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![]() 山本精一 / Playground P-Vine |
Dommuneで6月10日に放送したPhewの「45回転であいましょう」の司会をした私はゲスト出演した山本精一の歌を隣で歌詞カードに記した特徴のある文字を目で追いつつ聴きながら、彼の歌をまぢかで体感できる至福を感じた。そのときはまだこのアルバムを聴いていなかったが、あれから何度も『Playground』を繰り返し聴き、なぜこれはこう何度も聴いてしまうのか考えるうちに、考えるよりも聴くのがおもしろくなった。
山本精一の『Playground』はサイケデリックでありながらアシッドであり、ソフト・ロックの音色のイメージも抱かせるが、身辺雑誌のように親密な気持ちにもさせる。つまりこの50分弱にはきわめてシンプルにみえても多くのものが入っている。ここしばらくPARAのようにコンセプトを濃縮したグループや、企画作品、あるいは羅針盤や想い出波止場の再発などであいかわらずその名をみなかった時期はなかった山本精一の精髄は私はやはりソロにあり、その極点と思った『なぞなぞ』から7年、Phewとのダブル・ネーム『幸福のすみか』からすでに12年、「歌もの」という音楽のあり方を決定づけた羅針盤が終わりを告げてもう6年も経つ。山本精一は『Playground』を粗く、やりたいように、まちがってもいいと思いながら作ったといった。「遊び場=Playground」にいたように。しかしそう思ったとき、このひとは本領を発揮する。
このアルバムでは自分の部屋のなかと、半径500メートルくらいまでの範囲を表しています。そこでは基本的になにも起こらないんですよ。なんにも起こらないところでどうやって歌ができていくのか、それを試したかった。
■『Playground』は資料では「6年ぶりの歌ものアルバム」となっていますが、どこから数えて6年目なんですか?
山本:羅針盤です。最後のアルバム『むすび』を録っていたのが04年なので、6年というよりは5年ぶりかな。
■曲は書きためていたんですか?
山本:ライヴでやっている曲ばかりですよ。
■いちばん古い曲は?
山本:みんな同じくらい。"飛ぶひと"だけはPhewとの98年の『幸福のすみか』のときですね。
■なぜ"飛ぶひと"を再演しようと思ったんですか?
山本:ライヴで演奏しているからです。なんの狙いもなく、最近のライヴを作品化しただけですよ。
■作品としては作りこんだ面もあると思いますが。
山本:作りこんではないですよ。足したところはありますけど、ほとんどワンテイク。
■曲のヴァリエーションの面の工夫を感じましたが。
山本:それはたんに曲がそういった感じなだけでしょう。
■今回千住(宗臣)さんが参加していますが、彼を起用したのは?
山本:いつもいっしょにやっているからです。
■ご自分でドラムを叩いてもよかったかもしれないですね。
山本:そうやね。まあでも叩けないし、1曲目"Days"はロックっぽいからああいうタイコは僕にはむずかしいし、あれはやっぱり千住でしょ。
■そうですね。私が山本さんがドラムを叩いた方がいいと思ったのは、『Playground』に非常に私的な印象を受けたからです。同じ歌でも羅針盤はバンドの音楽でありソロとはちがうと思いました。
山本:このアルバムでは自分の部屋のなかと、半径500メートルくらいまでの範囲を表しています。ブックレットに使っている写真も家のなかとか周辺とかそんなものばかりですもん。全部そう。
■500メートル半径というはご自分の生活がみえる範囲ということですね。
山本:そうです。そこから離れて生活してないし、最近ずっと歌ってるのも身の回りのことばかりですからね。そこでは基本的になにも起こらないんですよ、ほとんど動かないから。なんにも起こらないところでどうやって歌ができていくのか、それを試したかった。
■ある種のアンチロマンですね。たとえばいまのフォークであたらしいひとたち、前野健太さんや七尾旅人さんの歌をどう思います? 私は世代論はわかりませんが。
山本:世代論は僕はまったく関係ない。上の世代という感覚はないんですよ。21世紀に生きている人間のジェネレーションなんて全員いっしょですよ。だから世代は関係ないです。おもしろいかおもしろくないか。彼らの音楽は僕はいいと思いますよ、おもしろいと思います。
■ご自分と比較して?
山本:すべてちがいます。比べることはないし、どっちにもいいところがあって悪いところがある。僕は他人のことはわからない。自分のことで精一杯です。子どものころはフォークを聴いていたりすると、いろんなひとがいたし好きなミュージシャンもいましたが、積極的にいまも他者の音楽を聴くかというとそんなことはない。
[[SplitPage]]でも僕、ボアダムスをやる前はずっと歌っていたんで、個人的にはそっちの方がイメージですよ。羅針盤にしても87年、ほとんどボアダムスと同じ時期に結成しているから。
■今回はベースを弾かれていますが、このアルバムではベースがすごくポイントだと思うんですね。間をとるようなベースが全体のムードを作っていると思いました。
山本:ちょっとズレてね。全体の印象はすごくチープなんですけどね。
■山本さんがドラムまで叩いた方がよいと思った理由はそこにあります。
山本:千住は上手いからね。
■表題曲の"Playground"は譜面に書けるリズムではないですよね。
山本:そうね、このズレは譜面では表せないね。
■この曲を千住くんにどう説明するんですか?
山本:「遊んでいるみたいに叩いてくれ」とか、そんな感じですよ。それで一発録り。まちがっていても全然オーケー。ワンテイクの方が勢いがあるし、「遊んでいる感じ」では2回はできない。歌は入れ直した曲はあるけど、演奏は全部テイクワン、弾きながら、歌いながらドラムといっしょに録音しました。だからライヴといっしょです。
■曲をカチッと作るよりナマのままの歌を録音するという狙いだったんでしょうか?
山本:なんにも考えてないんですよ。「なんか今日レコーディングがあるな」という感じでスタジオに入ってなんとなくやっている、そのスタジオはお弁当が出るんですよ。エンジニアの方のお母さんがお弁当作ってくれるんですよ。だからマザーシップ・スタジオなんですが。大友(良英)くんとかふちがみとふなととかもそこで録ってますよ。ポコッといってポコッと録るにはいいんですよ。だからなんにもないんですよ。宅録みたいにね。
■『なぞなぞ』と『幸福のすみか』の間の感じじゃないですか?
山本:そうですかね? 『なぞなぞ』は宅録以下やからね。僕はね、もう凝りはじめたらとめどないですからね。はっきりいって5年はかかります。このアルバムはそんなことはない。それがコンセプトといえばコンセプトかもしれない。
■作りこまないアルバム。
山本:そう。粗い感じでやりたいようにやる作品。まちがってもそれはしょうがないというかね。完璧主義はもちだしませんでした。
■羅針盤とはまるでちがう?
山本:羅針盤もディテールにはそれほどこだわってないですよ。羅針盤はポップスのつもりだったから。あれは一般のひとにも聴いてほしいと思ったから。
■一般に届けるためのポイントはなんですか? 作曲ですか? アレンジですか?
山本:普通にラジオで聴いていても、そんなに違和感ないもの......ですかね。まあ違和感がないとはいいきれないけど(笑)。僕は歌がヘタなんで、極限まで普通に聴ける状態に近づけようと、一小節を100回くらい歌い直したこともあります。とくにシングル・カット曲では極限まで普通のポップスをやろうとしました。
■"永遠のうた"(羅針盤のファースト・シングル)から山本さんの音楽を聴きはじめたというひとも多いでしょうね。
山本:入り口が広がったとは思いますね。
■あの曲で歌に開眼したところはないですか?
