅の途中」(不破大輔)という渋さ独特の公演スタイルは変わっていなかった。

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■ロックにジャズに民謡、多士済々な顔ぶれ

 渋さのフルオーケストラのライヴには、劇団「風煉ダンス」の芝居が絡み、エンドレスな演奏を聴かせた。そこへ沖縄民謡界の大御所、大江哲弘が登場。渋さをバックに「生活の柄」や「お富さん」を歌い、最後に八重山民謡「トゥバラーマ」を聴かせた。

 翌13日は午後1時から同じ天幕ステージでメーンの音楽祭。この日も真夏の太陽が燦々と輝いていたが、遮光性の天幕の中は意外に涼しい。オープニングは渋さチビズの演奏。サックスやトランペットが炸裂し、渋さ歌手の玉井夕海がステージ上で躍動する。玉井は今回の音楽祭の代表でもある。開催まで紆余曲折があり、その苦労を乗り越えてのステージに表情は明るい。

 その後、ライヴは島唄の堀内加奈子、東北の歌姫の白崎映美、沖縄高江在住デュオの石原岳とトディと続く。以前は上々颱風のヴォーカルだった白崎は東日本大震災以後、被災者に寄り添い、ロック、ジャズのほか、民謡で「東北人の魂」を歌い続けてきた。今回はアーティスティックな衣装とメイクでパンチのある歌声を聴かせた。


白崎映美

 リーダーのもりとが那覇市内で居酒屋を経営しているという、沖縄のジプシーバンド「マルチーズロック」、沖縄から平和を発信する海勢頭豊に続き、シンガーソングライターの池間由布子がギターの弾き語りで透明感のある歌声を披露、会場をほんわかした安らぎで包み込んだ。


池間由布子

■森が哭いている、海が哭いている

 地元フラチームの演技の後、前日の辺野古キャンプ・シュワブ前に続き、「さすらい姉妹」が『陸奥の運玉義留』を上演。芝居前の準備でリーダーの千代次は、前日に辺野古で摘んできたつる草をパーントゥ役のコスチュームに入念に巻きつけていた。その静かな仕草からは抑圧の歴史を持つ琉球への共感と連帯が感じ取られた。

 「計算され尽くされた演劇では役者も飽きてしまう。目指すのはそこから逸脱した荒唐無稽な芝居だ」。水族館劇場を主宰し、現代の河原者を自任する桃山邑はこう語る。金城実や大久保鷹の出演は、従来の芝居のセオリーを超えたハプニングともいえる。

 「うりずんの雨降りしきる遙かな島、空が哭いている、森が哭いている、海が哭いている……あの日届いた風車の便り」。抑圧の歴史を持つ陸奥と琉球が時空を超えてひとつになるという翠羅臼の抵抗の詩(うた)は、那覇の観客を魅了し、沖縄の演劇史に新たな1ページを書き込んだ。

■クランデスタンな装い

 音楽祭のトリはもちろん、渋さのフルオーケストラによるゴージャスな演奏。北陽一郎のトランペットが、登敬三のテナーサックスが、高橋保行のトロンボーンが、ある意味、勝手に気ままにアドリブ演奏を重ねていく。そこに、うじきつよしのギター、大袈裟太郎のラップ、玉井夕海の歌が絡んでいく。次の展開が予期できない暴風雨のような旋回奏法に乗ってペロとすがこがディスコのお立ち台さながら踊り狂った。


渋さ知らズ

 ステージ左右のお立ち台では暗黒舞踏のダンサーによるパフォーマンスも。薄汚いビルの地下に続く階段を降り、壊れかかった扉を開けると、いきなりジャズ演奏の爆音にさらされる。禁酒法時代のニューヨークを思わせるクランデスタン(非合法)な装いに包まれた天幕は、300人近い観客を飲み込み、万華鏡のように、“真夏の夜の夢”を垣間見せてくれた。

Akuphone - ele-king

 ワールド系のぶりぶりのハイブリッド・ミュージックをリリースする超注目のパリの〈アクフォン〉(2015年にスタート、台湾の歌手から江利チエミも発表。パリのサブライム・フリーケンシーですねぇ……)から、2枚の強力盤が出ました。
 まずはコゥ・シン・ムーン(Ko Shin Moon)のアルバム『Ko Shin Moon』。これは、ここ数年のハイブリッドなワールド系エレクトロニック・ミュージックを追っている方にはバッチリです。たとえば、〈Keysound〉からのDusk + Blackdown、あるいは〈Soundway〉からのDébruit & Alsarah……そしてもちろんオマール・スレイマンとか、ワールド系と言えばアフロや中南米(あるいはインドとか)が真っ先に浮かぶと思いますが、しかしそうじゃない、中近東の旋律に目をつけているエレクトロニック・ミュージックの最新強力盤です。
 もう1枚は、ジャケからして何か圧倒的なものを感じるのですが、チベット密教のミステリアスなマントラを実況録音盤です。キンク・ゴングによる『チベタン・ブディズム・トリップ』。ブライアン・ジョーンズの『ジャジューカ』を彷彿させる、未知の体験です。
 完璧に別宇宙に飛びたい方は、ぜひ、チェックしてみてください。


KO SHIN MOON
Ko Shin Moon

Akuphone/カレンテート


KINK GONG
KINK GONG: Tibetan Buddhism Trip

Akuphone/カレンテート


interview with Mala - ele-king

E王
MALA
Mirrors

Brownswood Recordings / Beat Records

DubstepLatinWorld

Tower HMV Amazon

キューバの次はペルーと来た。理由は以下に詳しい。70年代のナイジェリア音楽やガーナのヴィンテージ・サウンドがこのところエディットされたり、サンプリングされまくる傾向をワールド・ミュージックのリユースとするなら、トランス・ローカルな産物といえるDRCミュージックや『BLNRB』、あるいは〈サウンドウェイ〉から『テン・シティーズ』としてまとめられた初顔合わせの試みは完全にコンテンポラリー・サウンドに属し、過去の音楽を現代に蘇らせたものとは素直には言い難い。

 マーラがキューバに続いてペルーの現地ミュージシャンと作り上げたセカンド・ソロ『ミラーズ』もはっきりと後者に属し、1+1を3にも4にも膨らませようというダイナミズムに彩られた驚異の試行錯誤である。マーラが人気に火を点けたとも言えるスウィンドルがひたすら50年代のアフロ-キューバン・ジャズに執着しているのとは対照的に、マーラは「いま、そこ」で音楽活動を続けているミュージシャンの力量に基礎を置き、彼らが現在進行形で有しているスキルを時の流れにスポイルさせてしまうような方法論は取っていないともいえる。DJカルチャーならではの非常に回りくどいコラボレイションの方法論をつくりあげたというのか、ダブステップとはかなり懸け離れたイメージを漂わせてしまうかもしれないけれど、もしかしてそのアーキタイプはブライアン・ジョーンズの『ジャジューカ』なのかなとも思いつつ、南米を逍遥しつづけるマーラ自身に話を訊いた。

Mala / マーラ
ダブステップのデュオ、デジタル・ミスティックズの片割れとしても活躍するロンドンのプロデューサー、DJ。同ユニットにおいて初めてダブステップを本格的に普及させるきっかけとなったパーティ〈DMZ〉を主催してきた他、自身でもレーベル〈Deep Medi Musik〉を立ち上げてさまざまなアーティストの発掘、紹介に精力をみせる。2012年にジャイルス・ピーターソン主宰の〈ブラウンズウッド〉からマーラ名義では初となるアルバム『マーラ・イン・キューバ』をリリース、世界的な評価を浴びた。2016年6月には2作め『ミラーズ』がリリースされる。

異国の地に行って、現地のミュージシャンとの出会いだったり、そこで発見した新しい楽器、新しい食べ物、新しい文化、新しい物語、新しい経験をもとにアルバムを作りたいと思った。

『マーラ・イン・キューバ』(2012年)は現地のリズムを録音しながら随時エディットしていくというものだったそうですが、ペルーがインスピレイションの元になったという新作も制作の方法論は同じですか?

