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「雨の日に帰宅するとくだらないジャズを聴いたりする」というフレーズをいつか三田格氏の口からもれ聞いた記憶があって、おそらくそれは「イージーリスニング的なジャズ」を聴くという意味のなにげない発言なのだが、そのくだらないとかイージーという表現が、筆者にはじつにしっくりと氏の体験をささえているように感じられた。もちろん「雨の日」という補足的な状況設定がカギである。雨の日に一種のメランコリーを感じとるイージーさ、そしてそこに「くだらない」ジャズをクロスさせるイージーさ、しかしそうしたい情動について、ありありと想像や共感を呼び起こされる。雨の帰宅後の感情のグレースケールを、そのくだらない音楽は可視化する。
Kwjazもそのような音楽だ。先日、その話を思い出すように購入した。発表は昨年だが、2曲のボーナス・トラックを加えて今年CD化。「Kdjaz」なら「くだらないジャズ」ということで素敵なオチが作れたが、けっきょくどう読むかということは海外のサイトでもおぼつかないようであるから、仮にクワジャズと呼ぶことにしよう。ドローンやダブをメディテーティヴにもちいて、いくつものフレーズの断片がコラージュされる。別々の曲がノン・ストップでつながれたミックス・テープのような印象も受ける。必然的にかなりの長尺となり、片面各1曲のみの収録、"ワンス・イン・バビロン"は23分にもおよぶ。エスノ・サイケ的なアウトプットとスローなファンク・ビートをもった、一種のトリップ・ホップとも言えるだろうか。じっくりと水かさを増すようにしてけだるさが足元からあがってくる。ヴィブラフォンやフルートが麻酔のようにきいてくる。注意深く調整され、神経にもっとも心地よく削られたプロダクション。スネアは雨の音のように、その他の打楽器は物理的に身体をトントンと刺激するかのような錯覚を生む。
クワジャズは、サンフランシスコのトラック・メイカー、ピーター・ベレンドのプロジェクトである。本作はもともとレンジャースのジョー・ナイトが運営するカセット・レーベル〈ブランチ・グループ〉からリリースされていたものだ。それが2010年。翌年〈ノット・ノット・ファン〉からヴァイナルで発表された。インディ・ダンスやシンセ・ポップ、あるいはダブやドローンのあらたな担い手たちが、ニューエイジ的な一種の効能性を軸にぞくぞくと合流する状況に、まさに同調するタイミングである。同レーベルから出直すということはそういうことでもある。
感情が持つ細かな階調のほとんどを拾いきれるような、じつに幅のある音だ。行き届いているというのではなく、とてもゆるいというべきか。ただむやみにゆるいのでは粗雑さと区別がつかなくなるが、ピーター・ベレンドの音には細やかで深みのある人間のもつゆるさが――だから幅が――感じられる。ボーナス・トラックとして収録されている"ア・サーティン・スプラウト"は、本編のなんともけだるいヴァイブとは異なり、マーク・マッガイアの『リヴィング・イン・ユアセルフ』のように牧歌的なシークエンスを描き出している。同じくボーナス・トラックの"エレヴェイション:イレイション/ジャー・ワッド"はよりコズミックな感覚をおもてに出し、ソリッドなビート、また逆に完全にノン・ビートのアンビエント・パートもはさまれている。表情も存外ゆたかなのである。流行のインディ・ディスコ(マーク・マッガイア的にはそういう認識らしい)など〈100%シルク〉的なニュアンス、リアル・エステイトのとろとろに溶けたような、それでいて無菌的なサイケデリック・ジャムもつぎつぎと浮かびあがり、たぶんに時代性が意識されてもいる。
本編にこうした要素が登場しないのは、ピーター・ベレントの徹底したコントロールによって作品の統一感が目指されているからか、時期的な、あるいは完成度の問題か、ともあれ抑制された色調のなかには彼の意図がある。非常に玄人的だが、ほんとうに玄人的であるからこそ、音楽を普段たしなまない人にまで届きうる「くだらなさ」をたたえている。
橋元優歩