Home > Reviews > Album Reviews > Mr Twin Sister- Salt
逃げたい。そう思うことは何も間違っていない。いや、というよりむしろそう思ったのなら一目散に逃げ出してしまったほうがいい。でも、なぜか、みんな、逃げない。
ポピュラー・ミュージックにはある種の逃避性が具わっている。それは、目の前のつらい現実から遠く離れて浮遊しているかのような錯覚を引き起こす音響上の効果のことで、そういったサウンドに耽溺しているリスナーにたいしてはしばしば「現実逃避だ」とのそしりが寄せられるけれど、そのような非難の声は間違っている。なぜなら、音楽を聴いてもけっして現実から逃避などできないのだから。
心地よく快適な音に身を浸したリスナーはまず間違いなく翌朝、いつもどおり会社なり学校なりに赴きいつもどおり自らのタスクをこなすことだろう。もちろんなかにはめんどくさくなって一日二日休んだりする人もいるかもしれないが、そのままどこかの山奥なり海底なり北国なり南国なりを目指して逃げて逃げて逃げて、ひたすら逃げて、そのまま二度ともとの生活に戻らないような人間はそうそういない。すくなくとも現行の秩序下で流通している音楽は、それがどれほど逃避を促す響きを有していようとも、じっさいに人を逃避させることはない。それはどこまでもリスナーをつらい現実へと引きとどめる。ようは一時的に気分を紛らわせる嗜好品とおなじで、音楽もまた資本主義社会があらかじめ用意しているあめ玉のひとつなのである。
それでも。たとえ一時的であったとしても。音楽が私たちをつらい現実のくびきから解き放ってくれるのなら、それはとても素晴らしいことじゃないか――かつてチルウェイヴやドリーム・ポップをドライヴさせていたのは、そのような動機だったのではないか。
トゥイン・シスターは引きこもりというわけではないが、そんな10年代初頭のムーヴメントとリンクするかたちで頭角を現してきたバンドである。にもかかわらず彼らはセカンド・アルバムにおいて、その文脈から距離をとることを願うかのようにテクノを導入し、作風(と名義)を変えてみせた。そして彼らはこのたびリリースされたサード・アルバムにおいてもまた、いくらか作風を変えている。
今回とくに目立つのは、ジャズとファンクの要素だ。それはエリック・カルドナのサックスが夜のムードを演出する“Alien FM”や、ぶりっとしたベースが絶妙なグルーヴを生み出す“Tops And Bottoms”によく表れているが、加えてもうひとつ、“Taste In Movies”や“Jaipur”に見事に昇華されているように、ダブもまた本作の大きな特徴だろう。アンドレア・エステラのルーツを表現するためにスペイン語で歌われる“Deseo”においてそれは、ダブ・テクノとして実を結んでいる。いやはや、なんとも完成度は高い。
興味深いのは、それらジャジーだったりファンキーだったり機能的だったりする曲たちが、昂揚や夢見心地なムードからは距離を置いているところだ。このどこか覚めた感じ、よそよそしい感じはいったい何に由来しているのだろう。
中盤の“Buy To Return”では「返品するために買う」という消費をテーマにしたと思われるリリックが登場するが、歌詞のうえでより決定的なのは最後の“Set Me Free”だろう。「死ねば平穏になれるだろうか/それでも私の一部は泣き続けるだろうか?/べつの終わりを待っている」と歌われる同曲は、現代社会の出口のなさを表現しているとしか思えない。どれだけ逃げたつもりになっても、私たちはつねに囲いこまれている。「セット・ミー・フリー」という悲痛なフレーズが、霧がかったダブの彼方へとむなしく消えていく。
この最終曲へとたどり着いたとき、本作のアートワークもまた強烈な意味をともなって私たちのもとへと迫ってくる。ジャケに掲げられたどこか悲しげなマリオネットは、エステラが手ずから制作したものだそうだけど、この構図を見るとオーディオ・アクティヴの『SPACED DOLLS』を思い出さずにはいられない。逃げたつもりでいても、手綱はしっかりと握られている――そのような逃避の不可能性こそが、本作を昂揚やハピネスから遠ざけているのではないか。
もはやチルウェイヴやドリーム・ポップといったタームとはほとんど縁のないサウンドへと到達したミスター・トゥイン・シスター、彼らが前作で名を改め、段階を踏んでサウンドを変容させていったのは、現実逃避が現実逃避にならないこと、むしろ一時的な現実逃避こそが現実への隷属をより強固にすることに気がついたからなのではないか。
子どもの頃は『デ・ジ・キャラット』がお気に入りだったというアンドレア・エステラ、高畑勲が亡くなった際には「あなたの暗闇のおかげで私は自分の暗闇を乗り切ることができた」と意味深な言い回しで追悼の辞を述べていた彼女は、他方で何度かインスタに綾波を滑り込ませていることから察するに、少なくとも一度は碇少年の「逃げちゃダメだ」という言葉の意味をかみ締めたことがあるにちがいない。それが社会の要請の強烈な内面化であること、そこから逃れようとしても逃れられないこと、資本主義に外部など存在しないということ、音楽がときに私たちをそのようなつらい現実へとつきかえす門番でもありうること――つまりは、山奥なり海底なり北国なり南国なりを目指して逃げて逃げて逃げて、ひたすら逃げて、そのまま二度ともとの生活に戻らないなんてことがどうしようもなく不可能であること、彼らがドリーミーなムードと手を切ったのは、そういった絶望を真摯に受け止めるためではないだろうか。
小林拓音