「96 Back」と一致するもの

Stereolab - ele-king

 去る2月に再始動がアナウンスされ、大きな話題を呼んだステレオラブ。5月にはセカンド・アルバムおよびサード・アルバムがリイシューされているが、それに続いてこの9月、彼らの代表作である4枚目から6枚目まで、すなわち『Emperor Tomato Ketchup』『Dots and Loops』『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』も一挙に復刻される運びとなった。追加収録されるボーナス・トラックにも注目だけれど、この3作ではジョン・マッケンタイアがプロデューサーを務めていて(6枚目にはジム・オルークも)、当時のいわゆるポスト・ロックの流れを知るうえでも超重要なアルバムたちである。発売は9月13日。現在、トレーラー映像とともに、ボーナス・トラック“Freestyle Dumpling”が先行公開中。

[8月17日追記]
 いよいよ一ヶ月後に迫った上記3作のリイシューに先がけ、去る8月13日、『Dots and Loops』収録曲“The Flower Called Nowhere”の未発表ヴァージョンが公開されている。この曲についてメンバーのティム・ゲインは、以下のように語っている。

この曲はマウス・オン・マーズのヤン・ヴェルナーとアンディー・トマと一緒にレコーディングしたんだ。ステレオラブの中で、ずっとお気に入りの曲だよ。ポーランドのジャズ・ミュージシャンやクシシュトフ・コメダの音楽から抱く感覚を想起するようなコード進行に興味があったんだ。たしか偶然だったんだけど、ようやく自分の好きなコードを見つけることができて、そこからこの曲を書き上げたんだ。あと60年代中期〜後期のヨーロッパ映画音楽の雰囲気を取り入れようとして、ハープシコードや優美なヴォーカル、カラフルなサウンドと使ってる。 ──Tim Gane

 試聴・購入はこちらから。

STEREOLAB

90年代オルタナ・シーンでも異彩の輝きを放ったステレオラブ
10年ぶりに再始動をした彼らの再発キャンペーン第二弾が発表!
名盤『EMPEROR TOMATO KETCHUP』を含め一挙に3作がリリース!

90年代に結成され、クラウト・ロック、ポスト・パンク、ポップ・ミュージック、ラウンジ、ポスト・ロックなど、様々な音楽を網羅した幅広い音楽性で、オルタナティヴ・ミュージックを語る上で欠かせないバンドであるステレオラブ。その唯一無二のサウンドには、音楽ファンのみならず、多くのアーティストがリスペクトを送っている。10年ぶりに再始動を果たし、今年のプリマヴェーラ・サウンドではジェームス・ブレイクらと並びヘッドライナーとして出演。5月には、再発キャンペーン第一弾として『Transient Random-Noise Bursts With Announcements [Expanded Edition]』(1993年)、『Mars Audiac Quintet [Expanded Edition]』(1994年)の2タイトルが、アナログ、CD、デジタルでリリースされている。

今回の発表に合わせトレーラー映像と、『Emperor Tomato Ketchup』にボーナス・トラックとして収録される“Freestyle Dumpling”が先行公開されている。

Expanded Album Reissues Part 2
https://youtu.be/i3FyBhrOuso

Freestyle Dumpling
https://stereolab.ffm.to/freestyle-dumpling

今回リイシューが発表されたのは、1996年にリリースされた代表作『Emperor Tomato Ketchup』、1997年の『Dots and Loops』、1999年の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』の3作が、全曲リマスター+ボーナス音源を追加収録した “エクスパンデッド・エディション” で、前回同様アナログ、CD、デジタルでリリースされている。

今回の再発キャンペーンでは、メンバーのティム・ゲインが監修し、世界中のアーティストが信頼を置くカリックス・マスタリング(Calyx Mastering)のエンジニア、ボー・コンドレン(Bo Kondren)によって、オリジナルテープから再マスタリングされた音源が収録されており、ボーナス・トラックとして、別ヴァージョンやデモ音源、未発表ミックスなどが追加収録される。

国内流通盤CDには、解説書とオリジナル・ステッカーが封入され、初回生産限定アナログ盤は3枚組のクリア・ヴァイナル仕様となり、ポスターとティム・ゲイン本人によるライナーノートが封入される。また、スクラッチカードも同封されており、当選者には限定12インチがプレゼントされる。されに対象店舗でCDおよびLPを購入すると、先着でジャケットのデザインを起用した缶バッヂがもらえる。

なお11月には、『Sound-Dust』 『Margerine Eclipse』がリリースされる予定となっている。

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: EMPEROR TOMATO KETCHUP [Expanded Edition]
release date: 2019/09/13 FRI ON SALE

3LP CLEAR VINYL / D-UHF-D11RC
3LP BLACK VINYL / D-UHF-D11R
2CD / D-UHF-CD11R

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10376

[TRACKLISTING]
CD / Digital

Disk 1
01. Metronomic Underground
02. Cybele’s Reverie
03. Percolator
04. Les Yper Sound
05. Spark Plug
06. OLV 26
07. The Noise Of Carpet
08. Tomorrow Is Already Here
09. Emperor Tomato Ketchup
10. Monstre Sacre
11. Motoroller Scalatron
12. Slow Fast Hazel
13. Anonymous Collective

Disk 2
01. Freestyle Dumpling
02. Noise Of Carpet (Original Mix)
03. Old Lungs
04. Percolator (Original Mix)
05. Cybele's Reverie (Demo)
06. Spark Plug (Demo)
07. Spinal Column (Demo)
08. Emperor Tomato Ketchup (Demo)
09. Les Yper Sound (Demo)
10. Metronomic Underground (Demo)
11. Percolator (Demo)
12. Tomorrow Is Already Here (Demo)
13. Brigitte (Demo)
14. Motoroller Scalatron (Demo)
15. Anonymous Collective (Demo)

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: DOTS AND LOOPS [Expanded Edition]
release date: 2019/09/13 FRI ON SALE

3LP CLEAR VINYL / D-UHF-D17RC
3LP BLACK VINYL / D-UHF-D17R
2CD / D-UHF-CD17R

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10377

[TRACKLISTING]

Disk 1
01. Brakhage
02. Miss Modular
03. The Flower Called Nowhere
04. Diagonals
05. Prisoner of Mars
06. Rainbo Conversation
07. Refractions in the Plastic Pulse
08. Parsec
09. Ticker-tape of the Unconscious
10. Contronatura

Disk 2
01. Diagonals (Bode Drums)
02. Contranatura Pt. 2 (Instrumental)
03. Brakhage (Instrumental)
04. The Flower Called Nowhere (Instrumental)
05. Bonus Beats
06. Diagonals (Instrumental)
07. Contranatura (Demo)
08. Allures (Demo)
09. Refractions in the Plastic Pulse (Demo)
10. I Feel The Air (Demo)
11. Off On (Demo)
12. Incredible He Woman (Demo)
13. Miss Modular (Demo)
14. Untitled in Dusseldorf (Demo)

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: COBRA AND PHASES GROUP PLAY VOLTAGE IN THE MILKY NIGHT [Expanded Edition]
release date: 2019/09/13 FRI ON SALE

3LP CLEAR VINYL / D-UHF-D23RC
3LP BLACK VINYL / D-UHF-D23R
2CD / D-UHF-CD23R

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10378

[TRACKLISTING]

Disk 1
01. Fuses
02. People Do It All The Time
03. The Free Design
04. Blips Drips And Strips
05. Italian Shoes Continuum
06. Infinity Girl
07. The Spiracles
08. Op Hop Detonation
09. Puncture In The Radax Permutation
10. Velvet Water
11. Blue Milk

Disk 2
01. Caleidoscopic Gaze
02. Strobo Acceleration
03. The Emergency Kisses
04. Come And Play In The Milky Night

BONUS TRACKS
05. Galaxidion
06. With Friends Like These Pt. 2
07. Backwards Shug
08. Continuum (Unreleased Original Version)
09. Continuum Vocodered (Unreleased)
10. People Do It All The Time (Demo)
11. Op Hop Detonation (Demo)
12. The Spiracles (Demo)
13. Latin Cobra Coda (Demo)
14. Infinity Girl (Demo)
15. Blips, Drips & Strips (Demo)
16. Blue Milk (Demo)
17. Italian Shoes Continuum (Demo)
18. Come And Play In The Milky Night (Demo)
19. Strobo Acceleration (Demo)
20. Caleidoscopic Gaze (Demo)
21. Galaxidion (Demo)

The Caretaker - ele-king

 スタンリー・キューブリックの映画『シャイニング』を見ていると、懐かしさという感覚は恐怖にもなり得ることがよくわかる。文化的に飽和し、政治的にも行き詰まった現代では、ノスタルジーとは、逃避と苦しみの表裏一体かもしれない。

 90年代から活動する、イギリス出身のエレクトロニック・ミューシャンのジェームス・カービーによるザ・ケアテイカー名義の作品は、よく知られるように、『シャイニング』を契機としている。主人公が不可避的に幻視してしまう幽霊たちの舞踏会、そこで鳴っている音楽は、現在ではない遠い過去の音楽=30年代のソフト・クラシックやジャズである。カービーは、およそ20年かけてその時代のレコード(78回転の10インチ)を蒐集し、ザ・ケアテイカー名義の作品においてコラージュされる音源として使用した。“現在”が不在であること、と同時に、懐かしさに魂が抜かれていくこと。やがてザ・ケアテイカーは記憶障害をコンセプトにするわけだが、アルツハイマー病が進行している作者が、病状のステージごとに作品を発表するというシリーズ『Everywhere At The End Of Time(時間が終わるあらゆる場所)』は2016年にはじまっている。その1曲目“It's Just A Burning Memory(まさに燃える記憶)”は、パチパチ音を立てるチリノイズの向こう側で、遠い過去の音楽=30年代のソフト・クラシックやジャズが鳴っているという構図だった。
 去る3月に発表された同シリーズ6作目の『Everywhere At The End Of Time - Stage 6』は、最終作となっている。(その“ステージ6”の前にボーナス・アルバムのようなもの『Everywhere, An Empty Bliss(あらゆる場所、空っぽの幸福)』も発表している)
 20分以上の曲が4曲収録されている本作は、シリーズの初期の作品とはだいぶ趣が異なっている。“A Confusion So Thick You Forget Forgetting(あなたが忘れたことを忘れる濃厚な混乱)”、“A Brutal Bliss Beyond This Empty Defeat(この空っぽの敗北を越えた残忍な幸福)”、“Long Decline Is Over(長き減退の終焉)”、“Place In The World Fades Away(消えゆく世界の場所)”……こうした曲名からもじょじょに記憶を失っていく状態が描かれていることがわかるように、シリーズの1作目~3作目にはまだ輪郭を有していた音像は、4作目以降は音の輪郭は溶解し、靄がかかり、混乱し、腐り、ノイズによって断線していく。幽霊さえも消えていく。そして本作においては、音がじょじょに音ではなくなっていくような感覚が描かれている。それは時間の終わりをどう表現するかということであり、音楽は記憶を失い、消えることによってのみ甦るということでもある。

