「Noton」と一致するもの

4 ノスタルジア - ele-king

 『グッド・ナイト』を作った後、度々僕の前に現れていた消息みたいなものが、はたと やんだ。それを歌詞にしたのに。あるはずもない記憶のようなものは、ある時期に属した らもう取り戻せないものなのだろうか。それともそもそもどこにも属してもいなかったの だろうか。その間いくら本を読んでみても、一瞬の消息の去来には勝らない。だからどう だということもないし、そういう時期の過ごし方もまた大切だろうと無理矢理説得させつ つも、どこに行っちゃったのかなぁ、という意識はずっとあったし、今もある。その間に、 岡田拓郎は『ノスタルジア』を完成させた。全くクレイジーだ。

 何か見えている世界、また見えた気になっていただけかもしれない世界を表現するとい うような堕落的発想はこのアルバムにはない。それは見えていないというのではなくて、 見えかかっているその瞬間がそのまま形をなしているということだ。その点稀有な作品だ。 だから制作のプロセスもやはり紆余曲折していく。というか、プロセスを重ねることによ って、プロセスが形をなしていったような印象を受ける。

 僕はアルバムの全行程には参加していない。ただ、よく途中経過を送ってもらってよく 聴いた。はっきり言って、これからさらに編集してどうなるのか楽しみなものばかりであった。だけど、ele-king のインタヴューで語ってもいる通りそれを平気で壊す。その都度主にリズム的な僕にも多少のアイデアがあるこ とは伝えるのだが、それはそのままは絶対に入らない。僕以外にしてもそうだと思うのだが、あいつがあっちのこと言うならなるほどこっちをしてみよう、というようなフィルタ ーが噛んで、独特なバランスで制作が進んでいく。ハプニングをバランスさせていくとい うようなところだろうか。そこが、彼の最も面白いところだ。レコーディング中の各々のプレイはもちろん、第三者の意見、エンジニアのふと漏らす印象、自家発掘レコード、制 作中に発売される新譜、帰り道のひらめき、すべてがその材料なんだと思う。

 僕が、参加させてもらった曲のドラムは、このコラム第1、2回で書いたような USインディーに影響を受けていて、それを聴くきっかけはアルバム制作に関わらず岡田から届 くレコメンド付きの新譜紹介メールによるものに他ならないが、リズム解釈はアフロ癖の 自分のフィルターを通した随分勝手なものだ。多少いなたくなってしまうところも恐らく 岡田には始めからばれていたに違いない。「ここは、増村の増村で、ここは、あの感じで、 ここは、今までやってきたこと全部忘れて叩いて。」...いやはや、よくばれている。参照 音源も面白くて、平気で4/4の曲に3拍子の参考音源が届いたりする。その度もみほぐ されるような気分がする。しかし、”ブレイド”の石若氏のドラムは素晴らしい。とても じゃないけど、僕には叩けない。そういうところはソロ作品ならではじゃないか。

 そして、ついに完成したアルバムを聴いたとき、壊しては作り、また壊しては作るその 過程がすべてなくなっているのではなくて、寧ろ刻まれているような印象を受けた。歌詞 に目をやると、「こぼれ落ちていくような感覚、これはなんだろう」とそのままにせず希 求する精神、「ただの霧さ」と言ってみても、そうだと認めたくないような雰囲気を感じ る。答えが出ない見つからない時にこそ、実は何かがスパークしている瞬間だと僕は思う。 それがそのまま形をなしている。僕のここで言いたいプロセスとはこのことだ。複層的な意味をもつ「ノスタルジア」のひとつはその瞬間に見えかかっているものではないだろうか。 そして、それを上回る、ポップス性!「ただの霧さ」と音に乗ったとき、ここまで書いた ことに意味はなくなる。プロセス、プロセス言っといてなんですが、やはりそれを甘美に 仕上げたところに一番のこのアルバムの意味があるような気がしてならない。

 1曲久しぶりに岡田の曲に歌詞を書かせてもらった(ラストトラックの“遠い街角”)。 「もう忘れてた 昨日の切れ端」は、冒頭に書いた「どこに行っちゃったのかなぁ」その ものだ。僕は、この詞を書いた時、あのものを、僕のノスタルジアを、確かに取り戻して いた。それは、『ノスタルジア』の影響に他ならない。

Sugai Ken - ele-king

 電子音楽家スガイ・ケンの新作はシネマティックなムードを漂わすアンビエント/コンクレートの傑作であった。「シネマティック=映画的なアンビエント」とは何か。それは音楽/音響が、映画のサウンドをイメージさせるかのように「非同期的」(坂本龍一『アシンク(async)』)に構成された音響作品を意味する。「世界」の「豊穣さ」の音響・音楽表現でもある。
 『不浮不埋』おいても音楽、環境音、微細なノイズなどが非連続的に構成され、肉体的に慣習づけられた反復的なグル―ヴを解体するようにサウンドのエレメント(それは日本的であり、ミニチュアール/神的なものだ)が非反復的に編集・接続される。音による「光景」が生まれているのだ。

 1曲め“湧き祕”で滴り打ち落とされる水滴の音に導かれるようにはじまる2曲め“をちかえりと渦女”を聴けばわかるが、スティーヴ・ライヒ的なミニマリズム(反復性)は解体され、「和的」な具体音が非反復的/ステレオフォニックにコンポジションされている。やがてそれは時計の音へと変貌する。光景は消えて、時間だけが残る。そして、森の中の鳥の声と、その場所の音と、時計の針の音のような音が重なる3曲め“時鳥”への転換も、時間の経過を描写することで、映像作品のシークエンス転換のように耳の遠近法を変えてしまう。続く「「滝宮の念仏踊り」という郷土芸能から着想を得ている」と語る4曲め“桶楽”では、走るような足音と心の芯に響くようなドローン、微かな環境音などが非反復的/非同期的に連鎖し接続され、このアルバムのムードを聴き手の耳に浸透させる。

 2016年にオランダの〈ララバイ・フォー・インソムニアック(Lullabies For Insomniacs)〉からリリースされた『鯰上』でも追及されてきた緻密なコンポジションが、〈Rvng Intl.〉から送り出された『不浮不埋』ではより「深い」領域で表現されているように感じた。「深い」とは、スガイ・ケンは日本の伝統的な音楽や風習などをフィールドワークしつつ自身の曲を創作しているのだが、まずもって「音」と「世界」の方が先にあるのではないかと感じられたからだ。
 「音」が先にあること。「音と世界」を聴くこと。そのような世界=音への意識・態度が『不浮不埋』のシネマティックな音響空間の生成・構成に大きな影響を与えているように思えてならない。それゆえにスガイ・ケンの音楽は豊穣なのではないか、とも。

