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interview  with Francesco Tristano

interview with Francesco Tristano

若々しく、そしてセクシーなクラシック

──ピアニスト、フランチェスコ・トリスターノが大いに語る

質問・文:小林拓音    取材・通訳:坂本麻里子 photo: Breno Rotatori   Feb 28,2022 UP

古楽はしばしば、本当に古めかしい、非常に難解で奇妙な、一種のオタク音楽として扱われる。ぼくにとって課題はその逆なんだ。いかにして古楽を若い人びとにとってセクシーなものにできるだろう? ということ。

ジョン・ブルもオーランド・ギボンズもおもに、パイプオルガンを用いる教会音楽か、あるいはイギリス版チェンバロであるヴァージナルを用いた世俗的な音楽(ヴァージナル音楽)の作曲家でした。今回、当時は存在しなかったピアノで演奏しており、またエレクトロニックな処理も為されています。もし、時代考証に基づいて当時の演奏形態を再現することを重視する古楽演奏家からクレームが来たら、なんと答えますか?

FT:ああ、もちろん。そうした「純粋主義者」がいることも、ある意味大切だとぼくは思っている。彼らは伝統を守っているからだし……まあ、それが音楽のピュアさを維持しているかどうか、そこは自分にはわからないけれども……。

「ピュアさ」がそもそも存在しないわけですしね。

FT:だから、そもそもあの当時の録音音源は残っていないんだし。時代考証を重視する純粋主義者たちがレコーディングした作品にしたって、果たしてそれがどこまで「当時」のままなのか、忠実なのかは、知りようがないわけで……。ほんと、ぼくたちにはわからないからね。ここで話しているのはいまから何百年も前の音楽のことだし、音源も動画も残っちゃいないから。でも、そうした批評に自分がどう答えるか? と言えば──ぼくは反応しない。クレームや批評には応対しない。ぼくは誰かに対して「思い知らせてやる」って思いや、あるいは自分の正当性を求めて音楽をやっているわけじゃないから。というか、向こうに興味があるならお互いのアイディアを論じ合うことだってできるし、そうやってどの要素が彼らを動揺させるのか、突き止めることだってできる。自分がレパートリーを不当に扱っているとは思わないし、というかその逆で、自分はレパートリーに奉仕していると思う。だから、バッハにしても──彼は他のコンポーザーの音楽を元に、それらの彼自身のヴァージョンをやったことがあった。たとえば彼のピアノ協奏曲のいくつかは、原曲はヴィヴァルディだけれども、それを異なる楽器向けに編曲したものだしね(訳註:ヴァイオリンとチェロのコンチェルトをピアノ/オルガン向けにアレンジ)。けれどもバッハはそうだとすら言わなかったし、「ヴィヴァルディから借りてきた主題」とすら明かさずに、単に “協奏曲第2番/作:ヨハン・セバスチャン・バッハ” としか書かなかった。いまや、ぼくたちはこうしたことからずいぶん隔たった地点にいるし、過去の時代がコピーレフトだったとしたら、現在の我々はコピーライトの時代を生きている(訳註:コピーレフトは、著作権は守りつつ、その二次利用や改作等を制限しないという考え方。コンピュータ・プログラムのソースコードから派生した発想)。何もかも守られているし、ぼくたちはさらなる境界線を引いているわけ──知的財産権、ソフトウェアの知的所有権等々、いまやなんだってそうだ。で、ぼくはそれには反対でね。さっきも話したように、音楽は境界線知らずだと思うし……もちろん、存命中のアーティストの音楽をサンプリング音源として無断使用する、それは問題だ。そこは明解にすべきだと思う。事実、ぼく自身、その点は非常にクリアにしているし──たとえぼくの利用する、あるいは借りてくる音楽の作家、彼らはとっくの昔に、何世紀も前に亡くなっていても。そうであっても、ぼくは “フランチェスコ・トリスターノのガリヤルド” ではなく、“ジョン・ブルのニ調のガリヤルドによって” と呼ぶ。ぼくはたしかにその音楽を用いているけれども、と同時にぼくはそこに揚力を与え、アップデートしてもいる。そうやって、古いものに文脈を作り出しているんだ。それはとても大事なことだと思う……これはレパートリーの別の活用法だ、ということであって、ぼくにはすぐに物事を「ダメだ」と決めつけるような批判的なところは一切ない。だから人びとに対しても、了見が狭いノリで批判しないことを期待する。それは、ぼくが音楽に対して自由に接しているからだし、もちろん、音楽は自由。音楽は、いったん楽譜に残されてしまえば、「どういう響きになるか?」なんて気にしないからね。というか、これらの作曲家たちは、自分の書いた作品が500年後も演奏されているなんて、考えすらしなかっただろうな。そんなわけで、うん、ぼくは今回取り上げた音楽で非常に自由にやらせてもらったし──もちろん、人びとにぼくの考え方に同意してもらうよう、彼らに強制するのは無理な話だし、中にはこの作品に多くの批判点を見出すひともいくらか出てくるのかもしれないよ? だけど、それはオーケイ、構わないんだ。自分の音楽の作り方は正しい、と証明する必要はぼくにはないと思っているし、そうした批判にわざわざ答えなくていいと思う。