 マーク・フィッシャーの“hauntology”において、大いなるヒントとなったのがベリアルとこのザ・ケイテイカーだが、最近は、ほかにもフィッシャーが評価したアーティストたちの作品が発表されている。バロン・モーダント(Baron Mordant)はダウンロードのみだが『Mark of the Mould』というアルバムをリリースした。これも力作であり、いずれ紹介したいと思っているが、ブラック・トゥ・カム(Black To Comm)も新作を出したし、ブリストルのドラムンベースのチーム、UVB-76 Musicの粗野で不吉な作品にはフィッシャーの影響を感じないわけにはいかない。ゴールディーの“Ghosts Of My Life(わが人生の幽霊たち)“を引き継ぐサウンドとして。そういう意味ではまだここには幽霊たちはいる。

野田努

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 当然ながら、芸術は進化しない。技術は進化するとしても。

 一枚の絵がある。緑とグレーが混ざった背景の前に、黄土色の、縦長の板が立っている。板の前面には青のテープが「井」の形を作るように無造作に貼られている。左下に影ができていることから、板は真正面ではなく少し左側からの視点で描かれていることを認識できる。具象的だが実在感を欠いた、この世界に居場所がないような心許なさを伝えるこの絵はイヴァン・シールという作家によるもので、ザ・ケアテイカーの6枚の連作『Everywhere At The End Of Time』シリーズの最後の一枚のアルバム・ジャケットである。

 『Everywhere At The End Of Time』は、2016年にその1作目が発表され、2019年3月の6作目の発表を持って完結した。総時間およそ6時間30分。ジェイムズ・リーランド・カービーによって1999年より開始されたザ・ケアテイカー名義のプロジェクト自体も、本作を持って終了するという。この連作のジャケットは全てカービーと同郷・同年代のシールが担当しており、画家と音楽家が連携した作品という印象を強く残す。

 本作が認知症の進行具合をトレースした作品であることは最初から伝えられていたが、最後まで聴き通すと、そのコンセプトが律儀なまでに貫徹されていることがわかる。1920~30年代の甘美で通俗な大衆音楽のループが、次第に残響音とレコード針のノイズにまみれ、やがて「楽曲」の体をなさない完全な騒音と化す。「ゴォォ」「ファァ」「ザザ」「ツーーゥブツ」といった擬音でしか表せない世界に呑み込まれると、この作品が記憶の喪失のシミュレーションであることをはっきりと実感できるだろう。6枚の連作はそれぞれ「ステージ」と名指されており、認知症の進行具合を示していることがバンドキャンプのサイトの説明文で示される。ステージ6は「without description(説明なし)」とだけ書かれており、具体的な言葉は用意されていないが、収録された4曲には題名がある。「A confusion so thick you forget forgeting(混乱が極まり、君は忘れることを忘れる)」、「A brutal bliss beyond this empty defeat(この空虚な敗北の果ての残忍な至福)」、「Long decline is over(長い衰弱が終わった)」、「Place in the world fades away(世界から居場所がなくなる)」。タイトルの連なりからもわかる通り、最後には世界に自分の場所があることを認識する装置、つまり「記憶」が壊れる。たとえ生命活動が継続していたとしても、それは「人間」にとって〈死〉に等しい。

 このような「死のシミュレーション」の前例として、ギャヴィン・ブライアーズ『タイタニック号の沈没』(1969年)が挙げられる。沈み行く船の中で、六人の弦楽器奏者が聖歌の演奏を続けたというエピソードを可能な限り忠実に再現した本作は、〈死〉の裏返しとしての穏やかさを描いたという意味で、アンビエントの本質を体現している。この曲の録音盤の一つはブライアン・イーノの〈オブスキュア・レコーズ〉からリリースされているが、イーノが「アンビエント」という言葉を初めて使用した最初のアルバム『Music For Airports』(1975年)は「飛行機が墜落しても鳴り続けることが可能な音楽」として作られた。〈死〉と隣り合わせの穏やかさこそが「アンビエント」の定義である。

 上記の意味で、『Everywhere At The End Of Time』は正しくアンビエントを継承した作品であると同時に、〈死〉を内側から眺めたという点で画期を成している。絶対的な断絶としての〈死〉を内側から観察することは不可能だ。だが、記憶は少しずつ死んでいく。そこには時間があり、音楽の入り込む余地がある。カービーは、記憶が「人間」の生を成り立たせる条件であることを見抜き、記憶の消滅を音に演じさせることで、音楽における〈死〉の表現方法を更新したのだ。

 この更新は決して「進化」ではない。ギャヴィン・ブライアーズとザ・ケアテイカーの間に優越をつける意味は全くない。ここ数十年の技術の進歩によって、人間の〈死〉の定義は揺らいだ。脳が活動を停止しても生命機能は維持できるし、他人の身体の一部を移植して生きる人間もいる。生命活動が停止した後で意識が残るような事態も決して非現実的とは言い切れない。現在の人間界では、生死の境界は生命活動の有無で決めることはできないのだ。そして、〈死〉が揺らぐ世界に対応する表現を見出したのが、ザ・ケアテイカーだった。ただそれだけのことである。今、作られるべき作品は、時代において変化する。その変化を見抜く力こそが表現者の条件であり、新しい技術を駆使すればそれが優れた芸術になるわけでは決してない。ザ・ケアテイカーの紹介者でもあった故マーク・フィッシャーは、2000年代のポップ・ミュージックから「新しさ」が喪われたことを嘆いた。だが「新しさ」は、新しい表現にとって何の価値もないのだ。

 『Everywhere At The End Of Time』の終わりに耳を済ませる。内側から眺めた〈死〉に美しさはない。救いもない。吹きすさぶ風とうごめく地響きのような音が垂れ流されるステージ6の録音は、ほとんどただの雑音だと断じてもいい。荒涼とした音風景とともに時を過ごしていると、やがて薄く引き伸ばしたパイプオルガンを思わせる響きが耳に届く。感じるのは空虚で物体的な質感だ。イヴァン・シールが描いた木の板のような、何の役にも立たない、美しさのかけらもない物質の肌触り。それだけが、鼓膜の振動から伝わる。物質として存在していたとしても、心はもう生きていない。今、ここに呆然と突っ立っている、世界に居場所を欠いたモノの姿を、無意味で無価値な〈死〉の有り様を、カービーとシールは音響と絵筆の震えから伝導させる。その細やかな震えこそが、「芸術」と人が呼ぶものの正体である。

伏見瞬

 この世から真っ先に消し去るべき概念のひとつに「男らしさ」がある。学校や会社に通っている男性は少なくとも一度は体験したことがあるはずだと思うのだけれど、これだけアイデンティティ・ポリティクスが猛威をふるう昨今においてさえ、男性にたいし暗に「男らしさ」を要求してくる連中のなんとまあ多いことか。しかもたいていの場合、当人たちは無自覚だから厄介だ。もしかしたら僕自身、誰かにたいしそのような身ぶりを強制してしまっているかもしれない。そのときは、ごめんなさい……としかここではいえないが、とまれ家父長制と呼べばいいのかマッチョイズムと呼べばいいのか、あるいは体育会系というのかホモソーシャルというのか、状況によってあてがうべき言葉は異なるだろうけども、ほんとうに因習というのは根が深い。

 2017年にリリースされたファースト・アルバム『Yesterday's Gone』によって大きな躍進を遂げたUKの若きラッパー=ロイル・カーナーは、とにかく「男らしさ」から遠ざかろうともがいている。ように見える。彼はいつもくよくよし、なよなよしている。ように見える。無論、褒め言葉である。彼の簡単な略歴についてはこちらを参照していただきたいが、そのリリックはドラッグ体験の自慢や血塗られた抗争とは無縁であり、トラックもまた雄々しさや猛々しさから距離をおいている。トラップのようなUSのメインストリームでもなく、ストリートを反映したグライムでもなく、あるいはルーツ・マヌーヴァに代表されるような、UKの音楽に特有のジャマイカからの影響を忍ばせたスタイルでもない、いわば「第四の道」を模索し続けているのがロイル・カーナーというアーティストではないだろうか。

 まもなく発売される彼のセカンド・アルバム『Not Waving, But Drowning』は、そのような「第四の道」をさらに推し進めたものとなっている。昨年、男性が弱さを吐き出すことについて議論を提起したのはジェイムス・ブレイクだったけれど、カーナーもまた自らのナイーヴでフラジャイルな「内面」や「感情」を臆することなく表現するラッパーだ。とはいえその題材は必ずしもミクロな恋愛や友情に限定されているわけではなく、たとえば“Loose Ends”や“Looking Back”では、これまで白人には黒人とみなされ黒人には白人とみなされてきたという彼の、混血としての社会的な葛藤が吐露されている。そんなふうにぼろぼろになっている自分をさらけ出し、ラップすること。そのスタンスにはブレイクとの親和性も感じられるが、それ以上に、カーナーをフックアップしたUKのソングライター=クウェズからの影響が大きいのではないか。

 日本ではなぜかそれほど人気のないクウェズだけど、彼は歌い手であると同時に特異なサウンドの作り手でもあって(昨年ひさびさにリリースされたEP「Songs For Midi」も良かった)、にもかかわらず近年は裏方にまわりっぱなしの印象があるが、たしかに彼の手がけたソランジュティルザなんかを聴いているとプロデューサーとしての才に恵まれていることはわかるので、もしかしたらそっちで食っていこうと考えているのかもしれない。まあなんにせよ『Yesterday's Gone』に引き続き本作でも5曲に参加しているクウェズは、カーナーのセンシティヴな言葉の数々を活かすべく大いに尽力している。その奮闘は“Still”や“Krispy”におけるピアノの響きや細部の音選びに、あるいは著名なイタリアン・シェフであるアントニオ・カルッチョの名が冠された“Carluccio”の奥行きに、あるいはカーナー同様クウェズがフックアップしたシンガーであるサンファ、彼による美しいヴォーカルが堪能できる“Desoleil (Brilliant Corners)”の旋律や残響によく表れている。

 しかし、このセカンド・アルバムにおける最大の功労者はじつはクウェズではない。本作の鍵を握るひとりは、2曲で作曲とプロダクションを務めるトム・ミッシュである。彼はカーナーに飛躍の機会を用意した人物であり、これまでふたりは幾度もコラボを重ねてきた。ミッシュの2016年のミックステープ『Beat Tape 2』やシングル「Reverie」、あるいは昨年大ヒットを飛ばしたアルバム『Geography』にはカーナーが客演しているし、逆にカーナーの『Yesterday's Gone』にはミッシュが招かれている。まさに盟友と呼ぶべき関係だろう。そのミッシュが手がけた“Looking Back”はもたつくビートの映える1曲で、他方“Angel”も背後のもこもこした電子音が耳をくすぐるのだけど、ベースをはじめとする低音部も魅力的だ。ここでドラムを叩いているのがユナイテッド・ヴァイブレイションズのユセフ・デイズだというのは見逃せない。おそらくは南ロンドンという地縁によって実現されたのだろうこのコラボは、カーナーとUKジャズとの接点をも浮かび上がらせ、じっさい、カーナーは5月にリリースされるエズラ・コレクティヴの新作にも参加している。

