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昨年、“ Motor City Madness”が話題になって、〈トレゾア〉からアルバム『Memoirs of Hi-Tech Jazz』をリリースしたデトロイトのワジードが来日する。
日程は以下の通り。
10.21 (SAT) CIRCUS TOKYO
Info: CIRCUS TOKYO https://circus-tokyo.jp/event/waajeed/
10.22 (SUN) ASAGIRI JAM ’23
Info: ASAGIRI JAM https://asagirijam.jp
ワジード(Waajeed)ことRobert O’Bryantは、ミシガン州デトロイト出身のDJ/プロデューサー、アーティスト。10代のとき、デトロイト・ヒップホップを代表するグループ、Slum VillageのT3、 Baatin、J Dillaと出会い、DJやビートメイカーとしてSlum Villageに参加。奨学金を得て大学でイラストレーションを学ぶ時期もあったが、Slum Villageのヨーロッパ・ツアーに同行しに、音楽を生業とすることを決めた。
2000年にはSaadiq (Darnell Bolden)とPlatinum Pied Pipersを結成し、ネオソウルやR&B色強いサウンドを打ち出した。Platinum Pied Pipersとして、Ubiquityよりアルバム『Triple P』、『Abundance』がある。2002年からレーベル〈Bling 47〉を主宰し、自身やPlatinum Pied Pipers名義の作品のほか、 J Dillaのインスト・アルバム『Jay Dee Vol. 1: Unreleased』や 『Vol. 2: Vintage』をリリースしている。
2012年、レーベル〈DIRT TECH RECK〉を立ち上げ、より斬新なダンス・ミュージック・サウンドを追求している。Mad Mike Banks、Theo Parrish、Amp Fiddlerとのコラボレーションを経て、2018年、ワジードとしてのソロ・アルバム『FROM THE DIRT LP』を完成させた。2022年、最新アルバム『Memoirs of Hi-Tech Jazz』をドイツのテクノ名門、〈Tresor〉から発表。
https://linktr.ee/waajeed
https://www.instagram.com/waajeed/
https://twitter.com/waajeed_
Waajeed - Motor City Madness (Official Video) (2022)
Dames Brown feat. Waajeed - Glory (Official Video) (2023)
Church Boy Lou - Push Em' In the Face (Official Music Video) (2023)
DUB SESSIONS 2023にオープニングDJとして出演することが決まり、自分なりに解釈したダブやOn-U的な多文化共生サウンドについてつらつらと考えていたとき、ele-king編集部からAfrican Head Chargeのインタヴューをやらないかというメールが届いた。これまでインタヴューをされる側にまわったことは幾度かあったものの、する側にまわったことはなく、しかもインタヴューする相手が、私がとても大きな影響や衝撃を受けたAfrican Head Chargeとなるとプレッシャーは大きかった。彼らのドラムの洪水とディレイとリヴァーブの旋風によって意識を遠くまで飛ばされた経験が、私のプロダクションやDJの全てに深いところで影響を与え続けていると言っても過言ではないだろう。
African Head Chargeは私が生まれるより前から活動しているグループであり、DUB SESSIONS 2023の会場に訪れた人のほとんどは私より年上のようだったが、初めて彼らの曲を聞いた時の私がそうだったように、彼らのサウンドは飢えて足掻いている若い人間にも衝撃を与えることができる。この時間と空間をねじ曲げ、過去と未来、遠いどこか彼方とここを同時に体感することを可能にする衝撃に、新しい魂たちが出会い、新しい何かが生まれるきっかけになることを願っている。
African Head ChargeのBonjo Iyabinghi Noahはとてもクセの強い人だと人づてに聞いていて、これまでの作品を形容してきた言葉たちから感じられるような宇宙的サイケデリックさをもった人と対峙する覚悟でインタヴューに挑んだ。質問の意図とは違う答えが返ってきたり、時間が限られていたりで、用意していた質問の半分ほどしか聞くことができなかったが、彼の答えから見えてきたのは、とても素朴で優しいひとりのドラマーの姿だった。
家出を繰り返す子どもだった。学校も、音楽で身を立てたかったから11歳のときにやめた。両親は教会に行けと言ったけど、私はそれも嫌だったな。その反動もあって、アフリカのスタイルや伝統的なドラム、ありとあらゆることを学んだ。イギリスに渡ってから、フェラ・クティなどのアフリカン・アーティストに出会って、ボンジョという名前も彼に名付けてもらった。
Mars89:エイドリアン・シャーウッドが過去のインタヴューで、ブライアン・イーノとデイヴィッド・バーンのアルバム『My Life in the Bush of Ghosts』における「サイケデリックなアフリカのヴィジョン」からインスピレーションを得てはじまったと話していましたが、あなたも『My Life in the Bush of Ghosts』や「サイケデリックなアフリカのヴィジョン」から影響を受けていますか?
ボンジョ:私はそうしたものからの影響は受けていないが、7歳のころにジャマイカの民間信仰、ポコメニア教会(アフロ・クリスチャン教会)で伝統的なドラムの奏法を教えてもらうようになったことが大きかった。当時、私の大叔母がラスタの女王としてその教会をまとめていて、クラレンドンにキャンプを貼っていた。そこでナイヤビンギというドラムの奏法を教わり、ラスタの曲などもプレイするようになったんだ。それこそが自分にとって一番の影響だと思う。のちにロンドンでエイドリアン・シャーウッドとスタジオに入ったときにも、伝統的なドラミングやインドの伝統音楽などを演奏したよ。
Mars89:アフリカン・ヘッド・チャージという名前も、そのときに決まったんでしょうか。
ボンジョ:いろいろと名前の候補はあって、アフリカン・ヘッド・チャージもそのひとつにすぎなかった。私はジャマイカで生まれたが、先祖はアフリカから来ている。だからこの名前はすごく自分に響いたんだ。だから選んだ。
Mars89:スタジオでエイドリアン・シャーウッドとは、どのような共同作業を経て作品を作っていますか?
ボンジョ:まず、エイドリアンの最大の役割は私がプレイしたものをレコーディングしてミキシングすることだ。私の役割は、とにかくドラムを叩くこと。ドラムをずっとやっていて、時にはスタジオに8人のドラマーがいたりもするが、私はどの曲でもすべて演奏している。叩いたものをどんどんエイドリアンが重ねていくような流れだね。時にはパーカッションも。ドラムの後にベースやキーボードを足していくから、アフリカン・ヘッド・チャージのサウンドの要はドラムと言えるだろう。
Mars89:エイドリアンとはすごく長い間共同作業を続けていると思うのですが、そのなかでお互いの信頼関係をどのように築いていきましたか?
ボンジョ:45年以上の仲だね。少し質問からは外れた回答になってしまうんだけど、私はそもそもクリエイション・レベルというバンドをやっていて、エイドリアンもメンバーのひとりだったから、そこで出会ったんだ。クリエイション・レベルでも私がドラムを叩いて、エイドリアンがエンジニアリングという体制だった。バンドを続けるうちになにか違うことをやりたくなって、というのもアフリカのスタイルをもう少し押し出したいと思うようになって、それは私の先祖が南アフリカからやって来ていて、離れて暮らしていても自分のなかに流れているアフリカのスピリットを常に感じていたからだよ。
アフリカにもカトリックが多くて、私の親族もそう。音楽に興味を持ちはじめた幼少期、「聖歌隊で歌ってみたらどうか」と勧められたことがあったんだけど、ポコメニア教会に通いはじめてナイヤビンギと出会い、伝統的なドラムを演奏したいと強く思うようになった。それが1950年代のことだよ。当時はラスタファリ運動が人びとに認められておらず、アフリカに出自のあるものもすべて否定されていた時代だったんだ。そういった背景もあってカトリックだった親類や家族とは折り合いが悪くて、家出を繰り返す子どもだった。学校も、音楽で身を立てたかったから11歳のときにやめた。両親は教会に行けと言ったけど、私はそれも嫌だったな。その反動もあって、アフリカのスタイルや伝統的なドラム、ありとあらゆることを学んだ。
イギリスに渡ってから、フェラ・クティなどのアフリカン・アーティストに出会って、ボンジョという名前も彼に名付けてもらった。それが70年代後半ぐらいのこと。そこからは、ジャマイカ出身、アフリカ出身のアーティストとたくさん出会って、そこで学んだすべてをアフリカン・ヘッド・チャージというプロジェクトに込めようと思ったんだ。エイドリアンは私がやりたいようにやった表現をすべてレコーディングして音楽に落とし込んでくれて、彼にはとても感謝しているよ。
Mars89:話のなかで何度も幼少期の宗教に関係する体験が出てきたと思うんですが、前作のアルバム『Churchical Chant Of The Iyabinghi』はそれ以前の作品と比べると、ヴォーカルやメロディの比重が大きくなっているようにも思えます。幼少期の教会での経験からくるものもあるのでしょうか。ヴォーカルやメロディが増えた理由についてお聞かせください。
ボンジョ:私のチャンティング(詠唱)はいままでの音楽には無かったものなんだ。自分の声が歌に適していないと感じていたけどラスタの歌にはマッチするかもしれない、と思っていた。ただ、クリエイション・レベルの音楽にはフィットしなかった。私にはデニス・ブラウンのような歌い方はできないし。もちろん自分自身としては歌について何年もかけて少しずつ磨き上げてきた。例えるなら子どもが断乳して離乳食を食べる練習をするようにね。80年代に入って、ナイヤビンギに影響を受けた自分のドラムを演奏してレコーディングするようになって、以前はそういうものをプレイする人はいなかったんだ。エイドリアンも、ほかには無い実験的なレゲエを作りたいという思いが強くあって、じゃあ一緒に作ろうじゃないか、とスタートしたんだ。そのなかで、商業的なヴォーカルは自分には適していないと考え、それでもドラムだけではない形で自分を最大限に表現するためにチャントを鍛えたんだ。たとえばヨーロッパでナンバーワンを獲った曲にも参加していたけど、それはあくまでセッション・ミュージシャンとしての仕事だった。そういうものではなく、自身を最大に表現した音楽を作るために、ヴォーカルにも挑戦するという境地に到達したんだ。
いわばドラムは薬のようなものとして、人の持つ問題を治療する効果を持っているものだと考えている。アフリカのドラムはいろいろな言語を持つもので、だからこそ私は生涯をかけてアフリカン・ドラムを学び、理解し続けたいと思っている。
Mars89:今回のアルバムについてなのですが、これまでの作品と比べるとサウンドだけでなく、ジャケットのアートワークにも変化が現れていますよね。以前はモノトーンに近い質感でしたが、今作はサウンドもアートワークも共にビビッドな色合いでエネルギーに溢れているように感じました。前作から今作に至るまでの変化の要因は何なのでしょうか。ライフスタイルの変化やコロナ禍を通過したことと関係はありますか?
