「IR」と一致するもの

interview with Roomies - ele-king

 名は体をあらわす。ルームメイト=ルーミーズを名乗る彼らはまさにそんなバンドだ。キャッチーなネオ・ソウル・サウンドを基調とするその音楽は、互いへの確固たる信頼、親密な関係性が構築されているからこそ響かせることができるにちがいない、ハッピーなフィーリングに満ち満ちている。その仲睦まじさは今回の取材中、撮影中にも垣間見ることができたけれど、じっさい彼らは「Roomies House」と名づけられた一軒家で寝食をともにしながら、セッションやレコーディングをおこなっているようだ。
 もともとはハードコア・バンドをやっていたという及川創介(シンセサイザー)。マイケル・ジャクソンに憧れて歌いはじめたKevin(ヴォーカル)。アイルランドのパブで演奏していた高橋柚一郎(ギター)。ディズニーシーでキーボードを弾いていた斎藤渉(ピアノ)。それぞれ異なるルーツをもつ彼らは2019年、及川を中心に、ベースとドラムスを加えた6人でルーミーズを結成。2021年には配信でファースト・アルバム『The Roomies』を発表するも、その後バンドの屋台骨たるベース&ドラムスの脱退という危機的状況に見舞われる。関係性を重視する彼らは無理に新メンバーを迎えることなく、4人組として再起をはかったわけだが、今年1月にリリースされた最新作『ECHO』は、そんな彼らが4人編成となって初めて送り出す、二度目のデビュー作とも呼ぶべきアルバムだ。
 仲のよさというものは、しかし他方で、容易に「内向き」の表現へと転ずる危険性を有してもいる。いわゆる内輪ノリ、身内ネタというやつだ。だからだろう、今回彼らは「外向き」であることを意識したという。はたしてその成果やいかに──なにはともあれまずは2曲目の “Like This Before” を聴いてみてほしい。デジタル・シングルとして昨年末先行リリースされたこの曲は、たとえばとくに音楽ファンではない人びとの心をも鷲づかみにするだろう、キラーなポップ・チューンに仕上がっている。目的はみごと果たされた、と。
 そもそもKevinの「グラミーを獲りたい」という話からスタートしたルーミーズ。会心の1曲を含むセカンド・アルバムを完成させた彼らはいま、どんな心境にあるのか。及川とKevinのふたりが取材に応じてくれた。

夢を見たんです。わっくんからバンドに誘われる夢を。そしたらほんとうにわっくんから「ライヴしないか」って連絡が来たから、引き寄せられているような感じでした。(Kevin)

Roomiesは及川さんを中心に2019年に結成されたそうですが、及川さんはその前にCICADA(シケイダ)というバンドをされていたんですよね。

及川創介(以下、及川):最初はトリップホップをやりたいというところから集まったバンドで、次第にR&Bになっていきましたね。リーダーが、マッシヴ・アタックやポーティスヘッドに日本のACOさんのような音楽性を混ぜたようなことをやろうとしていて、ぼくは最後に入ったメンバーでした。もともと自分ではDTMをやっていたんですが、そのバンドでレコーディングしたりミックスしたりアレンジしたりする機会が増えて、その経験がいまのRoomiesにも活かされていますね。

Roomies自体はどうはじまったのでしょう。

及川:まず、前身にあたるLotus Landというバンドがありました。もともとはリーダーでベースのエイちゃん(吉川衛)に、ドラムスとキーボードの3人組だったんですが、ドラムスとキーボードが抜けて一度止まって。その再始動の際に誘われたんです。新しいドラムスと、キーボードのぼくにギターの(高橋)柚一郎が加わって4人組になりました。エイちゃんはファンカデリックやスライを永遠に聴いているようなソウル~ファンクのひとだったんですが、バンドではそれとはちょっとちがう新しいことをやりたいということで、ダフト・パンクを参照したりしながらハウスっぽい、4つ打ちのクラブっぽいサウンドをバンドとしてやっていましたね。
 その4人のときはインスト・バンドだったんですが、ぼくはやっぱり歌モノがやりたくて。あと、ぼくはシンセサイザーが好きなので自分はシンセを弾きたかった。そこでピアノのわっくん(斎藤渉)に入ってもらって、ぼくはシンセ担当になって。それでじゃあ歌はだれにしようってなったときに、昔わっくんのソロ音源のヴォーカル・レコーディングのときに一度だけ会っていたKevinの声を覚えていたので、連絡してみたんです。そしたらちょうどKevinもバンドをやりたいタイミングだったから、じゃあ6人でやろうということでRoomiesがはじまりました。
 ただその後、ベースのエイちゃんとドラムスが抜けてしまって、現在はぼくとKevin、(高橋)柚一郎、わっくん(斎藤渉)の4人組ですね。

なるほど、メンバー構成はけっこう紆余曲折を経てきたんですね。KevinさんはRoomiesに加入する前はどんな活動をされていたんですか?

Kevin:ぼくは23、24歳くらいのころに石川から上京してきて、最初の1年くらいはずっとソロで活動していました。渋谷のBar Rhodesとか、わりと小さいところで歌っていたんですけど、東京の目まぐるしさだったりいろんなストレスが重なって、一度精神的に参っちゃったんです。それで1年くらい音楽活動から離れていた時期があって。「このまま終わっちゃうのかな」と思う一方で、でもどこかでまた歌いたいっていう気持ちもあって。そしたら1年後くらいにピアノの斎藤渉くんから連絡が来て、ひさびさに一緒にライヴしないかって誘われたんです。もうふたつ返事で「やります」って答えて。その日のライヴが終わったあとに、「じつはもうひとつ話があって、バンドやらない?」と話されて。即答で「やります!」と。それがRoomiesのはじまりでしたね。

及川:運命的なことがあったんだよね。

Kevin:ほんとうに運命的でしたね。ちょっと信じられないくらい。盛らずに言いますけど、ずっと休んでいた時期のある日に、夢を見たんです。わっくんからバンドに誘われる夢を。そしたらほんとうにわっくんから「ライヴしないか」って連絡が来たから、引き寄せられているような感じでした。でも、バンドの誘いではなかったから、さすがに完全に夢どおりにはならないかって思ってたんですけど、ライヴが終わってわっくんの車に向かってるときに「もう一個話があって」って言われたときに、完全にピンと来て。「もしかしてバンド?」って、俺が先に言ったんです。そしたら「そうそう、バンド、バンド! 一緒にやんない?」って。

そんなことあるんですね。完全に予知夢ですね。

及川:マンガの『BECK』のような(笑)。

Kevin:夢自体はよく見るんですけど、それまでそんなことはなかったですね。でもこの話、ぜんぜん信じてもらえなくて(笑)。

まあ冷静に考えたら、「バンドに誘ってもらいたい」みたいな願望があったから、そういう夢を見たってことかもしれないですね。でもタイミングはすごいですよね。

Kevin:そうなんだと思います、たぶん。

Roomiesをはじめる時点で、いまのようなポップなネオ・ソウル・サウンドで行くというのは決まっていたんでしょうか?

及川:最初はちがったよね。

Kevin:ぜんぜん決まってなくて。それぞれやりたいことがちがっていました。ベースはファンクの歌モノ希望で、どんな曲も硬めのワン・ループで。ドラムスはとにかく音数を少なくしてミニマルに、という感じで。あとロウファイにする方向でどんどん音がこもっていったり。ピアノのわっくんはもともとディズニーで働いていて、『アラジン』のピアノ演奏とかもやっていたので、きらきらした音色にしていったり。

及川:ギターの柚一郎はできるだけギターを引っこめたがっていたし、ぼくはそれらをとにかくまとめなきゃいけないという感じで。Kevinはまだなにをやりたいかわからない、みたいな感じだった。

ゴミ捨て場にあったフロアタムとライド・シンバルを拾って、それで路上でドラムを叩いて家賃を稼ぐみたいな生活でしたね。(及川)

いまのサウンドが確立されるに至った転機のようなものはあったんですか?

及川:最初にできた “I just fell in love with you” からかな? まだ方向性がちゃんとは固まっていないときに、イケイケな曲ができちゃったんです。エイちゃんがこういうベース弾きたいって言って、だれかがリファレンスをもってきてジャムって。小平の宿泊施設付きの安いスタジオみたいなところで2泊くらいしていたときでした。すごいウイスキーを飲んでたよね(笑)。

Kevin:お酒の力を借りて、みんな仲よくなって、ジャムって(笑)。でもあのとき、めちゃくちゃスキャットマン・ジョンを聴いてたでしょ。ほんとうにずっと。朝方のめちゃくちゃ眠い時間に爆音で流すんですよ! こいつらなんなんだろうって思って(笑)。

及川:(爆笑)。Kevinは人見知りだから、最初は馴染んでなくて。でもKevin以外はけっこう長かったから、そういうことを。

Kevin:そうそう、そういうもともと仲よかったひとたちがスキャットマンをひたすら流してて、「これ、やっていけんのかな?」って思ってた(笑)。

たしかに、すでに関係性ができている輪に入っていくのは大変ですよね。

及川:当時はKevinがいちばんアウェイだったというか。

Kevin:最初は創ちゃんが「こっち来なよ!」って声をかけてくれなきゃ近くにいけないくらいで。

Roomiesっていうバンド名にはすごく仲のいい感じが出ていますよね。このバンド名にしたのは?

及川:みんな仲がいいから。ずっとわいわい笑いながら音楽をやっていて。だからルームメイトのスラングであるルーミーズっていう単語はしっくりきました。もうこれにしようってバッと決めましたね。そうすると、ルームメイトにふさわしい家が欲しいよねという話になり、いろいろ経つつ、一軒家を借りることができて。

その一軒家はウイスキーのところではないんですよね。

及川:三度目のウイスキーですね(笑)。1回目のウイスキーはギターの柚一郎の実家が那須でペンションをやっていたので、そこで。2回目が、さっきの小平の「絶望スタジオ」(笑)。

なんで「絶望」なんですか?

及川:ハウりまくってて(笑)。

Kevin:あれはやばかったね(笑)。

及川:立地とか広さはすごくよかったんですけど、機材がかなり悪くて。ハウるし、ヴォーカルもぜんぜん聞こえない。ちゃんとした設備じゃなかったんです。いちばん安かったからそこにしたんです。時間を気にしたくなかったっていうのが大きくて。たとえばスタジオに入って4時間ひとり3,000円ずつ払って機材ももっていって、2時間半くらい練習したら片づけをはじめて……みたいなやり方じゃいい曲はできないな、ってみんな直感で思ってて。終わりを気にせずやれないとダメだっていう理由から、毎度泊まりでスタジオに入るようになって。「それならもう住もう!」ってことになって、いまの一軒家に行き着きました。

ファースト・アルバムの『The Roomies』もそこで生まれて。

及川:そうですね。Kevinはあのときどんな感じでアルバムができていったか覚えてる?