 そして、ミッシュ以上に重要なのがジョーダン・ラカイの存在である。本作全体を覆うメロウネスや叙情性は、6曲で作曲とプロダクションを担当するラカイによって誘発されている感があり、たとえばジョルジャ・スミスを迎えた“Loose Ends”や“Sail Away Freestyle”のアダルト・オリエンテッドな音像は、いわゆるクワイエット・ウェイヴの文脈に連なるものといえる。なかでも決定的なのは“Ottolenghi”だろう。これまた高名なシェフであるヨタム・オットレンギを曲名に持ってくるあたり、もしラッパーでなければシェフになりたかったというカーナーの料理好きな一面が強く表れているが、背後にうっすらと敷かれたシンセの持続音はそれこそイーノ=ラノワを彷彿させ、とにかくせつなさとはかなさが爆発している。すべてが過ぎ去っていくことを電車の進行と重ね合わせるリリックも、それを写真というテクノロジーによる時間の切断と結びつけるMVも印象的で、ほかの曲でも「過去」という単語がキイワードになっていることから推すに、この“Ottolenghi”こそが『Not Waving, But Drowning』を代表する1曲なのではないだろうか。

 ここで忘れてはならないのが、インタールード的な役割を与えられたスポークン・ワードの小曲、アルバムのタイトルにも採用された“Not Waving, But Drowning”だ。カーナーの祖父によるものだというこの言い回し、20世紀前半のイギリスの詩人スティーヴィー・スミスに着想を得たこの一句は、僕たちにとてつもなく残酷な現実を突きつけてくる。

溺死した男についての記事を読んだ
その男の仲間は、彼が海から手を振っていると思ったらしい
でも彼は溺れていたんだ

 手を振っているんじゃない、溺れているんだ(Not Waving, But Drowning)──。文字どおり死にそうなくらい苦しんでいるのに、楽しそうにしていると受けとられてしまう、そのようなリアルを毎日毎日毎日毎日生き続けなければならない人びと、頼れる友もいなければ帰るべき場所もないような人びと、つまりはあなたに向けて、ロイル・カーナーは丁寧に言葉を紡いでいく。まるで、それもいずれは過去になると、慰め、そっと寄り添うかのように。そう、僕たちは「自分たちで新たな過去を作らないといけない」(“Carluccio”)。
 社会の要請する「男らしさ」から遠く離れ、ヒップホップの王道からも距離を置き、己のか弱き魂を吐き出しながら、ミッシュやラカイに協力を仰ぐことで今日的な音像にアプローチしたカーナーのセカンド・アルバムは、彼の「第四の道」がオルタナティヴであることを証明すると同時に、そんなふうに規範に苦しめられている人びとをときに涼やかに、ときに暖かく包みこむ。これほど優しくて愛おしいラップ・ミュージックがほかにあるだろうか。

Cosey Fanni Tutti - ele-king

 『トゥッティ』のなかに一貫して存在している、不吉で、ゾッとするような、何かを引きずって滑っていくような感覚──いいかえるなら、すぐ側にまで迫りくる湿り気のある暗さが生む、閉所恐怖症的な強度。オープニング曲“トゥッティ”の単調なベースラインと機械的でガタガタと騒々しいパーカッションのなかにはそうしたものがあり、そしてそれはそのままずっと、クロージング曲“オレンダ”のもつ、近づきがたいような重い足どりのリズムのなかにも存在しつづけている。最初から最後までこのアルバムは、息苦しいほどの霧に、隙間なく包まれている。

 この霧をとおして、おぼろげな影がかたちを結んでいく──ときに現れた瞬間に消えてしまうほどかすかに、そしてときに水晶のような明るさのなかにある舞台を貫き、それを照らしだしながら。オープニング曲では、トランペットのような音が暗闇を引き裂いていく一方で、5曲目の“スプリット”における、音の薄闇のなかを進んでいく、かすかに光る金属の線のような粒子は、おぼろげだが、しかし距離をおいてたしかに聞こえてくる天上的な雰囲気をもったコーラスによって、悪しきもののヴェールを貫いてるそのメランコリックな美しさによって、そのまま次の曲“ヘイリー”へと繋がっていく。

 おそらくはきっと、メランコリーの感覚へとつづいていく、ガス状のノスタルジーのフィルターのようなものが存在していて、それがトゥッティのこのサード・アルバムに入りこんでいるのだろう。このアルバムは、コージー・ファニー・トゥッティの2017年の回想録『アート・セックス・ミュージック』のあとに作られる作品としては、またとないほどにふさわしいものとなっている。というのもそれは、部分的に、彼女の生まれ故郷であるイングランド東部の街ハルで、同年に開催された文化祭のために作られたものをもとにしているからだ。やがてロンドンにおいてインダストリアルの先駆者となるバンド、スロッビング・グリッスルを結成する前の時代を、彼女はその街を中心にして過ごしていたわけである。

 1969年における、パフォーマンス・アート集団COMUトランスミッションの結成からはじまり、スロッビング・グリッスルやクリス&コージーによるインダストリアルでエレクトロニックな音の実験を経由する、過去50年にわたる経験と影響関係を描いていくなかで、過去について内省し、ふかく考えるそうした期間が、『トゥッティ』という作品の性格を、根本的な次元において決定づけているようにおもわれる。その回想録や近年に見られるその他の回想的な作品をふまえると、トゥッティはこのじしんの名を冠したアルバムによって、ひとつの円環を──はじめてじしんの名義のみでリリースした1983年の『タイム・トゥ・テル』以来の円環を、閉じようとしているのだという感覚がもたらされる。

 だが、コージー・ファニー・トゥッティはまた、まとまりのあるひとつの物語のなかに収めるにはあまりに複雑で、たえずその先へと向かっていくアーティストでもある。たしかにトゥッティは、幽霊的な風景をとおって進むビートとともに、彼女の作品のなかに一貫して拍動している人間と機械の連続性のようなものを、じしんの過去から引きだしている。だが彼女にとって過去とは、みずからの作品を前方へと進めていく力をもったエンジンなのである。『タイム・トゥ・テル』におけるリズムは、捉えがたく、ときに純粋なアンビエントのなかに消えさっていくようなものだったが、それに比べると『トゥッティ』は、はるかに攻撃的で躊躇を感じさせないものとなっている。こうした意味で、この作品に直接繋がっている過去の作品はおそらく、比較的近年にリリースされた、クリス・カーターと、ファクトリー・フロアーのニック・コルク・ヴォイドとともに制作された、2015年のカーター・トゥッティ・ヴォイドでのアルバムだろう。とはいえこの作品と比べると『トゥッティ』は、より精密に研ぎすまされ、より洗練されたものとなっていて、その攻撃性や落ちつきのなさは、節度をもって抑えられている。

 ゾッとするような暗さをもつものであるにもかかわらず、そうした落ちつきのなさと節度の組みあわせのなかで、『トゥッティ』はまた、これ以上ないほどに力強い希望の道を描きだしてもいる。というのも、このアルバムが強力で完成されたものであればあるほど、そこらからさらに多くのものがもたらされるのだという兆しが高まっていくからだ。
(訳:五井健太郎)


A sinister, creeping darkness slithers through “Tutti” – the claustrophobic intensity of humid darkness that clings too close. It’s there in the grinding bassline and mechanical, clattering percussion of opening track “Tutti”, and it lingers on in the grimly trudging rhythm of the closing “Orenda”. From start to finish, the album is wrapped tight in a suffocating fog.

Through this fog, shapes take form – sometimes faintly, fading away as quickly as they appeared, sometimes piercing through and illuminating the scene in a moment of crystal clarity. On the opening track, a trumpet cuts through the darkness, while on “Split”, solar winds seem to shimmer matallic through the sonic murk, joined on “Heliy” by a celestial chorus, blurred but distantly chiming, a touch of melancholy beauty piercing the veil of evil.

There’s perhaps a gauzy filter of nostalgia to the melancholy that creeps into the Tutti’s later third, which is fitting for an album that comes off the back of Cosey Fanni Tutti’s 2017 memoir “Art Sex Music” and has some of its roots in work she created for a culture festival in her hometown of Hull that same year, which she based around her own early years before leaving for London with her then-band, industrial pioneers Throbbing Gristle.

This period of introspection and reflection seems to have informed “Tutti” on a fundamental level, drawing on five decades of experiences and influences from the founding of the COUM Transmissions performance art collective in 1969, through the industrial and electronic sonic experimentations of Throbbing Gristle and Chris & Cosey. Taken together with her memoir and other recent reflective works, there is a sense that Tutti is closing a loop with with this self-titled release – her first album solely under her own name since 1983’s “Time to Tell”.

But Cosey Fanny Tutti is also too complex and forward-thinking an artist to let that be the whole story. Certainly “Tutti” draws from the past, with the beats punding through the ghostly soundscapes a continuation of a man-machine heartbeat that has always pulsed through her work. However, for her the past is an engine powering her work ahead into the future. Where the rhythms of “Time to Tell” were subtle, occasionally dissolving into pure ambient, “Tutti” is far more aggressively forthright. In that sense, the release it hews closest to is perhaps the comparatively recent 2015 “Carter Tutti Void” work, produced with Chris Carter and Factory Floor’s Nik Colk Void. Still, “Tutti” is a more finely honed, more refined work, its aggression and restlessness tempered by restraint.

Through its creeping darkness, it’s in that combination of restlessness and restraint that “Tutti” also holds out its strongest line of hope, because as powerful and accomplished as this album is, it also extends the promise of more to come.

Lee "Scratch" Perry - ele-king

 ついに御大が動き出す。まもなくコンピレーション『Pay It All Back Volume 7』を発売する〈ON-U〉から、今度はなんとリー・ペリーがニュー・アルバムをリリースするとの情報が飛び込んできた。エイドリアン・シャーウッドも音の面でがっつり関わっているらしい。タイトルは本名の「Rainford Hugh Perry」からとられていて、どうやら彼のパーソナルな側面も打ち出された作品に仕上がっているようだ。現在、『Pay It All Back Volume 7』にも収録される新曲“African Starship”が公開中。

本名を冠した最新アルバム『RAINFORD』を
〈ON-U SOUND〉から日本先行リリース決定!
新曲&トレーラー映像公開! Tシャツ・セットの発売も決定!

