「Noton」と一致するもの

ビール・ストリートの恋人たち - ele-king

She's just like you and me (彼女はあなたや私と別に変わらない)
But she's homeless, she's homeless (だけど彼女はホームレス、彼女に家はない) ──クリスタル・ウォーターズ『ジプシー・ウーマン』1991

 #OscarsSoWhite(アカデミー賞は白人ばかり)というハッシュタグが出始めてから少なくとも3年は経っていますが、さてそれから今までの間に何があったか。と雑に思い出すとまず『ムーンライト』が2017年2月に米アカデミー賞で作品賞を獲って狼煙が上がり、『ドリーム(原題 “Hidden Figures”)』『ゲット・アウト』『ブラックパンサー』『クリードⅡ』『クレイジー・リッチ!(原題 “Crazy Rich Asians”)』などの「非白人がメイン」である映画がでかいヒットを飛ばしたのち、2019年2月のアカデミー賞はさてどうなったか。

 『ムーンライト』を監督したバリー・ジェンキンスの新作『ビール・ストリートの恋人たち』は今年のアカデミー賞ではレジーナ・キングが助演女優賞を受けたものの、ノミネートは他に作曲部門と脚色部門のみで、混戦と評された賞レースの中では実にひっそりとした佇まいだった。ジェイムズ・ボールドウィンが1974年に発表した同名小説を原作とした映画『ビール・ストリートの恋人たち』の主人公はニューヨーク、ハーレムに暮らす若い男女のカップル、ティッシュ(キキ・レイン)とファニー(ステファン・ジェームス、2016年制作の長編『栄光のランナー』(1936年、ベルリン、原題 “Race”)で主演)。2人はもともと幼馴染で、19歳のティッシュはデパートの香水売り場で店員として働き、22歳のファニーは独学で彫刻を制作している……言ってみればアーティスト志望のプー太郎。ティッシュの家族はファニーとの交際を受け入れているが、ファニーの(父親を除く)家族はそうではない。

 物語内の時間構成はやや変則的で、映画の中の「現在」におけるファニーは既に強姦罪の容疑で逮捕・収監されており、ガラス越しに面会にやってくるティッシュはファニーとの子供を妊娠している。ファニーの冤罪を晴らすべくティッシュと彼女の両親が文字通り駆けずり回るシーンと、2人が交際を始めた時期の情景が交互にスイッチバックするのだが、とりわけ印象的なのが逮捕前に2人で住むための物件がさっぱり見つからなかった諸々のエピソードである。若い黒人女性であるティッシュが一人で白人の家主に会いに行き、家が借りられそうになったところへファニー(黒人男性)が同居人です、と現れた途端にキャンセルされるとか、やっと黒人カップルでも貸すよ、と言ってくれたユダヤ人の青年に出会えたんだけど肝心の物件が住居というよりは廃工場だったり(ティッシュが「でも、一体ここにどうやって住むの?」と困惑するような物件である)で結局、何ひとつうまいこといかない。パートナーの片方が刑務所に入ってしまった「現在」から考えれば過去の家探しの詳細などどうでも良さそうなものではあるが、住む家が容易に見つからない、という現実が執拗に挿入される事により浮かび上がるのは、ある特定の属性を持った人を自由に移動させないことによって押さえつけている社会構造であり、白人の警官に目を付けられて適当な感じで立件されてしまうような行政であり、無罪を証明するために必要な作業を国が何も援助などしてくれない「70年代の黒人庶民が暮らすアメリカの日常」である。

 ファニーは快活で真っ直ぐな眼をしたハンサムな青年として描かれてはいるが、彼の彫刻作品が素晴らしいかどうか、についての評価は劇中でも曖昧にはぐらかされている。それは飛び抜けた才能を持った芸術家であるゆえの特別な受難、といったあざとい底上げを避けた結果でもあるだろうし、もっと言えばそれこそ何処にでも居そうな、ひょっとすると可能性を秘めているかもしれない若者がくだらない理由で簡単に叩き潰されてしまう社会への異議申し立てでもあるだろう。どこから文句を付けたらいいのか判らなくなるほどの理不尽がまかり通る日々を暮らさざるを得ない人々の重く、息継ぎなしのひとつながりの溜息であるかのような諦めを、『ビール・ストリートの恋人たち』は全ての事件が起こってしまった後のささやかな「ドラマ」だけを繊細に縫い合わせることによって描く。2年前、『ムーンライト』を観てその圧倒的な質感に打たれながらも、どこか現在との接続をおっかなびっくりでやっているような気配だったのが、『ビール・ストリートの恋人たち』では舞台を過去に設定することにより、バリー・ジェンキンスはこれ程までに豊穣な――スクリーン上では劇的なことなど大して起こりはしないのに――語りを引き出した。

 『ムーンライト』においてドラッグと暴力はだから何? くらいの日常として出てくる一方で、ゲイのセックスはきわめて観念的な、いわばお伽噺を構成する一要素のように扱われていた。米国のクィア黒人写真家、シキース・キャシー(Shikeith Cathey) の言葉を借りれば「ある意味、単純な映画である。(It was in some ways simple.)」

シキース・キャシーへのインタヴュー記事はこちら

 おそらくその図体がでかすぎるために鈍くて重くならざるを得ないアカデミー賞は『ムーンライト』には早々と作品賞を与えた。が同じ監督の、より軽やかで鋭敏な感覚に満ちた新作『ビール・ストリートの恋人たち』はノミネートすらされず、今年の作品賞は『ムーンライト』よりも単純な、「いろいろあるけど、実際に会ってみたらイイ奴だった(だからずっと友達だよな、俺ら)」てな感動作『グリーンブック』に与えられた。鈍くて野暮ったいものにもそれなりの役割はある。あるがしかし、『ビール・ストリートの恋人たち』の、ストリートを歩くティッシュとファニーの冒頭シーンに始まる、しびれるような映像の繊細さと、それに伴走するニコラス・ブリテル(『ムーンライト』に続きスコア担当)の淡い哀しみを帯びたサウンドトラックに静かに打ちのめされていた観客としては、「アカデミー賞、まだまだじゃね?」くらいの事は言いたくもなるのです。

                                   
『ビール・ストリートの恋人たち』日本版本予告

Reeko Squeeze - ele-king

 2010年代のシカゴではギャング同士の抗争によってイラクよりも人が死んでいることから「シャイラク」という呼称が定着し、これをミュージカル仕立てでスパイク・リーが映画化したことは『ブラッククランズマン』でも触れた通り。僕がもっとも印象に残っているのは通行人を撃ち殺していたタクシーがその合間に客も乗せながら走り続けたという記事で、フロリダに移住する前のジェフ・ミルズが高速道路でも弾が飛んでくるようになったと言っていたのはかなり生々しいものがあった。こうした抗争のサウンドトラックをなしていたのがドリルと呼ばれるヒップ・ホップのサブジャンルで、これがイギリスに飛び火したものがUKドリルとされ、やはりギャングの抗争とワンセットになっている。イギリスは銃ではなく、主にナイフによる殺傷事件が後をたたず、坂本麻里子さんによればこの二週間で5人が刺し殺されたそう。UKドリルの代表格といえるJ・ハスも一時、警察に拘束されたと伝えられ、ドリルとギャングが完全に重なっているかどうかは定かでないものの、90年代のLAでウエストサイド・ヒップホップの背景にクリップスとブラッズの抗争が横たわっていたことを思い出すなという方が無理だろう。同じく坂本さんによると、UKドリルのミュージシャンがユーチューブにアップする動画が抗争を煽っている要因とされ、かなり多くの動画が削除された上に、今後は新たなヴィデオをアップする際は、警察に内容を見せてからでないとアップできないことになったという。当然のことながら、動画規制に対しては賛否両論があり、そもそもUKドリルに対する様々な規制にも反対の声はある。音楽という表現手段を奪うべきではないし、音楽というはけ口を失った時の方が怖いという判断でもある。

