Home > Reviews > Album Reviews > Iggy And The Stooges- Ready To Die
どうも、アラセヴ(アラウンド70)担当になったようだ。
老齢化ではなく老獪化が進んでいるボブ・ディラン、冷徹に老いと死を見つめる詩人レナード・コーエン、年齢などという俗世界のコンセプトとは無縁の異次元界を突き進んでいるスコット・ウォーカー、「過去はあった。しかし、それらはすべて過ぎてThe Next Dayがある」の老いのロックを宣言したデヴィッド・ボウイ。などについて書いてきたわけだが、ついにイギー・ポップの登場である。
アラセヴ・ロック。というかつてなかったカテゴリーが登場するにあたり、老いる。というリアルな人生のテーマは、いったいどのようにロック的に消化され得るのであろうか。というテーマをちまちま考察してきたのであったが、ここでイギーが、ばーんと『Ready To Die』などというタイトルで来たものだから笑った。
いや、もうそんなことを言われると、そうですかとしか言いようはない。相手はダイナマイトを腹に巻いて立っておられるのだ。
中年向けロック誌『UNCUT』のレヴューは、「『乳首たちはやって来て、乳首たちは去って行く』だの、『俺はロックンロールなアティテュードを持った男』だの、いったいこれらの歌詞にイギーの心は入っているのか」と嘆いていた。たしかに、女の豊乳を賛美した"DD's"や、ロックンロールな男が低賃金労働者になる"Job"など、「65歳になって若者のアンガーを蘇らせようとすれば、それは演技に聞こえる」と『UNCUT』が指摘するとおり、コテコテにアンチエイジングなロック・ワールドが展開されている。
ロン・アシュトン亡き後、シリコン・ヴァレーでの仕事をリタイアして戻って来たジェームズ・ウィリアムソンのギターの影響も大きいと思う。1980年にイギーと喧嘩別れし、きっぱり音楽業界とは手を切って「ザ・ストゥージズなんて聞いたこともないギークたちに囲まれ仕事をしていた」という彼のギターが、まるで長年の鬱憤を吐き出すかのようにスラッシュしている。40年前にリリースされたザ・ストゥージズの『ロー・パワー』は、パンクやメタルの基盤を作ったと言われる名盤だが、そのアルバムが、ジェームズ・ウィリアムソンが参加して初めて発表された作品だったのは偶然ではない。ジョニー・マーは彼を「一番好きなギタリスト」と言うし、ピストルズのスティーヴ・ジョーンズは、『ロー・パワー』をコピーしてギターを学んだという。63歳の爺さんがこんなギターを弾いて良いのか、と思うほど激烈なそのサウンドを聞きながら、老年パンクねえ。と、わたしはため息混じりに昆布茶をすする。
と、なぜか、ふと思い出したのは『レスラー』という映画だった。思えば、昨年ソロ・アルバムをメジャーから出せず、自主制作しなければならなかったイギー(今回のアルバムもメジャーではなくインディーからのリリースになったことは、イギー自身がプロモ映像でコメディー・スケッチにしている通りだ)と、ミッキー・ローク演じるドサ回りのレスラーになったプロレス界の過去の大スターには、被るところがある。昔のイギーはブルース・リーに似ていたが、近年は乾布摩擦で体を鍛えている東洋人の爺さんのような風貌になってきた。そんな彼の肉体に対するストイックさも、心臓発作で倒れながらもステロイドを打ってリングに立つミッキー・ロークと重なる。
あの映画には、アンチエイジングなどというマーケティング用語では表現できない、詩的にして何か凄絶なものがあった。ミッキー・ロークが一世一代の名演で魅せた、もはやセルフパロディーとすら呼べない、そうでしか生きられない男の老いのポエジー。それを音楽界で演じられる者があるとすれば、イギー・ポップしかいない。
過去2作のソロでは渋くジャジーな世界を探求していたので、今回のアルバムは彼にとり、ニック・ケイヴにとってのグラインダーマンのようなものだという説もあるが、イギー&ザ・ストゥージズは、そういう一過性のミッドライフ・クライシスのようなものとは違う。
淫力魔人を演じることは、イギーという詩人のライフワークなのだ。アンチエイジングの仮面をちょっとずらして、"Beat That Guy"のような曲を歌うときに、『レスラー』のポエジーが漂うという、実に戦略的なイフェクトも含めて。
そのあたりは、イギー自身が、単なるおっぱい星人の歌かと見せかけた"DD's"で奇しくも吐露している。
IT DOESN'T MATTER IF YOU'RE REAL OR FAKE
いや、そう言われてしまうともう、そうですかとしか言いようはない。なにしろ相手は、ダイナマイトを腹に巻いて立っておられるのだ。
ブレイディみかこ