「Low」と一致するもの

tamao ninomiya - ele-king

 2018年は新鋭ネットレーベルのリリースに大きな刺激を受けた1年だった。なかでもele-kingにも寄稿する捨てアカウント氏が主宰する〈Local Visions〉と、tamao ninomiyaの主宰する〈慕情tracks〉はその象徴的存在だろう。前者はvaporwaveの第二次ブームとも言えるような現在の状況と密接にリンクしつつ、優れた国内作家の作品を積極的に紹介しているし(僭越ながら私自身も「俗流アンビエント」という概念をこさえて、DJミックスをリリースさせてもらった。その話はまたどこかに書きたい)、後者は様々な宅録作家の紹介を行いつつ、芽生えつつある新しいインディー・ポップをネット空間を通して可視化するような役割も演じている。音楽性という面で言えば似つかわしくない両レーベルであろうが、ポストインターネット性という点でどこか符合する美意識を感じるし、単に「新しい」「古い」という進歩主義的時間尺度から逸脱した先端性を強く発散している点でも共通していると思う。
 そして、私見ではその〈慕情tracks〉が今年頭にBandcampで公開した、アンダーグラウンドな(とポジティヴな意味で呼称するにふさわしい)宅録作家による楽曲をコンパイルした『慕情 in da tracks』は、こうした動きの発火点という意味でも非常に意義深い作品だったと思う。新たな才能との出会いにわくわくする一方、ここに登場するクリエイターたちはおそらく私より圧倒的に年若だろうに、どこか現況に倦み疲れているようにも聴こえる。しかし同時に、ひと昔前のインディー音楽界にはびこっていた「本当の自分を素のままに表現してみました」式の偽造された清廉さも無く、産業化された「新しいシティ・ポップ以降」の欺瞞に安易に乗ることは(当たり前のごとく)避けられている。

 この『忘れた頃に手紙をよこさないで』は、今年10月にデジタルリリース、先月11/28にカセット・テープとしてリリースされた、先述の「慕情tracks」主宰tamao ninomiyaによる初のフル・アルバム作品だ。これまで様々なユニット名義での音源リリースや、〈Tiny Mix Tape〉の記事翻訳、川本真琴への歌詞提供などの幅広い活動を行ってきた彼女だが、本作は宅録作家tamao ninomiyaとしての集大成というべき作品になっている。
 自らの音楽を「lo-fi chill bedroom pop」と標榜するように、その手触りは相当にインティメイトだ。ジョー・ミークやブライアン・ウィルソンを祖とする一大ジャンル「内省ポップス」の系譜に耳慣れたリスナーにとっても、この「鋭利なインティメイト」にはたじろいでしまうかもしれないほどに。それでも、かねてより彼女がネット上にアップしていた楽曲にあった剥き出しの内向からすると、やや外向的になったともいえるかもしれない。実際に、入江陽hikaru yamadaといったアーティストがゲストに迎えられていることからもそういった色彩は感じられるだろう。しかしながらその「外向」は、ベッドルームに敷き詰められた厚い布地を通して吐出される息吹のように、強い密室性によって曇らされ、内燃する体温を帯びている。
 現代において「宅録」とは、主にDAW上での打ち込み制作を指す訳だが、初期の理解において、そのような制作法はいわゆる「人間性」とかいうものを表現するには冷徹に過ぎる手法だと思われていた。いまだにそのような見方が残存する(とくに「ロック」はそこに最後の生存領域を見出そうとしている)一方で、むしろそういったプライベートなDTMこそが、濃密に個的でヒューマニックな作品を作りうるということ、そのことを過激なまでに突き詰めているのがtamao ninomiyaなのではないだろうか。夜中2時、パジャマ姿でPCとMIDIコントローラーを弄り、デスクトップ画面に現れる波を切ったり貼ったりする。そういう行為を通してしか固着されない音楽があるということを、我々は音を通して彼女の寝室を覗いてしまったような焦りとともに知る。
 かねてより90年代の忘れ去られたJ-POPのディガーとしても知られていた彼女らしく、ある種の歌謡曲的クリシェを大胆に取り入れながら、まったくもってドリーミーなポップスをあたらしく作り上げる。一方で、様々なリズムアプローチやアヴァンギャルド音楽への造詣も伺わせる各種ノイズ処理など、個別に現れる音楽要素の多様さからは、彼女がサウンドクリエイターとしてと同じくらいリスナーとしても非常に鋭敏な感性の持ち主であることを物語る。かといって、音楽ディレッタント的な印象を抱かせることは決してせず、あくまで表現者としての人格と個性が前景化する。
 そして、たんに「ウィスパーヴォイス」というワードではその色調を捉えることは難しいであろう、ゆらゆらと去来するヴォーカルの魅力。夢の中で歌う歌のように、音符を撫でて消え入るその声。有り体な表現になってしまうけれど、これは、どこでも聴いたことのないような音楽、だけどどこかで聴いたことのあるような音楽……。

 そう、いま思い出した。今年11月3日、東京・大久保の「ひかりのうま」で行われたダンボールレコード主催の「Dry flower’s」というイベントの冒頭、「休日はいつもブックオフの280円コーナーを漁ってるシティ・ポップ好きのディガー集団」こと「light mellow部(彼らの存在も2018年のある局面を象徴するものだったと思う。いずれどこかで論じたい)」の一員として彼女がトーク出演し、そこで昔からの愛聴盤として銀色夏生の『Balance』というCDを紹介していたのだった。
 当時の女子たちから絶大な人気を誇った詩人・銀色夏生が全作詞・監修を務め、一般公募で選ばれたNanami Itoというアマチュアの女子高生がヴォーカルを取る作品なのだが、『忘れた頃に手紙をよこさないで』は、1989年に産み落とされたこの不思議なアルバムと呼応する魅力を宿していると思う。J-POPというにはオブスキュア過ぎるトラック、儚げな歌唱、ここでないどこかを希求するような詩情……。斉藤由貴、伊藤つかさ、もっと遡ってシャンタル・ゴヤなど、そういう系譜上に、Nanami Itoと、そしてtamao ninomiyaの歌声を位置づけてみると(両者がローマ字表記だというのも嬉しい符合だ)、その魅力を理解しやすくなるかもしれない。
 「こうではなかったかしもれない」パラレルワールドを、独りベッドルームで夢想する少女による歌。その夢想はポップス対アヴァンギャルドという歴史的且つ父権的見取り図を超えて、様々な表象としてまろび出てきた。いまから30年前、Nanami Itoと銀色夏生が僥倖によって偶然に表現し得た夢想に通じる何か。tamao ninomiyaはいまその夢想を、それをブーストし、同時に純粋化してくれるインターネットという装置を通じて、鮮烈な形で我々に届けてくれているのではないだろうか。