マーラ:同じだ。細かい部分での違いはあったけど、基本的には同じ方法をとった。つまり、異国の地に行って、現地のミュージシャンとの出会いだったり、そこで発見した新しい楽器、新しい食べ物、新しい文化、新しい物語、新しい経験をもとにアルバムを作りたいと思った。新しい発見は楽しいし、刺激的だ。まるで子どもに戻ったような感覚になる。異国に行って、右も左もわからないんだけど、だからこそまっさらな状態で新しいことを学び、吸収することができる。そうやって何かを創造することが好きなんだ。

(通訳)なぜペルーだったのですか。

マーラ:2つの理由でペルーになった。ひとつは、いまのパートナー(恋人)がいつもペルーの話をするんだ。出会ったときからずっと。俺の方は、ペルーについて何も知らないまま育った。学校でも教わらなかったし、育った環境もペルー出身の知り合いもいなかった。いままで全く接する機会がなかった。だから新しい発見があるにちがいないと思った。新しい人や音楽、あと、食べ物との出会い。ジャイルス(・ピーターソン)と〈ブラウンズウッド〉から「またアルバムを作らないか」と 言われたとき、彼らの方から「こういう国はどうか」という提案がいくつかあった。でも、ペルーは誰も予想していないだろうと思った。案の定、ジャイルズとレーベルのみんなも驚いていたよ。

“テイク・フライト”の試みはとてもユニークだと思いましたが、これもペルーのリズムなんですか?

マーラ:リズムに関してはなんとも言えないな。あの曲で主にペルーなのはギターだ。ペルーのギタリストが演奏している。でもドラマーはちがう。というのも、現地で録音したものとはまったくちがうドラムを組みあわせているんだ。というのも、(ペルーから戻ってきて)どうもピンとこなくて、元からあったドラムとパーカッションをすべて抜いたんだ。そこからどうしたらいいのか途方に暮れていた。とりあえずちがうドラム・サウンドやビートを重ねてみたりした。そこで、ぴったり合うようなドラム・パターンを見つけた。でも、サウンドがちがっていた。生ドラムの音じゃなきゃだめだと思ったんだ。



 ちょうどその頃、リチャード・スペイヴンというドラマー用のリミックスを仕上げたところだったんだ。彼はザ・シネマティック・オーケストラの作品にも参加しているし、ホセ・ジェイムズのバンドのドラマーでもある。あと、日本人トランペッターの黒田卓也ともやっている。とにかく、そのリチャード・スペイヴン用のリミックスを終えたところだった。で、例のトラック用に新しく作ったドラム・ビートには生ドラムのサウンドがいいと思って、最初はソフトを使って、スタンダードな生ドラムの音で作ったんだけど、イマイチだった。作ったドラム・パターンを録音しておくのによく使うスタンダードな生ドラムの音だ。だから彼に連絡して、「君が叩いたらぴったりだと思うんだ。やってくれないか」とお願いしたんだ。そして彼にトラックと自分が作ったドラム・パターンを送ったら、完璧にやってくれた。彼のドラムが 入ったおかげで曲が断然良くなった。俺が作って送ったフィル(ドラム・パターン)を叩いてくれているんだけど、彼は生きたドラマーだから、曲に息を吐き込んでくれた。あの曲の仕上がりには本当に満足している。

ギターという楽器を打楽器として再発見しているような印象もありますけれど、これは誰が演奏しているのでしょう?

マーラ:すべてペルーの現地のミュージシャンだ。アルバムに参加しているのは2人のギタリストだ。彼らにペルーの伝統的なリズム・ギターを弾いてくれ、伝統的な曲を弾いてくれ、とお願いするんだ。そうして録音したものをサンプリングして、一度解体して、また曲に再構築するんだ。

リズムに対する興味はかなり広範囲になっていると思います。とはいえ、無制限でもないようで、自分ではどのあたりで線を引いたということになるのでしょう。

マーラ:それは正直、自分でもわからないんだ。自分がどうやっているのか。アルバムを作るとなると、作品としての統一感や流れを持たせることを意識せざるを得ないわけで。でも、それでいいのかどうかという確信は最後まで持てない。アルバムを作る作業が進んで、さらに深く掘り下げながら、終わりに近づくにつれて、そういう考えがより明確に頭の中をよぎる。そして、「この曲の後にはどの曲を持ってくる」といった具体的なことを考えるようになる。それをする上で 決まった作業の進め方があるわけではない。個人的には、アルバムを作るのには苦労する。たくさんの楽曲を作って、ひとつにまとめる作業というのはけっして簡単なことではない、と思っている。

キューバ同様、いくつかのちがうリズムがペルーにも存在する。さまざまなアフロ・ペルーのリズムが。

“インガ・ガニ(Inga Gani)”はDJニガ・フォックスやポルトガルのクドゥロに影響を受けたものに聴こえます。これもペルーのリズムなんですか?

マーラ:ペルーのリズムではあるけど、さらにその前にまで遡れば、今日のペルーの文化にはアフリカに由来している部分もある。かつてスペイン人がペルーにたくさんの奴隷をアフリカから連れてきているからね。人口の1割はアフリカ系ペルー人だ。だから、地域によっては、アフリカの流れを組む音楽を耳にすることができる。だからキューバだろうと、アンゴラ、ポルトガルだろうと、アフリカ音楽が土台にあるから、似た雰囲気に聞こえるのだろう。リズムにしても、6/8拍子だったりとか、すごく似ている。この曲のリズムもペルーのリズムだ。アフロ・ペルーと呼ばれている。ノヴァリマ (NOVALIMA)というバンドとも共演しているマルコス・モスクエラ(Marcos Mosquera)というパーカッショニストがこの曲に参加している。もう一人著名なアフロ・ペルー音楽のミュージシャンのコチート(Cotito)もこの曲に参加している。彼らは二人ともアフリカ系ペルー人だ。

(注*アフロ・ペルー音楽に興味を持つのは国外の人が多い。ペルーで一般的なのはサルサやロック。もしくはケーナやチャランゴといったフォルクローレ。クラブ系ではテクノ・クンビアことチチャ。ちなみにペルーの首都リマにちなむノヴァリマは元はスラッシュ・メタルだったという噂も)

(通訳)ちなみにタイトルにはどんな意味があるのでしょう?

マーラ:インガ(Inga)というのはあるリズムを意味している。キューバ同様、いくつかのちがうリズムがペルーにも存在する。さまざまなアフロ・ペルーのリズムが。たとえば、フェスティーホ(festejo)と呼ばれるものだったり、インガ(inga)、それからランドー(lando)、ザマクエカ(Zamacueca)といったものがある。「Inga Gani」のGaniは特に意味はない。インガ(Inga)はこの曲のインスピレーションのもとになったリズムを指している。

『ミラーズ』というタイトルは自分自身がさまざまなものを反映しているという意味ですか?

