Home > News > RIP > R.I.P. Abdul Wadud - 追悼:アブドゥル・ワドゥド
ジャズ・チェロ奏者、アブドゥル・ワドゥドが亡くなった。ネオ・ソウル系シンガー、ラヒーム・デヴォーンの父であり、メアリー・ハルヴォーソンやジェイミー・ブランチらとの共演でも知られる現役チェロ奏者トミカ・リードから深い敬愛を受ける才人である。
1947年4月30日オハイオ州クリーヴランド生まれ(アルバート・アイラーやトレイシー・チャップマンと同郷)、出生名は Ronald Earsall DeVaughn。12人兄弟の末っ子で、両親も含めて一家の誰もが音楽好きだったという。少年の頃にサックスをはじめ、やがてクリーヴランド管弦楽団の奏者にチェロを師事。オバーリン大学在学中に改宗し、3人組ユニット “ブラック・ユニティ・トリオ” で頭角を現した。72年にはセントルイスに赴き、BAG(ブラック・アーティスツ・グループ)の一員だったサックス奏者ジュリアス・ヘンフィルと親交を結んでいる。同時期に録音されたのが、ヘンフィル畢生の名盤『ドゴンA.D.』。縦横無尽の弓さばきと指さばき、ソリストとリズム陣を結びつけるグルーヴの魔術的な粘り。それはもう、この時点で完成の域にある。
筆者が彼の名前を最初に知ったのは1977年、いわゆる「ロフト・ジャズ」が話題を呼んだ頃のことだ。もっとも後年、トランペット奏者のオル・ダラ(ラッパー、NAS の父)に当時の状況を尋ねたら「ロフト・ジャズは実体のない言葉。ブームと呼べるものも何もなかった」とニベもなく言われたものだが、ただ日本のジャズ雑誌でもロフト・ジャズ関連の記事はよく取り上げられていたし、関連アルバムのリリース点数も明らかに増えた。ベイ・シティ・ローラーズや、あとにはアレサ・フランクリンやホイットニー・ヒューストンで大ヒットを飛ばす〈アリスタ・レコーズ〉まで参画したのだ。オル・ダラがどうあれ我が頭の中には、クロスオーヴァー~フュージョン/AORに対するニューヨーク・パンク/ロフト・ジャズという図式が拡がっている(このあたりのむちゃくちゃエキサイティングな流れに対する推論は、ほんの少しだが、昨年9月に元ザ・スターリンのイヌイジュン氏が主宰したイベントで、行川和彦氏や野々村文宏氏と語った)。アブドゥル初のリーダー作である無伴奏ソロ・アルバム『バイ・マイセルフ』は77年に登場。リロイ・ジェンキンス、アンソニー・デイヴィス、ジェイムズ・ニュートンなどと残した、室内楽的滲みをたたえた諸作も、こたえられない魅力を持つ。
ところでジャズ界に用いられるチェロにはふたつの流れがある。ひとつはベース奏者オスカー・ペティフォード(1950年頃、野球で怪我をし、入院中にチェロをはじめた)からはじまるもの。調弦をベースの1オクターヴ上に変え、指弾きで演奏する。サム・ジョーンズ、レッド・ミッチェルなどもこのアプローチをとっている。もうひとつはチェロをチェロ本来の調弦で弓弾きするやり方。筆者の知る限り50年代のカロ・スコット(キューバ出身)、チコ・ハミルトン・クインテットの奏者(フレッド・カッツ、ネイサン・ガーシュマン)がこちらだった。ロン・カーターはジャズ・ベーシストとして大成するが、少年の頃はクラシックのチェロ奏者を志しており、ジャズ界入りしてからもエリック・ドルフィー『アウト・ゼア』などでチェロの弓弾きを聴かせている。ロン以降アブドゥル以前の逸材にはデイヴィッド・ベイカー(元トロンボーン奏者だが、事故でアゴの骨を折ってチェロに転向)がおり、アブドゥルとともにロフト・シーンで活躍した世代にはムニア・アブドゥル・ファター、ディードレ・マレイがいる。60~70年代にピックアップやアンプが発達したことも、ジャズ・チェロ奏者に大きな可能性を与えたことだろう。うねるような弓弾き、ベーシストばりの指弾きウォーキング・ベース、立ち上がり鋭いコード(和音)、スラップ奏法的なアプローチまで、ベースやギターのパートもおそらく視野に入れながらアブドゥルは突進した。残念ながら92年に演奏活動から退いてしまったが、83年にはアーサー・ブライス・クインテットの一員として来日している。
現在入手しやすいのはヘンフィルの『ドゴンA.D.』『ザ・ボイエ・マルチ・ナショナル・クルセイド・フォー・ハーモニー』、ロフト・シーンを現場録音で捉えたオムニバス『ワイルドフラワーズ』ではないかと思われるが、アーサー・ブライス『メタモルフォシス』、白石かずこ『死んだジョン・コルトレーンに捧げる』でのプレイも鬼気迫る。再評価必至のチェロ奏者だ。
原田和典