ボンジョ:私はいま家族とガーナに住んでいて、4人の子どもと2人の孫がいるんだ。この25年はずっとそうで、それはCOVID-19の頃も同じだ。ガーナにはたくさんの部族がいて、それぞれ異なる言語や表現のスタイルがある。たとえばドラムをひとつ取っても、ダンスをひとつ取ってもすごく多様性がある国なんだ。北ガーナのボルガタンガという街にも、パンテ、ガーといった部族がいて、それぞれが異なる伝統的な演奏手法を持っている。その街のまた北にあるバタカリというところで行われているバタカリ・フェスティヴァルでプレイしたことがあって、そこでボルガタンガ出身のシンガーたちに出会った。彼らは元々エイドリアンと友人だったんだけど、私もそこで親交が生まれ、エイドリアンと一緒に2曲をレコーディングしたことが(今作の)はじまりになったんだ。それをロンドンに持っていってエイドリアンと一緒に聴いて、そこから作業を開始して次のレベルに押し上げたような感じだね。
アフリカン・ヘッド・チャージのすべてのアルバムに共通することだが、まず強い土台を作って、それをもとにいろいろなものを乗せていって、遊びを出すような作り方をしているよ。ちなみに、今回のアルバムのドラムはガーという部族のドラミングに強く影響を受けている。
Mars89:アフリカン・ヘッド・チャージのこれまでの作品に共通することとして、昔からアフリカン・ヘッド・チャージの音楽を形容する言葉として「サイケデリック」というフレーズが使われることが多いですよね。自分たちの音楽は、サイケデリックだと思いますか? もしそうだとしたら、あなたにとってサイケデリックとはなんでしょうか。
ボンジョ:サイケデリックという言葉は音楽を表現するフレーズのひとつだと思うが、私はあくまでも聴き手がどう感じるか、どう受け取るかが音楽だと考えていて、自分がどういう音楽かを規定するわけではなく聴き手のフィーリングとしてそういう言葉が出てくるに過ぎないのではと思っている。質問からは逸れるが、ドラミングというものは肉体的なものでもスピリチュアルなものでもあると思っている。昏睡状態に陥っている人のそばでドラムを叩くと、その人の手足が反応して動くということがあった。プロジェクトとしてワークショップを行ったこともある。たとえば身体的な問題を持つ人が一生懸命ドラムを叩くことで自分の身体的な問題を忘れるような効果もあるんだ。いわばドラムは薬のようなものとして、人の持つ問題を治療する効果を持っているものだと考えている。アフリカのドラムはいろいろな言語を持つもので、だからこそ私は生涯をかけてアフリカン・ドラムを学び、理解し続けたいと思っている。
ジャマイカのキングストンに住んでいた頃には、両親がカトリックの教会へ行くことを強く勧めてきたが、それは私の声が力強く、聖歌隊に非常に向いていたからだろう。母は教会に行って、カトリックの聖歌隊に入って歌いなさいと言われていたね。たとえば、川で泳いでいて溺れたことがあるんだけど、自分の声の力強さに助けられたこともあった。だけど、カトリックの教会にあった銅像が少年時代の自分にとってはすごく怖いものに見えていて、教会に足を運ぶのは嫌だったな(笑)。家出をして、3週間ほど家の軒下や洞窟で過ごしたんだけど、その過程で勧められポコメニア教会に行って、そこでラスタのキャンプを通じてドラムを学んだ。私は11歳から学校に通わなくなったが、ポコメニアでドラムを学ぶこと自体が自分にとっての教育で学校になったんだ。
Mars89:次が最後の質問になります。これまでにいろいろな文化圏、いろいろなカルチャーの人びととコラボレーションしてきたと思いますが、そうして異なる文化とクロス・オーヴァーを続けていくなかで、たとえば近年懸念される文化の搾取や盗用といった事態が起きていないか、ということがしばしば問題になりますよね。日本でも相手に金銭を払っていることなどを理由に植民地主義的行為を正当化するような例を見ます。そうした異なる文化圏と接するなかで起こりうる文化盗用などの諸問題についてどう接していますか。
ボンジョ:私にとって、ドラミングにおいては、異なる文化というのはあまり大きな意味を為さない。もっとも大切なことは、いろいろなものを包摂的に取り込み、それらをどう次のレヴェルへと押し上げるかということなんだ。
マーラーのような後期ロマン主義はしばしばナショナリズムの文脈で否定されることが多い。80年代初頭のニュー・ロマンティックも英表記では後期ロマン主義=Neo-romanticをNew Romanticとパロディにしたもので、ヴィクトリア回帰を謳い、英国病に沈むイギリスにかつての栄光を思い出させようとしたところはやはりナショナリズムに近い感覚があった。同時期のポスト・パンクが現実を直視するもので、これと相容れなかったのは、だから当たり前で、不協和音を好んだのはそれこそ後期ロマン主義に続いて現れた印象主義の実験的な性格と同じ感覚に由来するのだろう。しかし、最も忘れ難いのは、ニュー・ロマンティックとポスト・パンクの両方を自由に行き来していたソフト・セルである。身もふたもない歌詞を未来的なサウンドにのせて歌う。ニューロマンティクスにとっても、あるいは、ポスト・パンクにとっても敵視したくなるような存在。矛盾していることにリアリティがあり、複雑であることをそのまま表現できたことが彼らの勝因だった。自分たちのことでもあり、イギリスのことにも思える『崩れ落ち方(The Art of Falling Apart)』と訳したくなるセカンド・アルバム(実際の邦題は『滅びの美学』)で彼らはニューロマンティックスとポスト・パンクを不可分に結びつけ、歌詞でははるかに及ばないものの、方向性としてはルー・リード『Berlin』(祝50年!)のエレクトロニック・ヴァージョンをつくり上げたとさえ僕は思っている(ほとんどの人は思ってないと思う)。
マックス・クーパーのレーベルからデビュー・アルバムをリリースしたオダリーことソフィー・グリフォンも現代の矛盾を音楽で表現しようとする1人。後期ロマン主義とエレクトロニカを融合させ、ポップかと思えばインダストリアルだったり、瞑想とノイズが折り重なった『パワフルな脆弱性』はしっとりとしてメランコリックな表情の裏に(彼女がいう)悪意を貼り付け、確かに複雑な印象を抱かせる曲が多くを占めている。矛盾そのものといえるタイトルは彼女の自然観に由来し、社会というものは1人1人が弱い方が全体としては強いシステムになるという意味で、「個人主義は自然の産物だという人と、その逆だという人がいる」ことはわかった上で「自然界では競争よりも協力しあっていることに価値があると考える人もいる」ことを彼女は強調する。「自分たちの弱さを見せ合う方が私たちは先に進める」のだと。これは、しかし、普通に考えれば民主主義の原則にほかならない。1人に権力を集中させないことが民主主義の目的であり、同じことを逆からいえば「全員が弱い方がいい」ということだから。たとえば「女性を活用する」などと上から目線で言わないで「女性に助けてほしい。一緒にやりましょう」といえばいいのに、という感じだろうか。グリフォンは続ける。「自分自身が不完全で壊れやすいものであることを示す勇気を集団で見つける必要がある」と。
オープニングはストリングスの組み合わせで、全体にリヴァーブをかけ、どことなく混沌とした〝Orages intérieurs(嵐のインテリア)〟。家具がぐちゃぐちゃと倒れ、室内が荒らされているということなのだろうか。ちょっとした不穏な始まりである。ハープシコードのような繊細なメロディで始まる〝Attendre l'éclaircie(晴れ間を待つ)〟は粛々とした雰囲気から雄大な調子へと切り替わり、何かの決心を促すような曲調。劇的なムードは続く〝We are Nature〟で最初のピークを迎え、確信的な響きのなか、ヴォーカルのブラック・リリーズは「雲のなかへ」とリフレイン繰り返す。ジャック・クーパーによるモダーン・ネイチャーが3作目となる『No Fixed Point In Space(宇宙に定点はない)』でインプロヴィゼーションを大幅に取り入れ、さも自然と同化しているかのような表現に切り替えたことと気持ちは重なる感じ。異常気象なのか気候変動なのかという議論はさておき、自然が以前よりも脅威であり、遠くに感じられることから、ある種のノスタルジーとして自然を身近なものとして描写する傾向が増えているような気がしてくる。〝Vents contraires(抜け穴の反対側)〟にはインダストリアル・パーカッションが足され、ここまでの流れを一度、ぶった切る。このあたりはいかにも後期ロマン主義。一転してアンビエントの〝Wounded〟がとてもよく、シンセサイザーとストリングスによる優雅なレイヤーに後半から入るチェロが控えめなメランコリーをにじませる。柔軟でしっかりとした美意識が堪能できる瞬間である。
後半は先行シングルになっていた〝Battements(動悸)〟から。重めのストリングスにUKガラージを模倣したようなパーカッションが入り、確かにドキドキさせられる。ダンス・ミュージックでもないし、ましてやモダン・クラシックでもなく、どこにも着地点がないユニークさは面白い。続く〝Caresse(愛撫)〟はヨーロッパ的な官能性を打ち出し、細野晴臣を思わせるというか、スペンサー・ドーランの『環境音楽 = Kankyō Ongaku』に入っていても誰も文句を言わなそうな〝Danse des astres(星のダンス)〟へ。〝Wounded〟も含めて様々なアンビエントを試し、どれも成功しているということは「脆弱性の集合体」というコンセプトは達成されていると考えていいのだろう。最後はクレア・デイズをフォーチャーした〝Clear the air(誤解を解く)〟。これも尾島由郎と柴野さつきのコラボレーションを思わせ、全体に透明度が高く、スキャットとストリングスが一体化してしまった瞬間はとても美しい。エンディングに向かって少しずつ抽象化していく流れもなかなかに惹き込まれる。ソフト・セルに比べると様々なジャンルが混ざり合うことは当たり前の時代になっているので、グリフォンが標榜するほど「矛盾」したサウンドとは感じなかったけれど、モダン・クラシカルを基調とすればかなり踏み出した試みであることは確か。どこに向けているのかよくわからないジャケット・デザインにもそれはよく表れている。
イーノの新作は、UKで大ヒットした連続ドラマ、『トップボーイ』のサウンドトラック・アルバムである。イーノ流のミニマル・ミュージック“Top Boy Theme”からはじまるこの作品は、アートワークからもうかがえるように、華やかに見せかけている都市の片隅の、ダークサイドで起きていることのスナップショット集で、UKグライムやダブステップともリンクする、街のにおいを有したインストゥルメンタル音楽集だ。かいつまんで言えば、これまでのイーノ作品とはまるっきり無縁だったストリートを生きる不良たちの世界であって、当然その音楽にはこれまでのイーノ作品にはなかった面白さがある。誤解を恐れずに言えば『ミュージック・フォー・エアポーツ』よりはベリアルに近いかもしれないし、そう、これはいろんな意味で面白い。
このアルバム『トップボーイ』について、ロンドン在住で何度もイーノ取材の通訳を担当し、またイーノ音楽の熱心なファンである(それは以下の対談を読めばわかります)坂本麻里子氏と対談した。話の途中、このドラマ自体もひじょうに興味深い作品であるため、その内容や背景にも触れてはいる。が、イーノの『トップボーイ』は1枚の音楽作品として充分に楽しめるものですよ、ということを最初に断っておきたい。(野田)
■イーノと映画音楽
野田:『トップボーイ』の話の前に、イーノって、そのざっくりした印象や長いキャリアに反して、サウンドトラックをやってはいるけど、たくさんやっている人ではないんですよね。
坂本:既発曲が映画やドラマに挿入歌として使われることはあっても、劇伴音楽はじつは少ない、と。
野田:70年代のデレク・ジャーマンの映画で曲を提供しているし、1984年のデヴィッド・リンチ監督の『デューン/砂の惑星』のなかの “予言のテーマ” もやってるし、ダニー・ボイル監督の『トレインスポッティング』にも曲があったし、数年前にはこれまで手がけてきた映画音楽をまとめたコンピレーション・アルバム『フィルム・ミュージック 1976-2020』も出したりしているじゃないかとか、いや、もっと前には『ミュージック・フォー・フィルムス』だってあるぞと思ったりするんですが、あれは当初はむしろイーノのほうから映画の配給会社にくばったという(その一部は、それこそジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』のリメイク版やジョン・ウー監督の『男たちの挽歌』に使われたり)、イーノ流のライブラリー・ミュージック集でありムード音楽集みたいなもので、『ミュージック・フォー・フィルムスVol.2』にいたっては『アポロ』からの収録だったり、早い話、その長いキャリアとインストゥルメンタル音楽をたくさん作っているわりには、決して多くはやっていないと言えるんじゃないでしょうか。
坂本:『ミュージック・フォー・フィルムス』は、いわゆる「実在しない映画のための想像上のサントラ」の先駆けみたいなものだったわけですね。
野田:先日、坂本龍一の追悼号を編集しているときに、彼が手がけたサウンドトラックの数の多さに驚嘆したんですが、それに比べるとイーノは少ない。全編手がけたのって「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズで有名なピーター・ジャクソン監督の『ラブリーボーン』くらいですよね。これってどういうことでしょうか?