山本:そんなことはない。普通のポップスをどこまでできるかということですよ。最終的には普通ではなくなったけど(笑)。
■あれだけ作品を出しているということは、やっているなかに発見があったということですよね。
山本:それもあったし、元々ポップスは好きですからね。
■羅針盤からそういった山本精一像はできた気がします。
山本:でも僕、ボアダムスをやる前はずっと歌っていたんで、個人的にはそっちの方がイメージですよ。羅針盤にしても87年、ほとんどボアダムスと同じ時期に結成しているから。
■羅針盤の方が後発のイメージがありますね。
山本:ほとんど同じ。ズレていても一年か半年ですね。ボアダムスとかあの辺のバンドには僕はギター(と作曲)で入っているから参加している意識だったんです。ボアダムスに入ったのも田畑(満)が抜けたからだし。
■そういはいってもボアダムスの在籍も結構長かったと思いますが、自分のバンドではないという意識だったんでしょうか?
山本:僕のなかのひとつの要素ではありましたけど、本来の僕のやりたいことではなかった。
■歌とボア的な要素をミックスすると想い出波止場になる?
山本:想い出波止場はまたちがう。想い出は......説明しにくい(笑)。あれに類するバンドはあんまり思いつかない。ファウストとか。
■想い出波止場も去年ライヴしましたね。
山本:まあでも当分やらないですね。
■どうしてですか?
山本:やるモチベーションがない。あのときは旧譜が再発されたからね。
■新譜は出さないですか?
山本:出さないです。
■それは残念ですね。音楽が進化しない限り出す意味がない?
山本:基本は......想い出の話は止めましょうか。あのバンドはむずかしいんですよ。言葉にしにくい
■わかりました(笑)。では『Playground』に戻りましょう。3曲目がタイトル曲になっていますが、その意図はどういったものでしょう?
山本:その曲は別な名前がついていたんです。タイトルが先にあって、それをつける曲を探していて、3曲目が一番いいと思った。3曲目は元は"めざめのバラッド"。名前を変えたんです。
■この曲が全体を象徴していると思った?
山本:変えるのはそこしかなかった。"めざめのバラッド"は......あれ入ってるわ。元は"メール"って曲だったかもしれない。
■曲名は気にしてなさそうですね。
山本:適当です。
■歌詞はどうやって作るんですか?
山本:......適当(笑)。
■このアルバムでは生活のなかから出てくる言葉が使われているんですよね?
山本:なんとなく出てくる言葉を書いているだけですよ。
■曲が先にあって、そこに言葉の断片をあてはめていくということですか?
山本:そうです。だから自分の歌詞を全然憶えられないんですよ。考えてできたようなものじゃないし、ドラマになってないし、ツジツマが合わないから憶えられない。厳密にいうと僕のなかから出てきているとけど頭は通過してないんですよ。昔からいうんですけど、「落ち穂ひろい」というかね。地面に落ちている木の枝のたき火になりそうなものだけをひろう、その感じ。僕のなかにそれを選び分けるなにか、装置みたいなものは働いているけど、自覚的に自分が言葉をつなぎ合わせるというかね、創造的に言葉を選ぶ感じはない。ひろいあげていっている。
■言葉の組み合わせには流れがいりますよね。歌詞もひとつの文章だから。
山本:そうかな?
■すくなくとも言葉の連なりではありますよね?
山本:でもね、それは音素というか言葉がスケール(音階)やメロディラインに乗っかっていくと、言葉が耕されていくというかね。音楽に言葉をうまいこと乗っていくわけです。それは自動的な選択、エンター・キーが押される感じです。
■たとえば2曲目の"待ち合わせ"のサビのあたりで、「孤独」「闇」「深い朝」と連なる流れにはイメージの起伏があると思うんですよ。これって意図しないと作れないフレーズだと思いますが。
山本:そこは意図しました。そこくらいはツジツマがあっていた方がいいと思ったから。
■そういった落ち穂ひろい的な断片のなかにイメージを繋げられる言葉が入りこむから印象を残すのかもしれないですね。
山本:最初にある意味、自動筆記的に歌詞を書きはじめるんですよね。そうすると、俯瞰すると、意味が合う場所ができる。それをあとでまとめることはありますね。
■出口ナオみたいな?
山本:お筆先? ちがう......いや、ちかいかもしれんな。出口王仁三郎があとでそれをまとめるというかね。
■山本さんは王仁三郎の役割ですね(笑)。
山本:いや、僕はナオと王仁三郎がいっしょになってるのかも(笑)。勝手に出てくるものがあって、それをリライトする自分がいる。作るときはナオしかない。
■山本さんは自分をものすごく客観視するところはありますよね。
山本:僕は批評性からは逃れられない。もともと僕、批評から音楽に入っているわけだし。だけど、批評臭さはでないようにしたようと思ってます。
■私は『Playground』も1曲ごとに批評性はあると思いますよ。たとえば、1曲目なんかはシューゲーザーへの批評とも思いました。
山本:そんなことないよ。マイブラ、僕大好きやもん。1曲目はマイブラですよ。
■『ラブレス』の1曲目("オンリー・シャロー")が元ネタですね。でもそれを山本さんがやるのは批評的なニュアンスがあるとも思います。
山本:批評には僕、否定的な意味合いがあると思うのよ、ちがう?
■うーん。そうは思わないですね。
山本:僕はでも、否定的なところはないですよ。好きだからやったというだけでね。マネしてみました、みたいな。この感じが大好きなんやね。
■それだけプライベートな作品だということですよね。それはたしかだと思いますけど、山本精一の名前で出ると批評的な色合いを帯びてくるとも思うんですね。
山本:因果なことですよ。
■作っていくなかで、参照したものは本当にないですか?
山本:とりたててなにかを参照したというのはやっぱりないですよ。自分のなかには、いままで聴いてきた何十万枚という音楽が入っていて、そこからのアウトアップは意識的にも無意識的にも当然あります。それを影響といえばそうなるでしょうが、その意味で影響がない人間はいないということでもある。でも僕はもう、どこからそれがきたのはもうわからない。膨大な量があって、それはもう土壌のようなものですよ。そこから生えてくるキノコみたいなものでね。それはもちろん音楽だけじゃなくてね。
■経験を土壌にできるかどうかでもあるとは思いますけどね。
山本:まあね。いい忘れたけど、今回もうひとつコンセプト的なものがあるとしたら質感ですね。
[[SplitPage]]戦前ブルースとかテクノロジーのない時代の音楽、簡素な録音設備を使って道端で録ったような音楽ですが、そういった録音物は何度も聴ける特性がある。リヴァーブがまったくかかってない素の音楽ね。
■音の質感でいえば、Phewさんの新譜『Five Fingers』を聴いて『Playground』と似たものを感じました。
山本:そうね。Phewもそうやね。
■あとジム(・オルーク)のバカラックのトリビュートなんかもそうでしたね。
山本:そうでしょ。そっちの方に行くんでしょうね。
■その共通項は具体的にどういうものでしょう?