 削除対象となったUKドリルのヴィデオをまとめて観ていると、言葉がわからないので音楽だけに集中することになり、どれも似たり寄ったりで悲壮感に満ちたトラックばかりだなあと思う。サウンドはことさらに暴力的ではない。むしろ冷たい感じが全体を覆っていて、サウンドに煽られて暴力的な言葉を吐き散らすというものでもない。その方が凄みが引き立つのかもしれないけれど……。本サイトで米澤くんが紹介してきたストームジーオクタヴィアンもUKドリルにまとめられるMCだけれど(つーか、ジャンル分けがそんなにはっきりしているとも思えない)、音楽性はまったくといっていいほど異なり、そもそもシカゴのドリルと違って「UKドリル」である以上、グライムやUKガラージから受け継ぐものが多く、言葉以前に音楽で惹かれるところが決定的な差だといえる。好むと好まざるに関わらずワイリーやベースメント・ジャックスの流れで聞くことも可能だし、ここ数年はドリルをモノマネだけで終わらせず、どれだけドメスティックなものに消化できるかという試行錯誤が、いわば聞きものであった。そしてUKガラージからUKファンキーが分岐したり、もっと以前にはラヴァーズ・ロックからラヴァーズ・ヒップ・ホップ(=グラウンド・ビート)が新たな道筋をつけた時と同じことが、いま、アフロビーツを得ることで新たなUKサウンドを編み出しつつあるといえるだろう。大量のクズとひと握りのジェム。クリップスとブラッズの抗争が終わりを告げたところからオッド・フューチャーが出てきたということもあるだろうけれど、UKドリルはまだどうにでもなる状態のように思える(米澤くんの今後のリポートを注視いたしましょう)。

 サウス・ロンドンからリーコ・スクイーズも3枚目となるミックステープで、アフロビーツからゴム(クワイト)を加えたスタイルへと進路を変えた。ブリーピーでソリッドな作風を確立し、3~4年前に立て続けにMOBOアワードを受賞したセクション・ボーイズ(現スモーク・ボーイズ)を脱退し、チャッキー改めリーコ・スクイーズとして2015年に最初のミックステープ『Child’s Play』をリリースし、ほとんどの曲でシンプルなラガ・ベース(バッシュメント?)とひしゃげたハットだけというシンプルな構成にスタイルを刷新し、これはいいと思わせたものの(ヤング・テフロンをフィーチャーした「Lifes A Bitch」はまるでUKガラージ版リニゲイド・サウンドウェイヴ「Biting My Nails」)、続く『Str8 Authentic(ストレート・オーセンティック)』(2016)とファースト・アルバム『#LNS(ライフスタイル・アンド・ストラッグル)』(2017)ではタイトル通り、本物志向を打ち出したがためにやや古典的と感じられたり、トラップやUKドリルのステロタイプに引きずられた感が強く、ヴァリエーションとしての面白さはあるという程度だったものが、ようやく『Child’s Play』の方向性を踏襲してくれたのが『Child’s Play 2』となる。プロデューサー陣に大きな移動はないのでリーコ・スクイーズ自身の意志で作風は変えているのだろう。セクション・ボーイズとしてマイク・ウェル・メイド~イットやドレイクともコラボレーションをする機会があったので、彼なりにアメリカ進出を射程に入れた試行錯誤だったとは思う。しかし、真っ向からロンドンに意識を向けたことで、確実にオリジナリティのある一歩が拓けたことは確か。

希望の灯り - ele-king

 ベルリンの壁が崩壊した時にはまだ7歳だったというトーマス・ステューバー監督がドイツ統一直後のライプツィヒ(旧東ドイツ)を舞台に描く『希望の灯り』。フランツ・ロゴフスキ演じる主人公のクリスティアンは研修先のスーパーマーケットでタトゥーを客に見せてはいけないと最初に釘を刺される。永遠に繰り返されるかと思うほど反復される開店の準備や毎日の労働の場面で、何度も何度もタトゥーを隠そうと袖を引っ張るクリスティアンの仕草はそれだけで順応の儀式であり、統一後のドイツに組み込まれようとする覚悟として彼の意志を伝えるものになっている。東ドイツ時代に彼はどうやらヤクザまがいの生活をしていたようなのだけれど、それについて多くは語られない。ショーペンハウアー風にいえば、どこから来たのかはわからないけれど、どこに行くかだけはわかっている。統一後のドイツとはつまり資本主義社会ということである。日本ではいま水道事業が民営化されるだけでオタオタしていたりするのに、東ドイツは統一後に国がまるごと民営化したわけで、『社会契約論』が吹き飛び「万人の万人における闘争」状態に引き戻されたような精神状態に陥ったに違いない。クリスティアンはとにかく仕事を覚えなければいけない。『希望の灯り』の前半はただひたすら夜間労働の場面が繰り返されるだけで、それだけで最後まで押し切ってしまうアート作品にならないことを祈るばかりであった。

 クリスティアンは極端に口数が少ない。何を考えているのかわからない。最初は周囲の人たちと心を通い合わせる気配もなく、彼の視点を通して得られる視界の狭さだけが印象付けられる。この映画の原題は『In den Gängen (In the Aisles)=通路にて』で、それは彼の人生がスーパーマーケットの一部に集約されていることを意味している。彼は商品を積み下ろすためにフォークリフトの操作を覚え、乱暴に運転するぐらいしか楽しみを見出せない。倉庫に置かれた水槽から魚が飛び出そうとするけれど、結局、飛び出せないシーンは彼の心象風景そのままであり、映画で使用されている音楽がスーパーマーケットで流されがちなクラシックとシュラッガー、そして労働の象徴としてのブルースだけというのも世界の狭さを畳み掛けてくる。駐車場の向こうにはアウトバーンがちらちらと映り込む。クリスティアンに仕事を教えてくれるブルーノ(ペーター・クルト)は東ドイツ時代にはトラックの運転手をしていたといい、その言い方には東ドイツ時代には移動の自由があったけれど、資本主義になった現在、彼にはそれに類する自由がないと言わんばかりの含みがある。(以下、ネタバレ)そしてクリスティアンに仕事を教え終えたブルーノは自殺してしまう。考えてみればアウトバーンも「通路」である。「通路」というのはどこかに通じているから「通路」なのに、クリスティアンたちは「通路」にいることが仕事であり、一生出られないかもしれない場所なのである。

 商品棚の向こう側には同じ店で働くマリオン(サンドラ・ヒュラー)がいる。単調な労働の日々が続くなか、彼は彼女に興味を持ち始める。「通路」に閉じ込められている同士が、そして「休憩室」で一緒にコーヒーを飲む。それだけが邦題にある「希望の灯り」となる。しかし、既婚者であり、夫から暴力を受けていると聞いたマリオンが続けて休みを取ると、クリスティアンは「通路」を飛び出して彼女の家へ向かう。この映画では唯一に近いといえるほどスーパーマーケット以外の場所がスクリーンに映し出され、ただの住宅地は別世界のように見える。そして、クリスティアンはコントロールを失ってしまうものの、その時だけが生き生きとしていたことも確かである。「東ドイツは確かにシュタージがいましたが、独裁者がいた国ではありません。いいところもあった、むしろ今よりも女性は解放されていました」とステューバー監督は語る(パンフレットより)。いま、この映画をつくる意味はノスタルジーだけではないだろう。資本主義がかつてなく肥大し、クリスティアンたちが働くスーパーマーケットがこの世界をすべて覆ってしまったとしたら、それとは違う社会システムの下で暮らしていた人たちの思い出はそれだけで現代に対する批判の要素を持つ可能性がある。邦訳はされていないようだけれど、『通路にて』を著し、ここでは脚本も手がけているクレメンス・マイヤーには『おれたちが夢見た頃』という長編小説があり、東独版『トレインスポッティング』と評されているらしい。ブレクジットやイエローヴェストで急速に可視化されつつあるヨーロッパの下層階級を小説という形でマイヤーはすでに先取りしていたのだろう。