坂本:ご指摘の通り「印象に反して」、映画やテレビ向けのオリジナル作品は意外に少ない。イーノの映画への音楽提供は、たぶんマルコム・ル・グリースの実験映画が最初で、背景には当時のロンドンの実験音楽/映画サークルの密な連携があった。デレク・ジャーマンとのコラボもアート/前衛/実験映画の流れでしょうし、基本的に「商業映画」からはあまり引きがない、ということなんじゃないでしょうか?
野田:引きがないのか、やりたくないのか。
坂本:スノッブな人ではないので、受注があり、スケジュールさえ合えば柔軟に応じてくれそうな印象があります。紙版『エレキング』19号の取材で三田さんもびっくりしていたように、イーノは『ぼくとアールと彼女のさよなら』みたいなYA映画にも参加したくらいですし。ただ、商業映画界には映画スコアの職人がたくさんいますから、イーノはその意味で部外者なのかもしれません。そもそも、本業--と言っても、イーノはポリマスなので何を「本業」とするかの特定は楽じゃありませんが――ここでは話をわかりやすくするためにそれを「アーティスト」だとして、となると、映画監督やプロデューサーは逆に仕事がしにくいのではないか、と?
これは、イーノが仕事しにくい気難しい人物だ、と言う意味ではありません。ただ、たとえばハリウッドでは、それなりに「映画スコアの常道」があると思います。多くの場合は、ラフ・カットを観ながら監督と作曲家が「この場面には音楽が必要だ、これこれの長さの、こういう感じの音楽を」と打ち合わせ、それを基にスコアができていく。ある意味「職人やデザイナーに細かく注文して、部屋にぴったりのインテリアを仕上げる」のに似たプロセスかと思いますし、ゆえにスピルバーグとジョン・ウィリアムス、クリストファー・ノーランとハンス・ジマー、古くはレオーネとモリコーネ等、「意思の疎通がしやすい」名タッグが生まれるのではないかと。
ところがイーノの場合、音楽の依頼を受けたら監督から映画の概要やテーマをざっくり教えてもらい、その段階でスタジオに入って音楽を作り始めることが多いそうで。後で脚本を送ってもらい、もう少し膨らませたりもするそうですが、「映像を観ながら」作るケースは少ないと思います。いったん音源を監督に送った上で、シーンの尺に合わせてトラックの長短を調整することはあるものの、基本的に「大体の内容をつかみ、イーノなりにイメージや想像を働かせ、作った音源を製作者側にゆだねる。出来上がった音楽の使い方はどうぞご自由に」という姿勢らしいので、それはたぶんプロセスとしては実験的/型破りでしょうし、いま挙げたインテリアの例で言えば、出来上がった部屋に入ったら、壁紙の選択や窓の位置や空間配置が予想していたのとは違った、みたいなことになりかねない。一般商業映画には少々リスキーでしょうし、脚本家・監督側に「イーノの音楽と彼のアプローチに対する思い入れ」がない限り、わざわざスコアを依頼する人は少ないのではないかと。
野田:ふむふむ。
坂本:『ラブリーボーン』の場合、イーノの既発曲も複数使われていたので、その流れでいっそサントラも、ということだったのかも? ダニー・ボイルは音楽好きな監督だし、イギリス人だから、イーノへの敬意は強いでしょうね。マジもののハリウッド映画と言えば、マイケル・マンの『ヒート』にオリジナル曲を提供していますが、マンは初期作品でタンジェリン・ドリームを起用したり、じつは変わった監督です。なんでまあ、「なぜイーノの映画スコアは少ないのか」は、ぶっちゃけ、欧州・英国圏に較べ、アメリカ人映画業界者はイーノをよく知らない、というのもあるかもしれません(笑)。別に「ヒット曲」がある人でもないし、「映画音楽家」でもないし、活動も多彩でアモルファスなので、よっぽど音楽好きな監督じゃないと「サントラを依頼しよう」という発想すら湧かないのでは?
ジョニー・グリーンウッド(ポール・トーマス・アンダーソン)、トレント・レズナー&アッティカス・ロス(デヴィッド・フィンチャー)、ヨハン・ヨハンソン(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)、OPN(サフディー兄弟)といった、すでにミュージシャン/コンポーザーとして名の通ったアーティストと先鋭的な映画作家が組むケースは、比較的最近の潮流と言えます。その意味では、イーノは「大家過ぎて手が出ない」という印象もあるかもしれないし、それになんだかんだ言って、メジャー映画はやはりオーケストラ音楽の使用が多いし、もしかしたらハリウッド映画界は労組の絡みもあるのか……?っっc
いずれにせよ、「ムードを劇的に盛り上げる」とか「喜怒哀楽を増幅させる」といった、「物語を心理的に補足する」伝統的で従来の役割を音楽に期待する監督は多いでしょうし、たぶん、イーノは映画と音楽のそういう具体的な関係には興味がないと思います。残念ながら未見ですが、『Rams』はイーノが音楽を担当したんですよね? あれもドキュメンタリーで「一般商業映画」とは言えないですし、監督のゲイリー・ハスウィットはイーノのバイオ映画を撮っているので、やはり監督がイーノのファンでアプローチした、というケースではないでしょうか。
■イーノが『トップボーイ』の音楽をやるということ
野田:なんにしても、今回の『トップボーイ』のサウンドトラック・アルバムというのは、彼のおよそ50年のキャリアのなかでも意外や意外、レアな作品と言えそうですね。連続テレビ・ドラマ・シリーズの音楽をイーノが手がけているのも初めてだし。
坂本:イーノとテレビと言えば、BBCの秀逸なドキュメンタリー・シリーズ『Arena』のテーマ曲として、1975年以来“Another Green World”が使われているのが有名ですが、『トップボーイ』はばりばりに一般的なドラマですからね。ただ、イーノはテレビを持っていないので、彼自身は——これはあくまで私個人の推測ですけれども——『トップボーイ』の全シリーズをちゃんと観たことはないんじゃないか? と。『トップボーイ』は少し変わった成り立ちのドラマで、元々は2011年にイギリスの地上波テレビ局のチャンネル4が制作し、好評につき続編が2013年に制作されたものの打ち切りになった。しかしカルト人気は存続し、ドラマのファンであるドレイクの応援&口利きでネットフリックスで2019年に復活、最新のシーズン5が完結篇になります。
野田:ドレイク、よくやった。彼自身が出演するわけじゃないし。
坂本:ドラマのネットフリックス「移籍」後も、イーノが追加でインシデンタル・ミュージックを制作していったのか……は、作品クレジットが手元にないのでわかりません。ですが時間軸から考えれば、『スモール・クラフト・オン・ア・ミルク・シー』――このコラボは、イーノが「音の映画」集と形容した作品ですね――や『ドラムス・ビトウィーン・ザ・ベルズ』あたりに取り組んでいた頃=いまから10年以上前に、本アンソロジーに選りすぐられた主なピースの音楽的なテーマ群が形成されたと言えそうです。
ある意味もうひとつレアなのは、『トップボーイ』音源集の多彩さではないでしょうか。イーノ本人のリーダー作品だと、やはりコンセプトやテーマがある程度定まっていて、「彼自身の文脈の中で」まとまっている感があるじゃないですか。『ザ・シップ』然り、『フォーエヴァーアンドエヴァーノーモア』然り。けれども『トップボーイ』は、やはり「他者の作品のための音楽」なので、そのぶんアクセス点が多いというか、ダークなアンビエントが主体とはいえ鍵盤のリリカルなパッセージが登場したり、普段のイーノが、自作でなら(たぶん)やらないようなことをやっていて、そこがリスナーとしては楽しいな、と。
野田:イーノは自分の楽曲のアーカイヴから番組の雰囲気に合うものを選んだという話ですが、結果として、いままでにはない作風になっている。だいたいアルバムのアートワークからして普段のイーノっぽくはない(笑)。
坂本:いきなり、タワーブロック(高層公団)の窓ですし。
野田:犯罪ドラマ・シリーズのサウンドドラックという点でも意外性があって、というか、グライムやドリルのようなUKラップで描かれているようなストリート・ライフ、あるいは90年代のウータン・クランの歌詞で描かれていたような冷酷で暴力的な物語の音楽をイーノがやるというのは考えられなかったんですが、だからこそ作風としても興味深いものになったと思います。
2年前に出た、『フィルム・ミュージック 1976-2020』、1曲目がまさに『トップボーイ』のテーマ曲でしたね。ちなみにあのコンピレーションにはアンビエントでもない、ポップ曲でもない、インストゥルメンタル主体ですが歌モノもあって、いろんな曲が入っている、しかしすべてがイーノの曲としての共通する感覚があって、すべての曲に面白い工夫と良いメロディがあるんです。言うなれば、アンビエントとポップスのあいだのグラデーションにあるような感じ。
そこへいくと『トップボーイ』はこれまでイーノが手がけてきたどの映画音楽とも違っています。本人も本作向けのPR文で言っているように、「多くの音楽は意図的に素朴で、ある意味単純なものになっている。メロディはシンプルで、洗練されていないし、大人っぽくもない」と。たしかに、『フィルム・ミュージック』に収録されている滑らかな曲たちとくらべると荒っぽさがあって、イーノ・リスナーとしてはそこが新鮮ですよね。ドラマの主な舞台は東ロンドンのハックニーの巨大な公団で、イーノの曲のダビーで荒削りなテクスチャーが、すごくハマっている。大げさにいえば、21 世紀のロンドンという街の影の部分、そのダークサイド(という場)に向けてのアンビエント、というか。
坂本:テクスチャーは本当に多彩です。ミニマリスト的な反復からビルドアップしていくものもあれば、コズミックに漂っていくシンセものもあり、後半ではビートの効いた、それこそ「踊れそう」なトラックもある。野田さんの感じた「ダークサイドに向けてのアンビエント」というのは、“Afraid of Things”とか“Waiting in Darkness”、“Dangerous Landscape”といったムードのある曲名ともリンクするし、イーノも「ロンドンのドラッグディーラーと、彼らの縄張りであるカウンシル・エステート(公団)のコミュニティ」という『トップボーイ』の世界観を、彼なりにサウンドで追求したんじゃないかと思います。たぶん本作のアートワークからの連想もあるでしょうが、これらの音源を聴いているうちに、ザ・ストリーツの『オリジナル・パイレート・マテリアル』の不思議に美しい公団のジャケットと、ベリアルのファーストのロンドンの夜景写真ジャケットも頭に浮かんできます。
もちろんイーノの側には、イギリスのストリート発ビート・ミュージックを「模倣」しようとする意識は皆無だったでしょうし、『トップボーイ』は主役級の2名が共にMCだったり、劇中音楽にグライムやUKヒップホップも使われているので、そうした「ナウなアーバン性」は現場の若者たちに任せればいい。でも、21世紀のロンドンの街中にいくらでも転がる疎外感や闇に潜む怖さ、そして、それでもそのなかに見つかる宝石のような瞬間やメランコリーのあわいを、イーノは感覚的につかんでいる気がします。
