Home > Reviews > Album Reviews > 食品まつりa.k.a foodman- Aru Otoko No Densetsu
毎週金曜、テレビ朝日の『dele』を楽しみにしていたのに早くも来週で終わってしまう(第2話でいきなりコムアイが死にましたね)。「いじめ」を扱った第6話は(以下、ネタバレ)ブルー・ホエールやモモといった自殺サイトの問題もストーリーの背景に織り込んであって、かなり見応えがあった。菅田将暉演じる真柴祐太郎が『そこのみにて光り輝く』の大城拓児を彷彿とさせるのも良かった。
『dele』はしかし、放送時間が一定せず、時によってはフジテレビ系『脱力タイムズ』と被ってしまうのが難であった(録画すればいいんだけどね)。『脱力タイムズ』はいま、日本で一番面白いTVのお笑いコンテンツではなかろうか。報道番組と称してコメンテイターがあれこれと解説を垂れ流すものの、どれも内容はズレていて、テーマに沿って番組が進んだことはない。あるいは、コンプライアンスを重視してTVのお約束ごとに片端から注釈を入れ、自然な進行をズタズタにしてしまう要するによくある演出方法を逆手にとって、制度化してしまったTV番組を解体しつつ別次元で成立させているのである。さらには番組内で行われる告知を番組全体の構造に反映させ、告知そのものをエンターテインメント化してしまうという荒技もやってのけていた(少し古いけれどサンドウィッチマンをトランスジェンダーと想定して無茶振りしまくった『君の名は』の回は芸術的な完成度であった)。なんというか、視聴率三冠王と言われる日本テレビが人間性を露わにすることで視聴者に強くアピールしているのに対し、ことごとく不自然であろうとするのが『脱力タイムズ』であり、ここには現在のTV文化が何をやっているのかを問う「メタ視線」が随所にあふれている。
食品まつりの音楽には、これと同じ「メタ視線」が多分に含まれている。かつて中原昌也が「スロッビン・グリッスルはカッコいいと思ったけれど、それをそのまま日本という風土でやるのは恥ずかしい」と認識していたことと同じ、要するに自意識の有無である。食品まつりがシカゴのジュークに影響を受け、その列に素直に加わってしまうのではなく、「日本でシカゴのジュークを聴くこと」がどのような効果を日本人にもたらすか、それを分かった上で彼はジュークをつくっているといえる。シカゴのストリートでは切迫感やフィジカルな要素がまさっていたのかもしれないけれど、日本ではそれよりも笑いのセンスが強かったともいえるし、ジュークが持っていたもっと別な可能性を引き出してきたとも言える。あるいは、『ARU OTOKO NO DENSETSU』まで来てしまうと、ジュークからも離れて「可能性」はどんどんひとり歩きを始め、類い稀なオリジナリティへと辿り着いたことも確かだろう(2012年のデビュー・カセットから前作『Ez Minzoku』まではエレキング20号で作品ごとに解説しているのでそちらを参照ください)。前後してリリースされたジュークの創始者、RP・ブーの新作『I’ll Tell You What!』にも「Cloudy Back Yard」という奇妙な曲が収録されている。これもかなりジュークからは逸脱を図ったものに聞こえるけれど、しかし、食品まつりがジュークの余白から掴み出してきたポテンシャルに比べると、やはり想定内かなという気もするし、むしろ食品まつりからのフィードバックがこれを作らせたのかなと?
食品まつりはまたジュークだけを出発点にしていたわけではなく、ゼロ年代にアメリカのアンダーグラウンドで様々に試みられていた実験音楽がその背景にあることは、彼の作品がブラッド・ローズの〈Digitalis Recordings〉やマシュー・セイジの〈Patient Sounds Intl.〉からリリースされてきたことがそのままを語っている。『ARU OTOKO NO DENSETSU』がリリースされたのもゼロ年代末から西海岸サウンドの刷新に努めてきたサン・アローからのレーベルで、かつてなく空間性に富んだ内容もサン・アローがここ数年、展開してきた余白の多いサウンドとも共振性が高く、ユーモラスな作風の受け皿としては実に納得がいく。この浮遊感と脱力感。ポコポコとしたアンビエンスは日本独自のテクスチャーとも思えてくるし、もしかして意外な角度からコーネリアスを脅かす存在になっていくのかもしれない。
ちなみにアートブックがつくらしいんですけど、筆者はそれがどんなものかわかっておりません。
三田格