Kevin:もう必死でしたね。やっぱりみんな音楽性がバラバラだったから、なにが正解かもわからず、迷いながらやっていて。ドラムスは落ち着いたローファイ志向だし、創ちゃんは歌がきらきら輝く曲にしたくて。

及川:ぼくはメンバーのなかではいちばん売れたい欲が強くて。売れる曲をつくりたいっていう感じで(笑)。

Kevin:どうなりたいかみたいなことについてはあまり話し合ってなくて、とりあえずセッションして、奇跡的にみんなが「これいいじゃん」って思える曲をブラッシュアップしていく感じでしたね。ファーストはそういう曲ばっかりでした。

及川:そう。テーマとかコンセプトは決めずに、できたものからいいと思ったのだけを選んでつくりました。

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10代はハードコアをけっこう聴いていましたね。あとはスマッシング・パンプキンズ、レディオヘッド、ビョーク、マッシヴ・アタック。マシュー・ハーバートもすごい好きで。(及川)

それぞれの音楽的背景をお伺いしていきたいんですが、最初に音楽に興味をもったのはいつごろですか?

Kevin:ぼくは、母が歌手をやっていたので、物心ついたときから音楽はずっと身近にありました。母がよく歌っていたので、一緒に歌いたいなと。カーペンターズとか、ポップス系を歌っていましたね。スティーヴィー・ワンダーとか。演歌も歌っていましたけど基本的にはポップスで、ああいうわかりやすいメロディのあるものがずっと好きでした。転機になったのは、マイケル・ジャクソンを知ったときですね。小学生のとき、父の会社に遊びに行ったときに、しばらく待たなきゃいけない時間があって。「ヴィデオでも見とけ」ってテレビの前に座らされて。そこで見たのが、マイケル・ジャクソンが “Billie Jean” でムーンウォークを初めて披露した映像で。「かっけー」って思って、そこから音楽にのめりこみましたね。

Kevinさんのヴォーカルはよくマイケル・ジャクソンと比較されると思いますが、まさにマイケル・ジャクソンがきっかけだったんですね。

Kevin:そうですね。マイケルの影響は大きいです。あの日本の曲にはないグルーヴ感と、あの独特の歌い方に惹かれて。ムーンウォークもマンションの外で練習したりしました。「なにやってんだ」ってバカにされましたけど、逆に「マイケル知らねーの?」って言い返して(笑)。高校になると、歌はつづけてはいたんですけど、レ・トゥインズっていうフランスの兄弟ユニットを見てからダンスにハマって、そこからヒップホップとかも聴くようになって、ディアンジェロを好きになって。それで「自分はダンスで食っていくのかな」って漠然と思ってたんですけど、でもステージではメインで輝きたいっていう思いもあった。それでダンスを諦めて、22、23のころに音楽で食っていこうって決意して上京しました。やっぱり歌うことがいちばん得意で、好きなことだったんです。ぼくは好きなことじゃないとつづかないタイプで、歌が唯一ストレスなくのめりこめるものだったから、「これを仕事にしよう」と。2010年代の頭ごろでしたね。

及川さんのお話も聞かせてください。

及川:ぼくはまず、小学校のころにX JAPANが好きになってピアノをはじめました。YOSHIKIが好きだったのでドラムもはじめて。その後中二のときにレディオヘッドの “Planet Telex” を好きになって、その曲はいまだに自分のなかで不動の1位ですね。高校卒業するまで毎日聴いていました。

なるほど! 2月にJ-WAVEで毎週カヴァーをやる企画をされていましたよね。最後の週がレディオヘッドだったので、Roomiesの音楽性からすると意外だなと思っていたんですが、納得できました。でも曲は “Planet Telex” ではなく “High And Dry” でしたね。

及川:“High And Dry” はピアノのわっくんが好きなんです。あと “Planet Telex” は好きすぎてカヴァーするのに時間がかかっちゃうという理由もあったし、“High And Dry” はKevinのヴォーカルに合いそうだなっていうのもありました。

ピアノとドラムスはその後もずっとつづけていた感じですか?

及川:ピアノはほとんど練習してなかったんですど、中学も高校もドラムはつづけていましたね。中学の同じクラスにSiMのギターがいて、18歳のときにSiMのヴォーカルのMAHくんと最初のベースのKAHくん、ギターのSHOW-HATEとぼくでジェーン・ドゥーっていうハードコアのバンドをやっていました。
 そのバンドをつづけていた19歳のときに、ワーキング・ホリデイでオーストラリアに行ったことがあったんですけど、貯めたお金をカジノでぜんぶなくして、ホームレスになっちゃってバス停のベンチの下とかで寝ていました(笑)。でも家がないと強制送還されちゃうので、バックパッカーズ・ホテルっていう使い捨てのような汚いホテルの3人部屋だと1週間3~4千円で住めたのでそこにいました。毎晩フランス人のゲイとかイタリア人のレズビアンのセックスを見ながら寝るような生活だったんですが、ゴミ捨て場にあったフロアタムとライド・シンバルを拾って、それで路上でドラムを叩いて家賃を稼ぐみたいな生活でしたね。つづけているとジャンベとかディジェリドゥとかを弾けるひとが集まってきて、バーでライヴもできるようになって。

そんな経験をしたら、帰ってきたとき世界観が変わっていたのではないでしょうか。

及川:変わっちゃいましたね。なにも怖くなくなったというか。日本に帰ってからはハードコア・バンドもすぐ終わっちゃって、その後はサイケデリシャスっていうダフト・パンクみたいなバンドをやったり、音楽自体やめてコールセンターで契約社員をやったり。CICADAに誘われたのもそのころでしたね。

ダニー・ハサウェイとかマーヴィン・ゲイとか。新しいものより古いものに行った感じですね。いわゆるポップ・スターのようなひとたちの歌をよく聴いて練習していました。(Kevin)

リスナーとしてはおもにロックをメインで聴いていた感じでしょうか。

及川:10代はハードコアをけっこう聴いていましたね。あとはスマッシング・パンプキンズ、レディオヘッド、ビョーク、マッシヴ・アタック。マシュー・ハーバートもすごい好きで。IDMが好きでしたね。打ち込みをやってた時期もあって、友だちのラップにトラックをつくったりもしていたので、サンプリングやビートメイクをちょっとずつ覚えていきました。古い曲、ビートルズとかスティーヴィーとかアース・ウィンド&ファイアとかマイケルとかはむしろRoomiesに入ってから聴くようになりましたね。有名な曲しか知らなかったのでKevinに教えてもらって。ファンクもソウルも全然知らなかった。

Roomiesのシンセの感じはスティーヴィーなのかなと思っていました。

及川:教えてもらったんです(笑)。エレクトロニカとビョークがずっと好きだったんですよね。

ビョークだとどれがいちばん好きですか?

及川:『Vespertine』(2001年)ですね。

まさにハーバートやマトモスが参加しているやつですね。ぼくと完全に同世代ですよ。

及川:オペラハウスの映像(『Live at Royal Opera House』、2002年)をずっと観ていましたね。“It's In Our Hands” や “Hidden Place” をひたすら聴いていました。

自分たちでも音楽をやるようになってから、リアルタイムの音楽、たとえば2010年代はおふたりはどんな音楽に惹かれていましたか?

Kevin:ぼくはもっと歌を強化したいなと思っていたので、リアルタイムではないんですけど、ソウルを聴くようになりました。ダニー・ハサウェイとかマーヴィン・ゲイとか。新しいものより古いものに行った感じですね。いわゆるポップ・スターのようなひとたちの歌をよく聴いて練習していました。

及川:ぼくはもうマーズ・ヴォルタとかバトルスとか、ニュー・レイヴ系とか。

Kevin:ぜんぜんちがうね(笑)。

及川さんの背景はRoomiesからはぜんぜん想像できない(笑)。

及川:マーズ・ヴォルタ大好きで。ライヴにも行ったんですけど、開演前にトイレに行きたくなって。でももうはじまるから我慢してたんですけど、5分くらいずっとノイズが鳴ってて、限界が来たのでトイレに行って、戻ってきたらまだノイズだけで(笑)。「なんなんだ!」って思ったのを覚えています。あとハマってたのはMGMTとか。

そろそろ新作についてもお伺いしていきましょう。セカンド・アルバムにあたる『ECHO』ですが、最初の時点でコンセプトや青写真のようなものはあったんですか?

及川:明確なものはなかったです。今回が4人編成になってから最初の作品になるんですけど、この4人でもう4~5年やってきていたから、ヴィジョンが近いというかやりたいことにも共通している部分が多いこともわかってきていたので、歌がしっかり抜けててサウンドも外向きのものになっているかなと思います。

Kevin:そう思う。

及川:Kevinの歌って外向きだから、内向きで自慰的なサウンドにはならないものをつくりたいっていうのはありました。4人になったから打ち込みでもいいやとか、サウンド面での許容範囲も広がりました。「こうじゃなきゃいけない」みたいなものが減ったアルバムだと思います。前のアルバムは前のアルバムで好きではあるんですけどね。

Kevin:ファーストのときはけっこう大変で。6人分の正解を合致させなきゃいけなかったので。

及川:人数が多い分、食い違いも多かったから、なかなか完成に持っていけなかった。

なるほど。しかしベースとドラムスが抜けるって、バンドとしてはけっこう致命的な気もするのですが。

及川:ほんとうそうですよ(笑)。正直、最初は「終わった」と思いました。

その後、新しくベースとドラムスを迎える話にはならなかったんでしょうか?

及川:最初は探さなきゃって思ってました。やっぱりベースとドラムは必要だと思っていたので。でも、わっくんが「4人でも行けるっしょ」って、けっこうポジティヴで。それを信じてみようかなと思ったんです。中途半端に増やさないで、自然にいい感じで新しく出会ったら入ってもらおう、って。

Kevin:なかなかいないですよね。演奏がよくて、音楽性も合って、かつヒマなひとって。

及川:みんなヒマじゃないからね(笑)。

今回は曲づくりからレコーディングまで、そういうプロセスでやっていったんですか?

Kevin:そもそもあんまり4人で集まれなかったんですよね。それぞれ忙しくて。

及川:ぼくとギターとKevinだけとか、ピアノとKevinだけとか。全員で集まってワイワイやりながら……という感じではなかった。曲によって打ち込みだったり、友だちに生ドラムやベースを入れてもらったり、歌詞もKevinの弟のコリンが書いているものもあるし。曲によってつくり方がちがって。けっこう不安はありました。たとえばアイディアが浮かんで「これ、どう?」みたいなことを聞くとき、やっぱり顔を見て直接反応を見ないと、ほんとうにいいって言ってくれてるのかなって、疑心暗鬼になるので(笑)。でもなぜか自信はありましたね。

内向きで自慰的なサウンドにはならないものをつくりたいっていうのはありました。(及川)

なかなか全員が集まれないなかで、「これだけはやらないようにしよう」とか、逆に「これだけは絶対やろう」みたいなルールはありましたか?

Kevin:先ほど話したような、内向きにならないように、っていうのはありましたね。外向きの意識で、って。ぼくの場合は、歌はやっぱりポップでわかりやすくっていうのを意識してメロディ・ラインをつくってました。

及川:ぼくの場合は、Kevinがもともとダンスをやっていたことを意識しましたね。Kevinはたぶんミュージシャンとはちがうダンサーのグルーヴ感をもってるはずだと。たとえば4つ打ちの「乗れる/乗れない」って、8ビートのキックの位置とかベースの位置とかでわかるじゃないですか。それで歌い心地がいいか悪いかってKevinにしかわからないから、Kevinがいいってなるまでは、あんまりこっちの意見を押し出さないようにはしていましたね。ダンサー目線のヴォーカルの歌い心地のよさを意識して。

Kevin:グルーヴや歌い心地はすごい細かく相談してましたね。

内向きにならない、外向きに、という意識があって、先ほど及川さんには売れたい欲もあるというお話も出ましたけど、今回2曲目の “Like This Before” なんかは、まさにそれが達成されたキラー・チューンというか。

及川:まさしく。わっくんがつくった曲ですけど、デモが来た時点で「きたー!」ってなりましたね。会心の1曲というか。

Kevin:シンディ・ローパーみたいな(笑)。mabanuaさんも褒めてくださって。

及川:こういう感じは日本のポップスではあんまりないですよね。とくにバンドの曲では。

アルバムのタイトルが、最後の曲とおなじ『ECHO』になったのはどういう経緯ですか?

