「Noton」と一致するもの

R.I.P. Sylvain Sylvain - ele-king

 偉大なるパンクの先駆者、ニューヨーク・ドールズのギタリストとして知られるシルヴェイン・シルヴェインが2年以上におよぶ癌との闘病の末に亡くなった。

 本名はロナルド・ミズラヒ。1951年にカイロで生まれたシリア系ユダヤ人で、1956年のスエズ動乱の際に家族でフランスを経てアメリカに渡り、ニューヨークのクイーンズに落ち着く。渡米して最初におぼえた英語は「ファック・ユー」だったという。
 ドールズのオリジナル・ドラマーだったビリー・マーシアはコロンビアからの移民で、シルヴェインとは近所に住む幼馴染だった。ふたりはやがて服飾関係の仕事に進み、その経験がのちのドールズの斬新な衣装に活かされる。

 ジョニー・サンダースをフロントに据えたバンド、アクトレスにビリーとともに参加。ここにデヴィッド・ヨハンセンが加わりニューヨーク・ドールズのラインナップが完成する。マーサー・アーツ・センターという複合施設で定期的にライヴをおこなうようになったドールズは、ド派手な衣装とハイヒール・ブーツにギラギラのメイクという姿でシンプルなロックンロールを演奏するステージが評判を呼び、70年代初頭のニューヨークにおけるもっともホットなバンドとなっていく。アンディ・ウォーホール周辺をはじめとする当時のヒップな面々が集ったという。グラム前夜のデヴィッド・ボウイもしばしば訪れている(ヨハンセンに「その髪型、誰にやってもらったの?」と尋ねたそうだ)。
 ビリーの死後にドールズのドラマーとなるジェリー・ノーランは、初めてドールズを観たときの衝撃を「すげえ! こいつら、他に誰もやってないことをやってる。三分間ソングが戻ってきた!」と表現している。「当時といったら、ドラム・ソロ十分、ギター・ソロ二十分って時代だったから。一曲だけでアルバム片面終わっちゃったりね。そういうのには、もううんざりしてた」(『
プリーズ・キル・ミー』より)。まさにパンクだったのだ。ドールズがロックに取り戻したのは、シャングリラスに代表されるガール・グループのポップスとロックンロール、すなわち五十年代だった。

 デヴィッド・ヨハンセンとジョニー・サンダースという強烈なスターをフロントに擁するドールズだが、ソングライティング面におけるシルヴェインの貢献も見逃せない。デビュー作『ニューヨーク・ドールズ』収録曲の中でも速い “フランケンシュタイン” やエディ・コクランのギター・リフを取り入れた “トラッシュ” はシルヴェインとヨハンセンのペンによるものだし、ソロ・アルバム『シルヴェイン・シルヴェイン』に収録された “ティーンネイジ・ニュース” はパワーポップの名曲として知られている。

 マネージャーとなったマルコム・マクラーレンとの関係悪化などもあり、ジョニーとジェリーはバンドを脱退。シルヴェインとヨハンセンはバンドを続け、75年には内田裕也の招聘で来日もしているが、ロンドンでのパンクの勃興を横目に間もなく解散する。シルヴェインはソロやティアドロップス、クリミナルズといったバンドで80年代に数枚の作品を発表しており、『シルヴェイン・シルヴェイン』をはじめ佳作も多いのだが残念ながら大きな成功を収めるには至らなかった。

 90年代にはジョニー・サンダースとジェリー・ノーランが続けざまに亡くなるが、2004年にまさかのドールズ再結成。きっかけは英国におけるファンクラブ会長だったモリッシーの熱いリクエストによるものである。このときの様子はベースのアーサー・ケインをフィーチャーしたドキュメンタリー映画『ニューヨーク・ドール』に記録されている。ミュージシャンを引退し、図書館員として働いていたアーサーがスタジオを訪れると、そこではまさにシルヴェインがリハーサルを仕切っていた。
 復活ライヴの直後に今度はアーサーも亡くなるがバンドは活動を継続し、再結成後に3枚のアルバムを残している。特に最後のアルバムとなった『ダンシング・バックワード・イン・ハイヒールズ』(2011)は、ヨハンセンのソロ作品でのスウィング・ジャズやキャバレー音楽の雰囲気を取り入れた異色の傑作だった。

 筆者はシルヴェインのステージを3回観ている。最初は2008年、スペインのフェスでのニューヨーク・ドールズ。2回目は2016年のソロ来日。そして最後は2018年、「ザ・ドールズ」という名義でニューヨーク・ドールズの曲を中心に演奏するというものだった。
 3回とも、陽気でチャーミングな姿が印象に残っている。特にオリジナルメンバーがふたりだけとなったニューヨーク・ドールズは、カリスマ性の強いヨハンセンと盛り上げ上手なシルヴェインが好対照だった。


2018年の来日公演(写真:大久保潤)

 最後の来日の際には、『プリーズ・キル・ミー』(2007年に出た邦訳)を持参して終演後に見せたところ、にこやかに「これは素晴らしい本だよね」と言いながらサインをしてくれた。2020年に念願の復刊を果たした本書をもう一度見せたかったのだが、それももう叶わなくなってしまった。

コロナ時代だからこそ読みたい刺激的な本 - ele-king

 これはコロナ時代だからこそ読みたい1冊だ。いつも紙版エレキングの臨時増刊号(最新号は「コロナが変えた世界」)でご尽力いただいているジャーナリストの土田修氏が、去る12月末、哲学・神学者の稲垣久和氏との共著を刊行している。題して『日本型新自由主義の破綻──アベノミクスとポスト・コロナの時代』。
 昨年退いた安倍による政治経済とコロナ・パンデミックはどういう関係にあったのか、「Go To トラベル」は良いのか悪いのか、なぜPCR検査体制ができないのか、などなど、ものすごく旬な話題がつぎつぎと俎上に載せられていく。
 あるいは、オリンピック。海外の状況を考えればどう考えたってムリなのに、現政権はいまなお強く開催に固執しているが(日本だけ参加して全競技で金メダルをとるつもりなのだろうか?)、なぜ彼らがこれほど五輪にこだわるのか、それについても本書は一章を割いて論じている。
 そしてもちろんタイトルどおり、ネオリベラリズムそれじたいの問題についても、日本と海外、過去と現在を往復しながら再検証されている。
 と、そんな感じで考えるヒントがいっぱい詰まっているので、スリーフォード・モッズを聴きながら読みましょう。