 ちなみに同じく〈Rvng Intl.〉からリリースされたヴィジブル・クロークス『ルアッサンブラージュ(Reassemblage)』も同様の響きと非連続性を感じた。『ルアッサンブラージュ』は80年代の日本産アンビエント/ニューエイジ・ミュージックという宝石を再発見し、それを現代的にコンクレートするアルバムであり、「ニューエイジ再評価の現代的アンビエント・サウンド」を象徴する傑作であった。むろん『ルアッサンブラージュ』とスガイ・ケンの『不浮不埋』では参照点や音楽のタイプは違うが、2作とも過去=未知の音への調査と探求を経たうえで、非連続的(非反復的)なアンビエントに解体/再構成する音楽作品という点では共通点がある。その意味で2017年の〈Rvng Intl.〉のキュレーションは同時代の潮流をとらえていた。

 私はスガイ・ケンの音楽を聴くと、ふと映画作家のジャン=リュック・ゴダールのソニマージュ実践や実験音楽家/美術家のクリスチャン・マークレーのターンテーブル・コラージュ作品を思う。コンポジションとエディットが同列に存在しているからだ。スガイ・ケンの楽曲には、どこか「作曲」という意識だけではなく、一種の音と記憶の「トラックメイク」を行っているという意志を強く感じるのである。音の接続による記憶の再構成とでもいうべきもの……。
 日本盤をリリースしているレーベル〈メルティング・ボット(melting bot)〉のサイトに、スガイ・ケン自身によるセルフ・ライナーノーツ的なテキストが掲載されているが、これを読むと彼が日本の伝統音楽を調査し体感していく過程で観た/聴いた/体験した「光景」を自身の音楽にフィードバックしていくさまが語られている。なかでも「京都の山中にある月輪寺を訪れた際、道中の林道がとても印象的な光景であった」ため、それをもとに制作された7曲め“堂尻”は、光景的かつ記憶的で、彼の音楽の本質を照らしているように思えた。

 調査と体験。体感と記憶。記憶と解体。解体から生成。彼は記憶と体験から「音の光景」を編集するように音楽を生成・構成する。そして、その「音=光景」の果てには「冥界」のイメージを強く感じる。「柳女のイメージ」で制作されたという10曲め“障り柳”に耳を澄ますと、現実の時間空間意識が消失し、冥界の淵に立っているような気分になるのだ。日本のさまざまな伝統音楽(のエレメント)が、21世紀の「耳」を通じて、新しいアンビエントとして生まれ変わったのである。

Melanie De Biasio - ele-king

 「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル・ジャパン」で2015年、2016年と続けて来日公演を行ったメラニー・デ・ビアシオ。ベルギー出身の女性ジャズ・シンガーのメラニーだが、彼女を通常のジャズ・ヴォーカリストという区分ではあまり見ないほうがいい。確かにニーナ・シモンやビリー・ホリデイなどブルースに通じたジャズ・シンガーの影響は見られるし、幼少期はクラシックを学んでブリュッセル王立学院でジャズを専攻し、フルートも演奏するという経歴は彼女をジャズ・ミュージシャンたらしめている。しかし、彼女のセカンド・アルバムにあたる『ノー・ディール』(2013年)を聴いたとき、ニーナ・シモンやビリー・ホリデイなどと共に個人的に思い起こしたのは、ポーティスヘッドのベス・ギボンズだった。比較的オーソドックスなジャズ・バンド・スタイルで録音されたファースト・アルバム『ア・ストマック・イズ・バーニング』(2007年)と異なり、『ノー・ディール』はベース奏者不在で、メラニーのヴォーカルとフルート、そして最小限の鍵盤楽器とアナログ・シンセ、ドラムスによるミニマムな編成により、音数も絞った録音だった。その結果、バックのサウンドは音響を重視したダークな質感のもので、ジャズ演奏でありながらエレクトロニカ的なニュアンスも帯びていた。そうしたサウンドに、暗い情念に満ちたメラニーのヴォーカルが幽玄のように交わる。コンテンポラリー・ジャズにロック的なアプローチを取り入れたものでは、メロディ・ガルドーの『カレンシー・オブ・マン』などもあるが、『ノー・ディール』は圧倒的にダウナーで重厚、そして退廃的で、その音や声のありかたがジャンルは違えどポーティスヘッドを想起させたのだった。ジャズ・シンガーでいけばノーマ・ウィンストンやカーリン・クロッグなどの前衛的な唱法を持つタイプに近く、そこにビリー・ホリデイやニーナ・シモンに代表されるブルース・フィーリングを合わせたシンガーとなるかもしれない。

 ブリュッセル王立学院に進学する前は、ニルヴァーナに影響されたロック・バンドを組んでいたことがあり、インタヴューで「私にとってのベスト・シンガーはマイルス・デイヴィス、ベスト・ドラマーはジミ・ヘンドリックスよ」と随分とひねくれた受け答えをしているあたり、ひとことで言うならメラニーはオルタナティヴなシンガーだろう。レディオヘッドのフィリップ・セルウェイは、そんな彼女に恐らく自身と同じような部分を感じ取ったのであろう。自身が選ぶ2013年のベスト・アルバムの第1位に『ノー・ディール』を取り上げている。その後、ジャイルス・ピーターソンが監修した『ノー・ディール』のリミックス集に続き、2016年にリリースされたEP「ブラックンド・シティーズ」は、24分を超える大作1曲のみという異色の内容で、サウンドもプログレとジャズ・ロックの中間的なもの。ここでのメラニーのヴォーカルは歌というよりむしろ楽器の一部となっていた。それから1年ぶりにリリースとなった通算3枚目のアルバムが『リリーズ』である。“ユア・フリーダム・イズ・ザ・エンド・オブ・ミー”は、ますますポーティスヘッド色の強いロー・ビートの曲。歌詞はフォンテラ・バスの“レスキュー・ミー”にインスパイアされたものだろうか、彼女が参加したシネマティック・オーケストラの重厚な世界にも通じる。全体的には『ノー・ディール』以上にロック~オルタナ色が強まり、“ゴールド・ジャンキーズ”のようなインディ・ブルース・ロックも。“オール・マイ・ワールズ”でのメラニーの歌は、まるでヴェルヴェット・アンダーグランドにおけるニコのようでもある。“アンド・マイ・ハート・ゴーズ・オン”は土着的なフルートとモノローグのようなヴォイスによる神秘的な曲。5拍子の“レット・ミー・ラヴ・ユー”はエレクトロニカとジャズが結びつき、メラニーの退廃的なヴォーカルがミスティックな世界へと誘う。ここでも“ユア・フリーダム・イズ・ザ・エンド・オブ・ミー”にあった「レスキュー・ミー」というワードが登場するように、アルバム全体で魂の救済というのがテーマのひとつのようだ。魂の救済とは、すなわちブルースである。表題曲や“シッティング・イン・ザ・ステアウェル”、“ブラザー”は極力余分な音を排し、そのぶんメラニーの歌を際立たせたミニマルな楽曲で、彼女の歌からは強烈なブルース・フィーリングが漂ってくる。アフロ・キューバンの古典にして数多くのジャズ・シンガーが取り上げた“アフロ・ブルー”は、通常ならば強烈なブルース・フィーリングに彩られるはずだが、ここでは逆にブルース・フィーリングを表立たせずに、エレクトリックな音響の中で亡霊のように浮かび上がらせている。CDショップで本作はジャズのコーナーに並べられるのだろうが、そうしたジャンルにとらわれずにポーティスヘッドからレディオヘッドなどと並列して聴きたいアルバムである。