山本:アナログな感触ですね。それと、これまでの録音ではあまりよいとされてこなかったフレット・ノイズとかヒビリとか、ベースの音だったらラインで録ったような硬い音色。
■それはいま、新鮮かもしれないですね。
山本:うん、いい。自分のなかで考えられるのは、いい音を聴きすぎて、そうじゃない音を生理的に聴きたくなっているのかなとは思う。単純にこういった感じの質感の音は中毒性があるんですよ。リヴァーブがカットされているというかね。
■よい音の定義ではよく立体感というものがいわれますからね。
山本:それがリヴァーブだね。
■あとサラウンドのような音響も含めてですね。そういった価値観からの変化をたしかに感じました。反動ではあると思うんですが、私が好きなミュージシャンがそういった作品を作るという符号のようなものは感じました。
山本:僕はずっとレコードを聴いてきて、重層的な音像とか広がりとかドリーミーなサウンド、たとえば『ペット・サウンズ』とかビートルズとか、ああいう世界は大好きなんだけど、それと別に好きな世界があるんです。戦前ブルースとかテクノロジーのない時代の音楽、簡素な録音設備を使って道端で録ったような音楽ですが、そういった録音物は何度も聴ける特性がある。リヴァーブがまったくかかってない素の音楽ね。ほとんどCDは売ってしまったけど、ブルース関係とか、Dommuneでも紹介したイングランズ・グローリーとか、そのへんは残してるからね。
■イングランズ・グローリーは私も聴きましたが、よかったですね。
山本:宅録みたいでしょ。とくにベースなんかあんな音では録れないですよ。
■あの感じは......
山本:まあヴェルヴェット・アンダーグラウンドですね。
■そうですね。でもヴェルヴェッツほどノイジーでもなくもっとスムーズですよね。
山本:そうやね。
■陰影があってイギリスらしい音楽ですね。
山本:ニック・ドレイクとか、そういった陰りがあるね。
■あの手のものは日本には似たバンドはないですよね?
山本:どうかなー。しいていえばスターズ。石原(洋)くんがちかいかもしれない。
■そう考えると、『Playground』は石原さんがプロデュースしたゆらゆら帝国と似た質感はあると思いますよ。
山本:そうかもしれない。坂本(慎太郎)くんとか柴山(慎二)くんにも通じるかもしれないですね。
■東京でのレコ発(8月27日、吉祥寺スターパインズ・カフェ)ではベースは入れないんですか?
山本:ベースはないですね。千住とふたりですね。ベースも入れたいけど、あの感じでできるひとがいないですからね。大阪のライヴ(10月10日、梅田シャングリラ)では須原(敬三)に弾いてもらうけど。あのニュアンスは伝えられないね。ベーシストはもっと太い音を好むからね。ベーシストが作る音じゃないからね。ギタリストが弾くベースの音ですよ。あと上手すぎないことね。テクニックには僕、全然興味ないんで。上手いのはあんまり好きじゃない。
■テクニックはむずかしい問題ですからね。
山本:なにをもってテクニックというかですよ。ジャズやろうとしてテクニックがなかったらムリですからね。
■音楽が求めるものを実現するのがテクニックだとすると、こうやって譜面化できない部分が重要な音楽を演奏するには通常のテクニックが問題になるわけではないということですね。
山本:そういうことですね。譜面にできないことしか僕はやりたくないですね。譜面にしようと思ったら書けないですよ。ニュアンスといってもむずかしい。
■やらないと、聴かないと伝わらないですね。
山本:体感しないと意味がないんですよ。
■カオス・ジョッキー(モストの茶谷雅之とのデュオ)の『1』がおなじタイミングで出たのは偶然ですか?
山本:あれは去年の暮れに録ったから相当前ですよ。
■あれもギター・ミュージックとしては挑戦的でしたね。
山本:あれも一発録りですね。
■ギターの音を複数のアンプに振っていますね。
山本:8台使ったかな。
■エフェクトはそれぞれ別の系統をかませているんですか?
山本:そうだったと思う。というかどうやって録ったか忘れた。
■あれもワンテイクですか?
山本:そうやね。GOKの近藤(祥昭)さん特性の、ヘッドフォンにマイクを合体させた録音機材があって、それを人形の頭に装着してターンテーブルに乗せて回転させるんですよ。ブックレットに写真が載ってるけど、回転しながら録音しているから音像が変化するんですよ。あれは近藤さんならではのアイデアですよ。そのマイクの名前はリンダだった。
■山本さんの回りにはおもしろいアイデアをもったエンジニアの方がいますよね。オメガ・サウンドの小谷(哲也)さんもそうですが。
山本:小谷がスタジオをやめてしまったのが、とくに想い出波止場のようなバンドができなくなった要因かもね。アルケミー関係とか、みんないってる。ボアダムスもみんなあそこやったからね。ああいう感じの録音ができなくなったんですよ。あれはでっかいよね。
■小谷さんは想い出波止場のメンバーといってもよかったですね。
山本:プラス・ワンですよ。高校の同級生だったからね。あいつとずっと作ってきた感じだからね。あいつとやれなくなったのは想い出ができなくなったひとつの要因になった。
■スタジオのアイデアで想い出はできていますからね。
山本:アイデアもそうやし、僕らはあれを実現する技術的な知識はないわけだから、そこをサポートするのが彼の役割だったからね。
■音響から逆算して音楽はできていく面もありますし、音響派でなくてもスタジオワークは音楽の重要な部分ですからね。
山本:すごく重要ですよ。僕らがいうアイデアは普通のスタジオでは通らないですよ。ムチャクチャやから。ああいうのをやらせてくれるのは同級生というのもあったし、それをおもしろいと思う感性があったからね。想い出なんて音に関しては半分はあいつの世界ですよ。だから想い出はライヴはできるかもしれないけど、あのバンドは音源ありきだからね。
■ライヴは音源をどう無視するかという...
