Home > Reviews > Album Reviews > Odalie- Puissante Vulnérabilité
マーラーのような後期ロマン主義はしばしばナショナリズムの文脈で否定されることが多い。80年代初頭のニュー・ロマンティックも英表記では後期ロマン主義=Neo-romanticをNew Romanticとパロディにしたもので、ヴィクトリア回帰を謳い、英国病に沈むイギリスにかつての栄光を思い出させようとしたところはやはりナショナリズムに近い感覚があった。同時期のポスト・パンクが現実を直視するもので、これと相容れなかったのは、だから当たり前で、不協和音を好んだのはそれこそ後期ロマン主義に続いて現れた印象主義の実験的な性格と同じ感覚に由来するのだろう。しかし、最も忘れ難いのは、ニュー・ロマンティックとポスト・パンクの両方を自由に行き来していたソフト・セルである。身もふたもない歌詞を未来的なサウンドにのせて歌う。ニューロマンティクスにとっても、あるいは、ポスト・パンクにとっても敵視したくなるような存在。矛盾していることにリアリティがあり、複雑であることをそのまま表現できたことが彼らの勝因だった。自分たちのことでもあり、イギリスのことにも思える『崩れ落ち方(The Art of Falling Apart)』と訳したくなるセカンド・アルバム(実際の邦題は『滅びの美学』)で彼らはニューロマンティックスとポスト・パンクを不可分に結びつけ、歌詞でははるかに及ばないものの、方向性としてはルー・リード『Berlin』(祝50年!)のエレクトロニック・ヴァージョンをつくり上げたとさえ僕は思っている(ほとんどの人は思ってないと思う)。
マックス・クーパーのレーベルからデビュー・アルバムをリリースしたオダリーことソフィー・グリフォンも現代の矛盾を音楽で表現しようとする1人。後期ロマン主義とエレクトロニカを融合させ、ポップかと思えばインダストリアルだったり、瞑想とノイズが折り重なった『パワフルな脆弱性』はしっとりとしてメランコリックな表情の裏に(彼女がいう)悪意を貼り付け、確かに複雑な印象を抱かせる曲が多くを占めている。矛盾そのものといえるタイトルは彼女の自然観に由来し、社会というものは1人1人が弱い方が全体としては強いシステムになるという意味で、「個人主義は自然の産物だという人と、その逆だという人がいる」ことはわかった上で「自然界では競争よりも協力しあっていることに価値があると考える人もいる」ことを彼女は強調する。「自分たちの弱さを見せ合う方が私たちは先に進める」のだと。これは、しかし、普通に考えれば民主主義の原則にほかならない。1人に権力を集中させないことが民主主義の目的であり、同じことを逆からいえば「全員が弱い方がいい」ということだから。たとえば「女性を活用する」などと上から目線で言わないで「女性に助けてほしい。一緒にやりましょう」といえばいいのに、という感じだろうか。グリフォンは続ける。「自分自身が不完全で壊れやすいものであることを示す勇気を集団で見つける必要がある」と。
オープニングはストリングスの組み合わせで、全体にリヴァーブをかけ、どことなく混沌とした〝Orages intérieurs(嵐のインテリア)〟。家具がぐちゃぐちゃと倒れ、室内が荒らされているということなのだろうか。ちょっとした不穏な始まりである。ハープシコードのような繊細なメロディで始まる〝Attendre l'éclaircie(晴れ間を待つ)〟は粛々とした雰囲気から雄大な調子へと切り替わり、何かの決心を促すような曲調。劇的なムードは続く〝We are Nature〟で最初のピークを迎え、確信的な響きのなか、ヴォーカルのブラック・リリーズは「雲のなかへ」とリフレイン繰り返す。ジャック・クーパーによるモダーン・ネイチャーが3作目となる『No Fixed Point In Space(宇宙に定点はない)』でインプロヴィゼーションを大幅に取り入れ、さも自然と同化しているかのような表現に切り替えたことと気持ちは重なる感じ。異常気象なのか気候変動なのかという議論はさておき、自然が以前よりも脅威であり、遠くに感じられることから、ある種のノスタルジーとして自然を身近なものとして描写する傾向が増えているような気がしてくる。〝Vents contraires(抜け穴の反対側)〟にはインダストリアル・パーカッションが足され、ここまでの流れを一度、ぶった切る。このあたりはいかにも後期ロマン主義。一転してアンビエントの〝Wounded〟がとてもよく、シンセサイザーとストリングスによる優雅なレイヤーに後半から入るチェロが控えめなメランコリーをにじませる。柔軟でしっかりとした美意識が堪能できる瞬間である。
後半は先行シングルになっていた〝Battements(動悸)〟から。重めのストリングスにUKガラージを模倣したようなパーカッションが入り、確かにドキドキさせられる。ダンス・ミュージックでもないし、ましてやモダン・クラシックでもなく、どこにも着地点がないユニークさは面白い。続く〝Caresse(愛撫)〟はヨーロッパ的な官能性を打ち出し、細野晴臣を思わせるというか、スペンサー・ドーランの『環境音楽 = Kankyō Ongaku』に入っていても誰も文句を言わなそうな〝Danse des astres(星のダンス)〟へ。〝Wounded〟も含めて様々なアンビエントを試し、どれも成功しているということは「脆弱性の集合体」というコンセプトは達成されていると考えていいのだろう。最後はクレア・デイズをフォーチャーした〝Clear the air(誤解を解く)〟。これも尾島由郎と柴野さつきのコラボレーションを思わせ、全体に透明度が高く、スキャットとストリングスが一体化してしまった瞬間はとても美しい。エンディングに向かって少しずつ抽象化していく流れもなかなかに惹き込まれる。ソフト・セルに比べると様々なジャンルが混ざり合うことは当たり前の時代になっているので、グリフォンが標榜するほど「矛盾」したサウンドとは感じなかったけれど、モダン・クラシカルを基調とすればかなり踏み出した試みであることは確か。どこに向けているのかよくわからないジャケット・デザインにもそれはよく表れている。
三田格