L.A. Witch - ele-king

 エレキング読者がカリフォルニアと聞いて思い浮かべるのは、フライング・ロータスだろうか。いや、ファッションが好きなご年配の方ならアナーキック・アジャストメントかもしれない……なんてことを徒然と考えながら書いてるが、筆者はどちらでもない。カリフォルニア州ロサンゼルスのロック・シーンを追っているからだ。

 最近のLAロック・シーンには面白いバンドがたくさんいる。ラテンノリのポスト・パンク・サウンドが売りのシスター・マントス、パンクとクンビアを掛け合わせたザ・コモンズ、モデルのスタッズ・リンデス率いるザ・パラノイズ、ファッション・ブランドのプリティー・グリーンによるキャンペーン・ヴィデオで曲が起用されたウォーブリー・ジェッツなど、早耳の音楽ファンなら誰もが知るバンドがずらりと並ぶ。
 なかでもザ・パラノイズは、エディ・スリマンがお気に入りということもあって、ファッション・アイコン的な人気もあるバンドだ。ささくれ立ったラウドなギター・サウンドも好評で、ダイヴのサポート・バンドとして全米各地を巡っている。ロックの影響力は弱まりつつあると言われて久しいが、ロックの虜になる者たちは今も世界中で後を絶たない。

 そんなLAロック・シーンから、またひとつ面白いアルバムが生まれた。『L.A. Witch』と名付けられたそれは、L.A.ウィッチというバンドによるものだ。
 L.A.ウィッチは、セイディ(ヴォーカル/ギター)、イリータ(ベース/オルガン)、エリー(ドラム)の3人組。2012年にシングル「Your Ways」を自主制作でリリースした彼女たちは、その後しばらくはレーベルをつけずに活動し、多くのライヴを重ねてきた。
 そうした彼女たちに目をつけたのが、アイアン・アンド・ワインやヘルスなどの作品をリリースしてきた〈Suicide Squeeze〉だ。いくつかのプロモ盤を配ってサポートしつつ、彼女たちにデビュー・アルバムである『L.A. Witch』を作らせた。「Your Ways」から約5年の歳月が経ってのリリースと考えれば、それなりの下積み期間を積んだうえでの制作と言える。

 このような道程の末に生まれたデビュー・アルバムは、彼女たちの魅力が詰まった最良の作品に仕上がった。ザ・ガン・クラブといったLAの先達パンク・バンドに通じるサウンドを匂わせつつ、ザ・ストゥージズを彷彿させるガレージ・ロックもあるし、ザ・クランプス直系のサイコビリーも見いだせる。そこにサイケデリックなフィーリングを少々振りかければ、L.A.ウィッチのサウンドは完成する。様々な要素で構成されているが、基本的には古のロック、それもアメリカを参照にした曲が多い。

 一方“Drive Your Car”といった曲ではポスト・パンクの要素も見られ、ダークでゴシックな雰囲気を醸すサウンドは、初期のスージー・アンド・ザ・バンシーズを連想させる。このゴシックな側面は彼女たちに欠かせないもので、アーティスト写真、ツアー・ポスター、MVでもオカルトチックな色合いをたびたび強調している。これはおそらく、『サスペリア』などのホラー映画が好きだと公言する彼女たちの嗜好も影響してるだろう。音楽以外の要素も積極的に取り入れて表現するあたりは、ただの懐古趣味ではない今のセンスを持つバンドなんだなと実感する。

 『L.A. Witch』を聴くと、他の音楽と同様ロックも更新されているというあたりまえの事実にあらためて気づく。先述したように、ロックはかつての強い影響力を失ったが、ロックそのものは今も存在する。メディアが騒ぎ立てなくなったことが、そのジャンルの死を意味するわけではないのだ。

日本では否定的なレヴューがタブーとなっているのはなぜか?

松田聖子から渋谷系、ナンバーガールからAKB48まで
英国人ジャーナリストによる日本のロック/ポップスおよび文化批評

日本に住んで13年、イアン・マーティンが描いた、日本のオーヴァーグラウンド/アンダーグラウンドの大衆音楽史、アイドルにおけるセクシャル・ポリティクスと後期資本主義、音楽メディアや公共性、伝統の問題……。

「日本メディアの側が自分たちの国をなんとも不思議な四つの季節を持ち、使うのがややこしい食器の数々を備えた神秘の地として描写したがるのと同じくらい、西洋側メディアも喜んでそのお返しとして奇妙でカラフルで派手やか、突飛なものなら何でも強調した東洋風な日本報道をおこなっている。こんな風にして日本の音楽は西側においては主に歪んだレンズを通して認知されることになるのだし、僕がイギリスで大きくなる中で抱いていた日本の音楽に対するイメージもまたこの点に大いに影響されたものだった。」(本書より)

BBCから取材され、The Quietusで記事が組まれ、Crack Magazineが「今年読むべき本」のNo.1に選んだ、イギリス人ジャーナリストによる噂の日本ロック/ポップス批評、ついに翻訳刊行!


