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interview with Richard H. Kirk (Cabaret Voltaire)

interview with Richard H. Kirk (Cabaret Voltaire)

ノイズ・インダストリアルの巨匠、3枚同時再発!

──リチャード・H・カーク、インタヴュー

三田 格    通訳:訳者:光山征児   Nov 11,2013 UP

 1970年代末、スロッビン・グリッスルとともにノイズ・インダストリアルの代表とされていたのがキャバレー・ヴォルテールだった。僕は、しかし、SPKと出会うまでノイズ・ミュージックに価値を見出せることはなかった。キャバレー・ヴォルテールも初期はどこがいいのかさっぱりわからなかった。『レッド・メッカ』(81)や「スリー・マントラス」(80)が面白くないとはとても言い出せない空気のなか、そのようなものがやたらと持ち上げられていた1981年がしぼみはじめ、やがてブリティッシュ・ファンク・ブームがやってくる。それを逸早く察知したかのように〈ヴァージン〉がディーヴォやDAFをフィーチャーした『メソッド・オブ・ダンス』というコンピレイション・シリーズをリリースしはじめ、「踊るニューウェイヴ」の時代がやってくる。ノイズ・グループだと思われていたキャバレー・ヴォルテールが『2×45』(82)をリリースしたのは、そのようなタイミングだった。それはニュー・ロマンティクス(それはそれでよかったけど)とはまったく違う雰囲気で、ノイズ・インダストリアルに分類されていたミュージシャ……いや、ノイジシャンたちが『ファンキー・オルタナティヴ』というコンピレイション・シリーズをリリースしはじめる5年も前のことだった。『2×45』に続いて80年代中期に〈ヴァージン〉からリリースされた『ザ・クラックダウン』(83)、『マイクロフォニーズ』(84)、『カヴァナント、スウォード・アンド・ジ・アーム・オブ・ザ・ロード』(85)の再発を機にリチャード・H・カークに話を訊いた。

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シェフィールドはおどろおどろしく淀んだ感じでたくさんのビルがあった。世界大戦のダメージも残ってた。しかし、都市部を抜けて10分もすると美しい田園風景がひろがっている。そして、君はそこでたくさんのマジック・マッシュルームを見つけられると思う。

ちょうど40年前(73年)にシェフィールドで結成したそうですが、最初からキャバレー・ヴォルテールを名乗ってたんですか? また、3人はどうやって知り合ったんですか?

リチャード・H・カーク(以下、RHK):1973年あたりに活動を始めたんだけど、キャバレー・ヴォルテールを名乗ったのは75年からなんだ。というのはそのとき初ライヴがあって、そのために呼び名が何かしら必要だったからね。
 もっと熱心なヤツもいたんだけど、まわりの友だちの何人かがクリスを学校の頃から知ってたから、僕らは当時の夏、一緒にインターレイルでヨーロッパに行ったりしたんだ。クリスはいくつかベーシックな録音機材を、僕が4トラックのテープレコーダーを持ってて、それからエレキ用のピックアップ付きクラリネットも手に入れた。僕らは実験的にクリスの家のロフトで音楽を作りはじめた。それから何人かがやってきたりしたんだけど、数年前からちょっと知ってた(ステフェン・)マリンダーに一緒にやらないかと誘ったんだよね。そのときが、キャバレー・ヴォルテールとして後に知られる、きちんとしたユニットが出来た瞬間だった。

ダダ運動に興味を持ったきっかけを教えて下さい。ステフェン・マリンダーによればウィリアム・S・バロウズとブライオン・ガイシンの影響でカット・アップやテープ・ループをはじめたそうですが、ということは『レッド・メッカ』(81)までの作品にはブライアン・ジョーンズの『ジャジューカ』(71)が多少なりとも陰を落としていたのかなと思えてしまいます。

RHK:ダダ運動に魅かれたのはそのコンセプトがアートと戦争にあったから。そこではそれまでにあったアートをいったん解体し、何か新しいものに置き換えようとしていて、僕らはサウンドや音楽に対してそれと同じことをやろうとした。
 ステフェンがバロウズやガイシンに関して言ってるのもすべて正しいというわけではない。キャバレー・ヴォルテールは、彼らのことを知る前にすでにカットアップやテープ・ループを取り入れている。もちろんこのようなことを誰かがすでにやってたというのを聞いて鼓舞されたところがあった。多くの部分を学ばせてもらったから、彼らのことを知れたのは実に嬉しかった。
 キャバレー・ヴォルテールのなかで最初にバロウズの本を買ったのは、僕だ。シェフィールドにある本屋で『裸のランチ』を注文したのさ。それはもう驚愕だったよ、まったくパワフルな本だった。それに当時、僕は画像や文章を使ってカット・アップやコラージュをやってて、それが最終的にいくつか初期キャバレー・ヴォルテールのジャケットになったりもした。ダダイズムの創始者トリスタン・ツァラも紙袋に書いてある文字をランダムにピックアップして、それを詩にしたりしてたし、それは1915年あたりかな? たぶんガイシンがカット・アップをやりはじめる50年くらい前だ。
 『ジャジューカ』のことは知ってたし、ちらっと聞いたこともあるけど、アルバムをちゃんと手にしたのは1982年になってからなんだ。つまり『レッド・メッカ』のあと。しかし東洋の音楽にはつねに興味を持ってたね、トランスチックなエフェクトの感じが好きだったから。

時期的に見てグラム・ロックにもパンク・ロックにも影響されなかった音楽性のままラフ・トレードからデビューしたということになります。実際にそうなんでしょうか? 70年代に、同時代的に気になっていたミュージシャンがいたら教えて下さい。「ウエイト・アンド・シャッフル」などはザ・ポップ・グループを思わせます。

