Home > Regulars > 打楽器逍遙 > 9 イン・サークルズ(2)
アフリカのリズムは「ワン」がいろんなところに共存していて、というか拍の頭という概念が薄く、「あなたはここにいるからわたしはここにいます」と全体のなかの居所をみんな知っていて、集合体となる。道半ばながらこのような理解をしているのだが、トニー・アレンのドラミングは「ワン」は共有するにしても4肢のドラマーがそんなアフリカのリズムのように各々の居所に隙間を抜くように共存しながらエンジンとなって、しかも曲に合わせて変幻自在に動く。
トニー・アレンによるモーゼス・ボイドへのクリニックはリズム的示唆に富んでいる。7:30~の短いミニマル・フレーズを伝えるシーンはもっともエキサイティング。フレーズで取り込もうとするモーゼスを制止するかのように、まずは右足のバスドラム、左足のフットハイハットからひとつ目のエンジンを確認する。次に左手のスネア。このとき、もうフレーズと言ってもいいものになっているのだが、それはあくまでもできあがってきたもので、フレーズから逆算していく4ウェイ的発想ではなく、右足、左足、左手が歯車のように絡んでいることに注目したい。そして、最後に参加する右手は4ビートに近い。絶妙にいわゆるスイングはしないところがクールだ。各々シンプルながら1人の中に4人いる。
これを見ながら、アフリカの太鼓を練習しながら4拍目から1拍目へドンドンとすることさえもわからなくなったことがあったのを思い出した。そのときは、あまりになっていないだけだったのだが、「なんか違う」ながらドラムでかなりのフレーズを覚えていたにも関わらずそんな次第な上、同時にその理由を突きつけられたような気がした。しかし、はて、今だってどうだろう。ともすれば陥りがちなフレーズ先行が顔を出すことが大いにあるのではないかという反省を促される動画だ。しかも、気持ちよくだからにくい。楽観的なだけだろうか。その点アフリカのリズム・アンサンブルは本当によくできている。各々は絶妙に絡んでひとつの大きなうねりを形成する。その実はシンプルで、その輪に入ることができたとき最高の練習のひとつになると信じて続けている。
「でもさ、実はみんな同じものじゃない? ハウスにジャズ云々、いろいろとジャンルはあるものの、要は同じ。誰もがあらゆるものを分け隔てなく聴いている、と。ほんと、ソウルフルな音楽か、リズミックな音楽かどうかってことがすべてなんだしさ」
そう語るカマール・ウィリアムス筆頭に、多文化で、それに裏付けられた説得力のあるDIY精神(そうが故にリズムも気持ちところから外れないというような共通認識が生まれているのかもしれない)満載である南ロンドンならではのチャレンジは、ジャイルス・ピーターソンのブラウンズウッドからリリースされた『We Out Here』に凝縮されている。別冊ele-king『カマシ・ワシントン/UKジャズの逆襲』に、ここ数年起こっていることの一部始終が記されているが、僕のお気に入り3枚を挙げるなら、Yussef Kamaal『Black Focus』、Joe Armon-Jones『Starting Today』、Kamaal Williams『Return』。トニー・アレン直の影響が面白いとか、面白くないとかではなくて、曲に寄り添いながら、ときに寄り添わずに、自分たちのフレージングをしながら、気持ちいいところから外れようとはしないチャレンジが面白い。モーゼス・ボイド最高です。
ところで、僕は2年程前にロンドンに行った。そのとき、交差点に信号が少ないのに車が譲り合うともなくするすると通り抜けていくところや、フィッシュ・アンド・チップス屋の兄ちゃんが手持ち無沙汰にポテトを入れる箱をクルクル回しながら、注文を受けて適当に頷いたと思ったらするするときれいに納めていくのを見て、リズムを感じたのだが、これを聞いてどう思われるだろうか? 立ち止まってはものを見ないとでも言うのだろうか。考え過ぎなことは承知で何かご意見があれば伺ってみたい。
「“アフロフューチャリズム”という用語にはものすごくたくさんの定義を目にしてきたけれど、むしろ僕はこの用語自体が流動的で、それ自体が広い意味を持つようになって、より多くの人たちが自分たちの作品の背景として取り入れるようになったという点が気に入っている。まるでこの言葉そのものが生き物のように、多くの定義を取り込み続けている」 シャバカ・ハッチングス
僕は、アフロフューチャリズムとは言えない代わりに、イン・サークルズ。堂々巡りなりに気持ちいいところから外れないようGONNOさんとグッド・ヴァイブスを目指すライヴが近づいてきた。