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敬礼をささげたいと思う アメリカ国旗の燃え殻と
そして買物袋からあふれそうな 落ち葉に対して
"アメリカ国旗の灰"
2002年に発表された『ヤンキー・ホテル・フォックストロット』は、ほとんど偶然だったとはいえ、アートワークにもあるようにまるで9.11直後のアメリカを覆った息苦しさに呼応するようなアルバムで、そこで星条旗は落ち葉とともに燃やされていた。「高いビルが揺れる」と歌う"ジーザス、エトセトラ"は「泣かないで」と繰り返すラヴ・ソングであり、「きみの頬に張られた弦(涙の暗喩だろう)に音を合わせて」などと詩的に綴られたそれは、そのときアメリカで暮らす人びとが悲しみとともに生きていく歌として鳴らされていた。
ウィルコがかつて呼ばれた「オルタナ・カントリー」という言葉はほとんど使われることもなくなったが、彼らがジャズやブルーズやエレクトロニカと組み合わせて更新したカントリーは、保守層が聴いているようなマッチョで旧態然としたカントリーとはまったく別のものであるという点で言葉通りオルタナティヴだった。戦争に明け暮れたゼロ年代のアメリカのなかで、ウィルコの歌は「そうではない生き方」を模索する原動力になったといまでも僕は思う。
『ヤンキー・ホテル』がアメリカで大絶賛された後の数作は、そのアルバムからの距離のとり方に苦労してきたような印象もあるが、前作『ウィルコ(ジ・アルバム)』は久しぶりに彼ららしい軽やかさが前面に感じられるアルバムだった。そして自身のレーベル〈dBpm Records〉を立ち上げて初となる『ザ・ホール・ラヴ』は、さらに風通しの良い1枚になっている。その実験的な内容が所属していたレーベルとほとんど喧嘩別れする原因となった『ヤンキー・ホテル』が「俺たちはやりたいことをやらなければならない」というある意味での頑なさを持っていたのに対し、本作は「俺たちは何をやってもいい」という開放感に貫かれている。ウィルコの音に対する欲望が生き生きと跳ね回るアルバムだ。
ノイズとアブストラクトなドラミングの応酬で幕を開けるオープニングの"アート・オブ・オールモスト"からして、7分の長尺のなかにジャズもポスト・ロックもギター・ソロが咆哮するジャム・セッションも詰め込んだ不敵なナンバーだ。軽快なキーボードどノイジーなギターが共存するシングル"アイ・マイト"の皮肉っぽいポップさ、ディープなフォーク・チューン"ブラック・ムーン"の奥からゆっくり立ち上がってくるストリングスの幽玄、シンセとグロッケンとメロトロンが軽やかに弾む"キャピトル・シティ"の洒脱なアレンジ、"スタンディング・オー"のアッパーでノリのいいロック・チューンの同時に備えた落ち着き......音質の硬軟を自在に使い分けるギターも、あるときはジャジーに、あるときはメロウに、またあるときはウォームに響くメロディも、音の粒をきれいに揃えつつ多彩な音色を聞かせるドラムも、あらゆる要素が悠然としていて、ときにはおどけてみせる茶目っ気も見せてくれる。ウィルコはここでも軸足をルーツ・ミュージックにしっかりと置いたまま、しかしその多様な音楽的語彙をじつに慣れた手さばきで差し出してみせる。12分続く、ロード・ムーヴィーのようなラスト・トラック"ワン・サンデー・モーニング"には、頬に風を感じる涼やかさと叙情性が宿っていて、聴いていると浮ついた気持ちも静かな場所へと落ち着いていくようだ。
ウィルコの音楽が軽やかになったからといって10年前に比べてアメリカが生きやすくなったはずもない。テレビのなかのウォール街のデモを見ているとそこには深刻な格差問題な複雑に絡み合っているようだ。ただウィルコはアメリカの閉塞感をここでは過剰に背負ってはいない。感情的に『ヤンキー・ホテル』は悲しみに比重が置かれたアルバムだったが、『ザ・ホール・ラヴ』ではそのエモーションの触れ幅はより広く、さまざまな想いが混在しているように聞こえる。例えばフリート・フォクシーズが潔癖に調和を求めるのともまた違って、あらゆる音が......もしくはさまざまな感情がぶつかり合って発生するノイズをそのまま肯定してしまうその態度が、ウィルコの理想主義のあり方なのだろうと思う。
リスナーがウィルコに期待しているのはたとえばこんな歌だ。柔らかで美しいフォーク・ナンバー"オープン・マインド"でジェフは歌う......「君の心を開いてあげる人になりたいんだ」。そんな素朴な言葉はしかし、その心にある喜びも悲しみも引き受けるという覚悟を静かに湛えている。
木津 毅