■ここで若干、『トップボーイ』の説明を
野田:『トップボーイ』の全話(つまり5シーズン分)を観たんですが、面白いんですよ! イーノの幽玄な音響がこのストリートなドラマに奇妙な効果を与えているんです。まあ、ドラマ自体がじつによくできていて、UKで人気なのも、そして批評家筋からも評価が高いのも十分うなずけました。先ほども言いましたがハックニーの貧困層が暮らす公団を舞台にしたシリアスな犯罪ドラマ、というか社会・人間ドラマで、日本ではちょうど先日最終シーズンがはじまりました。この傑作にふさわしい衝撃的なエンディングでしたけど。
坂本:羨ましいなぁ。私はテレビ無し&ネットフリックスと契約していないので、ドラマそのものは観たことがないんです。物語のあらましや各種紹介クリップ、ファンのアップロードした人気場面の映像等々は、ネットでチェックしましたけども。
野田:元ソー・ソリッド・クルーのMC、アシュリー・ウォルターズとグライムMC のケイノ、リトル・シムズ、素晴らしいです。
坂本:シムズのファンなので、それだけでも観たい……。デイヴもシーズン3に出演したんですよね?
野田:デイヴはぶっちゃけ、かなりヤバい役でした(笑)。
坂本:アシュリーは『Bullet Boy』という、これまた英ギャング/フッドものの映画で評価され、以来映像界でキャリアを積んでいますが、ケイノは演技は初めてのはず。
野田:初演技でこれはすごい。ケイノはドラマのなかではサリーっていう役なんですが、自分のなかではもう、(ケイノではなく)サリーです。
坂本:アシュリーもケイノも男前ですしね(笑)。でも、MCを役者に起用するのってある意味納得というか。みんな言葉と語り、そしてカリスマで勝負するストーリーテラーなので、映画やテレビにナチュラル・フィット。アメリカのラッパーも、映画やテレビに進出していますし。
野田:で、シーズン2(ネットフリックスでは最初の2シーズンは「サマーハウス」編として配信)までは、各エピソードの冒頭に、物語の舞台となっているサマーハウス公営団地がだーっと並んでいる映像が出てくるんです。カメラはどんどん引いていって、手前にサマーハウス、遠方に再開発の象徴である高層ビルが見える東ロンドン全体の風景になっていく。そこでイーノの音楽がかかるんですが、音と映像がみごとに共鳴しています。もちろん、グライムやトラップ、レゲエやダンスホール、レゲトンなんかも挿入されますが、イーノの音楽はそれらストリートな音楽と良い感じのコントラストをなしている。なので、ドラマを観るとますます今回のサウンドトラックを好きになるんですよ。
簡単に内容を説明すると、主要な登場人物のほとんどがブラック・ブリティッシュ(ないしは中国人、アルバニア人、アラブ人ないしはアイルランド人)で、フード(ドラッグ)と貧困のコミュニティをめぐっての、ハードな話の連続なんです。暴力、裏切り、排外主義の高まりも見せているし、都市の再開発、暴動、ひと昔前のUKでは考えられなかった銃問題もあって、主役のふたりもだいたい暗い顔をしている。重たい話で、悲劇が繰り返されるんですけど、人びとの助け合い(とくに女性たちの活躍)も描かれているし、感動的なドラマでもあるんです。ちなみに、企画者であり脚本を手がけたローナン・ベネットが元アナキストで、ジェレミー・コービン前労働党党首のアシスタントをしていたような筋金入りの左派の方。これ、脚本がもほんとうに素晴らしいんです。
坂本:ベネットは北アイルランド出身の作家/脚本家で、若い頃に南北アイルランド抗争にも関わっていたとか。アイルランド問題も、長引いた結果コミュニティが引き裂かれ、ある意味「目には目を」的なギャング抗争に陥ってしまった側面がある。当時暮らしていたハックニーで、少年や青年がドラッグ売買の道具/兵隊に使われているのを知ってベネットは『トップボーイ』を着想したそうですが、時代や場所は違っても、覇権やマネーをめぐって起きる悲劇の本質は変わらない、と感じたのかもしれません。しかも『トップボーイ』のシーズン1は、偶然とはいえ、2011年ロンドン暴動の3ヶ月後くらいに放映されたので、貧しい若者が置かれた境遇に対するアウェアネスを高めるという意味でタイムリーだったでしょうね。
ちなみにミュージシャンにはコービン支持者が多く、左派志向の若者とシンクロしていました。2019年総選挙では、イーノもアシュリー・ウォルターズもケイノも、コービン支持を表明しました。もちろん、野田さんも私も大好きなスリーフォード・モッズも!
野田:知ってます(笑)。ところで、シリーズ最初の監督は、この手のギャングスタ系ドラマでおきまりのスタイルに反することを意図し、音楽をイーノにお願いしたと言っています。このドラマの多くの視聴者は、ラップは聴いてもイーノのことは知らない人が多いかもしれない。逆にイーノのファンは、デイヴもケイノもシムズも聴いてないかもしれない。そこを敢えてやるのがUKポップ・カルチャーの良いところですね。
坂本:ネットフリックスに移籍する前の、オリジナル・シリーズの第1作――あの時点では単発企画でした――を監督し、イーノにスコアを依頼したヤン・ドマンジュですね。ドマンジュはイギリス育ちのアルジェリア系フランス人映像作家で、『トップボーイ』で評価され、ベルファストを舞台に北アイルランド紛争を描いた秀逸な『’71』で長編映画デビューしました。あの作品でデイヴィッド・ホルムズ、続く『ホワイト・ボーイ・リック』でマックス・リクターをスコアに起用しているので、アトモスフェリックな音楽+スリラーの効果を理解している人なのだと思います。彼は『Blade』のリブートで監督に抜擢されたので、嬉しい話です。
野田:ドマンジュは、オファーしたのはもちろんイーノの音楽が好きだからと言ってましたが、なかなかの音楽リスナーでもあるんでしょうね。『トップボーイ』は登場人物も多く、人間関係も複雑で、大掛かりな人間ドラマでもあるんです。そこにはいろんな感情が渦巻いているんですが、この手の物語に、感傷的なメロディの音楽が入ってしまうと、ある特定の感情(ないしは特定のアプローチ)だけが際立ってしまいかねない。だからイーノの音楽は徹底的に感情を排しているんです、やはり「場」の音楽だと思いますね。
■『トップボーイ』のなかのイーノの魅力
野田:それはさておき、アルバムのなかのテーマ曲以外で印象的な曲をいうと、“Cutting Room I”ですね。ちょっとダビーなこれ、短い曲なんですけど、印象的ですね。
坂本:“Cutting Room I”はタイトル通り、ドラマでは使用されなかった(=編集室で終わった)完全未発表曲で、本アンソロジーにはもう1曲収められています。なんとももったいない話ですが、野田さんのおっしゃる通り、“Cutting Room 1”は「ノワール・ダブ」とでも呼びたい趣きのあるトラックで、メロディカを思わせるサウンド(?)もかすかに流れたり、サウンドの選び方・配置も含め実にクール。本作収録音源の大半は3〜4分台ですが、たしかに、あのグルーヴをもっとえんえん展開してくれたらいいのに……と感じずにいられないエディットです。
野田:あと、“Sky Blue Alert”や“Delirious Circle”、“Cutting Room ll”も、控えめながらビートがしっかり入っているんですけど、ただ、このサウンドトラックは1曲1曲を吟味して聴くっていうよりは、だーっと流しっぱなしにしてこのなんとも言えない幽玄さを堪能するのがいいように思いますね。
坂本:本作の後半に、それらビートの入った、いわばドラマチックなトラックが比較的多く集まった構成になっていて、それまで徐々に積み重なってきた不穏なムードが、テンションを高めていく印象を受けます。なので、ドラマの結末は知らないのですが、「……これはどうも、ハッピーエンドではなさそうだぞ」と感じさせられる、そんなシークエンスになっている。私は、当たり前ですが、“Top Boy Theme”に凝縮されたリリシズムや、“Beauty and Danger”や“Overground”の鍵盤のシンプルなリフレインが琴線に触れます。“Floating on Sleep’s Shore”、“Beneath the Sea”、“Afraid Of Things”の壮大なスペイシーさに身を任せて漂うこともできるし、ミステリアスにゆっくり推移していくダーク・アンビエントなサウンドスケープに時おり墨汁が一滴垂らされ、広がる音の波紋や質感の変調に「ドキッ!」とさせられる瞬間もある。先ほども言いましたが、スコアなので各ピースも短めで(と言っても5〜7分台のトラックもありますが)ムードや音も多彩=ドラマ制作者側が使いやすい作りの音源になっているんだと思います。そのぶん、リスナーにはある意味とっつきやすい内容で、安直な表現になってしまいますが、「イーノ幕の内弁当」というか? 彼の道具箱のなかにある様々なツールやアイディアをふんだんに盛り込みつつ、本人が言う通りシンプルで素朴に、いわば「素材感」を活かしてまとめた音源集なのかな、と感じます。
と同時に、「だーっと流しっぱなしにして堪能」するのも全然ありな内容になっているのは、アーティストとしての一貫性とクオリティ・コントロールの高さゆえでしょうね。たとえば、イーノは『スモール・クラフト〜』を出した頃、「フェリーニの映画を観る前にニーノ・ロータのサントラを聴いてみたところ、それだけで映画を丸ごと想像できた。しかし多くの場合、自分の想像した内容は、実際のフェリーニ作品とはまったく違っていた」という旨の発言をしています。ということは『トップボーイ』も、「海外ドラマかぁ、敷居が高いな」と躊躇せずに、まずは音楽を聴いてみて、自分のなかで「これはどんな場面だろう?」とあれこれイメージを膨らませてみる、という接し方も楽しいんじゃないでしょうか。
もちろん、社会的なメッセージが詰まったドラマだと思いますし、実際に観てもらえればなかなか表に出にくい=日本には伝わりにくい、お洒落でもクールでもない、タフなロンドンが感じられるでしょうし、そこはとても重要なんですが。ただ、とてもぶっちゃけて言うと、イーノのファンの主な層――これはあくまで、私の個人的な「印象」ですが――は、アーティでハイブロウで理論的でハイテクな、いわば「象牙の塔に暮らすアンビエント仙人」のイーノが好きで憧れる、という方じゃないかと思います。で、『トップボーイ』は決して、そうしたイーノ・ファンが自然に惹かれて観るタイプのドラマではないんですよね。私自身、不勉強でお恥ずかしい話ですが、『フィルム・ミュージック 1976-2020』のクレジットを見て「ええっ、『トップボーイ』って、あの犯罪ドラマの?」とびっくりしたので。逆に言えば、それは普通だったら結びつかなかったかもしれない世界が、テレビ/ドラマというメディアを通じて接する機会でもある。そこは痛快だと思います。