新自由主義の病理と政権の欺瞞をアベノミクス、東京五輪、羽田都心ルートなどを例に痛烈批判。デモクラシーを再考させる好著。

稲垣久和+土田修(著)
『日本型新自由主義の破綻──アベノミクスとポスト・コロナの時代』
春秋社
2020/12/22
判型・頁数:四六判・344頁
ISBN:9784393333822
定価:本体1,800円+税

顕わになった新自由主義の病理。東京五輪や羽田都心ルート、さらには新型コロナウイルスをめぐるガバナンスなどを例にとりあげ、経済成長至上主義の代償を描き、国民の眼をあざむく政権中枢を痛烈に批判。デモクラシーの基礎を考えるために必読の一冊。

東京新聞社会部記者・望月衣塑子氏推薦!

目次
第1章 日本をむしばむ新自由主義
第2章 アベノミクスと新型コロナウイルス拡大
第3章 「東京五輪二〇二〇」の不安
第4章 羽田都心ルートの謎
第5章 克服の道はあるか──ポスト・コロナの経済・政治・社会
終 章 新たな地球環境文明を目ざして

https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393333822.html

Jahari Massamba Unit - ele-king

 ヒップホップの世界でもっともジャズに接近したアプローチを見せるひとりが、マッドリブことオーティス・ジャクソン・ジュニアだろう。ジャズのネタをサンプリングするヒップホップDJやプロデューサーは多いが、彼の場合は実際に楽器を演奏してジャズ・ミュージシャンさながらの作品を作ってしまう。父親のオーティス・ジャクソン・シニアはR&Bシンガーで、ジャズ・サックス奏者のジョン・ファディスが叔父など音楽一族出身ということも、そうした演奏能力に影響を及ぼしているだろう(もっとも彼の場合は譜面を読んで演奏を学んできたのではなく、もっぱらレコードを聴いて耳でコピーしてきた口だが)。
 マッドリブがジャズの才能を開花させたのは、もうかれこれ20年ほど昔のイエスタデイズ・ニュー・クインテット(YNQ)だ。5人のミュージシャンが集まったこの架空のバンドは、実はマッドリブが全ての楽器をひとりで多重録音したプロジェクト。ここから発展してマッドリブ名義で〈ブルーノート〉の音源と自身の生演奏を融合したトリビュート・アルバムも作ったし、モンク・ヒューズ名義でウェルドン・アーヴィンのカヴァー・アルバムも作った。ほかにも〈ストーンズ・スロー〉を舞台にジョー・マクダーフィー・エクスペリエンス、オーティス・ジャクソン・ジュニア・トリオ、ヤング・ジャズ・レベルズ、ザ・ジャジスティックス、ザ・エディ・プリンス・フュージョン・バンド、ザ・ラスト・エレクトロ=アコースティック・スペース・ジャズ&パーカッション・アンサンブルなど、さまざまな名義のジャズ・プロジェクトをやってきた(これらも基本的にYNQと同じくマッドリブがひとりでやっている)。こうした活動は本物のジャズ・ミュージシャンからも一目置かれ、アジムスのイヴァン・コンティとジャクソン・コンティというユニットを組んでアルバムも出している。

 一方、カリーム・リギンズもジャズとヒップホップの両方の草鞋を履くアーティスト。ロイ・ハーグローヴやレイ・ブラウンのジャズ・バンドでドラマーとして活動する一方、ザ・ルーツ、コモン、スラム・ヴィレッジ、Jディラなどとも仕事をするなどヒップホップ・プロデューサー/ビートメイカーとしての顔も持つ。そんな彼の名が広く知られるようになったものに、カール・クレイグによるザ・デトロイト・エクスペリメントへの参加があり、近年はロバート・グラスパーとコモンと組んだオーガスト・グリーンも話題を呼んだ。ソロ・アーティストとしては〈ストーンズ・スロー〉からソロ・ドラムとビートメイクを融合したビート・アルバムをいくつか出しており、そうしたところでマッドリブとはレーベル・メイトでもあった。
 マッドリブも『ビート・コンダクター』などさまざまなビート・アルバムを作ってきたが、そうしたひとつの『メディシン・ショー』を制作するために〈マッドリブ・インヴェイジョン〉を立ち上げたのが2010年。〈マッドリブ・インヴェイジョン〉からはラッパーのフレディ・ギブズと組んだ作品をいろいろリリースしてきているが、そうした中にカリーム・リギンズも参加することがあり、今回マッドリブとカリームのプロジェクトであるジャハリ・マッサンバ・ユニットが興された。

 イスラム系の人名のジャハリ・マッサンバ、『下手なフランス語ですみません』というアルバム・タイトル、赤・黒・緑の汎アフリカン・カラーをあしらったアルバム・ジャケット(ちょっとア・トライブ・コールド・クエスト風でもある)と、いかにも思わせぶりな要素が並ぶが、これらはマッドリブらしい遊び心に富んだもの。曲名は全てフランス語となっていて、フランス語を公用語に用いる国が多いアフリカ大陸を関連付けているのだろうか。
 ドラムをカリーム・リギンズが担当し、それ以外の全ての楽器をマッドリブが演奏するという役割で、当初カテゴリー的にはスピリチュアル・ジャズ・アルバムと呼ぶはずだったところ、〈トライブ〉の創設者であるジャズ・トロンボーンのレジェンド・ミュージシャンのフィル・ラネリンから、「これはブラック・クラシック・ミュージックと呼ぶべきだ」とアドバイスされ、そう呼ぶようになったとのこと。未来へのジャズの遺産となるような作品を残したい、そんなマッドリブの想いが込められたものとなっている。