 縦横に時間を駆け巡り、時間を圧縮し加速させ続ける中で、我々はいよいよもって慕情を求める。その慕情とは、過ぎ去った過去へのほの甘い憧憬であるとともに、起こらなかった「いま」へ憧憬であり、そして、誰しもに無限として広がる未来への不安と蠱惑であるのかもしれない。自分が存在する以前の時代の方が、少なくともいまより幸福な時代だったに違いないという確信めいた何か。見知らぬものへ向かう、決していまは満たされることのない慕情。不透明な未来の愛らしさ、憎らしさ。これらの圧倒的な切なさを日々眼前に突き出され続ける2018年の我々にできることは、独り音楽を聴いてまどろむことぐらいなのかもしれない。
 物事が目まぐるしく動けば動くほどに、ベッドルームに篭って、眠るようで眠らずに、ラップトップが発する朧気な明かりを浴びる。私が『忘れた頃に手紙をよこさないで』を無性に聴きたくなるのは、現代の誰しもが遭遇するであろうそんな時間だ。

山下敦弘監督『ハード・コア』 - ele-king

 ハロウィーンに関する報道は、つい数年前まで「経済効果」のことだけで、「若い人」がどのように楽しんでいるかということも関心が薄かったのに、このところの話題は「道徳」ばかりとなっている。金を使ってくれる間は良い子で、経済活動の範囲に収まらなければすぐにも悪い子扱いとは、社会が子どもをお金としてしか見ていないことはあからさまだし、かつて竹の子族から沖田浩之や哀川翔といったタレントが生まれたように、来年あたりは芸能事務所が暗躍する気配も濃厚である。かつてマルカム・マクラーレンは「キャッシュ・フロム・カオス」をスローガンにパンク・ムーヴメントを仕掛け、いまではアントレブレナーの先駆として評価されているけれど、あれだけの人数が渋谷に押し寄せて、何事もなくみんな無事に帰りましたという方がむしろ気持ち悪いと思うのは僕だけであろうか。ハロウィーンを楽しんでいる「大人」はまったく視界に入らず、痴漢が多いというのは本当に呆れてしまうけれど。

 山下敦弘監督が昨年初めに亡くなった狩撫麻礼の劇画原作を5年越しで映画化した『ハード・コア』はハロウィーン騒ぎを横目で睨む右翼青年、権藤右近(山田孝之)の苦々しい表情からスタートする(狩撫麻礼というペンネームは、カリブ海のボブ・マーレーに由来。パク・チャヌクが映画化した『オールド・ボーイ』が最も有名か)。自分と同じ気持ちでハロウィーンに不快感を示していると思っていたバーの女(松たか子)があっという間にハロウィーン騒ぎと同化してしまうところを目撃し、右近はさらに人間不信になっていく。オープニングのこのシーンだけで、僕は大袈裟なことにウォーレン・ベイティが『世界を揺るがした10日間』を映画化した『レッズ』を思い出してしまった。ロシア革命が起きたという報を聞いて現地に向かうジャーナリストのジョン・リードはその直前、『アンダルシアの犬』を観ながら笑いこける映画館の観客に違和感を感じている。『アンダルシアの犬』は1929年にフランスで公開された当時も右翼によって映画館ごと焼き払われるという憂き目に会っているけれど、退廃と右翼はどうしてもソリが合わない。消費社会が成熟度を増すたびに、その狂騒状態から取り残される若者が右翼に向かうという図式は常に有効なようで、日本でも80年代には『狂い咲きサンダーロード』、ゼロ年代には『凶気の桜』がそれぞれカルト的な人気を博し、つい最近も『孤高の遠吠』で不良たちと右翼は当然のように結びつけられていた。そしてそのどれもが右翼団体を実際には崇高な目的のために活動している組織ではなく、若者の真面目さを利用しているだけという悲劇的な性格のものとして捉え、一足飛びに言ってしまうと「真面目な奴はバカを見る」という話が何度も繰り返されているともいえる。『ハード・コア』はこうした図式に多少ともでも揺さぶりをかけ、結果的に喜劇として見せたところが新鮮だった。そしてなによりも暴力描写を排除したことで右翼活動と身体的な欲求不満を切り離し、精神性にフォーカスしたところが潔く、言わば文科系のための右翼映画をここでは試みたということになるのだろう。山下敦弘はデビュー作となる『どんてん生活』では金がなくてもそれなりに楽しく生きていけることを(初期衝動として?)描いていたので、『ハード・コア』ではその思想がスケール・アップされ、「持たざる者」を救ってくれるのはほんのちょっとしたファンタジーであり、それさえあれば人間の存在価値を示せるのではないかと示唆しているようにも思えた。そのファンタジーの中核をなすのが、しかも、AIなのである。