■目次

パート1:僕はどんな風に日本の音楽シーンにたどり着いたのか、
そしてそこで僕が発見したのは何だったか

'97の世代
日本の音楽について書くということ

パート2:総合的かつ完全に正確きわまりない
日本のポピュラー・ミュージック通史

日本のポピュラー・ミュージックの初期展開
ロックンロール、日本上陸
ニュー・ロック
ロックンロールとガソリンの臭い
薬物不法所持逮捕からニューミュージックまで
成熟を迎えたポップと演歌の硬直化
パンク
ニュー・ウェイヴ
アイドルと歌謡曲の死
J-ポップと現代日本音楽の誕生
渋谷系、そしてインディを発見した日本
日本音楽の歴史の終わりと永遠のナウの誕生

パート3:ライヴ・アクトたちを見舞う経済的、政治的、そして実際的な
危険の数々、もしくはバンドをやめずに続けるにはどうしたらいいか

高円寺、東京にて
海外へ
日本の音楽は海外でどう受け取られているのか
日本音楽の海外進出作戦
愛のためでも金のためでもなく――ライヴ・ハウス事情
シーン内の政治をさばくには
シーンにある制約を克服するということ
レーベルはくたばれ
言い分は分かるけど、なんでCDの話になるの?
言語と日本人らしさ
すべてのアートは政治的である
サブカルとアイドル
おがくずの詰まった操り人形、音を出す操り人形:――“夢見るシャンソン人形”
ピンクのギター
何だって好きなことを言うのも、何も言わないのも同じこと
とは言っても、結局は……

ほか


●著者紹介
イアン・F・マーティン Ian F. Martin
イアン・マーティンが執筆した日本の音楽に関する文章は『ジャパンタイムズ』、『CNNトラヴェル』、『ザ・ガーディアン』他が掲載してきた。マーティンは東京を拠点に活動しており、そのかたわら〈コール・アンド・レスポンス・レコーズ〉も運営中。

●訳者紹介
坂本麻里子 Mariko Sakamoto
1970年(昭和45年)、東京生まれ。日本芸術大学映画学科卒業。『ロッキング・オン』を中心にライター/通訳として活動。本書が初の書籍翻訳。

音楽と建築 - ele-king

 最初に本書の編訳者高橋悠治が著者の足跡をまとめた「軌跡」を要約しながら略歴をおさらいいしよう。

 ヤニス・クセナキスは1922年(または1921年)5月29日(または6月1日)にブライラで生まれたギリシア系ルーマニア人。6歳のとき母に子ども用の笛をもらったのをきっかけに音楽の不思議に打たれ、ラジオでクラシック、民族音楽、教会音楽を聴き、古代の遺跡や文学にふれ、考古学、数学、天体物理学に興味を抱くも、ときおりしも第二次大戦のさなか、1941年にドイツ軍へのレジスタンスに加わり、戦後にはイギリス占領軍との戦闘に参加し負傷する。47年にフランスに亡命し、建築家ル・コルビュジエのスタジオで構造計算を担当する一方、51年から2年間オリヴィエ・メシアンの講義に出席し作曲を学んだ。のちに現代音楽と呼ばれる分野を牽引した作曲家を多数輩出したメシアンの助言にしたがい、ギリシア人である自身のルーツと建築家としての経験や数学の素養をいかす音楽を模索し、「メタスタシス」(1953~54)、「テレテクトール」(1965~66)、「ノモス・ガンマ」(1967~68)などの管弦楽、高橋悠治に献呈した「ヘルマ」(1961)や「ノモス・ガンマ」のプロトタイプであるチェロのための「ノモス・アルファ」(1965)などの独奏曲、確率論や群論をもちいた作曲法の開拓はコンピュータによる作曲プログラムや音響合成の礎石となり、それはやがて電子音響を視覚化して描く装置「UPIC」の開発にもつながっていく。建築や数学を音楽と等価に――というよりも、たがいの土台にあるものを陥入させあい独自の地層を築くクセナキスの思考は視覚のみならず、空間全体にひろがり、「ポリトープ」や「ディアトープ」などの作品に実を結んだ当時、まさに絶頂期の論考が本書の中心だが、クセナキスはその後もうまずたゆまず170曲以上を世に問い、ギリシア文字の〆となる「Ω」を表題に冠した打楽器と室内オーケストラのための「オメガ」(1997)を最後に、新世紀が明けてまだ日もあさい2001年2月4日、この世を去った、いうまでもなく20世紀音楽を代表する作曲家のひとりである。

 その作風はふだんこの手の音楽にふれることのすくない読者の方でも、音楽の先鋭性や求道性を形容する文脈で「クセナキスっぽい」とか「クセナキスを思わせる」とかのセンテンスを目にされたことがあるかもしれない。私なども、難解さの言い換えでご尊名を拝借したこともしばしばだが、その音楽的方法の背景にある思想体系を十全に理解していたとはいいがたい。なんとなれば、確率論や群論といった数学の公理や関数や方程式がその背後にひかえているからであって、ことにポピュラー音楽の愛好家には数字を目にするだけみなかったことにしようと思われる方もすくなくないだろうがそれではまことにもったない。クセナキスの音楽のみあげるほどの構築性と圧倒的な動態はいまなお抽象物としての音の可能性の中心をなしている。この本は彼の叢雲のような思考にわけいる手引であり、200ページに満たないこぶりな書物だが行間と紙背にあるものは原書の発行から40年経ったいまも汲めども尽きないゆたかさをたたえている。

 クセナキスは「確率論と音楽」と題した第1章で自作「ピソプラクタ」を例に、この論文を発表した1956年当時の音楽のあたらしい潮流だったセリエル音楽(ミュジック・セリエル)の批判的のこりこえをはかっている。セリエル音楽とはシェーンベルク、ことにそのもっとも徹底した継承者であるヴェーベルンら新ウィーン楽派の12音技法の等価性を音の持続、強度、音高、音色に敷衍し、パラメートと化した音を構造化する作曲技法で、ブーレーズやシュトックハウゼウンがおもだった先導役だった。クセナキスはセリエル音楽を、幾何学的で量的なものであり線的な思考性にとどまっていると批判するところから自作を例証し論を展開するなかで、のっけから数式やグラフが登場し読者はうへーとなるわけだが、つづく2~3章でしだいにつまびらかになっていくその思想の土台には音楽史にあったただ彼だけがなしえた思考の高みがみてとれる。確率や群論などの数学の援用ひとつとっても、シュトックハウゼンいうところの「点の音楽」(『シュトックハウゼン音楽論集』所収の論考「技法(手仕事)の状況」を参照)の連結である「線の音楽」であるセリエル音楽を「面の音楽」からさらにクセナキスのあの有名な命名法を借りれば「音の雲」(密度、変化速度などの要素が特徴づける音の塊)へ分布~展開するための方途であり、即興ないしケージのチャンス・オペレーションなどにおいてブラックボックス(神秘)化する作曲の課程を明晰(理論)化する方途でもある。方法の土台にはクセナキスのルーツであるギリシアからビサンチンの音楽をもとに平均律の陥穽を剔出し、音を多面的に考察する重要性を指摘するのだが、そのためには音を時間内/外のカテゴリーで把捉しなければならない。時間内とはいわゆる音響事象のあらわれ方であり、時間外の一例は任意のピッチの音階などである、それらを音の最小単位(平均律の半音より細かい微分音が前提となる)→音階→それからなるシステム→システムを運用する場(トポス)といった具合にクセナキスは審級化する。むろんその課程には篩法のような数論の技法が説明なしに出てくるのだが、クセナキスにとっておそらく数学という人類史上もっとも完成した体系そのものが篩(フィルター)だった。それで漉した音楽に古いも新しいもない。クセナキスはギリシアの古代音楽と来るべき電子音楽が矛盾なく同居する音楽空間を夢想していた――というような言い方では曖昧にすぎるだろう。おそるべき明晰さで彼はそれを厳然とみすえていた。