 グローバリゼイションの時代に移動の自由を享受できない人々はもはや奴隷と変わらない。一か八かに賭ける難民たちはどっちの範疇に収めればいいのかよくわからないけれど、『希望の灯り』で描かれる人物たちはスーパーマーケットの全景さえ映されることなく、常に「通路」とセットでしか表現されない。クリスティアンとマリオンは最後にフォークリフトを操作しながら油圧装置から漏れる空気の音が「波の音」に聴こえるという。自殺したブルーノが教えてくれた秘技である。アウトバーンというのは都会から一瞬にして自然の中に戻れるようにとヒトラーが建設した高速道路であり、ドイツ人にとって本物の自然と触れ合うことは過剰なまでの意味を持っている。しかし、クリスティアンとマリオンは本物の自然ではなく、フォークリフトに海の音を聴くだけである。『希望の灯り』という邦題は少し残酷すぎるのではないだろうか。

映画『希望の灯り』予告編

 気に入っていたマグカップを割ってしまった。
 二月一二日の午後一〇時だった。机に向かったまま意識を喪失し、どれだけ時間が経ったかわからないままに目覚め、風呂に入ろうと思い立ち、部屋に引き込んでいたマグカップを朦朧とした頭で台所へ置きにいった、その矢先のことである。悲劇はたいてい意識があやふやなときに起きる。電気がついていないキッチンの暗い窓際、ガス台に乗り切らなかったマグカップは、どのように落ちたかも見えないまま転落した。指を離した瞬間、先ほどまで手のなかにあったものが支えのない空中へ落ちていくのが感触でわかった。ばりんと重たい音がして、マグカップが壊れたことを知った。
 俺はそのとき両手いっぱいに着替えと身繕いの道具を抱えて風呂場へ向かう最中だった。頭のなかでは物事の優先順位が渋滞し、一瞬何からやるべきかわからなくなる。まず両手が使えなければ破片をどうすることもできないので、風呂場へ向かい、荷物を置いてから、台所へ戻ってきて電気をつけた。湿気と埃で真っ黒く汚れた古いフローリングの上に、肉厚な陶器の持ち手部分が真っ二つに割れて落ちていた。さいわい破片がばらばらに飛び散っているわけでもなく、すぐそばに無防備に置いてあった油のびんにも損傷はなかった(油のびんが割れて中身が散乱する以上の面倒はない)。俺はしゃがんでビニール袋のなかに破片を集め始めた。面倒なので素手だ。持ち手①、持ち手②、本体。周囲にある白いものは破片なのだろうか、と思って指で触ったが、三つのうち一つが破片で、二つはよくわからないゴミだった。とりあえず全て捨てることには変わりないので、まとめて袋に入れて口を縛り、生ゴミの箱へ入れた。作業はそこで終わった。
 風呂に入りながら全てが嫌になってくるのをひしひしと感じた。大失敗したときの今すぐ消えたいような絶望感ではなく、数年後の破滅を数日かけて確信したときのような虚無感である。マグカップを割ってしまった。それなりに気に入っていたマグカップを。何の変哲もない、どこでも売っている白いだけのマグカップだが、気に入っていたのだ。俺はあのマグカップをすごく気に入っていた。使いやすくて大きさもちょうどいい、素敵なマグカップだったのだ。
 そのうえ今日は一日ろくなことをしなかった。原稿はたいして進まなかったし、本もあまり読めなかった。そのうえで気に入っていたマグカップを割ってしまった。これは収支でいえばマイナスではないか。最悪だ。おまけに明日は実入りのない用事で朝から晩まで出かけねばならない。最悪だ。明日も収支はマイナスになるだろう。毎日何かが削れて、途中でわずかな回復があったとしても、俺はどこかの地点で日々の負債を抱えきれなくなって終わるんじゃないかと思う。あーーあ。声に出してため息をつく。俺は落ち込むといつも風呂場で体育座りをしているから、タイルの形をよく覚えている。俺の家の風呂のタイルはアイボリーの正方形だ。タイルの隙間を水滴が通り、落ちた髪の毛を排水溝へ追い落とした。水垢とカビから目をそらして顔を上げるとシャワーヘッドがこちらを見下ろしている。もうだめだ、という言葉が頭のなかにポップアップしてくる。
 たかだかマグカップを割ったぐらいで……と言われるかもしれないが、こういう些細な失敗はダムの放水スイッチみたいなものだ。日々溜まった嫌な記憶を身体に満たすきっかけとしては、十分すぎるほど十分である。俺はこういうことを週一で繰り返しているからよくわかる。

 今、風呂から出て代理のマグカップ――宅配ピザ屋のおまけでもらったポケモン柄のもの、子ども向けなのでめちゃくちゃ小さい――でお茶を飲みながら、このマグカップ追悼文を書き始めた。おかしい話だが、日中うなりながらこねくり回していた文章よりよっぽど筆が乗る。おかげで少し気力が湧いてきた。いいぞ、今日が「プラス」に向かっている気がする。新しいマグカップの購入に関しては、今は金がないので次の給料日を待たねばなるまい。せっかく買うならちゃんと納得のいくものを選ばなくては。それまでこのあまりに小さなピカチュウのカップで過ごさねばならないと思うとわりと憂鬱だ。せめてでかいピカチュウのカップがよかった……。
 しかしこの「今日は収支でいうとマイナス」「プラスに向かっている」という感覚は、日常的に感じてしまうものの、よくない思考だ。一日の価値を漠然とした心の数字で測っていく行為は、もしかすると元気でハツラツとして自己肯定感の高い人にはよいやり方なのかもしれないが(俺は元気でハツラツとして自己肯定感を高く持っていたことがないのでわからない)、元気もないししなびていて自己否定の渦中にいる人間からすれば「マイナス」続きが発生した場合に徹底的に己が許せなくなる。俺はつい「「プラス」を叩き出しているから自分は許される」という感覚に身の置き所を求めてしまいがちである。ちゃんとやっているから生きてていいとか、何か成果が出せたからまだここにいられるとか、本当は何にもできなくてももちろん生きてていいし、居場所も失われるべきではないのに。世間は役立たずに冷たいが、役立たずに冷たい世間は正しくない。
「通俗道徳」という言葉がある。人間は頑張っていればまともに暮らしていける、そうできないのは頑張っていないからだ、という考え方で、少なくとも江戸時代にはすでに存在した思想の潮流だ。この流れは明治時代によりいっそう顕著になった(このあたりのことは松沢裕作『生きづらい明治社会』(岩波書店)を参照してほしい)。通俗道徳の横たわる社会ではとにかく頑張ることが美徳とされ、成功できなければ全部「当人の頑張り不足」に帰結する。お金がないんですか、怠けてるんじゃないですか? 病気になったんですか、健康管理ができなかったあなたが悪いんじゃないですか? 家族の仲が悪いんですか、親孝行していないからでは? ……全部そんなわけがない。世の中個人の努力ではどうしようもないことだらけだ。というか努力を誰でもできる行為だとみなすのも間違っていると思う。体調もメンタルも運も環境も、己の力で思うままに操れない要素であり、同時に個人の行為には常に関わってくる要素である。頑張ろうとして頑張れるのも、頑張ろうとしたって頑張れないのも、個人の能力だけで説明を完結させるべきではないはずだ。
 今でもこの社会には通俗道徳がまだ大いに生きている。頑張らなくちゃだめだ、頑張れ、頑張りましょう、頑張りに期待してるよ、うるせえいつも頑張れるわけねえだろ! マグカップが落ちて割れたのは全面的に俺のせいなのか? 午後一〇時に早くも俺の意識が朦朧としていたのは俺が前日午前三時まで原稿を書こうとしていたからだが、それは俺が銀行口座のあまりの頼りなさに恐れをなしてもっと仕事をしなければと焦っていたからだ。俺の銀行口座に金がないのはバイトの時給が安かったからであり、そのうえ先月インフルエンザになってバイトを何日も休まざるを得なかったからだ。これでもマグカップが割れたのは俺一人のせいか? 俺のバイトの時給が一五〇〇円で、俺がインフルエンザにかかっていなかったとしたら、俺はマグカップを割っただろうか?

