Home > Reviews > Film Reviews > 山下敦弘監督『ハード・コア』
ハロウィーンに関する報道は、つい数年前まで「経済効果」のことだけで、「若い人」がどのように楽しんでいるかということも関心が薄かったのに、このところの話題は「道徳」ばかりとなっている。金を使ってくれる間は良い子で、経済活動の範囲に収まらなければすぐにも悪い子扱いとは、社会が子どもをお金としてしか見ていないことはあからさまだし、かつて竹の子族から沖田浩之や哀川翔といったタレントが生まれたように、来年あたりは芸能事務所が暗躍する気配も濃厚である。かつてマルカム・マクラーレンは「キャッシュ・フロム・カオス」をスローガンにパンク・ムーヴメントを仕掛け、いまではアントレブレナーの先駆として評価されているけれど、あれだけの人数が渋谷に押し寄せて、何事もなくみんな無事に帰りましたという方がむしろ気持ち悪いと思うのは僕だけであろうか。ハロウィーンを楽しんでいる「大人」はまったく視界に入らず、痴漢が多いというのは本当に呆れてしまうけれど。
山下敦弘監督が昨年初めに亡くなった狩撫麻礼の劇画原作を5年越しで映画化した『ハード・コア』はハロウィーン騒ぎを横目で睨む右翼青年、権藤右近(山田孝之)の苦々しい表情からスタートする(狩撫麻礼というペンネームは、カリブ海のボブ・マーレーに由来。パク・チャヌクが映画化した『オールド・ボーイ』が最も有名か)。自分と同じ気持ちでハロウィーンに不快感を示していると思っていたバーの女(松たか子)があっという間にハロウィーン騒ぎと同化してしまうところを目撃し、右近はさらに人間不信になっていく。オープニングのこのシーンだけで、僕は大袈裟なことにウォーレン・ベイティが『世界を揺るがした10日間』を映画化した『レッズ』を思い出してしまった。ロシア革命が起きたという報を聞いて現地に向かうジャーナリストのジョン・リードはその直前、『アンダルシアの犬』を観ながら笑いこける映画館の観客に違和感を感じている。『アンダルシアの犬』は1929年にフランスで公開された当時も右翼によって映画館ごと焼き払われるという憂き目に会っているけれど、退廃と右翼はどうしてもソリが合わない。消費社会が成熟度を増すたびに、その狂騒状態から取り残される若者が右翼に向かうという図式は常に有効なようで、日本でも80年代には『狂い咲きサンダーロード』、ゼロ年代には『凶気の桜』がそれぞれカルト的な人気を博し、つい最近も『孤高の遠吠』で不良たちと右翼は当然のように結びつけられていた。そしてそのどれもが右翼団体を実際には崇高な目的のために活動している組織ではなく、若者の真面目さを利用しているだけという悲劇的な性格のものとして捉え、一足飛びに言ってしまうと「真面目な奴はバカを見る」という話が何度も繰り返されているともいえる。『ハード・コア』はこうした図式に多少ともでも揺さぶりをかけ、結果的に喜劇として見せたところが新鮮だった。そしてなによりも暴力描写を排除したことで右翼活動と身体的な欲求不満を切り離し、精神性にフォーカスしたところが潔く、言わば文科系のための右翼映画をここでは試みたということになるのだろう。山下敦弘はデビュー作となる『どんてん生活』では金がなくてもそれなりに楽しく生きていけることを(初期衝動として?)描いていたので、『ハード・コア』ではその思想がスケール・アップされ、「持たざる者」を救ってくれるのはほんのちょっとしたファンタジーであり、それさえあれば人間の存在価値を示せるのではないかと示唆しているようにも思えた。そのファンタジーの中核をなすのが、しかも、AIなのである。
右翼構成員として街宣活動などに従事している右近と牛山(荒川良々)は偶然にも最新式のAIを搭載したロボットを見つけてしまう。彼らが所属している右翼組織は資金を確保するために群馬の山奥で埋蔵金を堀り続け、これが一向に見つからない。ないかもしれないものを「掘り続ける」ということはおそらく天皇崇拝のパロディなのだろう、この場面がしつこく、しかも滑稽に畳み掛けられるのは人間の力には限界があることを示すためで、ロボットがいとも簡単に埋蔵金を見つけてしまう辺りから、この映画は角川映画としての本領を発揮し始める。それこそ『狂い咲きサンダーロード』と『セーラー服と機関銃』を同時に観ているような痛快さ。リアリティがあるはずもないのに、誰ひとりとして正義を言える立場にはないということが明瞭になってくる辺りから、むしろ奇妙なリアリティが立ち上がってくるような気さえしてしまう。牛山に童貞を捨てさせようとするエピソードや右近が幹部の娘に誘惑されたりと、色恋沙汰が絡みまくるところは暴力描写を省いても身体性そのものを無視しているわけではないという代替表現になっており、結論から逆算して思うに、あまりにもくだらないエピソードの数々はこの世に対する未練や執着を可能な限り積み上げることで、そうしたものの一切と無縁になっていくエンディングを際立たせることになったといえる。右近自身も含めてこの世界はわけがわからなければわからないほどこの世らしくなってくるのであり、そういった社会との明確なパイプ役ともいえる弟の左近(佐藤健)をエリート・サラリーマンという設定にすることでロボットの価値を見抜く役目に当てただけでなく、消費社会に同調している人間も実はこの社会に違和感があるという二重否定の要素として機能させているところも上手いとしか言えない。それは勝ち組が負け組に惹かれていくプロセスという、これもまた現実味に欠ける展開で、それを具現化していくために右近と左近が酒場で議論し合うシーンは出色の場面だと思ったのだけれど、これは原作にはないそうで、未見の方はできればこのシーンを楽しみにしていただきたい。結論にも、そして、まるっきりリアリティがない。ある意味、『シェイプ・オブ・ウォーター』と同じで、この社会に弱者の居場所はない、いらない人間は出ていけばいいということでしかない。なのにこの作品には夢がある。『セーラー服と機関銃』ならば荒唐無稽ななかにも家父長制度を絶やすという時代なりのサタイアが潜んでいたように、『ハード・コア』ではAIによってお払い箱とされるかもしれない負け組がAIと共に夢を見ているという強烈な皮肉が込められ、現在進行形でしか成り立たない毒気に満ち溢れている。なるほど生産性を高めたいと考える社会がAIを導入しようとする動機だけでなく、それによって切り捨てられる側がAIを駆使するという発想はどこにもなかった。貧者の核爆弾ではないけれど、そう思うとこの作品はカウンター・カルチャー的なんだなということがわかってくる。少なくともそれを想像している作品だということは間違いない。
『ハード・コア』予告映像
三田格