最初に聴いたのは「スターリニズム」という7インチだった。報道では、「遠藤ミチロウはパンク・ロックのゴッドファーザーと呼ばれている」などと書かれているが、どうなんだろうか。
というのも、スターリンが登場したときはUKではパンクはすでに過去のもので、「スターリニズム」がリリースされた1981年においてはポストパンクすらも過渡期を迎えようとしていた。この年PiLは『フラワーズ・オブ・ロマンス』を発表し、ジョイ・ディヴィジョンの残党がニュー・オーダーを始動させている。ザ・スペシャルズが最後の力を振り絞って「ゴーストタウン」を出して、ザ・レインコーツがセカンドを、ニュー・エイジ・ステッパーズが最初のアルバムを発表している。パンクが終わり、アンチ・ロックンロール主義的なポストパンクが沸点に達しているときに、「スターリニズム」の1曲目に収録された“豚に真珠”のパンクのクリシェ(常套句)というべきサウンドに、1977年に逆戻りしたかのような錯覚を覚えたのも致し方ない。が、と同時に、それが日本人が体験できなかった1977年のUKを追体験したいという憧れなどから来ているものではないことも、高校生だったぼくにもわかっていた。
1982年にリリースされたスターリンの最初のアルバム『trash』は、いわばメタ・パンク・アルバムである。異様さのなかに喜びを見出そうとするパンク・ロックの一要素を拡大し、陳腐であることを逆手に取った作品で、しかもそれは素晴らしい反復によるドライヴ感と遠藤ミチロウにしか書けない独特の歌詞と、そしてある種独特の妖艶さをも有している。
「全テノ革命的変態諸君!!/我々の日常ハ/ドブノ中デ御飯ヲブチマケル/食エナイモノヲ食アサル」
60年代の政治的抵抗や70年代のパンクへの共振と嫌悪と自虐が混ざり合ったその言葉は、タブーに挑戦するというUKパンクからの影響の日本における実践でもあったし、日本のアングラ・フォーク(ないしはエログロナンセンス)とパンクとの接続でもあった。ファンの女の子たちが嬉しそうに「ブタのキンタマ/ウシのクソ/世界の便所」とリズミカルに歌っていた光景をいまでも覚えている。時代はバブル期に差し掛かろうとしていたが、自分たちが生きている場所が「便所」ぐらいに思っていたほうが気が楽だった。
ぼくが最初にライヴを見れたのは、『Stop Jap』を出す直前ぐらいの横浜のライヴハウスでの演奏だった。高校の同級生といっしょに行って、ステージから何か飛んでくるぞとこわごわ後方で見ていたのだった(そして本当に飛んできた)。
昨年の春、三鷹の喫茶店で初めて遠藤ミチロウさんにお会いする機会があった。すでに膠原病を患っており、片足が麻痺しているといって松葉杖で階段を上っていた。ぼくは戸川純さんのミチロウさんについて書いた原稿を渡し、なぜか宇川直宏の話になり、ほかにも1時間ほど話したと思う。
「“メシ食わせろ”って、いまこの時代のなかで聴くとむちゃくちゃ切実に聴こえますよね」と言ったら、「本当にそうだよね」と静かにうなずかれていた。「“Stop Jap”とかもね」、ミチロウさんはすかさずそう付け加えた。
それからぼくは、自分の日本の音楽に対する関心は欧米からの影響と自らの土着性とをどう折り合いを付けるのかという点にあることを話したら、「そう、土着性なんだよ」とやや語気を強めて言った。その話しっぷりのなかには、さあいままさに自分がやらんとする挑戦への情熱が込められていたように感じられた。
UKにおける重要なパンク・バンドと同様に、結局のところスターリンもまた自らが築き上げた破壊の美学に自らが縛られていくことなる。が、しかし先駆者とはそういうものだ。スターリンが登場する以前のパンク/ニューウェイヴ系のライヴハウスは、どちらかといえば文化系のにおいが強いところだったが、スターリンのライヴには街でぶいぶい言わせてそうな兄さんがたも多く集まるようになっていた。女の子にも人気があったし、Tシャツに黒いジーンズという安上がりのパンク・ファッションを普及させもした。そう考えると日本においてパンクをメジャーに引き上げたのはたしかに遠藤ミチロウとスターリンだったのだろう。それはしかしパンクが終わったあとのパンクの一形態であり、パンクが日本に土着化した第一歩でもあった。
あー、ハラが減った。さあ、みんなで“メシ食わせろ”を合唱しよう。
野田努
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遠藤ミチロウと最後にことばをかわしたとき、彼はパンクだった。場所は新宿ロフトだった。2015年11月17日、大里俊晴の七回忌にあたる年、タコ、すなわちSHINDACO、いうなれば死んだ子としてよみがえったガセネタでベースを弾くよう、山崎春美に命じられたとき、参加した多士済々というか魑魅魍魎というか(最上級の褒めことばです)、そのような面々のなかにミチロウさんの顔もあった。解剖台の上でミシンとこうもり傘が衝突するような春美さんの思いつきにはしばしばメンくらわされるが、しかしこのときほど春美さんのシュルレアリスティックな発想に感謝したこともなかった。なんとなれば、編集や書きものの仕事をとおして存じあげていても、まさか一緒に音を出すとは思ってもみない方々と演奏したからで、そのいちいちをここに記すのはながくなるのでさしひかえるが、なかでもミチロウさんのバックでベースを弾いたのは忘れられない記憶である。