及川:曲のほうの “ECHO” はぼくが歌詞を書いたんですけど、そのときはなんとなく「ECHO」っていう曲名がいいなと思って。その曲を書いたあとにアルバムの話になって、ジャケットをどうしようかってなったときに、ギターの柚一郎が以前にアイルランドに住んでいたんですけど、現地の新聞に「エコー」っていうのがある話を思い出して。その新聞はデザインがすごくかわいいんです。曲自体は世界の平和をイメージした曲なんですが、「エコー」っていうことばもそれに合うと思って。Roomies自体ハッピー主義者たちの集まりだし、そういうのが広まればいいなと思って、その流れでアルバムのタイトルも『ECHO』がしっくりきたという感じですね。

アルバムには日本語の曲もありますが、基本的には英語の曲が多いですよね。英語で歌うのはなぜですか? 海外のリスナーに届けたいという動機でしょうか?

Kevin:「この曲は英語っぽいよね」「この曲は日本語っぽいよね」みたいな感じですね。歌詞が先の曲はないので。海外のリスナーに届けたいというのももちろんあります。やっぱり自分たちが海外の音楽から影響を受けてきたので。

及川:でもまあ日本語でも曲がよければ海外でも聴かれると思う。だから、絶対にこうっていう決め方はしなかった。

3月24日にはライヴが控えています。それに向けての意気込みを、お願いします。

及川:ひさしぶりにバンド・セットをやるので、気合いが入っています。すごく楽しみです。

Kevin:ひさびさに一緒にできるっていうのがやっぱりすごく楽しみですし、自分たちが楽しんでる姿をお客さんに見せられるのはすごく幸せなことだと。見せたいですね、ぼくらのヴァイブスを。

今後はどういうバンドになっていきたいですか?

及川:「こういう音楽をやっていきたいです」っていうのはないんですけど、音楽的には作品ごとに絶対変わっていくと思います。あとは世界じゅうでライヴをしたいですね。

Kevin:世界に通用するバンドになりたいな。

及川:結成のときも、Kevinの「グラミー獲りたい」って話からはじまってるので(笑)。

Kevin:だからグラミーにつながる道筋をたどっていけたらいいなと思います。

[ライヴ情報]
2025.03.24 Mon
Roomies
@BLUE NOTE PLACE, Tokyo

Open/Start
18:00/1st stage 19:00, 2nd stage 20:15
※ 2stages with intermission (cafe time)

Performance
Roomies

Kevin (vo)
Yuichiro Takahashi (g)
Wataru Saito (p)
Sosuke Oikawa (synthesizer)
Taihei (ds) *support member
Takayasu Nagai (b) *support member

Further Information
https://www.bluenoteplace.jp/live/roomies-250324/

♯12:ロバータ・フラックの歌 - ele-king

 書かなければならないと思い、彼女が亡くなってもう3週間が過ぎようとしている。ロバータ・フラックのすべてを聴いているわけではないし、彼女について書く以上は“歌”について、 “愛” について書くことになる。果たして自分にそれができるのだろうか……。できなくても書くべきだろう、と自己問答。フラックは去る2月24日に他界した。ぼくには、彼女のカタログのなかに特別な感情を抱いている曲がある。素晴らしい曲で、歌人を気取って言えば、その歌、こよなるべし、だ。シンプルだが重厚で、エレガントだが突き刺さるものがあり、激しさを秘めた静的な緊張感において並外れている。まさに歌の勝利、ラヴ・ソングというものの奥深さだと思う。
 その歌“The First Time Ever I Saw Your Face”の、“愛は面影の中に”という歌謡曲めいた邦題は適切とは思えない。フラックのデビュー・アルバム『ファースト・テイク』(1969年)に収録され、3年後に大ヒットとなったこの曲(クリント・イーストウッドの最初の監督作品に使われた)は、ユアン・マッコールという、1960年代の英国の第二次フォーク・リヴァイヴァルの土台が形成される過程において重要な働きをした人物が1957年にアメリカのフォーク歌手、ペギー・シーガーのために書いた曲である。
 聴きくらべればわかるように、マンチェスター出身の筋金入りのマルクス主義者、その政治活動ゆえに当局から監視までされたイギリス人が書いて若いアメリカの白人女性が歌った曲を、フラックは彼女のなりの解釈において、ほとんど哲学的解釈も可能なタイムレスなポップ・ソングにしている。
 テンポが落とされたフラックの“The First Time Ever I Saw Your Face”では、最初に耳にこびりつくのは「The first time〜(初めて/最初に)」という伸ばされた音符で歌われるこの言葉だ。フラックはこの曲のなかの「初めてあなたの顔を見た」「初めてあなたの口にキスをした」「初めてあなたと横になった」と、いくつもの「初めて」をさりげなく印象づけながら歌を進行させている。あるミュージシャンはこの曲を聴いて「愛が爆発するのを感じた」と語っているが(*)、それでは不充分だ。この美しい曲から「愛の爆発」を感じるのはわかる。が、しかし「初めて」が強調されている点において、同時にこの曲には「死のはじまり」も暗示されている。なぜなら、「初めて」の世界が太陽が昇るほど強烈であるのなら、その後に連なる「初めて」ではない二回目以降の世界は色あせてしまうことになるからだ。“The First Time Ever I Saw Your Face”から広がる崇高なロマンティシズムにおける避けがたい悲しみは、そのパラドックスにあるのではないだろうか。
 それが愛の本質かどうかは、ぼくにはわからない。ただ少なくともこの曲においては、「暗闇と果てしない空に、月と星はあなたがくれた贈りもの」と歌うときのフラックが、「暗闇に(to the drak)」という箇所を印象づけているように、はじまりの太陽はいつか暗闇に戻されてしまうのだ。

 はじまりの強度が特別であるということは、ゆえにその後の強度は落ちていくと、それを前提に話を続けてみよう。人生をロマンティックに生きるには、そのリスクも引き受けようとするか、さもなければ、なるべく失敗のないと思われる人生を選ぶか、人はどちらを選択するのだろう。失敗の確率が少ない、予測可能な人生を楽しむために必要なものは消費文化である。
 フラックは、最初はアメリカの黒人ゴスペル・フォーク・デュオ、ジョー&エディによる1963年のカヴァー( 曲名は“The First Time” )で同曲を知り、1962年に初めてレコード化されたペギー・シーガーのヴァージョンはあとから知った。この曲は、ほかにも多くのカヴァー──ロマン主義文学で自らの人生を締めたマリアンヌ・フェイスフルからジャマイカのマーシャ・グリフィス、ピーター・ポール&マリー、はてや王様エルヴィスまで──があるのだから、やはり歌いたくなるメロディであり歌詞なのだろう。曲を作ったマッコールは写真で見るとなかなか洒脱な男だが、彼が自分の人生を消費文化とは無縁な、いや、消費文化を全否定しながら、しかし酒をかっくらっては人びとと一緒に歌を歌い、政治と音楽と恋に生きた人物である。そのことを思えば、“The First Time Ever I Saw Your Face”という歌にも、言葉は簡素だがマッコールにとっての生きることの意味が込められていたのではないかと、そんな見立ても許されよう。

 ユアン・マッコールには本名があり、ジェイムズ・ミラーという。なぜ改名したのかと言えば、第二次大戦中、彼はイギリス軍から脱走し、身を隠したからである。スコットランド人で社会主義者の両親をもつマッコールの、育ちはマンチェスターのサルフォード。ジョイ・ディヴィジョンやハッピー・マンデーズのメンバーの出身地としても知られるかの地は、労働者階級の町でもある。1915年に生まれ、14歳で学校を中退したマッコールの教養は、そのほとんどすべてがマンチュスター中央図書館に通って独学で得たものだった。若くして左翼活動に奔走し、最初は演劇によって表現活動をはじめた彼は、それから民衆の音楽=フォーク・ミュージックにも熱意を抱くようになる。
 周知のように、20世紀の初頭、セシル・シャープがイギリスの田舎に口承されてきたフォーク・ソング(民謡)を収集し、研究し、発表したことが、フォーク・ミュージック復興運動リヴァイヴァルをうながした最大の要因である。権威や制度のなかで保存されてきた音楽ではない、民衆のなかで歌い、踊り、伝承されてきた民謡に価値を見出すことは、資本主義や産業革命に疑念を抱き、田舎の文化を賞揚することでもあり、政治的には左派だった。じっさいシャープは、19世紀末のウィリアム・モリスのケンブリッジ大学での講義を受けたひとりである。
 しかしながら、シャープにはじまるフォーク復興運動にはじっさいの民衆とは離れたエリート主義的な側面があった。また、1930年代になると、民俗や農村に英国のアイデンティティを求める動きは保守的な右派との繋がりを見せはじめていく。したがって、「これじゃあまずい」と文化闘争に発展するのも当たり前で、フォーク・ミュージックとは文化エリートの許可なしに歌い踊る、文字通りの「people’s music」であるべきだと主張する新しい解釈が第二次大戦前に顕在化するのだった。当時の若いマルクス主義たちがフォーク・ミュージックと合流するのはこの機運においてであって、ユアン・マッコールはその代表的なひとりだった。
 マッコールにとってフォーク・ソング(民謡)とは、「人びとの音楽(people’s music)」である以上、農村だけのものではない。工場や鉱山、鉄道などでも歌われる歌=インダストリアル・ソングもフォーク・ソングである。マッコールはそれらにも耳を傾け、収集し、自らも “左翼のための” 歌を作った。ちなみに、ある鉱山労働者から教えられ、マッコールが記録し、本にまとめ、そして有名になった歌のひとつに“スカボロー・フェア”がある。また、マッコールが作った“ダーティ・オールド・タウン”はポーグスを通じて、日本でもお馴染みだ。英国では、“マンチェスター・ランブラー”という歌もよく知られているマッコール作のひとつで、これは平日身を削る思いで働く労働者たちが、日曜日には(ブルジュワジーが暮らす)田園地帯にピクニックに行って楽しむという、階級闘争めいた内容をウィットに描いた歌だ。ほんと、イギリスって国の大衆文化の良き部分は、マッコールがこの曲を書いた1930年代から、いや、それ以前から基本的なところは変わっていない。