 祖父のジャズ・レコード・コレクションからジャズを学んできたマッドリブは、たとえばサン・ラー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス、デヴィッド・アクセルロッドなどの作品に魅せられ、本作でもそうした1960年代から1970年代にかけてのジャズの影響が端々から伺える。全てがインスト曲で、フリー・ジャズ調の “ジュ・プランドレ・ル・ロマネ・コンティ(ピュタン・ドゥ・リロイ)” は、1960~70年代のジャズ・ミュージシャンにも多大な影響を及ぼした黒人詩人のアミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)をモチーフにしているのだろうか。ヴィブラフォンの音色が神秘的な “デュ・モーゴン・オ・ムーラン・ナ・ヴァン(プール・デューク)” はデューク・エリントンに捧げているのだろうか、でも実際はボビー・ハッチャーソンやハービー・ハンコックの新主流派ジャズ的だったりする。
 誰かの演奏に寄せつつも、単なる物真似に留まらないオリジナルな作品にまで昇華させている点は、マッドリブとカリームの昔のジャズに対する知識や研究の深さと、それをベースに音楽を造形してしまう応用力の高さを物語る。アイドリス・ムハマッドの “ローランズ・ダンス” を下敷きにしたと思われる “オマージュ・ア・ラ・ヴィエール・ガルド” などはその典型と言えよう。そして、ヒップホップというビート・ミュージックに関わってきたふたりだけあって、“リスリング・プール・ロベール” におけるソリッドなリズム・セクションはさすがだ。

Various - ele-king

 この熱気。エナジー。爆発力。本誌26号で「またの機会」とした北アフリカのテクノからエジプトのフロントラインを凝縮したコンピレーションを。最初にレーベルについて説明しておくと、〈ナシャズフォン〉はこれまでアメリカのノイズ・ドローンやヨーロッパのサイケデリック・ロックなど、ダンス・ミュージックとは距離を置いたアヴァンギャルド・ミュージックをメインに手掛けてきたレーベルで、これがエレクトロ・シャアビと呼ばれるダンス・ミュージックのコンピレーションを企画するということは、ドイツの〈パン〉が辿った変化と同じ道を進み始めたことを意味している。アルジェリアやモロッコに起源を持つシャアビは70年代からエジプトに根付き、ユーモラスで極端に政治的なストリート・ミュージックとされ、これが「アラブの春」(と西側が称した政権交代)以降、エレクトロ・シャアビとして一気に先鋭化することになる。〈ナシャズフォン〉も2014年にE.E.K. のライヴ盤を世に送り出して打楽器の洪水がクラブの熱気を煽る一部始終を広くアナウンスし、エジプトのアンダーグラウンドがどうなっていくか大いに期待させたものの、それ以上シーンを追うことはなく、〈ナシャズフォン〉のリリースもラムレーやスカルフラワーといった昔のイメージに戻ってしまう。エレクトロ・シャアビをイギリスのDJでフォローしたのはマムダンスで、フィゴやサダトといった人気MCをフィーチャーしたミックステープがその熱気を伝えてくれた一方、エジプトからはヨーロッパのテクノを模倣するタイプも増え、ミコ・ヴァニアやサイクリック・バックウォッシュなど14の名義を使い分けるネリー・ファルーカ(Nelly Fulca)がパトリック・パルシンガーの〈チープ〉からねっとりとしたインダストリアル・テクノをリリースするなどエジプシャン・テクノのスキルと信用度も高めていく。そうした交点から、まずはズリ(Zuli)がリー・ギャンブルのレーベルからデビュー・アルバム『Terminal』をリリース。高橋勇人のレビューを引用すると「ここにあるのは、IDMの理念でもある、サウンドのカテゴライゼーションの魔の手からの逃避と、カイロという空間の激ローカルな視点からの再定義」(本誌23号)だという。一方的に外国に追随するわけでもなく、かといって自国でホームグロウンとして開き直るわけでもない環境が整ったということだろう。その上で3フェイズや1127が改めてエレクトロ・シャアビの新手として噴出し、〈ナシャズフォン〉もそれらを1枚にまとめたわけである。つーか、この熱気をまとめざるを得なかったほどシーンは沸騰していたのだろう。

 オープニングは実験音楽の要素を残したアバディール。このあたりはレーベルの意地であり、〈パン〉がそうであったように音楽的な脈絡を重視したのだろう。ガッツガッツと繰り出されるインダストリアル・パーカッションはしかし、ベース・ミュージックのそれであり、実験音楽の要素がダンス・ミュージックの価値を削ぐものではない。続いて〈ナシャズフォン〉から昨年、デビュー・アルバム『Tqaseem Mqamat El Haram』をリリースした1127。“gharbala 2020”はインダストリアル・ポリリズミック・ミニマルというのか、ダンスホールのリズムを一応のメインとしながら、あちこちからリズムが降ってきてぐちゃぐちゃになった1曲。といってもいわゆるでたらめとか、ヤケクソではない。誰かの名前を出したいけれど、誰も思い浮かばない。リズムの背後ではアラビックな旋律も乱れ飛んでいる。続いて本誌でも取り上げた3フェイズ。デビュー・アルバム『Three Phase』でもそうだったけれど、甲高い打楽器の叩き方がハンパなく、ぶっといベースとの落差は常軌を逸している。実際、3フェイズはランニングしながら聴いていて意識が飛びかけ、運動しながら聴くのはやめたほど。『Terminal』に続いてリリースされた2枚のアルバムがコンセプチュアルすぎて僕にはよくわからなかったズリもここではエレクトロ・シャアビに取り組み、ノイジーなイントロダクションから怒涛のパーカッション・ストームになだれ込む。『ジャジューカ』でおなじみガイタがループされ流というか、まさに『ジャジューカ』のパンク・ヴァージョンである。激しい。どこからこんなパッションを得ているのだろう。ズリはまたラマと共にIDM寄りのコンピレーション『did you mean: irish』も昨年、パンデミック下の記録としてリリースしている