 ……ここまで言葉にすることができても、それでも俺はまだ週一で「もうだめだ」と言いながら風呂場のタイルを見つめている。内面化した思考を取り除くのも世間の風潮に真っ向から逆らうのも容易なことではない。俺一人が考え方を変えても日々ぶつかる価値観はいつも通りきつい。俺が風呂場のタイルの模様を忘れる日はいつか来るのだろうか? そういう日を早く招くために、俺はいろんな人に言って回るようにしている。それはあなたのせいじゃないよ。

Kassa Overall - ele-king

 近年はドラマーによって新しいスタイルのジャズか否かが決まることが多く、リズム面において新しい提案があるものがジャズの新しさと結びついている。2018年もドラマー及びパーカッション奏者のリーダー作やプロジェクトで見ると、クリス・デイヴマカヤ・マクレイヴン、リチャード・スペイヴン、モーゼス・ボイドサラシー・コルワルなど、印象に残る作品が多かった。そして2019年も早々から魅力的なドラマーのアルバムが登場している。
 ニューヨークを拠点とするドラマーのカッサ・オーヴァーオールは、これまで日本ではあまり知名度はないが、アート・リンゼイに見いだされて彼の『ケアフル・マダム(Cuidado Madame)』(2017年)に参加し、その後の2018年秋の日本公演にも同行している。近年ではトランペット奏者のテオ・クロカーの『エスケープ・ヴェロシティ』(2016年)にも参加していたが、それ以前ではジェリ・アレンやケニー・デイヴィスらと組んだタイムラインというグループで活動し、ピアニストのヴィジェイ・アイヤーなどジャズ・ミュージシャンとセッションする一方で、トゥースペーストというヒップホップ・ユニットを組んでいたこともある。ジャズもやればヒップホップもやるというのはクリス・デイヴやマカヤ・マクレイヴンと同じで、ドラマーのほかにラッパー/スポークン・ワード・アーティストという顔も持つ。『ケアフル・マダム』において現代的なビート感覚の導入に大きな役割を果たしていたのは、カッサや彼とよく仕事をするキーボード奏者のポール・ウィルソン、マイク・キングといった若手たちで、このアルバムにおいてカッサは実際のドラミングとプログラミングの融合もおこなっていた。カッサは『エスケープ・ヴェロシティ』でもドラム、プログラミングから作曲家、アレンジャー、共同プロデューサーとして全面的に関わっていて、このたびリリースしたリーダー・アルバム『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』は、そんな彼のキャリアや人脈を総動員したものとなっている。

 主な参加ミュージシャンはこれまで共演してきたアート・リンゼイ、テオ・クロカー、マイク・キングのほか、1970年代から活動するベテラン・ジャズ・シンガーのカーメン・ランディ、若手シンガーでスナーキー・パピーとも共演するジュデシ・ジャクソン、そしてトランペット奏者の重鎮のロイ・ハーグローヴ、彼のクインテットでピアニストを務めたサリヴァン・フォートナーらが名を連ねる。ロイはジャズ界においてヒップホップやR&Bなどクラブ・ミュージックを融合してきたパイオニアのひとりで、RHファクターでの活動や、ディアンジェロやエリカ・バドゥなどが集まったソウルクエリアンズの一員としても知られるが、2018年11月に病気のために夭逝してしまった。『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』の録音日時は不明だが、おそらくロイの最期の演奏が収められており、カッサにとって偉大な先人との共演になったことだろう。またカルロス・オーヴァーオールというサックス奏者も参加していて、彼はカッサの兄弟のようだ。カッサはドラム、プログラミング、ラップ、スポークン・ワードを含めた全体的なプロデュースをおこない、アルバトロスというエクスペリメンタル・ロック・バンドの出身で、最近は『ケアフル・マダム』のほかマーク・リボーの『ソング・オブ・レジスタンス 1942-2018』(2018年)や、アーロン・パークスの『リトル・ビッグ』(2018年)にエンジニアとして関わるダニエル・シュレットが共同プロデュースを担当する。

 “ザ・スカイ・ダイヴァー”はヘヴィなシンセ・ベースによるビート・ミュージック系のナンバーで、マイク・キングによるオルガンとピアノをミックスしたエレガントなソロがフィーチャーされる。ビートメイカーとドラマーを兼任するカッサらしい作品である。“ラ・カーサ・アズール”はロイ・ハーグローヴのミュート・トランペットをフィーチャーしたヒップホップ色の強いナンバーで、カッサのクールなラップが味わえる。ロイの名曲“ストラスブール/サン・デニ”に似せたピアノ・フレーズも出てきて、ロイに対するオマージュが表われたナンバーと言えよう。カルロス・オーヴァーオールがサックスを吹く“マーク・サンプソン”は、生ドラムとそれを細かくチョプしたビートの融合による斬新なリズムが凄い。トラップやジュークにも通じるところを持つ新しいタイプのジャズ・ドラムで、クリス・デイヴなどのアプローチのさらに先を行く。アート・リンゼイが参加する“マイ・フレンド”は、トリッキーでダビーなビートにヴォコーダーによるメランコリックなコーラスが重なる。〈ブレインフィーダー〉あたりから出てもおかしくない作品だ。重厚なチェロにカッサのラップが絡む“プリズン・アンド・ファーマシューティカルズ”は、シャバズ・パラセズに通じるアフロフューチャリズムを反映したエクスペリメンタル・ヒップホップ。かと思えば“ワッツ・ニュー・ウィズ・ユー”ではクラシカルなピアノ・トリオをバックにラップする。ジュディ・ジャクソンをフィーチャーした“フーズ・オン・ザ・プレイリスト”では、サリヴァン・フォートナーのピアノがマイルス・デイヴィスとビル・エヴァンスによる古典“ブルー・イン・グリーン”のフレーズを模している。ジャズの伝統と革新という、相反するものを見事に結びつけた1曲だ。テオ・クロカーがトランペットを吹く“ドゥ・ユー”は、ロバート・グラスパー・エクスペリメントのようにジャズとR&Bを結び付けた曲だが、“マーク・サンプソン”同様にトラップやジュークを通過したドラミングが味わえる。“ホエン・ウィル・ゼイ・ラーン”もダビーなビートに乗せて、カーメン・ランディが美しいヴォーカルを披露するコズミック・ジャズ。ニューヨークにおいてロイ・ハーグローヴに始まり、ロバート・グラスパー、クリス・デイヴなどがやってきたジャズとヒップホップ/R&Bの融合を、また新たに更新したと言えるアルバムだろう。

ブラック・クランズマン - ele-king

 エミネムの伝記映画『8マイル』(02)で自堕落な母親役を務めていたのはキム・ベイシンガーだったけれど、彼女はスパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89)が公開された年に、同作がアカデミー賞を取れないのはおかしいとステージで発言し、そのことがヒップホップ・コミュニティからの信用を得た結果のキャスティングではなかったかと僕は勝手に推測している。スパイク・リーはその後もアカデミー賞にはかすりもせず、ついに2016年には同賞をボイコット、その翌年に俊英の黒人監督バリー・ジェンキンスが『ムーンライト』で作品賞を受賞したことはいまだ記憶に新しい。そして、ついに今年、スパイク・リーが初めてアカデミー賞で脚本賞を得ることになったものの、作品賞が『グリーンブック』だったことに抗議して会場から出て行こうとしたとも伝えられている。『ドゥ・ザ・ライト・シング』がスルーだった年に作品賞を受賞したのが『ドライヴィング・ミス・デイジー』で、『グリーンブック』が似たような設定の話だったことも彼を憤慨させた一因となったのだろう。リーはしかし、受賞スピーチで400年の歴史を振り返り、感謝の意を表した上で「レッツ・ドゥ・ザ・ライト・シング(正しいことをしよう)!」を連呼し、会場の感動を誘う。今回の受賞に関して世界中の反応があまりにも芳しくない『グリーンブック』は登場人物のモデルとされたドン・シャーリーの遺族からも「ウソだらけ」と内容にクレームが入っているらしく、『帰ってきたMr.ダマー バカMAX!』(14)がヒドいを通り越していたピーター・ファレリーにはもうシリアスにも従来のコメディ路線にも道はなく、次はよほどのことを考えなければ未来はなさそうな気配。不思議なことに昨日のNHKニュースもスパイク・リーどころか『グリーンブック』もほとんどスルーで、外国語部門及び監督賞のアルフォンス・キュアロン『ローマ』ばかりが取り上げられていたこと。壁の建設を進めようとするトランプにハリウッドが反対の意志を表明するなら、去年のデル・トロに続いてメキシコ系のキュアロンに作品賞をあげた方が確実なメッセージになったことは確かで、イラク戦争に抗議して『ハートロッカー』を受賞させたハリウッドはどこへ行ってしまったのだろうかという感じ。