野田:いまちょうど別冊で、坂本さんにもデイヴィッド・トゥープの取材でお世話になった「日本のアンビエント」特集号を作っている最中なんですけど、当然アンビエントの捉え方やイーノの印象も人によって違っていて面白いです。で、いろんな「アンビエント」に括られそうな音楽を聴いたんですが、ひとつ気になったのが、ニューエイジがニッチで騒がれて以降のアンビエントは、とにかく心地よい、キラキラしてて、自己肯定的で快適で陶酔的で滑らかなものが目について、こりゃ、イーノが最初に「アンビエント」と命名した4作とはだいぶ違ってきているぞと思ったんですね。
マーク・フィッシャーが『奇妙なもの、ぞっとするもの』のなかで『オン・ランド』を取り上げていることが象徴的なんですが、フィッシャーっぽく言えば、イーノのアンビエントには在ってはならないものが在るか、在るべきものがないという感覚、そんな「ぞっとする」感覚があるんですね。フィッシャーはラヴクラフトなんかのなかにも、我々の思考では思考できないその外側の想像力みたいものを見ているわけですが、まあ、そこまで大袈裟ではないにせよ、今回の『トップボーイ』には、アンビエントでは隠し味だった、そんな「おや?」という感覚が前景化していますよね。だからじつはむしろイーノ作品として面白く聴けるんです。
坂本:なるほど。「自己啓発/セラピー系」とは異なるアンビエントが味わえる、と。
野田:ところで、坂本さんは『トップボーイ』は観てないとのことですが、この音楽を聴いていて、ロンドンのハックニーの雰囲気だなと思いますか? もちろん公営団地のすべてがあんなじゃないでしょうけど、ぼくは街の風景を見ながら、自分が知っている90年代のロンドンとはぜんぜん違っているし、人が自転車に乗ってることなんかも気になりましたね。いまの不良はあんな自転車乗ってるんだとか、ストーンアイランド着やがってとか(笑)。
坂本:ははは! 『トップボーイ』=要は「俺が一番」というマウントのとりあいの話だから、ストリートウェアの格付けは大事なのでは? でも自転車は、少なくともうちの近所(南ロンドン)のキッズはそんなに乗り回してないと思います。むしろ、パンデミック期に流行して人気アイテムになったEスクーターや、シェアサイクルの電動アシスト自転車を使う子が多い。
野田:ああたしかに、『トップボーイ』でも未成年の子たちはEスクーターに乗ってフードを売ってましたね。
坂本:シェアサイクルは、ロックを解除する方法がバレている機種があるので、子供たちはたくましく活用しています。それはさておき、うーん、ひとくちに「ハックニーの雰囲気」と言われても、それが何になるのやら……。私があの地区に住んでいた頃――偶然ですが、『トップボーイ』のロケにも使われた公団の近くでした――には、もうずいぶんジェントリフィケーションが進んでいましたし、一方でインド亜大陸やアフリカ、ヴェトナム、中東etc、実に様々なコミュニティが同居していて。だから、クリエイターが「どんなハックニーを描きたいか」によって、あるいはクリエイターの実体験や解釈によっても、サウンドの選び方は変化するでしょうね。
野田:そうですね。なんか、ポラロイド写真による街のスナップショップ集みたいにも思えます。もっともイーノは外的なことだけじゃなく、物語の内面的なことも表現したみたいなことも言ってるんですが、ロンドンに住んでいる人からして、この音楽はロンドンのアトモスフィアを捉えていると思いますか?
坂本:先ほども言いましたが、21世紀のロンドンの街中を歩いていると出くわしそうな、現代的な空気感、光と影のコントラスト、その「印象」がよく捉えられていると思います。ただ、こうしたシンセ~エレクトロニック系インスト音楽の場合、抽象度が高いぶん、応用が利くんじゃないでしょうか。言い方を変えれば、これらの音源はたしかに『トップボーイ』のための書きおろしとはいえ、なかには他のドラマや映画やドキュメンタリーにラインセンスされ使われても違和感のなさそうなものもある。さすがにロムコムやファミリー向け作品で使われることはないでしょうが、いまってほんと、犯罪ドラマやスリラーがいくらでも制作される時代なので、本作でイーノが抽出した「モダンでアーバンなムード」、あるいは、先ほど野田さんの言っていた「おや?」と感じる、かすかに「ぞっとする」要素~違和感や不安と言ってもいいですが、そのムード/モチーフは、汎用性があるのでは? なので、ローカル=東ロンドンがテーマでありつつ、そこに限定されないサウンドだな、という印象です。
『トップボーイ』のメインの舞台である公営住宅/団地は、ロンドンの東西南北、どこにでも存在します。悪名高いものもあれば、住人が誇りと共に良いコミュニティを維持しているものも、と中身は様々ですが、あれは、一般的なロンドン市民の日常心象のどこかに見つかる風景のひとつだと思います。個人的に、ロンドンは、そこが面白くもある。いまや高級住宅地になっているエリアのなかに、急に低所得者層向け高層公団がデーンとそびえていたり。たとえば、イーノやデーモン・アルバーンがスタジオを構えているエリアは、数年前の火災大悲劇の舞台で、ロンドンの貧富格差の象徴のひとつでもあるグレンフェル公団と目と鼻の先です。逆に、一見ラフそうな街中に、ヒップなお店やプログレッシヴなコミュニティ・ハブが「ぽっ」と顔を出す。こういう、「豊かな者と貧しい者の住み分け」に抗する有機的な混在は、文化にとってプラスだと私は思いますが、公団も老朽化で、取り壊されている。昔、エイフェックス・ツインの根城だったエレファント・アンド・キャッスルの再開発は、その意味で象徴的かもしれません。いま、野田さんがあそこを訪れたら、浦島太郎な気分だと思いますよ。
野田:都市の再開発の問題は『トップボーイ』の全シーズンに通底する重要なテーマのひとつです。ここはベネットらしい政治的視点なんでしょうけど、投資家や再開発をドラッグ・ディールのアナロジーのように描いていますからね。浦島太郎な気分といえば、最近は毎日通っているはずの渋谷を歩いていても浦島太郎になりますからね。
坂本:東京やロンドンを始め、世界中の大都市がいま、そういう過渡期にあるのかな。だからこそ、本作のトップに置かれたテーマ曲が、私からすれば一番ロンドンっぽく感じるトラックかもしれません。どうしてかと言えば、あのトラックの規則正しく、かつビジーなリズムの積み重なりに、地下鉄や電車の動きを感じるので。東京もそうですが、ロンドンも、密集した大都市の各所をつなぐ活発な動脈のひとつとして、電車の存在は大きい。これは、車がメインの交通手段であるアメリカの都市(ニューヨークを始めとする、地下鉄や電車網が発達した都市は除きますが)では生まれにくいサウンドではないか、と感じるので。たとえば『アポロ』のサントラは、何せ宇宙が舞台なので、ブライアンとロジャーとラノワは勝手に想像力を働かせることができたと思います。サウンドがない無音空間なので、キューブリックのようにクラシック音楽を当てはめることもできるし、イーノ組のように「未知のフロンティア(宇宙)を行く、我らはカウボーイ(宇宙飛行士)!」なノリで、スライド・ギターを始めとするカントリーな要素を使ったり、遊べたわけです。また、『ラブリーボーン』は作品の時代設定が70年代=過去なので、これもある意味現在の我々にとっては「異国」ですし、ピーター・ジャクソンからすればノスタルジアを求めてのイーノ起用、と言う面もあったかと。
対して『トップボーイ』は、現代の実在の都市を舞台にした、現在進行形のドラマです。ゆえに、野田さんが先ほどおっしゃっていたような、これまでのイーノの映像作品向けのスコアとは若干違ったアプローチ――『オン・ランド』的な、ランドスケープを基盤にしつつ、普遍性もあるダークな音像の造成――がとられることになったのかもしれません。その意味でも、「まぎれもなくイーノ作品だが、そこを肩透かしする意外な面もあってインスパイアされる」、繰り返しになりますが、レアな1作だと思います。
野田:なるほど。まあ、あのテーマ曲はキラーですよね。『トップボーイ』を観てしまって、すっかりあの世界にハマってしまった人間のひとりとしては、この音楽をあの映像と切り離すのは難しいんですが、ぼくと同じように、ラップ好きの子がこのドラマにハマってこの音楽も知ってくれたらいいなとも思います。
坂本:そうですね。きっかけはいろんなところに、いろんな形で転がっているし、それを自主的に掘り下げるかどうかは受け手次第。「自分の好きなもの/知っているもの」の世界を深めていくのも大事なことですが、アンテナを広げれば「自分の知らなかった、でも新たなお気に入り」をキャッチすることもある。『トップボーイ』音楽集を通じて、そんな意外で素敵なカルチャー・クラッシュがひもとかれるかもしれません。
2020年、コロナ禍のさなか、多くの人が〈Jerusalema〉に合わせて踊るところを自撮りし、SNSに投稿した。南アフリカの歌手が歌ったこの曲は神への信仰を歌ったゴスペルであると同時に、サブサハラのダンス・ミュージックを取り入れたアーバン・ミュージックの範疇にある。アフリカ南部とコートジボワール、コンゴのゴスペル音楽シーンを概観する。
1922年ロンドンで行われた世界初のアフリカ人歌手による宗教音楽の録音が大英図書館のアーカイブに保存されている。西アフリカに広く普及しているヨルバ語の「Jesu olugbala ni mo f’ori fun e」という歌詞は明解である。「われは救世主イエスに身を捧ぐ」という意味だ。この曲を歌い、作詞・作曲者でもあるジョサイア・ジェシー・ランサム=クティ(1855-1930)は、イギリス保護領ナイジェリアの英国国教会の聖職者であり、人々を教会に惹きつける強い力を音楽に見出していた(1)。彼は録音の8年後に亡くなったが、彼の血筋はアフリカの知的・文化的歴史に名を刻むことになる。孫のフェラ・ランサム=クティ(1938-1997)はアフロ・ビートのパイオニアであり、「ブラック・プレジデント」と呼ばれているが、1977年に録音されたアルバム『Shuffering and Shmiling』(2) の中で、ナイジェリア国民が盲目的に宗教を受け入れている様を非難している。しかし、これは無駄なことだった。2060年には、地球上のキリスト教徒の40%がアフリカにいるだろう。そして、アフリカの宗教音楽も同様に社会での地位が高まりつつある。まず、典礼聖歌のレパートリーが解放されて、礼拝堂や教会の外で、「霊的に生まれ変わった」歌手たちによって歌われた。彼らはサブサハラの福音派、ペンテコステ派の信者で、時として女性である。この新しいアフリカのキリスト教音楽のアーティストたちは、福音派信仰の特徴のひとつである、「新生」に譬 えるべき回心を自ら体験しているが、教会の中だけで歌い報酬を受け取らない典礼聖歌の歌い手とは異なっている。