「ホッサム・サイド」から「イブラヒム・サイド」に移ってKZLKは誰よりも混沌としたインダストリアル・シャアビをオファー。1127と同じくダンスホールを思わせるリズム・パターンを一応の柱としながら、これもポリリズミック過ぎて頭では処理が追いつかない……体に任せるしかない(このサウンドを形容するのに「メルツバウィアン」という単語を初めて見た)。なお、KZLKはは〈ニゲ・ニゲ・テープス〉が年末ギリギリにリリースしたダンスホールのコンピレーション『L'Esprit De Nyege 2020』(48曲入り)にも参加している。ナダ・エル・シャザリはまったくの新人だろうか。ナース・ウイズ・ウーントのようなサウンド・コラージュを導入に古代を思わせる勇壮としたコンポジションで、これもエナジーを隅々まで漲らせている。そして、最後にウォール・オブ・ガイタからブレイクコアともつれ込むユセフ・アブゼイド。ポスト・ロックやシューゲイズのアルバムをリリースしてきた人なので、少し毛色が異なるが、あらゆる種類の混沌を並べた後にさらに異質の混沌が配置されることで、これはこれで一気に異次元へと連れ去られる。エジプトでは、しかし、いったい何が起こっているのだろう……と思ってしまうほど、とにかく全体の熱気が凄まじい。ユーチューブにはヒドい音で全曲のライヴ・ヴァージョンが上がっていて、映像を見る限りはみんな楽しそうにクラブで踊っているだけなんだけれど……。

 安倍政権はまるで70年代のインドネシア政府みたいだと思っていたけれど、年明け早々、アメリカの議事堂襲撃を見てドナルド・トランプはアフリカの大統領にしか見えなくなってしまった。大規模なデモによってムバーラク大統領が退いた後もエジプトの政治は混乱を極め、通貨の暴落に加えてエチオピアとの紛争が持ち上がったりしたことを思うと、アメリカでもこれからアンダーグラウンド・ミュージックが盛り上がるのかなあなどと思ってしまう。

Madlib × Four Tet - ele-king

 これは2021年、最初のビッグなコラボとなるだろう。先月ちょびっとだけ報じられていたマッドリブとフォー・テットによるアルバム『Sound Ancestors』の詳細が、本日公開されている(ちなみにふたりの関係がはじまったのは、先日その死が明らかになったばかりのMFドゥームとマッドリブが組んだユニット=マッドヴィランのリミックスがきっかけだったそう)。
 マッドリブが作曲を、フォー・テットがエディットおよびアレンジを担当した同作は1月29日にリリース、それに先がけ BBC6 のメアリー・アン・ホッブズの番組で放送される予定。ほぼ同時期に頭角を現してきたLAアンダーグラウンド・ヒップホップの立役者と、UKエレクトロニック・ミュージックの奇才、両雄が引き起こす未知の化学反応に注目だ。

編集後記(2020年12月31日/野田努/小林拓音) - ele-king

 「いや、あのさ、書くことがないんだよね」、昨晩、つまり12月30日の夜である、ぼくは小林に弱音を吐いた。「だってさ、コロナや日本のボンクラ総理のことを書いたって気が滅入るだけだし、かといって、自分から取材をしたいと言いながら(テープ起こしを編集でやったにも関わらず)原稿を落とした某ライターのことをここで愚痴っても自分の気持ちが荒むだけだし、なんかこう、年末だしさ、ちっとは希望が見えるようなことを書きたいんだけど、そのひとつは、アレかな、アンダーグラウンドで思い切りディープな音楽を作っている人たちは、いま、配信によって毎月そこそこ稼げるようになっているってことかな。これは90年代にはなかったことだよ。国内でCDを売ってもせいぜい三桁しかいかなかったような作品が、いまではその音楽に独創性と魅力があれば、フィジカルに頼らなくても、ある程度は金になる。ことエレクトロニック・ミュージックを作っている人たちには夢がある時代だよな」
 それからぼくは小林に、90年代の日本のテクノ(とくにダンス系)の音楽的な拙さがどれほど重要だったかを説明した。何故かと言えば、ちょうど紙エレ年末号でその手の特集があり、ぼくは92〜93年ぐらいのUKのテクノと同時に日本の90年代も聴いていたのだけれど、いや、「俺たち何もわかっちゃいなかったんだな」ということをあらためて認識していたというか、そしてその「何もわかっちゃいなかった」がゆえのパワーというものもあらためて確認したばかりでもあったのだ。技巧的によくできただけの音楽になんてどれほどの価値があろうか。少なくとも10代のガキどもを踊らせるほどの、有無を言わせぬ求心力というものは、ただ上手い/洗煉されている/独創性に富むだけの音楽では不充分だった。再評価や再発見というアプローチはもちろん重要だし、敬意を払うべく過去があることも知っている。当時はさほど騒がれなかったが、自分の意志を貫いたがゆえあとから評価されることは僥倖などではない、しかるべきときが来たということにほかならないだろう。だが、と同時に、歳月のなかで色褪せようとも、その瞬間において強烈なパワーを放っていた音楽のことも忘れてはならいということだ。それは若さの特権である。
 だがな、小林、スリーフォード・モッズは若くない、40過ぎのオヤジがやっているからこそ意味があるんだぞ。ジェイソンが若くて昔のポール・ウェラーみたいな二枚目だったりしたら、スリーフォード・モッズの意味は変わってくる。わかるか、スリーフォード・モッズは緊縮財政にも資本主義にも人種差別にも階級社会にもエリートにも怒っているが、アンチエイジングやルッキズムにもむかついているんだよ。
 小林に唯一無二の点があるとしたら、スリーフォード・モッズがいかに素晴らしいのかを日本でもっとも聞かされているということが挙げられるだろう。あのな小林、スリーフォード・モッズが『オーステリティ・ドッグス』を出したとき、UKのあるメディアは「政治家たちの虐殺ショー」とまで評したんだぞ。俺に言わせればな、いまスリーフォード・モッズを聴かないのは、90年前後にザ・KLFを聴かなかったに等しいんだ。UKの知性派/論客たちがどれほどシリアスに彼らを論じてきたか、ぜんぶ訳して紹介したいくらいだ。あれは、いわば進化したタイマーズのようなものだ。こうした言葉を小林は、この半年だけでも最低10回は聞いているはずである。不憫な男よのぉ。