 スパイク・リーの新作がそして『ブラック・クランズマン(BLACKkKLANSMAN)』。カンヌでは『万引き家族』に抑えられてグランプリに甘んじた政治サスペンスである。プロデューサーが『ゲット・アウト』を成功させたキー&ピールのジョーダン・ピールだったので、オファーを受けた当初、リーはコメディ映画だとばっかり思っていたそうだけれど、僕もかつてKKKに加入した黒人がいたとか、そのようなアイデンティティ・クライシスを扱った話だとばかり思っていた(キー&ピールはアメリカではコメディアンとして大成功した二人組で、『ゲット・アウト』はむしろイレギュラーな方向性を示した作品。楳図かずおが『まことちゃん』から『おろち』に乗り換えたというか)。オープニングは『風と共に去りぬ』。続いてアレック・ボールドウィン演じるボーリガード博士が人種隔離を強く訴えるスピーチ。ボールドウィンは現在、『サタデー・ナイト・ライヴ』で延々とドナルド・トランプのモノマネを担当し、トランプ本人にツイッターで攻撃されているコメディアン。ダブル・ミーニングというにはあまりにあからさまな演出である。そして、デンゼル・ワシントンの息子、ジョン・デヴィッド・ワシントン演じるロン・ストールワースが警察の面接を受け、コロラド州コロラドスプリングスに黒人刑事が誕生するところからやっと話は始まる。実在の人物であり、原作は彼が後に書き下ろした回想録。ストールワース刑事はストークリー・カーマイケル改めクワメ・ツレの演説会に潜入し、黒人たちが暴動を起こす可能性は低いと判断し、その過程でローラ・ハリアー演じる活動家のパトリス・デュマスと恋に落ちる。町山智浩の解説文によるとデュマスのモデルはアンジェラ・デイヴィスだという。確かにそんな風貌である。ストールワース刑事と同僚のフリップ・ジマーマン(アダム・ドライヴァー)は黒人たちよりもむしろ白人の急進団体であるKKKを危険視するようになり、ストールワースが電話でKKKに入会を申し込み、ユダヤ人であるジマーマン刑事が支部に潜り込むことになる。ここからは誰がどう観ても、実際に潜入捜査を続けるジマーマン刑事が主役。ストールワースとジマーマンはKKKの動きを監視し、その構成員たちを調べていく。そして、ストールワースが入会したことを祝うためにKKKの最高幹部デヴィッド・デューク(トファー・グレイス)が街にやってくることに……。

 ここ数年、シカゴで起きている抗争をミュージカル仕立てで描いたスパイク・リーの『シャイラク』(15)はとんでもない駄作だった。リーにはチーフ・キーフたちの周辺で起きていることが理解できていないし、同作がシカゴ市長によって上映中止に追い込まれたのも致し方ないことだった。それ以前に『25時』(02)も『セントアンナの奇跡』(08)も絶対にリーが取らなければならなかった作品だとは思えず、『オールドボーイ』(13)のリメイクを除いて2010年代に入ってから5作も日本未公開が続いているということはそれだけリーの力量が落ちたことの証しなのだろう。実際、『ブラック・クランズマン』もサスペンスとしてはやや盛り上がりに欠け、見せ場がしっかりとつくられた作品には思えなかった。『ドゥ・ザ・ライト・シング』と比較するのは酷かもしれないけれど、身体性が著しく後退し、頭だけでつくっている場面が多いことも残念なところではある。しかしというか、ひとつの問題に絞り切れないのもリーのいいところで、ひたすら正義を追求するだけではなく、これまでの作品でもそうであったように黒人と白人が会話を途切らせないことがそのまま見せ場になっていたと考えることも可能ではある(話し合いがリーにとってどれだけ重要なことかはバスの中で会話が続くだけの『ゲット・オン・ザ・バス』(96)に最もよく表れている)。KKKが『国民の創生』を上映しながら憎悪を掻き立てていく一方で、黒人たちの集会でも同じように老人(ハリー・ベラフォンテ)の話に耳を傾けながら白人への憎しみを募らせていく場面はいわばどっちもどっちとして描かれていたのに対し、それよりも黒人と白人が協力して、この場合は警察が団結してことに当たれることがリーにとっては大事なファクターをなしていたのだろう。最後の最後までそれは理想的な展開を遂げ、いささか食い足りないぐらいであった。あるいは言いたいことのすべてを作品に昇華できなかったリーはその思い余る念を実際のニュース映像という形で最後に補足する。2017年にヴァージニア州シャーロッツビルで起きた白人至上主義者たちとそれに反対する人たちの衝突が延々と映し出され、冒頭で仕掛けたようなアレック・ボールドウィンにトランプを重ね合わせるというギミックへと転化する余裕もなく、その映像はある意味では映画として成立させた作品を否定しかねないほど巨大なる現実としてのしかかってくる。そして、その映像の中にトファー・グレイスが演じていたKKKの最高幹部デヴィッド・デュークの姿があり、本人がいまだ健在であることを示された時に信じられないほどの虚無感がもたらされる。少なくとも僕にとって『ブラック・クランズマン』はすべてがそのための伏線であったかのように感じられるほどだった。

映画『ブラック・クランズマン』予告編

Mark De Clive-Lowe - ele-king

 1990年代後半からおよそ20年に渡り、ジャズとクラブ・ミュージックの両方の世界をまたにかけた活動をおこなっているマーク・ド・クライヴ・ロウ。彼の名前が最初に知られたのはウェスト・ロンドンのブロークンビーツ・ムーヴメントにおいて、フィル・アッシャー、ディーゴ、ベンベ・セグェといった面々とのコラボからだった。バークリー音楽院卒で既にジャズ・ピアニストとしてアルバムもリリースしていた彼だが、同時に学生時代はヒップホップやR&B、アシッド・ジャズからの影響も受け、ウェスト・ロンドンに移住してからはビートメイカーやDJ/プロデューサー的なスキルも身につけていく。その後アメリカに渡って現在はロサンゼルスを拠点に活動していく中で、ミゲル・アトウッド・ファーガソン、カルロス・ニーニョといったビルド・アン・アークの面々のほか、カマシ・ワシントンサンダーキャットなどのジャズ・ミュージシャンとの交流が生まれていった。大御所のハーヴィー・メイソンのバンド・メンバーに抜擢されるなど(来日公演ではDJクラッシュもフィーチャーしたライヴを披露している)、LAジャズ・シーンの重要なキーボード奏者という側面と、リミキサーとしてハウス・トラックを作るといったDJ/プロデューサーという側面を今も両立させ、また自身のバンドを率いて「チャーチ」というイベントを主催するなど、多面的で精力的な活動をおこなっている。アルバムとしては2014年にイベントから発展した『チャーチ』をリリースしており、ウェスト・ロンドン時代から続くジャズ、ジャズ・ファンク、フュージョンとブロークンビーツ、ヒップホップなどクラブ・サウンドの融合を見せていた。その後はEPやミックステープ、リミックス集などのリリースはあり、LAのクラブのブルー・ホエールでおこなったライヴ盤も出していた。最近でもモッキーの新作に参加していたのだが、自身のアルバムのリリースは久しぶりで、この『ヘリテージ』は『チャーチ』以来5年ぶりのニュー・アルバムとなる。