コロナ感染症拡大が社会や経済に与えた影響と魂の癒やしへの欲求が、音楽配信プラットフォームで新しい世代の歌手たちが頭角を現す後押しとなった。彼らはリンガラ語で、ヌシの言葉で(3)、ナイジェリアのピジン英語で、神の言葉と家族の価値を説く。彼らのリズムは、サブサハラのアーバン・ビート(南アフリカのアマピアノ[ハウス・ミュージックのサブジャンルのひとつ]、ナイジェリアのアフロ・ビート)も、5千万人以上のアメリカ人が高く評価している、R&B、ポップ・ミュージック、大編成のオーケストラとバイオリンといった、信仰に結びついた音楽の規範的様式も同じように取り入れている。
ジンバブエ、エスワティニ(旧スワジランド)と南アフリカは、アフリカ南部にあって、才能が育つ好環境の土地である。そこは合唱団が数多く存在する土地であり、ボーカル・ミュージックが重要な地位を占めて、サブサハラの文化産業のニッチにあるキリスト教音楽の中心地であり続けている。2015年に行われたある調査によると、南アフリカの国民の13%がゴスペルを聴くのを好むということだ。この数字は世界の平均の3倍以上の値である(4)。この国では、国内のゴスペル・ミュージック市場は「世俗」音楽市場と競い続けている。それは、ソウェト・ゴスペル・クワイア(5)のような国境を越えて評価されている大合唱団や、ベンジャミン・ドゥべ(6)のような歌う牧師、活気あるこの業界、毎年11月にゴスペル音楽の活況をテレビを通して祝う南アフリカ放送協会のクラウン・ゴスペル・アワードの放送などのおかげである。アパルトヘイトの間、ゴスペル音楽は批判をかきたて、希望を鼓舞してきた(7)。今日でも「大部分の南アフリカ人にとってゴスペル音楽は、自分が何者であるか、人生をどう考えているか、どのような試練を経てきたかを表現するよすがとなっている」と、ヨハネスブルクのウィットウォーターズランド大学の民族音楽学教員、エヴァンス・ネチヴァンベは指摘している。
モータウン・ゴスペル・アフリカはデトロイトのソウル・ミュージック会社の子会社レーベルである。2021年、1994年に結成された南アフリカのゴスペル合唱団ジョイアス・セレブレーション(8)との契約からアフリカ大陸での活動を始めた。アビジャンにあるユニバーサル・ミュージック・アフリカの社屋内に本社を構えて(9)、最近アフリカの3つのキリスト教歌曲が成し遂げた国際的成功を再現しようと、新しい才能の発掘も行っている。3つの曲のうちのひとつである〈Jerusalema〉[原題の意味は「エルサレム」]は、メソジスト教会の信者で、DJでもありプロデューサーでもある、南アフリカ人のガオゲーロ・モアギ、別名Master Kgが制作し、ノムセボ・ズィコデが歌って、2019年末に発表された(10)。リンポポ・ハウス(アフロ・ハウスのサブジャンルのひとつ)に乗ったズールー語の歌詞の最初の部分は、聖書(新約聖書の最後の書である『黙示録』)から引用されている。国内で発表されたあと、SNSのTikTokのダンス・チャレンジに用いられて(11)、まずアンゴラでヒットし、ポルトガルで勢いを得て、2020年夏のヨーロッパにおけるヒット曲のひとつとなった。そして、ナイジェリアのスター歌手ブルナ・ボーイのリミックス(12)のおかげでアフリカ大陸に凱旋した。この曲は今までに、5億6400万回以上YouTubeで再生されている。

スィナッチ photo by Pshegs, CC-BY-SA-4.0
同じ時期にアメリカ合衆国では、別のアフリカのゴスペル曲が話題になっていた。ナイジェリア人歌手スィナッチの〈Way Maker〉である(13)。彼女は、いろいろと批判を受けているナイジェリアの牧師、クリス・オヤキロメ氏(カルト的偏向が特に非難されている)が設立した福音派教会である「キリスト大使館」の合唱団出身で、この曲は教会のレーベルLoveworldから2015年末に発売された。4年後、アメリカの白人キリスト教徒の歌手マイケル・W・スミスにカヴァーされて、〈Way Maker〉は(14)、コロナ・ウイルスの世界的蔓延の中、癒やしの曲になった。それと同時に、アメリカ音楽産業のバイブル、ビルボード誌で、キリスト教歌曲部門の1位を占めた最初のメイド・イン・ナイジャ(ナイジェリア)のゴスペル曲となった。そして、国際的ヒットの3つめは、[10年以上も前に作られた]〈Comment ne pas te louer〉[原題の意味は「あなたをほめたたえずにはいられない」](15)がSNSで爆発的に話題になったことである。この曲は、カメルーン出身のベルギー人で、聖霊布教会の聖職者であるオーレリアン・ボレヴィス・サニコの作曲で、今年初め、ヨーロッパの隅々まで圧倒的な人気を博したカトリック歌曲となった。
この3曲は、メディア・グループAudiovisuel Trace TVが2015年に開設したチャンネルであるTrace Gospelで何度も放送され、「フランス語圏アフリカのメンタリティの縛りを破り、自分たちの勢力圏に留まっていてはいけないと理解させることになりました」と、アビジャン在勤の番組編成者、カーティス・ブレイ氏は指摘している。「これまで私たちは実際のところ、英語話者に比べると、まったく保守的で伝統主義的でした。宗教音楽は教会でしか聴くことができませんでした」と彼は続ける。今では、ますます多くの、回心した若いフランス語話者のキリスト教信者が「自分の神への愛だけでなく、ミサを離れたコミュニティの中にあるアーバン・ミュージックへの情熱を正しいものだと認めることができる」この新しい考え方に従うようになってきているとブレイ氏は見ている。ブレイ氏はまた、「音楽クリップでわかるように、フランス語ゴスペルは明らかにプロフェッショナル化」しているとも指摘している。2019年、コンゴ人歌手、デナ・ムワナの〈Souffle〉[原題の意味は「いぶき」](16)のために制作されたクリップは、英語圏で制作されたクリップに比べても、まったく遜色がない。「目には見えないことを/聴くことができないことを/神の霊よ、あなたは知っている/そうあなたは知っている……」

デナ・ムワナ photo by Missionnaire2013, CC-BY-SA-4.0
このデナ・ムワナは、モータウン・ゴスペル・アフリカのサポートを受けた最初のフランス語話者アーティストのひとりである。コンゴの福音派教会の合唱団で名を高めた後に、Happy Peopleレーベルと契約した[この契約を継続しつつ、モータウン・ゴスペル・アフリカのサポートを受けている]。このレーベルは、彼女の夫のミシェル・ムタリ氏が、モバイル決済サービスのマネージャーを経験した後、Canal+ Afriqueのセールス・ディレクター を経て立ち上げたもので、そのLinkedIn[ビジネス向けSNS]のページによると、「キリスト教の文化活動・感化活動の企画・実行に特化している」としている。ムタリ氏によれば、「新しいゴスペルにはふたつの目的がある。福音伝道と、アーティストが自分の才能によって生活することを可能にすることである」。アビジャンのゴスペル音楽業界に端的に表れているように、今やMP3のシステム、すなわち、3カ月ごとに1曲発表する、ということが大切である。

Femua15開会式のKSブルーム photo by Aristidek5maya, CC BY-SA 4.0
コートジボワールの経済の中心地アビジャンでは、キリスト教ラップを歌う売出し中のラッパー、スレイマン・コネ、別名KS・ブルームが「人々を神の御許に導く(17)」ために歌っている。彼は2017年に「万物の創造主」と出遭ったという。それ以来、2021年に発表されたアルバム『Allumez la lumière』[原題の意味は「光をともせ」]とシングル曲〈C’est Dieu〉[原題の意味は「 神がお始めになった」](18)の発売にも支えられて、彼の人気は急上昇した。昨年の夏には、フランスの一般メディアの注目は集めなかったが、カジノ・ド・パリ[コンサート・ホール]を満員にした。4月の終わり、マジック・システム(19)のリーダー、サリフ・トラオレが創設したコートジボワールのFemua フミュア(アヌマボ・アーバン・ミュージック・フェスティバル)の第15回フェスティバルで、KS・ブルームはラッパーのブーバ(20)と並んで、出演者の一角を占めた。この26歳の若いアーティストの航跡には、コートジボワールの音楽シーン「クーペ=デカレ[ダンス・ミュージックのひとつの流れ]」の離脱者の驚異的な成功を見ることができる。多くの者が2019年8月のDJ アラファト(21)の事故死の後、[彼がいなくなった]クーペ=デカレから離脱して、それぞれ国内に4千ある福音派教会のひとつへと戻っていったのだった。
新しい世代の出現があっても、新しいゴスペルも仲間内の足の引っ張り合いや意見の対立から免れているわけではない。「気をつけていなければ」とコンゴ人のキリスト教徒のラッパー、エル・ジョルジュ(22)は2022年7月に警告している。「キリスト教徒のアーバン・ミュージックは[主流のアーティストの模倣となってしまって]実のないものになってしまうだろう……。もしアーバン・ミュージックを通して神に仕えるように神が本当に君を呼んでいるのなら、君は同様に、独創性を発揮するビジョンももっているはずだ。独創性を伸ばせ(23)」
救世軍の一員で、ジンバブエのゴスペルの父である80歳のギタリスト、マカニック・マニエルーケ(24)は、これまでに約30のアルバムを出してきた。その彼は独創性をどう伸ばすかという問いを自らに問うたことはない(25)。「歌っている内容に自分が納得できているかだけが重要です」と、2018年に彼は説明している。若い人への彼のアドバイスはどういうものか? 「神を信じて、罪を犯さぬよう立派に行動しなさい。私たちが今日生きている世界は、まったくのところ、誘惑に満ちています」。今やそのひとつに、神を賛える歌を歌うことで財産を築くことができるという誘惑がある。
(1) Janet Topp Fargion, «The Ransome-Kuti dynasty », The British Library, janvier 2016. [このサイトで〈Jesu olugbala ni mo f’ori fun e〉(「 われは救世主イエスに身を捧ぐ」)を聴くことができる]
(2) [訳注]Fela Ransome-Kuti - Shuffering and Shmiling https://youtu.be/kjEObOMRJJE
(3) [訳注]nouchi:コートジボワールで主に若者によって用いられている、ジュラ語・マリンケ語・フランス語が混交した言葉。ラルース仏語辞典による。
(4) Darren Taylor, « In South Africa, Gospel Music Reigns Supreme », VOA, 8 octobre 2015.
