「Noton」と一致するもの

Laurel Halo - ele-king

 ポスト・ヒプナゴジックの平野を垂直に駆ける才女、閃光のローレル・ヘイロー。方法といいセンスといい、じつに鮮やかで凛々しい。ベース・ミュージックの知性やストイシズムがぶつかりあう〈ハイパーダブ〉のようなレーベルにおいて、まったく鮮烈な戦果をおさめている。

 デモを送ったところ〈ヒッポス・イン・タンクス〉よりも〈ハイパーダブ〉のほうが反応がよかったのだそうだが(『ele-king vol.6』竹内正太郎のインタヴュー記事参照)、どちらかといえば彼女の音は、ゲームスやジェイムス・フェラーロを擁し、チルウェイヴをへて瞑想化するインディ・ダンスの先端を掘削している前者に順接するから、この点〈ハイパーダブ〉は慧眼であった。ハイプ・ウィリアムスも両者にまたがる存在である。もちろん、ローレルも〈ヒッポス・イン・タンクス〉からは先に2枚のシングルをリリースしている。要するに、クラウド・ラップやトリルウェイヴのような、ビートを追求するシーンでさえも、多かれ少なかれチルウェイヴやヒプナゴジックという引力との綱引きのなかでスタイルを模索しているということだ。そして絶え間なく引き直されているその境界線上からこそ、刺激的な才能の輩出がつづいている。

 ローレル・ヘイローのおもしろさもこうした混淆にある。おもいきってメディテーショナルでミニマルなトラック、ドローニングな音世界からゆっくりとビートをもちあげていくトラック、あるいはその逆の展開。"イヤーズ"などを指して「ビートがないですね」などと本人に言おうものなら、「ビートはそこにあるわ」と果てしないビート問答に陥ってしまうだろう。アンビエントな音響構築とビート感覚との間にはそのくらいの緊張関係がある。おそらくはここが彼女の音楽のコアだ。つめたく硬質に、理知的に、ローレルは両者の間合いを詰める。それでいて理という馬脚をほとんどあらわさないように、ひと刷毛、エモーションによる彩色をほどこす。"ライト+スペース"のラヴェルを思わせるようなコーラス・ワーク、"ホロデイ"など、グリッチーなノイズや引き伸ばされたような環境音を背景に鋭く挿入されるヴォーカル・パート、"エアシック"や"ザウ"などミニマルなピアニズムの異化作用、いずれも得がたいが、彼女の声を使ったアウトプットに、そのもっとも強い発色がある。

 ポイントは歌がけっしてうまくないところだ。これはローレル・ヘイロー最大の萌えポイントでもあるが、同時に彼女の音が理知的であることの根本的な理由でもあるように思われる。はげしく加工され、断片がリフレインされ、それが巧妙に配置され、長いフレージングを歌いきるというようなことはない。ヘタというか、歌心というものから疎外されているというか、散文的な感性による韻文、運動が苦手な人間の運動......そうした不自由さとともに、それを客観して補うように、彼女の音楽は論理的なビルドアップをとげてきたのではないか。クラシックの教養や修養さえあるアーティストだが、この1点の可憐な欠如のために、より高い音楽性が引き寄せられているような印象があり、筆者にはそこもまた魅力に思われる。

 ファースト・アルバムのジャケットが会田誠とは豪華だが、ピッチフォークによるインタヴューを読むかぎり、この『切腹女子高生』(数パターンある彩色のうち2002年のものと思われる)が、血しぶきや内蔵のイメージでしか、あるいは殺人や少女という意味でしかとらえれられていないことをやや残念に思った。「殺人」ではなく「切腹」、「少女」ではなく「女子高生」なのだ。血しぶきの浮世絵のようなタッチや、若仲を思わせる格子のパターンの援用には、海外の人間とて日本へのエキゾチックなまなざしを向けるだろう。しかし制服やルーズソックスのニュアンス、彼女たちの笑みについてまでは伝わらなかったようだ。それには援交やまったり革命(宮台真司)といった概念までをカヴァーする必要があるだろうから。殺しによっていきいきとしているのではない。そんなことで生の意味やよろこびをえられると考えることが難しくなったから笑っているのだ。彼女らの背景にある成熟社会、日本。さらには戦後という時間を歪みとして意識し、引きずってきた国の両義的な果実としてのマンガ・アニメ的表象。浮世絵や若仲もそこではとても批評的な意味をおびている。ローレルには、これが作者が意図的に断片化してつなぎあわせた、ふるいコミックのようにみえたそうだ。そして、それはサンプリング・ミュージックが、対象のなかにもともと隠されていたかがやきを見つけ出す作業であることと似ている、とも述べている。よってこの作品の使用について深く考える必要はなさそうである。なんてクールなライオット・ガールたちなのかしら、といった程度なのかもしれない。

ele-king vol.6  - ele-king

〈特集1 〉エレクトロニック・レディランド ~テクノ女性上位時代~
〈インタビュー〉グルーパー、ローレル・ヘイロー、ジュリアナ・バーウィックetc...
〈ディスクガイド〉ぜったい火がつく! 選りすぐり40タイトル!
〈特集2〉 映画、舞台、テレビ、アートにサイバースペースと音楽の関係 他