 マークはもともとニュージーランド出身だが、父親がニュージーランド人、母親が日本人というハーフである。ハイ・スクール時代に横浜で1年ほどホームステイしていたことがあり、知人やミュージシャンの友人も多くて、いまも定期的に日本を訪れてライヴをやっている。『ヘリテージ』はそんなマークが自身の片方のルーツである日本に向き合ったアルバムである。幼いころは母親から“赤とんぼ”など日本の童謡を聴かされて育ち、ホームステイ先はお寺の住職の家で日本の文化にも触れ、日本のジャズ・クラブにも通って板橋文夫、向井繁春、大西順子などを聴いていたというマークだが、これまでの作品の中に日本をテーマにしたものとか、日本的なモチーフを取り入れた作品は特になかった。彼のやっている作品はジャズにしろ、クラブ・サウンドにしろ、ブラック・ミュージックをベースとするものが多かった。そんなマークだが、ロサンゼルスに移住してから改めてアコースティック・ピアノやアコースティックなジャズの演奏に対峙するようになり、それと共に自身のルーツについても考える機会が増えていったようだ。アフリカ音楽をルーツとするブラック・ミュージックやジャズ、ファンクなどは確かにマークの音楽を形成するうえで重要なものとなったけれど、それは彼自身ではないし、あくまで借り物であると。またロサンゼルスではエチオピア音楽も盛んで、彼もトッド・サイモンがやるエチオ・カリというバンドに参加したことがあるが、その活動を通じてエチオピア音楽の音階と日本の伝統音楽の音階が酷似していることに気づき、改めて日本の音楽への興味が再燃していった。そうしたところから2017年に「未来の歴史」というイベントを開催し、そこでは琴、和太鼓、篠笛などの奏者やシンゴ02を交えたパフォーマンスをおこなっている。このイベントが『ヘリテージ』の制作をするにあたっての起点となり、実際にそこでの演目の多くが収録されている。

 参加ミュージシャンは「未来の歴史」にも参加していたカルロス・ニーニョ(パーカッション)、ブランドン・ユージン・オーウェンス(ベース)、タイラナ・エノモト(バイオリン)のほか、レオン・ブリッジスやエスペランザらと共演するジョシュ・ジョンソン(アルト・サックス、フルート)、タリブ・クウェリやモス・デフらと共演するテオドロス・エイブリー(テナー・サックス)、モーゼス・サムニーらと共演するブランドン・コームス(ドラムス)という面々。ブランドン・ユージン・オーウェンスはテラス・マーティンやロバート・グラスパーらと共演し、タイラナ・エノモトは日本人とアメリカ人のハーフである。今回は和楽器奏者こそ入っていないものの、ふたりの木管楽器奏者が尺八や篠笛に通じるような音色を奏でている。2018年6月にブルー・ホエールでおこなったライヴ音源と、同年7月のNRGスタジオでの録音を混ぜ合わせたものが最終的にアルバムにまとめられているが、その2、3ヵ月前にマークは奈良に滞在し、尺八奏者の薮内洋介とワークショップやライヴをおこなっていて、そのときに作られた“ジ・オファーリング”がオープニング曲として収められている。またマークは日本の音楽を理解するために演歌もいろいろと聴いたそうで、ほかに尺八奏者の山本邦山による『銀界』(1974年)は大きなインスピレーションの源となったそうだ(このアルバムはDJクラッシュもサンプリングしていて、その世界観にも影響を与えている和ジャズの名作)。英語表記だが楽曲名のほとんどは日本の言葉によるもので、“ブシドー(武士道)”や宮本武蔵の「二天一流」を由来とする“ニテン-イチ”、京都の南禅寺をモチーフとする“メモリーズ・オブ・ナンゼンジ”といった作品が並び、前述の童謡の“赤とんぼ”も演奏している。とは言っても単に和的なメロディによる演奏、和楽器風の演奏にとどまるのではなく、それらを現代的なジャズという形で自身のオリジナルな表現へと導いていると。西洋人が東洋のエキジティシズムをいたずらに強調した作品ではないし、和のモチーフで手っ取り早く振りかけた真似もの作品でもない。武士道や神社、お寺などがモチーフとなっているように、日本の古来の伝統や精神、宗教観がマークの音楽や制作活動に影響を与え、それが内面から湧き上がった演奏となっている。カマシ・ワシントンのようなスピリチュアル・ジャズとは異なるが、これもまたマークのルーツや人生観が形となったスピリチュアルな音楽と言えるだろう。

マイ・ブックショップ - ele-king

 いつも女性たちの地味な戦いを描いているスペインのイザベル・コイシェによる新作。1959年のイギリス。戦争で夫を失ったフローレンス・グリーン(エミリー・モーティマー)が本屋のない街で小さな本屋をオープンする話。2000年に没したペネロピ・フィッツジェラルドの原作(未訳)を元にサフォーク州ハードボローという架空の港町を舞台とし、原作にあったスピリチュアルな要素はすべて省いての映画化だという。50年代のイギリスの港町というと、どうしてもデヴィッド・リーランド『あなたがいたら 少女リンダ』(87)を思い出してしまうけれど、あのように破天荒で、保守的な人たちと真正面から戦う話ではなく、進んでいるのか進んでいないのかよくわからないテンポで話は進み、その点では初期の作風に戻った感がある(最近、ちょっとハリウッドっぽくなっていたので、ひと安心)。銀行で開店資金を貸してもらえない場面からスタート。それでもなんとか開店にこぎつけるまでが前半のストーリーながら、どういうわけか街の人たちはあまり協力的ではない。街の実力者であるヴィオレット・ガマート夫人(パトリシア・クラークソン)が街に芸術センターをつくろうと画策していて、同じ物件に目をつけていたからだということがだんだんとわかってくる。弁護士が遅々として手続きを進めてくれない一方、少年たちが改装の手伝いをしてくれ、ようやく開店した店には「本は一冊も読まない」という小学生のクリスティーン(オナー・ニーフシー)が店番などで手伝ってくれることに。空っぽの棚に本が並べられ、少しずつ本屋ができていく過程はなかなか心が躍る。そして、本はこの街に様々な変化を引き起こしていくことになる。

 屋敷に引きこもって人前には姿を現さない老人エドモンド・ブランディッシュ(ビル・ナイ)から面白い本があったら送ってくれという手紙が届く。グリーンはレイ・ブラッドベリ『華氏451度』などを選んで送る。ブランディッシュは本のセレクトにいたく感心し、グリーンをディナーに招待し、街で囁かれている彼の身の上話がまったくの嘘で、真実がどうであったかを語り出す。一方、ガマート夫人は書店が順調ににぎわっていることを苦々しく思い、あの手この手で書店をつぶしにかかる。そんな折りにウラジミール・ナボコフ『ロリータ』が英訳され、これを読んだグリーンは、この本を売るべきかどうかブランディッシュに相談し、彼の後押しを得て大量に仕入れることにする。ポルノか文学かという論争を当時のイギリスで引き起こしていた『ロリータ』を見るだけ見ようとして群衆が店に詰めかけ、ガマート夫人は公共の秩序を乱したとして訴えを起こし、ついには……。フローレンス・グリーンは未亡人なので、いわゆるロリータではないけれど、ブランディッシュとの年の差はそれに近いものがある。むしろ年齢的に釣り合うのはガマート夫人の方で、しかし、ブランディッシュとガマート夫人は文化的に共鳴するところがなく、彼女がつくろうとしている芸術センターというのも具体的な説明はなく、おそらく箱物行政でしかないということは大体察しがつく。空っぽの建物だけをつくって満足しようとする地方自治の話は日本でもよく耳にするし、それよりもたった一軒の本屋が街を変えてしまうかもしれないという潜在的な影響力をこの作品は強調し、本は時に爆弾にも等しいことを教えてくれる(次から次へとele-king booksのカタログ数を増やしまくる野田努などはさしずめ現代の爆弾魔に等しい)。