 ユアン・マッコールは、活動家としてはハードな人生を歩んだかもしれないが、演劇もやって放送作家もやって、多くのインダストリアル・フォークを収集し、自らも多くの曲を書いたディレッタントで、そして恋多きロマンティストでもあった。20歳年下のペギー・シーガーとは、彼女が1956年に渡英した際に出会っている。アメリカに帰国後、ペギーから彼女が出演するラジオ番組のために至急曲を作って欲しいと言われたマッコールは、共産党員だった過去からアメリカに入国できないため、電話を通じて作ったばかりの“The First Time Ever I Saw Your Face”を彼女に伝授したのだった。
 話は少し逸れるが、ピート・シーガーという、アメリカにおけるフォーク・リヴァイヴァルの起爆剤にして抗議運動とフォークを結びつけたプロテスト・ソングの先駆者を異母兄弟に持つペギー・シーガーとマッコールとの繋がりは、英国内において、社会的抗議音楽としてのフォークに再配置しようとする風潮と無関係ではない。
 アメリカに、アラン・ローマックスという民謡収集家/民俗学者がいた。広く言えば、かつてセシル・シャープが渡米してアパラチア山脈を調査し、フォーク・ソング(民謡)を収集したことの継承者のひとりになるのだろうが、ローマックスは、これまた筋金入りの共産主義者で、デルタ・ブルースをはじめ、都会の「生きた伝承」=ナイトライフ・ブルースから刑務所で歌われている歌、貧しい黒人家庭や酒場に積まれたアセテート盤にも着目した。そんな人物が、1940年代にはすでに影響力のあったピート・シーガーと合流したことで、フォークないしはブルースに抗議行動や急進的な政治との接点が誘発される(***)
 赤狩りのリストに名前が記載されたアラン・ローマックスが渡英したのは、マッカーシズムが台頭した1950年だった。それから8年にも及んだ滞在期間中、ローマックスはおとなしく過ごしていたわけではない。「イギリスのフォーク・リヴァイヴァルを燃え上がらせたエネルギーの雷のような人物」(***)と形容されるほど、アンダーグラウンド・シーンに深く関わり、マッコールとも交流を深めている。ペギー・シーガーを英国に呼んだのは、言うまでもなくこのアラン・ローマックスだった。

 ロバータ・フラックのもっとも有名な曲に“ Killing Me Softly with His Song”がある。おそらくは片思いの歌であり、また、歌というものの感情的な威力を歌った、言うなれば歌についての歌でもある。この壮大なバラードは、1996年にフージーズが取り上げし、ローリン・ヒルが歌い、大ヒットしたことが引き金となって、よくよくネオソウルの基礎を築いたと言われているが、そもそもこれはフラックのハイブリッド志向が導いたものだろう。彼女は、ブラック・パワーの時代に黒人の土着性だけに囚われず、クラシックからブロードウェイ・ミュージカルの要素まで取り入れている。そもそもオペラ歌手になりたくてハワード大学を卒業したフラックだった。夢は挫折し、教職につきながら副業としてナイトクラブで演奏するようになった彼女は、大学時代に学んだクラシックの技法を自分の演奏に活かした。
 またフラックは、“The First Time Ever I Saw Your Face”に限らずほかにも白人のロック/ポップスをカヴァーしている。ボブ・ディランの“Just Like a Woman”は女性アーティストとしては初のカヴァーだったし、ジミー・ウェッブの“What You Gotta Do”、サイモン&ガーファンクルの“明日に架ける橋(Bridge over Troubled Water)”、キャロル・キング作曲の“Will You Love Me Tomorrow”……、それからビージーズの“To Love Somebody”まで歌っている。そのすべてが原曲にはないニュアンスを込めた、彼女の解釈による歌となっているのだけれど、ぼくとしてはレナード・コーエンの“Suzanne”をライヴ・アルバムの締めとして歌ったことが興味深い。コージー・ファニ・トゥッティをも魅了し、ニーナ・シモンのカヴァーでも知られるこの曲は、なかば幻想的かつ宗教的な歌詞で、ひとを愛することのトランスグレッシヴな状態を表現していると言えるような不思議な曲である。
 フラックはニーナ・シモンと違って、ラングストン・ヒューズやジェイムズ・ボールドウィン、ストークリー・カーマイケル、そしてロレイン・ハンスベリー(ブロードウェイのヒット作を手がけた初の黒人女性作家)のような公民権運動/ブラック・アート/ブラック・パワーの渦中にいたような傑出した人物との出会いはなかったかもしれないが、ユージン・マクダニエルズのような公民権運動に影響を受けた気骨ある黒人作曲家のレパートリー──“Reverend Lee”や“Feel Like Makin' Love”、そして完璧なプロテスト・ソング“Compared To What”など──を歌っている。名作『クワイエット・ファイア』においては、あのスリーヴのアフロヘアの写真そのものが政治的表明になっている。フラックは、ゴスペルから来たアレサ・フランクリンの超強力な歌唱力や、のちにニック・ケイヴから「神のよう存在」とまで言われたニーナ・シモンの憤怒を内包したヴォーカリゼーションのまえでは、ある向きからは「ムード音楽」なるレッテルを貼られてしまうほどソフトに思われたかもしれないが、黒人といえばジャズ・シンガーかR&Bシンガーと思われた時代のフラックの雑食性は、フュージョン的なるもののヴォーカル版というか、分類を拒むという意味では未来的だった。フラックとのデュオでも有名な、彼女と同じくハワード大学でクラシックを学んだダニー・ハサウェイもブラック・アート/ブラック・パワーの精神に共鳴しながら西欧音楽も研究し、自作にその要素を取り入れたミュージシャンだった。同時代のデトロイトではファンカデリックがブラック・サイケデリック・ロックを更新し、アフロ・フューチャーへと向かっている。ローリン・ヒルばかりか、エリカ・バドゥや最近ではソランジュのなかにもフラックからの影響を見ることができるとしたら、やはり彼女は進んでいたのだろう。2020年にはジェイムズ・ブレイクも“The First Time Ever I Saw Your Face”をカヴァーしているが、手本としたのはフラックのヴァージョンだと思われる。

 だが、重要なのはそこではないのだ。カニエ・ウェストだってフラックの曲をサンプリングしているのだからフラックはいまでも有効である、などという軽口を叩きたくはない。「ソウル・ミュージックとは、人間として、自分の人生は他人の手に委ねられているという紛れもない事実に対する、アメリカが生み出した最高の脚本に他ならない」と言った人がいる(**)。咀嚼すれば、生きるための脆弱性を前向き変換する力。共生の感覚。なるほど、その意味はぼくにも理解できるし、ある時代までのブラック・ミュージックにおけるラヴ・ソングの意味を理解するうえでは、納得のいく説明だ。その文脈において、フラックはマッコールの曲をソウル化している。いや、マッコールの原曲がそもそもソウル化されていたのかもしれない。
 数年前、『クワイエット・ファイア』と『チャプター・トゥー』の50周年版が配信でリリースされて、前者にはボーナストラックとしてビートルズの“Here, There, And Everywhere”のジャズ解釈と言えるような当時のカヴァーが収録されていた(ビートルズのカヴァー集『Let It Be Roberta』には同曲の1972年のライヴ演奏がアルバムの最後に収録されている)。ドラマティックな歌唱を特徴とする彼女がこの曲においてもっとも強烈に歌うのは、原曲ではポールがたんたんと歌っている「love never dies」というフレーズである。それを歌うときのフラックは激しく、一瞬ではあるが、反逆的である。
 ロバータ・フラックは「愛は歌だ」と語っている(*)。歌が愛ではなく、愛が歌……か。わかるようでいてわからない。が、わかるような気がする、ロバータ・フラックを聴いている限りは。

(*)
Remembering Roberta Flack: The Virtuoso
https://www.npr.org/2020/02/10/804370981/roberta-flack-the-virtuoso

(**)
Emily J. Lordi, Donny Hathaway Live, Bloomsbury, 2016, p39

(***)
Rob Young, Electric Eden Unearthing Britain’s Visionary Music, Faber and Faber, 2010, p113~p146

※ちなみにペギー・シーガーのヴァージョンも素晴らしい。このYouTubeの画像に出てくるヒゲの男がユアン・マッコールである。ペギーとマッコールは、初めて知り合った1956年から80年代にかけて、40枚ほどの共作アルバムを発表している(そのなかにはもっとも初期の、1960年に作られた反核ソングも含まれている。また、ペギーの方は60年代にフェミニズム運動のアンセムをいくつも書いている)。なお、ペギー・シーガーは、87歳になった2023年にも“The First Time Ever I Saw Your Face”を「愛と喪失の曲」として歌っている。これもまた素晴らしいヴァージョンだ。しかもこのヴァージョンは、それこそ「初めて(The first time)」と歌って終わっているのである。

別冊ele-king ゲーム音楽の最前線 - ele-king

ゲーム音楽はいまこそ面白い!
現在進行形のみずみずしいゲーム音楽を大特集!!

●表紙・巻頭:『SILENT HILL 2』──傑作と名高いホラー・ゲーム、注目のリメイク版を掘り下げる
●最前線はオンラインにあり!──話題沸騰のNintendo MusicからSpotify、Amazon、Apple、YouTubeにBandcampにSoundCloudに、Steamからitch.ioまで、各サーヴィスを徹底比較
●ディスクガイド──押さえておきたい2024年のベストな100枚
●大嶋啓之(『天穂のサクナヒメ』『アクセル・ワールド』)やたなかひろかず(『MOTHER』「めざせポケモンマスター」)ら作曲家のインタヴュー、カスタリアオーディオに聞く中国のゲーム音楽事情、注目のゲーム音楽レーベル紹介など、盛りだくさんでお届け!

執筆:田中 “hally” 治久、DJフクタケ、糸田屯、井上尚昭、市村圭、魚屋スイソ、福山幸司

菊判/160頁

目次

巻頭言

■特集『SILENT HILL 2』
[座談会]蘇るホラーゲームの金字塔──新たな考察を促すリメイク版の裏設定: 岡本基×伊藤暢達×山岡晃
[コラム]『SILENT HILL 2』の革新性──映画と文学とインディーゲームが交錯する場 (福山幸司)
[インタヴュー]ノイズがないことが正解ではない──コンポーザーの山岡晃が『SILENT HILL 2』にかける想い

■最前線はオンラインにあり! 配信サービス徹底比較
Nintendo Music
大手サブスクリプション・サービス
YouTube
Bandcamp
ゲームソフトのダウンロード配信サイト
その他のサービス

■2024年ベスト100
押さえておきたい2024年のゲーム音楽100選
ゲーム周辺曲ディスクガイド2024──ゲーム原作メディアミックスの世界

■いま、このひとに訊きたい
『MOTHER』から『ポケモン』主題歌、そしてチップチューンへ──たなかひろかずという「いきざま」
民族音楽やエレクトロニカを独自に消化する作曲家──『天穂のサクナヒメ』大嶋啓之インタヴュー
中国ゲーム音楽のこれまでとこれから──カスタリアオーディオのショーン・チュウ氏に聞く当地の最新事情

■注目のゲーム音楽レーベル紹介
SweepRecord
USM邦楽
ウェーブマスター
CASSETRON
クラリスディスク
iam8bit japan & asia
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[監修者プロフィール]
田中 “hally” 治久
ゲーム史/ゲーム音楽史研究家。チップ音楽研究の第一人者で、昨年10月に最新刊『ゲーム音楽はどこから来たのか──ゲームサウンドの歴史と構造』を上梓。その他の主著に『チップチューンのすべて』、監著に『新装版 ゲーム音楽ディスクガイド1』ほか。さまざまなゲーム・サントラ制作に携わる傍ら、ミュージシャンとしても活動しており、ゲームソフトや音楽アルバムへの楽曲提供を行うほか、国内外でDJ・ライブ活動も展開している。

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「土」の本 - ele-king

地球も、私たちの体も、過去も未来も、
すべて「土」の上に成り立っている!