YUBIWA - ele-king

 日本語の音楽を聴いていると、とにかく内省と反省、とにかく道徳と爽やかさ、とにかくイノセントな感性が「これでもか」と繰り替えされているように感じるのは自分だけでしょうか......。そういうなかにあってメランコリックでヒプナゴジックでユーフォリックな音に分があるとは思えませんけれど、がんばって欲しいと思います。彼らはこの国の音楽シーンでは、少数派で、アウトサイダーかもしれません。しかし、海外のさまざまなシーンに開いていくという点では、むしろ彼らこそ未来的な大衆派かもしれないのです。

 今年、アルバムを出したばかりの〈コズ・ミー・ペイン〉のジェシー・ルインズ、〈ノット・ノット・ファン〉のサファイア・スロウズ、最近〈ダブル・デニム〉からシングルを発表したホテル・メキシコの3組――まあ、敢えてわかりやすくジャンル分けすると、国際的な活動を展開する日本のチルウェイヴ代表――による共同企画、『YUBIWA』がカセットテープでリリースされました!
 計4曲、A面収録の"YUBIWA"は3組による共作で、B面には3組によるリミックス・ヴァージョンが3つ収録されています。"YUBIWA"は綺麗なメロディを持った疾走感のある曲ですが、ジェシー・ルインズはさらにピッチを上げてメトロノーミックに展開すれば、サファイア・スロウズは彼女のダブ・センスでアンビエント風に揉みほぐし、ホテル・メキシコはギターを強調しながらドラマティックに仕上げています。ケースは文庫本サイズの大きさの凝った作りで、アートワークも格好良いです。最近のインディならではの手作り感があります(値段は、CS + DLで1000円)。
 もともとは東日本震災のチャリティー企画としてはじまったと言います。今回のプロジェクトのためのBANDCAMPを作り共作"YUBIWA"のみデジタルで販売をしていますよ。https://yubiwa.bandcamp.com/

Peaking Lights - ele-king

 飲み過ぎてしまった翌日の落ち方が年々酷くなっているような気がする。そして、心地よい夢から覚めたときの爽やかな朝というモノを体感できなくなっている。悲しい話である。
 「ルシファー」とは、「魔王」という意味もあるが「明けの明星」という意味もある。本作のタイトルの『ルシファー』は明らかに後者だ。催眠状態にかけられながら、ぎーぎーと揺れているデッキチェアに身体をもたれている。幸福な夢想のなかにいる......目が覚めると明星が見える。美しい1日がはじまる。『ルシファー』は、そうした幸福な愛とサイケデリックの見事な調和だ。

 インドラとアーロンによるこの夫婦ユニットの新作が至福へと導かれた大きな理由は出産だ。ふたりのあいだにはいま赤ちゃんがいる。『ルシファー』は植物の香り漂う催眠的な子守歌のようである。「私たちにとってこの作品は、遊びと陽気さ、無償の愛、リズムと脈、創造と振動についての記録です」と彼らは述べている。

 2~3年前のポカホーンティッドやサン・アロウが試みていたような、一風変わったダブ・サイケデリックは、いまピーキング・ライツを通して成熟に向かっている。2011年、ロサンジェルスの〈ノット・ノット・ファン〉からリリースされた彼らの前作『936』は、UKで人気盤となり、半年後には〈ドミノ〉傘下の〈ワイアード・ワールド〉から正式なライセンス盤がリリースされた。〈NNF〉としては異例のヒットというか、『936』は、ヨーロッパの連中をも催眠状態にしたのである。

 ピーキング・ライツは、〈NNF〉系の輪郭のぼやけたローファイ・テイストを活かしつつ、異国情緒を感じる歌の節回しとレゲエのフレイヴァー、ときにクラウトロックとをミックスしている。ポカホーンティッドやサン・アロウほどやり過ぎていないところも良かったのだろう。『ガーディアン』にも取り上げられ、その年末には〈ワイアード・ワールド〉からリミックス・シングル「Remixes」も発表されている。エイドリアン・シャーウッドというUKダブの御大から中堅どころのデム・ファンク、クラウド・ラップのメイン・アトラキオンズといった新世代まで参加した。それに負けじと、今年に入ってから〈100%シルク〉はハウス流儀のリミックス・シングル「936 Remixed」を切っている。