マーラ:たしかにここ数年、いくつかの辛いこともあった。そんな中で音楽だけは、自分が大人になってからの人生において心のよりどころになっている。音楽と向き合っている時間は、瞑想だったり、自分のスペースを見つけたり、思案する時間でもある。この数年、このアルバムに費やした時間と労力を振り返ってみると、「self-reflection(内省)」が大きな部分を占めていたと思う。そういう観点から、「ミラーズ」がアルバムのタイトルにふさわしいと思った。あと、「鏡」というのは、われわれが普段「鏡」と呼んでいる「光の反射を利用して形・姿を映す道具」のみを指すのではなく、自分の場合、たとえば山の中にいるときだったり、目の前に海があってそれを眺めているときだったり、スタジオにいるときなんかの、自分と向き合うことのできる瞬間のことでもある。「聖なる谷」にいるときのように。

「鏡」というのは、自分の場合、たとえば山の中にいるときだったり、目の前に海があってそれを眺めているときだったり、スタジオにいるときなんかの、自分と向き合うことのできる瞬間のことでもある。「聖なる谷」にいるときのように。

 ペルーにはウルバンバというクスコから車で1時間くらいのところに、「聖なる谷」と呼ばれている谷がある。あれだけ多くの星を夜空に見たのは、そこに行ったときが初めてだった。夜中1時くらいに、そこでただ夜空を眺めながら座っている瞬間というのは、大自然という野外の環境に身を置きながら、同時に非常に内省的な体験でもある。内なる自分と向き合いながら、宇宙とひとつになる瞬間だ。自分を見つめ直す瞬間なんだ。ペルーでの多くの体験に、この内省的な体験を 感じたんだ。だから「ミラーズ」がぴったりのタイトルだと思った。
当初は別のタイトルにする予定だった。制作開始から1年くらいは別のタイトルで作業を進めていた。でも、アルバムの完成が近づくにつれ、当初予定していたタイトルがしっくりこなくなった。そこで、別のタイトルにしようと思って、いろいろ探して、「ミラーズ」に行き着いた。おもしろいのが、「聖なる谷」 を訪れた際、あるシャーマンに会いに行ったんだ。そこで、そのシャーマンといっしょにアヤワスカの儀式を行った。その儀式の終わり近くになって、自分の頭の中 で巡らせていたいろいろな思いをどうしても書き留めたいという衝動に駆られたんだ。そのときに、日記に書き留めた文章の最後の言葉が「ミラーズ」だったんだ。でも、そのことに気づいたのは、アルバムのタイトルを決めた後だった。決めた後に、「もしかしたらもっといいのがあるかも」と思って日記を読み返したら、最後に「ミラーズ」と書いてあって、「そうだよな、やっぱり『Mirrors』だよな」と思った。全部が理にかなっていた。

(注*アヤワスカはDNTとして知られる地上最強のドラッグの材料。ロサンゼルスで体験する人も多く、フライング・ロータス『パターン+グリッドワールド』のジャケット・デザインもおそらくDMTの幻覚に由来)

トライバルなリズムに浮かれた気分を持ち込まないのはあなたの性格の表れですか? それとも、実際にいま、そういったリズムが生まれる場所の社会情勢がそういう気分にさせるとか?

マーラ:いくつか理由はあると思うけど、俺自身の性格が大きいと思う。というのも、普通にアフロ・ペルーのリズムを聴くと──たとえばアフロ・ペルー音楽を奏でるスペシャリストのバンドなんかの演奏を聴くと、それはむしろアップ・ビートでまさにカーニヴァルやお祭りで人々が踊って、騒いで、笑顔で手を叩いているのがぴったりくる。だから、メランコリックなサウンドになるのは、俺の性格や人間としての気質の表れだと思う。この世界には光や美しいものもたくさんあると思うし、そういう世の中のいい面も見えてて、外向きな面も自分にはあるけど、同時に悲惨で、恐ろしい、破壊的なことが継続的に起きていることを見ないふりはできない。だから、その両極の間のどこかに自分をつねにおいているんだと思う。

『マーラ・イン・キューバ』にそこはかとなく感じたメランコリーは『ミラーズ』にはストレートに受け継がれていないように感じたのですが、自分自身ではいかがですか?

マーラ:正直、自分ではわからない。今作を作るにあたって、ものすごく苦労したし、悪夢のように感じた瞬間もあった。その一方で、自分がすべてを掌握していると思えて、方向性にも非常に満足できた瞬間もあった。自分にとって、これは自分の人生そのものなんだ。この3年間に起きたことすべて、さらにはその前の出来事もすべてが、この作品を作る糧になっている。だから、今作が前作と比べてメランコリックかどうかと、俺からは言えない。音楽の素晴らしさ、ひいては人間の素晴らしさっていうのは、自分の頭で考えることができることだ。「この音楽はこういうものだ」という説明ができるだけない方がいいと思っている。俺にとってのこの作品は、人が感じる印象とはまったくちがうかもしれない。だから聴き手が自分たちの好きなように解釈してくれれば、それでいいと思う。どう解釈しようと自由なわけだから。

今作に関して自分にとって重要だったのは、共演しているミュージシャンに対して、彼らの音楽の魅力を十分に引き出すことだった。

『マーラ・イン・キューバ』は世界中で大絶賛でしたし、日本でも音楽誌一誌で0点が付いたのを除けば満点評価に近いものがありましたが、自分で反省点などはありますか?

マーラ:プロデューサーとして、自分は音楽を2つの観点で見る。ひとつは、科学者的な見方だ。つまり、分析的で、批評的な観点から、とかく考えすぎなくらい、すべてが完璧であるようにと何度も確認を重ねる自分だ。でも、同時に人間でもあるわけで、自分の感覚をもとに音楽を作っている。クラシックの教育を受けたミュージシャンではないからね。だから作品を作る際は、自分の感覚に従うしかない。でも、その感覚も日々変わるわけだ。自分のその日の気分だったり、 その週に自分の身の回りで何が起きたかといったことが、自分の見解に影響を与える。だから、すごく前向きになれるときもあれば、落ち込んだり、疑心暗鬼になることだってある。でも、心に留めておくようにしているんだ。「完璧な作品を作るのは不可能だ。むしろ完璧である必要なんてないんだ」ってね。プロデューサーとして、自分の中の科学者的な自分に言い聞かせなければいけない。「完璧でなくたっていいんだ」ってね。肝心なことは、自分が何を意図してその音楽を 作っているか、ということ。
さらに、今作に関して自分にとって重要だったのは、共演しているミュージシャンに対して、彼らの音楽の魅力を十分に引き出すことだった。というのも、今回参加してくれたミュージシャンは誰もが、とにかく寛容で、寛大だった。非常に快く、惜しみなく捧げてくれた。だから俺も、そんな彼らを尊重し、敬意を表したかった。彼らが今作を聴いた際、気に入ってくれるものを作りたかった。今作はまた、『マーラ・イン・キューバ』や『リターン・トゥ・スペース』(ディジタル・ミスティック名義)や、何年も前に出した最初のアルバム同様、俺の人生のある瞬間を切り取ったもので、後になって振り返ってみて、「ああ、あそこをもっとこうできた。こうやってればよかった」と思うこともできるけど、俺はむしろ、振り返ったときに「いい経験をさせてもらった。ペルーに行って、現地で新しいミュージシャンたちや新しい楽器と出会い、その結果、独創性に満ちた作品を作る機会を与えられて自分はなんて幸せなんだろう」と思いたい。実際、今回ペルーには1ヶ月、パートナーと子ども2人の家族で滞在することができた。このアルバムにはそういう思い出も詰まっているんだ。だから自分の作品を振り返って、重箱の隅をつつくことだってできるけど、俺はありのままを受け入れて、それを作る機会をあたえられたことに感謝することを選ぶ。

日本に行ったときの、人から受ける印象やおもてなしは他とは比べものにならない。

世界中のさまざまな場所を旅していますが、仮にイギリスを追放されるとしたら、どこに住みたいですか?

