「K Á R Y Y N」と一致するもの

Shuttle358 - ele-king

 エレクトロニカ/電子音響以降のアンビエント・ミュージックに「物語」は希薄だ。いや、「コンセプト」すらない。音の生成があるのみだ。むろん変化はある。生成/変化だ。しかしその変化はミニマルでなければならないし、音響のトーンはスタティックでなければならない。意味ではなく、音。その空白と音響のバランスの追求。空虚という存在ほど、人間社会への強い問いかけもないだろう。その意味でエレクトロニカ以降のアンビエントは反転した存在論的なサイケデリック音楽といえなくもない。

 テイラー・デュプリーが主宰する〈12k〉がリリースするアンビエント作品を聴いていると、ふと「写真」のようだと思うときがある。むろん彼が優れたフォトグラファーで、その作品がアートワークに使われているからそう感じるのかもしれない。しかしそれは具体的なイメージというより記憶に一瞬だけ残っている光景/感覚に近い。記憶の音楽としてのアンビエントとでもいうべきか。物語性は希薄だが人間の繊細な感覚は封じ込めている。記憶。瞬間。反復。生成。
 シャトル358の新作『Field』を聴いたときも、そのような感覚を持ったものだ(ああ、〈12k〉の音だと思った。それも00年代初頭の頃の……)。しかし人の記憶に「棘」があるように、その音もまた単に優しいだけではない。彼の音に美しい「棘」がある。これが重要だ。新しい彼の音は意外なほどに「硬い」。

 シャトル358は、本名をダン・エイブラムスという。 彼は90年代末期から活動を始めたエレクトロニカ・アーティストだ。1999年に〈12k〉から『Optimal.lp』、00年に『Frame』、02年に『Understanding Wildlife』、04年に『Chessa』を継続的にリリースし、そのクリック&グリッチ・アンビエントな作風から初期〈12k〉を代表するアーティストと目されてもいた。また、ダン・エイブラムス名義では01年に〈ミル・プラトー〉から『Stream』という優れたグリッチ・ミニマルな作品をリリースしている。これもなかなかの名盤だ。
 だが、04年の『Chessa』をリリース後、アルバム・リリースは2015年の復活作『Can You Prove I Was Born』まで9年間ほど途絶えることになる(14年に50部限定のシングル「CYPIWB.12"Lmtd」を〈12k〉からひっそりと出してはいるが)。この04年から15年までのあいだ、クリック&グリッチなエレクトロニカはアンビエント/ドローンへとその潮流を変えていった。グリッチがアンビエント化したのだ。それは時代の変化でもあったし、どこか寂しくもあった。まだまだ00年代初頭のエレクトロニカのミニマリズムには可能性があると思っていたから。
 それゆえ『Can You Prove I Was Born』における「復活」は自分にとって、とても大きかった。ゼロ年代エレクトロニカの失われたピースが埋まったような気がした。じじつ『Can You Prove I Was Born』はオーガニックな響きのグリッチ・エレクトロニカ/アンビエントであり、多いに満足したのである。

 と、ここまで書いてきて前言を翻すようだがシャトル358の音楽のルーツはアンビエント・ミュージックではなく、ミニマル・テクノであろう。そう、先に書いたようにドローン・ミュージックでは「ない」点が重要なのだ。
 彼の音楽にアンビエント的なアンビエンスを感じられるのは、ミニマル・テクノを基礎としつつも、さまざまな音響(グリッチや環境音など)によって、その基礎となっている「テクノ」が多層的に存在する感覚があるからではないかと思う。とはいえ〈12k〉主宰のテイラー・デュプリーもミニマル・テクノ出身であることを考慮すると90年代/グリッチ以降のエレクトロニカ・アンビエントは、そもそも、ミニマル・テクノの一変形だったといえないか(そう考えみると今のテイラー・デュプリーのドローン音楽にも別の光が当てられるはず)。

 シャトル358の新作『Field』もそうだ。ドローン・タイプのアンビエントではなく、さまざまなサウンド・エレメントがミックスされることでアンビエンスな音楽/音響を獲得するクリック&グリッチなアンビエント/エレクトロニカであったのだ。
 アルバム冒頭の“Star”ではテクノの微かな名残のようなキックのような音が分断されるように鳴り、そこに何かを擦るような音、微かなノイズなどがレイヤーされる。加えて変調されたようなシンセのパッドや環境音も鳴る。その音のトーンとざわめきに耳が奪われる。
 続く“Caudex”ではミニマルなベースに、柔らかいシンセとミニマムなノイズや環境音が折り重なり、覚醒と陶酔と睡眠を同時に引き起こす。以降、アルバムはシンセの透明な音とオーガニックな響きのサウンド、デジタルなサウンドと環境音のレイヤーが交錯しつつ、一定のスタティックなトーンで展開していく。
 中でも特筆すべきはタイトル・トラックの“Field”だろう。ミニマルな電子音のループに、オーガニックな音の粒がレイヤーされ、光の反射のような電子音が鳴る。比較的短いトラックだがグリッチ・アンビエントの最高峰ともいえる出来栄えだった。
 また、アンビエント/ドローン的な音響からクリッキーで微細なノイズや環境音が精密にレイヤーされ、オーガニックなムードで音響空間を拡張していく“Sea”、“Dilate”、“Waves”、“Divide”というアルバム後半の流れを決定付ける曲でもあった。

 本作『Field』を聴くと00年代初頭のミニマルで、クリッキーで、グリッチなエレクトロニカ/電子音響の継承を強く感じた。まるで00年代頭の〈ミル・プラトー〉のアルバムのようである。これはむろん懐古ではない。あの時代のエレクトロニカ/電子音響(の方法論)は、決して古びることのない質感と情報量を持っていることの証明ではないか。ここにあるのは、大袈裟な「物語性」ではなく、サウンドの質量/質感を追及するソフト・ノイズな音楽である。何より大切なのは「音」そのものだ。それは空白のミニマル・サイケデリックともいえる音かもしれない。
 そんなシャトル358の新作『Field』は、増殖する「意味」の中で、ある種の電子音楽が再び飽和しつつある今の時代だからこそ聴かれるべき音ではないかと思う。こういった空白のような音楽が、耳には必要なのだ。

interview with Chris Carter - ele-king

 未来なんてわからないものだ。当人たちも驚いているように、昨年のTG再発における反響は、1979年の時点では到底考えられないことだった。しかしながらTGサウンドは、40年という歳月を生き抜いたばかりか、さらにまた評価を高め、新しいリスナーを増やしている。制度的なアートやお決まりのロックンロールを冒涜した彼らがわりと真面目に尊敬されているという近年の傾向には、もちろん少々アイロニカルな気持ちも付きものではあるが。

TGはどこかに帰属することの観念から得られるいかなる快適さを感じさせるような音楽ではなかった。
──ドリュー・ダニエル


Chris Carter
Chemistry Lessons Volume One

Mute/トラフィック

ElectronicExperimental

Amazon Tower disk union

 そう、快適な場所などまやかしだといわんばかりだ。そして、ことに311以降の、政治的に、そして経済的に、あるいは環境的にと、あらゆる場面に「死」が偏在する現代を生きるぼくたちにとって、TGはもはや故郷である。その伝説のプロジェクトにおけるエンジン技師がクリス・カーターだった。彼の手作りの機材/音響装置によってTGは自分たちのサウンドをモノにしているのだから。

広く知られているように、TG解散後、クリス・カーターは元TGの同僚であり妻でもあるコージー・ファニ・トゥッティとのプロジェクト、クリス&コージーとして長きにわたって活動した。近年は、カーター・トゥッティと名義を変えて作品を出している。このようにクリス・カーターは長年活動しながら、しかし滅多にソロ作品を出しておらず、この度〈ミュート〉からリリースされる『ケミストリー・レッスン・ヴォリューム・ワン』がソロとしては5枚目となる。

  念入りに作り込んでしまったがゆえの退屈さ、そして未完成であるがゆえの面白さ、というのはたしかにある。『ケミストリー・レッスン・ヴォリューム・ワン』に収録された25曲には、素っ気ない不完全さがある。画集にたとえるなら、書きかけの絵ばかりが並んでいるようだ。しかし描きかけの絵の面白さというのは確実にある。

あるいはこれはアイデアのスケッチ集なのだろう。通訳(および質問者)の坂本麻里子氏によれば、「科学者とか研究者、大学講師と話しているような気分」だったそうで、クリス・カーターのような冷静な人がいたからこそTGという倒錯が成立したのだ。実際、彼はぼくたちの先生であり、アルバムはさながら研究所の実験レポートである。

それは先週末にも誰かと話していたことなんだけどね、「TGの音楽はかなりの長寿ぶりを誇るものだ」、という。で、初期TGのマテリアルの多くには、ある種のタイムレスなサウンドが備わっているんだよね。それがなんなのかは、僕にもわからない。TGのメンバーの間ですら、そのサウンドがなにか? を突き止められなかったからね。あれは相当に「ある瞬間を捉えた」という類いのものだったのに、でもどういうわけか歳月の経過に耐えてきた。

あなたがソロ・アルバムを発表するのはものすごく久しぶりなことですよね。そしてあなたはこれだけ長いキャリアのなかでソロ作品というものをわずか4枚しか出していないですよね? 

CC:うん、そうだね。

最後のソロ・アルバムが1999年の『Small Moon』になるんですか?

CC:ああ。

ではこのソロ新作は18、19年ぶりという。

CC:(苦笑)そうなるね。(独り言をつぶやくように)長くかかったものだ……

とにかく、ここまでソロ作品が数少ないのはなぜでしょうか? それはあなたの気質なのでしょうか? あるいは、ひとりで作るよりも共同作業が好きだからでしょうか? それともコージー・ファニ・トゥッティとの共同作業があなたにとっては表現活動の基盤になっているからでしょうか?

CC:ただ単に、僕は実に多くの(ソロ以外の)プロジェクトに関わっている、ということなんだけれども。

(笑)なるほど。

CC:いや、本当にそうなんだよ! だから、前作ソロが出た17、18年くらい前を思い返せば、あれはTGが二度目に顔を合わせて再結成する前の話だったわけだよね? 僕たちはあの時点ではまだカーター/トゥッティとして活動していたし、でもそこからTGが再び結集することになって……本当に長い間、僕の人生は再び稼働したTGに乗っ取られてしまったんだ。で、そのTGとしての活動が終わったところで、続いて今度はクリス&コージーが、なんというかまた動き出したし、それに伴い僕たちもクリス&コージーとしてツアーをやりはじめることになってね。
そんなわけで僕としては、あれら様々な他のプロジェクトの合間に自分自身のソロ・レコード制作をはめ込もうとしていたんだ。それに、クリス&コージーの後にはカーター/トゥッティ/ヴォイドが続いたし、また僕たちはリミックスや映画向けの音楽も制作していたからね。
というわけで、うん、基本的にはそれらすべてをこなすのが僕の日常的な「仕事」になっていた、と。だから、(苦笑)自分個人のソロ作品をやるための時間が残らなかったんだね。要するに、しょっちゅう脇に置かれて後回しにされるサムシングというのか、よくある「時間がなくていまはやれない、後で」という、そういう物事のひとつになっていたんだよ。(苦笑)まあ……僕はゆっくりとしたペースでこれらのトラックすべてを構築し、楽曲のアイデアを掴みはじめていった、と。だからソロ・アルバム向けのマテリアルに関しては、他の色々なプロジェクトの合間の息抜きとしてやるもの、そういう風に僕は取り組んでいたんだね。

各種プロジェクトにソロと、あなたは常になにかしらの作品に取り組んでいるみたいですね。

CC:(自嘲気味な口調で苦笑まじりに)そうなんだよねぇ……自分にはいささか仕事中毒な面があると思う。

「ソロ作をやろう」と思い立って一定の期間に一気に作ったものではなく、長い間かかって集積してきた音源を集めたもの、一歩一歩進めながら作った作品ということですね。

CC:ああ、そうだったね。アルバムに収録したトラックの一部は、かなり以前に作ったものも含まれているし……本当に古いんだ。そうは言ったって、さすがにいまから17、18年前というほど古くはないんだけれども。その時点ではまだこの作品に取りかかってはいなかったし。だから、それらは6、7年前にやった音源なんだけど、それでもかなり古いよね。

ソロ新作がこうしてやっと完成したわけですが、正直、いまの気分はいかがですか。

CC:エキサイトしているよ! 本当に興奮しているんだ。というのも、実に長い間、これらの音源は誰の耳にも触れないままだったわけだからね。もちろんコージーは別で、彼女は聴いたことがあったけれども。僕たちふたりは自宅に、居間とキッチンの隣にスタジオ空間を設けているからね。で、ちょっと一息入れたいなというときには、僕はスタジオに入ってモジュラー・システム作りに取り組んでいた。だからコージーは僕がどんなことをやっていたのか耳にしていたし、この作品をちょっとでも聴いたことがあるのは自分以外には彼女だけ、そういう状態のままだったんだ。とても長い間、何年もの間ね。そんなわけで、この音源を〈ミュート〉に送るまで、僕はちょっとしたバブルのなかに包まれていたんだよ。で、それは……そうだな、奇妙な気分だった。というのも、ある面では自分としても、あれらの音源を手放したくない、と感じていたから。

(笑)そうなんですか。

CC:だから、自分はそれだけ楽曲に愛着を感じていた、ということだね。あれはおかしな感覚だった。で、〈ミュート〉の方はなんと言うか……送った当初は、彼らからそれほど大きな反応は返ってこなかったんだよ。まあ、実際僕としても、それほど期待していたわけではなかったし。だから、「試しに音源を送って、彼らが聴いてどう思うか意見を教えてもらおう」程度のものだったんだ。そうしないと、この作品を聴いたことがあるのはやっぱり自分だけ、ということになってしまうし、その状態がずっと長く続いてきたわけだからね。で、いまのこの時点ですら……だから、ジャーナリストたちもようやく試聴音源を聴けるようになったところで、作品に対する彼らからのフィードバックを受け取っているんだよ。この作品についての第三者の意見は、本当に長いこともらっていなかったことになるなぁ……ただ、うん、いまはかなりエキサイトさせられているんだ。本当にそうだ。

長い間ひとりで大事にしまっておいた何かを遂に解放した、と。

CC:ああ。「遂に」ね(苦笑)。

ピーター・クリストファーソンがおよそ7年前(2010年)に亡くなりましたが、そのことと今作にはどのような繋がりがありますか?