 ピーター・ペジックは『近代科学の形成と音楽』(NTT出版)で、ホワイトヘッドの「近代科学にとって数学は『ハムレット』におけるオフィーリアである」との言を受け、「科学にとって音楽はハムレットの親友ホレイショーである」と序章に記したが、歴史の起源にあってハムレットとオフィーリアとホイレショーはもっと濃密だった。一体化していたといってもいい。「万物は数である」と言い放った(といわれる)ピュタゴラスは、みなさんもどこかで耳にされたことがあるにちがいない整数比の音の協和をもとにしたピュタゴラス音律でも有名だが、音楽における感覚と理性の優位を説きピュタゴラスと対立しやがて歴史の王道を外れていったアリストクセノスにクセナキスが同情的なのも、たとえ数の公理と論理に準拠したとしても、作曲家は感覚と美学の決定権を放棄しないどころか、そんなことはそもそもできないという原則であり、それは古代から未来までを貫くという確信ゆえであろう。

 確率音楽はセリエル音楽の線的な思考の更新をはかるだけでなくそこに潜在する時間にたいするリニアなアプローチをものりこえようとする。音の密集や拡散は音響の強度であるとともに現象の時間的な持続性もかねているように思うことが、クセナキスの音楽を聴いているとよくある。逆に彼が多用するグリッサンド(ある音程から別の音程まで途切れることなく移動する音の動きないし奏法)は音の時間的な持続であるだけでなく、空間的な移動の表現とも解釈できる。むろんこれは主観の問題にすぎないが、このような顛倒は音楽は時間芸術である云々という常套句以上に空間をも問題すべきだという気づきをうながす。ここでもシュトックハウゼンらの歩みとパラレルにクセナキスは作曲に指標にとりこまざるをえず、そのことはやがて曲を書くというのと同時に、その曲をいかに音に結実させるか、そのためのシステムを考案することに腐心させることになる。

 この本の後半が「建築」に割かれているのもいわば必然である。クセナキスはコルビュジエのもとで構造計算を担当したのはすでに述べたが、第二部「建築」では1958年のブリュッセル万博でのフィリップス館を例に、そこでとりくんだ立体的建築の野心的なこころみを概観している。立体建築とは直線と平面による近代建築批判として、曲面や円筒面、二重曲面などをもちいた建築様式をさしている。それまでの建築は平面を展開したものであり、空間の立体たる特性を活用していない、とクセナキスは考えた。その問題に彼がどのようにとりくんだかはぜひ本書を手にとってたしかめられたいが、それを読みながら私が思い出したのはある有名な箴言である。

 「建築は凍った音楽である」ないし「建築は凝固した音楽である」ともいう。この警句を発したのはゲーテ(1749~1832)であるといわれるが、芦津丈夫は「凝固した音楽と共通感覚――シェリング、ゲーテ、ヘルダー――」でショーペンハウアー(1788~1860)の『意志と表象としての世界』続編Ⅱの第39節「音楽の形而上学」を引きながら、それがゲーテと、『ゲーテとの対話』の著書があるエッカーマンとの対話であることをあきらかにする。ゲーテいわく「わたしは書類のなかに、建築は凝固した音楽であると書きこんだ紙片を見つけた。またじじつこれは或る程度たしかにそのとおりだ。建築からかもしだされる気分は音楽の効果に近い」(ショーペンハウアー全集6「意志と表象としての世界・続編Ⅱ」塩屋竹男・岩波哲男・飯島宗享訳、白水社)。建築が音楽に近いといわれても、なるほどそうですねというひともいればピンとこない方もおられよう。芦津はゲーテが親交をもった年少の哲学者シェリングの「芸術哲学」講義草稿にそのことばがみえることからゲーテの発言の大元はシェリングであると指摘するが、そもそも凝固した音楽とはなにか。建築がかもしだす気分とはどういうものなのだろうか。

 私なぞウォーターフロント(死語)のタワマン(新語)などをみても、そんなものに血道をあげてご苦労さんとしか思わないが、ゲーテやシェリングにならえばそれはよこしまな考えとなる。ショーペンハウアーは建築のシンメトリーと音楽のリズムに相同性をみいだしている。シェリングは「……造形芸術の音楽としての建築は、それゆえ必然的に算数的な比例に従っている。だが建築は空間内の音楽、いわば凝固した音楽であるので、ここでの比例は同時に幾何学的な比例となる」(『芸術哲学』訳文は芦津丈夫による)といい、ゲーテはシェリングの言を敷衍しそれは凝固したものというより「沈黙した」音楽であると言い換えている。あたかもジョン・ケージを予見するかのようなこのことばは、エリック・ドルフィーさながら、音楽は時間とともに過ぎ去り空間に痕跡をとどめないということを念頭に、一方の建築は音楽に似た規則性を空間にもたらすということだろうが、いずれにせよ、ゲーテにとって音楽との相同は不動であり、その根底には音楽とはまずもって(ユークリッド幾何学的な)調和(ハーモニー)であるという機制がはたらいている。