 「今年大変な世の中になり、皆さんの生活のなかでサッカーが本当に必要なのか、エスパルスは本当に必要なのかという状況になったと思います」、これは清水エスパルスの最終戦における、チームキャプテンである竹内涼選手の試合後の挨拶の冒頭の言葉である。同じことが音楽にも言えるだろう。経済的な窮地にある企業の後ろ盾のない個人経営のライヴハウスやクラブ、リハーサル・スタジオの現場スタッフの心中は、察するにあまりある。だが、巨視的に見れば、このパンデミックは「生活のなかで音楽が本当に必要なのか」という問いも突きつけている。とくに新しい音楽はそうだ。それはいまこの瞬間において強烈なパワーを放っていなければならない。Saultやスピーカー・ミュージックがそうだったように、オウテカの新譜がそうだったように。もちろん同様の問いは我ら音楽メディアにも向けられている。「生活のなかで音楽メディアが本当に必要なのか」

 がんばらないとな、続けられているうちは。これは小林ではなく、自分に言い聞かせている。2021年もよろしくお願い申し上げます。

野田努

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 冷徹なループが頭のなかをかけめぐっている。スリーフォード・モッズがいかにすばらしいか、この半年だけでも最低10回は聞かされている。犯人たる工場長同様、コロナをめぐるあれこれについては書かない。うんざりするだけだろうし、みなさんもいまさらそんなこと読みたくないでしょう。

 2020年は、かつてないくらいの勢いで音楽のレジェンドたちが旅立っていった。この追悼ページをざっと眺めるだけでも、ペースがものすごいことになっているのがわかる。個人的にいちばんショックだったのはアンディ・ウェザオールだが、彼については年末号で追悼特集を組んでいるので、ぜひご一読いただければ幸いです。
 そしてもうひとり、音楽家ではなく人類学者だけれど、デヴィッド・グレーバーとの別れ。ぼくの力量不足のせいで彼の追悼文を掲載できなかったことは、2020年最大の心残りだ。精進するしかない。
 ところで彼はよく「ケア」ということばを用いていた。それは「想像」のことだと、ぼくは解釈している。他人へのケアがないこと、想像が及ばないこと、それはこの未曾有の一年を振り返るとき、ひとつ貫徹するものとして抽出できる要素ではないだろうか。
 日本政府だけではない。音楽だってそうだ。たとえば海外の動向、SNS主導(?)の日本とは異なる観点からの批評、それらを見向きもしないこと、それもケア=想像の欠如だと思う。冷徹なループが頭のなかをかけめぐっている。スリーフォード・モッズがなぜすばらしいのか、しっかり日本で語っているひとがどれほどいるというのか? メディアとして ele-king は、ちゃんとそういう「内輪」の外からの視点も提供できるようにしていきたい。

 2020年、ele-king books は27冊の本を刊行した。昨年とおなじ話になってしまうが、どの本も時流を見すえつつ、独自の視点やアティテュードを呈示できるようつくっているつもりだ。来る2021年もいろんな企画が控えている。なので、楽しみに待っていてください。

 それでは、良いお年を。

小林拓音

音楽が聴けなくなる日 - ele-king

 ぎょっとするタイトルだ。音楽が聴けなくなる日。それはストリーミングなる形態がはらんでいる大きな問題のひとつで、グローバル企業なりレコード会社なりがひとたび「これは消す」と判断してしまえば、あるいはその運営主体が消滅してしまえば、ぼくたちは音楽を聴くことができなくなる。2019年3月13日のあの日、フィジカル盤を持っておくことの重要性に気づいたひとは少なくなかったのではないだろうか。
 社会学者の宮台真司、永田夏希、音楽研究家のかがりはるきによる共著『音楽が聴けなくなる日』は、ピエール瀧の逮捕後に起こったソニーによる電気グルーヴ作品の出荷停止や在庫回収、配信停止に触発されて書かれた本で、その背景や経緯を知るのみならず、「自粛」の奇妙さ・不気味さに気づくためのヒントに満ちあふれている。

 いちばん読みやすいのはかがりによる第二章「歴史と証言から振り返る「自粛」」だ。アーティストがパクられたときにその作品などを「自粛」する慣習がいつからはじまったのか、時系列で確認できるようになっている。興味深いのは、起点のひとつが89年の BUCK-TICK に設定され、もうひとつの起点が99年のマッキーに置かれているところ。ご存じのように、89年は昭和天皇が「崩御」した年であり、99年は平成天皇の即位10周年を祝う式典が催された年だ。電グル騒動が発生した2019年もまさに代替わりの年にあたるわけで、「自粛」運動が天皇制とリンクしている可能性をあぶりだしたことは、本書の慧眼のひとつと言える。
 その電グル騒動を具体的に追ったのが永田による第一章「音楽が聴けなくなった日」だ。「自粛」運動がとくにポリシーにもとづいて為されたものではないこと、たんに機械的に前例を踏襲しただけのものであること、すなわち思考停止の結果であること、たちの悪い「ことなかれ主義」であることが、社会学の知見を用いつつ丁寧に解き明かされていく。暴力的にまとめてしまえば、ようするにみんな他者の目線を気にしすぎでしょうよ、という話だ。そしてそれこそがいまの日本社会ないしは「(液状化した)近代」(バウマン)の性格でもあるだろう、と。
 この章でひとつだけ気になったのが、何度かエクスキューズ的に挿入される「法令を守るのは当たり前のこと」という記述だ。そう書いてしまうと、法令で決まっていることはなんでもかんでも正しいとみなす、現代日本社会のそれこそ「ことなかれ主義」を追認してしまうことになりかねないのではないかしら、とちょっと心配になったのだけれど、その伏線は第三章でしっかり回収されることになる。