伝説の中の伝説、リー・スクラッチ・ペリーが、盟友エイドリアン・シャーウッドと再びタッグを組み、自らの本名を冠した最新アルバム『Rainford』を4月26日(金)にリリースする。発表とともに、新曲“African Starship”が公開された。本作は、エイドリアン・シャーウッドが操縦桿を握り、ジャマイカ、ブラジル、ロンドンで録音された最新音源が収録される。

Lee “Scratch” Perry - African Starship
https://soundcloud.com/on-u-sound-records/lee-scratch-perry-african-starship/s-q6yZV

トレーラー映像はこちら!
https://youtu.be/QCMLNAUsz0s

これは今までリーが作った中で最も私的なアルバムであると同時に、音楽的発想はすごく新鮮で、こういった作品を完成させられたことを非常に誇りに思っている。 ━━エイドリアン・シャーウッド

レゲエ界のみならず、全音楽史を見渡しても、リー・ペリーが、他に類を見ないほどの偉人であることは、もはや説明不要だろう。巨匠ブライアン・イーノが「録音音楽屈指の天才」と称するグラミー賞プロデューサーであり、キース・リチャーズからデヴィッド・リンチ、ザ・コンゴスからザ・クラッシュ、ジュニア・マーヴィン、ビースティ・ボーイズなど、多くのアーティストのコラボレーターであると同時に、80歳を超えた今もなお、その革新的な姿勢で、多くのファンを魅了する伝説の存在だ。

一方エイドリアン・シャーウッドは、80年代から90年代にかけて確立したそのレフトフィールドなサウンドを通して、UKダブを当時最も先進的なサウンドとして世界に広めると同時に、後の音楽史に多大な影響を及ぼしたプロデューサーとして、40年近く第一線で活躍。ナイン・インチ・ネイルズ、プライマル・スクリーム、ブラー、デペッシュ・モード、ザ・フォール、ルーツ・マヌーヴァといった多様なアーティストたちとコラボレートし、自身の武器であるミキシング・デスクを通して、唯一無二のサウンド・サイエンスを提供してきた。

リーとエイドリアンの友情は1980年代半ばまで遡る。ふたりはアンダーグラウンドのラジオ界における伝説的人物スティーヴ・ベイカーの仲介で出会った。この出会いが、『Time Boom X De Devil Dead』や『From The Secret Laboratory』といった〈On-U〉の傑作や、リーが生き生きとしたヴォーカルをダブ・シンジケートのレコードに吹き込むといったことに繋がる。今回完成した『Rainford』は、2年以上に及ぶ制作の成果で、ふたりが信頼を寄せる一流ミュージシャンたちと共に、三つの国でレコーディングされている。後世に残る作品を作ろうという決意で臨んだ今回、シャーウッドはこの作品をリック・ルービンがジョニー・キャッシュと組んで〈American Recordings〉からリリースした一連の作品になぞらえ、アルバムのタイトルに本名が使われていることからも明らかなように、リーにとって、かつてないほどパーソナルな作品であると共に、間違いなくリーのキャリアの中でも最も力強い作品の一つとなっている。

アルバムの1曲目を飾る“Cxricket On The Moon”の雰囲気あるフィールド・レコーディングとワウペダルを使ったギター、ゴシック調のチェロをあしらった“Let It Rain”、“Makumba Rock”の刻まれ圧縮された管楽セクション、そしてアルバム全般に渡って天のコーラスのように響く、レイヤーが重ねられ注意深くアレンジされたバック・ヴォーカル、本作では、すべてのグルーヴとディテールにふたりの音楽愛が注がれている。アルバムを締めくくる“Autobiography Of The Upsetter”では、1930年代の植民地時代のジャマイカの農園で育った子供時代から世界的スーパースターになるまでの人生のストーリーをリー自身がナレーションで語る。なお、国内盤CDにはナレーション訳が封入される。

リー・スクラッチ・ペリーの最新作『Rainford』は、4月26日(金)に日本先行リリース。国内盤にはボーナストラック“Heaven And Hell”が追加収録され、“Autobiography Of The Upsetter”のナレーション訳を含む解説書が封入される。数量限定でオリジナルTシャツとのセット販売も決定。iTunesでアルバムを予約すると、公開中の“African Starship”がいち早くダウンロードできる。また限定輸入盤LPは、争奪戦必至のゴールド・ヴァイナル仕様となっている。

label: On-U Sound / Beat Records
artist: Lee "Scratch" Perry
title: Rainford
release date: 2019.04.26 FRI ON SALE

国内盤CD BRC-596 ¥2,400+税
国内盤CD+Tシャツ BRC-596T ¥5,500+税
限定盤LP(ゴールドディスク)ONULP144X ¥OPEN

TRACKLISTING
01. Cricket On The Moon
02. Run Evil Spirit
03. Let It Rain
04. House Of Angels
05. Makumba Rock
06. African Starship
07. Kill Them Dreams Money Worshippers
08. Children Of The Light
09. Heaven And Hell (Bonus Track for Japan)
10. Autobiography Of The Upsetter

What’s the point of indie rock? - ele-king

 2019年になったいま、日本のなかで、あるいは世界の他の国々のなかで生まれている、もっとも刺激的で、また文化的な意義をもった音楽を思い浮かべてみるとき、ただちに気づくのは、どうやらそこにインディー・ロックのバンドは入ってきそうにないということだ。ヒップ・ホップやダンス・ミュージック、あるいはアイドル音楽でさえもがいま、定期的に、誰も予想していなかったような新しいアイデアを、この世界にたいしてはっきりと表明している。そのいっぽうでインディー・ロックは(あるいはより一般的にいってロック・ミュージック全般は)、刺激的で文化的な音楽の場から引きこもってしまい、ジャズに似たポジションを占めることになっている。つまりそれは、ニッチな世界のなかでは実験的な可能性を残しているものの、そうした世界を超えた先での影響は断片的なものにとどまり、より文化的な意義をもった音楽の形式によって、たいていの場合ノスタルジーに溢れた楽観的な雰囲気とともに参照されたりサンプリングされたりするという、そんなポジジョンに置かれているわけである。
 
 2018年におけるインディー・ロックのハイライトを振りかえってみるとそこには、1990年代の影が覆いかぶさっているのが、ありありと見てとれる。そこにはヨ・ラ・テンゴ、ザ・ブリーダーズ、ガイデッド・バイ・ヴォイシズ、クリスティン・ハーシュ、ロウ、ジェフ・トゥイーディー、そしてスティーヴン・マルクマスといった、いずれもその当時に高い評価を受けたアルバムをリリースしているバンドが登場してくるわけである。そうしたアーティストたちの多くは、ブライアン・イーノが「農夫たち farmers」と分類した者たちである。彼らは同じ土地の一角で何年も何年も仕事を続け、その土地を豊かで生産的なものに維持してはいる。だが彼らが新たな領域へ踏みこむことはけっして起こらない。インディー・ロック界には多くの農夫たちがいるが、カウボーイはごくわずかしかいないのである。
 
 このことは、そうしたアーティストたちが間違っているということを意味するわけではないし、まして彼らが、否定的な意味でノスタルジックだということ意味するわけでもない。彼らがいかにザ・フーやチープ・トリックや、その他の過去の古典的なロックを参照しているかを聴いてみればわかることだが、ガイデッド・バイ・ヴォイシズは、あからさまにノスタルジックなバンドである。だが彼らがそうした要素を操作するやり方は同時に、みずからを記念碑的な何かへと変えようとするロックのもつ傾向を、まったく意に介すことのないものだ。ガイデッド・バイ・ヴォイシズの素晴らしく多産なソングライターであるロバート・ポラードにとって、ロックはつねに動きつづけるものであり、そしてそのバンド名にもあるとおり、ひとりの「ガイド」としての彼がもっている理念は、まったくラディカルなものでありつづけている。すなわち、ロックの曲を生みだすことなど簡単なことであり、誰にだって可能なことなのだというわけだ。

 それじたい皮肉な話だが、ノスタルジックなものはまた、われわれが過去に夢見ていた未来のヴィジョンを想起させるものでもある。ヨ・ラ・テンゴの『ゼアズ・ア・ライオット・ゴーイング・オン』のいくつかの曲は、クラウトロックのもつ流れるようでモータリックな未来主義をふたたび取りあげていながら、しかしどこかで、物悲しい雰囲気に取り憑かれてもいる。クラウトロックのような音楽が当初われわれに約束していた未来に、いったい何が起こってしまったというのだろうか。やはり90年代からの難民のひとりである音楽プロデューサーのジェフ・バーロウも、ビークの『>>>』において、ヨ・ラ・テンゴと同じような領域を探求している。じっさいのところもはやロックとは見なせないほどに、進歩的で実験的なロックやエレクトロニカの領域へと進んでいるといいうるこのアルバムの特徴は、次のような重要な問いを喚起するものだ。すなわち、インディー・ロックがいままでとは異なった何かをやるとすぐに、別のカテゴリーに分類されてしまうのだとしたら、ではいったいどうやってそれは、いまより以上の何かに変化することを望んだらいいというのだろうか。 

 2018年のもっとも優れたインディー・ロックのアルバムであり、ことによればその年のベスト・アルバムともいえるものだったのは、ロウの『ダブル・ネガティヴ』だった。そのなかに集められた曲はどれも美しく、たがいに絡みあい、歪曲しあい、引き裂かれあっている。この作品は、いっぽうで幻惑的で、スリリングで、爆発的な斬新さをもつものでありながら、同時に、ロウのその長いキャリアのなかの他のどんな作品より、巧妙かつ控えめなものになりえている。われわれが習慣的に「ロック」と呼んでいるものからあまりにも遠ざかっているがゆえに、にわかには認めがたく、別の何かに分類したくもなるが、しかしにもかかわらず彼らの作品は、その核心部分においてひとつのロック・アルバムであり、ひじょうに洗練された美しいものとなっているのである。

 いったいどうすればインディー・ロックが、2019年において意義のあるものとなるのかを理解するためには、ここであらためて、それがどのようなものとして開始されたのかについて考えてみるべきだろう。おそらくそこには、それぞれに重要なものといいうる三つの点が存在している。

 第一に、インディー・ロックはメインストリームなポップ・カルチャーから距離を取り、そのなかに見られる強迫観念的で弱い者いじめ的な消費にたいするトップダウン式の命令から距離を取った空間を提供するものだ、という点が挙げられる。ポップ・カルチャーはひとを疲れさせるものである。それがかたちづくっている機械はすべてを飲みこみ、搾取して、その金属製の顎のなかに入ってくるありとあらゆるものを抜け殻に変えて吐きだしていく。そうしたものにたいし、1980年代におけるその誕生の時点でインディー・ロックは、(それじたい不完全で、多くの場合困難を抱えたものではあったわけだが)オルタナティヴなインフラや、理念や、美学をつくりだすことによって、パンクが中断してしまった空間をふたたび取りあげていたのわけである。

 そして第二に挙げられるのは、メインストリームなものから離れた世界は、これまでにないような魅力をもつオルタナティヴな存在でなくてはならない、という点である。インディー・ロックは、万人受けするようなやり方で物事を組織する必要はないのだということを示すものでなくてはならない。そしてだからこそ問題は、音楽さえあればそれだけでいいということにはならないわけだ。

 ミュージシャンたちがじっさいに演奏する音と同じくらいに、音以外の部分でのその表現や、それと分かるような目印がとなるものが、音楽にとって重要な要素となってくる。他のどんなミュージシャンよりもデヴィッド・ボウイが今日的な意義を保ったままであるその理由の大部分は、ジェンダー規範がことさらに保守的なものだった時代のなかにあって、男性性の再定義にたいし、彼がどれほど寄与したかという点にこそある。2018年の年末アンケートのなかで、多くの評者がソフィーやイヴ・トゥモアのようなジェンダーの揺らいだエレクトロニックなエイリアンの出現を賛美しているのを見ればわかるとおり、ボウイの遺産はいまやあきらかに、ロックというジャンルの範囲を超えて広がっている。

 インディー・ロックが1980年代に自立したものとなっていったのは、パンクのDIYという理念や、それがもっていた場所や時間についての現代的な感覚が、1960年代や70年代の音楽をノスタルジックなかたちでふたたびじぶんたちのものにすることと融合するなかでのことだった。ザ・スミスなどというバンド名のもつ、キッチンシンク派的な単調さと、モリッシーのグラジオラスの花にも例えられる波打つような派手な動きや、ジョニー・マーのリズミカルなギターの旋律との対比は、1980年代のマンチェスターにおける灰色をした郊外の団地の只中で、美しいものを熱望する憂鬱さをあらわしている。その音楽とイメージによって、それまで誰にも承認されることのないままに過ごしてきた者たちによってじっさいに生きられている現実と、彼らのもつロマンチックなものにたいする渇望を同時に表現することによって、ザ・スミスは、以上のような点をはっきりと象徴するバンドだったといえる。