山本:そういった世界だからね。本当に困っていてね。探しているんですけど、ああいった人間には出会えない。変態やからね。完全な変態やからね。宅録ではできることが限られてしまう。俺らが普段使わない機材を使って録音する醍醐味というかね。そうじゃないとレコーディングする意味もあまりないでしょう。ものすごく高性能なマイク、1台百万くらいするマイクをビニールにくるんで水のなかに入れるとかね(笑)。何百万もするオープン・リールのテープ・デッキを手で回したり止めたりするとかね。たのんでもやらしてくれないですよ。
■水の音はそうしなくても録れますからね。
山本:そうやらないとおもしろくない。強烈に金がかかった設備で極限までアホなことをする。想い出波止場は音のクオリティはすごく高いはずなんですよ。アメリカのロウファイのバンドなんかは音はチープですからね。
2010年6月23日/Pヴァインで
アルバート・アイラーが中原昌也とスティーヴ・ライヒといっしょにブラック・メタルのセッションをはじめたとしたら......。
残忍なアヴァンギャルド(あるいはブルタル・プログレ=残酷なプログレ)としてその筋では名高いジーズによる新しいアルバムは"新しい奴隷"なるタイトルを冠している。〈ザ・ソーシャル・レジストリー〉から昨年出している12インチが"モダン・ホワイトの音楽"だったから、サックス奏者のサム・ヒルマー率いるこの新奇なフリー・ジャズ集団が4枚目のアルバムにおいてアメリカの植民地主義をテーマに掲げていることは容易に想像が付く。"コンサート・ブラック""エーカーズ・オブ・スキン"等々といったアルバムの曲名は、ホワイト・アメリカに人種差別にまつわる忌々しい記憶を想起させるらしい(黒人のリンチや白人警察の暴力行為、奴隷船における疫病等々)。アメリカのある音楽ライターは本作を――音楽性はまったく違うものの――パブリック・エネミーと同類の表現として評論しているほどだ(ちなみにジーズは白人グループである)。
われわれがジーズの"新しい奴隷"から触発されるのは、普天間基地問題で明らかにされたような「所詮アメリカはアメリカだった」という事実だろうか、あるいは左翼の教科書に出てくるマントラ=「資本主義の......」「搾取された......」といった言葉だろうか。とにかくはっきりしているのは、いま彼らは奴隷に関する"新しい物語"を語ろうとしていることである。
ジーズの録音物としてのデビューは2003年だが、このプロジェクトはサックス奏者のサム・ヒルマーが1990年代後半にマンハッタン音楽学校でジャズを学んでいるときに始動している。ジャズを土台としながら、ブルックリンのDIYシーンのなかでジャズのエリート意識とお行儀のよいロックをトイレに流すと、彼らはノイズ・パンク・サウンドの探求にハンドルをまわし、戦闘的で、いかにも喧嘩っ早そうなその音楽を磨いていった。グループはときにカルテットであり、ときにセクステットでもあった。デトロイト・テクノと初期ヒップホップに敬意を払いながら、彼らはフリー・ジャズの激しさにヘヴィー・メタルのギターを調合させ、さらにそれをミニマリズムに変換させるのだった。それはアグレッシヴで、扇情的で、隙あらば攻撃してきそうな勢いの音楽である。オーヴァーグラウンドでもアンダーグラウンドでも逃避主義が主導権を握っているこの時代のポップにおいて、狂ったように暴れているが、そのことだけでもこの音は価値があるように思える。ジーズの前では、レディオヘッドやゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラー!でさえお涙頂戴のメロドラマに聴こえてしまうのだ。
しかもジーズの爆発力は、アヴァンギャルドの退屈さとも無縁である。3人組となったジーズによるこのアルバムも、ただ闇雲に爆発しているわけではない。"コンサート・ブラック"や"エーカーズ・オブ・スキン"は異教徒たちの呪詛のようだが、その奇妙で不気味な響きは耳を離さない。"ジェントルマン・アマチュア"や"ドント・タッチ・ミー"といった曲ではSFPがミニマルをやったようなハードコア・サウンドを展開する。苦しみのなかから生まれたであろうその破壊的なノイズには、しかし人を惹きつける力がある。"メイソンリー"はアルバムのなかで唯一おだやかさを有したアンビエント・テイストの曲だが、それは文字通りの嵐の前の静けさだ。
20分にもおよぶ表題曲"ニュー・スレイヴ"がアルバムのクライマックスなのは言うまでもない。これは......特筆すべき曲で、"怒り"というものをここまで露わに表現した音楽を久しぶりに聴いた気がする。単調なミニマル・ノイズと爆風のようなメタル・ギターとの対比によって進行するディス・ヒートめいたこの曲は、そして後半の15分過ぎからがとくに凄まじい。まるでそれは......彼らがぶっ倒れるかリスナーが逃げるかの勝負事のようである。ウォッシュト・アウト(疲れた)なムーヴメントへの嫌がらせ......なわけはないだろうが、ひとつ言えるのは、気が狂いそうになるほどこの壮絶な演奏が収録されているだけでも、本作は注目されるべき充分な価値があるということだ。
アルバムの最後はふたつの"ブラック・クラウン・セレモニー"という曲で締めている。最初の"ブラック・クラウン・セレモニー"は13分もあるが、不思議な響きのダーク・アンビエントめいた曲だ。サックスの音色は地獄の底から聴こえてくるようだが、淡々とした禁欲主義的な展開がこの曲の表情を曖昧にしている。それでも"六界"なるサブタイトルが付けられた二番目の"ブラック・クラウン・セレモニーII"からは、非業の死を遂げた死者たちの悲鳴が聴こえるようだ。それはこのアルバムにどうしようもない後味の悪さと不吉な余韻を残している。
アートワークには暗い海に投げ出された奴隷船にまとわりつく化け物が描かれている。その素晴らしい絵は、この大胆不敵なアルバムに相応しい。
みんな繭のなかに入って、繭のなかでゆらゆら、無害な夢を見るぶんにはかまわない。どうせ社会全体が巨大なコクーンのなかだ。個人の繭を出たところで、また繭である。そこに情報を送り、資源を送り、システムを支えているのが誰なのか......もっとも大きな権力を持つものが何なのか、そんなことはなかばどうでもいいし、よく見えない。
チルウェイヴ、またグローファイなどと呼ばれるシンセ・ポップは、ここ1年ほどのあいだに浮上してきて、そのまま2000年代を覆った柔らかなサイケデリアの水面に揺籃され、新たな年代をまたいだ。アニマル・コレクティヴが照射した世界が2000年代という大きな繭だとすれば、これらの音は個人の小さな繭のなかにひたひたに満たされた羊水のようなものだと言えるかもしれない。繭に羊水もないものだが......。コミュニケーションを拒絶するのではなく、いちど撤退する。そしてそこを出ずして繋がれるものとは繋がる。一般に「流動性が高い」と記述される社会において、これは現実的で安全な方法である。その退却地点に、精神を刺激せず、身体に心地よい音をめぐらせるというのも特に意外なことではない。チルウェイヴ/グローファイというのは、こうした局面において見つけ出された、いわば機能性の音楽だ。そしてその点において鋭い批評性を宿したものだと言えるのではないだろうか。
ウォッシュト・アウトはサウス・カロライナ在住のアーネスト・グリーンによるひとりユニット。新世代ローファイの発信地のひとつでもある〈メキシカン・サマー〉より昨年デジタル・リリースされ、直後にアナログ盤でも流通した本デビューEP「ライフ・オブ・レジャー」は、メモリー・カセット(メモリー・テープス)やネオン・インディアン、またトロ・イ・モア等、アニマル・コレクティヴ以降のサイケ感覚やローファイ/シューゲイズなモード感を持ったシンセ・ポップ・ユニットと比較され、折からのバレアリック再燃ムードも追い風として作用し、チルウェイヴ、グローファイ、あるいはドリーム・ウェイヴといった呼称をいっきに浸透させる1枚となった。このジャケットはすでにその象徴のように記憶されている。