 右翼構成員として街宣活動などに従事している右近と牛山(荒川良々)は偶然にも最新式のAIを搭載したロボットを見つけてしまう。彼らが所属している右翼組織は資金を確保するために群馬の山奥で埋蔵金を堀り続け、これが一向に見つからない。ないかもしれないものを「掘り続ける」ということはおそらく天皇崇拝のパロディなのだろう、この場面がしつこく、しかも滑稽に畳み掛けられるのは人間の力には限界があることを示すためで、ロボットがいとも簡単に埋蔵金を見つけてしまう辺りから、この映画は角川映画としての本領を発揮し始める。それこそ『狂い咲きサンダーロード』と『セーラー服と機関銃』を同時に観ているような痛快さ。リアリティがあるはずもないのに、誰ひとりとして正義を言える立場にはないということが明瞭になってくる辺りから、むしろ奇妙なリアリティが立ち上がってくるような気さえしてしまう。牛山に童貞を捨てさせようとするエピソードや右近が幹部の娘に誘惑されたりと、色恋沙汰が絡みまくるところは暴力描写を省いても身体性そのものを無視しているわけではないという代替表現になっており、結論から逆算して思うに、あまりにもくだらないエピソードの数々はこの世に対する未練や執着を可能な限り積み上げることで、そうしたものの一切と無縁になっていくエンディングを際立たせることになったといえる。右近自身も含めてこの世界はわけがわからなければわからないほどこの世らしくなってくるのであり、そういった社会との明確なパイプ役ともいえる弟の左近(佐藤健)をエリート・サラリーマンという設定にすることでロボットの価値を見抜く役目に当てただけでなく、消費社会に同調している人間も実はこの社会に違和感があるという二重否定の要素として機能させているところも上手いとしか言えない。それは勝ち組が負け組に惹かれていくプロセスという、これもまた現実味に欠ける展開で、それを具現化していくために右近と左近が酒場で議論し合うシーンは出色の場面だと思ったのだけれど、これは原作にはないそうで、未見の方はできればこのシーンを楽しみにしていただきたい。結論にも、そして、まるっきりリアリティがない。ある意味、『シェイプ・オブ・ウォーター』と同じで、この社会に弱者の居場所はない、いらない人間は出ていけばいいということでしかない。なのにこの作品には夢がある。『セーラー服と機関銃』ならば荒唐無稽ななかにも家父長制度を絶やすという時代なりのサタイアが潜んでいたように、『ハード・コア』ではAIによってお払い箱とされるかもしれない負け組がAIと共に夢を見ているという強烈な皮肉が込められ、現在進行形でしか成り立たない毒気に満ち溢れている。なるほど生産性を高めたいと考える社会がAIを導入しようとする動機だけでなく、それによって切り捨てられる側がAIを駆使するという発想はどこにもなかった。貧者の核爆弾ではないけれど、そう思うとこの作品はカウンター・カルチャー的なんだなということがわかってくる。少なくともそれを想像している作品だということは間違いない。

『ハード・コア』予告映像

食品まつり × TOYOMU - ele-king

 ば、爆裂とはいったいなんぞ? ともあれ非常におもしろそうな組み合わせである。今秋サン・アロウの〈Sun Ark〉から新作『ARU OTOKO NO DENSETSU』をリリースした食品まつり a.k.a foodman と、同じく今秋〈トラフィック〉よりデビュー・アルバム『TOYOMU』を発表した TOYOMU がこの年末、共同でイベントを開催する。その名も《食品まつりとTOYOMUの爆裂大忘年祭》。両名のほか、BO NINGEN の Taigen Kawabe、Diana Chiaki、isagen (TREKKIE TRAX)、98 yen の出演も決定しており、しかも当日は出演者全員による BONENGERS なる特別ユニットまで結成されるそうだ。この日のために現在制作が進められているという新曲も楽しみだが、個人的には特製とん汁が気になる……。12月22日は恵比寿に集合です。

「食品まつりとTOYOMUの爆裂大忘年祭」(12/22 Sat)
てんこ盛り追加情報発表!
参加アーティスト決定!
出演者全員による当日限定ユニットを結成! 新曲を披露!
「食品まつりの特製とん汁」を販売!

KATA と Time Out Cafe&Diner (恵比寿リキッドルーム2F)で12月22日(土)に行われる、食品まつり a.k.a foodman と TOYOMU の共同イベント「食品まつりとTOYOMUの爆裂大忘年祭」の追加情報が決定した。

新たに決定した参加アーティストは、Taigen Kawabe (from BO NINGEN)、Diana Chiaki、isagen (TREKKIE TRAX)、98 yen の4アーティスト、そして出演者全員によるこの日限定の爆裂ユニット、その名も BONENGERS (ボーネンジャーズ)。BONENGERS はこの日披露する新曲を現在全員で制作中だが、とてつもない曲ができ上がるらしい。

また会場では、「食品まつり特製とん汁」を販売! とん汁の薬味は、京都特産の九条ネギ。TOYOMU が地元京都から九条ネギを背負って駆けつける。

チケットはこちらのサイトで絶賛発売中!
チケット購入リンク: https://daibonensai.stores.jp/

公演概要
タイトル:食品まつりとTOYOMUの爆裂大忘年祭
日程:2018年12月22日(土)
出演者:食品まつり a.k.a foodman / TOYOMU / Taigen Kawabe (from BO NINGEN) / Diana Chiaki / isagen (TREKKIE TRAX) / 98 yen / BONENGERS
会場:KATA / Time Out Cafe&Diner (恵比寿リキッドルーム2F)
時間:OPEN/START 18:00
料金:前売¥2,500 (ドリンク代別) / 当日¥3,000 (ドリンク代別)
問合わせ:Traffic Inc. / Tel: 050-5510-3003 / https://bit.ly/2J4fTSi / web@trafficjpn.com
主催・企画制作:Hostess Entertainment / Traffic Inc.

[TICKET]
絶賛発売中!
購入リンク
https://daibonensai.stores.jp/

[出演者]


食品まつり a.k.a foodman
名古屋出身のトラックメイカー/絵描き。シカゴ発のダンス・ミュージック、ジューク/フットワークを独自に解釈した音楽でNYの〈Orange Milk〉よりデビュー。常識に囚われない独自性溢れる音楽性が注目を集め、七尾旅人、あっこゴリラなどとのコラボレーションのほか、Unsound、Boiler Room、Low End Theory 出演、Diplo 主宰の〈Mad Decent〉からのリリース、英国の人気ラジオ局NTSで番組を持つなど国内外で活躍。2016年に〈Orange Milk〉からリリースしたアルバム『Ez Minzoku』は Pitchfork や FACT、日本の MUSIC MAGAZINE 誌などで年間ベスト入りを果たした。2018年9月にLP『ARU OTOKO NO DENSETSU』、さらに11月にはNYの〈Palto Flats〉からEP「Moriyama」を立て続けにリリース。
https://twitter.com/shokuhin_maturi
https://www.instagram.com/tyousinkai/


TOYOMU
京都在住のアーティスト/プロデューサー。1990年、京都生まれ。
聴けないならいっそのこと自分で作ってしまおう。カニエ・ウェストの新作を日本では聴くことができなかった2016年3月、カニエ・ウェストの新作を妄想で作り上げ、それにビルボード、ピッチフォーク、BBC、FACT など世界中の有力メディアが飛びつき、その発想の斬新さのみならず作品内容が高く評価された。2016年11月23日、デビューEP「ZEKKEI」をリリース。2018年10月、デビュー・アルバム『TOYOMU』をリリース。
https://toyomu.jp/
https://twitter.com/_toyomu_