 『ルシファー』は、前作ほどレゲエっぽくはない。喩えるならビーチ・ハウスのダブ・ヴァージョンのようなアルバムだ。ヴィブラフォンの音色が印象的な"ムーンライズ"は彼らの新境地と言うべき、ローファイ・サイケデリック・ミニマル・ダブが展開されている。その曲は、生まれた息子に捧げる"ビューティフル・サン"と同様に、(本人たちの言うように)無償の愛の輝きを持っている。リズムマシンの音色を活かした"リヴ・ラヴ"の軽快さもそうだが、これらの愛の表現は、さしずめケミカルの力を借りない『スクリーマデリカ』である。サイケデリックな感覚――それはミキシングにおいて明白に出ている――は相変わらずだが、ドラッグ・ミュージックの陥りがちな独りよがりな過剰さがない。その代わり、ハルモニアのアンビエントにも似た微笑みがある。
 "コズミック・タイズ"や"ミッドナイト"は彼ららしいルーツ・レゲエの流用で、ポカホーンティッドの後期のサウンドをそのまま受け継いでいるかのようだ。また、こうした曲を聴いていると何故UKサイドがエイドリアン・シャーウッドにリミックスを依頼したのかがわかる。このサウンドは、ニュー・エイジ・ステッパーズの現代的ローファイ版とも言えるからだ。
 "LO HI"のぼんやりした音像からはダブステップの影響が聴ける。ロウソクが震えているような感じから、ざわつきはじょじょに大きくなる。そして、アルバムにおいてもっともダンス・ビートを強調する"ドリーム・ビート"へと繋がる。100BPMほどのゆっくりな曲で、ギターはときに歪むが、全体として『ルシファー』の優雅さを損なわない。クローザー・トラックの"モーニング・スター"は瞳孔を開いている人以外にも届くであろう明星だ。

 2度目の来日を果たしたアリエル・ピンクに話を聞いたとき、デヴィッド・アレンの話題で盛り上がったが、ピーキング・ライツのこの愛のアルバムにもいまどき珍しい楽天性がある。彼らは夫婦で屋台を引きながら手作りのおでん......ではない、電子音を発信しているようなものだが、それが今日コズミック・サウンドを生み出しているコミューンなのだ。気持ちよく1日を迎えるためにも深酒は止めよう(とくに二木信と出会ったら用心せねば......)。それよりも赤ちゃんといっしょに、家族といっしょに楽しい夜を過ごしてください、『ルシファー』はそう言っている。

ザ・なつやすみバンド - ele-king

 本当に楽しいことがあったかどうかなんて、もうはっきりとは覚えていないのに、「夏休み」と聞くと、それはほぼ無条件に、輝かしい季節として脳裏にまばゆい太陽を立ち上げる。それは、金もないのに時間だけが無駄にあった大学生の頃の記憶ではない。部活動でゲロを吐いた高校生の頃の記憶でもない。もっと地面や、土や、太陽の匂いが近く感じられたあの頃、水泳バッグに水着を入れて友だちと炎天下をダラダラと歩いたあの頃、シャーベット・アイスを食べながら、扇風機に向かって「あー、あー」とやっているだけでやたらと幸せだった、あの頃の記憶である。あるいは、どんな人でも今よりは素直に笑えていただろうか......。青臭いスイカの臭い、嵐のような蝉の鳴き声、空を押しつぶしそうな入道雲、暴力的でもどこか清々しい夕立が打つ飛沫、そして、心臓を搾るような恋の苦み......その色彩はたぶん、いまよりもずっと鮮明だった。

 世界が忘れそうなちっぽけなことも
 ここではかがやく
 振り向かないよいま
 あと少しくらい君と笑いたいなあ
"自転車"

 あと少しくらい、君と夏休みを――。ザ・なつやすみバンドは、あの透明な遠い記憶に思いを馳せている。あるいは、木漏れ日に抱かれて微睡んでいる。まるで、夏休みのなかで置いてきぼりになった永遠のロスト・チャイルドのように。

 中川理沙は、思い出せなくなった古い記憶の奥底まで響くような、柔らかくも情熱を内に秘めた声を聴かせている。丁寧にアンサンブルされたバンド・サウンドを、ピアノ、そしてMC.sirafuによるスティールパンのまろやかな音色が、ピアニカやトランペットのアレンジが、そっと包み込む......。「夏休み」をある精神の象徴として捉えたとき、それを終えることは「大人になること」の責任を引き受けることにもなるだろう。だから、神聖かまってちゃんが『8月32日へ』(2011)を宣言したとき、彼らの自己批評としてそれは見事なスローガンだと唸ったものだが、ザ・なつやすみバンドの夏休みは、果たして8月31日で終わっているのだろうか? それは、極めて微妙なラインで揺れている。聴き手に9月1日の責任を放棄させる誘惑の蜃気楼のようでもあり、それが失われてしまった実感(痛み・感傷)とともに、いっさいの延長が利かない季節として描かれているようでもある......。