意味にではなく物質に、こと身体に働きかける音楽である。心臓より少し速いくらいのリズム、4拍子の裏はめいっぱいディレイをきかせたスネア、すーっとのびて途切れないシンセの波、ループするメロディ。冒頭の"ゲット・アップ"はおよそその気のない呼びかけだ。永遠に微睡んだってかまわない。いや、目を覚ましたところでうたた寝とそう変わるところはない。なんといっても"ライフ・オブ・レジャー"なのだ。〈イタリアンズ・ドゥー・イット・ベター〉のカラーに近い、重くもつれるようなビートに、レイジーというよりは、だるくて目が開かないといったヴォーカルが水絵具のようにひと刷け。この淡さと諦めの入り混じる色合いには、タフ・アライアンスやエール・フランスなどスウェディッシュ勢への共感も見て取れる。"ニュー・セオリー"などはとくにそうだ。現在の流行と平行するシューゲイジンなサウンド、そしてローファイな感触はレーベル自体のキャラクターだとも言えるが、とても抑制がきいていて品格がある。何から何まで文句のつけようがない。
しかし、なぜか諸手をあげて本作を受け入れることができない。これを聴きながら散歩をしたいし、家にいてもよく再生している。しかし、なんとなくそれを認めたくないのはなぜだろう。かくも意識に涼しい音に身体をゆだねっぱなしでいると、音楽において精神性が持つ意味が後退してしまったかのように感じられてしまうのだ。そんなことは本当はどちらでもいいことなのだろう。しかし、ロックを好んで聴いてきた自分のような人間にとっては、どちらかといえば精神性が音を引っぱり出してくるという順序にプラトニックな憧れとプライオリティを認める傾向がある。音楽で気持ちよくなるのは素晴らしいことだ。しかしそれが麻薬のように享受されることについて躊躇がある。そして世界を追認するのではなく、世界の意味を塗り替えるような音を期待してしまう。
いずれこの流行も去るだろう。本作の登場がそのピークであったかもしれない。しかし、個々の繭を満たす心地よさをぶち破るような強度が、今後音楽に求められるのだろうか。おそらくそのようなことはないのではないか。中央は見えず、末端のみが無数に浮かんでいる、あとはそのときどきの潮の流れと気分で末端から末端を渡り歩いてみる。マイ・スペースの宇宙そのもののような環境だ。
「起きてくれ どこかへ行ってくれ」「きみはぼくだ」......"ゲット・アップ"はじつはこのようにパラノイアックな世界をうたっている。自分と他人と夢と現実が渾然とした小さな意識。8分音符で刻まれるシンセのリズムはディレイによって分裂をはじめ、やがてとじあわされる。焦点は狂っては合い狂っては合いを繰り返す。それでもこんなに心地よい。われわれはすでに、このくらいには分裂した自分に慣れているのかもしれない。
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今年、初めての休みに三軒茶屋まで散歩して...とはいえ、やはり仕事がらみで浜田淳に会った。入稿し終えたばかりの『裏アンビエント・ミュージック 1960-2010』(INFAS)にどうしても差し替えたい盤があり、彼にミッキー・ハートのCDを売ってもらったのである。本来ならば振込みを確認してから送ってもらうというシステムに従うべきなんだろうけれど、校了までのわずかな時間に入手しなければ間に合わないので、直接会って売ってもらうことにしたのである。そのついでにどっちがどれだけワールドカップについて知らないかを確認し合い(多分、僕の勝ち)、くだらない話題のオン・パレードで時間は過ぎていった。あまり時間を気にせず、人と話をしたのが久しぶりだったので「休んだー」という実感が残った1日だった。
![]() 浜田淳 (著) ジョニー・B・グッジョブ 音楽を仕事にする人々 カンゼン |
その時、浜ちゃんが『ジョニー・B・グッジョブ』(カンゼン)という本をくれた。「いつの間に書いたの?」「1年かかりましたよー」とかなんとか。借金を返すために夜も昼も働いていたことは知っていたので、その合間を縫って完成させたことは本当に感心してしまう。「音楽を仕事にする人々」という副題からもわかる通り、音楽業界で働く無名の人ばかりを対象にしたインタヴュー集である(要はスタッズ・ターケル×猪瀬直樹)。その時は装丁が湯村輝彦だということに嫉妬を覚え、デザインについての話も弾んだ。僕なら湯村輝彦には「乾き」を求めるけれど、浜ちゃんのそれは違っていた。彼が求めたのは「説明がいらない」だった。なるほどなー。
それからしばらく校了作業が続き、ようやく『ジョニー・B・グッジョブ』を開くことができた。そして、あっという間に閉じてしまった。読み終わってから500P以上あったことに気がついた。どうやら夢中で読んでしまったらしい。音楽業界というところには、とにかく多種多様な仕事があって、その人たちがどういう仕事をどうやってやっているのか、そういうことがまずは面白かったんだと思う。商業音楽だけでなく、音楽教師やブラック・ビジネスにも範囲は延びている。まえがきに実用書だと書いてあったのもなんとなくわかったような気がした。あくまでも個人の体験談として語られているので、自分がそこに身を置けるかどうかというシミュレイションができるような気がするからである。いままでより近くしか感じられた仕事もあるし、逆に遠のいて感じられた例もある。サックスのリペアマンがいまだにサックスを理解できないというくだりや、ステージの袖にいるととにかく落ち着かないと話す舞台監督など「たたき上げ」と題された章がとりわけ個人的には共感するところが多かった。PAの人も含めて自分の性格がこの辺りの仕事に向いているのだろうか? この章に入れてもおかしくないプロデューサーという人がいたら読んでみたかったなと思う。
![]() 公式版 すばらしいフィッシュマンズの本 INFASパブリケーションズ |
「音楽を仕事にする人々」とするなら、しかし、僕はもっと有名な人や、ここで基調をなしている「儲かっていない人」ばかりにする必要はなかったと思う。儲かることもあるから「仕事」なんだし、成功している人の話から浜田淳が何も引き出せなかったとは思わないからである。そういう人たちの話はたしかにつまらないことが多いし、この本ではそうではないから吐き出される言葉にリアリティがあるということもわかる。だけど、それによって描き出されるのは彼が何度も強調しているように「声なき声」ではあっても、けして「仕事」ということではない。たとえば『すばらしいフィッシュマンズの本』(INFAS)でZAKのインタヴューを読むと、こんな人にはとうてい太刀打ちできないということがよくわかる。自分がそこに身を置くべきではないというシミュレイションも可能になる。ZAKのインタヴューを「仕事」の話として読むのは無茶かもしれないけれど、そこから「態度」を読み取ることは容易なことである。たとえば『ジョニー・B・グッジョブ』には「自分が誰かの役に立っているのなら......」という考え方が何度か出てくる。それは、僕にはその仕事をしながらどこかで崩壊していく自分もあり、それを食い止めるために自分自身を支える言葉として使われているというニュアンスも少なからずは含まれているように感じられる。ZAKの言葉にはそのような含みはいっさいない。「仕事」にはそのような無限の広がりもある。そこを切り捨ててしまったのは、やはり惜しいことだと僕は思う。「音楽業界における声なき声」。正しい副題をつけるとするならば、こうではなかっただろうか。せっかく曽我部恵一にミュージシャンとしてではなく無名のレーベル経営者として語らせ、それこそ自分を保つのに必死になっているとしか読めない元レコードショップ店員まで載せたのだから。