Taigen Kawabe (from BO NINGEN)
ロンドンを拠点とする4 人組サイケデリック・ロック・バンド "Bo Ningen" の Bass / Vocalであり、日本のアイドルとプロレス、そしてイギリスの低音音楽とサウナを愛する32歳。Bo Ningen の他にも河端一(Acid Mothers Temple)との "Mainliner"、食品まつり a.k.a foodman との KISEKI、Jan st Werner (Mouse on Mars) との "miscontinuum" などのサイドプロジェクト、個人名義のソロや、Faust、でんぱ組.inc、Downy、Aqualung などへのRemix提供など活動は多義にわたる。ソロ名義のライヴではベース弾き語り、ラップトップなど機材とジャンルの幅に囚われない即興演奏をおこなう。またモデルとして Alecander McQueen や Clarks のキャンペーン・モデルをはじめ、i-D、Dazed & Confused、Another man、New York Times などのファッション紙でモデルも務める。
https://twitter.com/TaigenKawabe
https://www.instagram.com/taigenkawabe/


Diana Chiaki
2002年モデル・デビュー。NYLON、mini などのストリート・ファッション誌や commons&sense、WWD JAPAN などのモード・ファッション誌、Levi's、LIMI feu などの東京コレクションのファッション・ショーでモデルとして活躍する傍ら、LOUIS VUITTON や GUCCI などのイベントや FUJIROCK FESTIVAL' 17に出演、CAPCOM や Microsoft® 社AIのPV楽曲制作をおこなうなどの音楽面でも活躍している。インターナショナル・マガジン commons&sense で5年間に渡り写真とエッセイの連載をしているほか、渋谷のラジオでは自身がパーソナリティを務める番組がスタートした。
www.dianachiaki.com
www.instagram.com/diana__chiaki___/


isagen (TREKKIE TRAX)
1994年生まれ静岡在住のプロデューサー・DJ。2018年8月に〈TREKKIE TRAX〉より「c.b.a.g. EP」をリリースし、東京・京都・大阪などで活動中。
https://soundcloud.com/isthisisagen
https://twitter.com/isagen7


98 yen
1980yen (https://1980yen.com/)から派生したVJチーム。ドンキホーテやマンボー、地方ロードサイド店舗などのファスト・カルチャーをテーマにしたヴィジュアルで空間を埋め尽くす。

BONENGERS
出演者全員でこのイベントのために結成されたスペシャル・ユニット、その名もBONENGERS (ボーネンジャーズ)。新曲を当日初披露する。

WWW New Year Party 2019 - ele-king

 今年も渋谷のヴェニュー WWW が新年パーティを開催します。なんとW、X、βの3フロアがフル・オープンとのことで、気合い十分。ダニエル・ベルのほか、Yoshinori Hayashi、STEREOCiTI、ハウィー・リー、ニディア食品まつり a.k.a foodmanYousuke Yukimatsu、LIL MOFO、E.L.M.S. と、強力かつ豪華な面子が目白押し。これは素敵なカウントダウンを迎えられること請け合いです。イベントに先がけてプレイリストが公開されていますので、これを聴きながら予習しておきましょう!

WWW 2019年のニューイヤーパーティがW、X、βの3フロア・フル・オープンで開催決定! 上下に分かれた各レギュラー・パーティを“静なるミニマル”と“動なるオルタナティブ”とし、“パラレル・ダイナミクス”をテーマに現代のエレクトロニック/ダンス・ミュージックのダイナミズムを描いた新たな幕開けを迎える。

U_Know - ele-king

 2016年の『Word Of Words』が話題となったコンビ、福岡のビートメイカー=Olive Oil と、BLAHRMY の一員でもある藤沢のMC=Miles Word によるユニット、U_Know が再始動! 去る11月21日にニュー・アルバム『BELL』をリリースしたばかりの彼らだが、昨日新たに収録曲“In A Row”のMVが公開されている。映像を手がけたのはもちろん Popy Oil。まだ聴いていない方は要チェック。

U_Know [Olive Oil × Miles Word] - BELL

あの奇跡のコラボレーションはまだ序章に過ぎなかった……
Olive Oil × Miles Word [BLAHRMY] 再び!!!

2016年11月に発表された Olive Oil と Miles Word のジョイント・アルバム『Word Of Words』。福岡と藤沢、音楽が繋げた数奇な出会いは、このアルバムを聞けば必然であったことは疑いの余地がなかった。あれから2年、Olive Oil は全国でのライヴはもちろん、5lack や Wapper とのジョイント・アルバムなど、止まらずに楽曲を世に送り出し、Miles Word は仙人掌、I-DeA のアルバム他、ソロ、そして SHEEF THE 3RD との BLAHRMY として、ライヴ、客演などでその存在感を高めてきた。そんな、前作発表時よりもさらに進化した2人が帰ってきた。先行シングル的に夏に MV が解禁、7インチで限定発売(ジャケも最高◎)された、哀愁あるホーンと変則的なドラムが鳴り響くビートと、三拍子すらも、江ノ島の波の如くさらりと乗りこなすラップが極上だった“Sunny”をはじめ、前作を経たことでよりぶつかりながら融合するビートとライムは極上。いまだにある場所に安住せずに数々の挑戦と実験を繰り返して進み続けるふたりの新たな挑戦であり提示だ、しかと受け止めてほしい。

ARTIST : U_Know [Olive Oil × Miles Word] (オリーヴオイル × マイルス・ワード)
TITLE : BELL (ベル)
LABEL : DLiP Records × OILWORKS Rec.
発売日 : 2018年11月21日(水)
CAT NO. : DLIL-0008
FORMAT : CD (デジパック) / DIGITAL
税抜価格 : 2,500円 / TBC
バーコード : 4526180463832

収録曲
01. Sonnnatoko
02. XX
03. Free Jazzz
04. Sunny
05. BACK AGAIN
06. オドラニャ
07. Nice
08. Stylee
09. ONEDAY
10. In A Row
11. Guess What
12. A SHIT A
13. マタフユ -Winter Again-
14. Midnight
15. Bell Remixx feat. DLiP