 先日 Zoomgals のMVへの出演で話題をさらった宮台真司、彼による第三章「アートこそが社会の基本だ」こそ本書の核を為している。法なんてものは統治の必要から制定されているにすぎず、したがって「仕方なく」しぶしぶ従うものであり、間違っても道徳などではない。それに、人間や人間が生み出す芸術や表現はもっと大きなもので、法なんかにはとうていおさまりきらない──ゆえに、悪影響があるとか犯罪者だからといった理由で作品を封印する措置に、合理性は1ミリもない、という話。
 と、これまた強引にまとめてしまったが、やはり宮台節──論理展開とそのスピード感──それじたいも、この章の醍醐味だろう。たとえば、作者と作品の関係性について。「作者と作品は別物」というのはよく言われることだけれど、その根拠を彼は、人間が必ずしも主体ではない点にもとめている。表現とは「降りかかってくる」ものであって主体がつくったものではない、ゆえにその主体に貼られたラベルは作品と関係がない──というロジックで、まさしくこれはシュルレアリスムの「オートマティスム」からロラン・バルトの「プンクトゥム」まで、数々の文学的思考によって実践されてきたことだ。
 浩瀚な知識と卓越した整理──なんて書くと凡庸なコピーみたくなっちゃうけど、じっさい電グルを出発点に、1万年以上まえの人間の営みまで参照されるからおそろしい。『負債論』にせよ『サピエンス全史』にせよ、ここ10年ほど巨視的な観点から現在の状況をとらえ返す書物が目立つが、宮台もまたその流れに乗っているとも言える。ミクロに考えることに慣れすぎてしまうと見えてこないものは、たしかにある。

 正直、彼の天皇主義者的な部分や安倍支持・トランプ支持にはまったく賛同できない。でも、彼が「このクソみたいな社会を変えたい」と本気で思っていることは間違いない。端的に、情熱がある。彼のことをなんとなくのイメージで毛嫌いしているひとはかなり多いと思われるが、しかし宮台はシニカルでもなければニヒルでもない。ストレートに、かなりアツい人間なのだ。地に足がついているというか、研究室で仮説を組み上げるのではなく(いやそれもやってるんだろうけど)、「そんなことまで?」と驚くほど多くの地道な作業を積み重ね、クソに抗おうと奮闘している(電グル騒動にいちはやく反応したのもそうだし、Zoomgals のMVへの出演だってその一例かもしれない)。そしてなにより彼は、その思考を一般に向けて開こうとしている。頭がいいだけの連中ならいくらでもいる。だが閉じないひとはそう多くない。そういう意味で彼は、かつて主流ではなかったテクノを一般の人びとへと開いた電気グルーヴと、共振しているとも言えるだろう。
 音楽が聴けなくなる日──彼のような存在がいるかぎり、あるいはあなたがそのような知的営みに手を伸ばすかぎり、けっしてそんな日は訪れないのかもしれない。

 日本ではKダブ・シャインによるブラック・ライヴズ・マター批判が話題になったけれど、アメリカでBLM批判の急先鋒といえばキャンディス・オーウェンズである。最初は若い黒人の思想家がドナルド・トランプを称揚していると話題になり、TVでも事あるごとに取り上げられるようになった。2年前にカニエ・ウエストがツイッターで彼女の思想を持ち上げたことで一気に注目の的となり、その直後に2人は急接近したようで、黒人が奴隷になったのは自らにもそう望んだ面があったからだとか、カニエ・ウエストの言動が以前よりもオルタナ右翼に近づいたのは彼女の影響によるところ大だったと考えられる。この秋の大統領選では「Brexit」の「R」を「L」に変えると「民主党からの離脱」を意味する「Blexit」という単語になり、民主党批判のキャンペーンにこのスローガンを使っていたオーウェンズが「ロゴをデザインしてくれたのはカニエ・ウエスト」だと吹聴していたところ、自分はデザイナーを紹介しただけだとカニエ・ウエストが抗議し、オーウェンズがブログで謝罪するという展開もあった。ちなみに選挙以前からオーウェンズが攻撃し続けたのは早くからバイデン支持を表明していたカーディ・Bで、オーウェンズは「あなたはバイデンやサンダースに利用されているだけだ」と執拗にカーディ・Bをバカ扱いし、SNS上で口汚く罵り合うこともしばしとなる。なお、カーディ・Bはトランプ支持者に自宅の住所を公開されて火をつけると脅されたため、犯人を特定したところ10代の若者が容疑者として浮かび上がったため、やるせない気持ちになったと述懐している。

 キャンディス・オーウェンズは最初からオルタナ右翼だったわけではないという。25歳で立ち上げたマーケティングの会社ではむしろ「共和党の狂気」とかドナルド・トランプのペニスのサイズがどうとかいったような記事まで書いていたとも。これがゲーマーとフェミニズムが対立して殺害予告や爆破予告の嵐となった「ゲーマーゲート論争」に巻き込まれて、個人情報をネットに晒され、窮地に陥った時にオルタナ右翼に救われ「一夜にして保守派になった」のだという。「リべラルは実際にはレイシストなんだと悟った。リベラルはネットを荒らしてドヤ顔をしたいだけ(=trolls)なんだと」。オーウェンズだけでなく、ゲーマーゲートの多くがこの論争を境にオルタナ右翼になったと言われている。女性のゲームプログラマーによる枕営業の有無が発端となって14年から16年にかけて大きな社会問題となった「ゲーマーゲート論争」はプログラマーの回想録を元に現在、映画化も検討されているそうで、業界の癒着やフェミニズムなど多くの議論が交わされたなか、やはり焦点のひとつとして浮かび上がるのがポリティカル・コレクトネスである。ネット・リンチに発展してしまうこともあるPCに対して、オーウェンズはここで強く否定的な感情を抱き、「攻撃対象を探しては潰しにかかるリベラル」という図式を固定させたのである。

