Home > Columns > アカデミー賞『ムーンライト』受賞について
結果的に、ここ数年でもっともショッキングなアカデミー賞授賞式になってしまった。自分もリアルタイムの放送を観ていたのだが、作品賞が『ラ・ラ・ランド』だと発表されて「今年もアカデミー賞は驚くようなことはなかったなー」と横になろうとしたら「間違いです。作品賞は『ムーンライト』です」との騒ぎに飛び起きてしまった。だが、まるでコントのような顛末以上に本当に驚くべきことは、貧しい黒人ゲイ少年を主役に据えた低予算の作品を、その古い体質を批判され続けるアカデミー賞が選んだことだろう。昨年の「白すぎるオスカー」から急旋回し、ビヨンセではなくアデルを選んだグラミー賞との差を見せつけた格好だ。昨年アメリカのエンターテイメント産業がもっとも評価した作品は、ビヨンセ『レモネード』でありフランク・オーシャン『ブロンド』でありそして『ムーンライト』であることはすでに確定していたが、それにしてもあのアカデミー賞までもが……。
大本命と言われた『ラ・ラ・ランド』は、非常によくできたカラフルなミュージカル映画として多くの観客を楽しませたいっぽうで、「やはり白すぎる」という声も一部で上がっていた。曰く、ジャズを描いてるわりに黒人が白人カップルの背景として扱われている、というわけだ。もちろんそれに対する言いがかりだとか、行きすぎたポリティカル・コレクトネスだという反論もあったが、それでも客観的に見ると『ラ・ラ・ランド』は何だかんだ言って白人のおじさんが多くを占めるアカデミー会員には安全だろうなと想像できるものではある。僕自身、個人としては『ラ・ラ・ランド』よりも『ムーンライト』のほうをはるかに支持すると言いながら、後者がアカデミー賞の作品賞を獲ることなど絶対にないだろうと思っていた。だから、『ムーンライト』が大方の予想を裏切って作品賞に選ばれたのは、旧態然とした組織までもを動かす時代の要請があったのだろうと思わざるを得ない。
ただ逆に言うと、それ以外に今年のアカデミー賞に驚きはあっただろうか? 自分にはどうもそうは思えない。司会のジミー・キンメルがトランプをからかうジョークを言えば言うほど気持ちが冷めていった。「リベラルも保守も関係ない」とキンメルはたしかに同じ口で言ったが、スターやセレブがゴージャスな格好をしてお互いの政治的立場を確認し合う仲良し会のように見えてしまう場面が多々あった。昨年の賞では、ノミネートに関わらずいかにハリウッドが業界全体でマイノリティを無視してきたかが浮き彫りになっていたわけだが、今年のノミネートのラインアップは一見様々な人種や階層の人間を描いた作品にスポットが当たっているように見える。それは多様性という観点では有効だし、たしかな前進と判断することもできるだろう。が、今年のアカデミー賞が決定的にオミットしていたものがある――それはクリント・イーストウッドだ。
年末の紙ele-kingの年間ベストにイーストウッドの『ハドソン川の奇跡』を選んだのは、一般的には共和党支持者として知られる彼のその作品のなかで、政治的分断をも無効にする危機が取り上げられていたからである。それは、アメリカという国が直面する倫理的問題を見つめ続けてきた監督だからこそできる現状認識だろう。『ハドソン川の奇跡』が作品としてアカデミー賞にふさわしいかどうかはここで判断することは(アカデミー賞会員でもなくアメリカ人でもない自分には)できないが、しかし、それにしても彼の存在がかなり意図的に排除されているように見えてしまう場面があったのだ。それは、メリル・ストリープの過去の演技を讃える際に流された『マディソン郡の橋』の映像で、そこでは共演のイーストウッドの後ろ姿が数度映されるのみであった。映画監督としてはハリウッドに尊敬される存在であるから余計にややこしいが、政治的にはともかくこの場にふさわしくないとされる判断があったのではないかと邪推せずにはいられなかった。
いっぽうでそのメリル・ストリープは大喝采である。ゴールデン・グローブ賞のスピーチでトランプを批判し、そしてそのことでトランプから攻撃されたことは彼女の「勲章」となった。キンメルが「過大評価された女優」とトランプの発言を引用してジョークを言うと、会場はスタンディング・オベーションで拍手を送る。それはしかし、業界の内輪のノリではないのか? 視聴率は今年も芳しくなかったそうだが、もちろん、トランプに投票した人びとのほとんどは大女優が讃えられるその映像を見ることもなかっただろう。だが『ハドソン川の奇跡』は、そうした人びとに向けても開かれた映画であったように自分には思えてならないのだ。
7カ国からの入国を禁止する大統領令への反発として出席をボイコットしたイラン人監督、アスガー・ファルハディのスピーチには切実なものがあったと思う。問題はそうではなく、本人が望もうが望むまいが特権的な立場にいるスターたちが何にトライするか、だ。その点、『それでも夜は明ける』や『ムーンライト』に出資したブラッド・ピットは出席していなかったのか映像には映っていなかったと思うが、着飾って壇上で立派なスピーチをするよりも実践的だと言える。アンチ・トランプをセレモニーで叫ぶような単純な振る舞いではなく、いま起きていることを表現のなかに見つけたい。ショウが政治的になり過ぎるがゆえに、あるいは政治がショウとして消費されるがゆえに、作品本来の価値がそれに左右されることは避けられてしかるべきだ。
だから、どうか、『ムーンライト』が「本命の『ラ・ラ・ランド』を抑えて政治的配慮からアカデミー賞に選ばれた作品」として残らないでほしい。『ハドソン川の奇跡』がそうであるように、賞の結果などに関係なく観られる価値のある映画だからだ。ここまで書いてきて何だが、本質的には賞などどうでもいいのである。
『ムーンライト』はマイアミの貧しい家庭で……麻薬中毒の母親のもとで育った黒人少年が、父親代わりのドラッグ・ディーラーと交流し、やがて男に惹かれる様を叙情的に描いた作品だ。まるきりフランク・オーシャンの『チャンネル・オレンジ』であり、つまり、「わたしはゲイである」という社会的な表明ではなく、そのはるか前の段階としての恋の純粋な痛みを封じこめている。それこそがいままで見落とされてきた生から弱々しくも立ち上がるエモーションであり、その美しさに少なくないひとが気づき始めてきた時代の記憶としてそこに残されるだろう。