 その価値観はゲーテやモーツァルトやベートーヴェンを生んだ18世紀後半から19世紀を貫き、プルーストの『失われた時を求めて』で主人公が聖堂や鐘塔や身廊に官能的といってよい嘆息をもらす場面を目にすると――むろん教会を神の身体とみなす宗教性抜きに考えられないにしても――、おそらく20世紀初頭でもかわらなかったどころか、建築の技術的革新を糧に、神を代理する資本にひとびとを跪かせながら21世紀のタワーマンションをも支配している。その固着した価値観に挑む建築家=クセナキスの姿勢は作曲家としての彼の歩みと軌をひとつにし、両者はやがて彼の表現において区分する必要はなくなっていく。第8章「見るための音楽《ディアトープ》」で例証する「ディアトープ」のように、コンピュータで統合した音楽は光源を使ったライトアートと一体化し「バレエでもオペラでもなく、光と音、視覚と聴覚の新しい芸術、星や地球についての、音楽的で抽象的なスペクタクルが生まれる」のである。時間と空間のみならず、聴覚と視覚を結びつけるクセナキスの総合へのあくなき探求は「宇宙都市」(第7章)を提言するまでに高まっていくのだが、ほとんどSF的といってもいいこの論文(初出は1965年)を、それでもたんに荒唐無稽と退けるわけにはいかない。むろん宇宙時代の産物ではあるが、そこには戦中戦後抵抗運動にたずさわってきたクセナキスのものの見方が反映している。音楽はいうまでもない。クセナキス自身は自身の来歴や思想的背景を本書では述べないが、経験は彼の音楽に深く根をはっている。音楽は人間の心的活動であるから決定項の何割かはそこからくるが、他方でメカニカルな音の組み合わせであるから、そこに数学の論理をとりいれてみる、あるいはコンピュータをもちいてみる。すると音は拡散し分布し、空間的な広がりをもつ「音の雲」となりつねに運動しやむことがない。それは一見、きわめて抽象的だがたぶんに感覚的である。感覚を感情ととりちがえてはならない。聴覚は感情ではない。クセナキスの音楽は純粋に聴覚に訴えかける。と同時に、それがたぶんに視覚的でもあるのは「音の雲」という形容もさることながら、音が空間のなかで持続して運動するからである。そしてそれは空間を媒介に音を触知でできる感覚さえ惹起する。のちのペンでタブレットに線を描いて作曲するコンピュータ「UPIC」の開発はそのような感覚統合のツールであり、これがあればだれしも脳内に去来した音のイメージをいちいち五線譜に移し替えなくても、目で見て手を動かし発生した音を聴きながら感覚的に作曲できる。あなたがいま使っているグラフィックインターフェイスの音楽ソフトのはしりだと思っていただければ、難解だと敬遠してきたクセナキスの音楽もぐっと身近になる、かもしれない。

 クセナキスは科学を音楽にもちいることを時間と空間と論理の秩序構造の変化のためのきっかっけとし、さらにそこから「死すべき者永遠の二元性」の解決をはかろうとした。クセナキスはいう「未来は過去にあり、その逆も言える。現在のはかなさを打ち破り、あらゆる場所に同時に存在し、「ここ」が20億光年の彼方でもあるような……」

 ふたたびゲーテにまいもどると、芦津は音楽と建築という相容れない分野を同列に語るところに「共通感覚」をみいだしている。19世紀においてそれを通底させるものは調和の感覚だった、それが20世紀では有機的で動的で不定形なものに変わってきた。そこにモダニズムの劃期があり、それを述べるにはヴェーベルンやメシアン(クセナキスが師事したメシアンはまた共感覚者であったとよくいわれる)に、建築の分野ではコルビュジエはもちろん荒川修作の仕事もわすれてはならないが、長くなるので稿をあらためるとして、最後にもういちど古典にまいもどってみたい。

 「もうもうたる靄がたちまち広間をこめる。靄は伸びたり固まったり入り乱れたり分かれたり、組み合ったりして忍びこみ、雲のように流れてくる。靄が漂うと、音楽の音が起こります。渺渺たる音響からなんとも知れぬものが湧きだし、また靄が棚引けば、すべてが旋律となります。円い柱も、その上の三条の飾りも鳴り響きます。まるで神殿全体が歌っているかと思うほどです」(ゲーテ『ファウスト』第二部第一幕「騎士の間」6441~6448行(一部省略)相良守峯訳、岩波文庫)

 クセナキス以後、私たちは靄や雲の歌に耳を傾けることができる。(了)

Throbbing Gristle - ele-king

 スロッビング・グリッスルのクラシック(という言葉がこれほど似合わないバンドもいないのだけれど)『セカンド・アニュアル・レポート』から40年! ということで、この11月から来年の春まで、怒濤のリイシューが続くわけですが、日本盤をリリースしている〈トラフィック〉からTGの缶バッジとステッカーのセットをいただきました。このセットを読者5名様にプレゼントいたします。
 メール:info@ele-king.net
 件名:TGプレゼント応募
 ●TGで好きな曲を1つお書きの上、メールを送ってください。
 締め切りは、11月10日の正午12時までとします。当選者にはこちらからメールします。

Four Tet - ele-king

 今年の頭にSpotifyでフォー・テットことキーラン・ヘブデンがプレイリストを公開していた。自作曲や盟友のダフニカリブー)、ブリアル、フローティング・ポインツなどの作品から、ジョン・コルトレーン、サン・ラー、ユゼフ・ラティーフ、ドン・チェリー、アルバート・アイラー、スタンリー・カウエルなどのジャズ、そしてラヒーム・アルハジ(イラク)、マルティク(イラン)、オマール・スレイマン(シリア)、ナジ・バラカ(イエメン)といったアラブ~アフリカ諸国出身者たちの作品が並んでいた。これらアラブ~アフリカ諸国はトランプ政権が条件付き入国禁止令を発した国々で、フォー・テットならではのトランプ大統領への抗議であったわけだが、同時にフォー・テットのワールド・ミュージックに対する興味が自然と表れたリストでもあった。フォー・テットは昔からワールド・ミュージックへの造詣が深く、オマール・スレイマンのアルバム『ウェヌ・ウェヌ』(2013年)をプロデュースし、ジャズ・ドラマーのスティーヴ・リードとのコラボではアフリカ音楽に接近していた。彼のフォークトロニカ作品からは、民族音楽の影響を受けたミニマル・ミュージックやインドのラーガ・ミュージックの要素が透けて見える。2015年の近作『モーニング/イヴニング』でも、インド人シンガーのラタ・マンゲシュカルをサンプリングしていた。こうしたワールド・ミュージックへの興味には、自身がインドの血を引くということもあるが、音楽のグローバリズムに対する反発心もあるのではないだろうか。欧米(特にアメリカ)の音楽産業が作り出す画一化、商品化された音楽に対するアンチテーゼとして、それらワールド・ミュージックへ興味が向かうことは自然な流れである。彼が作るダンス・トラックはハウスやテクノ、ダブステップなどグローバライズされた形式が多いが、そこにワールド・ミュージックの要素を入れることにより多様性を保っていると言える。