クラムボンのマネジメントをやることになる豊岡歩とデ・デ・マウスのマネジメントはできないと判断する永田一直の対比、ムダなことばっかりやってると楽しそうに話すレーベル経営の松谷健とムダなことは極力やらないと話すプロデューサー、又場聡の対比など、どちらの気持ちも理解できると思える時、この本はとても輝きを増して感じられる。どんな仕事をどういう風にやりたいのかということがあまりにもリアルに、あるいは自分自身への選択肢として迫ってくるようで、「なに、この本、ゲームにできるんじゃないの?」と思うぐらいである。仕事とアイデンティティを切り離そうとした小泉・竹中政権の余韻はまだ残っているかもしれないけれど、近代的自我と仕事を一致させようとしている人はまた増えているとも聞く。本書はどう考えても後者の感覚を補強するものであり、そうではない方向へと誘う人の言葉は1行も出て来ない。ブラック・ビジネスの人は微妙だけど、いずれにしろ著者がそれ以外の可能性に思い至っていないことは確かだろう。音楽だけではなく、どの分野に行っても誰かの奴隷にならなければ成功はできない国にいて、その通りにするか、それを飛び越すか、あるいは......。
CD関係
■DJヨーグルト&コヤス『Chill Out』 (サード・イヤー)*企画
■ロマンポルシェ『盗んだバイクで天城越え』 (ミュージック・マイン)*コント出演(初回DVD)
■イルリメ『360°サウンド』 (カクバリズム)*ライナー
■パトリック・パルシンガー『インパッシヴ・スカイズ』 (ミュージック・マイン)*ライナー
■V.A.『クリックス&カッツ 5』 (ミル・プラトー/ディスクユニオン)*ライナー
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クァンティックのレコードを僕が最初に買ったのはずいぶんと遅い。2006年のミスター・スクラフとの12インチ・シングルだ。ウィル・ホランドのデビューは2000年だから、そのときにはアルバムを4枚も出している。つまり、僕とクァンティックとのあいだにはそれなりの距離があって、その12インチに関してはミスター・スクラフという媒介のおかげでたどり着けたに過ぎない。レコード店の人から「こういうのも聴くんですね」と言われたのを覚えているが、三田格を渋谷ディスクユニオンの地下で見かけたという人から「いました!」と言われたことがあって、きっと僕の場合も店からしたら意外性のひとつだったのかもしれない。そう思うとずっと追ってきている人には申し訳ない気持ちだが、まあ、嫌いなわけではないですよと言うしかない。
ラテン音楽を聴いていると、僕はいまでも90年代の渋谷にあった〈ミスター・ボンゴ〉というレコード店の店長のことを思い出す。あの店には、最新のクラブ・ミュージックが並んでいる店内の片隅に、店長の趣味のサルサをはじめとするラテン音楽の、しかもそれなりに値打ちの付いているらしいオリジナル盤がつねにあった。イギリスからやって来たその店長は、あるとき最新の12インチを手に抱えている、まがりなりにも客である僕に対して、「よくそんなものを買うね」と言ってきたことがあった。その言葉の次が彼の口から出ることはなかったが、彼が心のなかでこう言ったことは伝わった。「すぐに消えてしまうような12インチを買うなんて、カネを捨てるようなものだ。信じられないよ。僕なら一生もののラテン音楽を買うけどね」
それ以来、ラテン音楽を意識するようになった。ニューウェイヴ時代にブルー・ロンド・ア・ラ・タークやキッド・クレオール&ザ・ココナッツを聴いている世代としては、多少なりとも親しみだってある。「嫌いか?」と問われれば「好きだ」と答えるものの、正直な話、それを本格的に追求しようとは思わなかった。それをするなら、他のジャンルをある程度は諦めなければならないだろう。歴史や文化を勉強するのは嫌いじゃないが、5000円以上もする重要盤をリスト化し、探しに出掛け、そして揃えなければならない。スペイン語も習わなければならないだろう。その覚悟が自分にはないし、どのアルバムから聴きはじめればいいのか教えてくれる入門書もなかった。ポップ・ウィル・イート・イットセルフとティト・プエンテを両立させる自信もなかった。
だが、人間、歳を取るにつれて自分が知らなかった世界を旅したくなるものなのだ。僕がそうだったように、クラクソンズしか愛せない若者もブーガルーやクンビアやマンボを聴くときが来るかもしれない。それは自分の知らなかった"文化"との出会いで、個人的だがひとつのハイブリッド体験となる。それは自分のなかの自分が嫌悪する自分――あるいは極めて日本的な美徳に支配された自分に裂け目を与え、少しだけだが自由になった気分を味わえる。オシムがどれほどドイツの組織力を評価しようとも、やはりどうしてもマラドーナとメッシのばっかみたいに個人で勝負する自由奔放なフットボールが愛おしく思えてしまうように、いまの僕がラテンを避けて通ることはできないのである。
だからクァンティック・プレゼンタ・フラワリング・インフェルノ名義によるセカンド・アルバム『ドッグ・ウィズ・ア・ロープ』も魅力的に思える1枚である。ウィル・ホランドは、〈トゥルー・ソーツ〉のレーベル・オーナーであるロバート・ルーイと同じように、故郷のブライトンでファットボーイ・スリムがスマイリーとブレイクビーツのレイヴィングに励んでいた頃、ヒップホップを貪り、4ヒーローや〈ニンジャ・チューン〉に心酔して、飽きもせずジャズやディープ・ファンクを掘り続け、ラテンのエキゾティズムに憧れていた。ダンス・カルチャーがエネルギーを失いかけている頃、クァンティックはラップトップの電源を抜いてオーケストラをオーガナイズした。レコーディングやライヴをおこない、そして数年後に彼は音楽の探究のためにコロンビアへと向かった。フラワリング・インフェルノはその成果のひとつである。
この音楽の面白さはUKならではのハイブリッド性ということに尽きる。本作に関して言えば、ダブ、クンビア、サルサなどがシェイクされている。このように多文化的な響きを混合していくメソッドは、ポップ・フィールドではディプロの得意技といったところだが、同じDJカルチャー的アプローチであってもウィル・ホランドはギミックなしで勝負する。ディプロのように移り気ではなく、探求的なのだ。
そして〈トゥルー・ソーツ〉からデビューして〈ニンジャ・チューン〉移籍後に大きな成功をおさめたボノボのように、レトロの模倣という誘惑に屈することもなく、トロピカルな南米音楽の魅力を彼なりのアレンジでディープに伝えようとする。この手の試みが失敗するたいていの場合は、DJカルチャーの軽薄さのなかで消費されてしまうか、広告写真のようにイメージを強化し過ぎるあまり退屈な洗練性に陥るかのどちらかだが、ホランドはそうした落とし穴も回避する。ジャケットの写真のように路地裏のニオイが匂ってきそうなヒューマンな音楽で、ざっくりと言えばサウンドシステムと南米との出会い、ダビーなサルサである。
伝説的なペルーのピアニスト、アルフレディト・リナレスをはじめとするゲスト陣は玄人でもそれなりに納得するメンツらしい。ジャマイカ生まれでイギリス在住のベテランのレゲエ・ドラマー、コンラッド・ケリーが叩いているかたわらで、60~70年代に活躍したコロンビアのバンド、プレゴヨ・イ・ス・コンボ・バカナのフロントマン、マルキトス・ミコルタをはじめとする現地のお歴々たちも参加している。ちまたでの評判の通り、レトロな響きと未来......とまでは言えないまでも新し目のサウンドの両方を好む耳を惹きつける作品だと言えるのではないだろうか。