マーラ:素晴らしい国はたくさんあるけど、中でも行くのが大好きな国が2つある。今年で9度めの来日になるわけだけど日本は間違いなくいちばん好きな国の一つだ。理由はまず「人」。日本で多くの素晴らしい人たちと出会った。日本に行ったときの、人から受ける印象やおもてなしは他とは比べものにならない。食べ物もそう。日本食は間違いなく、世界中を回る中で、もっとも美味しくて、健康的な食べ物だ。日本から帰ると、行く前よりも自分が健康的になったと思える。全部の国がそうではない。新鮮で健康的で清潔で美味しい食べ物を食べたくてもなかなかありつけない国もたくさんある。それから日本の風土も。特に日本の田舎は本当に美しい。俺はこれまで2度ほど朝霧ジャムに出る機会に恵まれた。朝霧に行って、富士山を目の当たりにしたり、京都もそうだし、南に下がって沖縄に行っても、美しい景色がたくさんある。だから日本にはぜひ住みたいと思う。
それか、ニュージーランド。世界中で心から好きなもう一つの場所だ。あと正直な話、ペルーもぜひもう一度行ってみたいと思っている。人が優しくて、美味しい食べ物もペルーにはたくさんある。深く力強いエネルギーに満ちた場所だと思った。

子どもたち2人とも、生まれて最初に聴いた音楽がオーガスタス・パブロの曲だ。彼らに最初に聴かせたレコードだ。

ちなみにアメリカとキューバが国交回復をしたことについて、なにか思うところはありますか?

マーラ:俺は政治家じゃないから政治の話はできない。俺は音楽で人と人を結びつけたいだけだ。

また、カストロはいつもアディダスばかり着ていますけど、政治的なリーダーとしては親近感を持ちますか?

マーラ:う~ん。自分なりに意見はあるけど、ここでは政治的なことよりも、音楽の話に留めたい。

すでに亡くなっているミュージシャンからあなたが尊敬する人をひとり選ぶとしたら誰になりますか?

マーラ:残念ながら多くの偉大なミュージシャンが亡くなってしまった。……。もしかしたら、安易な答えに聞こえてしまうかもしれないけど、もっとも深く影響を受けているミュージシャンとなると、オーガスタス・パブロかな。1人選ぶとしたら彼だろう。彼の音楽は俺が自分の音楽を確立する上で大きな存在だった。オーガスタス・パブロがメロディカを弾くのを聴くといつも「自由」を感じる。彼の音楽には決まった構造やアレンジがなく、自由を感じた。そういう音楽を作る上での既存の定型にとらわれない姿勢というのを彼から学んだ。自分の子どもたち2人とも、生まれて最初に聴いた音楽がオーガスタス・パブロの曲だ。彼らに最初に聴かせたレコードだ。自分が最初にやったDJライヴでも、最初にかけたのはオーガスタス・パブロの曲だった。というくらい、オーガスタス・パブロの音楽は俺にとって大きな存在で、彼の存命中に彼と会って、いっしょに音楽が作れていたらどんなによかっただろう。

あー。

ポール・へガティ - ele-king

 ノイズの病がすべての音楽を浸食してから、唯一の希望ある道筋といえば、ノイズの細菌がチーズのバクテリアのように、善良な微生物であるということだ。そして、次のように考えることができる。ノイズは音楽的な健忘状態を生み出す代わりに、これまで聴き手には隠されてきた歓びをもたらすだろう。すべての音楽に存在しているものとはいえ、ノイズの要素は人類にとってのセックスのようなもので、その生と存在にとっては不可欠だが、言及するのは無礼にあたり、無視と沈黙によって覆い隠されている。それ故、音楽におけるノイズの使用はほとんど意識されず、また、議論されてこなかった。おそらく、これは和声や旋律のように深く議論される要素ほどには発展してこなかったからだと思われる。 
──ヘンリー・カウエル「ノイズの歓び(The Joys of Noise)」(1929)より

 ノイズをチーズのバクテリア、つまり俗にいう善玉菌になぞらえた、この楽観的なノイズ論はジョン・ケージよりおよそ一世代前のアメリカ実験音楽の作曲家、音楽理論家、ピアニスト、民族音楽学者、ヘンリー・カウエル(1897―1965)によるものだ。ノイズはあらゆる音楽に偏在し、この世の事物の生成と存在にとって不可欠な要素だが、その内実は性にまつわるタブー同様に見過ごされてきた。そこで、これまでノイズと見なされてきた音、つまり楽音ではない雑然とした音響に改めて光を当ててみようではないか! とカウエルは意気揚々と語る。これが冒頭に引用したエッセイ「ノイズの歓び」の大意だ。このお気楽で全能感溢れるカウエルのノイズ論に水を差すがごとく、カント、アドルノ、バタイユ、アガンベン、ベンヤミン、アタリ、デリダ、ドゥルーズ、ガタリ、アルトー、ベルクソンらの思想とそれらの思考形式を議論の根底に据え、至極シリアスかつ批判的にノイズを考察したのがポール・へガティの『ノイズ/ミュージック』である。

 本書はタイトルからして思わせぶりで、様々な解釈が、いや、深読みが可能だ。これは筆者の単なる思い込みや妄想にすぎないのかもしれないが、「ノイズ」と「ミュージック」のあいだに引かれた「/(スラッシュ)」に注目してみよう(原題は『Noise / Music: A History』邦訳の長い副題とは異なる)。というのも、この「/」が実に厄介なのだ。もしも「ノイズ・ミュージック」(原題ならスラッシュなしでNoise Musicとなるのだろうか)だったならば話は簡単で、字義どおり「ノイズ音楽」についての本だということがわかる。しかし、本書の場合はそう単純ではない。「/」を辞書で引くと「または」「あるいは」という並列の意味を持つ。従って、このタイトルを「ノイズあるいは音楽」と解釈することができる。この場合、ノイズと音楽のあいだにいかなる従属関係もなく、それぞれが別個のものとして存在していると見なされよう。ふたつ目の「/」の深読みは「ノイズ対音楽」である。ここでは、雑音もしくは非楽音としてのノイズ対楽音主体で構成された音楽という図式ができあがる。言い換えるならば、これは不協和音や不快な音響としてのノイズと、快い音響の整然たる形式美による音楽という古典的な二分法だ。最後の深読みは「ノイズとしての音楽」または「音楽としてのノイズ」で、「/」は等号に近い意味を持つ。前者の場合、音楽はノイズに内包される。後者の場合、ノイズは音楽に内包される。