 本屋を舞台にした映画というとノーラ・エフロン『ユー・ガット・メール』か岩井俊二『四月物語』ぐらいしか思い出せないけれど、それらとは違って『マイ・ブックショップ』には政治性が濃厚に塗り込められ、それどころか『マイ・ブックショップ』にはストレートに『華氏451度』が重ね合わされている。トリフォー版の『華氏451度』(66)は文字のない世界を印象付けるためにナレーションが多用されており、『マイ・ブックショップ』でも同じ手法が取られている上に、そのナレーションは『華氏451度』でリンダとクラリスの二役を演じたジュリー・クリスティが担当している。『華氏451度』にはナボコフ『ロリータ』が燃やされるシーンがあり、『マイ・ブックショップ』に並べられた本はあらかた『華氏451度』に出てくる本でもある。また(以下、ネタバレ)ラスト・シーンで本屋を燃やしてしまうのはそのものズバリといってよく、これは一種の思想統制の可能性も示唆している。しかし、本嫌いだったクリスティーンはその後、本屋を開店するまでになり、最後まで観るとフローレンス・グリーンは少なくともひとりには「伝えた」というところが本作の肝となっている。本を読まないと知っててグリーンがあえてクリスティーンに薦めた本はリチャード・ヒューズ『ジャマイカの烈風』という冒険小説で、異質なものの同居をテーマにしているという意味では彼女たちの関係をそのまま表した作品だと言える。『華氏451度』でも『マイ・ブックショップ』でも「本」と言った時に、それが思想書を指すのではなく小説を対象としているところがまた面白いところで、やはりそれは様々な解釈ができることに「読む」価値を置いているからだろう。ブラッドベリはラブクラフトの系譜だと「解釈」したブライアン・オールディーズの説を思い出す。

 アメリカを舞台にしたジョン・クローリー『ブルックリン』(15)やトッド・ヘインズ『キャロル』(15)と同時期の女性像を描いた作品でもあり、80年代につくられることが多かった「理想化された50年代」とは正反対に、50年代の不快な面を引きずり出すという傾向もここには散見できる。そう、『グリース』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の50年代はここにはない。50年代を「政治的に正しく」描くということは抑圧の主体をはっきりさせることであり、カウンター・カルチャーへの道筋をつけるということにもつながっていくのではないだろうか。2018年、ゴヤ賞受賞作。

(『マイ・ブックショップ』予告編)

闘魂 2019 - ele-king

野田努

 最後の“Weather Report”がまた素晴らしかった。ceroとフィッシュマンズの共通点のひとつは、まあ、そう、あくまでもそのひとつは、リズムの魅力ということなんだろうけれど、「闘魂 2019」という夢の一夜から2日経った現在、ぼくのなかではceroが最後に演奏した“Poly Life Multi Soul”とフィッシュマンズがceroを交えてた最後に演奏した“Weather Report”がミックスされている。ライヴが終わって家に帰ってからこの2曲を聴いてしまったので、ライヴの残響はぼくのなかで都合よくアレンジされ、ミックスされているというわけだ。
 歳を取ると涙もろくなる。数年前に同じくZepp Tokyoで見たフィッシュマンズには泣けてくるばかりだった。が、そのときよりも、ceroが出演した「闘魂 2019」はなごんで見れたような気がする。
 ceroは、軽やかだった。彼らの前向きなヴァイブが伝わる、好感の持てるステージだった。ぼくなりの解釈でいえば、彼らのホワイトヘッド的な哲学(世界のそれぞれがそれぞれの動きで動いている感覚)がうまく具現化されていた。つまり、その感じが素直に入ってくる。とくに“Poly Life Multi Soul”におけるポリリズミックな演奏は、ぼくにはハウス・ミュージックに聴こえたほどで、結局、ceroのライヴ中はずっとカラダを揺らしていた(その間身体に流し込んだビールは3杯、完全にクラブのりだ)。話は逸れるが、ぼくはこのライヴの前日の夜、阿佐ヶ谷のROJIに行って、オシリペンペンズが作ってくれたハイボールを飲んだのだった。
 フィッシュマンズに関しては、三田格の原稿にゆずろう。が、思ったことをいくつか。○誰もが思ったことだろうけれど、バンドの絶対的中心が不在の演奏だというのにここまでリアルというのは奇跡というほかない。佐藤伸治抜きのフィッシュマンズとしてはいままでいちばん良かったと思えるほど。○クラフトワークのライヴではないが、楽曲たちが時間を超越している。すなわち永遠。○原田郁子は素晴らしい。○ceroとはもう一回ぐらいはやってもいいんじゃないだろうか。
 ライヴが終わって外に出ると、お台場のフェイク感満載の風景が目の前に広がる。フェイクな街のフェイクなエリアのフェイクな展示場のなかの、最高に気持ちのいい夜だった。ぼくにとってフィッシュマンズは哲学的なバンドで、ときが経てば経つほど哲学的なバンドになっている。ただ、フィッシュマンズの泥臭いところ、いまひとつスマートになりきれないところがぼくは好きなんだなとあらためて思った。