新作のテーマはタイトルどおり古楽ですが、ご自身作曲の5曲は、現代的な情緒を表現しているように感じ、古楽的ではないように聞こえました(とくに8曲め “リトルネッロ” と14曲め “第2チャッコーナ”)。むしろ、ご自身の曲のあいまに、思い出のように古楽が挟まれている、という印象です。このような構成にしたのはなぜ?

FT:なるほど。今回のアルバムの取り組みで、ぼくは三つの異なる音楽制作の手順を踏んだ。ひとつは、古楽を相手に、書かれたままの100パーセントの形で演奏し、何も足さず何も引かず、忠実に演奏する、というもの。ふたつめは、古楽作品を用いて、そこから別の何かをリクリエイトする──ただし、原材料におなじものを使って。それに当たるのが “クリストバル・デ・モラレスの「死の悲しみが私を取り囲み」によって” や、“ジョン・ブルのニ調のガリヤルドによって”、“ジローラモ・フレスコバルディの4つのクーラントによって” になるし、これらの楽曲では異なるスタジオ技術を使い、様々な要素も足し引きし、もっとこう、「リミックスした」というのに近いと思う。三つめは、ぼく自身のコンポジション。そのすべてで古楽からインスピレーションを受けているし、中には非常に明確な「これ」という場合もある──ごく短い、ちょっとした要素だけれどね、ベース・ラインや、とある和音面のカデンス、あるいはリズムということだってある。たとえばチャッコーナは、音楽を回転させていくリズムのことだ。というわけで、これら三つの手順が『On Early Music』のトラック・リストを構成しているわけだけれども、聴いたひとの何人かからこんなことを言われたんだ──「何がすごいって、どれがきみの曲で、どれが古楽で、どれが新しい響きを持つものの昔の音楽なのか、わからなくなるところだ」ってね。すべて混じり合っていて、混乱してしまう、と。で、ぼくは言ったんだ、「それこそまさに重要なところ。このアルバムのポイントがそれなんだ」と。境界ははっきりしていない、というのかな? だって、境界線は存在しないから。これは一部に新しい音楽、ぼくの音楽も含まれる、古楽のアルバムだ。けれども本当のところ、これはぼくの音楽であって、ぼくの音楽の作り方。だから今回の音楽では、古楽を演奏するのであれ、古い音楽にインスパイアされた音楽を自分で新たに書くのであれ、古楽をベースにそれをリミックスする/自己流のコンテンポラリーなヴァージョンを作るのであれ、非常に自由にやったね。

ご自身のピアノにエレクトロニクスを合わせるとき、もっとも注意を払っていること、または苦労していることはなんですか?

FT:そうだなぁ……そんなにむずかしくはないんだよ。だから、ぼくにとってはそれらもすべて原材料みたいなものだし、その意味では料理をするのに近い。

(笑)

FT:たとえばぼくがキッチンに立つと、色んな食材を使って料理する。オリーヴ・オイルも使うし、ニンニク、塩……とさまざまな材料を用いて、実に多彩な結果が生まれてくる。音楽を作るときもそれとおなじなんだ、ぼくの手元には材料──もちろんニンニクやオイルじゃないけれども──リズム、メロディ、サウンドの音色、ハーモニー等があるし、それらの材料をちがうやり方で混ぜることで色々な成果が生じる、と。音楽の美しさがそれだね。で、その質問に関して言えば、たとえばこのアルバムではすべてのサウンドが、ひとつ残らずピアノでクリエイトされている。シンセサイザーもドラム・マシンも使っていないし、ほかの楽器は一切使わずピアノのみ。けれどもいったんピアノのサウンドを録ったところで、ぼくがスタジオを用いて何をするかと言えば、それらのサウンドに手を加え、別の形に変えることができるようになる。これもまた、ぼくたちは境界をぼやかしているということ、アコースティック・ピアノとは何か? エレクトロニックなスタジオ技術とは? というふたつの境目を曖昧にしているってことなんだ。ぼくの好きなのがそれなんだ、そうやって自分のサウンドをクリエイトするのが大好きだし、過去10年以上にわたりやってきたこともそれだ。だから、それらのテクニックを行き来しながら作業をしているとき、何かがここで終わり、そして別の何かがはじまる……という境目はあまり明瞭ではないんだ。

クラシック音楽とエレクトロニック・ミュージックを融合した音楽を指すときに、しばしば「モダン・クラシカル」ということばが用いられます。この語がはらむ矛盾について、どう思いますか?