All Tracks Produced by Olive Oil
Mixed & Mastered by NOAH

■U_Know [Olive Oil × Miles Word] (ユーノー[オリーヴオイル × マイルス・ワード])
福岡(FKC)を拠点に活動する Olive Oil (OILWORKS Rec.)と湘南・藤沢(Moss Village)を拠点に活動する Miles Word (DLiP Records/BLAHRMY)によるユニット。2016年に発表したアルバム『Word Of Words』から2年、再び動き出す。

Mr Twin Sister - ele-king

 逃げたい。そう思うことは何も間違っていない。いや、というよりむしろそう思ったのなら一目散に逃げ出してしまったほうがいい。でも、なぜか、みんな、逃げない。
 ポピュラー・ミュージックにはある種の逃避性が具わっている。それは、目の前のつらい現実から遠く離れて浮遊しているかのような錯覚を引き起こす音響上の効果のことで、そういったサウンドに耽溺しているリスナーにたいしてはしばしば「現実逃避だ」とのそしりが寄せられるけれど、そのような非難の声は間違っている。なぜなら、音楽を聴いてもけっして現実から逃避などできないのだから。
 心地よく快適な音に身を浸したリスナーはまず間違いなく翌朝、いつもどおり会社なり学校なりに赴きいつもどおり自らのタスクをこなすことだろう。もちろんなかにはめんどくさくなって一日二日休んだりする人もいるかもしれないが、そのままどこかの山奥なり海底なり北国なり南国なりを目指して逃げて逃げて逃げて、ひたすら逃げて、そのまま二度ともとの生活に戻らないような人間はそうそういない。すくなくとも現行の秩序下で流通している音楽は、それがどれほど逃避を促す響きを有していようとも、じっさいに人を逃避させることはない。それはどこまでもリスナーをつらい現実へと引きとどめる。ようは一時的に気分を紛らわせる嗜好品とおなじで、音楽もまた資本主義社会があらかじめ用意しているあめ玉のひとつなのである。
 それでも。たとえ一時的であったとしても。音楽が私たちをつらい現実のくびきから解き放ってくれるのなら、それはとても素晴らしいことじゃないか――かつてチルウェイヴやドリーム・ポップをドライヴさせていたのは、そのような動機だったのではないか。

 トゥイン・シスターは引きこもりというわけではないが、そんな10年代初頭のムーヴメントとリンクするかたちで頭角を現してきたバンドである。にもかかわらず彼らはセカンド・アルバムにおいて、その文脈から距離をとることを願うかのようにテクノを導入し、作風(と名義)を変えてみせた。そして彼らはこのたびリリースされたサード・アルバムにおいてもまた、いくらか作風を変えている。
 今回とくに目立つのは、ジャズとファンクの要素だ。それはエリック・カルドナのサックスが夜のムードを演出する“Alien FM”や、ぶりっとしたベースが絶妙なグルーヴを生み出す“Tops And Bottoms”によく表れているが、加えてもうひとつ、“Taste In Movies”や“Jaipur”に見事に昇華されているように、ダブもまた本作の大きな特徴だろう。アンドレア・エステラのルーツを表現するためにスペイン語で歌われる“Deseo”においてそれは、ダブ・テクノとして実を結んでいる。いやはや、なんとも完成度は高い。

 興味深いのは、それらジャジーだったりファンキーだったり機能的だったりする曲たちが、昂揚や夢見心地なムードからは距離を置いているところだ。このどこか覚めた感じ、よそよそしい感じはいったい何に由来しているのだろう。
 中盤の“Buy To Return”では「返品するために買う」という消費をテーマにしたと思われるリリックが登場するが、歌詞のうえでより決定的なのは最後の“Set Me Free”だろう。「死ねば平穏になれるだろうか/それでも私の一部は泣き続けるだろうか?/べつの終わりを待っている」と歌われる同曲は、現代社会の出口のなさを表現しているとしか思えない。どれだけ逃げたつもりになっても、私たちはつねに囲いこまれている。「セット・ミー・フリー」という悲痛なフレーズが、霧がかったダブの彼方へとむなしく消えていく。
 この最終曲へとたどり着いたとき、本作のアートワークもまた強烈な意味をともなって私たちのもとへと迫ってくる。ジャケに掲げられたどこか悲しげなマリオネットは、エステラが手ずから制作したものだそうだけど、この構図を見るとオーディオ・アクティヴの『SPACED DOLLS』を思い出さずにはいられない。逃げたつもりでいても、手綱はしっかりと握られている――そのような逃避の不可能性こそが、本作を昂揚やハピネスから遠ざけているのではないか。

 もはやチルウェイヴやドリーム・ポップといったタームとはほとんど縁のないサウンドへと到達したミスター・トゥイン・シスター、彼らが前作で名を改め、段階を踏んでサウンドを変容させていったのは、現実逃避が現実逃避にならないこと、むしろ一時的な現実逃避こそが現実への隷属をより強固にすることに気がついたからなのではないか。
 子どもの頃は『デ・ジ・キャラット』がお気に入りだったというアンドレア・エステラ、高畑勲が亡くなった際には「あなたの暗闇のおかげで私は自分の暗闇を乗り切ることができた」と意味深な言い回しで追悼の辞を述べていた彼女は、他方で何度かインスタに綾波を滑り込ませていることから察するに、少なくとも一度は碇少年の「逃げちゃダメだ」という言葉の意味をかみ締めたことがあるにちがいない。それが社会の要請の強烈な内面化であること、そこから逃れようとしても逃れられないこと、資本主義に外部など存在しないということ、音楽がときに私たちをそのようなつらい現実へとつきかえす門番でもありうること――つまりは、山奥なり海底なり北国なり南国なりを目指して逃げて逃げて逃げて、ひたすら逃げて、そのまま二度ともとの生活に戻らないなんてことがどうしようもなく不可能であること、彼らがドリーミーなムードと手を切ったのは、そういった絶望を真摯に受け止めるためではないだろうか。