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三田格

 休憩時間を挟んで後半はフィッシュマンズ。茂木欣一(ドラム)、柏原譲(ベース)、HAKASE-SUN(キーボード)に小嶋謙介(ギター)を加えたオリジナル・メンバーでまずは1曲「あの娘が眠ってる」。作詞・作曲とも小嶋の曲で、シャカシャカとしたギターのストロークがいきなり気持ちよく、ヴォーカルが入ると声が低いのでややずっこける。フィッシュマンズの曲としてはスタンダードな雰囲気を持ってる曲だなと改めて思っていると、パッと手を挙げて小嶋はこれだけで退場。余韻もなく“Oh SLime”へ。自分でも何を考えているんだろうと思うけれど、続いて木暮晋也(ギター)がステージに出てきた時、佐藤伸治が出てきたと思ってしまい、そんなことあるわけなのにひとりで真っ青になってしまった。しかも、たったいま「そんなことあるわけないのに」と思ったばかりなのに、さらに反対側からダーツ関口(ギター)が出てきた時も佐藤伸治だと思ってしまい、完全に頭がおかしくなっている。「ダーツ関口は元スーパーバッド」と心の中で3回ぐらい唱えて動揺を鎮める。「ザ・フィッシュマンズ!」と茂木が叫ぶ。客席が湧く。茂木は「ザ・フィッシュマンズ!」としか言わないのに、それだけで広大な世界観が広がっていくような気がする。それこそ会場全体で空中キャンプに乗り込んだような気分。茂木のMCが上手いとか技があるとかではなく、押し寄せるような期待と幻想が境界線を失い、誰かにコントロールできるような事態ではないのかもしれない。よくわからない。こういうことは佐藤伸治がいた頃にはなかった。佐藤伸治がいた場所が真空のようにして空いてしまったから、むしろ成立する感覚なのではないか。悪く言えば天皇制のようなものかもしれない。中心を失ったはずなのに凝集力があるというのはそういうことではないのだろうか。「ザ・フィッシュマンズ! ザ・フィッシュマンズ!」、ドラムを叩きながら茂木はコールを続け、いつも通りメンバー紹介へなだれ込む。上記のメンバーに加え、ヴォーカルの原田郁子とハナレグミ、そしてZAKの名前がコールされる。インドネシア式に「ホンジ」と「ヴォーカル佐藤」もコールされる。インドネシアでは誰が死んでもその人はどっかに行ってしまうとは考えない。そこにずっといるということになっている。
 8人編成のオープニングは“ナイトクルージング”。ややテンポダウンし、ヴォーカルは茂木。この曲はライヴで聴くとあまり透明感がない。20年前もそうだったけれど、ギャップの方に意識が行きやすく、もうひとつ入り込めない。もしくはもうちょっと後半で聴きたかったなというか。続いて“なんてったの”。ヴォーカルはハナレグミ。キーボードのリフだけで軽く持っていかれ、転調だけでじわっと来てしまう。心に張り巡らしていた鎧がどんどん剥がれていくというか。フィッシュマンズがやっているのは「ありきたりのポップ・ソング」で、だからいいんだろうなと思う。“土曜日の夜”“頼りない天使”“ひこうき”と曲は進む。「ありきたりのポップ・ソング」がそして、気がつくと奇妙なブレイクや間奏に切り替わっていて、ありきたりがありきたりではなくなってしまう瞬間がフィッシュマンズは実に上手い。彼らの曲がレコードだけではなく、こうしてライヴとして再現される必要があるのはそれを体験するためだろうと思えてくる。それは佐藤伸治が生きていた頃とまったく変わらない。“ひこうき”で茂木が「いつでも あの日のまま」と繰り返すたびに「あの日のまま」というのは「佐藤伸治が生きていた頃のまま」という意味に聴こえてしょうがなかった。“ひこうき”はこの日のベストだったんじゃないだろうか。
 ヴォーカルがハナレグミ&原田郁子に変わって“Smilin’ Days, Summer Holiday”。ゴージャスなアレンジと粘っこいグルーヴを叩きつけられて「これしかないのさ」と言われればそうですとしか言いようがない。途中でちょっと演奏がズレたように感じ、その時だけ最初からかかっていたマジックが消えたような気がしたものの、すぐに持ち直す。この曲はいくらでも聴いていられるなと思っていたので、いつも通りにやったと思うけれど、早く終わった気がしてしょうがない。それでも音楽を聴いていてこれだけ満ち足りた気分になったのは久しぶり。生まれてきて良かったなーと思ってしまう。続いて“MELODY”と、前期フィッシュマンズで埋め尽くすのかと思いきや、次は“すばらしくNICE CHOICE”かと思ったら“ゆらめき IN THE AIR”。佐藤伸治にとって生前、最後となった曲である。ヴォーカルはテープ=佐藤伸治。誰が歌っても佐藤伸治が不在だという思いは逆説的に強く感じられてしまうものの、意外にも僕はこの時が最も彼の不在を強く感じてしまった。映像でも流してくれればまだしもだったのかもしれないけれど、テープで佐藤伸治の声を聴くのはとっても悲しかった。そして「夕暮れがやってこない」という歌詞がいつにも増して引っかかった。“Smilin’ Days, Summer Holiday”で「これしかないのさ」と歌われていたはずの「日差しを終わらせるものとしての夕暮れ」を待ち望んでいるようにも聞こえたり。「君が今日も消えてなけりゃいいな」の「君」というのは、この曲をつくった当時、フィッシュマンズから離れると決めたZAKと柏原譲のことなんだろうか。テープで聴く佐藤伸治の声は悲鳴のようだ。それまでの7曲と何もかもが違っていた。この曲を聴いている間は僕はピクリとも動けなかった。
 “いかれたBABY”で元に戻った。辛い気分に背を向けられた。なのに、これがラスト・ナンバー。「フィッシュマンズの代表曲!」と茂木は紹介し、終わってもステージから引き上げるそぶりも見せずにそのままCEROと合体。ヴォーカルの高城昌平とキーボードの角銅真実が呼び込まれ、お互いに選曲が一致したという“JUST THING”へ。23年前に初めてフィッシュマンズにインタヴューした時も茂木は「JUST THINGが、JUST THINGが……」と繰り返していたので、かなり思い入れがあるのだろう。これもややテンポ・ダウンし、ビートはずっしりと重みを増した印象。高城昌平や原田郁子が滑らかに踊る様子を見て、そういえば佐藤伸治はビートに合わせず、ちぐはぐな体の動きをする人だったことに思い当たる。「みんなでポリドールの株を買おう!」とか訳のわからないMCもさることながら、予測がつかなかった佐藤伸治の妙な体の動かし方ももう見られないんだよな。つくづくヘンな男だったよな。そして、茂木は去年からこの企画を温めてきたという経過を話した上で「まだ終わりたくない!」と叫んで“Weather Report”へ。フィッシュマンズでも最もビートフリークな曲で終わりとはかえって酷でしょう! 最後の最後にまたフィジカルを煽るとは! ここまで来るとしかし、ノスタルジーとか現代にも通じるといった考え方さえバカバカしく思えてくる。そのような時間の概念からも自由になれた3時間が終わりを告げた。残ったのは広大な開放感と驚くほど優しい気持ち。帰りの混雑さえ余韻を温めてくれるような気までして。
 この日の功労賞はやはり茂木欣一だろう。彼は一片のエゴも挟まず、佐藤伸治がつくった曲を残すため、ただそれだけのために身を捧げていた。それは痛いほど伝わってきた。あの日、会場にいた誰もが叶わずとも、いつか茂木欣一だけは天国で佐藤伸治に会えたらいいなあ。

Ninjoi. - ele-king

 昨年、Spotify にて最も急成長したジャンルの2位にもなったローファイ・ヒップホップ(別名:チルホップ)。その元祖と言われている存在が、共に故人であるヒップホップ・プロデューサーのJ・ディラとヌジャベスのふたりであり、それはつまりビート・シーンやジャジー・ヒップホップと呼ばれるジャンルとも深くコネクトしていることを裏付けている。今回、ピックアップするニューヨーク・クイーンズ出身のニンジョイも、まさにそのローファイ・ヒップホップのシーンにいる若きアーティスト(現在22歳)のひとりであり、昨年末にリリースされた彼のこの最新作『Masayume』を聴けば、彼もまたJ・ディラやヌジャベスから多大な影響を受けているのが分かるに違いない。
 少し話は逸れるが、ニンジョイは昨年、二度来日しており、その際に共通の友人の紹介で本人とも出会い、何度か音楽の話をする機会があった。10代半ばでDJを始めたという彼は、その後、ビートメイキングをスタート。60年代、70年代のジャズ(一部、日本のジャズ・ミュージシャンも含む)や彼にとっては非リアルタイムなひと昔前のヒップホップをディグし、さらにアニメ好きということも手伝って、『サムライチャンプルー』からヌジャベスを知ったのも彼にとってはごく自然な流れであった。冒頭に彼をローファイ・ヒップホップのアーティストとして定義したが、実は彼の音楽性の本質はジャジー・ヒップホップであり、ヌジャベスの存在がその一因であるのは言うまでもない。一方で、彼にとってのインスピレーションの源は古い音楽のみだけではなく、ビート・シーンなど現在進行形の様々な音楽ジャンルにも精通しており、良い意味で、若さゆえの柔軟性が彼の音楽の多様性を生み出している。ちなみに「ninjoi.」というアーティスト名は「忍者」と「enjoy」を合わせた造語であり、彼の作品タイトルにも日本語が多用されていることからも分かるように、日本のカルチャーも彼の音楽を構成する大事な要素になっている。
 約5年前から SoundCloud や Bandcamp を通じて作品の発表を開始し、2017年にはEP「Benkyo」をリリース。続いて昨年2月にリリースされた2作目のEP「Kami Sama」を経て、ようやく完成したファースト・アルバム『Masayume』。実は作品のヴォリュームという意味では、前2作のEPと今回の『Masayume』はさほど変わらない。しかし、彼自身が本作をファースト・アルバムとあえて呼ぶのは、3作目にしてようやく自らが思う完成度の高さに達したという、自信の表われでもあるだろう。文字通りのローファイな質感のビートにピアノや生楽器のメロディが乗ることで完成する、メロウネス溢れるグルーヴ感。特に彼のサウンドの特徴となっているのは、サンプリング、あるいは一部自ら弾いているというピアノの美しい旋律の部分にあるが、そこにはある種のノスタルジーを想起させる、言葉では表せない何かが存在している。この強く感情を揺さぶられるような感覚は、今回の『Masayume』は前2作を大きく上回る。加えて、本作をより完璧なものにしているのが、特にアルバム後半部分で大々的に披露されている彼自身のヴォーカルだ。シングルカットもされた“Cigarettes”を筆頭に、ジャジー・ヒップホップやローファイ・ヒップホップというカテゴリーを超えた、彼自身の音楽性のさらなる広がりが強く感じさせてくれるヴォーカル曲は、本作をより魅力的なものにしている。
 ちなみにアルバムジャケットのイラストを含めて、作品のアート・ディレクションも彼自身が手がけており、さらに最近ではバンド編成でのライヴも模索しているというニンジョイ。まだまだ知る人ぞ知るという存在であるが、彼の溢れ出る才能が大きく花開く日も近いのではないかと、彼の友人のひとりとして大いに期待したい。

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