「土」ってなんだ!? 土の博士がお話しします。

半世紀以上「土」を研究してきた日本の土研究の第一人者、
土壌微生物/農学博士の金澤晋二郎の単著がついに刊行!

●「土」の問題がなぜここまで重要か
●良い「土」と悪い「土」とは何か
●「土」が生活にもたらす影響
●「土」と健康の重要な関係
●日本ではどこの「土」が良いのか
●どうすれば「土」をよくできるか
●江戸時代、どれほどの苦労があって東京で野菜を栽培できる土壌にしたか
●宇宙農業とは何か

写真、イラスト、図表を交えて実践的でわかりやすく解説!

「研究のために土を掘って、研究室に持ち帰って調べてみると、土壌一筋60年の私でさえ毎回驚く発見があります。土は私たちの知らない無限の可能性を秘めた未知の世界です。この土と微生物に魅せられた1人として、生命を支える18センチの土を絶やすことなく、豊かに育んでいくことが私の使命のひとつです」(金澤晋二郎)

四六判/240頁+別丁8頁

[著者プロフィール]
金澤晋二郎
株式会社金澤バイオ所長。土壌微生物学農学博士、中国河南省科学院名誉教授、九州バイオリサーチ研究会会長。1942年北海道小樽市生まれ。東京大学大学院農学系研究科修了。鹿児島大学農学部助教授、九州大学大学院農学研究院教授を経て、2016年に金澤バイオ研究所を設立。日本土壌肥料学会学会賞(1986年)、第13回 国際土壌科学会議(西ドイツ)土壌生物部門最優秀賞(1986年)、愛・地球賞―Global 100 Eco-Tech Awards(1986年)、第13回 微量元素の生物地球化学会議『福岡観光コンベンションビューロー国際会議開催貢献賞』(2017年)など受賞歴多数。

目次

献辞
はじめに
イントロダクション

第一章 「土」の誕生と微生物
第二章 世界の「土」と、日本の「土」
Column 「温故知新」が導く御神木 “海岸黒松” の再生技術
第三章 「森」は生命の源
Column 竹には大きな未来がある
第四章 「土」の薬膳
Column 土ピープル
微生物視点から見る、土と体のつながり/土から育つバラへの思い/植物愛による、生誕土壌再生への挑戦
第五章 土壌研究と緑茶栽培
Column アートで表現する土
第六章 「土」に還すコンポストの可能性
Column 地産地消コンポストシステム
第七章 物質循環、分解のその先へ
第八章 宇宙農業の可能性

おわりに
謝辞
主要な研究と内容

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第二回 ボブ・ディランは苦悩しない - ele-king

『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』

監督:ジェームズ・マンゴールド『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』『フォード vs フェラーリ』
出演:ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、エル・ファニング、モニカ・バルバロ、ボイド・ホルブルック、ダン・フォグラー、ノーバート・レオ・バッツ、スクート・マクネイリー
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
北米公開:2024年12月25日
原題:A COMPLETE UNKNOWN
©2025 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
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 小学生の頃、親に連れられて、ガロの解散コンサートを観に行った。 “一枚の楽譜” という曲が好きでそれを楽しみにしていたのだけれど、当日はそれよりも “学生街の喫茶店” という曲が一番受けていた。客席の雰囲気というものを初めて経験し、大人たちにとってはガロといえば “学生街の喫茶店” なんだと理解できたものの、シャープでスピーディーな “一枚の楽譜” と違って “学生街の喫茶店” は童謡みたいで小学生の僕にはあまりぴんとこなかった。ところが「片隅で聴いていた ボブ・ディラン」という歌詞が頭に残り、「ボブ・ディランというのは誰なんだろう」という疑問がその後もついて回るようになった。ボブだから人の名前だよなと思い、文脈からして音楽家だろうとは思ったけれど、クラシックなのかポップスなのか、それ以上は見当もつかなかった。ボブ・ディランの曲を初めて耳にしたのは高校に入ってからで、ラジオから不意に流れてきた “Hurricane” のダミ声が心に残り、少し考えてから( “Hurricane” を収録した)『Desire』を買ってみた。モザンビークの独立だとか神話上の人物と結婚するとか、自分にとっては目新しい題材の歌詞が多く興味深くはあったけれど、音楽的にはあまり惹かれず、それ以上の興味は持てなかった。スペシャルズが “Maggie's Farm” を、XTCが “All Along the Watchtower” をカヴァーしていたり、デヴィッド・アレンが “Death of Rock” でロックの歴史を振り返りながらボブ・ディランだけ3回も名前を連呼するほど特別扱いしていなければ本当にそれ以上の興味は持たなかったかもしれない(RCサクセションの “いい事ばかりはありゃしない” が “Oh, Sister” を参考にしているとは、その頃はまるで気がつかなかった)。パンクやニューウェイヴがデザインのセンスを一新してしまったことも大きく、『Desire』に続いてリリースされた『Street Legal』のデザインがダサ過ぎて、それもまた興味が膨らまなかった一因だった。

 『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』はボブ・ディランのデビューからニューポート・フォーク・フェスティバルで大ブーイングを浴びるまでを扱った作品。監督は『フォードvsフェラーリ』や『LOGAN/ローガン』のジェームズ・マンゴールド。『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でがジョニー・キャッシュとジューン・カーターの激しいラヴ・ストーリーを主軸に置いたのと同様、ここでもマンゴールドはボブ・ディランとスージー・ロトロによるラヴ・ストーリーに大きな比重を置いている(中絶というエピソードを避けたかったのか、スージー・ロトロはシルヴィ・ルッソという名前に変えられている)。ボブ・ディランを演じたティモシー・シャラメはまるでボブ・ディランそのもの……と絶賛したいところだけれど、どのシーンをとってもボブ・ディランの気持ちが伝わって来ないため、中盤をすぎても挫折のないサクセス・ストーリーにはなかなか引き込まれず、シャラメの顔がマーク・アーモンドに似ていることもあって、個人的には「ポール・アトレイデに続いてボブ・ディランを演じているティモシー・シャラメ」という認知バイアスから最後まで脱却できなかった。ボブ・ディランの熱心なファンであればおそらく……ボブ・ディランそっくりに見えたのだろう。シャラメの歌は完成度が高くて説得力もあり、トム・ヒドルトンのハンク・ウィリアムズは超えたかも。

 ウィノナ・ライダーの人気が凋落するきっかけとなった『17歳のカルテ』や、前述した諸作でもマンゴールド作品のオープニングはたいてい主人公が自動車に乗っているシーンから始まる。『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』もディランがバスに乗ってニューヨークに向かうところから始まる(『3時10分、決断のとき』や『ナイト&デイ』などもちろんそうではない作品もある)。『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」はバスがすでに刑務所の前に止められていてジョニー・キャッシュの演奏は始まっているものの、誰かが自動車でどこかへ向かうと物語が動き出すという構造は共通していて、バスを降りたボブ・ディランが「目的地を通り過ぎているよ」と言われるのはその後の彼の人生をうまく言い表した言葉にもなっている。ニュージャージーまで引き返したところでディランは病室のウッディ・ガスリーと見舞いに来ていたピート・シーガーと出会い、デビューへの足がかりが開けていく。ピート・シーガーを演じたエドワード・ノートンは柔和な老け顔が実に板についていて、キャリア初期に多重人格や密売人や奇術師などエキセントリックな悪役ばかりやっていたことがウソのよう。

 一方、エル・ファニング演じるシルヴィ・ルッソは活動家ではなく画家という設定に変えられ、存在感がやや薄められている。セカンド・アルバム『The Freewheelin' Bob Dylan』のジャケットでディランと身を寄せ合っているスージー・ロトロはディランにランボーやブレヒトのことを教えるなどディランの作詞に大きな影響を与えたとされているにもかかわらず、その辺りはほとんど触れられていない。ルッソはなんとも飾り気がなく、60年代から70年代にかけて珍しくなかった女性のライフ・スタイルを上手く再現していて(いま同じ格好をするとノーメイク、ノーブラの「干物女」と呼ばれてしまう)、ディランとの同棲生活も甘ったるいムードが欠如しているところはなんともそれらしい。ルッソはフォーク復興運動の拠点となっていた教会で初めてボブ・ディランと出会う。運命的な出会いに意味を持たせるシーンにもかかわらず、このシークエンスだけが黒人たちを音楽文化の主体として描いたシーンでもあり、ギリギリのところでホワイト・ウォッシュになることが回避されている。リトル・リチャードについてボブ・ディランが言及したり、ラジオでブルース・マンと即興でセッションするなどディランの音楽には黒人文化の影響があったという描写もなかったわけではないけれど、それ以上にニューポート・フォーク・フェスティバルの会場は白人たちで埋め尽くされ、グルーピーもマネージャーもプロデューサーもすべて白人で、音楽業界は白人だらけ、悪くいえば教会でテープに録った黒人たちの伝統音楽を白人が奪って白人の文化につくり直しているプロセスが「フォーク復興運動」に見えてしまう作品なのである。それこそポール・グリフィンがいなければディランのバック・バンドも白人だらけで目も当てられなかったかもしれない(これも途中から入ってきたアル・クーパーにいいところは持って行かれてしまう)。そういえばピート・シーガーの妻が日本人だったことは僕は知らなかった。そういう意味ではアジア系のプレゼンスは示されていた。

 どのシーンをとってもボブ・ディランの気持ちがまったくわからないのとは対照的にルッソの戸惑いや悲しみはダイレクトに伝わってくる。ルッソと名前を変えている時点で彼女の存在はフィクションであり、ボブ・ディランが苦悩したり、喜怒哀楽を一度も示すことがないのは故意に演出されたことで、他人から影響を受ける場面は意図的に消し去られているのだろう。ルッソにディランが依存している場面がぜんぜんない上に、どの場面でもディランが天才的に振る舞い、なにひとつ失敗がないので、ルッソの問いに答えてディランが自分を神様だと思っていると話す場面では思わず「カニエ・ウエストか!」とつっこんでしまった(監督のカットがかかってからエル・ファニングとティモシー・シャラメが爆笑したと思いたい)。スージ・ロトロとボブ・ディランの関係はちなみにフィリップ・K・ディックとクレオ・アポストロリデエス(『アルべマス」のレイチェルなど)が「共産主義の影響下で行動する女性とそれを受けて思索する男性」という組み合わせだったことを思い出させる(公民権運動にコミットしたディランに対してディックは執筆活動を中止してベトナム反戦にのめり込む)。

 ボブ・ディランの描き方はどこかで見た覚えがあると思ったら日本のTVドラマによく出てくる男性たちの振る舞いだと思った。多くを語らず、独りよがりで、自分を周囲に合わせる気がまるでない。ディランだからそれが許されるというレイアウトに従って、ルッソ同様、中盤以降はジョーン・バエズ(モニカ・バルバロ)もピート・シーガーも気持ちいいほどディランに振り回され、周囲が傷心を余儀なくされる場面の連続となっていく。ディランにとって恩人であるはずのピート・シーガーがここまで雑巾のように扱われるとは思わなかったけれど、エドワード・ノートンの表情があまりに情けなく、それはブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンにノートン演じる「僕」が翻弄される『ファイト・クラブ』の役柄と重なってしまうほどであった。そう、『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』を観て『ファイト・クラブ』を思い出すとは思わなかったけれど、『ファイト・クラブ』というのは70年代に爆破活動を繰り返したテロ組織、ウェザーマンが90年代の「僕」に強迫観念として取りつく作品で、「ウェザーマン(天気予報士)」という組織名はボブ・ディランの “Subterranean Homesick Blues” から「どっちに風が吹くか、それを知るのに天気予報士は必要ない(You don't need a weather man to know which way the wind blows)に由来すると思えば、それもまた妙な符号に思えてくる。