 Spotifyのリストは政治的、音楽的にもアメリカ主導のグローバリゼイションに対抗するものだったわけだが、ここではまた“トゥー・サウザンド・アンド・セヴンティーン(2017)”“サイエンティスツ”“SW9 9 SL”“プラネット”といくつかの新曲が披露されていた。これらはシングル・カットされたが、そのまま最新アルバム『ニュー・エナジー』収録曲となった。『モーニング/イヴニング』がLPで片面20分ほどの作品2曲を収録した変則ミニ・アルバムだったので、13曲収録した『ニュー・エナジー』は2013年の『ビューティフル・リワインド』以来のフル・アルバムと言える。『ビューティフル・リワインド』はフォークトロニカやエクスペリメンタル系もあるものの、“クールFM”のようなアグレッシヴなトラックに象徴されるように、全体的にはポスト・ダブステップ~ベース・ミュージック~ジューク寄りのアルバムで、その前作の『ピンク』(2012年)と共にフォー・テットのダンス・ミュージック性にフォーカスしたものだった。一方、『ニュー・エナジー』では“SW9 9 SL”“プラネット”“ラッシュ”あたりがDJライクなダンス・トラックで、フローティング・ポインツあたりとの相関性が見出されるテック・ハウス系ナンバー。しかし、“プラネット”で顕著なチャイム、またはベルのような音は、昔からフォー・テットが多用してきたもので、ここでは和琴や中国の古琴の音色を彷彿とさせ、インド音楽に通じる繊細さを生み出している。『ビューティフル・リワインド』にあった攻撃性はここにはなく、むしろかつてのフォークトロニカ時代の美麗さに包まれている。そもそもストリクトリーなダンス・トラックに、美しくてアンビエントな要素を共存させるのはフォー・テットが得意とするところで、そうした点でこの“プラネット”は極めてフォー・テットらしい作品であるが、同時にフォー・テットとワールド・ミュージックの繋がりも再認識することができるだろう。

 ダウンテンポの“トゥー・サウザンド・アンド・セヴンティーン(2017)”でも、この琴かハープのような音色は印象的で、個人的にはアリス・コルトレーンの作品を思い起こさせる。やはりこのハープ風の音色が鍵となる“メモリーズ”は、ララージとブライアン・イーノのコラボのようでもある。そして、重厚なベース・サウンドに鳥の囀りやアンビエントなキーボードが絡む“LAトランス”、ローリングするジャズ・ドラムとミニマルなマリンバの組み合わせの“ユー・アー・ラヴド”、ロー・ファイなブレイクビーツと娘の声をループさせたフォークトロニカ調の“ドーター”といった作品の合間に短いインタールード系楽曲を挟み、アルバム全体のトーンとしては『ビューティフル・リワインド』や『ピンク』に比べて内省的で、奥行きが深いものとなっている。“アラップ”はアコースティックなハープ風の音色で綴られ、かつての『ラウンズ』(2003年)頃に通じる牧歌的なムードを持つ。一方で“SW9 9 SL”のようなエレクトロニック・サウンドがあり、ここ数年のフォー・テット作品の中で『ニュー・エナジー』は、エレクトロニック・サウンドとアコースティック・サウンドがもっとも良いバランスで配合されたアルバムではないだろうか。フォー・テットにとって『ゼア・イズ・ラヴ・イン・ユー』(2009年)は転機となる作品で、それ以降はミニマルでエレクトリックなダンス・トラックが増えていったわけだが、『ニュー・エナジー』はそれ以前のフォークトロニカ時代の面影を感じさせる作品で、そうした触媒のひとつにワールド・ミュージック的な要素が用いられていると言えよう。

ぼくはこんな音楽を聴いて育った - ele-king

ここに書いてあるのは1959年生まれで日本に育った子どもがどんな音楽をどんなふうに聴いたのかって話で、きっとそういうことを書き残したり、伝えたりすることのほうが、その音楽がなんであったかを考えるときには重要なんじゃないかって思って書いた本なんです。(本書295頁、あとがきより)

 ギタリスト、バンドリーダー、ターンテーブル奏者など複数の肩書きを持ち、ジャンルの境域に囚われることのない音楽活動を続ける一方で、文筆家としてもこれまでに多数の単行本を著してきた大友良英による、幼少期から思春期にかけての出来事を綴った自伝的エッセイ『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』が刊行された。全42話のうち24話までが書き下ろし、それ以降が「webちくま」での連載をまとめたものだが、もともと進められていた本書の執筆を継続するために連載がおこなわれたということもあり、内容は途切れることなく一連の流れに沿って収録されている。ときに学園ドラマ風のストーリーを描きながら、ときに私小説的な内省に耽りながら、ときに物故者への追悼文のかたちを取りながら、傍で読者に語りかけるような飄々とした文体で、著者がいかにして音楽に興味を抱き、自らもおこなうようになったのかが記されている。

 改めて述べるまでもなく、核となっているのは著者と音楽(あるいは音)との関わりである。たとえば大人たちの目を盗んでポータブル・レコードプレイヤーで聴く坂本九。近所の子供たちと一緒に見るテレビから流れるクレージーキャッツや特撮ドラマの劇伴。中学校の同級生の「永山くん」とレコードを貸し借りするうちにのめり込んでいったプログレッシヴ・ロック。高校で「猫背先輩」に半ば無理やり引き入れられたジャズ研究会と、そこから広がる即興とノイズの世界。あるいは親戚と遊びで即興セッションをやってみたり、シンセサイザーを自作したり、ベースやギターなどの楽器を手に入れては悪戦苦闘したりする姿。エッセイに登場する固有名詞などは、1話ごとに設けられた、これだけでも充分に読み応えのある須川善行によるコラムのなかで詳細に解説され、不自由なく読み進めるための知識を得ることもできる。本書は高校を卒業して上京する十代の終わりで閉じられているため、続編も期待されるところである。

 自叙伝と言っても、大友が自らの来歴を語るのはこれが初めてではない。今年の春に刊行された『音楽と美術のあいだ』をはじめとして、鍼灸師・竹村文近との共著である『打てば響く』、故郷福島の現在を巡る『クロニクルFUKUSHIMA』『シャッター商店街と線量計』、日々の記録をまとめた『大友良英のJAMJAM日記』は言うに及ばず、処女作『MUSICS』に遡るまで、思えば大友の著作ではつねに彼の個人史と密接に関わる内容が書き記されてきた。だがそれは武勇伝や過去の栄光を恥ずかしげもなく披瀝する「自分語り」とは似て非なるものである。彼が語る個人史は、大友良英という人物の業績に迫るというよりも、どのような時代状況のなかに自らがいて、どのような人物や作品が周りに存在していたのかという、いわば他者に対する眼差しがつねに織り込まれているからだ。

 それは大友がゲストディレクターを務めた札幌国際芸術祭2017での自身のアーカイヴ展にもあらわれている。同芸術祭では様々な規模と形態による複数のアーカイヴ展が開催されていたのだが、なかでも三岸好太郎美術館でおこなわれた大友によるそれは、生誕から現在に至るまでの足跡を辿るようにして、写真や収集物、自作したシンセサイザーや寄せ書きが記された楽器、果ては大学時代の論文、あるいは自筆譜やリーダー作・参加作のアルバム・ジャケットなどが並べられ、それぞれに手書きのコメントが添えられているというユニークなものだった。奥の部屋には新作インスタレーション「waltz for clown」が設置され、過去を照らし出す展示物を眺めることが、同時に現在の音の作品を体験する時間としても流れていた。

