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本作はIDM/電子音響作家リチャード・ディヴァイン、6年ぶりの新作である。IDMマニアからは伝説化しつつあるディヴァインだが、彼のツイッター・アカウントなどをフォローしていれば、日々配信されるモジュラーシンセを用いたサウンドの断片は耳(目)にすることはできる。また、YouTubeのアカウントでも、そのモジュラー音源の映像を観ることは可能である。
https://www.youtube.com/watch?v=o791hgNvGIg
https://www.youtube.com/watch?v=sQOVpUVDPys
だがそれはいわば日々のサウンド実験の中間報告のようなもので、こうしてアルバムとしてまとまったサウンドを聴くことはやはり重要である。今のディヴァインのサウンドの方向や嗜好性などのモードが手に取るように分かってくるし、同時に彼がいかに才能に溢れた電子音楽家であるかということも再認識できる。それに何よりも彼自身が作品として追い込んでいった電子音響の結晶と構造体を一気に十数曲も聴取できるのだ。これは素晴らしい体験である。
本作でもリチャード・ディヴァインは電子音による生成、持続、律動、音響、リズムを、とことんまで追及しているように感じられた。モジュラーを駆使したグリッチ・ミュージックの進化形とでもいうべき音に仕上がっているのだ。00年代のコンピューター・エディット/コンポジションの時代を経て、10年代後半的なモジュラーシンセ特有のフィジカルな音響生成に至った、とでもいうべきか。このアルバムは、確かにあの時代、つまり00年代のグリッチ音響作品としてのIDMを継承した電子音響である。電子音楽マニアにとって新たな聖典といえよう。
リチャード・ディヴァインの経歴を簡単に振り返っておこう。ディヴァインは1977年生まれ、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ出身のグリッチ以降の電子音楽を代表するエレクトロニック・ミュージック・アーティストである。彼は1995年〈Tape〉からファースト・アルバム『Sculpt』をリリースし、以降、いくつかのEPを継続的にリリースした。
しかしリチャード・ディヴァインが、われわれの知る「リチャード・ディヴァイン」へと変貌を遂げたのは、2001年に〈Schematic〉からリリースされたセカンド・アルバム『Aleamapper』と2002年に同レーベルからリリースされたサード・アルバム『Asect:Dsect』からではないか。特に『Asect:Dsect』は、エイフェックス・ツインやオウテカなどの90年代IDMの最良の部分を継承しつつ、00年代初頭のグリッチ・ミュージックの方法論を洗練・交錯させた名盤で、今でもコアなエレクトロニック・ミュージック・ファンに愛されている重要なアルバムである。
2005年に〈Sublight Records〉から『Cautella』をリリースした後、アルバムのリリースは途絶えた。ジミー・エドガーとの「Divine Edgar EP」をはじめ、いくつかのEPを発表したが、次のアルバムのリリースまでなんと7年の月日を必要とした。そして2012年、〈Detroit Underground〉から新作『Risp』を発表する。7年の月日をかけただけのことはあり「10年代仕様の複雑かつ見事な電子音響/IDM作品」となっており、マニアは大いに歓喜した。
本作『Sort\Lave』は、前作『Risp』から6年ぶりのアルバムである。10年代のリチャード・ディヴァインは寡作だが、それはむろん諸々の「状況」の問題もあるだろうし、電子音楽/音響の方法論と形式がある程度、固まってきた時代ゆえ熟考を要する時代になったからともいえなくもない。じじつ、長い時間をかけて制作された『Sort\Lave』は電子音楽の可能性に満ちている。それは何か。一言でいえば「電子音楽におけるサウンド/オブジェの結晶化」ではないかと私は考える。
リチャード・ディヴァインは直接的にはオウテカからの影響の大きいアーティストだ。緻密な音響と伸縮するようなリズム=ビートを追及しているからである。そしてそれはテクノ/電子音響による音響彫刻の実現化でもあった。彼にとってリズムはダンスを目的するものだけではない。サウンドの時間軸を操作するための要素なのだ。
その意味でオウテカの8時間に及ぶ集大成的なボックス・セットがリリースされた本年に『Sort\Lave』がリリースされたことは象徴的な出来事といえよう。IDM以降のサウンド・オブジェクトの最新型がここに揃ったのだから。
本作は独自仕様のユーロラック・モジュラー・システムとふたつの Nord G2 Modular ユニットを用いて制作された。トラックの時間軸は一定の反復に縛られず、自在に伸縮している。なかでも12分20秒に及ぶ1曲め“Microscopium Recurse”を聴くと、彼のサウンドの生成と時間軸のコントロールがこれまで以上に自由になっていると分かる。2曲め“Revsic”では一定のビートがドラムンベースのように高速で構築されているのだが、いつしかその反復は伸縮し、非反復的に進行するエクスペリメンタル・テクノ・トラックである。
アルバムには全12曲が収録されているが、どのトラックもモジュラーによる生々しい電子音が生成しており、電子音に対する耳のフェティシズムとテクノ的な律動と、それを内側から伸縮させてしまうようなタイム・ストレッチ感覚に満ちていた。
そう、彼の音は、電子音による一種のマテリアル/オブジェなのである。それゆえリチャード・ディヴァインは、最近の電子音楽家にありがちな(?)ポエティックな「思想」は希薄に感じる。いわば音を彫刻のように生成・構築するいまや数少ないサウンド・マテリアリストといえよう。
もしも仮に電子音楽に新しい可能性があるとすれば、それは抽象的な枠組みに収まらざるをえない「未来」(ユートピアであれディストピアであれ)のようなものを羨望する思想ではなく、具体的な諸々の音の組織体を提示してきた過去から放たれた「一瞬」を掴まえていく意志と行動、つまり創作/制作のただ中にこそあるのではないかと私は考える(そしてその意志の持ちようは聴き手側も変わらないはずだ)。
音の煌めきに敏感であること。音の運動を捉える大胆かつ繊細な感性を持っていること。数学的といえる整合性と逸脱への関心を交錯させていること。
過去の煌めきから放たれたものの参照・理解・応用から、現在の閃光=音響が生まれる。リチャード・ディヴァインはそれをよく分かっているのだろう。彼はどこか数学者や科学者のような思考と手つきでトラックを生み出し続けている。本作は、そんな数学者のような電子音響作家によって生み出された新しい音響のオブジェ/構造体なのだ。
デンシノオト