 ディランにとっては人よりも作品が優先なのである。表現がすべてに優先される。(以下、ネタバレというか解釈)ディランが何を考えているのかわからない。ディランの気持ちがまったく理解できないからこそ、ニューポート・フォーク・フェスティバルでディランが楽器をエレクトリックに持ち替えたことがどれだけのショックだったかということがこの作品を通じて追体験できる。少なくとも僕はそうだった。ディランの考えや気持ちが手に取るようにわかっていたら、きっとそうはいかなかっただろう。あるいはその後の歴史を知っているということがその場で起きることをストレートには直観させてくれなかったのではないだろうか。そういう意味ではディランについてなにがしかのことがわかっている人の方がこの映画は楽しめなかったはずで、自分がフェスの会場にいたらどう感じたのか、ボブ・ディランがポップ・ミュージックの歴史を書き換えたという認識は存在していなかった空間でディランの側に立つことはそれだけでもう失敗であり、ディランの行動を不可解なものとして感じさせるように冒頭から仕掛けてきた意味がなくなってしまったことだろう。僕はディランが楽器をエレクトリックに持ち替えたシーンが最初はとても暴力的に感じられ、「なんで!」と不快な気分になりかけた。監督が意図したほど「客や主催者を怒らせることで爽快な気分になる」ことはなく、しかし、曲が進むに連れて「わからないけど面白い!」という感情が湧き上がってきた。出演者でディランの暴挙を止めるどころか、背中を押したのがジョニー・キャッシュ(ボイド・ホルブルック)で、彼がディランをどう思っていたのか、そこはもっと描かれていてもよかったと思う。キャッシュを無法者として描く場面はあっても、彼がフォーク・フェスティバルでエレクトリックをよしとする根拠は説明不足だし、後にはデペッシュ・モードまでカヴァーする彼のモダンさがディランに影響したのか、しなかったのか、エレクトリックへの持ち替えをクライマックスとするなら、そこはもう少し描くべきではなかったかと(ちなみにジョニー・キャッシュがカヴァーした “Personal Jesus” はニナ・ハーゲンもカントリー・ソウル風にカヴァー)。

 『名もなき者』の原題は「A COMPLETE UNKNOWN」で、これを「まったくの無名」という意味で『名もなき者』という邦題にしたのだろう。しかし、作品を通して観ると「無名時代」と呼べるのは冒頭の数分だけで、ディランはすぐにもスターダムを駆け上がり、物語の大半は無名どころかディラン本人さえ知名度に振り回され、辟易とするシーンの方が長い。なので、「A COMPLETE UNKNOWN」は知名度を表すのではなく、まったく意味がわからないもの、それこそ「UNKNOWN」を教科書通りに「未知」と訳した方がいいのではないだろうか。「まるで意味不明」あるいは「お手上げ」とか、ディランを理解不能なものとして表現しているタイトルだと考えた方がしっくりくるのではないだろうか。境界性人格障害を扱った『17歳のカルテ』でリサ・ロウ(アンジェリーナ・ジョリー)がどうして暴力的に振舞うのか、あるいはアメ車がイタ車に戦いを挑む『フォードvsフェラーリ』でキャロル・シェルビー(マット・デイモン)やケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)がなぜそうまでスピードを出すことにこだわるのかさっぱりわからなかったように、意味不明な行動をする人間にマンゴールドは魅力を感じ、その磁場に観客も引きずり込んでいく。それこそ「THE」ではなく「A」なので、ディラン個人のことでさえないのかもしれないし、こういった人たちはわけがわからないからこそ語る価値があるというような。無茶な人たちがこの世界を前に進めていく。多様性を突き詰めたサーカスを始める『グレイテスト・ショーマン』しかり、考えようによっては『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』は、あからさまに「MAKE AMERICA GREAT」な『フォードvsフェラーリ』の流れを受けてトランプ時代を情緒的に肯定する作品だともいえる(両作は同じ60年代前半が舞台)。*3月5日付記--ショーン・ベイカー監督『レッド・ロケット』はトランプ時代の再来を批評的に予見した作品で、トランプが焦点化しない低所得層に光を当て続けたベイカーの新作『アノーラ』が『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』を抑えてアカデミー作品賞をとったのはなかなかに示唆的。

 僕がこれまでに観た数少ない音楽映画のなかで最も感心したのはグレン・グールドのドキュメンタリー映画『天才ピアニストの愛と孤独』だった。この作品だけがグールドは何者かという結論を出していない作品で、エピソードを並べれば並べるほどグールドという人が何者なのかわからなくなり、時に赤塚不二夫に見えたり、それもまた一面でしかなく、つくり手がもはや「わかりません!」と降参しているつくり方なのである。でも、そうなんだろうと思う。グレン・グールドとかボブ・ディランが何者であるかなんてそう簡単にわかるわけがなく、いくらでもわかった風な結論を与えて音楽映画というものはつくられがちである。『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』という作品はそういうつくり方はしていない。この作品は60年代前半のディランを語り尽くされたドラマとして再現しなかったことが快挙であり、ディランが頭を抱えて苦悩するシーンが1秒もないことを楽しむべきなのである。(2024年2月22日記)

R.I.P. Roy Ayers - ele-king

 クラブ・ミュージックを聴く者にとってジャズ・ミュージシャンと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、マイルス・デイヴィスでもジョン・コルトレーンでもなく、ロイ・エアーズだろう。それほどロイ・エアーズはクラブ・ミュージックと切っても切れないほど縁が深く、愛されてきたミュージシャンである。そんなロイ・エアーズが去る3月4日に亡くなった。長い闘病生活の末にニューヨークで家族に看取られて亡くなったそうで、享年84歳。2019年にブルーノートでライヴをおこなったのが最後の来日公演となったが、そのときは78歳ながら元気な姿を見せてくれていた。また、2020年にはエイドリアン・ヤングとアリ・シャヒード・ムハマドの『Jazz Is Dead』に参加し、その後も長く続くプロジェクトのきっかけにもなっていた。こうして現役の第一線で活躍していた彼がいつ頃から闘病生活を送っていたのかはよくわからないが、80歳くらいまでヴァイタリティに満ちた音楽生活を送れたのは彼にとって幸せなことだったろう。長く、そして濃密な音楽人生だった。

 ロイ・エアーズは1940年9月10日にロサンゼルスで生まれた。5歳のときにジャズ・ヴィブラフォンの祖であるライオネル・ハンプトンからマレットをプレゼントされ、ジャズ・ヴァイブ奏者の道を志す。1963年にピアニストのジャック・ウィルソンのグループでレコーディングをスタートし、そこでヴィブラフォン演奏の土台を築く。当時の西海岸はウェスト・コースト・ジャズの全盛期で、そうした中で自身のデビュー・アルバムとなる『West Coast Vibes』も同年にリリース。ジャック・ウィルソンが全面協力したこのアルバムは、“Out Of Sight” や “Ricardo’s Dilemma” という素晴らしいモーダル・ジャズを収録する。後年のユビキティ時代とは異なるロイのクールな魅力が詰まったアルバムだ。
 その後ニューヨークに移住し、フルート奏者のハービー・マンのバンドに加入。そして、マンが契約する〈アトランティック〉から1967年にリーダー・アルバムの『Virgo Vibes』を発表。チャールズ・トリヴァー、ジョー・ヘンダーソン、レジー・ワークマンらが参加したこのアルバムは、モードや新主流派といった1960年代のメインストリーム・ジャズの流れを汲むもので、こうした路線でハービー・ハンコック、ロン・カーターらと共演した『Stoned Soul Picnic』(1968年)、『Daddy Bug』(1969年)をリリースしていく。また、マンのグループで初来日した折、マン監修のもとカルテット編成で日本録音となるアルバムも発表している(ロイは日本のレコード会社と縁が深く、ユビキティ時代にも日本盤オンリーの『Live At The Montreux Jazz Festival』をリリースしている)。

 こうして正統的なジャズの道を進んできたロイだが、〈ポリドール〉へ移籍した1970年にジャズ・ファンクへ方向転換した『Ubiquity』をリリース。以後、このアルバムからグループ名をとったユビキティを率い、『He’s Coming』(1972年)、『Virgo Red』(1973年)、『Red Black & Green』(1973年)、『Change Up The Groove』(1974年)などをリリースしていく。ユビキティの屋台骨を担ったのは鍵盤奏者でアレンジャーのハリー・ウィテカーで、後にブラック・ルネッサンスのプロジェクトを興したことでも知られる人物だ。ほかにもフィリップ・ウー、エドウィン・バードソング、フスト・アルマリオ、ジェイムズ・メイソンなど多くのミュージシャンが参加し、またアルバムによってディー・ディー・ブリッジウォーター、シルヴィア・ストリップリンらのシンガーも擁していて、ロイは彼らをまとめるトータル・プロデューサー的な立ち位置であった。ユビキティではヴィブラフォン以外に鍵盤も演奏し、歌も歌うロイだが、自分が前面に出るよりもこうした仲間のミュージシャンたちをサポートし、バンド全体で音を聴かせる方向性を持っていた。

 モス・デフやケンドリック・ラマーらのサンプリング・ソースとして有名な『He’s Coming』の“We Live In Brooklyn Baby”に代表されるように、ユビキティ初期は硬質でアブストラクトなムードの漂う作品が印象的だったが、1975年の『A Tear To Smile』あたりからはグルーヴ感に富むダンサブルな楽曲が増えていく。ちなみにこのアルバムに収録された “2000 Black” は4ヒーローのディーゴがレーベル名にしたほどで、後世のアーティストにロイがいかに多大な影響を与えていたかを示している。
 一方、『Mystic Voyage』(1975年)や『Everybody Loves The Sunshine』(1976年)にはメロディアスでゆったりとしたミドル~スロー・テンポの曲があり、後にメロウ・グルーヴと称される。時代的にはディスコが始まった頃で、ロイはいちはやくそうした要素を取り入れるなど、時代を読む嗅覚にも長けていた。ユビキティ最終作となった『Lifeline』(1977年)の “Running Away” はガラージ・クラシックでハウス系DJのバイブルでもあるし(同時にア・トライブ・コールド・クエストやコモンらのサンプリング・ソースとしても有名)、ソロ名義の『You Send Me』(1978年)の “Can’t You See Me” や “Get On Up, Get On Down”、『Fever』(1979年)の “Love Will Bring Us Back Together” はブギー・クラシックとして、後年になっても長く聴かれ繋がれる。
 『Let’s Do It』(1978年)の“Sweet Tears”(『He’s Coming』収録曲の再演)は後にニューヨリカン・ソウルで自身も参加してカヴァーする。マスターズ・アット・ワークとは縁が深く、『Feeling Good』(1982年)の “Our Time Is Coming” も後年に彼らとコラボしてセルフ・カヴァーしている。ヒップホップ、ハウス、クラブ・ジャズ、レア・グルーヴなど、あらゆる方向のDJやクラブ・ミュージック・ラヴァーからリスペクトされたロイ・エアーズである。