(5) [訳注]Soweto Gospel Choir https://youtu.be/fjiVG1QKZJs
(6) [訳注]Benjamin Dube https://youtu.be/jkAcQs39fuA?list=RDcs0mtACUd58
(7) ヨハネスブルクのメソジスト宣教団がもつ学校の合唱団のために、教員のエノック・ソントンガが1897年に作曲した〈Nkosi Sikelel’ iAfrika〉(神よ、アフリカに祝福を)は、アフリカ民族会議(ANC)の賛歌となり、[アパルトヘイト反対運動の中でさかんに歌われ]のちに新生南アフリカのふたつの国歌のうちのひとつとなった。
(8) Murray Stassen, « Universal Music Africa and Motown Gospel sign superstar South African music group joyous celebration », Music Business Worldwide, 19 mars 2021. [Joyous Celebration - Ndenzel’ Uncedo Hymn 377 https://youtu.be/g-4QAtOrIoA]
(9) [訳注]モータウン・グループはユニバーサル・ミュージックの傘下にある。
(10) [訳注]Master KG - Jerusalema [Feat.Nomcebo Zicode] https://youtu.be/fCZVL_8D048
(11) [訳注]Jerusalema Dance Challenge https://www.youtube.com/watch?v=mdFudLPyqng
(12) [訳注]Master KG - Jerusalema Remix [Feat. Burna Boy and Nomcebo] https://youtu.be/9-RhCvYpxqc
(13) [訳注]Sinach - Way Maker https://youtu.be/QM8jQHE5AAk
(14) [訳注]Michael W. Smith - Way Maker https://youtu.be/iQaS3KudLzo?list=RDiQaS3KudLzo
(15) [訳注]Aurélien Bollevis Saniko - Comment ne pas te louer https://youtu.be/Wv_KsPW0tIY
(16) [訳注]Dena Mwana - Souffle https://youtu.be/NM-eXztJFc4
(17) « En Côte d’Ivoire, l’engouement pour le rap chrétien », Radio-France Internationale, 30 avril 2023.
(18) [訳注]KS Bloom – C’est Dieu https://youtu.be/m0N965nXmXY
(19) [訳注]Magic System - Anoumabo est joli https://youtu.be/oPK3-ogvAqI
(20) [訳注]Booba - Préstation Femua 15 Abidjan 2023 https://youtu.be/XRDes6dEipU
(21) [訳注]DJ Arafat - Ça va aller https://youtu.be/SfMd87D16a8?list=PLuD1V5DZjZV7uoReuPNyF2e1jPhbbWe3e
(22) [訳注]El Georges – Jubiler https://youtu.be/9l7fW_A9k2c
(23) « El George[sic] agacé par les artistes urbains qui imitent Tayc, Hiro», Infos Urbaines, 19 juillet 2022.
(24) [訳注]Machanic Manyeruke - Madhimoni (“Demons”) https://vimeo.com/452912642
(25) Sur cette figure zimbabwéenne, on peut voir Machanic Manyeruke : The Life of Zimbabwe’s Gospel Music Legend, de James Ault, https://jamesault.com
試写状を裏返すと上映場所がイラン大使館と書かれていた。これは珍しい。イラン映画は機会があれば観るようにしていたし、イラン大使館に入れるのは面白そうだと、それだけで『君は行く先を知らない』の試写に行ってみた。麻布十番から少し歩いたところにある白い建物。アメリカ大使館と同じように坂を上っていき、しかし、銃を持った警備員が立ちはだかることはなかった。入り口で試写状を渡して階段を降りると壁一面にペルシャ絨毯が貼りめぐらされている。美しくて威厳がある。その奥に大きめのプレゼンテーション・ルームがあり、映写スペースを兼ねている。手前のロビーも広くてテーブルにイランのお茶やお菓子が並べてあり、DJパーティにちょうどいいスペースだと思ったり。トイレは和式で、洋式はひとつだけ。あとで聞いたら女性用も洋式はひとつだけだったという。上映が始まる前に大使や広報係の挨拶が続く。起立して国歌斉唱もあった(♪なんとかかんとかイ~ラ~ン~)。この作品はイランでは上映禁止になっている。だけど、大使たちはこの作品に出演している役者が好きなので、日本では上映したかったという。上映禁止の理由は申し上げられないけれど観ればわかるということだった。国家の方針よりも映画の役者が優先。いいマインドじゃないですか。本国に知られたら処分されたりするんだろうか。体制を批判するプロパガンダの罪で禁錮4年とか? そういえば大使館に来た女性たちは頭にヒジャブを巻けとは言われていない。皆さん、髪の毛丸出しで歩いている。本国では今月20日にヒジャブを巻いていない女性は10年以下の禁固刑に処するという法案が通っている。ヒジャブをバカにするだけで罰金と2年以内の渡航禁止。人間だけでなくマネキンや人形も髪の毛を出してはいけない。女性たちが服装自由ではない社会。これはさすがにどうかしている。自由主義にも多々問題はあるだろうけれど、衣服に関してはやはりイスラム社会はいただけない。ポニーテール禁止とか、肌を出していたDJソダの方が悪いと批判する声が少なからずあった日本もイスラム社会に近づいているようで、遠い国の話ではないのかもしれないけれど。
砂漠のなかをまっすぐ延びている道路を車が飛ばしていく。長男が結婚するので家族4人で目的地に向かっている。ハンドルを握っているのが長男で、助手席に母親、後部座席には足にギプスをはめた父親と次男だけが1人ではしゃいでいる。後でわかったことだけれど、この時、車の中で流れていた音楽はホメイニによるイスラム革命の前に流行していた曲らしい。一家は誰かに追われているようで、前後を走っている車に警戒心を募らせている。結婚式とその緊迫感がどうにも結びつかない。次男が隠し持っていたケータイが親に見つかり、途中にあった岩場に隠すことになる。現在位置を知られるとマズいらしい。「上映禁止」という情報がすでに頭に入っているので、国家とか政府に知られてはいけない「結婚」があるのかしらと思うばかりで、とにかく序盤はナゾめいている。家族が目的地らしきところに着き、車を降りると彼らに接触してくる怪しげな人物が現れる。複雑な指示が家族にもたらされ、観客もドラクエよろしくあっちへ行ったりこっちへ行ったりする家族を追い続ける。そしてようやく花嫁がいるらしき村に辿り着く。(以下、ネタバレ)そこはつまり国境を超えた場所で、家族に接触して来たのは密航請負業者だったのである。家族愛を描いた映画はイラン映画の本流である。しかし、国境を越えるとなると上映は許可されない。そういうことだったようである。国境を超えた家族はややこしい結婚の儀式を執り行い、父と子の別れをしみじみと語り合う。日本人から見ると普通ではないけれど、ペルシャ民族にとっては普通のことをやっているだけなのだろう。普通であればあるほどイランの人たちにとって「国境」というものがどれだけ重みのあることなのかが伝わってくる。それは大使館の人たちが「申し上げられない」ほどであり、パナー・パナヒ監督が一家の旅路を『2001年宇宙の旅』とダブらせて描くぐらい大ごとなのだろう。長男を置いて帰途についた家族は自転車レースに出くわし、車と接触事故を起こした選手を車に乗せてあげる。この選手はしかし、不正を企んでいたのかどうだったのか、家族の車が自転車レースの先頭を抜き去ると、再び自転車を漕ぎ始める。この家族がいつの間にか密航業者と同じことをやっていたという比喩であり、密航業者もやりたくてやっているわけではないという意味なのだろうか。イラクの国内で出世するには不正をするしかなく、国外脱出した長男はそんな世界から逃れることができたという意味に取れてしまう。

『君は行く先を知らない』の監督、パナー・パナヒの父親、ジャファル・パナヒも映画監督で、過去の作品は次々と上映禁止、選挙で改革派を支持したために一時拘束され、20年間の映画製作と海外への渡航禁止も言い渡されている。そのためにカンヌ映画祭の審査員に選ばれていたにもかかわらず出席できなかったという経歴を持っている。「女はサッカーの試合を見てはいけない」ので、男に変装してサッカー・スタジアムに紛れ込んだ女性たちを、それはもう楽しく楽しく描いた『オフサイド・ガールズ』の痛快なことといったらなかったけれど、映画製作を禁止されたジャファル・パナヒは諦めずに『これは映画ではない』や『人生タクシー』をこっそりと撮影し続け、フィルムを国外に送り届けることに成功してきた。後者はベルリン映画祭の最優秀作品賞である金熊賞を受賞している。そして、今年、『熊は、いない。』が完成した直後に再度拘束され、刑務所に送られて6年間は出てこられないという報が流れたばかり。日本では『君は行く先を知らない』の3週間後に『熊は、いない。』の上映が始まった。