CC:そうだね、なんと言うか、このアルバムのレコーディングには彼が亡くなる以前から着手していた、みたいな。僕はすでにいくつかのアイデアに取り組んでいたところだったし、スリージー(ピーター・クリストファーソンのあだ名)ともこのヴォーカルのアイデア、人工的なヴォーカルを使うという思いつきについて話し合っていたんだよ。ところが、そうこうするうちに彼が亡くなってしまった、と。それでなにもかもいったんストップすることになったし、彼の死から1年近くそのままの状態になっていたんだ。それくらいショックが大きかったということだし、少なくとも1年の間は、どうしても僕にはこの作品に再び戻っていくことができなかった。けれども、これらの音源に取り組んでいた間も、かなりしょっちゅう自分の頭の隅に彼の存在を感じていたね。だから、「スリージーだったらどう思うだろう?」、「スリージーだったらどうするだろう?」という思いはよく浮かんだ。
ただまあ……しばらく作業を続けていくうちに、やがてこの作品もこれ独自のものになっていった、と。でも、そうだね、彼の突然の死によるショックで、この作品をかなり長い間中断することになった。それは間違いないよ。

坂本:あなたとコージーはまた、ピーター・クリストファーソンが世を去る前から構想していた『Desertshore/The Final Report』(2012)を彼の死後に完成させましたよね。非常にコンセプチュアルな作品でしたが、様々なヴォーカリスト=異なる声を使っているという意味で、本作となんらかの繫がり、あるいは交配はあったでしょうか?

CC:いいや、それはなかったね。『Desertshore/TFR』は完全に独立した世界を持つアルバムだったし、あの作品向けのマテリアルの多くにしても、亡くなる直前まで彼が取り組んでいたものだったわけで。彼はかなりの間あの作品の作業を続けていたし、僕たちがパートを付け足したり作業できるようにと音源ファイルをこちらに送ってきてくれてもいたんだ。で、あれ、あのプロジェクトに関しては──僕たちとしても、あれ以外の他のもろもろとはまったくの別物に留めておこうと努めたね。というのも、彼には『Desertshore/TFR』に対するヴィジョンのようなものがちゃんとあったし、あの作品向けに彼の求める独特なサウンドというものも存在したから。で、彼が亡くなったとき、彼の遺産管理人が彼の使っていたハード・ドライヴ群や機材の一部を僕たちに送ってきてくれてね。そうすることで、僕たちにあのプロジェクトを完成させることができるように、と。

なるほど。

CC:そんなわけで、あのアルバムというのはちょっとしたひとつの完結した作品というか、それ自体ですっかりまとまっているプロジェクトだったし、それを具現化するためにはやはり僕たちの側も、あの作品特有の手法を用いらなければならなかったんだよ。そうは言っても、あのプロジェクトに取り組んでいた間も僕は自分のアルバムの作業を少々続けてはいたんだ。そこそこな程度にね。というのも、あの『Desertshore/TFR』プロジェクトの作業には僕たちもかなりの時間を費やすことになったし、あの作品に取り組むこと、それ自体がかなりエモーショナルな経験だったから。

父から小型のテープレコーダーをもらったのは、僕がまだ10歳か11歳くらいの頃だったんじゃないかな? で、そのうちに僕はテープレコーダー2台を繋げる方法を見つけ出したし、小型のマイクロフォンも持っていたから、それらを使っておかしなノイズをいろいろと作っていくことができたんだ。

今回のアルバムの背後には、あなた自身のルーツが大きな要因としてあると聴いています。そして、制作中には60年代の電子音楽とトラッド・フォークをよく聴いていたそうですね?

CC:ああ。

で、トラディショナルなイギリス民謡というのは……(笑)あなたのイメージに合わなくて意外でもあったんですけれども、どうしてよく聴いていたんでしょうか? どこに惹かれるんでしょうか。

CC:(笑)いやぁ……まあ、僕はとにかく「良い曲」が好きなんだよ。だから良い曲は良い曲なのであって、(苦笑)別に誰が作った曲でも構わないじゃないか、と。その曲を歌っているのは誰か、あるいは演奏しているのは誰かというこだわりを越えたところで、純粋に曲の旋律に耳を傾けるのもたまには必要だよ。だからなんだよね、僕はアバの音楽ほぼすべて大好きだし、本当に……ポピュラー音楽が好きなんだ。本当にそう。けれども、60年代の電子音楽、たとえばレディオフォニック・ワークショップ(※英BBCが設立した電子音楽研究所。テレビとラジオ向けに効果音他の様々なエレクトロニック・サウンド/コンポジションを制作した)に関して奇妙だったのは……あのワークショップにはかなりの数の人間が関わっていたから(※50〜60年代にかけての期間だけでも9名ほどが参加)、ときにはこう、とてもへんてこなサウンド・デザインや実験的な音楽、サウンド・エフェクツ作品を作ることだってあれば、その一方でまた、実にメロディックで、ある意味……やたら楽しげな、風変わりな歌だのテレビ番組のテーマ音楽をやることもあった、という。

(笑)ええ。

CC:だから、彼らの振れ幅は驚くほど広かったということだし、そのレンジは完全に実験的なものから感傷的な音楽、子供番組向けの感傷的でメロディックな歌もの曲まで実に多岐にわたっていたんだ。で、僕が気に入っているのもその点だし……そうだね、実際のところ、彼らが僕のアルバムになにかしら影響を及ぼしているとしたら、きっとそこなんだろうね。というのも、僕は奇妙なサウンドに目が無いタイプだし、もしも素敵なメロディを備えたトラックが手元にあったとしたら、なんと言うかな、そこに奇妙なサウンドを盛り込むことで、そのトラックをちょっとばかり歪曲させるのが好きなんだ。で、思うに自分のそういう面はレディオフォニック・ワークショップに影響されたんじゃないか? と。

あなたが最初に夢中になったアーティスト/曲はなんだったでしょう? そして、あなたが最初に聴いた電子音楽はなんだったのでしょう?

CC:ああ、最初に夢中になった対象……うーん、それはまあ、どの時期にまで遡るか、にもよるよね? というのも、僕は『Dr.Who』(※1963年から放映が始まり現在も続くBBCの長寿人気SFドラマ。オリジナルのテーマ音楽はレディオフォニック・ワークショップのディーリア・ダービシャーが演奏した)を観て育ったクチだし──

(笑)ああ、なるほど。

CC:それはまさに、いま話に出たレディオフォニック・ワークショップだったわけだよね? だから、ここで話しているのは60年代初期ということであって……かなりメロディ度の高い、『Dr.Who』のテーマ音楽みたいなものもあったし、それと同時にあの番組のなかでは様々な奇妙なノイズも使われていた。それに、BBCが制作した子供向けの番組を聴いていても、そこで使用されていた音楽がレディオフォニック・ワークショップによるものだった、というケースは結構多かったしね。でもその一方で、夜になると今度は自分のトランジスタ・ラジオでトップ・テン番組、いわゆるヒット・チャート曲を聴いていたんだよ。やがて僕の好みはプログレッシヴ・ロックやクラウトロックにも発展していったわけで、うん、自分の好みはかなり多様なんじゃないかと思う。

坂本:あなたの世代はたいてい最初はロックやブルースから入っていると思いますが、あなたの場合はどうだったんですか? たとえばビートルズ、あるいはストーンズの影響の大きさは、あの頃育った英国ミュージシャンが必ずと言っていいほど口にしますよね。

CC:というか、僕は実のところビートルズよりもむしろビーチ・ボーイズの方に入れ込んでいたんだ。ビーチ・ボーイズが本当に大好きだったし、なんと言うか、そこからビートルズを発見していった、みたいな。ああ、それにザ・キンクスの大ファンでもあったね。だから、ちょっと妙な趣味なのかもしれない(苦笑)。

たしかに面白いですね。多くの場合はビートルズから入り、そこからビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』を発見していく……という流れだと思いますが、あなたはその逆だった、と。

CC:そう、僕にとっては順路があべこべだったんだ。

どうしてあなたは電子音楽にのめり込んでいったのですか? 奇妙な、未来的なサウンドのどこに惹かれたのだと思いますか。

CC:んー……その面についての影響源としては、自分の父親も含めないといけないだろうね。というのも、彼はオーディオ・マニアだったし、ハイファイ機材を蒐集していて、とても高価なステレオ・システムをいろいろと持っていてね。すごく上等なスピーカーだとか。でも、そのなかにはテープ・レコーダーも2、3台混じっていて、父はかなり大型なテープ・レコーダーを所有していてね。それだけではなく小型のテープ・レコーダーも持っていたから、やがて父は小さい方の録音機を僕にくれることになったんだ。小さなリールが取り付けられた電池稼働式のテレコ、程度のものだったけれども。
父からあれをもらったのは、僕がまだ10歳か11歳くらいの頃だったんじゃないかな? で、そのうちに僕はテープ・レコーダー2台を繋げる方法を見つけ出したし、小型のマイクロフォンも持っていたから、それらを使っておかしなノイズをいろいろと作っていくことができたんだ。
だから、すべてはあの時期から来ているんだろうね。ティーンエイジャーの一歩手前の段階にいた自分が、父親の持っていた音響機材をあれこれ繋げていたあの時期──まあ、父が仕事に出て行った後にこっそりやっていたんだろうけども。というのも、(苦笑)あれらの機材を僕がいじったり繋げるのを父が許可してくれたとは思えないし……。

(笑)。

CC:(笑)ただまあ、そうだね、ほんと、すべてはあの経験から来ているんだと思う。子供時代の自分には音響/録音機材に触れる手段があった、という。それはあの当時としてはかなり変わっていたんじゃないかな。

お話を聞いていると、あなたは早いうちからただ音楽を聴いて楽しむだけではなく、音楽を作ることやサウンド・メイキングの可能性を自分なりに探ることに興味があったようですね?

CC:ああ、そうだったね。だから、僕はラジオを通じて番組や既成の音楽を録音するというのはほとんどやらなかったし、文字通り、「自分のサウンド」を作り出していたんだよ。もっとも、それらは真の意味での「音」に過ぎなかったけれども。音楽的なコンテンツはまったく含まれていない、サウンドによる純粋な実験だったんだ。それに、いまだに……たぶん僕は、音楽的にはディスレクシア(読字障害)の気があるんじゃないかと思っていて。だからいまだに、キーボード他に文字を書いて目印をつけないといけないんだよ。「これはこの音符に対応する」、みたいな。
僕はなにもかも耳で聴くのを頼りにやっているんだ。完全にそうだね。というわけで、(譜面を読める等の正統的な意味での)音楽に関してはかなり役立たずな人間なんだ。それでも、リズム面はかなり得意だけれども。で……そうは言っても、なにかを耳にしたり音楽が演奏されているのを聴くと、それが良い曲かどうか、さらには調子が合っているかどうかまで、耳で聴き分けられるね。だからほんと、僕はなにもかも耳で聴いてやるタイプなんだ。

アカデミックな訓練を受けた「音楽家」ではない、と。

CC:うん、まったくそういうものではないね、自分は。これといったレッスンを受けたことはなかった。だから、僕とコージーについて言えば、彼女は子供の頃にピアノのレッスンを受けたことがあったから、たぶんキーボード奏者としての腕前は彼女の方が上だろうね(苦笑)。

[[SplitPage]]

僕は奇妙なサウンドに目が無いタイプだし、もしも素敵なメロディを備えたトラックが手元にあったとしたら、なんと言うかな、そこに奇妙なサウンドを盛り込むことで、そのトラックをちょっとばかり歪曲させるのが好きなんだ。


Chris Carter
Chemistry Lessons Volume One

Mute/トラフィック

ElectronicExperimental

Amazon Tower disk union

『Mondo Beat』と今作は、ビートがある楽曲においては似ていると思いますか?

CC:ああ、うんうん。その意見には賛成だね。ただまあ、やっぱり自然にそうなるものなんじゃないのかな? なんと言うか、僕の音楽的な遺産みたいなもの、それはあの作品からはじまっているようなものだしね。だから自分の初期作品にあった要素、それは間違いなく現在の僕がやっている音楽作品にも含まれていると思う。

さて、今回のアルバムについての質問ですが、ビッグなアルバムですよね。しかも2枚組という。

CC:(苦笑)たしかに。

これはある意味、先ほどの質問で答えてくださっているとも思うのですが、収録曲が25曲にまでになった理由はナンでしょう? 純粋に、長い間取り組んできた自然に蓄積してきた音楽をまとめた結果がこれだ、ということでしょうか。

CC:その通りだね。というか、今回リリースするものだけではなく、実はもっと他にもたくさんあるんだよ。

(笑)そうなんですね!