1960年代、1970年代、1980年代と時代によって音楽性を変化させたロイだが、それは好奇心や探求心が旺盛だったことの表れでもある。1979年にアフリカ・ツアーをした際に前座を務めたフェラ・クティと意気投合し、『Music Of Many Colors』を制作する。1981年に『Africa, Center Of The World』をリリースするが、これはフェラ・クティとボブ・マーリーに捧げたもの。1983年の『Lots Of Love』収録の “Black Family” もフェラ・クティとの共演からインスパイアされたもので、アフロビートにラップ調のヴォーカルを乗せたスタイルという具合に、アフロビートやレゲエを柔軟に取り入れた時代もあった。

 ロイの功績としては、自身のレーベルある〈ウノ・メロディック〉を運営し、自分の作品以外にも様々なアーティストを世に送り出したことも挙げられる。シルヴィア・ストリップリン、エイティーズ・レディーズ、フスト・アルマリオ、エセル・ビティらが〈ウノ・メロディック〉出身で、“Daylight” やロイの “Everybody Loves The Sunshine” のカヴァーで知られるランプも彼のプロデュースによるものだ。後輩や後進に対して広く道筋を付けてくれたアーティストであり、前述のニューヨリカン・ソウル(マスターズ・アット・ワーク)やエイドリアン・ヤング&アリ・シャヒード・ムハマドとのコラボなどはその表れと言える。日本においてもクロマニョンが “Midnight Magic” という曲で共演するなど、ロイをリスペクトして共演やコラボする例は世界中に広がった。ロイはそうした申し出を快く引き受けてくれる懐の深い人物であり、多くの人から愛されたミュージシャンだった。

つねに思い出そうとする
ただ楽しい時間を過ごすことを
パンダ・ベア “Comfy in Nautica”

 海に向かって彼女が手を振っている。逆光で陰になっているが、その表情は微笑んでいるに違いない。ザ・ビーチ・ボーイズの“グッド・ヴァイブレーション”は、58年後のいま聴いても、驚くべきほど革命的なポップ・ソングであることがわかるのだから、当時としてはそうとうな衝撃だったことだろう。プロダクションにおける実験性もさることながら、ポップ界のチャーリー・ブラウンことブライアン・ウィルソンのユートピア的な思いが、もはや海、夏、サーフィン、車、女の子たち……といった10代の男子が思い描くその範疇にはおさまらない、より高次な、宇宙規模での愛らしきものとしても脈打っていると、そんなたわごとも言いたくなる。ザ・ビートルズからクラフトワーク、山下達郎からジーザス&メリー・チェイン、多くの音楽家を打ちのめしてきたのもむべなるかなである。

 ノア・レノックス、パンダ・ベアの名で知られるアメリカはバルチモア出身で、ポルトガルはリスボン在住のミュージシャンも、子供で純粋、という意味ではインディ界のチャーリー・ブラウンだったのかもしれないが、ネヴァーランドの住人ではなかった。大人になることを受け入れて、それを宣言したような曲も発表している(“My Girl”という曲である)。彼はまたウィルソンと同様、サイケデリアの扉を開けたひとりではあって、しかしウィルソンと違ってその部屋から出ていったようには思えない。レノックスはいまでもそこにいて音楽を作っている。大人になったいまも、そして離婚を経験したいまも。

 アニマル・コレクティヴとの出会い方にはふた通りの回路があった。ひとつの回路は、90年代からずっと、グランジのハイプに惑わされずに、オルタナ・カントリーをはじめ、USアンダーグラウンドで活況を見せていたインディ・ロックをしつこく追いかけていた連中である。
 もうひとつは、このバンドを世に広めた〈ファット・キャット〉経由だ。もともとは、90年代前半はコヴェント・ガーデンの外れの地下に店を構えるレコード店で、当初はロンドンにおけるデトロイト・テクノの拠点のような品揃えだった。〈Warp〉がまだレイヴに片足を突っ込んでいたころ、無名時代のAFXやB12のような音源は、この小さな店が中心となってプロモートした(そしてこの時代、ぼくは幸運にも「おまえここに住んでいると思っていたよ」と間違われたくらいに通った)。
 90年代後半、その目利きを活かしてレーベル事業をはじめた〈ファット・キャット〉は、ポスト・レイヴ時代における先導者のひとつとなって、ブレイクコア、ポスト・ロック、IDM、グリッチ……といった細分化されたアンダーグラウンドにおける起点となるような作品をいくつもリリースしている。そして、やがてはポスト・クラシカルでひと山当てるこのレーベルが先鞭を付けたのが、アニマル・コレクティヴであり、ヴァシュティ・バニヤンといった、当時としては新鮮に思えた「フォーキー」なサウンドだった。ぼくはこの流れでアニマル・コレクティヴを知り、聴いて、好きになったひとりである。
 好きになった最大の理由はその音響的な新鮮さにあったが、そこからくみ取れるポスト・レイヴのサイケデリアにおける喜びと、そして悲しみに心動かされもした。『キャンプファイア・ソングス』(2003)——あの酔っぱらった、いかれたフォーク・ソングが大好きだった。商業化されたレイヴよりも友人とキャンプに行ってたき火をしながら歌う方がたしかに楽しい。だが、しかし、その先に何があるというのか……それでもぼくは、ニュー・レイヴではなくこちらを選んだことにまったく迷いはなかった。

 そう、それでブライアン・ウィルソンが1966年に制作しながら幻となった『スマイル』の2004年版を、発売から数年後に聴いて「お、なんかアニマル・コレクティヴみたいじゃん」と思ったのだが、いやいや、周知のようにレノックスがザ・ビーチ・ボーイズに影響されているのである。とはいえ、レノックスが取り入れたウィルソン風のメロディラインとハーモニーには、ウィルソンが影響を受けたザ・フォー・フレッシュメン(50年代に人気を博した男性ヴォーカル・カルテット)のような透明感はない。初期はローファイで、賛美歌めいてもいたし、なんか違うのだ。チャック・ベリーからの影響を波乗りの感覚へと変換したグルーヴもない。が、その代わりと言ってはなんだが、キング・タビーやハリー・ムンディ(メロウなダブの達人)をはじめとする70年代ジャマイカの音響職人たちからの影響をレノックスなりの水中遊泳へと変換したかのような奇妙なウィアードダブ・サウンドがあった。
 〈ドミノ〉に移籍してからのアニマル・コレクティヴ/パンダ・ベアを特徴づけるのは、ソフト・トリップなサイケデリアの工作室とそのポップな展開だが、それは果たして手段としてのサイケデリアか目的としてのそれか、どちらなのだろうかと。ウィルソンにとってのそれが手段であったことは、“ゴッド・オンリー・ノウズ”のような曲で聴ける我が身を引き裂くほどの愛を聴けばわかるが、レノックスにとってのそれも、ユートピストとしての彼のヴィジョンを描くための手段である、とぼくは思っている。
 レノックスは、ザ・ビーチ・ボーイズの1965年の有名な歌詞のラインをそのまま音楽制作において実行しているかのようだ——つまり、“She Knows Me Too Well” で歌われる「ときには愛を伝えるのに、ぼくは奇妙ウィアードな方法をとってしまう」と。その奇妙さウィアードが彼のサイケデリアであって、だが、しかしその本質はレノックスが『パーソン・ピッチ』(2007)で歌っていることなのだろう、すなわち「つねに思い出そうとするんだ/ただ、楽しい時間を過ごすことを」と。

 もっとも彼は言葉のひとではない。じっさい昔のインタヴューで、歌詞やメロディよりもまずは土台となるサウンドを優先して作っていると話している。ソニック・ブームとの共作もそうだが、『パーソン・ピッチ』(2007)における水中めいた音響──サーフ音楽とダブ&テクノの融合、忘れてもらっては困るがここにはウラディスラヴ・ディレイら北欧ダブ・ミニマリズムからの影響も含まれている。『メリウェザー・ポスト・パビリオン』(2008)の冒頭における轟音とエーテル状のゆらめき、もちろん『トムボーイ』(2011)や『ブーイ』(2019)においてもそうだ。彼の奇妙なウィアード音響アイデアの具現化は、音響工作によるサイケデリアと説明できるだろう。
 『トムボーイ』の歌詞においてサーフボードを人生に喩えたように、レノックスの作品ごとのサイケデリアはその描き方であって、結果として描かれたものは、総じて温かく愛らしいものに溢れている。愛がなければ生きる価値はないと言わんばかりの1966年のウィルソンとパラレルな関係にあると言えるかもしれないが、そこには男子が夢見る夏も車も女の子もいない。そして、アッパーにはならず、かといってダウナーにもならない。 “My Girl” によれば、「欲しいものはあまりない。ゆるぎない魂と血と、小さな娘と伴侶と、生活できる住処が欲しいだけ」なのだ。

 「サイケデリック治療で奇跡的な結果が得られる人は多いのだから、探求する価値のある行為であることは間違いないね」と、レノックスはあるインタヴューで答えている。人生の暗い側面を追求した(我が愛しき)80年代のUKインディーズ——「ぼくが欲しいものはぼくが決して得られないもの。それは信頼できる恋人とベッド」——とは対照的に、パンダ・ベアの音楽はたとえ「幸せについての悲しい歌」であったとしても、人生を前進させようとする温さから離れない。その微笑みにイラつくことがないかと言えば、ぶっちゃけたところあるにはあるのだが、レノックスの柔らかさがいまもまだ欠如しているとしたら、この音楽は反時代的で、46歳になっても初心を忘れずにあらたな音響アイデアをひねり出していることにはあらためて敬意を表したいと思う次第である。
 新作『シニスター・グリフト』、「不吉な詐欺」なるタイトルのニュー・アルバムは、既述したように彼が「伴侶」と別れてからの作品で、人生の悲しみのなかで制作されているはずだが、またしてもここでブライアン・ウィルソン流の歌メロを引っ張り出している……そればかりか、アルバムを音響アイデア満載のポップス集としてまとめあげている。早い話、これまでのキャリアにおいて、もっともグルーヴィーなポップ・ソングと呼びうるもののレパートリーを披露しているのだ。人生の悲しみをポップスで乗り越える、うん、それはそれでひとつの哲学じゃないか。
 「ぼくの心は壊れる前に折れる」——アルバム冒頭の曲のこの痛々しい言葉は、60年代風の軽快なビートとメロディで中和され、その浮ついた曲調に少々面を食らうが、「小さな娘」をフィーチャーしたトロピカルな2曲目“Anywhere but Here”の陽光とダブの音響工作による心地良きゆるさにはまったく逆らえない自分がいる(『フロウ・モーション』期のカンのようだ)。同じことがペダル・スティールを効果的に使った“50mg”、ザ・ビートルズめいたキャッチーなサイケデリア“Ends Meet”にも言えるだろう。ぼくが思うに、前半の4曲はほとんど完璧な展開だ。
 後半のはじまり、レゲエのリズムを応用した“Just as Well”も悪くはないが、続く“Ferry Lady”におけるダブのアイデアが秀逸で、未練がましい歌詞とは裏腹のリー・ペリーめいた遊び心は、これまでもレノックスのソロ作ではたびたび顔を出しているとはいえ、その突出した成果だと言える。
 徒労感を露呈する歌詞とサウンドの“Venom's In”以降の2曲──“Left in the Cold”と“Elegy for Noah Lou”は、前半の明るさとは対極の冷たい洞窟で、しかし2003年あたりからレノックスの音楽を聴いているファンにしたら、俺たちのパンダ・ベアが帰ってきたと思うかもしれない魅惑的な曲でもある。ことにアルバムでもっとも長尺の後者は、あの素晴らしき『サング・トングス』における冬の冷たさのアンビエンスにリンクしているのではないかと。シンディ・リーが参加したクローザーの“Defense”は、『ピッチフォーク』の読者のためにあるわけではないだろうが(両者とも同メディアがフックアップした)、キラキラしたギターと力強いリズムをもったこの曲を聴いてからふたたび冒頭の“Praise”を聴いてみると、世界は違って見えるから不思議だ。