Fatima - ele-king

 こうなる瞬間を待っていた。ある種の奇跡だろう。たとえばアルチュール・ランボーの有名な詩の一節。「ぼくは歩く、自然のなかを、恋人を連れ添っているみたいにウキウキしながら」。10代の思春期の真っ直中に読むとじつにうっとりする詩だ。20代になってもぼくはこの詩が好きで、しかし30代になってからはじょじょにだけれど「好き」が薄れていったので、自分はかつてこの詩がとても好きだったという事実だけは忘れないようにしようと思った。
 音楽が好きになった大きな理由のひとつも、音楽を聴いて恋する気持ちが湧き上がるからだ。やたら胸がときめき、切なくなり、うれしくなる。この無意味な一生をどうやって過ごせばいいんだよバカヤローなどと思っていた昨日までの自分は消えて、幸せな感覚が身体をかけめぐる。何十億儲けても儲け足りなかったゴーンよりも確実に幸せだと思える感覚だ。そんなときめきを素晴らしいポップ・ミュージックは何気なく誘発する。ファティマの『アンド・イェット・イッツ・オール・ラヴ(そしていまだそれはすべての愛)』をはじめて聴いた瞬間、つまり1曲目がはじまると、スローモーションになった世界では、落葉樹の黄色がほのかに輝き、心地良い風に包まれながら自分はとろとろに溶けていく。いても立ってもいられれなくなり、花屋に入って花を買ったほどだ。

 2014年のファティマの最初のアルバム『Yellow Memories』をぼくがなぜ買ったのかといえば、フローティング・ポインツとセオ・パリッシュが関わっているからで、レーベルも〈イグロ〉だし、彼女がロンドンのプラスティック・ピープルから出てきたシンガーであることも気になっていたし、いずれにせよ音楽的な理由によるものだ。そのレヴューでも書いているように、ローリン・ヒルやジル・スコットを聴いて育った彼女の『Yellow Memories』には、マッドリブの弟やコンピュータ・ジェイといった西海岸のビートメイカーも参加している。それを思えば、新作『アンド・イェット・イッツ・オール・ラヴ』がよりソウルフルなヒップホップに向かうことは自然の成り行きだったのかもしれない。ただ、それにしてもこのアルバムの恍惚感は出色なのだ。

 ぼくのお気に入りは以下の2曲。〈ストーンズ・スロー〉からの作品で知られるmndsgn(マインドデザイン)がトラックを手掛けた1曲目の“Dang”は、キラキラとした、メロウで官能的な波乗りだ。温かい音色によるグルーヴの合間をなめらかに滑るファティマの歌声。今後このアルバムを聴くことがあれば、まずは“Dang”をかける。“Attention Span Of A Cookie”は、ぶ厚いシンセ・ベースが効果的に入っているクラブ映えしそうな曲で、これも“Dang”と同じようにメロディラインが秀逸だ。
 ほかにも良い曲はあるし、全体的にメリハリの効いているアルバムだと言える。“I See Faces In Everything”も“Attention Span~”同様にキャッチーだし、ロンドンのグライム・プロデューサー、ザ・ピュアリストによるウェイトレス・トラックを擁する“Take It All”は、深夜の友として聴くには最高かもしれない。グライム系ではほかにJD Reidが参加しているが、その曲“Somebody Else”のリズムはたしかに目新しく、一風変わっていて面白い。LAのビートメイカーではSwarvy、そしてサー・ラーのTaz Arnold(ケンドリックの『トゥ・ピンプ~』にも参加している)もそれぞれ1曲ずつ提供している。
 しかしぼくがこのアルバムを聴いているのは、そうした音楽的な情報ゆえではない。恋人を連れ添っているみたいにウキウキするから、それでしかないし、ゆえにこのアルバムは素晴らしいと思う。そしていまだそれはすべての愛、おそらくこれからも。

Paul Frick - ele-king

 ミヒャエル・エンデが時間泥棒をテーマに『モモ』という童話を書いたのが1973年。オイルショックを経た戦後ドイツの労働争議が最初のピークを迎えるのが1984年。このように並べてみると、その間に挟まれているクワフトワークの”The Robot”が(前作に収録されたマネキン人形から歩を進めた発想だったとしても)どこか単純作業や長時間労働に対するカリカチュアとして「聞かれた」可能性も低くないと思えてくる(経済成長が激化したインドでも労働者をロボットに見立てたS・シャンカー監督『ロボット』で同じく”The Robot”が使われていた→https://www.youtube.com/watch?v=NEfMZbbpsAY)。実際の単純労働はトルコ移民が担い、『Man-Machine』には自分たちがドイツ人であることから逃げ、戦後長らく「ヨーロッパ人」と名乗りたがっていた風潮に対してドイツ人としてのアイデンティティを再確認するために(デザインはロシア構成主義だけど)戦前のドイツに見られた「SF的発想」に回帰するという意図があった(”Neon Lights”はフリッツ・ラング監督『メトロポリス』がモチーフ)。さらに言えばDAFは明らかにナチスの労働組合であるドイッチェ・アルバイツフロントの頭文字を「独米友好」とモジることで二重にパロディ化し、パレ・シャンブルグも西ドイツの首相官邸を名残ることで「ヨーロッパ人」と名乗ることの欺瞞に違和感を示した面もあったのだろう(ここから小沢一郎によってパクられる「普通の国」という再軍備のキーワードまではあと少しだったというか)。

 いずれにしろ、3年前にドイツの小学生たちが演奏する”The Robot”がユーチューブでけっこうな話題になったように、ドイツでは一般レベルでも”The Robot”が定番化していることはたしかで、現在のドイツでこの感覚をもっとも受け継いでいたのがブラント・ブラウア・フリックということになるだろう。最初はクラフトワークをジャズっぽく演奏していた3人組で、3人ともクラシックの素養が高く、彼らはこれまではアコースティック・テクノ・トリオと称されることが多かった。水曜日のカンパネラにも中期のクラフトワークを思わせる”クラーケン“を提供していたBBFは、しかし、このところコーチェラにも出演するなどすっかりポップ・ソングの旗手と化してしまい、”Iron Man”でデビューした当時の面影は薄れかけていたものが、メンバーのひとり、ポール・フリックが〈アポロ〉からリリースしたセカンド・ソロ・アルバム『2番目の植物園(?)』はグリッチとジャズをまたいで合間からクラフトワークも垣間見える地味な意欲作となった(自分ではこれがファースト・ソロ・アルバムだと言っている)。作品の中心にあったのは「日常性」、あるいはその「詩情」というありふれたもので、特に興味を引くものではない(録音の時期から考えてもメルケルの引退声明によってカタリーナ・シュルツェがドイツの政界に君臨するかもしれないといった動きが本格化する前の「日常」だろうし)。