 どちらに向かうかはともかく、オーウェンズが若くして才能を発揮した人物だということは疑いがない。それが黒人で女性だとなると、おそらくは黒人だから優遇されたんだろうとか(オーウェンズは「ブラック・カード」を使うという言い方をする)、女性だからチャンスをもらえたんだろうというやっかみに遭遇したことも多々あったに違いない。PCに対して息苦しい思いをしている人はたくさんいるだろうけれど、PCによって守られている人にも同じことはいえるということである。オーウェンズにとっては個人の才能に帰結することなのに、アファマーティヴ・アクションと呼ばれる優遇政策のおかげで現在の地位があると捉えられることは自分の才能を否定されるに等しく、アファマーティヴ・アクションをいとましく思うこともあったに違いない。そして、その優遇政策が何に由来するかというと、黒人は不当に扱われているという「考え方」であり、構造的な人種差別があるという「思い込み」だとオーウェンズは主張する。「そんなものはない。黒人は差別されていないし、私はやろうと思えば白人男性と同じことができる」とオーウェンズは繰り返し強調する。いわば民主党によって黒人たちは自虐史観に染められてしまい、何もできない人種だという考え方から抜け出られないだけだと。それがアイデンティティ・ポリティクスの正体だとオーウェンズは「見破った」。黒人のステロタイプな表現から逸脱したカニエ・ウエストが個人の能力を評価するという思想に共鳴したことも、だから、不思議ではないし、多少とでも社会性を持っていればマイケル・ジャクスンだって共鳴した可能性はある。プリンスやビヨンセはそうではなかった(『ブラック・パワー別冊』参照)。

 黒人は不当に差別されているという「間違った考え方」に基づくBLMは、だから、ただのテロ行為であり、「BLMは西欧社会を破壊する行為だ」とオーウェンズは続ける。BLMは初めから民主党が仕掛けた詐欺で、ジョージ・フロイドは黒人の悪しきカルチャーを象徴する人物だと彼女は断じて止まない。実は前述したカーディ・Bとは最初から言い争いになったわけではなく、保守系メディアで彼女が持つ番組に2500万円という破格のギャラで出演をオファーしたところ、「ジョージ・フロイドの死は当然だったとする人間とは口をききたくない」と一蹴され、先の論争がはじまったという流れだった。30代になると、オーウェンズの議論は結論ありきのものでしかなくなり、新たに起きている事象や事件から何かを読み解こうとするものではなくなっていく。最近ではアナ・ウィンターによって最高の男性モデルだと持ち上げられたハリー・スタイルズがデヴィッド・ボウイばりに中性的なファッションでヴォーグ誌に登場すると「男は男らしくしろ」とオーウェンズがツイートし、スタイルズはこれを無視、さらに過激なファッションで登場するなど、頭のいい人からは相手にもされなくなってきた。カニエ・ウエストがオーウェンズに共感の意をツイートした翌月、ドナルド・トランプも「キャンディス・オーウェンズはとても賢い思想家だ」とツイートし、大いに持ち上げていたのだけれど、「バイデンやサンダースに利用されているだけ」という彼女の言葉が固有名詞を入れ替えればブーメランとなって彼女の元に戻ってくるような気がするのは僕だけだろうか。


SAULT - ele-king

 SAULT(ソーともソールトとも呼ばれる)というアーティストの存在を知ったのは一年ほど前の2019年秋で、bandcamp でたまたま『7』というアルバムに出会ってからだった。SAULTはその数か月前に『5』も出していて、そちらもすぐに入手したのだが、それらは5枚目のアルバムでも7枚目のアルバムでもなくファースト・アルバムとセカンド・アルバムにあたり、何ともおかしなことになっていた。アーティストに関する情報は全くと言っていいくらい出回っておらず、というか意図的に情報を隠しているような印象を受けた。いまのネットやSNSが発達した世の中にあって時代と逆行するというか、逆にミステリアスな情報統制をしているようでもあり、とにかく彼らは一体何者なのだろうと興味が膨らんでいった。アーティスト情報がない分、余計な忖度もなしに音を聴いて良いか悪いかを判断することができ、その結果『5』も『7』もとにかくカッコいいというのが第一印象だった。ソウル、ファンク、ロック、パンク、ニューウェイヴ、アフロ、エスノなどがゴチャ混ぜになったようなサウンドで、ローファイでヘタウマで粗削りな魅力を放っている。ザ・スリッツ、ESG、トム・トム・クラブあたりに近いものを感じたが、曲によってはディスコやハウスなどダンス寄りのものもある。

 その後SAULTの実態がいろいろとわかってきたのだが、クレオパトラ・ニコリック、ディーン・ジョサイア・カヴァー(別名インフロー)、メリサ・ヤングから成るロンドンの3人組で、それぞれいろいろなミュージシャンの仕事をしてきたということだ。クレオパトラとディーンはラッパーのリトル・シムズの『グレイ・エリア』(2019年)で作曲を手掛け、その『グレイ・エリア』にも参加していたシンガー・ソングライターのマイケル・キワヌカとディーンは長らく一緒に仕事をしている。
 クレオパトラは最近クレオ・ソル名義でソロ・アルバムの『ローズ・イン・ザ・ダーク』を出しており、ネオ・ソウル~R&B路線のこのアルバムにはディーンも参加している。メリサはキッド・シスターやジェーン・ジュピター名義でも活動しており、もともとシカゴ出身のラッパー/シンガーでカニエ・ウェストと仕事をしていたこともある。2010年代後半にUKに移り住んできたようで、2019年にキッド・シスター名義で “ロング・ウェイ・バック” というシングルをリリースしている。
 このシングルは〈フォーエヴァー・リヴィング・オリジナルズ〉というレーベルがリリースしたのだが、ここがSAULTのアルバムはじめ、『グレイ・エリア』や『ローズ・イン・ザ・ダーク』など一連の作品をリリースしている。どのような経緯でグループが結成されたのかは不明だが、クレオパトラとディーンが共同で楽曲制作を行った『グレイ・アリア』がきっかけとなったのだろうか。実際に『グレイ・アリア』のサウンドとSAULTのサウンドには共通するところも見出せるし、またマイケル・キワヌカのブラック・フォークとアフロとゴスペル・ファンクとR&Bが混ざったようなところも、SAULTに受け継がれている。