 もう少し「/」の問題にお付き合い願いたい。本書のタイトルが示唆するふたつの事物の関係性(ノイズ/音楽)について考えているうちに思い出されるのがジョン・ケージと同時代のアメリカの作曲家、モートン・フェルドマン(1926―87)だ。キルケゴールの「あれかこれか(Either Or)」を模して「あれでもこれでもない(Neither Nor)」という立場をとったフェルドマンは、一見ノイズとは対極に位置する微弱な音のゆるやかな推移を主体にした作風で知られる。彼自身はノイズを用いた音楽を作曲することはなかったが、新たな音響素材としてのノイズの重要性をエッセイなどで論じ、ノイズをいち早く自作にとりいれたエドガー・ヴァレーズを礼賛した。フェルドマンは音量や音質といった即物的な次元ではなくて、因習打破や実験性の象徴、音楽における時空間の新たなあり方の探求例としてノイズおよびヴァレーズに一種のシンパシーを感じていたのではないかと考えられる。このようなフェルドマンの思想と実践とのパラドックスがノイズをめぐる議論の複雑さ、厄介さ、そしておもしろさだ。ノイズとは音量だけの問題のみならず「静かなるノイズ」もおおいにあり得る。それは実際の音響としてではなく、メタ的なノイズとして立ち現れる。

 以上のように、「/」は本書の論述スタイルを体現する記号だと見なすことができよう。その多様な解釈の可能性と、アドルノの否定弁証法を彷彿させるレトリックによって、へガティは13の視点からノイズ/ミュージックを論じている。ノイズの歴史的背景は「1 はじまり」と「2 テクノロジー」で概観されている。第3章以降は「フリー」や「インダストリアル」など、ノイズを語る上でのキーワードにまつわる各論を展開している。

 著者自身が「序」で述べているように、本書は基本的に理論書の体裁をとるので、個々のミュージシャンやジャンルについて普く言及しているわけではない。また、原書の出版が2007年ということもあり、ノイズ音楽の最新動向を捉えているわけでもない。とはいえ、その対象はダダやシュルレアリズム、ケージらによる実験音楽、ミュージック・コンクレートにはじまり、ロック、パンク、プログレを経て、フリー・ジャズおよびフリー・インプロヴィゼーション、インダストリアル、ノー・ウェイヴ、ヒップホップ、エレクトロ、グリッチ、サウンド・アートまでを守備範囲とする。

 一般的には「ノイズ」にカテゴライズされることはあまりないミュージシャンの名前もたくさん出てくる。「3 フリー」ではデレク・ベイリーやオーネット・コールマンの思想と実践がアドルノの退廃音楽論と絡めて論じられている。ロックおよびパンクにかんしていえば、「6 不条理」にてセックス・ピストルズ、PiL、クラス、DNAが虚無主義や資本主義経済との関係性から語られている。彼らの活動に根底にある疎外や反逆性は概念としての「ノイズ性(noisiness)」にとって不可欠な要素である。

 もちろん、スロッビング・グリッスル、ホワイトハウス、ノイバウテン、ザ・スワンズ、SPK、ライバッハといった、いまとなってはその筋の大御所も大々的にとりあげられている。彼らについて、あるときはバタイユの倒錯的な美学とともに、また、あるときはフーコー的な権力とともに語られている。著者によれば、彼らの音楽は「因習的なキリスト教的、芸術的、道徳的、資本主義的思想や生き方への徹底的な批判」をその本質的な要素とする。これらの音響的な具現化がインダストリアル、ひいてはノイズ音楽全般に通底しているともいえるだろう。この議論の延長で、「8 パワー」の後半にてヒップホップ、とくにパブリック・エナミーに言及しているのは非常におもしろい。サンプリングとDJイング、つまりテクノロジーが音による暗示を可能にし、権力への抵抗と運動への動員を喚起する。インダストリアル・ミュージックにもカットアップやサンプリングが用いられるが、どちらかというと虚無主義や倒錯的な色合いが強い。両者には共通する要素がいくつかあるものの、この点にヒップホップとインダストリアルとの概念上の違いを見出すことができるだろう。

 本書のなかでとりわけ目をひくのが「9 ジャパノイズ」と「10 メルツバウ」の章だ。「ジャパノイズ」の章はもっとも紙幅が割かれている。「ジャパノイズ」の章では、日本のノイズ音楽およびそのシーンの特異性ではなく、むしろそれがいかにコロニアリズムやワールド・ミュージックの文脈、そして日本という特異性とは無関係であるかを論じることが目的とされている。しかしながら、「ジャパニーズ・ノイズが禅であるとすれば、それは〈緊縛〉でもある」というくだりなどを見ると、「日本」という特異性にやや引っ張られている感も否めない。そして、この問題は「ジャパノイズ」という呼称が日本のノイジシャンたちから不興を買う傾向にあることとも通じているのではないだろうか。

 終章「13 聴取」は短い章だが、「聴取なしには音もノイズも沈黙も存在し得ない。」というケージの考えを端緒として、デリダのいうところの、差延としてのノイズと音楽の間の差異化のダイナミズムをとおして本書全体を総括しようと試みる。音を発することよりも聴くことと聞くこと、もっといえば聴き従うことによってノイズは様々な意味や場所の間を常にぐるぐる変転している。円環状のイメージを頭に描きながらこの章を読んだ。

 本書では、著者から読者へのエクスキューズなしに、実際の音響現象としてのノイズ──楽音ではない音、いわゆる爆音、不快な音、不協和な音──と、メタファーや表象としてのノイズ──異端、異物、否定、禁忌など──とが使いわけられている。自分が読んでいる箇所の「ノイズ」ははたしてどちらなのか、読者は常にその判断を迫られる。ここでミスリードを犯してしまうと、そこに書かれている事柄がいまいち判然としない。これが本書を読む上での最大の困難さであろう。次々と出てくる固有名詞の応酬よりも、その「ノイズ」がいったいどの次元でのノイズなのか? レトリックに足元をすくわれることなく、冷静に読み進めてみると、「ノイズとはなんたるか」がいたるところで明言されていることに気付く。まるで著者によるマニフェストのようだ。だが、そういう場合でも、前後の文脈をよくたしかめる必要がある。それは肯定なのか、否定なのか。そして否定の否定なのか。

 たとえば「9 ジャパノイズ」の章では、ノイズにおける自己の喪失と他者性という大仰な議論が展開されている。そこではノイズは次のように位置づけられている。「またしても、ノイズは破綻する運命にあり、ノイズとはこのような破綻であり、だがまるで破綻しないかのように見せかけ、残滓として破綻のなかに生き続ける」と。これはかつてのアングラ演劇にでも出てきそうな科白だ。この場合の「ノイズ」はカタストロフ的な音響現象としての、そして自己の消失と破綻の表象としてのノイズという両側面を有する。このような調子でノイズのあり方が様々なかたちで語られている。ノイズとはなんたるかがひとたび明言されると、その言説は途端に破綻し、さらなる新たな問い「ノイズとは?」が生じる。この雲をつかむようにすり抜ける無間地獄が本書を覆っている。