 欧米では、ロックはだんだんと、白人による伝統的で文化的な庶民的表現にすぎないものとして、安易なかたちで見放されていくことになる。そんななかでインディー・ロックも、白人のミドルクラスによる庶民の表現という曖昧な役割を担っていくことになる。UKのエンド・オブ・ザ・ロードのようなフェスにひしめいている溢れるような白い顔の群れがはっきりと示しているように、こうしたジャンルの音楽は、だんだんと文化や人種が混淆したものになっている国家の多様性にたいして語りかける言葉をもってはいない。こうした問題は部分的に、有色人種のアーティストたちーーとくに黒人のアーティストたちーーが、インディー・ロックの分類の外に置かれ、「ブラック・ミュージック」として分類されるジャンルのなかに組みいれられているからだといえる。LAを拠点にしたシンガーソングライターであるモーゼス・サムニーの音楽はたとえば、両者からの影響によって特徴づけられるものであるにもかかわらず、ほとんどの場合インディー・ロックというよりソウルと呼ばれている。パンクの遺産を非白人アーティストのために解放することを目指したロンドンのデコロナイズ・フェスティヴァルによって、ロックの白人性にたいするバックラッシュは進んでいる。こうした傾向はやがて、トラッシュ・キットやビッグ・ジョニーのようなバンドを介して、インディー・ロックのなかにも広がっていくはずである。

 そのアルバム「ビー・ザ・カウボーイ」を多くのライターが2018年のベストにあげていた日系アメリカ人のシンガーソングライターであるミツキの人気は、彼女の音楽的才能だけではなく、そのアイデンティティーにも由来している。彼女のよくできたギター・ロックのなかには、ことさらにラディカルなところがあるわけではない。だがその音楽が、斬新でユーモアがありつつ、感情をさらけだすような正直さでじぶんじしんを表現するスキルをもった、非白人で女性のアーティストの視点から生みだされているという事実によって彼女は、いまのアメリカをかたちづくっているように見える攻撃的な白人男性たちからなる世界にうんざりしたオーディエンスに訴えかける声となっているのである。ミツキはじしんの弱さをさらけだして表現していくことを恐れないが、いっぽうでその歌詞は、ある意味でひとを元気づけるような、そんな世界観を提示するものでもある。クリスティン・ハーシュによる素晴らしいアルバム「ポッシブル・ダスト・クラウズ」のなかに聞かれる、自己を引き裂くような1990年代のジェネレーションXに特有のパニック発作のような調子と比べると、ミツキは、希望のかすかな光や慰めを提示している。そしてそうしたものこそが彼女の世界を、よりぞっとするような時代のなかで育ってきたファンたちにたいしてアピールする場所へと変えているわけである。

 根本的に白人的かつ男性的なものとしてのインディー・ロックにたいする批判は、たとえば日本のような、アジアの国の音楽を取りあげる場合、そのまま当てはまるものではない。もし西洋のオーディエンスが包括性や異種混淆性をいまよりももっと評価するようになっていけば、きっと日本は世界にたいして、多くのものを提示することができるようになるはずだ。だが、エレクトロニカやポップ・ミュージックの界隈では、じぶんたちが何をすべきなのかが自覚的に推し進められている傾向にある一方で、日本のインディー・ロックはいまだに多くの点で、イギリスやアメリカの音楽に頭の上がらない状態にあり、じぶんたちが崇める欧米のアイドルたちの美学を模倣し、それに適応することに夢中になっている。

 2018年の日本でリリースされたなかで、もっとも優れたインディー・ロックのアルバムはおそらく、ルビー・スパークスによるセルフタイトル・アルバムだろう。この作品は、まるで1995年のUKで製作されたかのような音を聴かせるものなのだが、いずれにしても美しく、魅力あるアルバムである。同様のことは、彼らと同じシーンにいる仲間たち、たとえば去年の夏にパンキッシュなシングル曲「バッド・キックス」をリリースした活きのいいバンドであるDYGLについても当てはまる。どちらも日本の音楽シーンにエキゾチックで斬新な何かをもたらしてはいるが、それは彼らがその音楽によって、当の欧米それじたいのなかでもはや失われてしまった欧米らしさを、わずかに漂わせているからだ。いっぽうで、インディー・ロックの周辺に位置しているクラン・アイリーンやクジャクのようなバンドは、サイケデリック・ロックやノイズ・ロックといった日本に固有の力強い伝統から多くの要素を引き出すことによって、Jポップのメインストリームにたいするオルタナティブを、よりはっきりと日本文化のなかに根づいたかたちで提示しているが、しかしそうしたバンドはいまだ、ニッチななかでもさらにニッチな場所に留まっている。

 インディー・ロックが日本のなかで、欧米の音楽と関係しないままでは立ち行かないような状態にある理由のひとつは、おそらく、それがもつ三つ目の価値に関連しているはずである。インディー・ロックがメインストリームから離れた空間を提供するものであり、そしてそうした場所が物事のあり方にたいする魅力的なオルタナティブをもたらすものなのだとしたら、定義上それは、いずれにしろ何かしらのレヴェルで、メインストリームなものと敵対するような関係のなかに入っていくことになる。いうまでもなく、日本のアーティストたちのなかで、あえてそうした関係のなかに入っていこうとする者たちは、ほとんど見られない。ルビー・スパークスやDYGLのようなバンドがやっているのは、Jポップ的なメインストリームなものに肩をすくめてみせることであり、そしてその上で、海外に慰めを求めることだ。だが、日本におけるインディー・ロックが、たんに「メジャーに行くほど有名ではないロック・ミュージック」以上の何かを意味するために必要なのは、お行儀のよさや寛容さを捨てさることであり、みずからを、支配的な自国内のポップ・カルチャーにたいするより明確な批判へと変えていくことなのである。

 より露骨にいっておこう。ロバート・ポラードがいっていることにもかかわらず、日本の場合であれ、他のどこかの場合であれ、インディー・ロックというものはもはや、わざわざそれを生みだそうと思うような音楽ではないのだ。いまの人々の生活のなかには、グループになって集まって曲を作ったり、練習したりするような自由な時間はない。みなリハーサルやレコーディングのために使う金をもっていないし、(とくに日本の場合に見られることだが)自腹を切ってライブをするのに使うような金をもっていない。いま現在でもっとも取っつきやすく、だからこそすぐに新たな才能を吸収していくことにもなる音楽は、じぶんの部屋のラップトップ上で、ひとりで聞くことのできるような音楽なのである。

 インディー・ロックはいま、1980年代や90年代におけるその全盛期にあったような意義を失ってしまっている。だが歴史にその身を委ねる必要などないのだ。アーティストたちがじぶんたちを取りまく世界に目覚め、そこに介入し、それに立ちむかい、それを批判して、その世界から疎外されている人々のありようを表現し、そして失われた過去の夢をふたたび取りあげることによって、あるいはじぶんたちじしんのまったく新しい何かを鍛えあげることによって、オルタナティヴなものを作りだすために動きだすことができるなら、インディー・ロックはきっと、人々との繋がりを保ちつづけ、彼らにたいし、ホームと呼べるような音楽的な空間をもたらすことになるはずである。 

What's the point of indie rock?

text : Ian F. Martin

The year is 2019. Try to think of the most exciting, culturally relevant music happening in Japan or the rest of the world is right now and the chances are it's not an indie rock band you're thinking of. Hip hop, dance music, pop, and even idol music regularly throw new and unexpected ideas out into the world. Meanwhile, indie rock (and rock music more generally) has retreated from the conversation and now occupies a position similar to jazz, where experimentation is possible within its niche, but its influence beyond that is fragmentary, referenced and sampled with what is often a wistful air of nostalgia by more culturally relevant musical forms.

Looking back over the indie rock highlights of 2018, the shadow of the 1990s looms long, with Yo La Tengo, The Breeders, Guided By Voices, Kristin Hersh, Low, Jeff Tweedy and Stephen Malkmus all releasing well-regarded albums. Many of these artists are what what Brian Eno would categorise as “farmers”, working the same patch of land year after year, keeping it fertile and productive but never really raiding new territory. Indie rock has many farmers and very few cowboys.

That doesn't make these artists wrong or even nostalgic in a negative sense. Guided By Voices are openly nostalgic in how they hearken back to The Who, Cheap Trick and other classic rock of the past, but the way they operate is also disdainful of rock's tendency to turn itself into a monument. Rock, for GBV's ridiculously prolific man songwriter Robert Pollard, is a constantly moving thing, and his guiding ethos remains a radical one: that writing rock songs is easy and anyone can do it.

It's ironic too, perhaps, but nostalgia can also remind us of future visions that we dreamed of in the past. Several tracks on Yo La Tengo's “There's A Riot Going On” revisit the sleek, motorik futurism of krautrock, but they're haunted by an air of melancholy. What happened to the future that this music originally promised us? Fellow '90s refugee Geoff Barrow explores similar territory on Beak's “>>>”, an album that some might argue pushes so far into the territory of progressive or experimental rock and electronica that it can't really be considered indie rock anymore. This raises the important question that if indie rock is immediately recategorised as soon as it does something different, how can it ever hope to become more than it is now?

The best indie rock album of 2018, and possibly the best album of the year full stop, was Low's “Double Negative” – an album that takes a collection of beautiful songs and twists, contorts and tears them apart. It manages to be as subtle and understated as anything Low have done in their long career, while at the same time dazzling, thrilling, explosively fresh. It's so far from what we conventionally think of as “rock” that it's tempting to discount or reclassify it, but it's nevertheless a rock album at its core, and it's an exquisitely beautiful one.

To understand how indie rock can be relevant in 2019, it's worth taking some time to think about what indie rock is for to begin with. There are perhaps three things it can do to be of value.

The first is that it provides a space away from mainstream pop culture and its obsessive, bullying, top-down dictates to consume. Pop culture is exhausting: it's a machine that eats up, grins down and spits out the empty husks of all who enter its metal jaws. At its birth in the 1980s, indie rock picked up where punk left off by building an alternative (albeit imperfect and often troublesome in its own way) infrastructure, ethos and aesthetic.

Secondly, this world away from the mainstream needs to be an attractive alternative. It needs to show that things don't have to be the way they are in a way that feels relevant to people, and for that, music alone isn't always going to be enough.

Music is just as much about representation and identification as it about the actual sunds the musicians are making. The reason David Bowie, more than any other rock musician, remains relevant is in large part because of how he helped redefine masculinity in an age where gender norms were particularly conservative. With 2018 year-end critics' polls lauding gender-fluid electronic alien visitations like Sophie and Yves Tumor, it's clear that in many ways Bowie's legacy has outrun the rock genre.

When indie rock began to come of age in the 1980s, it did so by wedding the DIY ethos and contempory sense of place and time of punk to a nostalgic reappropriation of the music of the 1960s and '70s. The contrast of the kitchen-sink drabness of a band name like The Smiths with Morrissey's gladioli-waving camp and Johnny Marr's chiming guitar lines expressed a melancholy longing for beauty amid the grey housing estates and suburbs of 1980s Manchester. The Smiths meant such a lot because the music and image articulated both the lived reality and the romantic aspirations of people who had never felt recognised before.