CC:ただ、そのなかでもベストなものを集めたのが今回のアルバムだ、と。だからなんだよ、この作品を『〜ヴォリューム・ワン』と名付けたのは。というのも、自分の手元にはまだかなりの数のトラックが残っているし、それらを今回とは別のセカンド・ヴォリューム、『第二巻』として出せるだろうな、と。それに……このソロ作に取り組んでいた頃、僕はかなりの部分をモジュラー・システムを使って作っていたんだよね。あれを使ってやっていると、自分でも気づかないうちにえんえんと際限なく作業にはまってしまいがちなんだ。いつの間にかスタジオにこもって同じトラックを相手に1時間も費やしていた、みたいな(苦笑)。そんなわけで、この作品をレコーディングしていた10年かそこらの間のどこかの時点で、もっと短く切り詰めるべく、違う作業の流れを開発していったんだ。もう少し自制を心がけた、というね。だからなんだ、収録トラックの多くは尺がとても短いものになったのは。

たしかにそうですよね。

CC:というのも、自分のやっていることに対して聴き手に退屈感を与えたくなかったし、人びとは僕がやろうとしていることの本質を2、3分くらいのトラックで掴んでくれるだろう、たぶんそれで充分じゃないか、そう考えたんだ。でも、そうやって短めな曲をレコーディングするようにしたことで、歳月の経つうちにかなりの量のトラックが集まることになった、と。気がつけば25トラック入りのアルバムができていたわけだよ。

なるほど。その点は次の質問にも絡んでくるのですが、いろんなタイプの曲がありますよね。インダストリアルなテイストのものからシンセポップ調のもの、“Moon Two”のようなメロディアスな曲もあります。それらは曲というよりも断片的というか、アルバムは断片集ともいえるような2〜3分の曲ばかりですね。どうしてこうなったのでしょう? やはり、いまおっしゃっていた自制の作用、制作過程をコントロールしようという思いの結果だった?

CC:それはあったよね。それに、いくつかのトラックに関しては、ほとんどもう他のトラックの「イントロ部」に近い、というものだってあるし(苦笑)……だから、以前にも僕たちはTGやクリス&コージーの楽曲で3分、2分程度のイントロはやったことがあったんだよ。で、今回の作品の一部のトラックもそれらに近いものだ、と。そうは言っても、なにかを味見程度だけに留めておく、その自制の姿勢は自分でもかなり気に入っていてね。この作品を作っている間、それは僕にとって魅力的な行為に映ったんだ。だからなんだよ、アルバムのトーンがかなりガラッと変化するのも。スリージーが亡くなった後、僕は何曲かもっとメランコリックなものを作ったし、けれども時間が経過するにつれてムードも変わっていって、もっとアップリフティングな曲も生まれた。そんなわけで、楽曲の並べ方を決めるのは少々難題になったね。どの順番で並べるか、それを見極めるのにはちょっと時間がかかった。

坂本:なるほど。「克明になにもかも表現した」とまではいかないにしても、ある面で、この作品はここ数年のあなたの人生に起きたていこと、そのダイアリーでもあるのかもしれませんね。

CC:ああ、それは良い形容だね。そうなんだと思う。

もちろん1曲1曲にストーリーがあるというわけではありませんが──

CC:それはない。

あなたの潜っていたムードの変化が聴いてとれる作品、という。

CC:うん。良い解釈だと思う。

僕はラジオを通じて番組や既成の音楽を録音するというのはほとんどやらなかったし、文字通り、「自分のサウンド」を作り出していたんだよ。それらは真の意味での「音」に過ぎなかったけれども。音楽的なコンテンツはまったく含まれていない、サウンドによる純粋な実験だったんだ。

『Chemistry Lessons Volume One』というアルバム・タイトルは、実験報告書のような印象を受けますが、これは現時点でのレポートで、ここから発展していく、しばらく続いていくものなのでしょうか?

CC:うん、だと思う。当初の『Chemistry Lessons』の全体的なコンセプトというのは、非常にエクスペリメンタルな内容になるだろう、そういうものだったんだ。10年くらい前に、その最初期のコンセプトに基づいて作ったトラックを何曲か、オンラインにアップロードしたこともあったんだ。というのも、その時点での『Chemistry〜』のコンセプトはアルバム作りですらなく、ただのプロジェクトだったからね。僕がスタジオで様々な実験をおこない、その結果のいくつかをオンラインで発表し、もしかしたら一部を音源作品として発表するかもしれない、程度のプロジェクトだった。
ところがそれが進化していったわけで、自分の手元にどんどん音源が蓄積していくにつれて、「オンライン云々を通じてではなく、これで1枚のアルバムにできるかもしれない」と自分でも考えたんだ。ただ、次のヴォリュームは今回とはやや違うものになるだろうし、3作目もまた同じく、ちょっと毛色の違うものになると思う。そこはちょっと似ているなと思うんだけど、かつてBBCが70年代にリリースしていた『サウンド・エフェクツ』のレコード(※効果音を集めたライブラリー音源シリーズ)、あれからは今回インスピレーションをもらっていてね。あれはテーマごとに編集された効果音のレコードで、『第一巻』のテーマはこれ、『第二巻』ではまた別のテーマで音源を集める、といった具合だった。
というわけで、ちゃんと準備してあるんだよ。今作には含めずにおいた未発表トラック群、あれらがあれば、『Chemistry〜』のセカンド・ヴォリュームはまたかなり違った響きの作品になるだろうな、と。おそらくもっと長めの楽曲が集まるだろうし、1作目とは異なるトーンを持つものになると思う。

坂本:この『Volume One』のテーマを要約するとしたら、なにになると思いますか?

CC:そうだね、これはシリーズ全体の「見本」みたいなものなんだ(笑)。

(笑)「これからこういうものがいろいろ出てきますよ」と。

CC:(笑)うん。だからこれはある意味、あらゆる側面を少しずつ見せたもの、紹介する内容だね。したがって曲ごとの作風もかなり違う、という。

人工的な歌声を使った曲がいくつかありますよね? “Cernubicua”とか“Pillars of Wah”とかでしょうか? 

CC:うんうん。

あれらの声は、機械で合成したものですか? それとも実際の人間の声を加工したものでしょうか?

CC:その両方が混ざっているね。一部ではヴォコーダーを使っているし、それに……スリージーが『Desertshore』向けに購入した機材も僕たちの手元にいくつかあって、なかにはそれらの機材を使用してヴォイスを加工した例もあった。だから、実際にヴォーカルが歌っていることもあれば、ソフトウェアを使って加工したこともある、と。そうやって異なるテクニックを組み合わせていったものだよ。アルバム制作が進行していくにつれて、どうやってそれを実現させればいいか、そのための作業の流れを発展させていったんだ。だから手法も変化していったし、アルバム作りのはじまりの段階で使ったもののもう自分の手元にはない機材もあったし、その際は改めて別のやり方を見つけ出していったり。だからヴォーカルに関しては、似たような響きに聞こえるものがあったとしても、それらは違うテクニックを用いて作ったものだったりするんだ。リアルな人間の声であるケースもあれば、完全に合成されたものもあるよ。

なるほど。

CC:で、本物の声と人工の声をと聞き分けられないひとがたまにいる、その点は自分としてもかなり気に入っているんだ。

(笑)。あなたのこうした人工的な歌声へのアプローチは、なにを目的としているのでしょうか? どんな狙いがあったのか教えて下さい。

CC:まあ、一部のヴォイスは僕自身の声なんだ。過去に自分の初期のソロ・アルバムでも、自分の声を使ったことは何度もあったしね……。でまあ、一部は自分の声だし、ただ「それ」とは分からないくらいとことん加工されている、と。だから、僕はとにかく……自らになにか課題を与える厳しさというか、難題に取り組むのが好きなんだね。で、クリス&コージーみたいに聞こえる作品にしたくはなかった。というのも、僕たちふたりで作る作品でコージーが歌いはじめた途端、それがどんなトラックであれ、「クリス&コージー」になってしまう、というのは自分でも承知しているからね。まあ、それは当たり前の話だよね、僕たちふたりで作っているんだからさ。ただ、今回の作品に関しては、僕は完全に「ソロ」なプロジェクトにしておきたかった。そう言いつつ、用いた一部のアイデアやテクニックについては生前のスリージーと「どうやればいいか」と話し合いはしたんだけれど、それを除いては、このアルバムではとにかく僕が自分ひとりでやっている、と。だからとにかくすべてを自分内に留めておきたかったし、これは文字通りの「ソロ・アルバム」というわけで、僕以外には誰も関わっていないんだよ。

いくつかのトラックではかなり高音の女性ヴォーカルらしきものが聞こえますが、あれもあなた自身の声を加工したものですか?

CC:うん、それも含まれるだろうし、他のヴォイスも手元にあったね。スリージー所有のハード・ドライヴから発見したもので、彼がアイデアとして使っていたヴォイスがいくつかあったし、それにオンラインで見つけてきたものも混じっている。ただ、それらを非常に高い声域で鳴らすことで、「女性」っぽく聞こえるようになる、と。一方でまた、とても低い音域で楽曲の下方で鳴らしたこともあったし、女性/男性の区別がつけられないんじゃないかな。

なるほど。キメラというか、もしくは両性具有というか──

CC:ああ、うん。

どちらの「性」にもなり得る、と。そうした人工的な声の持つ可能性、無限のポテンシャルがあなたには非常に魅力的なんでしょうか?

CC:まあ、このアルバムに関してはそうだった、ということだね。だから、もしかしたら次のアルバムはインスト作になるのかもしれないし。そうやって、自分にもうおなじみの世界に留まって(苦笑)、シンセサイザーやモジュラーなんかを使った、自分にはかなり楽にやれる音楽をやるのかもしれない。というのも、ああいうヴォーカルを用いると、作業にかなり長くかかってしまうんだ。毎回うまくいくとは限らないし、悲惨な結果になることだってあるしね。

(苦笑)そうなんですね。

CC:(苦笑)ああ。だからまあ、このルートには一通り足を踏み入れたということで、しばらくはこれで充分かもしれない。

初音ミクって知ってますか?

CC:ああ、うん。あの、ヴォーカロイドというのは、以前に自分も使ったことがあったんじゃないかな? (独り言のようにつぶやく)いや、というか、今回のアルバムの1曲でも、もしかしたらヴォーカロイドは一部で使っているかも……? んー……? まあとにかく、うん、僕個人としてはあんまり結びつきを感じられなかったね。あれは純粋にソフトウェアだし、僕はハードウェアを多く使用する方がずっと好きな人間だから。類似したことをやれるプログラムではなくて、むしろ実際のハードウェア機材でやってみるのが好きなんだ。たまに「かなり自分好みのサウンドだな」と思うものもあるとはいえ、あれは聴くのがきつい、というときもある音だよね。

[[SplitPage]]

このソロ作に取り組んでいた頃、僕はかなりの部分をモジュラー・システムを使って作っていたんだよね。あれを使ってやっていると、自分でも気づかないうちにえんえんと際限なく作業にはまってしまいがちなんだ。いつの間にかスタジオにこもって同じトラックを相手に1時間も費やしていた、みたいな(苦笑)。


Chris Carter
Chemistry Lessons Volume One

Mute/トラフィック

ElectronicExperimental

Amazon Tower disk union

最初に作った自作の機材はどんなものだったのでしょう?

CC:60年代に『Practical Electronics』という雑誌を読んでいたことがあったんだけど、回路基板が付録で付いてきたんだよね。毎月、自分の手でなんらかの電子機材を組み立てることができて、パーツも購入できて。

メール・オーダー式の雑誌?

CC:そう。いろんな部品を注文し、自分で組み立てるという。だから僕が初めて作ったシンセサイザーは、あの雑誌で見かけた設計図にすべて基づいていたよ。そこからどんどんもっと大型のシンセを組み立てていくようになったし、他にももっといろんなもの、たとえばエフェクト・ペダル等も作っていって。TGに加入してからは、「グリッサライザー」(Gristleizer:エフェクト・ユニットのモジュール。TGの作品やライヴで多く使用された)というものを作ったね。あれは他の人間の考案したデザインに基づいていたけれども、自分でそれを改めてデザインし直したものだった。というわけで長年にわたって、僕はあらゆる類いの機材を自作してきたわけだね。
ところが歳をとるにつれて既製品を買ってしまう方が楽になってきたし、そうやって買って来たものにたまに改良を加えたり。でもまあ、近頃はあまり機材の自作はやらないね。オリジナルの『Chemistry Lessons』プロジェクトを開始した頃はまだ機材を作っていて、たくさんこしらえていたけれども。たとえばコージーのために「トゥッティ・ボックス」という名の小さなシンセサイザーを作ってあげたりした。で、そこから僕はモジュラーものにハマっていくようになって、自分用にモジュールをいくつか作ったこともあったね。ただ、いまの僕は主に市販のモジュールを購入してやっているよ。というのもモジュラーであれば、独自なものを作るように設定を組むのが可能だからね。モジュールをまとめてどうパッチしセッティングしていくか、そのやり方はひとそれぞれに違うわけで。だからおそらく、僕は自分で回路板を作る作業を、モジュールの購入で代用しているんだろうね。

それらをご自分の好みに合うように改良している、という。

CC:ああ、そうだね。それは自分はよくやるよ。

大学生のときに初めてのソロ・ライヴをやっているんですよね? それはどんなライヴ演奏だったのですか?