 ぼくがいちばん最初に好きになったアニマル・コレクティヴの曲は、“The Softest Voice(もっともソフトな声)”である。昔、たまにDJをやっていた頃、クラブでこの曲をかけたらいっきにフロアからひとがいなくなったことがある。「もう家に帰って、パジャマを着てベッドに入ろう」、クラバーたちはそう言われた気分になったのかもしれない。ノア・レノックスが20年以上ものあいだサイケデリック・ポップなるものを追求し、拡張させ、そこに新しいアイデアを放り込んでは忘れがたい作品を複数枚作ってきたことはじゅうぶん称賛に値する。ハードであることをぼくは決して嫌悪しているわけではないけれど、ハード・ロックの時代にソフト・ロックが軽んじられたように、ソフトなものはつねにハードなものに押しつぶされそうになる。サーフ・ポップをダブと接続することで切り開かれたサイケデリアは、じつはソフトなものにこそまだやれることがあるんだと言わんばかりに、我々の耳を楽しませ、心をざわめかせる。ノア・レノックスが暮らすリスボンは、ベルリンでは生活費が高くて住めないというボヘミアンたちが集まっている街である。美しい海もある。さあ、みんなで手を振ろう。

【蛇足】
パンダ・ベアのキャリアにおいて例外的な作品はふたつある。911直後に制作された『ダンス・マナテー』(2001)、そしてレノックスの父親の死が大きな影響をおよぼしている『ヤング・プレイヤー』(2004)だ。後者はファンのあいだでは人気作だが、ぼくは彼の作品で唯一ダークな前者もまったく嫌いではない。

Shinichiro Watanabe - ele-king

 昨年からお伝えしてきた渡辺信一郎監督による最新作『LAZARUS ラザロ』、カマシ・ワシントン、ボノボ、フローティング・ポインツという豪華な面子が音楽を手がけたことでも話題の同作だが、ついに放送開始日が決定している。4月6日(日)夜11時45分からテレ東系にて放送スタート、ほか各配信プラットフォームでも見られるとのこと。新たなヴィデオも公開されているのでチェックしておきましょう。3月7日(金)には新宿バルト9にて先行上映会が、3月15日(土)には第1話の無料先行上映会がアニメイト店舗で実施されるそうで、詳しくは公式サイトをチェック(https://lazarus.aniplex.co.jp)。
 なお、これを機にわれわれエレキングも特集号『別冊ele-king 『LAZARUS ラザロ』と渡辺信一郎の世界』を準備中です。お楽しみに!

Marta de Pascalis - ele-king

 マルタ・デ・パスカリスはベルリン在住のイタリア人コンポーザー/サウンド・デザイナー/シンセサイザー奏者だ。これまで《Berlin Atonal》や《Mutek》といったフェス、カフェ・オトなどでパフォーマンスをおこなってきた彼女は、『Quitratue』(2014)、『Anzar』(2016)、『Her Core』(2018)、『Sonus Ruinae』(2020)とコンスタントに作品も発表、なかでもカテリーナ・バルビエリ主宰の〈Light Years〉から送り出された最新作『Sky Flesh』(2023)は評判となり、日本でも多くのレコード店でソールドアウトになっているという。そんな彼女による来日公演ツアーが開催中です(巡業先は新潟、名古屋、加西、京都、大阪、東京)。お近くの方は足を運んでみよう。

【ツアースケジュール】
3月2日(日) 東京 落合 Soup
 イベント名//Electronication in Japan

 共演//SNH + Ayami Suzuki + Kyosuke Terada(VJ),Kurando, natsuehitsuji, Geoff Matters dj: Inqapool
3月8日(土) 新潟 ビュー福島潟
 イベント名//experimental rooms #47
 共演//福島麗秋山 + 福島諭 DJ: Jacob D. Fabregas
3月13日(木) 名古屋 Duct
 イベント名// Ante-nnA
 共演//KAMAGEN, Ek dui tin char, CazU-23 DJ: Ohasyyy VJ Yum
3月15日(土) 加西 Tobira Records
イベント名// in store show case vol.62
 共演//Perila, Computer Station, Daniel Majer, Kochou no Yume dj: Kaoru, nishihiroshi, RAlooE
3月17日(月) 京都 UrBANGUILD
 共演//立石雷、Krikor Kouchian dj: KJ Trypta
3月20日(木) 大阪 Environment 0g
 イベント名//Aural Execution for Argument
 共演//Ryo Murakami, 黒岩あすか + foreign.f + Dagdrøm, Vesparium Role dj: Zodiak, Junya Hirano
3月21日(金) 京都 外
 イベント名//Marina di Jodoji
 共演//Kazumichi Komatsu, Vís, 1729
3月26日(水) 東京 Forestlimit
 イベント名/ /K/A/T/O Massacre
 共演//TBA

Horsegirl - ele-king

 2018年あるいは19年、パンデミックが世界の様式を変える前にギター・バンドがクールなものだと再び知らしめた若者たちの熱は世界中に広がり、そうして発展していった。サウスロンドン・ウィンドミルでのインディ・シーンは言うまでもなく、アミル・アンド・ザ・スニッファーズを生んだメルボルンでもトゥワインやデリヴァリーなどエネルギーを感じるバンドが出てきているし、シカゴにはなんといってもハロガロのコミュニティがある。ノイ!の名曲 “Hallogallo” からその名を取ったというシカゴの10代の若者カイ・スレイターのジンの初号が出たのが21年のこと(80年代のパンクのジンに影響を受けたこのジンはタイプライターで書かれている)。ハロガロのホームページには「YOUTH REVOLUTION NOW」の素晴らしい文字が踊る。このカイ・スレイターがやっているプロジェクトが〈K RECORDS〉からアルバムが出る60年代のサイケ・ポップに影響を受けたようなシャープ・ピンズであり、所属しているバンドがティーンビートを体現したライフガードだ。ライフガードにはホースガールのペネロペ・ローウェンスタインの弟のアイザックがいて、ホースガールの最初のシングルを録音したのが少し年上のフリコのニコ・カペタンであって……とどんどんその輪が広がっていく。もともとはハロガロ・キッズと称する趣味の合う遊び仲間で友情を育みそれぞれに音楽を作っていたのだというが、パンデミックを挟みそれが理想的に大きくなった。ジンを作りTシャツを作りイベントを開催し、ビデオを撮り、ヴィジュアルを決める。音楽とそれ以外のものが結びついたDIY精神でのつながり、シカゴで、世界中で、音楽が好きな若者たちが自分の居場所があると感じられるコミュニティを作りたい、そうした思いがあったのだと彼らは言う。

 ホースガールはそんなコミュニティのなかで育まれそれぞれの感性を磨いていった。ギターとヴォーカルのノラ・チェンとペネロペ・ローウェンスタイン、そしてドラムのジジ・リースからなる3ピース・バンド、ペネロペの家の地下室で練習しソニック・ユースやクリーナーズ・フロム・ヴィーナスに憧れた音楽を奏でる。そうしてこの仲間内のクールなバンドが〈マタドール〉と契約し、DIY精神を持ったままで大きな場所に進出していったのだ。どうしたってそこに理想的なインディ・バンドのストーリーを夢見てしまうものだが、ホースガールはその期待に見事応えて見せてくれた。10代の高校生活のレコードだったと自ら評する1stアルバム『Versions of Modern Performance』は80年代や90年代のオルタナ・バンドへの愛に溢れていて、それが時を経た20年代の新しいギター・ミュージックとして提示され多くのインディ・ロック・ファンに受け入れられた。小さな場所で鳴らされる大きな音、そこにはユース・カルチャーのなかにある音楽の根源的な魅力が詰まっていたように僕には思えた。

 そうして25年の2ndアルバム『Phonetics On and On』でもってホースガールは第2章に入った。大学に進学するためにニューヨークでの暮らしが始まり、新たな街での生活のなかで音楽が生まれる。さりとてシカゴの街は思い出のなかの場所ではなく頻繁に帰る繋がりのある場所で、実際にこの2ndアルバムも24年の冬にシカゴで録音されたものだ。シカゴの伝説的なバンド、ウィルコのアルバムを手がけたケイト・ル・ボンのプロデュースのもと、ウィルコのスタジオ The Loft で作られたこの音楽は1stアルバムの延長線上にありながら耳に入ってくる音の感じが明らかに違う。ディストーションで歪められたギターの音はシンプルなものに置き換えられて、ソニック・ユースというよりはヴェルヴェット・アンダーグラウンドが頭に浮かぶようなものになった。あるいはヤング・マーブル・ジャイアンツのようなスカスカの音の隙間に存在の魔法を浮かべせるようなそんなバンドになったのだ。余計なものをそぎ落としたなんて表現はしっくりこない。なぜなら最初から足されてなどいないからだ。必要十分というのも違う。どうしてかと言うとこの音数の少ない乾いた空間のなかにしか存在しないエネルギーがあるからだ。プロデュースを務めたケイト・ル・ボンは「無理に形を崩すことはない。洗練させようとしてもあなたたち3人がやったら自然とそうなるのだから」と言ったというがそれはまさに的を射ているように感じられる。僕はここにストロークスの『Is This It』を重ねてしまう。そう、これこそがそれなのだ。過去の黄金がこれ以上ないような形でモダンに提示される。繰り返されるリフに繰り返されるギター・ミュージックの歴史、その繰り返しの違いのなかにこそロックンロールの熱が生まれる。

 モダン・ラヴァーズの “Roadrunner” を思わせる “Where’d You Go?” で始まり素晴らしいコーラス・ワークを持つ “Rock City” を経由して遠くに向かうこのアルバムは1stアルバムとは違った種類の感動を届けてくれる。ホースガールのこれからの時間の中で素晴らしいアンセムになる可能性を持った “Julie” あるいは “2468”、“Switch Over”、“Sport Meets Sound” エトセトラ、エトセトラ、アルバムのほとんどの曲で聞かれる「ドゥドゥドゥ」「ダッダダッダダッタ」のような言葉にならない言葉がギターの上でリズムを生み出し心を躍らせる。それはいにしえから続くポップ・ミュージックの呪法とも言えるようなもので、それこそがこのアルバムをより一層魅力的にしているものだ。シンプルな、それでいて奥行きのある音と言葉の間の響き、それはまさにこのアルバムのギターのようにとどろき、合わさり、この音楽に魔法をかける。

 ホースガールはこの2ndアルバムで本当に素晴らしい場所に行ったのだと思う。シカゴのDIYコミュニティの精神を持ったまま、その外側の空気を吸って、内向きになりすぎないポップで実験的な音楽を作り上げた。それはまさにインディ・ミュージックの理想だ。そうしてきっとここに続く若者たちがまた現れるのだろう。その繰り返しのなかにこそ黄金は存在し、歴史はそうやって形作られていく。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369