In the West, rock is increasingly easily dismissed as merely the traditional cultural folk expression of white people, with indie rock taking the even more dubious role of folk expression of the white middle classes. The sea of white faces that populates indie music events like the UK's End of the Road festival makes it clear that the music doesn't speak to the diversity of an increasingly culturally and racially heterogeneous nation. Part of the problem is that people of colour – especially black artists – are often classified out of indie rock and into genres coded as “black music”. The music of LA-based singer-songwriter Moses Sumney is more often described as soul than indie rock, despite being informed by influences of both. There has been a backlash to rock's whiteness, with London's Decolonise festival seeking to reclaim the legacy of punk for nonwhite artists, and this may yet spill over into indie rock via bands like Trash Kit and Big Joanie.

The popularity of Japanese-American singer-songwriter Mitski, whose album “Be the Cowboy” topped many writers' 2018 polls, owes as much to her identity as it does to her talent as a musician. While there's nothing particularly radical about her well-crafted guitar rock, the fact that her music comes from the perspetive of a nonwhite, female artist combined with her skill at articulating herself in a fresh, funny and emotionally honest way makes her a powerful voice for audiences tired of the aggressively white, male world America seems to have become. While she is unafraid of dwelling on her own frailties, Mitski's lyrics also offer a worldview that is on some level empowering. Compared with the self-lacerating, 1990s Generation X panic attack of Kristin Hersh's excellent “Possible Dust Clouds”, Mitski offers a glimmer of hope and comfort that makes her world an appealing place to fans growing up in these more frightening times.

The critique of indie rock as being something fundamentally white and male is less straightforward when we look at music in an Asian nation like Japan. If Western audiences are coming to value inclusiveness and heterogeneity more, Japan could have a lot to offer the world. However, electronic and pop-adjacent acts are still driving the agenda, while Japanese indie rock is still in many ways tied to the apron strings of British and American music, its artists hung up on trying to imitate and match the aesthetics of their Western idols.

Probably the best Japanese indie rock album of 2018 was Luby Sparks' self-titled debut album – a beautiful and charming record that nonetheless sounds like it could have been made in the UK in 1995. The same is true of fellow travellers like the effervescent DYGL, who dropped the punkish “Bad Kicks” single last summer. These are both bands who bring something exotic and fresh to the music scene in Japan, but at the expense of offering the West little musically that it doesn't already have in spades. Drawing more from Japan's own powerful tradition of psychedelia and noise-rock, bands on the fringes of indie rock like Klan Aileen and Qujaku offer an alternative to the J-Pop mainstream more recognisably rooted in Japanese music culture, but bands like these remain as yet very much a niche within a niche.

One reason indie rock might struggle in Japan without an umbilical relationship with Western music could be related the third aspect of indie rock's value. If indie rock is to offer a space away from the mainstream, and if that place is to offer an attractive alternative to the way things are, it is by definition entering into what is, at least on some level, an antagonistic relationship with the mainstream. Needless to say, this is something few artists in Japan seem willing to do. What the likes of Luby Sparks and DYGL do is shrug at the J-Pop mainstream and look for comfort overseas, but what indie rock in Japan needs if it is to ever mean anything more than simply “rock music that's not popular enough to be on a major” is to become less polite, more intolerant, and let itself become a more explicit critique of the dominant domestic pop culture.

More broadly, despite what someone like Robert Pollard says, indie rock in Japan and elsewhere is no longer a particularly accessible form of music to make. People's lives don't have the free time to gather as a group to write and practice. People don't have the money to spend on rehearsals, recording and (in Japan) pay-to-play live shows. The most accessible music, and therefore the kind that absorbs new talent most readily, is the music that you can make alone in your room on a laptop.

Indie rock is clearly not as relevant as it was in its heyday in the 1980s and '90s, but it needn't consign itself completely to history. If artists can wake up to the world around them, engage with it, confront it, criticise it, articulate people's alienation from it and work to build alternatives – whether reviving lost dreams from the past or forging fresh ones of their own – indie rock will continue to connect with people and give them a musical space they can call home.

On-U Sound - ele-king

 いやー、嬉しいニュースですね。かなり久びさな気がします。〈On-U〉がそのときどきのレーベルのモードをコンパイルするショウケース・シリーズ、『Pay It All Back』の最新作が3月29日に発売されます。
 最初の『Vol. 1』のリリースは1984年で、その後1988年、1991年……と不定期に続けられてきた同シリーズですけれども、00年代以降は長らく休止状態にありました。今回のトラックリストを眺めてみると、ホレス・アンディリー・ペリーといった問答無用の巨匠から、まもなくファーストがリイシューされるマーク・ステュワートに、思想家のマーク・フィッシャーが『わが人生の幽霊たち』(こちらもまもなく刊行)で論じたリトル・アックスなど、〈On-U〉を代表する面々はもちろんのこと、ルーツ・マヌーヴァやコールドカットやLSK、さらに日本からはリクル・マイにせんねんもんだいも参加するなど、00年代以降の〈On-U〉を切りとった内容になっているようです。これはたかまりますね。詳細は下記をば。

Pay It All Back

〈On-U Sound〉より、《Pay It All Back》の最新作のリリースが3月29日に決定! リー・スクラッチ・ペリーやルーツ・マヌーヴァらの新録音源や未発表曲を含む全18曲入り! 日本からはリクル・マイ、にせんねんもんだいが参加!

ポストパンク、ダンス・ミュージックなど様々なスタイルの中でダブを体現するエイドリアン・シャーウッドが率いるUKの〈On-U Sound〉より、1984年に初めてリリースされた《Pay It All Back》シリーズの待望の最新作、『Pay It All Back Volume 7』のリリースがついに実現! リリースに先立ってトレイラーと先行解禁曲“Sherwood & Pinch (feat. Daddy Freddy & Dubiterian) - One Law For The Rich”が公開された。

Pay It All Back Volume 7 Trailer
https://youtu.be/Ro8QcLi5azg

Sherwood & Pinch (feat. Daddy Freddy & Dubiterian) - One Law For The Rich
iTunes: https://apple.co/2W5AA6l
Apple: https://apple.co/2R36YD1
Spotify: https://spoti.fi/2DmeqW0

今回の作品にはルーツ・マヌーヴァ、リー・スクラッチ・ペリー、コールドカット、ゲイリー・ルーカス(from キャプテン・ビーフハート)、マーク・スチュワート、ホレス・アンディといった錚々たるアーティスト達の新録音源、過去音源の別ヴァージョン、そして未発表曲などを収録した、まさにファン垂涎モノの内容となっている。また、日本からはリクル・マイ、にせんねんもんだいが参加している。

LPとCDには〈On-Sound〉のバックカタログが全て乗った28ページのブックレットが付属し、デジタル配信のない、フィジカル限定の音源も収録されている。また、アルバム・ジャケットにはクラフト紙が使用された、スペシャルな仕様となっている。

〈On-U Sound〉からのスペシャル・リリース『Pay It All Back Volume 7』は3月29日にLP、CD、デジタルでリリース。iTunes Storeでアルバムを予約すると、公開中の“Sherwood & Pinch (feat. Daddy Freddy & Dubiterian) - One Law For The Rich”がいち早くダウンロードできる。

label: On-U Sound / Beat Records
artist: VARIOUS ARTISTS
title: Pay It All Back Volume 7
cat no.: BRONU143
release date: 2019/03/29 FRI ON SALE

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10072

TRACKLISTING
01. Roots Manuva & Doug Wimbish - Spit Bits
02. Sherwood & Pinch (ft. Daddy Freddy & Dubiterian) - One Law For The Rich
03. Horace Andy - Mr Bassie (Play Rub A Dub)
04. Neyssatou & Likkle Mai - War
05. Lee “Scratch” Perry - African Starship
06. Denise Sherwood - Ghost Heart
07. Higher Authorities - Neptune Version*
08. Sherwood & Pinch ft. LSK - Fake Days
09. Congo Natty - UK All Stars In Dub
10. Mark Stewart - Favour
11. LSK and Adrian Sherwood - The Way Of The World
12. Gary Lucas with Arkell & Hargreaves - Toby’s Place
13. Nisennenmondai - A’ - Live in Dub (Edit)
14. African Head Charge - Flim
15. Los Gaiteros de San Jacinto - Fuego de Cumbia / Dub de Sangre Pura (Dub Mix)
16. Little Axe - Deep River (The Payback Mix)
17. Ghetto Priest ft. Junior Delgado & 2 Bad Card - Slave State
18. Coldcut ft. Roots Manuva - Beat Your Chest

11 上野日記 - ele-king

 10/25
 京成上野駅のすぐ裏に当たる不忍池の東側から、ベンチに座って窓明かりが消えかかる対岸の建設中のビル群を眺めることが日課となってしまった。元来打ち上がることや、なにかをやりきった雰囲気が苦手で、ここはそういうものから逃げ込む場所になりつつある。
 大分に住んでいることを忘れるかけるほどには長い間東京にいることになりそうだ。今年10往復目の今東京滞在は、いろいろなことが重なって、途中わずかの期間大分に戻ることはあるものの、4ヶ月程になる。この生活に当たってLCC以上の恩恵に与っているのが上野の家で、戦前に建ったとも聞いたそれは義父の実家に当たり、長い間様々な人間が都合に合わせて住んできた場所で、自分も大分に移る直前の一年間暮らし、その後の楽器倉庫と東京滞在の寝床として使わせてもらっている。ここが来年2月いっぱいで使えなくなりそうなことも今滞在を延ばす一因なのだが、ここを拠点に音楽ばかりをやるのは随分久しぶりのことになりそうだ。
 久しい間、途切れない流れるリズムはなにか、それさえあれば普段考えていることがリズムに流れ込んで音楽に参加できるだろうと思っていた。そんなことは「当たり前」のことにしてしまわなければいけないと思い直して30代が始まって、既に2年が経つ。今日のOkada Takuro Bandのリハ音源をベンチで聴いていると、どこか物足りないドラムだ。ドラムだけを聴いたらそれなりだけど、ハットをキープだけに使うことと、周囲の音の聴き方が面白くない。トニー・アレンもエルヴィンも4肢を駆使してプレイすることでドラムを押し拡げてきた。最も器用に動くはずの右手をキープだけに充てるのはもったいないし、右手の動きに対しての他の動きが制限される節がある。フレーズで覚えるのではなくて、フレーズを作り出せる程ウゴくようにしておかないといけない。音は聴かないといけないけど、聴いて合わせれば微妙なタイムラグがうまれる。カウントから我先にスタートするベイシー楽団を思い出した。ラス・カンケルもCSN&Yのライブで自分のリズムを固持しているじゃないか。あれは、はまっているとも思えないが、James Taylorのときは、後ろからやってくる歌とギターに対して有効で独特のアンサンブルを勝ち得ている。もしくは、リーランド・スカラーのプレイに与るところが多いのだろうか。
 新しいことをはじめたいにしても、結局「当たり前」のことを進めることに戻ってくるのではないか。早速岡田から無言の参考音源が届く。Noname"Blaaxploitation"の胸の辺りでリズムを感じたまま16分ハットを刻むのだが、切れよくハットを空けて閉じたりやブレイクをうまくフレージングしているのなんてよく気が利いている。Sly&The Family Stone"In Time"ほどフレーズをマニュアル化せずに、音楽を邪魔しないドラミングはあまり聴いたことがない。相当考え込まれているのだろうが、やはりアルバム『Fresh』全体にそう浸透しているとは言い難く、それなりに根気のいる作業だったのだろうと妄想する。
 Joe Henryにおけるジェイ・ベルローズも思い出して聴いてみる。もう少し即興的だが、楽曲に合わせて展開させるドラミングとしては最高峰に思う。缶ビールが進むにつれてそんなことどうでもよくなってスライ名曲試聴会と成り果てる。