正直にいえば、はじまるまでは懐疑的なところがなかったとはいえない。音楽において、バンドなりミュージシャンなりが伝説的であればあるほど、彼らの音楽は言説の皮膜に覆われ、情報化社会ではなおさら、聴き手は音を聴くよりもその表層をなぞり、意味の読みとりにかまけつづける、そのようなあり方に奉仕する以上のことが、ミュージシャンでもない私にできるとは思わなかったのである。とはいえ春美さんの勅命を断るほどの胆力は私にはない。いきおい末席をけがすほどの演奏でお茶を濁すことになるのではないか──不安をいだきつつ立ったロフトの舞台はブラインドで客席と仕切られていて、所定の位置についたメンバーは客席からはみえない。ブラインドごしにフロアにながれるBMGとお客さんのざわめきがとどく。フロントの立ち位置に山崎春美と遠藤ミチロウがついた。演奏がはじまる、その一瞬前、舞台の上のすべてのものが、楽器や機材にいたるまで、リズムを合わせるように息をのむ、そのときミチロウさんがくるりとふりかえり、にっこりと微笑まれたのである。
幕があがると同時に、ミチロウさんが手にしたサイレンが唸る。ザ・スターリンのドラマーでもあった乾純さんが重々しいエイトビートを刻みはじめ、成田宗弘さんのギターがノイズの塊を発する。私はE弦を八分で弾く、「メシ喰わせろ」のちの「ワルシャワの幻想」である。数秒前まで、穏やかにステージにたたずんでいた小柄なミチロウさんの姿はすでになかった。客席にペットボトルの水をふりまき、拳をふりあげ「乾杯!」と叫ぶ彼はありし日のパンクの姿をひきうけ、再構成し、現在に体現する、私はざんねんながら表情はみえなかったが、その背中はさっきまでの私のわだかまりをふきとばすものがあった。すなわちパンクとはなんだったのかという過去形の設問への実践による回答の拒否である。同時にそれは歴史の格納庫に回収したがる伝説への愚直なあがきでもあったのではないか。
遠藤ミチロウとはじめて言葉をかわしたとき、彼はフォークだった。場所は山形市内だった。いまから四半世紀前、当時私は仙台に住む学生だったが、隣県で開催した三上寛と友川かずき(現カズキ)に遠藤ミチロウをくわえたジョイントライヴにはせさんじたのである。企画自体は商店街のお祭りの催しのような感じで、なぜこのようなどぎつい顔ぶれのライヴが商店街の一角(ほんとうに商店街の一角だったんでんすよ)で開催したかはいまもってナゾだが、子どもが走りまわり、老人がとおまきにするなかで、たしか三上寛さんがトップバッターで友川さんミチロウさんと歌い継ぐ光景はなかなかにシュールだった。当時ミチロウさんはザのつかないスターリンからソロ活動に移り、ギター一本かかえて単身全国をまわりはじたころで、たしか責任転嫁というパンクバンドのヴォーカルでミチロウさんと交流のあったバイト先の店長の車に同乗させもらって山形に向かったのだった。ミチロウさんは福島の出身だが、山形大を出ており、その縁もあって、青森の三上寛、秋田の友川かずきとジョイントすることになったのであろう。私は三上、友川の両名については、明大前のモダーンミュージックのレーベル「PSF」の諸作で音楽性は認識していたが、『50』(1995年)の前だったので、弾き語りのミチロウの予備知識はほとんどなかった。ところがそのライヴでもっとも印象にのこったのは遠藤ミチロウだったのである。東北の磁場と地続きの感のある三上、友川両氏とは対照的に、遠藤ミチロウは東北という圏域あるいは故郷や家の観念にあらがいつつ、GSやドアーズに憧れた音楽体験の原点をかたちづくった場に身を置くことの両価性に喜悦するように歌っていた。その印象の由来はギター一本で長尺になった「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」のせいだったかもしれないが、フォークという形式以前に、ことばの詩性や虚構性よりも自身の裡の原風景に正対しながら、そこから離反しようとする彼の音楽の力線は日本という中央封建社会を炙りだすものであり、私たちはそれらの歌をときにパンクと呼び、名もなき声を代弁するものとしてあるときはフォークロアとみなしてきたのではなかったか。
遠藤ミチロウがこの世を去ったあくる日の晩、私は渋谷o-nestにいた。時代はまだ平成だった。豊田道倫のレコ発ライヴで、その日は私がはじめて遠藤ミチロウの歌を生で聴いた日に共演していた三上寛がゲストで出演していた。もはや歌とも話芸ともつかない語りのなかで三上寛は寺山修司の言を引いて、日本は戦後「家」を喪い「家庭」になったと述べていた。遠藤ミチロウの透徹した直観が問題にしてきのも、おそらくはそのような社会の変化であるとともに、その土台にある、ウワモノをいくらつくりかえても拭えない土の発する匂いのようなものだったのだろう、と私は令和の世になった最初の日に伝え聞いた遠藤ミチロウの訃報に思った。遠藤ミチロウのなかではパンクもロックもフォークも同根であり、サウンドは時代のドキュメントだった。90年代以降、ことに近年はそれまでの自身の活動を総括する悠揚とした趣もあった。つまるところそれらはジャンルの装飾を排したただの音楽にすぎない。とはいえ素っ裸の肉体が頭から輝くような音楽がほかにあっただろうか。
※文中いちぶ敬称略としました。
松村正人