CC:(「大学でソロのライヴ・ショウをやったことがあるそうですが」と質問を聞き違えて)ああ、先週やったライヴのことかな? あれは週末におこなわれたムーグ・シンポジウム(※サリー大学が主宰する「Moog Soundlab Symposium」のこと。2018年版は2月3日開催)に参加したときのことで、小規模なライヴ向けのセットアップでやったものだったね。完全に実験的な内容で、キーボード等は一切使わず、モジュール群と箱があるだけ。それらを相手にちょっとしたライヴ演奏をやったんだ、40分くらいの短いものだったけれどね。別にムーグを使ってパフォーマンスしたわけではなくて、僕は単にあのイヴェントの一環だったんだよ。でも、あれは興味深かったな。というのも、僕はあまりライヴはやらないし、とくにソロ・ショウの場合は珍しいからね。ここ2、3年はカーター/トゥッティ/ヴォイドやクリス&コージーで僕たちもたくさんショウをやったけれども、ソロではあまりやってこなかった。だからあれは面白かったよ。

緊張しましたか?

CC:いや、そんなにあがるタチじゃないんだよね。うん、それはないな……自分がなにをすべきか分かってさえいれば、緊張することはまずない。だって、結局は自分が表に出て行って、そこでは人びとが待ち構えている、というだけのことだしね。で、音源を入れてなんらかのノイズを作り出して、それを気に入ってくれる者もいるだろうし、もしも気に入らないひとがいたら、残念でした! ということで。

(笑)。

CC:ハハッ。でも、自分は楽しんだよ。それに、観客たちも気に入ってくれたし、うん、あれはグレイトだった! 会場も良かったし、様々なヴィンテージのムーグ機材が置かれた横で演奏させてもらって、環境としてもばっちりだった。会場は素晴らしい空間だったし、音響設備も良くてね。それには大いに助けられたよ。

なるほど……と言いつつ、そもそもの質問は、あなたが大学生だった頃にやった初のソロ・ライヴはどんなものだったのか?ということでして。こちらの訊き方が明確ではなくて伝わらなかったかもしれません、すみません。

CC:ああ! というか、僕は大学には進学しなかったんだけどね。ただ、若い頃、70年代にたくさんの大学でライヴをやったのはたしかだね。イギリス各地の大学を回るツアーをやって、ソロでショウをやったこともあったし、ときには2、3人の友人たちと一緒に回ることもあって、彼らはライト・ショウを担当してくれてね。で、ライト・ショウをお伴に、僕は自家製のシンセサイザーでライヴをやった、という。あれは一種のコンセプチュアルなショウみたいなものだったし、うん、僕たちはイギリス各地の様々な大学を訪れてショウをやったものだったよ。

完全なインスト音楽とライト・ショウによるパフォーマンスだったんでしょうか?

CC:ああ、そうだった。だからまあ、いくつかのシークエンスを伴うアンビエント音楽、みたいなものだったね。

……観客の反応はどんな風だったんでしょう? いまならともかく、その当時としては、こう、かなり風変わりなパフォーマンスだったんじゃないかと想像しますが。

CC:(笑)。

それこそ、「なんだこれは?」と当惑するひともいたんじゃないですか?

CC:(苦笑)ああ……でも、音楽はかなりアンビエントなものだったし。それに、立体音響式でやったんだよね。その点は僕たちしては非常に興味深かったし、当時は立体音響にハマっていたから。ただまあ、お客の多くは「ロックンロール・バンドの類い」を期待して集まってくれたんだろうし、考え込んでしまうひとや困惑するひとたちは多かったね。それでも、おおむね観客の受けは良かったよ。

いろんな部品を注文し、自分で組み立てるという。だから僕が初めて作ったシンセサイザーは、あの雑誌で見かけた設計図にすべて基づいていたよ。そこからどんどんもっと大型のシンセを組み立てていくようになったし、他にももっといろんなもの、たとえばエフェクト・ペダル等も作っていって。

ところで、コージーの『Art Sex Music』を読んだ感想は? じつはいま日本版を訳しているんですよ。

CC:あー、そうだな……

かなり長い本ですけれども。

CC:そうだね。でも僕は、執筆が続いている間に、様々な推敲段階のヴァージョンを読んできたからね。あの本は元々はもっと長くて、それをフェイバー社側が編集してページ数を減らしていったんだ。というわけで僕はあの本のいろんなヴァージョンはすべて読んだことになるね……最終的にまとまった編集版の一部に「カットされて惜しいな」と思った箇所は少しだけあるけれども、でもまあ仕方ないよね、千ページの大著を出版するわけにはいかないんだし、ある程度は編集で減らさないと。
ただ……あれを読むとかなりエモーショナルになってしまうんだ。最後にあの本を読んでからかれこれ1年くらいになるけれども、いくつかの箇所は、読むのがかなりきついからね。そうは言っても、あの本は本当に好きなんだよ。すごく良いなと思ったし、ファンタスティックな本だ。とにかく、コージーのことを本当に誇らしく感じる、それだけだね。というのも、あれらをすべてページに記していく、その勇気が彼女にはあったわけだから、

彼女とのパートナーシップはいまも続いているわけですが、あなたが彼女から受けた影響はなんでしょう?

CC:あー……参ったな(苦笑)! それは大きな質問だよ。

(笑)ですよね、すみません。

CC:いやあ……答え切れるかどうか、それすら自分には分からない(笑)。

分かりました。じゃあ、これは次に取材する機会があるときまでとっておきますね。

CC:(笑)うんうん、次回ね。僕の次のアルバムが出るときに。

最後の質問です。いまだにTGの音楽がひとを惹きつけているのは何故だと思いますか?

CC:自分でも見当がつかないんだ。というか、それは先週末にも誰かと話していたことなんだけどね、「TGの音楽はかなりの長寿ぶりを誇るものだ」、という。で、初期TGのマテリアルの多くには、ある種のタイムレスなサウンドが備わっているんだよね。それがなんなのかは、僕にも分からない。TGのメンバーの間ですら、そのサウンドがなにか? を突き止められなかったからね。あれは相当に「ある瞬間を捉えた」という類いのものだったのに、でもどういうわけか歳月の経過に耐えてきた。一方で、多くの音楽は……ときに古い音楽は、20年くらい経ったらうまく伝わらなくなっている、ということもあるわけだよね? 「いま聴くと最悪だな!」みたいな。でもTG作品の多くには、なにかしら時間を越えた資質めいたものがあるんだよ。
思うに、その資質なんじゃないのかな、古くならないのは。だから、いまTGを聴いている人びと、いまTGを発見しているひとたちがいるのは僕も知っているし、彼らは聴いてかなりぶっ飛ばされているんだよね。で、それはグレイトだと思うし、素晴らしいことだと思っていてね。けれども、どうしてTGの音楽が聴き手にそういう効果をもたらすのか、それは自分でもいまひとつはっきりしないんだ。だから、TGのメンバーたち自身にも見極められないなにか、ということだし、他にもいろいろとあるよく分からないもの、そういうもののひとつだ、ということじゃないのかな?

なるほど。それに、そもそも長寿を意図して作ったものではなかったわけですしね。

CC:それはまったくなかったね。

坂本:2ヶ月ほど前にコージーに取材させてもらう機会があったんですが、そこで彼女も「40年以上経って人びとがまだTGを聴いてくれているなんて思いもしなかった。だからとても嬉しい」と話していましたから。でも、どうなんでしょうね、とても始原的な音楽だからかな? とも感じますが。

CC:ああ、そうだね! それはあるかもしれない。

もちろん、プリミティヴとは言っても電子音楽の形でやっているわけですが。

CC:うん、でも、彼女が言った通り、人びとが僕たちの音楽をその後も聴き続けるだろうなんて、僕たち自身考えてもいなかったからね。40年どころか、10年もしたら忘れられているだろう、そう思っていた。とにかくああして作品/活動をやっていっただけだし、それが終わったらおしまい。次にはまたなにか他のことをやっていこう、と。そうは言ったって、もちろん当時の僕たちはかなりいろいろと考えてTGの活動をやってはいたんだよ。ただ、だからと言って自分たちに「大局的な図」が見えていたわけではなかった、という。もしかしたら、だからだったのかもしれないよね、あんなにうまくいったのは。

4人のまったく異なる個人がTGというグループにおいてみごとにひとつに合わさったこと、それもあったかもしれません。

CC:ああ、そうだね。パーツを組み合わせた結果が単なる総和よりも大きなものになる、そういうことはたまに起きるからね。

わかりました。今日はお時間をいただいて、本当にありがとうございました。

CC:こちらこそ、話ができて楽しかったよ。

新作がうまくいくのを祈ってます。

CC:僕もだよ。聴いた人びとに気に入ってもらえたら良いなと思ってる。

大丈夫だと思います。

CC:そうかな、ありがとう。

ではお元気で。さようなら。

CC:バーイ!

(了)

国府達矢 - ele-king

信じてくれた誰も裏切らない自信がある 国府達矢 10年ぶりのアルバム「ロックブッダ」 これほどに創造的で思いに満ちたアルバムが他にあるだろうか このあり得ないサウンドを前にして僕は人間の底力をもういちど信じることが出来る ──2014年2月3日 七尾旅人のツイートより

 折りに触れ、国府達矢の作品とその存在が自身の活動の大きなインスピレーションとなっていることを深い敬意とともに公言してきた七尾旅人によって突如仄めかされた国府達矢の新アルバムの存在とそのリリースの兆しに、多くのファンがにわかに沸き立ったのが2014年。しかしそれから早4年、その作品は遂に日の目を見ることなく、ときが過ぎていった。
 その間の国府達矢の動静を知るものは少なく、また、じっと沈黙するアーティストの心の内奥を知るには、あまりにも性急にそしてかしましく世のなかや我々も移ろってきてしまった。本作のプレス資料に当たると、彼はこの期間、精神の深い沈潜と葛藤に悩まされてきたという……。

 国府達矢は、元々1998年にMANGAHEADとしてデビュー。その後、2003年本人名義で上述の『ロック転生』をリリースする。この作品は、特有の緊張感を伴った異様なまでの完成度や、縦横無尽な音楽語彙の横溢で「曼荼羅的」とも評され、ゼロ年代に生まれた日本ロック・ミュージックの中でも孤高の重要作としてしばしば語られる名作だ。その後Salyuへの楽曲提供などを経て2011年に「ロックブッダ」名義でシングル「+1D イん庶民」をリリースする。唯一無二の音楽性を更に推し進め、既存シーンの文脈に回収されない魅力を湛えた作品であったが、しかしその後散発的なライヴ活動を行う以外は沈黙を続けてきた。
 そして、昨年に入り自主企画の弾き語りイベントを開始し、遂に本格的に活動再開かと目されていた。そんな中、以前よりそのリリースが待望されていたアルバムが、七尾旅人の篤いサポートもあり、いよいよここに日の目を見ることになったのだ。まさしく語義通り「ファン待望」の作品である。

 そんな本作『ロックブッダ』、まず一聴して驚かされるのは、これまでに増して実験的と言える立体的な音像であろう。例えばアルバム1曲目にしてリード・トラックと位置づけられる“薔薇”では、リズムを基盤として和音楽器が加わっていくというロック音楽の基本構造を解体するように、むしろギターリフが先導してベースの自在なうねりとドラムスよる無数の打音を下支えする(尚今作は全編にskillkillsからスグルとサトシの二人をベースとドラムスに迎えてる。そのプレイの闊達で激烈なこと!)。そして、更に重ねられた国府自身による数多のギターフレーズが、空間を貫く針と糸のように駆け巡るとき、この作品がただごとでなく精緻な音響意識によって織り出されたものだということに早くも気付くことになる。本作のミックスにあたっては、録音素材の可能性を最大に引き出すために、長い模索の上高音質フォーマット(DSD))が使用されたというが、エンジニア達との共闘により、まさしくその効用の程は驚嘆すべきレベルに達していると言っていい。整音という次元を超え、これまでも多くのアーティストが挑んできた音々を建築的に配置するという三次元的ミックス手法の集大成というべき風格を湛えている。
 日本のアニメーション芸術にも大きなシンパシーを寄せてきたという国府ならではの、音響を視覚的に「デザイン」していく意識が、リズム構成とミックスワークにおいて、極めて鋭利に表出する。その視覚的感覚からは、ポスト・ロック、とくにかつてシカゴ音響派と呼ばれていた一群のアーティストによる作品と共通した美意識を嗅ぎ取ることもできるかもしれない。とくに先述の“薔薇”に加えて、“感電ス”、“アイのしるし”といった楽曲で聴かせるアグレッシヴなリズムと、エクスペリメンタルでありながらもあくまでメロウさを湛えたギターのフレージングの融合は、確かにそういったアーティストたちと共振する。
 しかしながら本作は、そのように画一的なイメージ喚起を大きく逸脱するオリジナリティに溢れているのだ。それは、国府自身の歌声およびそのヴォイシングの圧倒的個性に拠るところが大きいだろう。クルーナー的洗練を纏ったまろやかな歌声を聞かせたかと思えば、日本の民謡をはじめ様々なアジア的フォークロアを呼び起こすように、ときに土俗的に、生々しく歌唱する。音階表現とラップ的フロウの関係性はこれまでに増して密接となり、歌唱と語りの区別をすること自体が無意味化される。また、その声は鋭角的にリズムと呼応し合い、アクションペインティングが描く斑のように、音楽全体へと重なり合っていく。それは、よく音響派以降の評論において言われるように「人の声までもが楽器として配置されている」ようでありながら、次々とはき出される言葉は没意味化することはなく、むしろそのリリックはいよいよ際立ったシニフィエを運んでくる。