わずか4枚のシングルによっていま急速に注目を集めているのがロンドンの21歳のプロデューサー、ジェイムス・ブレイクである。ジャイルス・ピーターソンは自分の番組に誘い、『ピッチフォーク』は12インチ・シングルなのに関わらずアルバムと同等の扱いをしながら「best new music」に選び、気の早いライターは「ヒップホップ革命における最終形態」とまで言い出す始末だ。
ブレイクは、彼の音楽から察するところ、アメリカのR&Bとヒップホップのファンである。ある情報筋によれば彼のサンプル・ネタはブランディからR.ケリーまであるらしいが、しかしこの若者は弁護料の心配することなく、それらのビッグネームたちの素材を切り刻む。90年代末のティンバランドとネプチューンズの記憶は、そして彼のコンピュータに流し込まれるとサイエンス・フィクションの舞台へと移動する。"CMYK"に最初に針を落とすとR&Bヴォーカルが聴こえるが(情報筋によればそれはケリスとアリーヤらしい)、その声はさりげなく微妙に変調する――これはブリアルが"アーチェンジェル"で使った"技"だが、ブレイクはそれをさらに過剰に押し進めているようだ。レコードの回転数が不規則になったかのような不安を醸し出し、そして叩きつけるようなビートが鳴りはじめる。2曲目の"Foot
Notes"を喩えるなら、ドラッグでいかれたアンドロイドのR&Bだ。声や音の変調と揺らぎによる不安定さはブレイクの"技"だが、ここではそれをずいぶんと引っ張って、そして無音状態を経て唐突にショーがはじまる。
"I'll Stay"は潰されてペシャンコになったヴォーカルに解体されたファンクとジャズのコードを合成する。"Postpone"は採集したいくつかのR&Bサンプルを面白いようにゆがませながら、ソウル・ミュージックをレトロと未来の両側に引き裂いているようだ。
ポスト・ダブステップとポストR&BのIDM展開と言ってしまえばそれまでだが、「CMYK」は新しい流れを作ってしまいそうな1枚である。そんなシングルが〈R&S Records〉から出ていることが、僕の世代ではなんとも感慨深い。
ジェイムス・ブレイクの最新盤で、ラマダンマンの〈ヘッスル・オーディオ〉から。「CMYK EP」ほど派手な使い方ではないが、やはりここでもヴォーカル・サンプルは彼の"技"として駆使されている。狂ったジャズ・ファンクと気が滅入るほどメランコリックな"The Bells Sketch"が素晴らしい。もったいぶった"Buzzard And Kestrel"で踊る人はあまりいないだろうが、"Give A Man A Rod"のダウンテンポにいたっては困惑した挙げ句、フロアから人は立ち去っていくであろう。それはブレイクの挑戦か、さもなければ自分の"技"に溺れてしまったかのどちからだ。
〈R&S Records〉はこの路線が「いける!」と踏んで勝負を仕掛けているようだ。ロンドン在住のパリーア(アーサー・ケイザー)による「Detroit Falls」は、手法的にはジェイムス・ブレイクとほとんど同じで、つまりこれもまたブリアルの"アーチェンジェル"の発展型だ。あらためて『アントゥルー』(2007年)の影響力の大きさを思い知る。
A面の表題曲は、"デトロイトは没落する"というそのタイトルが暗示するように、モータウンあたりのデトロイトのソウル・ミュージックをサンプリングしているのだろう。リック・ウィルハイトのレヴューでも書いたが、この不況によって容赦なく荒んでいくデトロイトへのいたたまれない気持ちが込められているのかもしれない。
古いR&Bヴォーカルやホーンの音を変調させ、それをビートにリンクさせていく。「CMYK」と比較するとこちらのほうがダンサブルでヒップホップらしさがあり、ジェイディラへのリスペクトも感じる。
B面に収録された"Orpheus"は典型的なポスト・ダブステップ・サウンドで、言ってしまえばラマダンマンの模倣だ。ダビーなビートが生み出す空間にメランコリックなソウル・ヴォーカルが流れるように挿入される。この曲を聴くと彼がザ・XXの"ベーシック・スペース"のリミックスを手掛けている理由がよくわかる。ザ・XXのファンなら間違いなく好きなタイプの曲。
先日、『スヌーザー』誌のためにカリブーに取材したら、ブリアルのおかげでダブステップを好きになれたと話していて、僕の場合もまったく同じだと思った。ブリアルの『アントゥルー』はファンを増やしたばかりか間違いなく多様化をうながし、そしてアントールドやラマダンマンに方向性を与えたのだ。
ラマダンマンことデヴィッド・ケネディは写真で見るとずいぶん若いが、デビューは2006年だからそれなりのキャリアがある。自ら〈ヘッスル・オーディオ〉レーベルを運営しながら、〈ソウル・ジャズ〉からシングルを発表するなど2年ほど前から注目はされていたが、今年に入って発表したこの2枚組EPが僕にはずばぬけてよく聴こえている。DOMMUNEでも話したことだが、この音楽はプラスティックマンがダブステップをやっているように聴こえるのだ。A面に収録された"I Beg You"はまったくブリリアントなエレクトロニック・ファンクで、間違いなくテクノ耳を虜にする。裏面のふたつのトラックもファンク調だが、DJユースのパーツとして収録されているようだ。このあたりを上手にミックスしているテクノ系のDJが日本にいたら教えて欲しい。
もう1枚のほうの3つのトラックはどれもがアシッド・ハウス的なテイストを持っている。ねじまげられた空間を「はぁはぁ」という男のあえぎ声がこだましているD面1曲目の"Bleeper"にはラマダンマンのユーモア精神を感じることができる。こうした自由と楽しさが、カリブーのように「それまではダブステップのいかめしさに距離をおいていた」人たちを惹きつけていることをあなたは知っているのだろうか?
昨年の秋に〈ハイパーダブ〉から発表されたダークスターのヒット・シングル「アンディのガールフレンドはコンピュータ」によってカイル・ホールの名前を知った。彼はこのシングルのリミキサーだった。そのときはオリジナルのほうが良いと思っていたけれど、先日〈ハイパーダブ〉からリリースされた彼のシングル「ケイチャンク/ユー・ノー・ホワット・アイ・フィール」が実に素晴らしかったので、追ってみることにした。
ちなみにデトロイトのこのプロデューサーがどれぐらい若いかと言うと、1991年7月生まれだから、彼が生まれたとき、すでにデリック・メイは制作活動を休止していて、URのふたりは分裂しはじめている。恐ろしい話だ。デトロイトのジャズ・ミュージシャンの家系に生まれ育った早熟なホールは、16歳で〈ムーズ&グルーヴス〉からシングルを発表している。フライング・ロータスではないが、ある種のサラブレッドなのかもしれない。
〈サード・イヤー〉からのリリースとなった4曲入りの「マスト・シー・EP」は、インパクトの点では「ケイチャンク/ユー・ノー・ホワット・アイ・フィール」に劣るかもしれないが、デトロイト系を追っているファンにとってはこっちのほうが親しみやすいと思われる。何よりもスローテンポ・ハウスの"Must See"やアンビエント・ハウスの"Ghosten"には、デリック・メイや若かりし頃のカール・クレイグを彷彿させる、息を呑むような美しさが受け継がれているのだ。メランコリックでジャジーなメロディラインが、シンプルで気の利いたドラムパターンと結びついている。リズミックな遊びを展開する" Osc_2"やディープ・ハウスを披露する"Body Of Water"も悪くはない。
ポスト・ダブステップのような流行の音楽ではないが、これぐらい気持ちの入った12インチがコンスタントに出ているのなら、昔のように人はヴァイナルを探すようになるのだと思う。