 本書が参照しているジャック・アタリ『ノイズ:音楽/貨幣/雑音(Bruits: Essai sur l'économie politique de la musique)』がフランスで刊行されたのは1977年(邦訳の初版は1985年)。アタリの『ノイズ』は本稿でいうところのメタファーとしてのノイズ論の先駆けであり、どちらかといえば経済学、思想史、文化史の色合いが強い。ダグラス・カーンの『ノイズ ウォーター ミート:芸術におけるサウンドの歴史 (Noise Water Meat: A History of Sound in the Arts)』が1999年に刊行されたのを皮切りに、ノイズやサウンド・アートにまつわる本格的な書籍が続々と世に出はじめた。最近はデヴィッド・ノヴァクの『ジャパノイズ:流通の際(きわ)にある音楽(Japanoise: Music at the Edge of Circulation)』(2013)が日本のノイズに特化したフィールド調査と考察による書籍として話題となった。

 ここに挙げたのはごく一部にすぎないが、ノイズにまつわる音楽論や音楽史が、この10数年のあいだで確実に「きている」感じがする。とくに日本のノイズ音楽には大きな関心が向けられている。話はそれるが、去年、筆者がモロッコのジャジューカ村に行った際、UKやアイルランドの音楽愛好家とメルツバウ、非常階段、インキャパシタンツ、アシッド・マザー・テンプルの話をしておおいに盛り上がった。ここは時流に乗って、日本の書き手も何かやらかさないといけない(すでに日本のノイズ本が何冊か刊行されているが)。昨今のノイズ本の興隆から、筆者は漠然とそんなことを考えている。

 本書は一般的な音楽書というよりも、思想書や哲学書と位置づけた方がよいのかもしれない。もちろんインダストリアル・ミュージックなど、ジャンルとしての「ノイズ音楽」にも言及しているが、よくよく考えてみると、20世紀以降に生じたほぼすべての音楽と、音楽および芸術にかかわる事象を扱っており、本書が対象とする音楽は幅広い。逆にいえば、ノイズを志向しない音楽、つまり冒頭に引用したカウエルの言葉を借りるならば、ノイズの細菌を含まない音楽などありえないのだ。

interview with Richard H. Kirk (Cabaret Voltaire) - ele-king

 1970年代末、スロッビン・グリッスルとともにノイズ・インダストリアルの代表とされていたのがキャバレー・ヴォルテールだった。僕は、しかし、SPKと出会うまでノイズ・ミュージックに価値を見出せることはなかった。キャバレー・ヴォルテールも初期はどこがいいのかさっぱりわからなかった。『レッド・メッカ』(81)や「スリー・マントラス」(80)が面白くないとはとても言い出せない空気のなか、そのようなものがやたらと持ち上げられていた1981年がしぼみはじめ、やがてブリティッシュ・ファンク・ブームがやってくる。それを逸早く察知したかのように〈ヴァージン〉がディーヴォやDAFをフィーチャーした『メソッド・オブ・ダンス』というコンピレイション・シリーズをリリースしはじめ、「踊るニューウェイヴ」の時代がやってくる。ノイズ・グループだと思われていたキャバレー・ヴォルテールが『2×45』(82)をリリースしたのは、そのようなタイミングだった。それはニュー・ロマンティクス(それはそれでよかったけど)とはまったく違う雰囲気で、ノイズ・インダストリアルに分類されていたミュージシャ……いや、ノイジシャンたちが『ファンキー・オルタナティヴ』というコンピレイション・シリーズをリリースしはじめる5年も前のことだった。『2×45』に続いて80年代中期に〈ヴァージン〉からリリースされた『ザ・クラックダウン』(83)、『マイクロフォニーズ』(84)、『カヴァナント、スウォード・アンド・ジ・アーム・オブ・ザ・ロード』(85)の再発を機にリチャード・H・カークに話を訊いた。

E王
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The Crackdown

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The Covenant, The Sword and the Arm of the Lord

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シェフィールドはおどろおどろしく淀んだ感じでたくさんのビルがあった。世界大戦のダメージも残ってた。しかし、都市部を抜けて10分もすると美しい田園風景がひろがっている。そして、君はそこでたくさんのマジック・マッシュルームを見つけられると思う。

ちょうど40年前(73年)にシェフィールドで結成したそうですが、最初からキャバレー・ヴォルテールを名乗ってたんですか? また、3人はどうやって知り合ったんですか?

リチャード・H・カーク(以下、RHK):1973年あたりに活動を始めたんだけど、キャバレー・ヴォルテールを名乗ったのは75年からなんだ。というのはそのとき初ライヴがあって、そのために呼び名が何かしら必要だったからね。
 もっと熱心なヤツもいたんだけど、まわりの友だちの何人かがクリスを学校の頃から知ってたから、僕らは当時の夏、一緒にインターレイルでヨーロッパに行ったりしたんだ。クリスはいくつかベーシックな録音機材を、僕が4トラックのテープレコーダーを持ってて、それからエレキ用のピックアップ付きクラリネットも手に入れた。僕らは実験的にクリスの家のロフトで音楽を作りはじめた。それから何人かがやってきたりしたんだけど、数年前からちょっと知ってた(ステフェン・)マリンダーに一緒にやらないかと誘ったんだよね。そのときが、キャバレー・ヴォルテールとして後に知られる、きちんとしたユニットが出来た瞬間だった。

ダダ運動に興味を持ったきっかけを教えて下さい。ステフェン・マリンダーによればウィリアム・S・バロウズとブライオン・ガイシンの影響でカット・アップやテープ・ループをはじめたそうですが、ということは『レッド・メッカ』(81)までの作品にはブライアン・ジョーンズの『ジャジューカ』(71)が多少なりとも陰を落としていたのかなと思えてしまいます。

RHK:ダダ運動に魅かれたのはそのコンセプトがアートと戦争にあったから。そこではそれまでにあったアートをいったん解体し、何か新しいものに置き換えようとしていて、僕らはサウンドや音楽に対してそれと同じことをやろうとした。
 ステフェンがバロウズやガイシンに関して言ってるのもすべて正しいというわけではない。キャバレー・ヴォルテールは、彼らのことを知る前にすでにカットアップやテープ・ループを取り入れている。もちろんこのようなことを誰かがすでにやってたというのを聞いて鼓舞されたところがあった。多くの部分を学ばせてもらったから、彼らのことを知れたのは実に嬉しかった。
 キャバレー・ヴォルテールのなかで最初にバロウズの本を買ったのは、僕だ。シェフィールドにある本屋で『裸のランチ』を注文したのさ。それはもう驚愕だったよ、まったくパワフルな本だった。それに当時、僕は画像や文章を使ってカット・アップやコラージュをやってて、それが最終的にいくつか初期キャバレー・ヴォルテールのジャケットになったりもした。ダダイズムの創始者トリスタン・ツァラも紙袋に書いてある文字をランダムにピックアップして、それを詩にしたりしてたし、それは1915年あたりかな? たぶんガイシンがカット・アップをやりはじめる50年くらい前だ。
 『ジャジューカ』のことは知ってたし、ちらっと聞いたこともあるけど、アルバムをちゃんと手にしたのは1982年になってからなんだ。つまり『レッド・メッカ』のあと。しかし東洋の音楽にはつねに興味を持ってたね、トランスチックなエフェクトの感じが好きだったから。