 後者であれば、終わることが当然のものを、やはり、終わってしまうものとして描き出すことに、表現としての豊かさはあるのだろうか。夏休みの宿題として、そんな意地悪な問題提起もできると思う。だが......優れたフィクションが持つ虚構性に抗うことが難しいのもたしかだ。それは、鑑賞者に虚構の世界を通過させることによって、現実の世界では触れることのできないものに接触させ、見つめさせ、嫌でも何かを持ち帰らせてしまう。サイケデリック・ミュージックやリアリズム・ミュージックの強烈な相対化作用に比べれば、ポップ・ミュージックは日帰りの小旅行くらいの虚構性しか持たないかもしれないが、それでも日常をシャットダウンし、ファンタジーを強く立ち上げるというのは、何かしらのSOSなのだろう。思い当たる節があるなら、もう一度、迷い込んでみればいい。なにしろセリーヌが言うように、それは誰にだってできることだ。セミが鳴きしきる"なつやすみ(終)"から始まる45分を聴いて、目を閉じさえすればよい、すると......「すると人生の向こう側だ」――。

 扉は見当たらない
 終わりなんてない
 描き続けるよ 時間が足りないくらいさ
"がらん"

 記憶と虚構のあいだに潜るポップの小旅行へ。彼女らはその衒いのない裸の音楽を愛している。例えば、ごく初期の荒井由実のように。例えば、空気公団のように。また例えば、リトル・テンポのように――。私がとくに気に入ったのは、センチメンタルの渦の中心へと真っ直ぐに降りていく"自転車"だが、完成度という点では"君に添えて"だろうし、速度を上げてドライヴする"悲しみは僕をこえて"も、同系色で統一されたアルバムに絶好のめりはりを与えている。スティールパンのテクニカルなソロが決まるロックなんて、今まで聴いたことがあっただろうか。そしてそのナチュラル・メロディ。すべての収録曲が、記憶の片隅を正確にノックする。「もうこれは使わないだろう」と決めつけ、知らぬ間に扉を閉めてしまった感情のすすを払い、もう一度、鑑賞者に差し出しているような......。時間はもう、あまり残されていないのかもしれない。この虚構の夏休みを、果たして私たちはいつまで信じることができるのだろうか?

 ところで、このアルバム、というか、このバンド周辺(MC.sirafuさん周辺)の存在を教えてくれたのは、本作のスペシャル・サンクス欄にも名前が載っているヒコさん(@hiko1985)という方で、まあ教えてくれたというよりは私が彼のツイートブログを一方的に読んでいただけなのだけど、それがなかったら、この作品に出会うのはもっともっと遅くなっていたかもしれない。思えば、ひとりの聴き手の立場からすれば、いまは音楽が格段に開かれた時代になったと思う。誰もがメディアとして振る舞い、互いに交信している。もう私は、話し相手のいないひとりぼっちの地方市民ではない。
 
 まるで鮮やかなアニメーション映画でも観たような後味。この45分間のなかでは、日常はシャットダウンしたままでいい。サウンド・プロダクションとしては、もっと聴き手を夏休みに幽閉してしまうほどの大胆さがあっても面白いと思うが、いまのところ、復路の切符も用意されているように思う。あなたはここから何を持ち帰るだろうか? 欄外になるが、その価格設定にも驚かされる。DIY文化の哲学、あるいは夏休みを終えた人たちへの純粋な問題提起でもあるのだろう。TNB RECORDSのカタログ・ナンバー、001番、『TNB!』、全10曲入り。税込1,600円での発売!

Kwjaz - ele-king

 「雨の日に帰宅するとくだらないジャズを聴いたりする」というフレーズをいつか三田格氏の口からもれ聞いた記憶があって、おそらくそれは「イージーリスニング的なジャズ」を聴くという意味のなにげない発言なのだが、そのくだらないとかイージーという表現が、筆者にはじつにしっくりと氏の体験をささえているように感じられた。もちろん「雨の日」という補足的な状況設定がカギである。雨の日に一種のメランコリーを感じとるイージーさ、そしてそこに「くだらない」ジャズをクロスさせるイージーさ、しかしそうしたい情動について、ありありと想像や共感を呼び起こされる。雨の帰宅後の感情のグレースケールを、そのくだらない音楽は可視化する。

 Kwjazもそのような音楽だ。先日、その話を思い出すように購入した。発表は昨年だが、2曲のボーナス・トラックを加えて今年CD化。「Kdjaz」なら「くだらないジャズ」ということで素敵なオチが作れたが、けっきょくどう読むかということは海外のサイトでもおぼつかないようであるから、仮にクワジャズと呼ぶことにしよう。ドローンやダブをメディテーティヴにもちいて、いくつものフレーズの断片がコラージュされる。別々の曲がノン・ストップでつながれたミックス・テープのような印象も受ける。必然的にかなりの長尺となり、片面各1曲のみの収録、"ワンス・イン・バビロン"は23分にもおよぶ。エスノ・サイケ的なアウトプットとスローなファンク・ビートをもった、一種のトリップ・ホップとも言えるだろうか。じっくりと水かさを増すようにしてけだるさが足元からあがってくる。ヴィブラフォンやフルートが麻酔のようにきいてくる。注意深く調整され、神経にもっとも心地よく削られたプロダクション。スネアは雨の音のように、その他の打楽器は物理的に身体をトントンと刺激するかのような錯覚を生む。