 とりわけ印象的だったのは、そうした大友良英の個人史を辿ることが、彼のことを知るという以上に、いつのまにか別の歴史に触れてしまう入口にもなっているということだった。美術館内を逍遥するわたしたちは、かつて高柳昌行の私塾でどのような教本が使われていたのかを知り、『インプロヴィゼーション』の邦訳前の日本においてデレク・ベイリーがどのように受容されていたのかを知り、江波戸昭が明治大学でおこなっていた講義の一端を知り、殿山泰司や田中克彦の著作群と出会うことにもなる。個人史を辿ることが同時に文化史に触れることでもあり、さらに様々な人物や作品を知るためのきっかけの場にもなっていたのである。それは大友がかつて「誰かの人生を変えるという残し方」と述べていたアーカイヴのあり方の、人生を変えられた自らを曝け出すことによる、展覧会としての実践だと言うこともできるだろう。

 本書もまたこうした視座のもとに捉えられなければならない。それは音楽家・大友良英の自己形成過程を辿る自叙伝であるとともに、20世紀半ばに生まれた一人の少年が音と触れ合い音楽の世界に入っていったドキュメントでもあり、音楽を紹介するために設けられたひとつの文脈の提示でもあるのだ。「正しい音楽史」がもはやそのままでは共通言語として機能しなくなった現在であればこそ、こうした小さな物語のひとつひとつの強度が、音楽を歴史的に把握するための立脚点になる。そして本書にドキュメントされた一人の少年が、歌謡曲やテレビドラマの劇伴から、わからないながらも阿部薫や高柳昌行、デレク・ベイリーの音楽にひっかかり、興味を抱いていくという過程は、そうした音楽に親しみのない読者の目線を用意している、と指摘することもできる。この点でも本書は「自分語り」とは程遠い。

 世界にはわからないものがある。そのわからないものに対する想像力が失われかけている現代社会において、個人史であり、20世紀音楽の文化史であり、そして「わからない」音楽の入門書でもある『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』は、大友ファンのみならず、ひいては音楽ファンのみならず、この社会の息苦しさを少しでも感じ取ったことのあるあらゆる人間に対しても、生きる豊かさをふたたび思い起こさせるような、必携の書物であることだろう。

Beck - ele-king

「たぶん僕はこれまでで自分の半分を出していて、まだ残りの半分を探してるんだ」

 これはTVのインタヴューでのベック・ハンセンの発言で、一体いつ頃の言葉なのかというと、『Morning Phase』が発売された年。2014年。つまり、20数年以上の経歴があるなかでの、最近の話。ワオ。13枚目のアルバムになる最新作『Colors』を聴いたときに、ふとこの発言を思い出して、なるほどな、と納得した。前作でグラミー賞の最優秀アルバム賞を獲得したベックは、これから残りの半分の音楽生活をスタートさせようとしている。これがきっとそのはじまり。

 ダフト・パンクと間違えるようなディスコティックなタイトル曲。しょっぱなのテンションの高さは1999年発表の『Midnite Vultures』を思い起こさせるけれど、あのクレイジーでナナメな感覚は今作『Colors』にはほとんどない。内気でとても穏やかだったセルフ・プロデュースの前作とはうって変わって、アデルなどの作品を手掛けたグレッグ・カースティンとの共同プロデュースの10曲は、ほとんどの曲がアップテンポで煌びやかでハイファイ。これまでのベックの音楽をずっと追い続けていた人ならば、らしくないほど綺麗に跳ねまくるビートに若干戸惑うはず。しかし、そこは腕の見せどころというか、再生してみれば不思議と耳に馴染んでいく魔力がある。サッカーゲーム「FIFA 17」のサウンドトラックで昨年から公開されていた8曲目の“UP ALL NIGHT”や、今年はブロークン・ソーシャル・シーンやソロでも精力的に活動しているファイストがヴォーカルで参加した3曲目の“I'm So Free”などの楽曲にも、パワフルでありながらもどことなく歪んだベックらしさみたいなものもチラホラと覗かせている。

 もちろんローファイで名を馳せたオルタナティヴの王子の大胆なアップデートを黙って受け入れられるのは、過去に数々の名盤を作り上げてきたその才能やセンスに絶大な信頼を寄せているからで、正直いうとベックがいつものように前作とはまったく別の新しい音を披露してくれた時点で点数をつけるなら80点だ。甘いかもしれない。だけど音楽はその1枚だけではなくいろんなものと繋がっていて、そのときに生まれた意味があると私は思っている。往年のヒット曲で一晩のセットリストを余裕で組めるようなミュージシャンが、いまだ失速せず新しい自分を探しつづけ、驚かせ、大きな歌声で遠くの方まで届けようとしている姿。腕力のなさそうな細い体は“Loser(敗者)”で世に出た頃の面影を残しているけれど、無邪気で力強くていまのほうがよっぽど元気に見える。そしてピアノの軽快な音とカラッと明るいメロディに「親愛なる人生よ、僕はしがみついてる このスリルを感じなくなるまで どれだけ待たないといけないんだ?」と乗せた4曲目の“Dear Life"を聴くと、その鮮やかさのなかに透けてみえる心にちょっと胸が痛む。そのとき隣では、ベックの思惑どおりに、幼い我が息子が腰を揺らしながら「あああああ~」と真似て歌っている。

 ポップスなんて興味ないし、スーパーマーケットで流れる音楽なんか全然好きじゃない。だけど負け犬のレコードを部屋でひとりで聴いていたある種の若者はだいぶ歳をとって、そのころに生まれた子供たちは外に出て誰かとバンドを組んでいる。人生の1枚を教えてくれる雑誌なんて無いし、サンプリングを駆使した名盤は一向に再発されず、MCAはもういない。ある時代の呪いを解く時期を見つけるには充分に年月は経ったし、本当は解放されたがっている。イッツ ライク ワオ! いまがそのときみたいだ。新しい音楽がそう教えてくれる。


 でもこのアルバムが傑作か、そうでないのかはまだ答えが出ない。何故ならベックはまだ残り半分の自分を探している途中だから。次はまたいつもの脱力サウンドに戻る可能性だってある。だけど私は、雨あがりの虹みたいに、出会った人の気分を一瞬で明るく変えてしまうこのカラフルなアルバムを好きにならずにいられない。ベックの色。ベックの夢。ベックの愛。ベックの人生を。これぞ音楽だといわんばかりのその音楽を。

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