時期的に見てグラム・ロックにもパンク・ロックにも影響されなかった音楽性のままラフ・トレードからデビューしたということになります。実際にそうなんでしょうか? 70年代に、同時代的に気になっていたミュージシャンがいたら教えて下さい。「ウエイト・アンド・シャッフル」などはザ・ポップ・グループを思わせます。

RHK:僕はデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックのファンでもあったし、いくつかのパンク、ポストパンクも、そのなかにはザ・ポップ・グループも含まれてるけど、たしかに気に入って聴いていたね。だけど「ウエイト・アンド・シャッフル」が彼らみたいに聴こえるんだったら、たぶんそれは彼らもマイルス・デイヴィスやダブ、フリー・ジャズといった僕らと同じ音楽に影響されたからだろう。僕らは通常のアーティストの真似はしない。影響ということで言うと、いつも過去や未来のものに目を向けてる。

なぜ、スタジオに「ウエスタン・ワークス」と名付けたんですか? また、シェフィールドのいい点と悪い点をひとつずつ上げて下さい。

RHK:スタジオのあったビルが古い工業用ビルで、そこが「ウエスタン・ワークス」という名前だった。それをそのままスタジオの名前にした。シェフィールドに関して言えば、当時が、ちょっとおどろおどろしく淀んだ感じでたくさんのビルがあったし、まだ第二次世界大戦のダメージも残ってた。しかし、都市部を抜けて10分もすると美しい田園風景がひろがっている。そして、君はそこでたくさんのマジック・マッシュルームを見つけられると思う。

ははは。『ザ・ヴォイス・オブ・アメリカ』(80)の裏ジャケットに機動隊の写真が2点も使われているのはなぜですか?

RHK:僕が。『ザ・ヴォイス・オブ・アメリカ』のアートワークを作った。当時(それにいまも)僕らが生きている世のなかにある権威主義的な感じがうまく出てる、この種の写真を使うのがふさわしいと思った。

『レッド・メッカ』はさまざまな意味で転機となった作品だと思いますが、タイトルはイランで起きたホメイニ革命と関係があるんですか? 『スリー・マントラ』から『2x45』にかけてアラビア風の旋律が頻出するのは誰かの影響ですか?

RHK:先ほども言った通り、僕は東洋の音楽、また東洋社会と西洋社会の違いにはつねに気を払っていて、だから“ウエスタン・マントラ”や“イースタン・マントラ”(*この2曲で『スリー・マントラ』は構成されている)のような曲に行き着いたわけさ。このふたつのカルチャーがじきにぶつかるだろうという予想が実際に現実になったのが1979年だった。ホメイニ革命が、のちに911/2001年のニューヨークのツインタワー爆破まで続くイスラム原理主義のスタート地点だった。それからアメリカで右派キリスト教原理主義者の存在がより浮き彫りになった。実際、このふたつのカルチャーは極めて似通ったもので、アメリカ政府が当時のソビエトと戦うために、アフガニスタンでビン・ラディンのムジャヒディーン/アルカイーダの訓練、資金援助、武装化を行ったんだから、当然といえばそうなんだけど。

『2x45』は明らかにダンス・レコードを意図した最初の試みですが、何がきっかけであそこまで振り切れたんでしょう。当時は本当にショックで、立体ジャケットが破けるまで何度も何度も聴いてしまいました。

RHK:『2x45』はよりダンサブルなレコード作りへシフトした最初の作品だった。大きな方向転換でもなく、単に進化していっただけだね。君がいま僕らの初期の作品を聴いてくれたらきっとダンス出来ると思うし、それらでもたいていループを使ってるからね。

〈ファクトリー〉からリリースされた「ヤッシャー」(83)はオリジナルのほうがぜんぜんよくて、ジョン・ロビーのリミックスはあまりいいとは思いませんでしたが、「ドント・アーギュー」(87)でまた顔合わせしているということは、ニューヨーク・スタイルからもそれなりに得るものがあったからですか? ニュー・オーダーの「ブルー・マンデー」がやはり同じ年にアーサー・ベイカーの方法論を取り入れていたわけですけど。

RHK:僕らはニューヨークのエレクトロには大きな影響を受けている。ジョン・ロビーは、アーサー・ベイカーとともに、その中心人物だった。彼が“ヤッシャー”をリミックスさせてくれないかと尋ねてきたとき、それはすごいアイデアだと思ったものだよ。たしかに君の言うように、オリジナルよりよかったというわけじゃないけど(リミックスっていうのは往々にしてそうなんだけど)、しかし、まったくの別もので、僕らが現状から一歩前に踏み出せたということ、おかげであらためて自分たちのミックスや音楽の聞かせ方と向き合うことが出来たわけだから。

『ザ・クラックダウン(=弾圧)』に「The」が付いているということは、何か特定の事件があったということですか? また、ダンス・レコードであるにもかかわらず、このような不穏なタイトルをつけたのはぜですか? まるでレイヴ・カルチャーを先取りしたようにさえ思えてしまいますが。

RHK:この当時の政治をとりまく情勢は抑圧的なものだった。イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、右翼勢力が僕たちを弾圧していたようなものだった。

『ザ・クラックダウン』以降、観念的な音楽性がすべて消え去って、官能的なダンス・ミュージックに純化されていくということは、クリス・ワトソンがひとりで観念的な部分を担っていたように見えますが、そのような理解でいいでしょうか。あなたとマリンダーはフィジカルな音楽がやりたかったと?

RHK:その見解は正しくはない。キャバレー・ヴォルテールには“担当”はないし、僕たちは何かにおいてリーダーというものを置かなかった。バンド自体は僕とクリスではじめて、あとからマリンダーが加わったものだけど……。この3人のグループはともにダンス・ミュージックをエンジョイしていた。けれど、当時は真剣にそれに打ち込んでたわけではなかったね。クリスが1981年に去ってからは、僕たちは自分らの音楽をもっとダンスフロア仕様にしようと決めた。彼と一緒にやっていた頃のようなモノをまた繰り返すことはしたくなかった。あらたに考えながら一歩前に進み出した瞬間だった。

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僕は本当に、イラク戦争や大切な古代遺跡の破壊には反対していた。目的もなしに、それも誤った情報のもとに行われたんだよね。結局大量破壊兵器なんて見つからなかったし、イラクはいまや以前よりもっと危険なところになってしまった。

『コード』(87)で初めて外部からプロデューサーを入れたのはなぜですか? あまり必要だったとは思えないのですが。『マイクロフォニーズ』(84)から『コード』まではファンクとインダストリアルのどちらに比重を置くかで延々と葛藤が続いていたようにも思えたので、その結論をエイドリアン・シャーウッドに委ねたとか、そういうことでしょうか。

RHK:『コード』に関しては、実はエイドリアンが参加する前にほとんどの形は出来上がってたいた。EMI/パーロフォンとの契約後、自分らのスタジオを24ch仕様にアップグレードし、そして、プロデューサーの起用も決めた。ポップスのフィールドではない人間を起用したかった。
 エイドリアンは一緒にやるにはとてもよいプロデューサーだった。ダブやレゲエにも相当詳しかったから、参加すると面白くなるかなと思ったんだ。彼はシェフィールドに来てくれて、僕らと一緒に作業をしたあと、ロンドンのスタジオでミックスした。すごくいいサウンドのアルバムに仕上がっているよ。僕らのアルバムではいちばん売れたんじゃないかな。ちなみに僕らがEMIと契約した当時、EMIは世界で10番目に大きな武器製造会社でもあった。冷戦が解けて黙示録を迎えたら、我々は兵器類を安く買えるかもなどと言い合ったものだよ。