 11/3
 まず10日ほどの東京滞在を終え1週間だけ大分へ帰って来た。東京で気づいたことをモノにさせるに当たって大分の山はわるくない場所だ。しかし、これまでの10日間も、また東京に戻ってからの向こう1ヶ月もよく埋まったものだ。それぞれの準備はそれぞれの時間にやるとして、音の返ってこない山練習の醍醐味である最大出力のアップに勤しむ。Ivan Lins"Quadras De Rodas Medley"で四肢を自由にしてもらい、NonameとSly&The Family Stoneにアイデアを、Eugene McDaniels"The Lord Is Back"にガシガシ前にいる感覚を伝授してもらう。時代も場所もめちゃくちゃだけど、「ソウルフルな音楽か、リズミックな音楽かどうかってことがすべてなんだしさ」と語るカマール・ウィリアムスよろしく、どこか繋がっているような気分になる。この大分の期間でアフリカンチームの練習とサバール研究会も1度づつできたのは幸運だった。これらは僕にとって、リズムの発信以上に、リズムを捉える力を与えてくれる最良の行為だ。

 11/8
 東京に再度着いて早速Okada Takuro Bandのリハを終えたら、岡田とベースの新間さんが上野の家にやって来た。相変らずレコードを漁っているのだが、どうも大分の家で1人で聴いていても調子が上がらない。誰かと音楽を聴くと、相手がどのように聴いているのか自然と伝わってくるから面白い。定期的にそういう機会があれば、無言の参考音源もよく喋るように感じるし、部屋で1人で聴くことも楽しめる。
 そういえば、昨日成田空港から直接向かった新宿のレコード屋で、ブラジル音楽のバイヤーの江利川さん、筋金入りのコレクターのルーシーさん、母船の墓場戯太郎さんにたまたま会った。それぞれのバイブスが音楽を聴きたくさせてくれるので、今日に至ったところもあるのだと思い返した。それはそのあと飲みにいったダニエル・クオン、マルチプレーヤーの芦田勇人も同じ。上野駅に着いて、飲み屋街に紛れたい気持ちを押さえて、不忍池へ。対岸のビル群の明かりもほぼ消えてしまったなかで、イヤホンから流れる音楽を聴くにあたって、こちらのほうがよかったと思う。聴きたくて聴く機会は思っているほど多くないからだ。

 11/10
 水面ラジオという名のレコード試聴会で足立小台のブリュッケへ。ポール・モチアンのドラミングだって3時間も集中して聴いているとなじんでくる。いや、どう考えても真似できないのだが、やはり音楽は誰かと聴いたほうがよいと思う。「降りてくる感覚をそのまま絵に描くかのようなドラミングを'ジャズ'が支えている」という感想まで浮かんだけれど、どこか足りない気がする。町家で投げ銭分少し飲んで、明日のOkada Takuro Bandの準備のため足早に帰宅。終えてみるとやはりいつも通り上野公園へ。3月以降それもできなくなると思うと、無駄じゃないような気さえしてくる。

 11/11
 Okada Takuro Bandのライブを終えて、小雨が降るのを気のせいにして不忍池へ。GONNO×MASUMURAに向けてクラブ・ミュージックとスピリチュアル・ジャズを聴く。Kieran Hebden×Steve Reidは確かにこのプロジェクトに当たって、大きな知恵と予想図を与えてくれたけど、やはり以前から知っていた『Nova』でのドラミングはよく喋る。「迸るエネルギーがリズムにまで表象されるドラミングが'ジャズ'を突き破っている」という感想もまた缶ビールともに適当に流し込んで、最近お気に入りのFolamourにスクロール。イヤホンで目の前が不思議に映るのなら悪くない。GONNOさんとは、アルバム制作のあと、初めてのライブ、切り込んでみるライブ、リラックスしてみるライブとしてきて、来週4回目のライブはそれらのグラデーションを付けることができそうな感触がある。そういえば、GONNOさんとの演奏前は不思議と淡い夢を見ることが多く、演奏中はとかくいろんなことを思い出す。

 11/17
 昨晩名古屋vioでのGONNO×MASUMURAのライブは7曲演った。5曲目までは、グラデーションを付けながら様々な局面を提示して、あとは自由に楽しんで欲しかったし、それなりの感触もあった。行きの沼津から名古屋の間GONNOさんに運転を任せているとき、後部座席で信じられないほど気持ちのよい眠りについて、数え切れないほどの夢をみたのだが、ライブ中それを思い出す瞬間があって、そんなもの別に求めてもいないのだが、感触と照らし合わせるといい状態のひとつではあるようだ。6曲目"Circuit"は、この場を借りて最大出力の実験とさせてもらって、手足絡まること覚悟でブーストしてみた。結果山からやり直そうと誓う始末だったが、チャレンジがないと進歩もない。7曲目"Missed It"は踊らせることだけ。フロア帯同率は1番だったとか。このプロジェクトでは、リズムだけでも面白いということを自分なりに提示すべく4つ打ちライクのルールから外れないよう、5(7)拍子を2拍5(7)連や、2小節で5(7)発バスドラムを均等に打ってみたりしたのだが、演奏後のクラブ体験から察するに、決して無駄ではなかったにしろお互いまだ歩み寄る隙間があるようだ。そのうちお酒も回ってどうでもよくなったし、どうでもよくなってもらえたらそれでいいじゃないかとホテルに帰った。
 戻りの車内は格好のDJスペースで、エンジニアの葛西さんも交じって昨日の続きのようだ。トニー・アレン元ネタのよくやるプレイがあるのだが、その曲を聴かせると、GONNOさんが「元ネタはリラックスしていますね」と漏らす。
 ドラムを叩くと、瞬時的にフィードバックがある。今日のタイムは悪くない、体のテンポはこのくらいだなと、リラックスして叩き続けられることもあれば、小さなことが重力を加えてきて、リズムに乗れず叩くことをやめてしまうこともある。いずれにせよ、意志ではなくて、まずリズムの少し強引な力が働く。叩き続けることができていても、いつの間にか意志が大きくなり、リズムに抵抗してしまって身の程を知らされることもあれば、一度叩くことをやめてしまっても、その時に合った小さい音と力で、少しずつリズムに乗っていこうとすると、いつの間にか意志のスイッチが切れて無駄な重力がなくなっていることもある。
 GONNOさんの一言で、この「小さい音と力」でも太鼓が鳴るという当たり前のことに気がついた。太鼓を下の方からしっかり鳴らす、最大出力を上げる、そういう今までやってきたことのバランスがなんらかのはずみで崩れると、ハットが鳴りすぎる、右手に頼りすぎる、ということに、往々にしてなる。最近、あるバンドのレコーディングにドラムセット一式をかして、ラフミックスを聴かせてもらったのだが、鳴りきっていないなと思うところある以上に、こんなにリラックスしてシャープな音が出るのかと関心してしまったこともあった。自分の楽器だからよりよくわかる。上野の家に着いてからは夢も見ずに泥のように寝た。

 11/24
 FolamourのDJを体感しに青山Ventへ。レインボー・ディスコ・クラブ、名古屋vioと出演でのクラブ体験はあったが、純粋なそれは初めて。幼少期ギターとドラムからスタートしたという彼の音楽は、確かにクラブミュージックにあって驚くほど生の躍動が伝わる。『Umami』では、「クラブミュージックとホームミュージック、踊っている時と考えている時、憂鬱と楽しさそれぞれを表現したかった」作品なところも分け隔て無いファンを勝ち得ているところだが、かなり深酒していたこともあって、やはり後半はどうでもよくなって、見知らぬ黒人女性と踊り狂った。
 昼に酔いざめ特有の悪夢で目を覚ましたが、音楽の多様性を示唆するDJの仕事を思い出して、レコードの処理は、それを必要とする他のリスナーに譲ることになるから、傍に置いておくよりよいかと思い至る。オリジナルでわざわざ買い直す作業はどうしても続くが、その分安価なリイシューや日本盤を処理すれば多少役立てるだろう。しかし、どうだろう、サブスクでなんでも聴けるから、聴くためだけの安価なレコードに手を出さず、何度も失敗せずにとも、初めからオリジナル盤を狙う例えば高校生がいるとしたら末恐ろしい。

 12/9
 水面トリオ、影山朋子バンド、OLD DAYS TAILOR、ツチヤニボンドのライブ、ニカホヨシオ、GONNO×MASUMURA、伊賀渡さんとの録音などしていたら、不忍池もコートを着ないとベンチに座っていられない季節になっていた。それらの合間にFolamourとToninho Hortaを観て、Laurel Haloは諦めてしまった。
 午前中からダニエル・クオンが上野の家にやって来て、キッチンにドラムセットを拡げて録音。掟破りのハンドマイク録音は、2人でヘッドフォンをしながらマイキングを聴きながら、すでにミックスが始まっているかのようだ。シンバルにマイクを近づけるとこんなに低い音が出ているのかとか、家での録音なので自然小さい音になるのだが実はこれで充分鳴っているじゃないかとか、リズムに幅があってわざわざ針の穴を通さなくても波に乗れば気持ちいいことなど感じられて、この期間に感づいていたこととどこかリンクする。ドラムを叩いているというよりは、相変らずナイトメアに犯されながら浄化されることのないまま次々飛び出す掌編的な曲の断片になっていくようで面白い。ムードは重くなく発生地点と矛盾するような気楽さが包み込む。1曲生ピアノと複数の声だけのディープトラックがあったが、それを僕に聴かせながら他人事のようにずっと笑っていたこともそれを物語っていた。送る車内で、なにか思い出したかのように「Life...ジンセイ」と漏らしたら、車を降りて新宿の雑踏の中に消えていった。


Lori Scacco - ele-king

 ロリ・スカッコの音楽を聴くと、いつも「波紋」のようなサウンドだと感じる。水滴と波紋。その水面での折り重なり。いわば「丸と円」のレイヤーのような音楽。もしくは「輪」のような音のアンサンブル。それはカタチや現象の問題だけではなくて、どこか人と人との関係性、つまり「縁」を表しているのではないか。
 じっさい2004年にスコット・ヘレン(プレフューズ73)が運営し、あのサヴァス・アンド・サヴァラスのアルバムなどもリリースしていたレーベル〈Eastern Developments〉から発表された彼女のソロ・ファースト・アルバムも『Circles』というアルバム名だった。このアルバムを制作する前、ロリ・スカッコはバンド、シーリー(Seely)の解散を経験していたわけだし、それなりに人間関係の大きな変化の只中にいたのだろう。
 ちなみにシーリーは、1996年にトータスのジョン・マッケンタイア・プロデュースのファースト・アルバム『Julie Only』を〈Too Pure〉からリリースしたバンドである。シューゲイザーからステレオラブまでのエッセンスを持ちながらミニマル/ドリーミーなポップを展開し、熱心なリスナーも多かったと記憶している。ロリはこのシーリーのピアニスト/ギタリストだった。シーリーは2000年にアルバム『Winter Birds』をスコット・ヘレンとの共同プロデュースでリリースし、そして解散してしまったが、その解散から4年の月日をかけて彼女はソロ・アルバム『Circles』をリリースしたわけだ。
 そしてその音楽性はバンド時代から大きく変わった。ギターやピアノ、弦楽器などにエレクトロニクスが控えめにレイヤーされた「アコースティック・エレクトロニカ」とでも形容したい作品に仕上がっていたのだ。日曜の朝とか晴れた日の夕暮れ時を思わせる穏やかで美しいクラシカルなアルバムである。永遠に耳を澄ましていたいような心地良さがあった。もちろん聴き込んでいくと、音と音の重なりは和声感も含めて、実に繊細に織り上げられていることに気が付く。まさに「サークル」の名に相応しい作品である。このアルバムは熱心な聴き手に深く愛され、リリースから10年後に日本盤CDが〈PLANCHA〉からリイシューされ、新しいリスナーからも歓迎された。
 『Circles』リリース以降のロリ・スカッコは、ダンス、映画、ビデオ・アートの音楽制作を行いつつ、サヴァス・アンド・サヴァラスのメンバーのスペインのアーティスト Eva Puyuelo Muns とのストームス(Storms)としても活動し、2010年にはアルバム『Lay Your Sea Coat Aside』をリリースした。そして2014年にはデジタル・リリースのソロ・シングル「Colores (Para Lole Pt.2)」を発表。加えて先にも書いたように〈PLANCHA〉から『Circles』がリイシューされた(ボーナス・トラックを追加収録)。