 クワジャズは、サンフランシスコのトラック・メイカー、ピーター・ベレンドのプロジェクトである。本作はもともとレンジャースのジョー・ナイトが運営するカセット・レーベル〈ブランチ・グループ〉からリリースされていたものだ。それが2010年。翌年〈ノット・ノット・ファン〉からヴァイナルで発表された。インディ・ダンスやシンセ・ポップ、あるいはダブやドローンのあらたな担い手たちが、ニューエイジ的な一種の効能性を軸にぞくぞくと合流する状況に、まさに同調するタイミングである。同レーベルから出直すということはそういうことでもある。

 感情が持つ細かな階調のほとんどを拾いきれるような、じつに幅のある音だ。行き届いているというのではなく、とてもゆるいというべきか。ただむやみにゆるいのでは粗雑さと区別がつかなくなるが、ピーター・ベレンドの音には細やかで深みのある人間のもつゆるさが――だから幅が――感じられる。ボーナス・トラックとして収録されている"ア・サーティン・スプラウト"は、本編のなんともけだるいヴァイブとは異なり、マーク・マッガイアの『リヴィング・イン・ユアセルフ』のように牧歌的なシークエンスを描き出している。同じくボーナス・トラックの"エレヴェイション:イレイション/ジャー・ワッド"はよりコズミックな感覚をおもてに出し、ソリッドなビート、また逆に完全にノン・ビートのアンビエント・パートもはさまれている。表情も存外ゆたかなのである。流行のインディ・ディスコ(マーク・マッガイア的にはそういう認識らしい)など〈100%シルク〉的なニュアンス、リアル・エステイトのとろとろに溶けたような、それでいて無菌的なサイケデリック・ジャムもつぎつぎと浮かびあがり、たぶんに時代性が意識されてもいる。

 本編にこうした要素が登場しないのは、ピーター・ベレントの徹底したコントロールによって作品の統一感が目指されているからか、時期的な、あるいは完成度の問題か、ともあれ抑制された色調のなかには彼の意図がある。非常に玄人的だが、ほんとうに玄人的であるからこそ、音楽を普段たしなまない人にまで届きうる「くだらなさ」をたたえている。

The Beauty - ele-king

 ザ・ビューティにはファンタジーがある。日本において等身大のテーマをあつかわない、めずらしい音のひとつかもしれない。リアリティや同時代的な共感を問題とするのではなく、現実の世界のなかに仮想の枠組みを構築していくような手つき。念頭においているのは"サン・フォールズ"や"ビヨンド・ザ・レインボウ"、"プロセルピナズ"など、ゴシックな世界観にインダストリアルな屋を架したような、奇妙に息苦しいダーク・ウェイヴの一連だ。ゲート・リヴァーブが印象的なスネアは、ドラマチックなバック・ビートを刻む。そこに叙述的と言えばいいだろうか、やや過剰にも思われる荘厳さをシンセで語りつくしてしまう、能弁なメロディがのる。このような音は現実のどの風景にもなじまない。どのような心象ともむすびつかない。ぽっかりと組みあがったいくつものファンタジーをまのあたりにして、われわれはさいころを振る。出た目の曲へ進むのもいいだろう。
 〈コズ・ミー・ペイン〉の一員ユージ・オダのソロ・プロジェクト、ザ・ビューティ。シャープなビート感覚とあまやかなフィーリングとを卓抜にまとめあげるトラック・メイカー、ヴィジテッドとともに、ファロン・スクエアなるインディ・ダンス・ユニットでも活動している。こちらもチルウェイヴ世代のディスコ・ポップを展開する気鋭の存在だ。してみると、ザ・ビューティとはユージ・オダ氏のゴシックな世界観が全開に出力されるプロジェクトなのだろう。本作はデビュー・アルバムである。アルバム後半は終末観さえただよわせ、ドラマチックのインフレーションが止まらない。それが"ビヨンド~"の教会合唱曲ふうのコーラス・アレンジに極まっている。
 その合間や前半をうめるのがダンス・トラックだが、じつに奇妙だ。筆者にはそれらのダンス・ビートが、観念的に膨張した音を解体する方向にではなく、増強する方向に働いているようにみえる。その意味でザ・ビューティのビートはビートではなく上ものやメロディに近いのかもしれない。ゴシック・ポップがファンタジー空間で起こしたオーヴァー・ラン......ザ・ビューティの美はここで苛烈に燃えあがる。身体などみじんも動かない。硬直のダンス・ポップだ。
 あまねくインディ・アーティストはこうあっていい。好きなことを信じてやればいい。というとまったく機能を失ったかけ声にも聞こえるが、これは真理である。筆者には正直なところあまり趣味性においてザ・ビューティと通じる部分はないのだが、彼の音楽が、深く、堂々と世界に突き刺さっていることはよくわかった。そしてそうであるかぎり、音はかならずどこかに届く。
 さて表題曲の"ラヴ・イン・ザ・ハート・オブ・ザ・ワールド・シャウト"にはこうしたトラック群のなかで、そのいずれでもないような表出がある。彫刻された世界観もなく、ドラマチックなビートもなく、情緒のドローイングというに近い日本的なポップス。これが意図的なものかどうかはわからないが、アルバムとしての整合性にほころびをみせるような一点がタイトル・トラックとなっていることに、筆者は心を動かされた。