FT:まあ……いいんじゃない(苦笑)? 素晴らしい形容ではないけれども、ただ、「ネオ・クラシカル」と呼ばれるよりはいいと思う。というのも、ネオ・クラシカルは単純に間違い、用語として誤りだから。ネオ・クラシカルは20世紀の非常に明確な一時期を指すものであって、ストラヴィンスキー、プーランク、プロコフィエフといった作曲家たちが、クラシック期、すなわちハイドンやモーツァルトの時代にインスパイアされて音楽を書いた時期を意味する。とはいえ、彼らは和音やオーケストレーションを過去から変え、それがネオ・クラシカル=新古典主義になった。本来の意味はそれだし、だからあのタームだけだな、ぼくが「それはちがう」と感じるのは。それに、「クロスオーヴァー」もあんまり好きではない。というのも、あれもまたはっきりした意味のある用語だし、あれはたしか60年代後期~70年代初期にかけて……いや、50年代後期からだったかな? ともかく、ジャズ・ミュージシャンの名声が高まり、彼らが初めてクラシック音楽のコンサート・ホールで演奏するのを許されたときのことを意味する。多くはアフリカン・アメリカンのミュージシャンだった彼らが、装いも変え、白人聴衆を相手にクラシック音楽の会場で演奏するようになり、カーネギー・ホールでジャズが演奏されるようになったのもここからだった。クロスオーヴァー(横断)が指すのは、そのことだ。だから、その本来の意味とは較べようがないと思うね、そこにはもともと、非常に異なる社会的なニュアンス・文脈がふくまれていたわけで。で、モダン・クラシカルという言葉は、たしかに矛盾している。けれども、この世の中に矛盾することはいくらだってあるわけだし。ぼくたちも日々、数限りない矛盾と関わっているんだし、そう考えれば、モダン・クラシカルはぼくとしても許せる矛盾だし、と。それに「ニュー・クラシカル」もありだし、「コンテンポラリー・クラシカル」だって大丈夫。っていうか、たぶんコンテンポラリー・クラシカルがぼくのいちばん好きなタームだろうな、というのもあれは、コンテンポラリーな音楽でありつつ、アコースティックなサウンドを思い起こさせる何かの備わった音楽、という意味になるから。だけど、ほんと──ごく正直なところを言わせてもらうと、ぼくはこれらの言葉を、まったく気にしちゃいないんだ。

(笑)

FT:これらのいろんなレッテルはね。さっきも話したように、音楽は自由を意味するし、だからぼくたちにレッテルは不要。ミュージシャンとしてのぼくたちには、必要ない。まあ、もしかしたら、レコード・レーベル、あるいは音楽雑誌にとっては、受け手の注意を何かに向けて喚起するためにレッテルを貼る必要があるのかもしれないよね? ただ、我々コンポーザー、パフォーマー、音楽家にしてみれば、レッテルは要らないんだ。

ぼくたちは音楽的に何もかもが起きた後の、汎エヴリシング的な時代に生きている──ストリーミングのアプリを持っていれば900年ぶん近いレパートリーを聴くことができるし、しかもワン・クリックで済む。それはグレイトな点だけれども、同時に危険な点でもある。というのも、ぼくたちはフォーカスを失ってしまうから。

クラシック音楽の歴史は前進の歴史でした。20世紀後半にはテープを用いた音楽、偶然性の音楽など、さまざまな「前衛」と「実験」がありました。それらを経た後の現代において、古楽に取り組むことはどのような意味を持ちますか?

