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現在アメリカでもっとも高く評価されているTVシリーズのひとつである『THE BEAR』(邦題:『一流シェフのファミリーレストラン』)はシカゴを舞台に地元のレストランを再生させようと奮闘するシェフやスタッフが織りなす人間ドラマで、いまどき珍しく劇中でオルタナティヴ・ロックやインディ・ロックが多く流される。そのなかでも目立っているのがウィルコだ。クリエイターのクリストファー・ストアラーによるセレクトとのことだが、とくにウィルコはシカゴの街との繋がりもあるからだろう。ただそれ以上に、ドラマが描こうとしているインディペンデントで何かを作り上げることの労苦と尊さという主題にシンクロするものとして、彼らの音楽が引かれているように僕は感じる。ウィルコはメジャー・レーベルと渡り合いながら自分たちの表現を追求してきたバンドだが、出自であるインディペンデントの精神を忘れたことはないはずだ。代表作『Yankee Hotel Foxtrot』が当時レーベルから商業的ではないとしてリジェクトされながら曲げずに自主リリースに至ったという話は、いまでは彼らの不屈さを示すものとして語り継がれている。
そんな風にクリエイティヴィティを貫く姿勢において下の世代のインディ・ミュージシャンにインスピレーションを与え続けているウィルコだが、この13枚めのアルバムで彼らは逆に下の世代の力を借りようと久しぶりに外部プロデューサーを招いている。それも近年、独自の音作りで注目を集めているシンガーソングライター/プロデューサーのケイト・ル・ボンだ。まずこの人選を面白く思う。20年ほど前にはレディオヘッドのアメリカからの回答とも言われ、サウンド・プロダクションの高度なデザインを自分たちで磨いてきたロック・バンドが、明らかに新しい風を求めているのだから。
前作『Cruel Country』でオーセンティックなカントリーをテーマとしたのと別の方向性を目指したかったのもあるのだろう、実際、『Cousin』はここ10年のウィルコにとってサウンド面でもっとも冒険的なアルバムに仕上がっている。ノイズと調和しない音の重なりで濁りを強調するオープニングの “Infinite Surprise”、ミニマルな反復とシンプルな構成のフォーク・ロック・ソングのなかに不穏な鳴りを仕込んだ “Levee”、打ちこみのビートとジャストではない弦の音の粒のズレで浮遊感を生む “Sunlight Ends”。歌だけ聴けばジェフ・トゥイーディーらしい穏やかなメロディがあるのだが、曲全体から受けるイメージは複雑で着地感がない。ニュアンスに富んでいる……と片づけるには掴みどころがない印象を受ける。揺らぎをつねにどこかに感じさせるのは、ケイト・ル・ボンの作品群と共通するところでもある。
本作にあるのは豊かな曖昧さだ。ポップなフォーク・ソングを歌っているはずなのに汚れていく音、どうしても落ち着かない感情、乱れていく時間感覚。アシッド・フォークとカントリー・ロックを抽象的な音響とともにゆっくりと攪拌するような “Pittsburgh” はウィルコのサウンドの実験のなかでももっとも手のこんだ部類のもので(後ろのほうでキーキーと不可解な音が鳴っている)、そして本作の最良の瞬間でもある。ここには他者に説明しがたいトゥイーディー個人のメランコリーがあり(「ぼくはいつも歌うのを恐れてきた/それは小さなこと」)、明瞭な輪郭を与えないままアブストラクトな音像の連なりとして表現され共有される。わかりやすいカタルシスにではなく、音のディテールと歌詞の行間にこそ聴き手を静かに導くこと。
「いとこ」というタイトルはトゥイーディーが世界の認識や関わりにおいて抱く微妙な距離感を示すものだそうだが、たとえばそれはアメリカのルーツ音楽に対するウィルコの態度にも通じるものだ。過去に敬意はあるが単純に模倣することはできない……というアンビヴァレントな想いが彼らを繰り返し新たな実験に導くのだろうし、完成を目指すのではなく、本作でより未解決な領域を探求している。このデリケートに揺れるインディ・ロック・ミュージックは、そうであるがゆえに、ウィルコの変わらぬ勇敢さを示すものだ。
木津毅