 新作『Desire Loop』は、14年ぶりのセカンド・ソロ・アルバムである。リリースは、ニューヨーク・ブルックリンを拠点とするアンビエント・レーベル〈Mysteries Of The Deep〉から。〈Mysteries Of The Deep〉は、ニューヨーク・ブルックリンのエクスペリメンタル・バンド、バーズ・オブ・プリティのメンバー、グラント・アーロンによって運営されており、Certain Creatures、William Selman などの作品をリリースしている。
 本作も生楽器主体の『Circles』から一転し、シンセサイザーをメインに据えたアンビエント/トライバルな電子音楽に仕上がっていた。この変化には一聴して驚いてしまったが、しかし何度も聴き込んでいくと、どんどん耳に馴染んでくる。『Circles』と同じように波紋のような音がレイヤーされていく構造になっているからか、聴くほどに耳と身体に浸透するような音楽なのだ。音と音が泡のように生成しては変化し、持続やリズムをカタチづくっていく。あの見事なコンポジションは、形式を変えても健在であった。いや、深化というべきかもしれない。
 シンセ中心のサウンドのムードは、どこか現行のアンビエントやニューエイジ・シーンともリンクできる音楽性だが、浮遊感に満ちた和声感覚と音のレイヤー感覚などから、やはりロリ・スカッコという「作曲家」の個性が強く出ている電子音楽にも思えた。

 とはいえ、あざとい作為は感じられない。ごく自然にミニマルな音とミニマルな音が重なり、そこにコードやリズムが必然性を持って生まれていた。1曲め“Coloring Book”には、本作の特徴が良く出ている。やや硬めの電子音の持続から音が分岐するようにいくつかのループが生まれ、やがて糸がほぐれるように変化したかと思えば、それらはループを形成し、トライバルなビートが鳴り始めもする。持続と反復。その中断と非連続性の美しさ。まるで確かに水の波紋のように、一種の自然現象のように、電子音たちが踊っている。続く2曲め“Strange Cities”はニューエイジなムードのシーケンスから幕を開け、それらが電子音の層へと溶けるように変化を遂げていく。この最初の2曲に象徴的なのだが、ロリ・スカッコの作曲は音の反復を持続の中に「溶かす」。電子音という生成変化が可能な音響だからこそ実現する反復と非反復の融解とでもいうべきか。
 アルバム中、重要な曲は5曲め“Back To Electric”ではないか。トライバルなリズムが鳴らされていくのだが、もう1階層、別のリズム/ビートがレイヤーされており、そこに規則的な電子音と民族音楽がグリッチしたような旋律が鳴る。聴いていくと時空間が「ゆがんで」いくようなサイケデリック感覚を味わうことができた。続く6曲め“Tiger Song”は細やかなノイズと、どこか日本的な旋律に反復的なビートが重なる印象的な曲だ。7曲め“Red Then Blue”もノイズのレイヤーからミニマルな反復が生成し、ゆるやかに聴き手の知覚を変化させるような見事なトラックである。アルバム・ラストの8曲め“Other Flowers”では、それまでサイケデリックに歪む時空間が、次第に知覚の中で整えられていく。まさに「花」のような端正な電子音楽である。

 こうして14年ぶりとなるロリ・スカッコの新作アルバムを聴いてみると、やはりこの歳月は必要だったのだと痛感する。反復と非反復の往復。知覚の遠近法を変えてしまう音のゆがみ。それらを曲として成立させること。作曲と即興のあいだにある音と音の自然な生成の追求。そのための時間。何より音楽それじたいが聴き手に対しても長い時間をかけて浸透するような時を内包しているのだ。それは自分の音楽を作り続けた人だからこそ獲得することができる「時の流れ」の結晶ではないか。そんな感覚を『Desire Loop』の隅々から聴き取ることができた。

 かつてはアトランタで建築を学ぶ学生であった彼女だが現在はニューヨーク在住という。いまのアメリカの政治や社会状況には憤りを感じているというが、音楽にそのような感情は直接には反映されていないように思えた。しかし、彼女の音楽に耳を澄ましていると見えてくるのは、脆さや弱さ、そして美や強さに向かい合いつつ、極めて誠実に音楽=世界と向かい合っている音楽家/作曲家の姿だ。この酷い世界を音楽によって肯定すること。音と人の関係性を、その弱さを脆さと共に感じ取ること。そんな意志が音の粒子に舞っているのだ。

 本作は繰り返し聴取することで、どんどんその魅力が増してくるようなアルバムだ。ぜひとも「電子音楽家としてのロリ・スカッコ」が鳴らす音の波に耽溺してほしい。世界の事象が溶け合っていくような見事な作品である。


Marc Ribot - ele-king

 ケンドリック・ラマーのカリスマティックなステージには痺れたし、ボブ・ディランの静かで豊かなバンド演奏にも嘆息した。だが今年のフジロック、僕がもっとも感動したのはマーク・リーボウのセラミック・ドッグだった。フィールド・オブ・ヘヴンのピースフルなムードを切り裂くように尖ったギター・サウンドの応酬で繰り広げられるポスト・パンキッシュなバンド演奏と、そこに獰猛に交配されるキューバ音楽とフリージャズによる熱さ・冷たさ。弛緩したところがひとつもない、限界までヤスリで砥いだように鋭く美しい音で、一切の躊躇もなく叩きつけられる暴君あるいは愚かな権力者に向けた「Why are you still here?」。ほとんど身がすくむ想いだった。僕はポリティカル・ソングにはユーモアがあったほうがいい、ほとんどふざけるぐらいでちょうどいいと思っている人間だが、そのまっすぐな怒りにはひれ伏すしかなかった。その日は奇しくも、マイノリティに対して差別的な発言をした国会議員に対しての抗議デモが東京でおこなわれていた日で、「なんで、お前は、まだ、ここに、いるんだ?」――その言葉が、そこに届くことを祈らずにはいられなかった。
 ただ圧倒されていると、終盤、ほとんど喋らなかったリーボウが「これはcivil rights movementに捧げられた歌だ」とポツリと言って、それまでとまったく異なるトーンのギターを演奏し始めた。アコースティックな響きのソウル・カヴァー――1966年にレコーディングされた“We'll Never Turn Back”だ。それまで一切なかった甘いメロディがゆっくりとその場を満たしていく。「civil rights movement」だから60年代後半の公民権運動を指す意味でリーボウは使ったのだろうが、僕は最初、勝手に「市民運動に捧げられた歌だ」と解釈してしまった。先述のデモに対していくらか感傷的になっていたせいかもしれない、が、その優しい調べはすべての市民運動に捧げられているように聴こえたのだ。

 『ソングス・オブ・レジスタンス 1942 - 2018』はリーボウが2016年ごろから始めたプロテスト・ソング集のプロジェクトであり、ダイレクトなアンチ・トランプという意味ではセラミック・ドッグの『ワイアーユー・スティル・ヒア?』からの連作である。様々な時代の様々な地域のプロテスト・ソングを蒐集しアレンジし、また、オリジナルの楽曲も並列することでマーク・リーボウ流の現代プロテスト・アルバムとなった。リーボウいわく、「勝利を収めたすべての運動には、歌があった」。
 アルバムはトラディショナルの“We Are Soldiers in the Army”のカヴァーから始まり、フリージャズ的な無調を導入することで紛れもないマーク・リーボウの音楽として立ち上げてしまう。続く“Bella Ciao (Goodbye Beautiful)”はイタリア内戦の際に作られのちに反ファシズムの歌となったフォークロアだが、トム・ウェイツのドスの効いた声が乗ることで一気にアメリカへと空間を超えるようだ。とりわけ面白いのは「ドナルド・トランプ、お前に言ってるんだよ!」の語りのあとに急に軽快なラテンのリズムが入ってくる“Rata de dos Patas”だ。原曲はメキシコの革命家に歌われていたプロテスト・ソングだが、それがアメリカ人俳優のオーヘン・コーネリアスのラップが挿入されることで現代アメリカにも通じるものとして奏で直されるのである……それも、陽気な、踊り出したくなるようなリズムで。ミシェル・ンデゲオチェロが物悲しい歌を聴かせるフォーク・ナンバー“The Militant Ecologist (based on Fischia II Vento)”は、これも元々はイタリアのパルチザンに歌われていたものだが、地球温暖化を食い止めようとする女性の視点にアレンジしたそうだ。過去のレジスタンス――抵抗の記憶を、それはそれは多彩なアンサンブルで、現代の闘いのために召喚するのだ。
 また、かなりソリッドな内容だった『ワイアーユー・スティル・ヒア?』とは異なり、大幅に叙情が入っているのも本作の魅力だ。偽キューバ人たちでの経験を生かしたラテンの風、フォーク、ソウルのエモーションが、リーボウを通過したものとして鳴らされる。サム・アミドンとフェイ・ヴィクターが参加した“How To Walk In Freedom”はストリングスとフルートが美しいフォーク・ナンバーとして始まり、やがてパーカッションの連打によって情熱的なラテン・ダンスへと姿を変えていく。このアルバムには怒りがあるが、怒り以外の感情――悲しみ、慈しみ、優しさ、不屈さ、勇敢さ、それに連帯の喜びといったものが、世界中に散らばった歌たちの助けを借りて表現されている。
 『超プロテスト・ミュージック』を読んだときにも思ったし、最近さることから猛烈な怒りを覚えたときにも痛感したことだが、プロテスト・ソングには怒り以外の感情を掬うこともまた必要なのだろう。怒りを純粋な状態で吐き出したからこそ、リーボウは現在「抵抗」の叙情を鳴らしているのではないか。アルバムのラストは件のソウル・チューン“We'll Never Turn Back”だ。リーボウが本作でもっとも鳴らしたかったのはこの温かさなのだと僕には思える。そこでは虐げられてきた人びとの記憶を慈しむようにギターが余韻たっぷりに響き、柔らかく声が重ねられている。
 「だけど、わたしたちは引き返さない。わたしたちみんなが自由になるまでは。わたしたちが平等を手にするまでは」――。

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