 リリックといえばやはり、『ロックブッダ』の名の示す通り、散りばめられた様々な仏教的モチーフにも注目したい。もちろんここには、大上段から教義主義的にその宗教世界観を訴えるといったことはない。あくまで我々が住まう世界の美しさを静かに見つめようとする透徹した視線と意識が敷衍される形で、そのモチーフは希求される。
 “続・黄金体験”の中、
 「いつか越えた山々の稜線から 今 惜しみなく零れだした黃金」
 という一節からは、弥勒の降臨や釈迦の臨在といったイメージを読み込むことも可能かもしれないし、また、長い苦悩と沈潜を経て今音楽を奏でることの僥倖を感じているアーティスト自身の喜びの表明とも読むことも出来るだろう。梵鐘のようなヴォリューム処理が施されたギターフレーズに彩られた霊妙なサウンドとあいまって、ある種の神秘体験が呼び寄せられるような感覚にも囚われる。(それは言い方を変えるなら、一般に「サイケデリック」と呼ばれているものであるかもしれない)
 他にも“weTunes”では妙法蓮華経の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六という仏典から、仏の安寧の世を意味する“雨曼荼羅華”というフレーズがリフレインされるし、また終盤に置かれた“蓮華”では、曲名自体が仏教的モチーフであると同時に、その花の性質として、「その華は泥の中で咲くという」と、難しい環境のなかで密やかに咲く花に対してのシンパシーを捧げてもいる。この曲はアルバムのクライマックスと呼ぶにふさわしく、曲が進行していくに従い徐々に音の厚さをましていき、真言(マントラ)を思わせるコーラスとともに、国府流のウォール・オブ・サウンドともいえる境地に到達することで、まさしく「耳で視る曼荼羅絵巻」とでも言える音楽世界が作り出されている。
 そして、(これは是非CDを初めから最後まで聴くことで体験してほしいのだが)アルバムは“Everybody's@buddha nature”という空白の楽曲によって閉じられる。それは、仏教においてもっと重要な概念であるうちのひとつ、「空」の顕現なのだろうか。音も歌詞も無い曲。ケージの「4'33"」は4分33秒の時間という幅を伴っていたが、ここではもはやそれすらも存在しない音楽が奏でられる。「無音」すらも「無」い。そういう意味では、これ以上に仏教的な「リリック」は無いのかもしれない。

 長い沈黙と苦悩を経たアーティストが、久々に作品をリリースするとき、人はどうしてもその人の辿ってきた葛藤や思考、ときにはその救済の物語に思いを馳せることとなる。それは、個人史を巡る興味となる一方、そのような物語を感得することで、彼が作ったその音楽自体の輝きに、より一層浴することも出来るのではないだろうか。もちろん、作品は作家からは独立しているのだ、という議論もあるだろうし、あくまでテクストとして音楽を分析することの意味も大きかろう。しかし国府達矢のように、その身体と全霊を自身の創作へ怯み無く投入してきた音楽家の場合、その作家自身の思想や世界観、そして辿り来た精神のドキュメントが欠け難い作品のピースとして結晶しているという意味において、我々はその作家自身に肉薄をすることを避けては通ることはできない。
 演奏、アレンジ、音響面での追求など、自らの音楽を偏執的とさえ言えるほどに磨き上げようとする技術的希求と、その仏教的な世界把握で自身の生と創作を不可分の地平に据えるアール・ブリュット的クリエイティヴィティが、精神の内奥で激しく相克する。その、ときに作家自身をも飲み込んでしまうような相克のダイナミズムこそ、彼の作り出す音楽の大きな魅力であり蠱惑であることは間違いない。テクストを読み解く知性とともに、形而上学的存在への眼差しも携えていよ。その愉楽に感応せよ。この『ロックブッダ』は、彼の音楽と彼自身の生を通じて、そう教えてくれる。

 彼はこれから更に2枚のアルバムの連続リリースを控えてるという。
 国府達矢の帰還に心からの祝福と喜びを。

この葛藤の連続がいつか誰かのためになることを知った
正面から真正面から 叫ぶ
そうだ あらゆる隔たりを超えていけ
──“薔薇”

CORNELIUS - ele-king

大久保祐子

 小さな子供がいる家庭ならわりとどの家でも朝と夕方はNHKの教育テレビ番組(Eテレ)を当たり前のように毎日つけている。教育テレビ、賢くなりますように! というのは表向きの理由で、各番組自体の面白さに加えてそれぞれのキャスティングのセンスの良さに、ぜひとも子供に見せたい(いやむしろ自分が見たい)と親の方が積極的にテレビに夢中になっている場合が多い。古くはトータス松本やクレイジーケンバンドなどの曲に加え、大人計画や片桐仁、サケロック時代の星野源などTVブロス的サブカル人が旬のお笑い芸人に混じって参加していたり、さらに最近は水曜日のカンパネラ、ナカコー&ミキやカジヒデキまで出演しているのだから、私も朝から目が離せない。そしてEテレのクリエイティヴ且つ遊び心のある大人向けな人選の最たる番組がこの『デザインあ』で、僅かな時間とはいえほぼ毎朝コーネリアスの音楽がテレビから流れるという贅沢が日常化してから、かれこれもう7年も経とうとしていることに驚く。残念ながら子供のほうはたいして興味を示してくれないのだけれど。

 青葉市子や坂本真綾にアート・リンゼイ、昨年活動停止を発表したチボ・マットなどの近年のコーネリアス・ファミリーや、本物のいとこにあたるハナレグミなど、豪華なゲスト・ヴォーカルを迎えた番組のサウンドトラックのシリーズ第2弾。収録されている曲は既にTVで何度も流れているお馴染みのものばかり。ミニマル・ミュージックでありながら控えめなコラージュ作品のようであったり、クラシックのようにも聴こえたり、童謡のようなカジュアルさもあり、堅苦しさは全くない。楽曲は番組内での文字や絵を使った映像に基づいているので『Point』以降のコーネリアスのMVのように、もしくはそれ以上に視覚と音をより密接にシンクロさせている。なのでいつも観ていたはずの番組の映像の部分がばっさりなくなると、人生の折り返し地点を過ぎて退化に向かいつつある中年は、登っていたはしごを外されたように音の小宇宙に取り残され、歌詞カードを裏返しながら「ええっと、この曲は10曲目だから……」ともたもたする。するとすかさず向こうから「○○の曲だ。さっきから『デザインあ』の曲ばっかり聴いてるね」と幼い声で鋭い指摘が入る。反応がないのであまり好きじゃないように見えたのに、ちゃんと聴いていて覚えていた。子供の耳って、よくわからない。

 そもそも「好き」ってなんだろう。好きになるのには理由が見える。元気で踊れる、とかこのメロディがいい、とか歌詞に共感するぅ、とかドラムの音が変態、だとか。そして「好き」は「嫌い」の裏側に潜んでいて、あるとき強烈な自我によってあっという間に翻ったりもする。なんかうるさいとか、このメロディはありきたりだ、とか歌詞が凡庸だ、とかオリジナリティがない、だとか、自分勝手な言葉を付けて、見えるところにいちいち姿を現す。では言葉にならない「好き」はどこにあるのか? 「好き」に理由がつかないと成り立たないのか? 感情というものは言葉を獲得すればするほど適当なものを探してうまく当てはめ、表に引き出され出ていこうとする。子供はそれを無理にやらないので、傍から見ている者は楽しそうに踊ったり、歌ったりする「好き」だけを受け取ってしまうけれど、内側に潜んでいる気持ちには様々な種類があり、きっと無限の可能性が広がっているのだろう。子供が自分で好きな曲を選ぶ場面で意外な回答をして周りを驚かせたりするのは、つまりそういうことなのかもしれない。

 たしかに音楽を聴いていると情動的になりすぎるきらいがある。自分が普段好んで聴いている音楽家のなかでも特に実験的なコーネリアスにですら、やれ11年ぶりのオリジナル・アルバムで、この歌詞はこれを意味していて、このような表現意図がある、と思いを巡らせ、感情を上乗せしたり、付加価値をつけたりしてしまう。好きな理由を言葉で探さないと落ち着かなくなってしまっているのだ。その固い頭のままでこのアルバムの"かんがえていない"や"うらおもて"や"おれがあいつであいつがおれで"や"なんやかんや"などの収録曲をじっと眺めていると、なんだかとても意味深に見えてくる。けれど並べられたタイトルは番組のコーナー名であって、意味はない。代わりにそこにはリズムを持ったデザインがある。「こどもたちにデザインの面白さを伝え、デザイン的な視点と感性を育む一歩となることを目指しています」と番組概要に記されているように、音楽もあくまでミュージックというスタンスを崩さず、素っ気ない位にアートで、洒落ている。現在、東京オペラシティで開催されている谷川俊太郎展の一角の、コーネリアスと中村勇吾とのコラボレーションによるギャラリーでも、視覚と聴覚のあいだを言葉が自由に弾んで刺激的な空間を作っていて、非常に面白かった。アイディアによって整えられたスタイリッシュなそのスペースに、もっともらしい感情を美しく詰め込むことは難しい。この際コーネリアスの人物像は余計な感情はさっぱり忘れて、身近な音のデザインとして気軽に楽しむことが正解だろう。そしてこのアルバムを何回も聴いた耳で『Mellow Waves』を改めて聴き返してみると、新たな音の発見があるはずなので是非オススメしたい。

 そういえば昨年「コーネリアスのファンのすべて」というファンサイトを勝手に設けた時に、コーネリアス好きとして話を伺った趣味の良い高校生の男の子が、NHKの「テクネ 映像の教室」という番組でコーネリアスが音楽を手掛けていた回を見たことがコーネリアスの名前を知るきっかけだったと話していて、なんだか嬉しかった。日常的にコーネリアスの音を耳にしていた子供たちがこの感覚を持ってこれから様々な分野に浸透していくことを思うと、未来が楽しみで仕方ない。一方で感情に苛まれたままの人間は、小山田圭吾が歌う曲をもっと聴きたい、レオ今井の歌う"Shoot&Edit"も入れてほしかった、などと、やはり余計なことばかり考えてしまう。ああ、煩悩とは!

Next 野田努

[[SplitPage]]

野田努

 のちにキング・オブ・テクノとさえ呼ばれることになる作曲家のブルース・ハークは、60年代初頭に感熱式シンセサイザーを作ると、エスター・ネルソンとともに1963年から子どもたちのためのダンス音楽を発表する。1978年に、テキサス・インスツルメンツ社は子供用教育用玩具としてスピークアンドスペルを発売。クラフトワークをはじめとする多くのテクノ・アーティストたちに使用される。エイフェックス・ツインとして成功したリチャード・D・ジェイムスは、同胞のマイケル・パラディナスと一緒にマイク・リッチ名義で極めて幼稚な作品を1996年にリリースする。コーネリアスを名乗り、かつて『ファンタズマ』を作ったロック・ミュージシャンの小山田圭吾は、2011年から「子供たちのデザイン的な視点と感性を育むこと」を目的としたNHK教育テレビジョンの番組「デザインあ」の音楽ディレクターを担当する。

 TVはニュースとスポーツ番組、そしてピエール瀧のしょんないTVぐらいしか見ないぼくは、当然「デザインあ」を見たことがない。以下、その立場で音楽を聴いた感想を書こう。

 『デザインあ2』は前作『デザインあ』同様に、小山田圭吾の無邪気なサウンド・デザイン/コラージュ、遊びの世界である。で、参加アーティスト:青葉市子、アート・リンゼイ、坂本真綾、ショコラ、チボ・マット、ハナレグミ、原田郁子、jan and naomi、環ROY×鎮座DOPENESS。まあ、このメンツで子供のための音楽を作るというのがミソで、もし音楽が文化として/趣味として衰退することがなければ、おそらく20年後の世界から見たとき「あの時代はこんなものがあったのか」ということになるのだろう。
 昨年の『Mellow Waves』の悲しげな響きとは、もちろん一線を画している。とはいえこれも確実にコーネリアス・サウンドだ。ロック的な陰影はなく、そしてリラックスした雰囲気や言葉遣い、その無邪気さが、この音楽を子供っぽい音の遊技性のなかに定義しようとしているが、一枚皮を剥がせば、むしろ実験的で、ときおりシド・バレット的なサイケデリック・ポップな側面も垣間見せる。子供モノというのは、歴史的に見れば、ときに大人の実験場にもなり得るのだ。
 子供はギミックが好きだ。サンプラーが好きだし、エフェクターが大好きだ。コアなYMOのファンというのは、だいたいが小学生のときに聴いた世代に多い。ぼくは世代的にクラフトワークのほうが先だった。感性が開かれるときの喜びとはああいう体験を言うのだろう。コーネリアスのポップな側面が、ヒットチャートではなくNHKの教育番組を通じて子供に伝播するというのは、現代的というかポストモダン的というか、なんとも感慨深い話である。 

East Man - ele-king

音とともに紡がれるロンドンの今

 アントニー・ハートがイースト・マン(East Man)名義で〈プラネット・ミュー〉から『レッド、ホワイト&ゼロ』を送り出した。長年ドラムンベースのシーンで活躍してきた彼だが、近年は140BPMを軸としたベーシック・リズム名義でグライム、ジャングル、テクノのサウンドスケープを発展させてきた。イースト・マン名義での今作では、ロンドンのグライムMCとのコラボレーションによって、さらにミニマルな音を追求し、硬質かつラフなグルーヴに溢れた一作を生み出した。
 彼が「ハイテック(Hi-Tek)」サウンドと名付けた自身の音は、ジャングルのブレイクビーツのリズムを、ミニマルなドラムマシンとベースで再構築したサウンドに聞こえる。緻密にプログラミングされたドラム、パーカッションとサイン波は、UKハードコアの長い歴史を感じさせながら、ときに緊張感、ときに静寂を生み出す。特に静寂を感じさせるタイミングには、独白的にスピットするグライムMCの声がより際立って聞こえる。
 アルバムでコラボレーションしているのは、ロンドンのあらゆるエリアのMCである。北ロンドンのグループYGGからセイント・ピー(Saint P)、リリカル・ストラリー(Lyrical Strally)など新世代のグライムMC、東ロンドンよりクワム(Kwam)、エクリプス(Eklipse)、南ロンドンからはキラ・ピー(Killa P)、アイラ(Irah)といった、長年シーンで活躍するMC。彼らはアントニー・ハートのサウンドに対して、明確なメッセージを与える。例えば、ダーコ・ストライフ(Darkos Strife)は日常の言葉で自分のアティチュードを表明する。

Trying to better myself, still need to make improvements,
So when it's that time there'll be no time for snoozin',
Life can be quite difficult, but I still keep it moving, stop myself from being useless,
Smooth sailing from here on, ima carry on cruisin'.