オープニングはテヘラン市内だろうか、パブで働いているザラのケータイが鳴り、バクティアールが近くまでやってくると、2人は再会を喜んでいるのかと思いきや、バクティアールが一緒に行けなくなったと言い、ザラに偽造パスポートを渡すと1人でフランスに逃げてくれと告げる。女が2人でなければ嫌だと抗議すると(以下、ネタバレ)「カット」の声がかかり、いまのは映画の撮影で、撮影が行われていたのはトルコだったということが判明する。指示を出していたのはパナヒ監督本人で、パナヒはリモートで現場とつながっている。次の指示を出そうとするとパソコンの画面が乱れ、現場の映像が映らなくなる。パナヒは通信の状態がいいところはないかと家の外に出る。そこはパナヒが身を潜めているイランの小さな村で、回線が回復しないため、パナヒは仕方なくカメラを持ち出して村の景色を撮影して時間を過ごす。連絡が取れなくなって心配になった助監督のレザがトルコからパナヒの元に駆けつけ、トルコまで連れて行こうとパナヒを国境まで車に乗せていくものの、パナヒはやはり危険だと思ったのか、村に戻ることにする(イランにはマルジャン・サトラビやバフマン・ゴバディなどすでに国外に出た映画監督がいるけれど、それをよしとせず、あくまでも国内にいてイランのために戦いという意志がパナヒにはあるように思われる)。もう少し観ているとパナヒが隠れていた村はイランそのものの比喩だということがわかってくる。どのエピソードを見ても封建的で、パナヒは息がつまる思いをしている。続けて起こる事件は、女性には自分の結婚相手を決める自由がなく、生まれてすぐに結婚相手と決められた男性とは違う男といるところをパナヒが偶然にもカメラで撮影していたため、騒ぎがどんどん大きくなっていくという展開になる。市民に自由がない。パナヒがこれまでに撮ってきた対象はそれに尽きるとさえいえるけれど、とりわけ女性の人権が認められていないことにパナヒは敏感である。パナヒは証拠写真を提出するよう村人たちに求められ、そんなものは撮っていないと突っぱねると、村人たちとの関係はどんどん悪くなる。村人たちはパナヒに写真を撮っていないと神に誓えるかと詰め寄り、宣誓室に来るように言い渡す。そして、ある村人から宣誓室に向かう道には「熊」がいるのでとても危険だと告げられる。一方でトルコの撮影現場からは約束と違うと怒り狂ったザラがパナヒに「私たちの人生を撮ると言いましたよね」と抗議のメッセージが届く。ザラとバクティアールが国外に出ようとしていたのは現実の出来事で、パナヒはそれをドキュメンタリー映画として残すという設定だったのである。2組のカップルの運命をパナヒが握るかたちとなり、物語はエンディングに向かって緊迫感を増していく。

村人との対比で見るパナヒ監督はとにかく都会的であり、近代人である。彼が映画製作を学んだのはテヘランで、とくに海外で映画製作を学んだわけではない。『人生タクシー』ではタクシーの運転手となったパナヒがハリウッド映画のDVDを顧客らしき人々に届けるシーンがあり、パナヒがイランの政治体制を相対化して観ることができたとすれば、それは外国文化に触れたからだと推察できる。とりわけ宗教に縛られ、女性を差別するイスラムの風土には疑問を持つに十分だったようで、そのような支配のメカニズムを彼はこの作品で「熊」に集約させている。パナヒが村人たちに来いと言われた宣誓室は「熊」の脅威を取り除かないと辿り着けないところにある。パナヒはどうやって宣誓室にたどり着けるのか。最初のクライマックスがここにある。パナヒはそして、ある人から「熊」はいないし、宣誓室では嘘をつけばいいとアドヴァイスを受ける。どうだろう、パナー・パナヒの『君は行く先を知らない』で家族の車が自転車を乗せたシーンを思い出さないだろうか。正直にやらなければ助かる道はある。実際、熊がいると脅していることが、いわば支配者の嘘なのだから、嘘には嘘が有効だということになる。しかも、現在のイランには「熊がいる」と言い張れるだけの力はなくなっていて、映画製作を禁じられたパナヒが次から次へと新作を完成させてきたこと自体、その表れと言える。村の長老らしき人物がパナヒに証拠写真を出すよう、最初に家を訪ねてきたシーンに興味深い場面がある。勢い込んで話し始めた長老の前をレザが「ちょっと失礼」と言って横切り、いきなり話の腰を折ってしまうのである。この時の長老の表情は威厳を台無しにされ、怒るよりも虚を突かれて戸惑いの表情を浮かべている。これがいまのイランだとパナヒは言っていると僕には思えた。これまでのことを考えるとパナヒはおそらく刑務所内でも映画を撮ってしまうかもしれない。この監督はそれぐらいのことはやってのけてしまうし、『熊は、いない。』でパナヒに助言をする人たちがちょこちょこ現れるように刑務所内でもすぐに味方をつくってしまうような気がする。

2023年、アンビエント・アーティストのローレンス・イングリッシュは、〈Kranky〉からロスシルとのコラボレーション・アルバム『Colours Of Air』と〈Room40〉からデイヴィッド・トゥープとのコラボレーション・アルバム『The Shell That Speaks The Sea』をリリースしている。
そして、ローレンス・イングリッシュとリー・ベルトゥッチとの共作である、『Chthonic』は、イングリッシュにとっては2023年、3作目のアルバムにあたる。このアルバムはローレンス・イングリッシュが追及してきたフィールド・レコーディング作品の極地、いや完成形といえるほどに見事な出来栄えであったのだ。音に満ちた世界が音楽の断片と交錯し、より深く、より大きなサウンドスケープが生成れている。
『Chthonic』ではイングリッシュがフィールド・レコーディングとエレクトロニクス、テープ操作を担い、ベルトゥッチがチェロやフルート、ヴァイオリン、ラップスティールまでも演奏し、壮大かつ緻密な音響空間を織り上げている。マスタリングはニューヨーク在住のアンビエント・アーティスト、ラファエル・アントン・イリサリが手がけていることも付け加えておきたい。リリースはシカゴの〈American Dreams〉からである。
リリース元の〈American Dreams〉は、シカゴのチェロ奏者リア・コール(Lia Kohl)、フィラデルフィアの実験音楽家/作曲家のルーシー・リヨウ(Lucy Liyo)、イラン・テヘラン出身のアンビエント・アーティスト、シアヴァシュ・アミニ(Siavash Amini)などのエクスペリメンタル・ミュージックのみならず、「アメリカのレディオヘッド」と評される12RODS『We Stayed Alive』、ポスト・ブラック・メタルともいえるAnti-God Hand『Blight Year』までもリリースするなど、多様なラインナップが魅力的なレーベルとしてマニアには一目遅れている。アンビエント作品とブラック・メタルが並ぶラインナップはまさにこのレーベル独自のものだろう。
話を本作『Chthonic』に戻そう。イングリッシュによる環境録音は自然現象そのもののように力強いが、環境音に溶けるように交錯されていくベルトゥッチによるチェロやフルート、ヴァイオリンなども実に見事だ。まるで音響の中に溶け込み、まるで霧のような音を生成しているのだ。見事なサウンドスケープである。よく聴き込んでみると、環境音と聴こえていた音が、エディットされたリズムを発していることに気がつきもする。繰り返し聴き込むたびに、そのダイナミックかつ緻密な音響空間に驚きを得ることになるはずだ。
まずは、1曲目 “Amorphic Foothills” を聴いて頂きたい。環境音が生のまま音のように鳴っているかと思いきや、明らかに周期的なリズムも聴こえてくる。そこに弦楽器の折り重なり、環境音と一体化していく。自然と楽器音、無編集と人為的な編集が曖昧に交錯し、ひとつより大きな(深い)サウンドスケープを形成しているのである。私はこのアルバム冒頭のトラックを聴き、世界の音が交錯し、重なり合い、溶け合っていくさまに衝撃を受けた。もちろんこの種のサウンドの作品は他にも多くある。だが、『Chthonic』は環境音それじたいが音楽的に持続し変化していっている。そんな印象を持った。素材を選択と編集が絶妙だからではないかと思う。
ローレンス・イングリッシュはアンビエント・アーティストでもあるので、自身のサウンドとコンポジションを持っている。環境録音に対しても同じような意識で編集・加工していると思われる。音が線的に変化しているのだ。シアヴァシュ・アミニの弦楽器もイングリッシュのアンビエント作家的なサウンドに共鳴しているように思えた。チェロやヴァイオリンが環境音と共に変化しているように聴こえるのだ。
ふたりは2019年に出会い、その後、オーストラリアとニューヨークのあいだをリモートで制作をしたという。時期的にみても2020年のコロナ禍も挟んでいる。いわば世界的な危機の状況で、この超自然的な音響作品が制作されたことはやはり重要と思える。このアルバムに満ちている自然のうごめきのようなサウンドは、まるで地球の地殻変動や気候の変化などを体現するように聴こえてくる。
アルバムには全5曲が収録されている。2曲目 “Dust Storm” ではより激しい、まさに豪雨のような音響空間を形成し、アルバム中もっとも長尺(12分25秒)の4曲目 “Fissure Exhales” ではアルバム全体の音響が統合されたようなスケールの大きいサウンドを展開する。そしてアルバム最終曲 “Strata” では、すべてが過ぎ去った後の不思議な空虚感を漂わせてアルバムは終わっていくのだ。
どれも長尺だが、しかしその音の変化、質感、レイヤーを意識的に聴き込んでいくと、われわれリスナーの時間もまたローレンス・イングリッシュとシアヴァシュ・アミニの音の中に漂うようになり、やがて溶け合っていくような感覚を得ることになるだろう。音と音楽。環境音と楽器。時間と無時間。その交錯。実に高品質なエクスペリメンタル・ミュージック/フィールド・レコーディング作品/アンビエントである。音と音楽の境界線がここには鳴っている。