FT:たぶん、その理由のひとつは、古楽はしばしば、本当に古めかしい、非常に難解で奇妙な、一種のオタク音楽として扱われるからじゃないかと。要するに、マニアックな古楽ファンのために演奏されるマニアックな音楽、というか。けれどもぼくにとっては、課題はその逆なんだ。いかにして古楽を若い人びとにとってセクシーなものにできるだろう? どうやったらアクセスしやすく、かつ、彼らにとって魅力的な音楽にできるだろう? ということであって。そうすることで、彼らにも「わぁ、知ってすらいなかった、こんな音楽の世界がまるごとひとつあるとは!」と気づいてもらいたい。きみの言うように、ぼくたちは音楽的に何もかもが起きた後の、汎エヴリシング的な時代に生きているよね──ストリーミングのアプリを持っていれば600年ぶんのレパートリー、いや、グレゴリオ聖歌からはじまる900年ぶん近いレパートリーを聴くことができるし、しかもワン・クリックで済むわけだから。しかも、きみが携帯電話のアプリでスピーカーから音楽を流している一方で、兄弟、あるいは母親も家の中でおなじことをやっていて、でも、彼らは別の時代の別の音楽を聴いている。そうやってふたつの音楽が混ざり合うわけで、いまはミックス・エヴリシングな、何もかもが一斉に起きている時代だ、と。で、それは今日(こんにち)のグレイトな点だけれども、と同時に、ある意味危険な点でもある。というのも、ぼくたちはフォーカスを失ってしまうから。なんだってワン・クリックで聴くことができるとなれば、ぼくたちのアテンション・スパンだって15秒とか、30秒に縮まってしまうだろう。で、今回やったレコーディング作業でぼくが気に入っている点のひとつは、それがかなり特定されていたところでね。ぼくのとてもオープンな、あるいはフリーで不特定な、と呼んでもらってもいいけれども、そういう音楽の作り方においては、あれはかなり厳密だった。というのも、本当に自分の注意力・関心のすべてをあれらのレパートリー群、500年も前に生まれたものに対して注いだわけだから……。けれども、あの音楽を作ったのは2021年であって、こうして2022年に発表することになったわけで、うん、そこにはきっとコンテンポラリーな魅力があるはずだよ。

2年ほど前のインタヴューで「ふだんテクノやエレクトロニック・ミュージックを聴いているひとにおすすめの、最近のクラシカルの音楽家を教えてください」と質問したところ、ブルース・ブルベイカー(Bruce Brubaker)を推薦してくださいました。今日もまたおなじ質問をしたとしたら、答えもおなじになりますか?

FT:(笑)音楽を作っている友人はたくさんおすすめできるよ! 音楽における自由に関するぼくの視点を共有している友人たち、特にクラシック音楽界の人びとを──まあ、他にいい形容がないからそう呼ぶけどね、「クラシック音楽界」って、なんのことやら(苦笑)。そうだな、ちょっと考えさせてくれる? ここ最近、自分がよく聴いている音源のひとつと言えば……待って、携帯をチェックしてみるよ(と、端末を引っ張り出し画面をスクロールする)……ストリーミングのアプリを起動しようとしてるんだけど、少々時間がかかっていて……。

テクノやエレクトロニック・ミュージック好きなひとにおすすめのクラシック作曲家、ではどうでしょう?

FT:(携帯画面を眺めながら)オーケイ! そうだね、最近ぼくが聴いているのは……あ、ちなみにひとつだけ指摘すると、ブルース・ブルベイカーはコンポーザーではなく、彼はピアニストだよ。

失礼しました。

FT:彼は他のアーティストの音楽を演奏するミュージシャンで、たとえばフィリップ・グラス、先日85歳になったばかりのはずだけど、彼の作品なんかを取り上げている。さてと……いま、ぼくはガーション・キングスレイの音楽に非常に興味があるんだ。

そうなんですか! それは意外な……。

FT:キングスレイは世界的にとても有名な、ほとんど誰でも知っている音楽を書いたけれども、それが彼の作品だとは誰も知らない、という。とても興味ぶかいよ、この “ポップコーン” という曲は本当に有名だし、何度も繰り返し、色んな形で使われてきた。80年代にセガのヴィデオ・ゲームで使われ、テレビ番組の主題歌になったり。で、基本的に彼は世界初のシンセサイザー・オーケストラを作り出したひとなんだ、最初のシンセ・バンドをね。だから、書いたのはクラシック音楽だったのに、それをシンセサイザーで演奏したからクラシックに聞こえなかった。で、“ポップコーン” の原曲音源、1968年にレコーディングされたと思うけど、あれはまるでつい昨日作られたもののように響く。本当にタイムレスな音楽だし、「音楽は時間を超越する」の実に素晴らしい例じゃないかと思うよ、いちいち「これはクラシック音楽」、「非クラシック音楽」、「新たなクラシック音楽」云々のレッテルを貼る必要がない、というか。音楽にはこの、「時間の枠組み/国境/スタイル面での境界線を守らない」資質が備わっているということだし、うん、ここ最近のぼくはカーション・キングスレイの音楽にかなりハマっているね。それに、彼もクラシック音楽の主題を使っていろいろやったことがあってね。ベートーヴェンの “エリーゼのために” のヴァージョンや、いくつかバッハも取り上げたり。すごくファンキィなものがあるから、ガーション・キングスレイの音楽はおすすめだ。

質問は以上です、今日は本当にありがとうございました。

FT:こちらこそ。

あながたコンサートのために日本に行ける日が、なるべく早く来るのを祈っていますので。

FT:うん、ぼくもだよ、そうなればいいね!

質問・文:小林拓音(2022年2月28日)

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