Two Wounded Birds - ele-king

 もうホント、ノスタルジーだとかレトロだと言うのは止めて欲しい。21歳の僕にはこれは「新しい」のです!
 1曲目の"トュゲザー・フォー・エヴァー"を聴いたときから胸騒ぎがはじまっていた。2曲目の"マイ・ロンサム"でジョニーが悲しげな声をはりあげているときには、もう居てもたってもいられなくなって家のなかでジャンプ。3曲目の"トュー・ビー・ヤング"のさわやかな夏の風情が僕を優しく包むときには、僕は叫んでいた。トュー・ウーンデッド・バーズ、最高!

 ザ・ドラムスをはじめて聴いた2009年の夏を思い出す。あのときの僕は、まだ18歳のいま以上に煮え切らないガキだった。何も期待していなかった。何も夢はなかった。しかし、ザ・ドラムスを聴いた瞬間に外に飛び出し、全力で走った。いままでからっぽだったコップのなかが満たされ、欲望は溢れ出し、僕は自由になった。幸福感だった。まだ見たことのない、青い空と海が広がる異国の地へと想いを馳せながら、僕はただひとりで最高にハイになった。
 もうあんなにもハイになることはないだろうと、20歳を越えた僕は思っていた。しかし、トュー・ウーンデッド・バーズのファースト・アルバム『トュー・ウーンデッド・バーズ』が待っていた。このアルバムを聴いて、またしても僕は外に飛び出し、全力で走った。まだ新しい場所がある。さわやかな夏の香りがにおってくる。それは無邪気で、ちょっと短気だけれど、ロマンティックで美しい音楽だ。希望に燃えている青春の輝き、これがロックンロールってもんだ!

 トュー・ウーンデッド・バーズはイギリスはマーゲート出身の4ピースバンドで、メンバー構成は、ジョニー・デンジャー(ヴォーカル、ギター、オルガン)、トム・アーケル(ギター)、ジェイムズ・シャンド(ドラム)、そして紅一点ブロンドガール、アリー・ブラックグローヴ(ベース)だ。ザ・ビーチ・ボーイズ、ザ・ビートルズ、ザ・ドアーズからインスパイアを受けている。50年代~60年代のポップスのキャッチーさがあって、ギターのメロディーラインには懐かしさが漂っている。それらは新鮮に耳を突き抜ける。
 彼らと一緒にヨーロッパをツアーでまわった、ザ・ドラムスのジェイコブはこのバンドについてこう話している。「ブライアン・ウィルソンやデビー・ハリーのようなアメリカン・ロックのレジェンドたちにも通じるニュアンスがこのアルバムには感じ取れる。さらに言えば、ザ・ビーチ・ボーイズ、ザ・ラモーンズ、そしてエルヴィス・プレスリーといったロック、ポップの基礎とも言うべき、それこそアメリカン・ポップのスピリットの現代における見事な解釈すら反映されてる」

 このデビュー・アルバムは、決して青春は終わらないということを僕らに提示してくれる。いまトュー・ウーンデッド・バーズを聴け!

Master Musicians of Bukkake - ele-king

 シアトル空港に到着してキヨスクでコーヒーを買おうとした僕は、残金が24ドルしかないことに気がついた。そして例によってクレジットカードは停止していた......