 カチャカチャと小さなものが壊れるように細かく叩き込まれるパーカッションやベルなど微細なビートが楽しい曲が多く、音の素材はフィールド録音や切り刻まれたブレイクビーツなどかなり多岐にわたるらしい。それらはつまり、2000年前後にドイツで特に隆盛を誇ったエレクトロニカの方法論を意識的に踏襲したものといえ、妙な近過去ノスタルジーに彩られているとも言える。移民問題がドイツに重くのしかかる直前のドイツであり(注)、もしかするとその時期が無意識の参照点になっているのかもしれない。ポール・フリックは録音中、資本主義にも社会主義にも馴染めない人々を描写した小説家ウーベ・ヨーンゾンがナチズムの台頭から2次大戦までを描いた『Anniversaries』にも多大な影響を受けたそうで(未訳)、”Karamasow(カラマーゾフ)“と題された曲では、そうしたある種の歴史絵巻のような感覚が無常観に満ちた曲として表されてもいる(プチ『ロング・シーズン』ぽい)。そうした寄る辺なさはBBFの近作とは異なって、本当にどの曲も頼りなく、宙に漂うがごとく、である。そうした感覚はジャーマン・トランスのマーミオンも曲の題材にしていた“Schöneberg”(ベルリンの地名)でようやく安堵感へとたどり着き、焼き物を題材にしたらしきエンディングの“Gotzkowsky Ecke Turm”で幕を閉じてくれる。この弱々しさが、小学生たちの演奏する”The Robot”とともに、むしろ、外交でことごとく失敗を重ね、EUでさえ維持が難しくなってきたドイツのいまを表しているのではないだろうか。
 ああ、マッチョだったドイツが懐かしい。

注:ドイツがヨーロッパ中に移民を受け入れるよう先導してきたのはナチス時代に亡命を図ったドイツ人を受け入れてくれた周辺国に対する恩返しの意味もある。

Richard Devine - ele-king

 本作はIDM/電子音響作家リチャード・ディヴァイン、6年ぶりの新作である。IDMマニアからは伝説化しつつあるディヴァインだが、彼のツイッター・アカウントなどをフォローしていれば、日々配信されるモジュラーシンセを用いたサウンドの断片は耳(目)にすることはできる。また、YouTubeのアカウントでも、そのモジュラー音源の映像を観ることは可能である。

https://www.youtube.com/watch?v=o791hgNvGIg
https://www.youtube.com/watch?v=sQOVpUVDPys

 だがそれはいわば日々のサウンド実験の中間報告のようなもので、こうしてアルバムとしてまとまったサウンドを聴くことはやはり重要である。今のディヴァインのサウンドの方向や嗜好性などのモードが手に取るように分かってくるし、同時に彼がいかに才能に溢れた電子音楽家であるかということも再認識できる。それに何よりも彼自身が作品として追い込んでいった電子音響の結晶と構造体を一気に十数曲も聴取できるのだ。これは素晴らしい体験である。

 本作でもリチャード・ディヴァインは電子音による生成、持続、律動、音響、リズムを、とことんまで追及しているように感じられた。モジュラーを駆使したグリッチ・ミュージックの進化形とでもいうべき音に仕上がっているのだ。00年代のコンピューター・エディット/コンポジションの時代を経て、10年代後半的なモジュラーシンセ特有のフィジカルな音響生成に至った、とでもいうべきか。このアルバムは、確かにあの時代、つまり00年代のグリッチ音響作品としてのIDMを継承した電子音響である。電子音楽マニアにとって新たな聖典といえよう。

 リチャード・ディヴァインの経歴を簡単に振り返っておこう。ディヴァインは1977年生まれ、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ出身のグリッチ以降の電子音楽を代表するエレクトロニック・ミュージック・アーティストである。彼は1995年〈Tape〉からファースト・アルバム『Sculpt』をリリースし、以降、いくつかのEPを継続的にリリースした。
 しかしリチャード・ディヴァインが、われわれの知る「リチャード・ディヴァイン」へと変貌を遂げたのは、2001年に〈Schematic〉からリリースされたセカンド・アルバム『Aleamapper』と2002年に同レーベルからリリースされたサード・アルバム『Asect:Dsect』からではないか。特に『Asect:Dsect』は、エイフェックス・ツインやオウテカなどの90年代IDMの最良の部分を継承しつつ、00年代初頭のグリッチ・ミュージックの方法論を洗練・交錯させた名盤で、今でもコアなエレクトロニック・ミュージック・ファンに愛されている重要なアルバムである。
 2005年に〈Sublight Records〉から『Cautella』をリリースした後、アルバムのリリースは途絶えた。ジミー・エドガーとの「Divine Edgar EP」をはじめ、いくつかのEPを発表したが、次のアルバムのリリースまでなんと7年の月日を必要とした。そして2012年、〈Detroit Underground〉から新作『Risp』を発表する。7年の月日をかけただけのことはあり「10年代仕様の複雑かつ見事な電子音響/IDM作品」となっており、マニアは大いに歓喜した。
 本作『Sort\Lave』は、前作『Risp』から6年ぶりのアルバムである。10年代のリチャード・ディヴァインは寡作だが、それはむろん諸々の「状況」の問題もあるだろうし、電子音楽/音響の方法論と形式がある程度、固まってきた時代ゆえ熟考を要する時代になったからともいえなくもない。じじつ、長い時間をかけて制作された『Sort\Lave』は電子音楽の可能性に満ちている。それは何か。一言でいえば「電子音楽におけるサウンド/オブジェの結晶化」ではないかと私は考える。

 リチャード・ディヴァインは直接的にはオウテカからの影響の大きいアーティストだ。緻密な音響と伸縮するようなリズム=ビートを追及しているからである。そしてそれはテクノ/電子音響による音響彫刻の実現化でもあった。彼にとってリズムはダンスを目的するものだけではない。サウンドの時間軸を操作するための要素なのだ。
 その意味でオウテカの8時間に及ぶ集大成的なボックス・セットがリリースされた本年に『Sort\Lave』がリリースされたことは象徴的な出来事といえよう。IDM以降のサウンド・オブジェクトの最新型がここに揃ったのだから。