RHK:僕はデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックのファンでもあったし、いくつかのパンク、ポストパンクも、そのなかにはザ・ポップ・グループも含まれてるけど、たしかに気に入って聴いていたね。だけど「ウエイト・アンド・シャッフル」が彼らみたいに聴こえるんだったら、たぶんそれは彼らもマイルス・デイヴィスやダブ、フリー・ジャズといった僕らと同じ音楽に影響されたからだろう。僕らは通常のアーティストの真似はしない。影響ということで言うと、いつも過去や未来のものに目を向けてる。

なぜ、スタジオに「ウエスタン・ワークス」と名付けたんですか? また、シェフィールドのいい点と悪い点をひとつずつ上げて下さい。

RHK:スタジオのあったビルが古い工業用ビルで、そこが「ウエスタン・ワークス」という名前だった。それをそのままスタジオの名前にした。シェフィールドに関して言えば、当時が、ちょっとおどろおどろしく淀んだ感じでたくさんのビルがあったし、まだ第二次世界大戦のダメージも残ってた。しかし、都市部を抜けて10分もすると美しい田園風景がひろがっている。そして、君はそこでたくさんのマジック・マッシュルームを見つけられると思う。

ははは。『ザ・ヴォイス・オブ・アメリカ』(80)の裏ジャケットに機動隊の写真が2点も使われているのはなぜですか?

RHK:僕が。『ザ・ヴォイス・オブ・アメリカ』のアートワークを作った。当時(それにいまも)僕らが生きている世のなかにある権威主義的な感じがうまく出てる、この種の写真を使うのがふさわしいと思った。

『レッド・メッカ』はさまざまな意味で転機となった作品だと思いますが、タイトルはイランで起きたホメイニ革命と関係があるんですか? 『スリー・マントラ』から『2x45』にかけてアラビア風の旋律が頻出するのは誰かの影響ですか?

RHK:先ほども言った通り、僕は東洋の音楽、また東洋社会と西洋社会の違いにはつねに気を払っていて、だから“ウエスタン・マントラ”や“イースタン・マントラ”(*この2曲で『スリー・マントラ』は構成されている)のような曲に行き着いたわけさ。このふたつのカルチャーがじきにぶつかるだろうという予想が実際に現実になったのが1979年だった。ホメイニ革命が、のちに911/2001年のニューヨークのツインタワー爆破まで続くイスラム原理主義のスタート地点だった。それからアメリカで右派キリスト教原理主義者の存在がより浮き彫りになった。実際、このふたつのカルチャーは極めて似通ったもので、アメリカ政府が当時のソビエトと戦うために、アフガニスタンでビン・ラディンのムジャヒディーン/アルカイーダの訓練、資金援助、武装化を行ったんだから、当然といえばそうなんだけど。

『2x45』は明らかにダンス・レコードを意図した最初の試みですが、何がきっかけであそこまで振り切れたんでしょう。当時は本当にショックで、立体ジャケットが破けるまで何度も何度も聴いてしまいました。

RHK:『2x45』はよりダンサブルなレコード作りへシフトした最初の作品だった。大きな方向転換でもなく、単に進化していっただけだね。君がいま僕らの初期の作品を聴いてくれたらきっとダンス出来ると思うし、それらでもたいていループを使ってるからね。

〈ファクトリー〉からリリースされた「ヤッシャー」(83)はオリジナルのほうがぜんぜんよくて、ジョン・ロビーのリミックスはあまりいいとは思いませんでしたが、「ドント・アーギュー」(87)でまた顔合わせしているということは、ニューヨーク・スタイルからもそれなりに得るものがあったからですか? ニュー・オーダーの「ブルー・マンデー」がやはり同じ年にアーサー・ベイカーの方法論を取り入れていたわけですけど。

RHK:僕らはニューヨークのエレクトロには大きな影響を受けている。ジョン・ロビーは、アーサー・ベイカーとともに、その中心人物だった。彼が“ヤッシャー”をリミックスさせてくれないかと尋ねてきたとき、それはすごいアイデアだと思ったものだよ。たしかに君の言うように、オリジナルよりよかったというわけじゃないけど(リミックスっていうのは往々にしてそうなんだけど)、しかし、まったくの別もので、僕らが現状から一歩前に踏み出せたということ、おかげであらためて自分たちのミックスや音楽の聞かせ方と向き合うことが出来たわけだから。

『ザ・クラックダウン(=弾圧)』に「The」が付いているということは、何か特定の事件があったということですか? また、ダンス・レコードであるにもかかわらず、このような不穏なタイトルをつけたのはぜですか? まるでレイヴ・カルチャーを先取りしたようにさえ思えてしまいますが。

RHK:この当時の政治をとりまく情勢は抑圧的なものだった。イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、右翼勢力が僕たちを弾圧していたようなものだった。

『ザ・クラックダウン』以降、観念的な音楽性がすべて消え去って、官能的なダンス・ミュージックに純化されていくということは、クリス・ワトソンがひとりで観念的な部分を担っていたように見えますが、そのような理解でいいでしょうか。あなたとマリンダーはフィジカルな音楽がやりたかったと?

RHK:その見解は正しくはない。キャバレー・ヴォルテールには“担当”はないし、僕たちは何かにおいてリーダーというものを置かなかった。バンド自体は僕とクリスではじめて、あとからマリンダーが加わったものだけど……。この3人のグループはともにダンス・ミュージックをエンジョイしていた。けれど、当時は真剣にそれに打ち込んでたわけではなかったね。クリスが1981年に去ってからは、僕たちは自分らの音楽をもっとダンスフロア仕様にしようと決めた。彼と一緒にやっていた頃のようなモノをまた繰り返すことはしたくなかった。あらたに考えながら一歩前に進み出した瞬間だった。

取材・文:三田格(2013年11月11日)

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