己を磨こうと心がけ、まだまだ足りない
時は来た、居眠りしてる暇はないんだ
生活はハードだが、動き続けよう
用なしのやつになるのはやめな、
ここからスムーズに帆をあげて、クルーズを続けよう

“Cruisin'”

 都市での生活はハードであり、「useless」=用なしの人間になることは容易い。都市のもうひとつのリアリティは、地下鉄でインタヴューに答える男のスキット“Drapesing(ドレイプシング)”で描かれる。「drapesing」とは、スラングで強盗という意味だと彼は説明する。彼は強盗を起こし、捕まったあと3ヶ月警察に拘留された。仕事も手につかず、週16ポンドの社会保障に頼っている。「週16ポンドじゃ生きていけない」と呟く。追い込まれた、あるいは自分自身を追い込んでしまった彼の疲れ切った話ぶり。つづいて、インタヴューワーは「仕事をしないのか?」と男に少しキツいトーンで聞く。ここで映し出される風景全体が、内面化された新自由主義的な自己責任の倫理、あるいはロンドンの空気を象徴している。「金払いがちゃんとしてて、楽しめる仕事なら。(お前らとは)住む世界が違うんだよ」、男は力なく答える。このスキットは、ポジティヴでアグレッシヴなMCが口にしなくとも、常に隣り合わせにしている人種や資本の問題が絡んだ都市の現実を巧みに描き出している。

 やけっぱちにすらなれないほどに疲れ果て、また追い詰められてしまう都市の苛烈さに身を置きながらも、いや置かれてもなお、グライムMCはビートの上で活き活きと自分を表現する。MCのユーモア、自己主張、そして自由さが感じられる。そして、音楽を拠り所にして、なんとか出口の見えない現実を生き抜こうとする姿が聞こえる。MCのクレバーで攻撃的な勢い、イースト・マンの静けさを感じさせるダンス・ミュージック、差し込まれるフィールド・レコーディングは物語を紡ぎ、アルバムを通してロンドンの一瞬を切り取っているのだ。

Yoshimi O, Susie Ibarra, Robert Akiki Aubrey Lowe - ele-king

 今年に入ってからインプロヴィゼーションをよく聴いている。家や電車のなかで、あるいは世田谷のはずれをとぼとぼと歩きながら。すごい時代に生きているなと思う。70年代のドン・チェリーの作品、たとえば『オーガニック・ミュージック・ソサエティ』のようなカルト的な2枚組、はたまたアリス・コルトレーンが1982年から1995年のあいだに自主で(カセットテープで)リリースした作品が朝9時の京王線のなかでも気軽に聴けるなんてことは、少し前までは考えられないことだった。
 紙エレキングvol.21にも書いたように、あるときぼくは、昨年から生演奏が入った作品(新譜)をよく聴くようになっていることに気が付いた。この場合の“生”への接近には、氾濫するデジタル・サウンドへの反動的な要素も含まれているだろう。電子音は日常生活において、もはや支配的だ。家の家電から小学校のダンスや校内放送、そしてスーパーや商店街にいたるまでと、すっかり生活音化している。ゆえにアンダーグラウンド・テクノ・シーンではIDM的な不規則さのほうが支持されているのだろうし、70年代のインプロヴィゼーション的なる自由でヒューマンな精神がアクチュアルなインディ・シーンのなかに、少しずつではあるが、注目の度合いを高めているのだろう。あたかもロボット社会に戦いを挑む戦士たちのように。

 むしろそうした勇ましさから逃れるような本作は、2016年12月、NYのブルックリンにおけるライヴ録音盤で、YoshimiO、ロバート・アイキ・オーブリー・ロウ、スージー・イバラの3人によるインプロヴィゼーションの記録である。
 YoshimiOは、Saicobab、ボアダムス、OOIOOなどの活動で知られるところだが、スージー・イバラはヨ・ラ・テンゴの諸作で演奏し、巨匠デレイク・ベイリーやマーク・リボーとのコラボ作、レオ・スミスとジョン・ゾーンとのコラボ作も出しているほどの、キャリアあるフリー・ジャズ・ドラマーだ。昨年、突如デムダイク・ステアの〈DDS〉からアルバムを発表したロバート・アイキ・オーブリー・ロウは、もともとはドゥーム・メタル・バンドのOM、あるいはLichens名義で活動しながらドローンの作品を発表していることでその筋では知られている。

 で、およそ1年前の録音になる本作『フラワー・オブ・サルファ(硫黄華)』だが、いま聴けて良かったというのが正直なところで、それはたんに1年前の自分にはこの音を受け入れるほどの柔軟性がなかったのではないかと思うからだが……や、そんなことはないか、この演奏がぼくを自由気ままな旅に誘う契機となったかもしれない。全4曲、“Aaa”“Bbb”“Ccc”“Ddd”から成るこのアルバムには、他で味わえない平静さ/静寂があり、休息があり、動きがある。ばらけているようで、有機的で、ことスージー・イバラのドラミングは特筆すべきだ。彼女の間合いの取り方ひとつでも、ぼくはデジタルな生活音の外側の生活音に瞬間移動できる。
 ぼくはこの演奏を聴いて、思わず70年代初頭のヨーロッパに渡ってからのドン・チェリー作品を聴き返してしまった。スピリチュアルと呼ばれる音楽の目的とは、早い話、硬直化した心を柔らかくすることだろう。感じ方がひとつのクリシェになってしまわないように。『フラワー・オブ・サルファ』の展開には、無駄な荒々しさも、強制的な重々しさもない。アンビエントがウェイトレスなる言葉に置き換えられて広まっている今日のアンダーグラウンド・シーンの動向と共鳴しているし、IDM的な非反復的なアプローチとも重なっているわけだが、なにはともあれ、自分の心のなかに平和な場所を確保できるのが嬉しい。

FUNGI──菌類小説選集 第IIコロニー - ele-king

幻妖なる真菌ファンタジーの極み。

縦横無尽に増殖するキノコ、幻覚を誘う種々の物語、異色のテーマ・アンソロジー第2弾。

「キノコをテーマにこれほどいろんなタイプの物語が紡げるものかと驚嘆する」
「テーマアンソロジーとして出色の出来なので、菌類好きの方は必読」
(豊﨑由美『婦人公論』2017年5月23日号「第Iコロニー」書評より)

好評を博した「第Iコロニー」から1年。菌類たちの増殖はとどまるところを知らず、続編を要求する彼らにわれわれは屈服せざるをえない事態に陥った。あなたもまたこのとめどないキノコの横溢に降伏することになるだろう。幻妖なる菌類小説集、「第IIコロニー」形成。

■FUNGIとは……
菌類、菌類界の意。
広義ではバクテリヤ類(Schizomycetes)をも含むが、
狭義では粘菌・カビ類・酵母菌類・キノコ類など真菌類(true fungi)をいう。
『新英和大辞典 第六版』(研究社)より

収録作

幽霊屋敷へと忍び込んだ超自然現象専門探偵の物語
Ⅰ 青色のへきれき (イアン・ロジャーズ)

男と女、愛の不均衡、菌類が知らせるその真実
Ⅱ 死者たちの夢見るところ (A・C・ワイズ)

とある村に起きた異変を描く歴史ものファンタジー
Ⅲ 黒花の微塵 (ダニエル・ミルズ)

人類にとって本当の危機とは何かを問うスチーム・パンク
Ⅳ ど真ん中の怪物 (フリオ・トロ・サン・マーティン)

エコロジー的観点から描かれた近未来的日常風景
Ⅴ オイスターのなかの真珠と温室のオイスター (リサ・M・ブラッドリー)

互いに住みやすい環境を求める人と菌類との往復書簡
Ⅵ 菌真者への手紙 (ポレンス・ブレーク)

妙な臭いの丸太を菜園に埋めるよう促す母、はたしてその真意は?
Ⅶ すべての真ん中を貫く孔 (ニック・ママタス)

かつて父と暮らした家の壁のカビが、少女の心象風景を侵食する
Ⅷ 再びの帰宅 (サイモン・ストランザス)

巨大キノコとの闘いに挑むヒロイック・ファンタジー
Ⅸ やつらはまずブタを迎えに来る (チャドウィック・ギンサー)

知らないはずのことを知っている――菌類が紡ぐ記憶の連鎖
Ⅹ ガンマ (レアード・バロン)

彷徨する胞子を歌ったスペキュレイティヴ・ポエム
Ⅺ 冬虫夏草ゾンビ (アン・K・シュウェーダー)

飛行機恐怖症の小説家の顛末を描く一大菌類賛歌
Ⅻ われらが物語は永遠に (ポール・トレンブリー)

Young Fathers - ele-king

野田努

 アートワークに描かれている歪められた顔は、ちょっとだけPiLの『メタルボックス(セカンド・エディション)』のジャケを思い出させる。変型した表情は、変型させられた内面を表しているに違いない。なにせこのご時世だ。しかしながら……ヤング・ファーザーにとっての肝はまずはサウンドだろう。いかに人と違った/変わった/独特なサウンドを創出して、ポップにまとめあげることができるか。

 グラスゴーのエジンバラで結成されたこのグループは、その新作を聴いて思うに、つきなみな言い方をすれば、極端だがじつに“UKらしい”。広範囲にわたって、他からいろんな要素を柔軟に吸収し、そして活力を得ること。USブラック・ミュージックのエネルギーに共振しながら、模倣ではなく、その組み合わせの妙でオリジナルなものとして再編成させること。言うなれば結合術に長けていること。そしてそれが、社会の上層部からは見えない、大衆の気持ちの深いところにリンクすること。
ヤング・ファーザーズにとって3枚目になる『ココア・シュガー』は、基本的には前作の延長にある。要するに、ヒップホップ、R&B、ゴスペル、ドゥーワップのクラウトロック的(Canのような)プリコラージュがときにクラウトロック的(Neu!のような)リズムで展開される。2曲目“Fee Fi”の壊れたコラージュはクラウトロック史においてもっともつかみどころのないグループ、Fasutのようでさえある。
ヤング・ファーザーズが抱えるジレンマとは、これまたつきなみな言い方になるが、クラウトロック的ポップの遊び心ないしは実験精神を、ヒップホップとR&B(という階級差を越えて人気をほこるポップ・ミュージック)で育った世代の耳にまずはどう響かせるのかということだろう。彼/彼女らの耳をぐいっと広げ、感性をぱかっと開かせて、そしてきゃっほーと盛り上げる。そのことを彼らはうまくやっている。
『T2 トレインスポッティング』(この映画に関しては紙エレvol.21にコラムを書いた)を観てヤング・ファーザーズの音楽が思いのほか場面にハマっていることに、ぼくはちょっと感動した。いかにも90年代的なアンダーワールドの“ボーン・スリッピー”に対して、ヤング・ファーザーズの曲はじつにアクチュアルな響きを有している。当たり前のことだが、彼らの曲は今日のムードを反映しているのだ。今日性ということなら、Burialのサンプル・アートでも、あるいはアメリカ人のチーノ・アモービのサウンド・コラージュでも十二分に表現できると思うが、しかし彼らの音楽がコメディタッチの映画に向いているとはとてもじゃないが思えない。

 そういう意味で、ヤング・ファーザーズはインタヴューでも発言しているように、たしかにポップであることにこだわっている。彼らの音楽を耳障りだと思う人でも、さすがに“In My View”は受け入れるだろう。バラード調で、何気に教会音楽のフリをしながらゆっくりと爆走する“Lord”にも笑うかもしれない(歌詞を読むと、宗教は本作において重要な主題となっているようだ。まあ、そこはスコットランドであることが大きく関わっているのだろう)。
サウンド面に絞って言えば、全曲に渡って言えることだが、前作以上に小技が凝っているし、ヴァラエティに富んでいる。“Toy”はNYのポストパンク・バンド、スーサイドの安っぽいシンセ・ロックをソウル・グループがカヴァーしたかのようで、4/4キックドラムをもって展開する“Wire”は苦痛と絶頂のハード・テクノである──そしてこのようなペダンティックな解説をもつ音楽は、たいていの場合、ポップからは遠ざかるものである。
ゆえにここがヤング・ファーザーズの戦いだ。ポップのなかに実験性を持ち込むことは矛盾にはならない。レトロに惑溺するばかりの、実験をおそれる文化は衰退するだろう。少なくともヤング・ファーザーズはポップ・ミュージックはまだ拡張しうると信じているし、その必要性を強く感じている。そしていつの時代も若い人たちは、尖ったものに反応する。しかし『ココア・シュガー』は、過去2枚よりもさらにポップになった。オールド・ファーザーも一緒に楽しませてくれ。