 ロスでのクレイジー過ぎる毎日に少し疲れを感じていた僕は旅立ちを考えていた。ルームメイトのゲドは先ほど諸事情により急遽東海岸へ行くことになってしまったし、僕が合法的に米国で滞在出来る時間も僅かとなっていた。そろそろ潮時だ。
 ......と、一見シリアスな状況に置かれているにも関わらず、僕といえばカウチに沈み込み、ゲドのガンジャを勝手に吸いながらネットフレックスで『ツイン・ピークス』を見直すという堕落を絵に描いたような有様で、頭に浮かぶ考えはオードリーことシェリリン・フィンはマジでマブいなー、こんな子とデートしたいなーという思いばかりで一向に考えがまとまらない。しかし、『ツイン・ピークス』のロケ地の一部がシアトルであることを思い出し、僕はシアトルに住む元バイト先ハイドラ・ヘッド・レコーズ〈Hydrahead Records〉社長、アーロン・ターナー(ex-ISIS, Mammifer, House of Low culture etc...)に電話をし彼の家に滞在する許可を得たのだった。

 24ドルではヴァショーン島行きのフェリー乗り場まで行くことすらできないことをあらゆるタクシーの運ちゃんに悉く説かれ、僕はバス乗り場でシケモクを拾いながらバスは永遠に来ないんじゃないかと思うほど待った。ようやく辿り着いたフェリー乗り場でもかなり待つハメとなり、僕は待合室の向かいに座っていたじじいと世話話をはじめた。じじいはヴァショーン島の歴史をフェリー内に展示される写真を用いて丁寧に解説してくれたうえ、最終的に僕のフェリー代を奢ってくれた。島の船着き場に迎えに来てくれたアーロンは僕がじじいに別れを告げているのに首をかしげた。あれは誰だ? 友だちだよ。いきさつを話すと彼は爆笑していた。久々に会った彼のよりモジャモジャとなった顔を見ながら、かつてヘアー・メタルと呼ばれたジャンルがあったが、2000年代以降のドゥーム/ストーナーやポスト・ロックを通過したヘヴィ・ミュージックをビアー(髭)・メタルと呼んでもいいんじゃないかとどうでもいい事を夜の森を疾走する車のなかで思っていた。

 アーロンの1日は忙しい。ISISはすでに解散しているが(バンドとしてのビジョンをすべて達成した上での潔い終わり方だったと思う)自身のハイドラヘッドのアートワーク、デザインなどの業務に加え、新たにスタートしたシージ・レコーズ〈SIGE Records〉と夫婦バンド・マミファー(Mammifer)、外注で請け負う国内外のレーベルやアーティストのアートワークとデザイン......もともとを妻のフェイス(ex-Everlovely Lightning Heart)とともに自宅でテキパキとこなしている。残金が24ドルの僕は彼の雑用を手伝い、最高のヴィーガン手料理を御馳走になった僕は、大自然と動物達に囲まれた最高にクリエイティヴな環境の元に制作と仕事に打ち込む事ができる彼に、多くのアーティストが夢見る理想形態を見た。果たして自分がいつの日かこのような環境と仕事を得ることができるのだろうか?
 ......と真剣な思いとは裏腹に僕といえば湖が一望出来る彼の家の庭で寝そべり、彼のチャラスを吸いながら(やっぱ立派な大人は吸うものも違うぜ!)彼の猫のパン・ケーキ(名前)を揉んでいるというノー・フューチャーを絵に描いたような有様であった。

 見ていてときどきイラっと来るぐらい仲睦まじい夫婦のアーロンとフェイス、そしてトラヴィス・ロメインで構成されるマミファーの結成当初はあくまでこの夫婦のいままでのバンド遍歴から安易に想像がつくポスト・ロック、サッド・コアの文脈下にある、正直もう聴き飽きたサウンドであったが、このテープや近年のレコーディングを聴く限り、よりオーガニックなノイズ/アンビエント・ミュージックに移行している。ベテラン・ノイジシャンであるダニエル・メンチェ(Daniel Menche)や秋田昌美との深い交流も理由として挙げられるが、僕は個人的にヴァショーン島の土地そのものが彼らにおよぼすものを感じる。彼らとともに散歩した島のランドスケープは何処をとっても比類なく美しい、しかし大自然のそれは人智を越えた美であり、人に畏怖の念を感じさせるパワーがある。アーロンも『ツイン・ピークス』の大ファンであるし、フェリーでじじいが語ってくれたネイティヴ・アメリカンの聖地の話も相まり、このような諸星大二郎的な産神ロマンを感じながら僕は彼等のサウンドを聴いている。