シェフィールドから出てきたフラ(Hula)やチャック(Chakk)はキャバレー・ヴォルテールが育てた後輩ということになるんでしょうか。レコード制作ではマーク・ブライドンやマーク・ギャンブルがイギリスではハウス・ムーヴメントを先導したように見えるので、どういう関係だったのか気になります。

RHK:キャバレー・ヴォルテールは本当にたくさんのフォロワーを生んだよね、シェフィールドのなかだけじゃなく。チャックは僕らのスタジオで「アウト・オブ・ザ・フレッシュ」を録音し、それを僕らのレーベル、〈ダブルヴィジョン〉からりリースした。この作品がチャックをMCAのレーベル契約へと導いたんだ。それにフォン・スタジオ(Fon Studios)も誕生し、そこからいくつかの初期UKハウスが生まれた場所として知られることになった。その後、マーク・ブライドンやロブ・ゴードン(Fon Force)と『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』(90)で何曲かトラックを一緒にやったし、ロブ・ゴードンともゼノン名義で一緒にレコードを作った。

サンプリング・ミュージックは現代のダダイズムだと思いますか? それともまったく別物?

RHK:サンプリング・ミュージックは、とくにヒップホップはカットアップ・テクニックのほうに繋がってると思うよ。ダダイズムというよりはむしろね。

『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』で決定的に変わったのはベース・サウンドでしたが、それがハウス・ミュージックから学んだいちばん大きな影響ということになりますか? 曲によってはかなりファンキーで、テン・シティまで参加しているし、キャブスだと思えなかった人も多かったと思います。『ボディ・アンド・ソウル』(91)や『カラーズ』(91)では同じハウスでもストイックな曲調に戻っているので、あれはやはり一時の気の迷いということなのか。

RHK:『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』は、僕にとってキャバレー・ヴォルテールのアルバムのなかではお気に入りにはならなかったね。ホントに多くが外部からの影響でキャブスのサウンドが薄まってしまった。しかしながらマーシャル・ジェファーソンや当時のシカゴのハウス・ミュージックのパイオニアたちと一緒に出来たのは素晴らしい経験だった。アルバムと一緒に出した5曲入りのいい感じのアナログEPもあったよね。それらはウエスタン・ワークスでミックスされたから、キャバレー・ヴォルテールらしさが出てると思う(*アナログ初回のみに入っていた『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティEP』のこと)。

ちなみにレイヴ・カルチャーのことはどのように受け止めていたのでしょう。

RHK:レイヴ・カルチャーはその初期は面白かったけど、すぐに商業的になってしまったよね。

また、『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』(90)までキャブスがフォン・スタジオを使わなかったことや、〈ワープ〉から別名義でのリリースはあってもキャブス名義のアルバムをリリースしていないことも不思議に思います。『プラスティシティ』(92)や『インターナショナル・ランゲージ』(93)は〈ワープ〉のカラーにもピッタリ合っていたと思うのですが。

RHK:実はちょっとだけ『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』のときにフォン・スタジオを使ってるんだよね。「ザ・カラーEP」は当初〈ワープ〉からリリースの予定だったんだけど、結局自分らのレーベルからリリースすることになって、『プラスティシティ』や『インターナショナル・ランゲージ』も同様だった。これらのアルバムは当時からホントすごいアルバムだったし、その時代にたくさん出てた〈ワープ〉の作品とも相性が良かったと思うよ。

DJパロットとのスウィート・エクスソシストはどのようないきさつではじめたのですか?

RHK:パロットのことは、80年代半ばのシェフィールドのクラブシーンで知ったんだ。ウエスタン・ワークスに彼を誘って、僕がやっていた初期ハウス・ミュージックのトラックをいくつか手伝ってもらってたんだよね。そのちょっと後、彼がファンキー・ワームをはじめて、そのプロジェクトを終えてから、僕に「テストーン」を一緒に作らないかと誘ってきたんだ。その前、1986年に僕がキャバレー・ヴォルテールのライヴで彼にDJをやってくれるように頼んでたりもしたし。

「ヤッシャー」(83)や「ジャスト・ファッシネイション」を20年後にリミックスしているのは、やはり愛着がある曲だったからですか? リミックスがジ・オール・シーイング・アイ(=DJパロット)というのはわかりますけど、オルター・イーゴにリミックスさせるというアイディアはどこから? ジョン・ロビー同様、オルター・イーゴもあまりいいリミックスには思えませんでしたが……

RHK:オルター・イーゴのリミックスは〈ノヴァミュート〉からの提案だったんだ。僕はいいと思うけどね、(オリジナルとは)全く違うものだし。

同じく自分でリミックスを手掛けていた「Man From Basra Rmx」というのはイラク戦争と何か関係があるんですか? 

RHK:それはその通り。それにこの曲はプリンス・アラーとタッパ・ズッキー(*ともにルーツ・レゲエのアーティスト)による「Man From Bosrah」にも掛けてたんだ。僕は本当に、イラク戦争や大切な古代遺跡の破壊には反対していた。目的もなしに、それも誤った情報のもとに行われたんだよね。結局大量破壊兵器なんて見つからなかったし、イラクはいまや以前よりもっと危険なところになってしまった。

キャブスのスリーヴのデザイナーは、ネヴィル・ブロディ、ポール・ホワイト、デザイナー・リパブリックと一流どころが揃っていますけど、個人的にいちばん好きなデザイン・ワークはどれですか?

RHK:とくに好きなものはないね。しかし『#8385』(*今回、再発された3枚のアルバムを収録したボックス・セット)の新しいデザインはなかなかいいんじゃないかな。

いま、現在、ライヴァルだと思うミュージシャンは誰ですか?

RHK:ライヴァルはいないよ。

キャブスの活動停止後、30以上の名義を使って活動されていますが、その理由について教えて下さい。

RHK:過去にとらわれることなくオリジナルな音楽を作って行くためにやったことさ。

最後に、キャブスの再活動についてお話いただけますか?

RHK:キャバレー・ヴォルテールは“再活動”はできない。何故なら、いままでいちども活動をやめたわけではないからだ。つまり、メンバーが去って行っただけさ。クリス・ワトソンが1981年に脱退し、ステフェン・マリンダーが1993に脱退した。いまでは僕がただひとりのメンバーで、もっと多くのライヴやレコーディングもこれからやっていくと思うけど、懐かしい曲はやらないつもり。すべては新しいものになると思う。
 是非日本でもまたライヴしたいね。1982年の東京、大阪、京都でのキャバレー・ヴォルテールのライヴはすごくいい想い出でいっぱいで、それにライヴ音源を収録したんだ。結局そのライヴ・アルバムのミックスでその後3週間も東京にいることになったけど(笑)。

*日本でのライヴを収録した『ハ!』はマスター紛失のため、91年にミュートから再発されたものは、いわゆるアナログ起こしだったりする。ちなみにツバキハウスでライヴを終えたキャブスはその後、六本木のクライマックスに現れ、ナンパしまくりだったと(その時、DJをやっていた)メジャー・フォースの工藤さんが教えてくれた。そりゃあ、いい想い出でいっぱ……(後略)

E王
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