Next >> 柴崎 祐二

[[SplitPage]]

柴崎 祐二

 いきなり本論から外れた話になってしまうのだけれど、昨年公開された映画『T2 トレイン・スポッティング』について。
周りには賞賛する声が多かったのだけど、僕はどうもいまひとつ楽しむことが出来なかった。もちろん、捨て鉢的勢いをもった傑作青春映画たるあの一作目からは20年以上の時が過ぎ、経年の残酷が色濃く漂うものになるのだろうなという予感はしていたし的中もしたのだけれども。でもそれ以上に、その過去に対してどうも監督のダニー・ボイル自身もケジメをつけようとしているのになかなか叶わない、そういった藻掻きの息苦しさが、あの灰色にくすんだようなエディンバラの風景へ色濃く溶け込んでいる気がして、どうにもドンヨリした気分になってしまったのだ。
そして、その音楽の使い方。カウンター・カルチャーとポピュラー音楽の密接性を熟知しているダニー・ボイル(少なくとも一作目はそれが非常に有効に作用していた)だと思っていたのに、なんたる隔世の感! と思ってしまう自分がいた。というか、そもそもこの映画自体が先述の通り過去の呪縛をテーマにしている時点で、そういうライブリーなポピュラー・ミュージックの使い方を避けざるを得ない(というか出来ない)のは理解するんだけど、それにしたって、「ラスト・フォー・ライフのプロディジー・リミックス」、「ボーン・スリッピーのスロー・ヴァージョン」って……という。同窓会で久々に会った同級生が当人なりには若作りをしたつもりでSTUSSYの最新ウェアを着てきたときの感じ、みたいな……。いや、ごめんなさい。
だからこそ、とくに私と同年代かそれより少し上の(多分それが1作目のリアルタイマー世代でもある)観客が、わりと素直に「1と同じくぶっ飛んでて面白かったー!」や「相変わらずみんなクソで笑える!」や「やっぱりボーン・スリッピー最高!」みたいな感想を無邪気に投稿しているのをみて、結構な驚愕を覚えたりした。いやいや、わかるけど……そうじゃねえだろ! と。

 ──書いているうちに妙に映画を観た時の違和感が鮮烈に蘇ってきて前置きが長くなってしまったのだが……もちろん感心した点もあった。そう、それこそがこの『T2』で珍しく見出せる現代の新潮流との接点であるところの、ヤング・ファーザーズの起用だったと思うのである。Only God Knows“”はじめ彼らの提供した楽曲のインパクトは、他のコンサバティブなトラックの中にあって、圧倒的な存在感を放っていた。鮮烈なビート、挑発的なラップ、ヴォーカル、艶めかしいメロディーと音像……。一瞬の瑞々しさを提供することで映画を前方向に駆動させつつも、劇中で描かれるスコットランド〜エディンバラのダークな質感にストリート的リアリティを強く付与することとなっていたのだ。映画の舞台であるそのエディンバラで活動をはじめ、いまやファースト・アルバムのマーキュリープライズ受賞以来、UKでもっとも期待の置かれるアクトとなった感のある彼らが、このような仕事をこなした意味というのは、映画に与えた演出効果以上に大きいのかもしれない。つまり、彼らの作る音楽の持つコンテンポラリーな意義は、『T2』内で示されたような閉塞化しつつあるUK生活圏における写し鏡や、もしかしたら突破力としての役割が与えられているのかもしれない、ということにおいて。

 この最新アルバム『ココア・シュガー』は、極めて良質の、しかも粒ぞろいの(彼ら自身がそう表現するように)類まれな「ポップ・ソング」集となった。前作からあまり目立たなくなってきたラップはさらに後退し、それに引き換える形で、よりシンギング志向で、且つソング・オリエンテッドな意識が強くなっているように思われる。相変わらずそのビート・メイクはかなりトリッキーで、Aメロ〜Bメロ〜サビ型のポップ・チューン的常識からは浮遊した地点にいるのだけれど、全体の聴感としてはよりソング重視型となり、小気味よく曲がはじまっては3〜4分で次々に終わっていく。(本人たちはインタヴューで特定の作品からの影響を否定しているが)音楽的参照の射程はさらに広範になったと感じるし、同時代のR&Bやヒップホップ、グライム、またはかつてのクラウトロックやアンビエント〜ニューエイジミュージックからの影響も指摘もできるし、トライバルな感覚もより強化されている。
そしてさらには……いや、やめておこう。そうやってどんなに音楽的特徵を逐語的に挙げていってみたとしても、どうやらこのアルバムの持つ「ポップ・ソング性」そのものについて肉薄することは難しいように思われるからだ。それよりもむしろ、こうして様々な音楽要素が開陳されているのにもかかわらず、匂い立つある種の統一感や、もっといえば「中庸性」といったものについて言葉を尽くす方が良いかもしれない。たしかにビートとリリックは刺激物としてのエッジを備えているが、どうやら彼らは、かつてカウンター・カルチャーの中で継承されてきた、1回性のある突飛さ(それはより一般的な言葉で言えば「オリジナリティ」ということになる)を絶対視して礼賛する心性にはあまり関心が無いように見えるのだ。むしろ、デジタル・ネイティヴ的感性が生みだした数多のコンテンツの乱雑な林立を引き受けた上で、その「オリジナル」や「作家性」といったものさえも押し流されていくような氾濫のなかに、極めて鮮やかな構造分析的な手際で同時代的な価値を見出していくといった感覚を携えているように思う。
デジタル的異形が日々氾濫し、音楽の多様性が日々自己増殖していくなかで、そのことを引き受け前提としながらもなお、記名性を持った一個のアーティストとしてクラフトされたアルバムを作ること。その意味を探ることとは、いまこそ様々な音楽を知的に探求しバランスを取りながら「ポップ・ソング」を追い求めることである、と彼らは無自覚に気付くことになったのかもしれない。様々な色を混ぜ合わせれば一色に帰するように、多様な音楽要素を煎じ詰めてれば、すべからくユニヴァーサルな存在(=ポップ・ソング)になる。様々なスタイルが現れては消え、現れては消えするが、収められた曲同士に断絶感はなく、あくまで「ヤング・ファーザーズ」というバンドの体臭を伴いながら統一され、ポップ・ソング集としての風格を湛える。
そもそも、翻ってみるとポップ・ソングとは、ブリル・ビルディングやビートルズ、モータウンの古きからして、音楽的な多様性を滋養として成立してきたものでもあった。そういった意味でヤング・ファーザーズは、現代にありながら、かつてとアプローチの方法は異なれどポップスのマナーの伝統を引き受ける、いまもっとも「ミドル・オブ・ザ・ロード」でプロフェッショナルなアーティストなのかもしれない。

 いまUKは、EU脱退国民投票以来、その社会全体が閉塞感を募らせている。それは、イングランドに対するカウンターとして機能されるかと期待されているスコットランドにしても逃れられない趨勢であると言える。映画『T2』では、それまで比較的クリーンとされていた地域(エディンバラ)の荒廃が容赦なく描かれている。いや、この衰微や閉塞の感覚は、ミシェル・ウェルベック的にいうなれば、ヨーロッパ全体の通低音であると言えるし、より拡張的に、日本も含めた先進国圏に共通するものと言っても良いだろう。右派であるにせよ左派であるにせよ、すでにその疲弊に気づかないものは居なくなりつつあるこのいま、文明の衝突やグローバリゼーションの弊害などの議論を経て、多様性の保存こそを仄かな指針として信望する趨勢のなかにあって、音楽シーンにおいてもヤング・ファーザーズのような新しいポップスのつくり手が登場したということは必然であったのかもしれない。
この最新作には、その必然性を裏付ける成果が頼もしく詰まっている。彼ら自身はアルバム作りにあたって社会的なイシューをあまり意識していないとインタヴューでは語っているが、だからといって社会が彼らに要請したことが少なかったことは意味しないのだ。いつだって、優れたポップスの担い手は、社会が無意識に望むことを形にしてきたのだし、しかもその作品自体が度々社会に力強いフィードバックを投げ返すことだってしてきたのだから。

 2018年の2月の統計によれば、Spotifyには20億のプレイリストが存在するという。一方で、楽曲の数は3000万曲だ。つまり、3000万の楽曲数に対して、その約70倍の20億のプレイリストが存在するということだ。これは端的に、Spotifyのようなストリーミングサービスにおいては、プレイリストを活用して音楽が聴かれているケースが多いことを意味しているだろう。
 自分の好みの楽曲を、自分の好きな順に並べ、享受する。
 Spotifyのアクティヴユーザ数は1億4千万なので、その多くが複数の個人的なプレイリストを作成しているのかもしれない。少なくとも、その数は日々増え続けるだろう。20億の内でも、毎日500万のプレイリストが更新されているという。
 このような環境下において、「アルバム」という単位は過去のものとなる。アルバムはその始めから終わりまで、一定の曲順による、数十分単位での聴取をリスナーに強制する。いや、依然としてアルバムという括りで作品はリリースされているのだが、もはやリスナーは、その括りには服従しない。古くはSP盤、そしてLPレコードや、CDの収録時間の限界によって、ひとまとまりの音楽がパッケージングされる際の時間の長さは移り変わってきた。その括りは、限界を持っていた。ストリーミング時代にはもはや収録時間という限界はない。しかし、限界があったからこそ、人はそれを「アルバム」という単位で括り、ひとつの芸術作品の単位としての価値を見出した。

 ケンドリック・ラマーは、アルバムという括りを、創作の拠り所とするアーティストだ。
 2017年4月14日。ケンドリック・ラマーの目下の最新アルバムである『DAMN.』はリリースされた。それと同時に、高いリテラシーを持つ世界中のリスナーたちが、我先にとリリックを解析し、このアルバムに潜む謎解きに興じた。『Good Kid M.A.A.D City』(以下『GKMC』)や『To Pimp A Butterfly』(以下『TPAB』)と同様、このアルバムもコンセプト・アルバムであることを宿命付けられていた。
 この『DAMN.』という括りの顔は、文字通りケンドリックの言い表し難い顔の表情をフィーチャーしたポートレイトだ。『GKMC』や『TPAB』のジャケットのデザインも担当したVlad Sepetovによれば、いままでデザインに関して習ってきたことへの反抗として、わざと悪趣味なジャケットにしたという。明らかに『TIME』誌を彷彿とさせる、赤い四文字と、ケンドリックの表情。もちろんケンドリックは、「とき」の人だ。その名は世界中に轟いている。グラミー賞のパフォーマンスを見た日本の大物芸人でさえ、彼への賞賛を述べている。その寂しそうな目が、良いのだという。
 『GKMC』も『TPAB』も、情報量過多の異常な高密度を誇るアルバムだった。『GKMC』はケンドリックの半生を振り返りつつ、フッドの暴力と犯罪から彼がいかに抜け出したかを描いた、いわば彼の半生のダイジェストだった。そして『TPAB』は、スコープをさらに広げた、途方もない作品だった。数々のブラックリーダーやミュージシャンたちを言葉とビートで召喚した、彼らの歴史のダイジェストであり、音楽史のダイジェストでもあった。ダイジェストというのは悪い意味ではない。なにしろ制限時間80分のアルバムという単位に、30年分の半生を、あるいはもっと大きな物語を落とし込むのだから、それは否応なしに高密度のダイジェストとなるのだ。
 決められた時間にどこまで多くの情報量を詰め込めるか。それはケンドリックのライムの言葉数、曲ごと、ときにはヴァースごとに変化する複数の視点、自身の家族から2PACまで様々な語り手によるインタールードの多用、めくるめく展開の多いビート、それらのプロデューサーと演奏陣の多用さなどに表れている。あるいは、複数の楽曲からのヴァースを巧みにつなぐことでひとつの物語を浮き彫りにするようなグラミー賞のパフォーマンスを見ても、そのことは明らかだった。
 複数の視座から物語を描き、複数の解釈を可能とすること。彼が『DAMN.』のデラックス・エディションをリリースし、楽曲を逆順に並べても成立することを証明したのは、その最たる現れだろう。そしてそれは、アルバムという単位だからこそ示せる、複数の視点(複数の楽曲、複数のヴァース)から緻密に描かれた世界観だ。
 たとえば『DAMN.』の中で、曲単位で複数の視座を持つ象徴的な曲に“FEAR.”が挙げられる。このアルバムの14個のピースに埋もれてしまいかねない、一聴してスロウで地味なビートは、アルケミストのプロデュースによるものだ。スキットを引き伸ばしたような、間隙が多く、どこか掴みどころのない展開。しかしシングルカットの候補とはなり得ないような同曲にこそ、このアルバムを支配するトーンが濃縮されている。この30歳のラッパーのステイト・オブ・マインドが最も端的に開陳されているのだ。どういうことか。
 スキット含め7分41秒のこの曲には、複数のヴォイスが乱立している。冒頭から、The 24-Carat Blackの有名な“Poverty's Paradise”からのサンプルである男女二声による歌声、従兄弟のカールによるヴォイスメール、BLSによる神へ疑問を投げかけるフレーズ。そしてヴァースに入り、10年毎の自身の「怖れ」を描き分けるために、ケンドリックが使い分ける三つの視点。三つのヴォイス。合計で6種類のヴォイスが入り乱れる、彼らしい複雑な構造を見せつける楽曲だ。その上楽曲のラストの4ヴァース目には、このアルバムのことを「Fourteen tracks on the wax(レコードの14曲)」と言及し、それら14曲すべての収録曲のタイトルが散りばめている。結果、最もメタ視点を持ち合わせているといえる楽曲だ。