 シアトル・シティーに買い出しに出掛けた帰り、僕らはバーに立ち寄った。アーロンは優雅な着こなしをした熊のような男と挨拶をかわし、彼はランダルだと紹介した。あんたがマスター・ミュージシャンか!? と驚く僕を尻目に彼は、いやいやいや、まだまだ全然修行の身だからそんな事ないよ......とおそらくお馴染みとなっているだろう掴みのジョークを優雅に返した。ランダル・ダン(Randall Dunn)はEarthやSUNN O)))等でお馴染みのレコーディング・エンジニアでありマスター・ミュージシャンズ・オブ・ブッカケ(Master Musicians of Bukkake)のブレインだ。
 すでにMMOBの相棒のドン・マッグリーヴィと飲んでいたらしく、僕らが席に着くなりランダルは先日濃縮サルビアを通じて得たサイケデリック体験について語りはじめた。一応補足すると、サルビアはポピュラーなリーガル・ドラッグであり、そのヴィジョンは強烈であるものの完全にアン・コントロールである上に飛翔時間はものの数分である。よって全く実用性がない......って何の話だよ。話を戻そう。自宅のカウチでくつろいでいたランダルは突然天から突き出て来た巨大な掌によってつぶされたランダル、気がつくと目の前には鹿が一匹彼を覗き込んでいる。鹿はランダルに「お前の音楽ってどんなの?」といたって普通に訊ね、彼はこれこれこうだと普通に答えた(失礼、ランダルが何と答えたかは失念)。鹿は「なるほど、わかった。みんなに伝えておこう」と言い残しランダルの元を去っていった。「......ってみんなって誰やねん!」と、ランダルはひとりツッコミをしながらシラフに戻ったという。かくもバカバカしい話を聞いて僕はすぐにゴーダマ・ブッダを思い出した。ブッダが初めに説法を説いたのは鹿だった気がする。一匹の鹿がブッダの説法を聞き、それを他の鹿達に翻訳したという(所詮手塚先生のブッダだから実際の教典は知らんけどね)。
 Totemシリーズのアルバム・コンセプトを本人から聞いたわけじゃないが、少なくとも人間と動物の垣根を超越するトーテミズムがランダルのブッ飛びエピソードと完全にシンクしている事は真剣に興味深い。

 また、説明するまでもなく「Master Musicians of Jajouka」のパロディである彼らのフザけたバンド名は実は妙に彼らのサウンドを表しているように感じる。
 サン・シティ・ガールズがやっていた世界各地のあらゆる民族音楽や宗教音楽を超絶スキルでパロディにするという、(実際リック・ビショップとも一緒にやってるんだけども)重厚なバックグラウンドを持つミュージシャンにこそ実践出来る方法論を、アーロンやフェイスも含むシアトルにおける真にプロフェッショナルなミュージシャン・コレクティブならではの2000年代以降のドゥーム/ストーナーを通過した非常にリラックスしたジャムとういう形で現代的なサイケ・マントラに仕上げている。
 伝統的である民族音楽や宗教音楽の現代的なパロディと、モザイクがある故に"ガンシャ"を発明した日本のポルノのエクストリームな進化形態である"ブッカケ"が異文化圏においてはかくもバカバカしく、それでいて一見すると儀式的な様相が呈しているという事実は、どちらも時代と文化を越えた一種のディス・コミュニケーションであるとも捉えられるのではないだろうか?

HYPERDUB EPISODE 1 - ele-king

 会場に到着したのは11時半。ハイプ・ウィリアムスは12時からはじまるという。クラブの入口やロビーでは、素晴らしいことに、ビートインクのスタッフが自主的に風営法改訂の署名活動をしている(自筆でないと効力がないことをまだ知らない人も多いので、郵送が面倒なら、こういう場で署名するのが良いですよ)。入口でくばっていた先着数百名枚のプレゼントCDも合っという間になくなったほど客足は早い! 僕の予想では、やはり、ファンはハイプ・ウィリアムスがどんなものなのか見たかったのだろう。

 12時になってライヴ・ステージの扉が開くと、ほんの10分ほどでフロアは埋まった。すでに妖しいテクノ・ループがこだましている。ステージには異常なほどスモークがたかれ、前後不覚でメンバーの姿は見えない。白い煙のなかを強烈なライトが四方から点滅する。ループは重なり、途中で声がミックスされる。男女の声だから連中がマイクを握っているのだろうか......。いつの間にかライヴがはじまっていた(会場には三毛猫ホームレスのモチロン君もいましたね)。
 ハンパじゃない量のスモークと網膜を容赦なく攻撃するライトのなか、ただ呆然と立ち尽くしているオーディエンスに向けて、脳を揺さぶるようなループ、そしてナレーション、そして歌、そして身体を震わせる超低音、後半からけたたましくなりはじめるドラミング。
 かれこれ何十年もライヴを見てきているけれど、今回のハイプ・ウィリアムスほどすさまじい「トリップ・サウンド」を経験したことは記憶にない。強いて近いニュアンスのライヴを言うならヘア・スタイリスティックスだろうか......、が、しかし、ハイプ・ウィリアムスは異次元からぶっ飛んできたように、あまりにもドラッギーで、言葉が出ないほど陶酔的なのである。ラジカルなまでにドリーミーなのだ。サイケデリックなのだ。誰もその場から離れなかった、離れられなかった......。
 しかし......もし、ライヴ開始から40分後ぐらいに、まったくなーんにも知らずに、このトリップ・ミュージックが響くど真んなかに入ってきてしまったら、そうとうショックを受けるだろう。ここはどこ? 何が起きたの? みんなおかしくなってしまったの? ......そう、みんなおかしくなってしまった。
 この壮絶なライヴで僕は充分だった。この続きは竹内正太郎のレポートに譲ろう。

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