 本作は独自仕様のユーロラック・モジュラー・システムとふたつの Nord G2 Modular ユニットを用いて制作された。トラックの時間軸は一定の反復に縛られず、自在に伸縮している。なかでも12分20秒に及ぶ1曲め“Microscopium Recurse”を聴くと、彼のサウンドの生成と時間軸のコントロールがこれまで以上に自由になっていると分かる。2曲め“Revsic”では一定のビートがドラムンベースのように高速で構築されているのだが、いつしかその反復は伸縮し、非反復的に進行するエクスペリメンタル・テクノ・トラックである。

 アルバムには全12曲が収録されているが、どのトラックもモジュラーによる生々しい電子音が生成しており、電子音に対する耳のフェティシズムとテクノ的な律動と、それを内側から伸縮させてしまうようなタイム・ストレッチ感覚に満ちていた。
 そう、彼の音は、電子音による一種のマテリアル/オブジェなのである。それゆえリチャード・ディヴァインは、最近の電子音楽家にありがちな(?)ポエティックな「思想」は希薄に感じる。いわば音を彫刻のように生成・構築するいまや数少ないサウンド・マテリアリストといえよう。

 もしも仮に電子音楽に新しい可能性があるとすれば、それは抽象的な枠組みに収まらざるをえない「未来」(ユートピアであれディストピアであれ)のようなものを羨望する思想ではなく、具体的な諸々の音の組織体を提示してきた過去から放たれた「一瞬」を掴まえていく意志と行動、つまり創作/制作のただ中にこそあるのではないかと私は考える(そしてその意志の持ちようは聴き手側も変わらないはずだ)。
 音の煌めきに敏感であること。音の運動を捉える大胆かつ繊細な感性を持っていること。数学的といえる整合性と逸脱への関心を交錯させていること。
 過去の煌めきから放たれたものの参照・理解・応用から、現在の閃光=音響が生まれる。リチャード・ディヴァインはそれをよく分かっているのだろう。彼はどこか数学者や科学者のような思考と手つきでトラックを生み出し続けている。本作は、そんな数学者のような電子音響作家によって生み出された新しい音響のオブジェ/構造体なのだ。

Wen - ele-king

 ワイリーが起源だとされるウエイトレスはファティマ・アル・ケイディリシェベルなど応用編の方がどんどん突っ走っている印象が強いなか、さらにウエイトレスとニューエイジを結びつけたヤマネコ『Afterglow』やオルタナティヴ・ファンク風のスリム・ハッチンズ『C18230.5』など適用範囲がさらに裾野を広げ、原型がもはやどこかに埋もれてしまったなあと思っていたら、そうした流れに逆行するかのようにウエイトレス以外の何物でもないといえるアルバムをウェンことオーウェン・ダービーがつくってくれた(以前はもっとクワイトやダブステップに近いサウンドだった)。ファティマ・アル・ケイディリやスラック『Palm Tree Fire』からは4年が経過しているし、何をいまさらと言う人の方が多いだろうけれど、なんとなく中心が欠如したままシーンが動いているというのは気持ちが悪く感じられるもので、それこそデリック・メイが1992年あたりにデトロイト・テクノのアルバムを出してくれたような気分だといえば(ロートルなダンス・ミュージックのファンには)わかってもらえるだろうか。つまり、このアルバムが4~5年前にリリースされていれば、もっと大変なことになったかもしれないし、ボディ・ミュージックを意識したようなストリクト・フェイス『Rain Cuts』などの意図がもっとダイレクトに伝わったのではないかなどと考えてしまったのである。ウエイトレスが何をやりたい音楽なのかということを、そして『EPHEM:ERA』はあれこれと考えさせる。それはとんでもなくニュートラルなものに思えて仕方がなく、ファティマ・アル・ケイディリによるエキゾチシズムやシェベルによるアクセントの強いイタリア風味など、応用編と呼べるモード・チェンジが速やかに起きてしまった理由もそこらへんにあるような気がしてしまう。それともこれはアシッド・ハウスが大爆発した翌年にディープ・ハウスという揺り戻しが起きた時と同じ現象だったりするのだろうか。「レッツ・ゲット・スピリチュアル」という標語が掲げられたディープ・ハウス・リヴァイヴァルがとにかく猥雑さを遠ざけようとしたことと『EPHEM:ERA』が試みていることにもどこか共通の精神性は感じられる。悪くいえばそれは原理主義的であり、変化を認めないという姿勢にもつながってしまうかもしれない。いずれにしろウエイトレスが急速に変化を続けているジャンルであることはたしかで(〈ディフィレント・サークルズ〉を主宰するマムダンスは「ウエイトレスはジャンルではない。アティチュードだと発言していたけれど)、全体像を把握する上で『EPHEM:ERA』というアルバムがある種の拠り所になることは間違いない。

 思わせぶりなオープニングで『EPHEM:ERA』は始まる。そして、そのトーンは延々と続いていく。何かが始まりそうで何も始まらない。立ち止まるための音楽というのか、どっちにも踏み出せないという心情をすくい取っていくかのように曲は続く。うがっていえばいまだにブレクシット(これは反対派の表現、肯定派はブレグジット)の前で迷っているとでもいうような。“RAIN”はそうした躊躇を気象状況に投影したような曲に思えてくる。動けない。動かない。続く“BLIPS”あたりからそうした精神状態がだんだん恍惚としたものになり、停滞は美しいものに成り変わっていく。ここで“ VOID”が初期のアルカに特徴的なノイズを混入させ、美としての完成を思わせる。そこでようやく何かが動き始め、後半はウエイトレスとUKガラージが同根のサウンドだということを思い出させる展開に入っていく。それらを引っ張るのが、そして、“GRIT”である。「エフェメラ」とはフライヤーやチラシのように、役割を終えればすぐになくなってしまう小さな印刷物のことで、ポスターや手紙、パンフレットやマッチ箱などのことを言う。“GRIT”はさらにそれよりも儚いイメージを持つ「砂」のことで、『EPHEM:ERA』にはどこか「消えていくもの、失われていくもの」に対する愛着のようなものが表現されている。『EPHEM:ERA』のスペルをよく見ると、ERAの前がコロンで区切られており、「すぐになくなってしまう小さな印刷物の時代」という掛け言葉になっていることがわかる。それはまさにウエイトレス=無重力に舞うイメージであり、エフェメラに印刷されて次から次へと生み出される「情報」の多さやその運命を示唆しているのではないかという邪推も働いてしまう。膨大な量の情報が押し寄せ、誰もそのことを覚えていない時代。クロージングの美しさがまたとても際立っている。


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