モノレイクといっしょに〈DIN〉を運営するトルステン・プレフロックによる12インチ2枚組で、すでにテクノDJのあいだでは人気盤となっている。彼は歴史のアーカイヴから、30年代末から40年代にかけて録音されたという東アフリカの楽器(ndingidi――読み方がわからない)の音、そしてその奏者であり歌手の声を見つけ、それらをサンプリング・ソースとして活用し、瞑想的な空間を作っている。面白いことにリズムは明白なまでにダブステップ(2ステップ、ジャングル)からの影響を取り入れている。ワールドカップをほぼ全試合観ているためにブブゼラの音にはすっかり慣れてしまい、よってこうしたエキゾティズムもとりたてて新鮮に思えなくなっているのだが、「ワイアーレス」はいわばブライアン・ジョーンズの『ジャジューカ』(これはモロッコだが)のミニマル・テクノ・ヴァージョンとして楽しめる。サイケデリックで、エクスペリメンタルで、とにかくぶっ飛んでいるのだ。
2ステップのビートを取り入れた"Cropped"にしてもダブステップからヒントを得た"Anyi"と"Dig"にしても、10年以上にもおよんで懲りもせず、結局のところベーシック・チャンネルの物真似しかできなかった多くのフォロワーとは確実に一線を画している。交錯するコラージュとそれら裏打ちのビートとのコンビネーションがなかなか面白く、ふたつのスピーカーからはうねりのようなものが立ち上がってくる。ネタ勝負の安直なトラックではない。その料理の仕方のうまさがこのシングルでは際だっている。殺気立つパーカッションと地鳴りのような低音の"Voices No Bodies"も魅力的だ。モーリッツ・ファン・オズワルドへのリアクションとも受け取れるが、ドイツのミニマル音楽の最新型は、ドイツのサッカーより面白く思える。
いま流行のチルウェイヴにおいて興味深いのは、すでにいろんなところで指摘されているように、これが史上初めてネット上で起きたムーヴメントであるということだ。つまりチルウェイヴとは、トロ・イ・モイが拠点とする南カリフォルニアでも、ウォッシュト・アウトが生まれたジョージア州のペリーで起きているムーヴメントでもない。ネオン・インディアンのテキスサスでもなければ、〈カーパーク〉や〈メキシカン・サマー〉が中心になっているわけでもない、地理的な"場"を持たないムーヴメントなのだ。
ネット時代におけるこの新しいムーヴメントに対して、アメリカの『ピッチフォーク』がわりと手放しに褒めているのに対して『ガーディアン』がどちらかといえばシニカルにかまえているのが面白い。ザ・ビートルズを生んだマージー・ビートにはじまり、ハッピー・マンデーズを生んだマッドチェスター、マッシヴ・アタックを生んだブリストルといったローカルという地場におけるムーヴメントの重要性をよく知る国においては、アメリカにおいてもシアトルのグランジ、ブロンクスのヒップホップ、デトロイトのテクノのような"地元"コミュニティを基盤としたムーヴメントを賞揚してきた。まあ、イギリスにおけるローカリズムへの強い気持ちはフットーボールのそれを見ていてもよくわかる。地元への愛情と中央集権的な権力へのいらだちが隅々まで大衆化されているのだろう。それがローカル・シーンを育て、ユニークな音楽を輩出する基盤となっている。ゆえに『ガーディアン』がチルウェイヴに対して「インターネットはローカル・ミュージック・シーンを殺すのか?」と問い質したくなる気持ちもわからないではない。
が、僕は日本と呼ばれる国の地方出身者なので、この議論に関してはアンビヴァレンツな感情を持っている。まず地方の人間とは、地元に愛情を注いでいる人間とそうでない人間の二種類に分かれる。地方のダンスものを扱うインディ系のレコード店に入って、地元のDJのミックスCDが置いてない場合は、よほどの合法主義者か、たいていの場合"孤立"している。孤立した人間にとってネットほど頼りになる救世主はいない。地元との交流がなくても、ネットで何100キロ離れた人たちとお互いの趣味を確認し合って、交流できる。下高井戸のトラスムンドのように人の出入りがあって地元に愛されている店はいまでもネットを必要としない、というかあの店の場合は商売への意欲を欠いているだけなのかもしれない......が、しかし、間違ってもイギリスのようになれないこの国において、そんな情緒的な"音楽の場"はクラブ系でもない限りは数えるほどしかないだろう。
チルウェイヴ・ムーヴメントを聴いていると、その享楽性の背後からより手に負えなくなっている孤独を感じる。この音楽の特性はシューゲイザーと80年代的ディスコ・ビートという組み合わせにある。ディスコとはコミュニティ音楽だが、それがインディ・キッズの孤独なトリップを志向するシューゲイザーと結びついている。この倒錯性こそがチルウェイヴの妙味であり、その説得力なのだ。音楽性という観点で言えばナカコーのiLLはチルウェイヴの先駆的ないち例であるが、このムーヴメントに関してのもうひとつの特徴はベッドルームで作られたローファイ音楽であるという点にある。あくまで自宅で録音されているのであって、彼らの窓の外には無味乾燥で小綺麗な郊外の風景が広がっているのかもしれない。ネット世界のほうがより人間的に感じるのかもしれない。手放しに幸福な環境とは思えないが、過酷な新自由主義のなかでそうなってしまったのだ。
多かれ少なかれ、日本だって同じだ。拡大するシャッター商店街のように、ローカルというものの風景は着実に変えられるつつある。地方のラッパーやJリーグのサポーターは、こうした事態に反射的に抵抗しているのかもしれないが、そのいっぽうで七尾旅人が指摘するようにネットで救われた人間は少なくないだろうし、ネット時代のムーヴメントは起こるべきして起きたと言える。幸福な状況とは思えないが、われわれは『ガーディアン』のようにこのムーヴメントを「身体的音楽のゆっくりとした死」などと切り捨てることができないのだ(だいたいあの国はダブステップとかグライムとか、いまだぜんぶ"地元")。
ニューヨーク州のロングアイランドのベッドルームから登場したふたり組、スモール・ブラックはチルウェイヴの類に属するバンドで、ウォッシュト・アウトとのスプリット7インチも発表している。現在はニュージャージーに隣接するデラウェアに暮らしているというが、このバンドの場合はウォッシュト・アウトほどディスコめいているわけではなく、むしろスペースメン3やマイ・ブラッディ・ヴァレンタインへの隠しようのない共感が滲み出ている。何の情報もインプットすることなく音だけ聴いたら、UKのインディ・ロック・バンドだと思ってしまう人も少なくないだろう。
サイケデリックであっても、ドラッグ臭さがないのもチルウェイヴの特徴だ。これもまた大いなる逃避主義時代を象徴するジャンルだろうが、アトラス・サウンドのように壊れているわけではないのだ。だからジュリアン・コープのような人は不満足かもしれないけれど(『ジャップロックサンプラー』参照)、とりあえず音楽はアトモスフェリックで、ある一定のムード――エフェクトが深くかけられたヴォーカルとギター、シンバルは使わないモーリン・タッカー風のドラムによる例のあの感じ――を伝えている。楽曲自体の完成度は高く、ガールズやザ・ドラムスのようにもっと純然たるポップスを書ける才能もあると思うのだが、スモール・ブラックはむしろバンド全体の"音"にこだわりを見せている。曇りガラスの向こうから見える万華鏡のようなそれは、若い頃にあの時代のUKインディ・ロックを追いかけてきたお父さんにとっては親近感の湧くサウンドである。
『ピッチフォーク』が評価しているワイルド・ナッシングのアルバムを聴いたら、プライマル・スクリームのファースト・アルバムそのものだったので驚いたが、ひょっとしていまアメリカの"孤独"は(橋元優歩さんが主張する「チェックのシャツに着替えろ」のグランジ復活説ようなものではなく)、80年代末のUKインディに向かっているのだとしたらどうだろう。だとしたら......サマー・オブ・ラヴはすぐそこじゃないか! だが、こんどのそれは初のネット上で起きるサマー・オブ・ラヴになるのだ。しかし......いったいどうやって?