 中でもケンドリックが使い分ける三つのヴォイスの効用はどんなものだろうか。まずファースト・ヴァースで描写される7歳のケンドリックの「怖れ」は、抑圧的な母からの叱責だ。その母親の視点でライムされる「お前の尻をぶつよ」というフレーズを起点に、手を変え品を変え、彼の行動全てが注意の対象となる。近所では珍しく両親が揃った家庭に育ったケンドリックだが、厳しい母親が少なからず彼の世界を規定し、常にいわば「Good Kid」側の庇護者としての影響力を行使していた。たとえば『GKMC』収録の“The Art of Peer Pressure”では、警察に追われながらも、母親からの電話で我に返らされ、自身の本来の居場所へのアクセスを保っていた。インタビューでも、ファースト・アルバムのリリックはほとんど母親のキッチンで書いたと言っている。
 次にやってくるのは17歳のケンドリックの「怖れ」だ。セカンド・ヴァースで描かれるのは、コンプトンという「Mad City」に生きる若者が直面せざるをえない、死という観念に取りつかれた現実だ。17歳の視点で「おそらく俺は○○で死ぬだろう」と自身の死につながる様々なシチュエーションを列挙していく。それらを言語化することでワースト・ケースに備えるという自己防御にも見える。
 ケンドリックは2012年にウェブメディアのComplexの取材に応え、これまでにインスパイアされたアルバムを25枚挙げてそれぞれにコメントしている。そこに挙げられているのは、東西やサウスのクラシックであり、もちろん、ビギーや2パックのアルバムだ。2パックの『Me Against The World』収録の“Death Around The Corner”をフェイバリットに挙げ、「ダークなアルバムだ。彼の空間に対する考え方が分かる」と指摘している。それは潜在的な圧力としての死の緊張感が、充満する空間だ。だからこのヴァースは、2パックが描く、角を曲がればそこに死が鎮座しているような空間の磁場に、自らも絡め取られていたことの記録でもある。
 このような死への怖れが溢れているのは、リリックだけにとどまらない。ヴァースの背景に流れるビート、さらにそのビートの後景に耳を澄ませてみると、薄い「ホワイトノイズ」が聞こえることに気付くだろうか。もちろんこの音自体は、アルケミストがサンプリングしたレコードに含まれるノイズや、機材のノイズかもしれない。一方で、このノイズもまた「怖れ」を象徴している。ドン・デリーロの小説『ホワイトノイズ』において、それはまさに死への恐怖という通奏低音として描かれていた。普段は意識にのぼらないが、実は日々常にそこにあって、薄く呼吸しているもの。ふとしたきっかけでそこにあることを強く意識させられるもの。
 銃声で始まり銃声で終わる『DAMN.』というアルバムは、終始一貫して死への怖れに溢れている。冒頭の銃声は、ケンドリックによる盲目の女性への親切心に対する、不条理な裏切りと捉えることができる。突然降りかかるこの不条理は、主人公が家族を守ろうとして思いがけず汚染物質に曝されてしまう、デリーロの『ホワイトノイズ』のそれと同じ性質を持っている。しかし『ホワイトノイズ』における死は、すぐにはやって来ない。主人公はいつやって来るとも知れないその足音を幻聴し、怖れおののく。常に日常に纏わりつくそのノイズの響きは、いわば「延々と先送りされる銃声」なのだ。そして『DAMN.』においても、冒頭の銃声が何であったかの結論は、アルバムの最後まで先送りされる。そしてこのような「先送り」が可能となるのも、アルバムという括りの「長さ」があるからだ。

 “FEAR.”でケンドリックが提示する三番目の「怖れ」は、さらに10年後の2014年、27歳になった彼が対峙する「怖れ」だ。2012年のメジャー・デビュー・アルバム『GKMC』の成功によって、多くを持つ者となった彼に訪れたのは、それまでとは全く異なる種類の怖れだった。アーティストとして成功し、巨額の金を手にし、この生活を失うことを怖れるのだ。そのような怖れに無自覚に金を使うことすらできない。資金管理をするアドバイザーが必要かと悩みつつも、リアーナが何億円もの損失を出した会計士を訴えたケースに思いを巡らせ、そのような怖れを前に途方に暮れる。
 成功者の孤独。それがどんなものなのかは、本人にしか分からない。しかし、彼の孤独とはどんなものなのだろうか。その寂しそうな目つきは、孤独だからなのだろうか。
 かつてハンナ・アレントは、『全体主義の起原』のエピローグの中で、「孤独(solitude)」と「独りぼっちであること(loneliness)」の違いについて議論している。〈solitude〉は、物理的にひとりであるときに生まれる孤独だ。一方〈loneliness〉は、他の人々と一緒にいるときに最もはっきりとあらわれてくるという。他者に囲まれながら、彼らと接触できず、彼らから敵視されている状況だ。しかし〈solitude〉を抱える状況下では、物理的にひとりきりであるがゆえに、自分自身と一緒にいて、自分自身と話すことができるというのだ(*1)。
 ケンドリックの孤独とは、〈solitude〉だろうか。それとも〈loneliness〉だろうか。たとえば先述の『GKMC』収録の“The Art of Peer Pressure”では、ケンドリックは仲間たちの同調圧力に押されて一緒に民家に強盗に押し入る。僅かのところで警察に捕まらずに済むものの、この出来事は、彼の居場所が間違っていることを気付かせ、仲間たちとの間に圧倒的な距離を感じさせる。つまり、彼は〈loneliness〉に押し込められる。ケンドリックは9歳のときに、バーガースタンドの裏で男が銃で殺められるところと、その犯人をも目撃している。さらにその数年前には従兄弟を亡くしている。そのようなフッドの周りの人々たちと、一緒に強盗に押し入った仲間たちのどちらへも断絶感を覚えるケンドリックは、独りぼっちになるのだ。“FEAR.”のセカンド・ヴァースのリリックのように、彼は自問する。明日には自分も殺されるかもしれない。誰も信じられない。頼れるのは自分しかいない。何とかしなければならない。ここを脱出しなければならない。しかしそのような自問自答は、自分自身というパートナーとの対話だった。やがて彼はマイクを握るようになる。そして、その対話をリリックにしたためるようになる。〈solitude〉に包まれて、独りでペンを走らせる。
 “FEAR.”の3つのヴァースで展開される複数の視点の移動は、7歳のケンドリックを叱りつける母親、17歳の時のケンドリック自身、そして27歳の自身を振り返る29歳(リリース時)のケンドリックという三者によるものだった。しかしこれは、母の目を通した幼い自己との対話であり、17歳の若い自己と、2年前の自己との対話でもあった。ケンドリックにとって、リリックを書く行為とは、〈solitude〉における自己との対話なのだ。
 そう考えれば、ジャケットのポートレイトはどのように見えるだろうか。かつてアルチュール・ランボーが、鏡の中の「私」を「一人の他者」と知覚したように、このポートレイトも、ケンドリックにとっては「一人の他者」なのだと言えるだろう。つまり、自分が抱いている自身の像と、他人から見える像の間には隔たりがある。だから、このポートレイトのほとんど「不気味なもの」を目にしてしまったかのような表情は、まさにそのような「不気味なもの=一人の他者」としての「私」を目にしてしまったときの表情そのものであるようにも見える。「不気味な私」が映っている写真を見てしまった「不気味な私」が写っている写真を見てしまった「不気味な私」が……という無限のループ。
 しかしケンドリックのヴァースに表れる、そのような「不気味な私」としての自身の鏡像は、ときに過去の自身の姿となり、ときに様々な人物の形をとる。それらの姿を束ねることができるのもまた、「アルバム」という括りにほかならない。

 アレントは、独りぼっち(loneliness)の人間が自分自身を発見して、孤独(solitude)の対話的な思考を始める可能性があると指摘していた。これはまさにケンドリックが通った道であるのは前述の通りだが、この道を通った人物の例としてアレントが挙げるのは、「ツァラトゥストラ」を発想したときのニーチェである。ニーチェはツァラトゥストラの言葉として、次のように述べている。

多くのものはあまりに遅く死ぬ。ある者たちはあまりに早く死ぬ。「死ぬべき時に死ね」、という教えはまだ耳慣れまい。(中略)人間たちも、死ぬとなればもったいぶった意味をほしがる。からの胡桃も割ってほしがる。

 一連のケンドリックの「アルバム」は、彼が実際に経験した死に関わる不条理、つまり彼の従兄弟の死や、9歳のときに目撃した男の死に、さらに言えば、不条理な暴力の犠牲となった者たちの死に、意味を与えようとする弔いにほかならない。これらの「アルバム」は、ケンドリックがライムで写し撮った彼らのポートレイトで、溢れているのだから。

———
*1:このアレントの議論の挿入については、批評再生塾第3期生の伏見瞬氏の論考「〈二者〉の哲学者、國分功一郎」から着想を得た。

7 ムードとモード(2) - ele-king

 いつか新宿ピットインの壁に掛かっていたエルヴィン・ジョーンズの写真を見ながら、アフリカ帰りの友人パーカッショニストAが言った。
「胸のあたりになんかあるやろ。ここで叩いている気しない?」
 言わんとしていることはなんとなくわかった。おでこのチャクラだけが先行してそれだけを頼りに音楽を聴いていた10代の頃から、ドラムを叩きながら同じようなものがへその下辺りにあることに気づき始めていた23歳くらいのことだったように思う。それを彼に伝えると、「それのバランスが大事やで。そしたらみぞおちの辺りで繋がってくる」と返された。エルヴィンのそれか。

 モードに入らないと何かを始めることはできないが、同時にモードは払拭するためにもある。2月前半から3月頭にかけて主に GONNO × MASUMURA と OLD and YOUNG の録音で大半を東京で過ごした。出発前、大分の山でアイデアと動きを温めて、体調を整えて、後悔のないように、なんていう気持ちで飛行機に乗り込んでいた。もしそのまま録音が終わっていたら、「やりきることができた」なんていう感傷主義に堕していただろう。
 確かに練習や経験が高まると、時に抽象的な気持ちよさを感じることができるが、そこに留まるとすぐに経験世界に逆戻りしてしまう。東京に着いて、まずGONNOさんとの録音に入り、セッティングを終え練習がてらセッションを始めた時、不思議とAの言葉を思い出した。みぞおちモヤモヤのリズム……スピリチュアルなことではなくて、誰しも叩いてて得も言われぬ気持ちよさを感じたことがあるに違いない。そして、どうやったらまた感じられるのだろうと思ってもなかなかもう一度やって来ないことも知っている。その要因のほとんどが、偶然、もしくは相手、だからだろう。音はもちろんのこと、GONNOさんが機械をいじっている姿自体に一箇のムードを醸し出される。相手は最高だ。僕はみぞおちで答えて、気持ちよくなりたくなった。恐らくこれが現時点での正解なのだろうと感じた。

 そういえば、森は生きているで初めて笹倉さんのスタジオへ行った際、彼が「まずセッティングだけしたらゆっくりしましょう。外人達はスタジオに来てもしばらく休んだり喋ったりしてなかなか録音を始めない。でも、録り始めたらすぐだ。」と言った。僕は、モードが準備や底上げだとしたら、ムードのためにならないとしょうがないことを知っているのだろうと受け取った。今は、充分なモード、少しの意識、リラックスが、ムードのファクターのように思う。GONNOさんとは少しの練習の中でトラックとクリックの関係に慣れたら、充分な休憩を設けて1テイクないし2テイクで録った。そんな環境を許してくれたエンジニアの葛西敏彦さんに感謝である。

 数日経って、笹倉慎介さん、伊賀航さんとの録音では、みっちりアレンジを練りながら8割程整ったところから録り始めた。そこから1テイク目、2テイク目がほとんどオッケー・テイクになった。それ以降のテイクで10割来たところは、自分がおらついてしまって、数テイクしか使えるものがなかった。まだモード自体が足りない練習不足というやつだろう。でも、寧ろムードの予感を感じるアンテナを常に敏感にしておくしかないとも思う。

 ムードの性質として、伝統を持たないもの、見ようとしたら隠れてしまうもの、ということが当てはまるように感じる。でも、音楽においての伝統の中には、一箇のムードを帯びているものがたくさんある。もしかしたら、10代の頃出鱈目な練習をしながらパーカッションに憧れていたのは、そのことに知らず知らず感づいていたからかもしれない。最近は、大分でサバールの練習会も始まった。レインボー・ディスコ・クラブまで大分を離れない予定なので、モードが去っていないうちに、山と部屋の往復を。

GONNO × MASUMURA
https://p-vine.jp/news/20180301-192700

OLD and YOUNG
https://recordstoreday.jp/item/old-young%e6%99%b4%e8%80%95%e9%9b%a8%e8%aa%ad/

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 750 751 752 753 754 755 756 757 758 759 760 761 762 763 764 765 766 767 768 769 770 771 772 773 774 775 776 777 778 779 780 781 782 783 784 785 786 787 788 789 790 791 792 793 794 795 796 797 798 799 800