 2020年になってSAULTは2枚のアルバムをリリースした。それぞれ『ブラック・イズ』『ライズ』というサブ・タイトルが付けられた『アンタイトルド(無題)』のアルバムである。両者は連作のようで、拳を握った手のジャケットの『ブラック・イズ』、祈りのように手を合わせたジャケットの『ライズ』という具合になっている。“ドント・シュート・ガンズ・ダウン” や “フリー” はじめ、“ブラック” というフレーズを随所に打ち出した楽曲タイトル、黒を基調としたアルバム・ジャケットに見られるように、2020年の初夏に広まったブラック・ライヴズ・マター運動に呼応したものである。ジャイルス・ピーターソン曰く、2020年版のマーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイン・オン』だそうだ。そうした点で、『ブラック・イズ』と『ライズ』は2020年を象徴する作品となりそうだ。演奏にはメンバーのほかにリトル・シムズやマイケル・キワヌカの作品にも参加するピアニストのカディーム・クラークが参加し、『ブラック・イズ』にはマイケル・キワヌカもゲスト参加している。

 『ブラック・イズ』は “ストップ・デム” に見られるように、一段と強いビートや叫びのような歌が収められている。ブラック・ライヴズ・マター運動における怒りや憎しみが歌となったような曲で、一方 “ホワイ・ウィ・クライ・ホワイ・ウィ・ダイ” には悲しみの感情が溢れている。マイケル・キワヌカが参加した “ハード・ライフ” は、ディアンジェロの『ブラック・メサイア』に繋がるようなヘヴィーな曲だ。
 同じくキワヌカが歌う “バウ” はSAULTらしいローファイなアフロ・ファンクで、ドクター・ジョンで有名な “アイコ・アイコ” のようなヴードゥー風味を持つ。“アイコ・アイコ” は19世紀のマルディグラ・インディアンが発祥で、人種差別への抗議の意味を持つカーニヴァルやコスチューム、踊りと一緒に広まった歌だが、言ってみればブラック・ライヴズ・マターのルーツにあるような曲であり、そうした精神をSAULTが受け継いでいることがわかる。
 怒りや悲しみといったネガティヴな感情だけでなく、“エターナル・ライフ” ではメロウでスペイシーなサウンドによって永遠の命を表現する。“モンスターズ” はクルアンビンあたりにも通じるソフト・サイケ風味のジャズ・ファンクで、“ミラクルズ” や “プレイ・アップ・ステイ・アップ” は1960年代のドゥーワップやスウィート・ソウル風という具合に、レトロなテイストが随所に散りばめられているところもSAULTの持ち味のひとつである。

 『ライズ』はシンセ・ポップ調の “ストロング” など、時代的には1980年代のサウンドを下敷きにした部分が見られる。ブギー・タッチの “フィアレス” や “サン・シャイン” はジ・インターネットあたりに近いような曲で、全体的に『ライズ』はエレクトリックでダンサンブルなテイストが強くなっている。そうした象徴が “アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・ダンス” で、ダンスによって人種差別への抗議を行なっている。先ほどのマルディグラのカーニヴァルもそうだが、ダンスとは肌の色や人種などを超えた人間の営みであること、そうしたメッセージを伝えてくれる。

Pink Siifu & Fly Anakin - ele-king

 最近ぼくが好きで聴いているヒップホップといえば、ジェイ・エレクトロニカ&ジェイ・Zの“Ezekiels Wheel”、そして先頃リリースされたピンク・シーフ&フライ・アナキンのアルバムから“Mind Right”、この2曲に尽きるのであった。
 前者に関しては、ジェイ・Z絡みの曲をこの歳になってこれほど好きになるとは思わなかったが、サンプル・ネタがフリップ&イーノ『イヴニング・スター』の収録曲だし(元ネタが良いのはたしかだが、この再構成もみごと)、まあとにかくピンク・シーフ&フライ・アナキンの“Mind Right”とともに雑草(ウィード)が染みこんだ感じがたまらないのである。
 こんなことを書いていると、小林拓音あたりから、この厳しい時代にまどろんでいる場合ではない! などと非難されそうだが、厳しい時代だからこそまどろんでいたいのだ。スー(Sault)もスピーカー・ミュージックも素晴らしい、だが、こういう音楽=怠惰なビートも無くなって欲しくはない。

 アラバマ州バーミンガム出身のMC/プロデューサー、ピンク・シーフ、バージニア州リッチモンド出身のラッパー、フライ・アナキン、ともに近年のUSアンダーグラウンド・ヒップホップのシーンにおける注目株である。シーフは昨年の『Ensley』で脚光を浴び、今年の春に出した『Negro』におけるノイズ・パンクとジャズの壮絶な融合およびその政治性が話題になったばかり。いっぽうアナキンはリッチモンドのヒップホップ・クルーのひとりとしてすでに多くの作品に関わっているが、やはりジャズやパンクともリンクしている。ふたりとも90年代ヒップホップのグルーヴを現代解釈しながら、他方では音楽的にハイブリッドなこともやっていると、今後が期待される才能である。

 このコラボレーション・アルバム『フライ・シーフ』は、ふたりが架空のレコード店〈FlySiifu's〉で働いているという設定に基づいている。アルバムを通してその日常──日々の会話、顧客への対応、失敗、そして黒さ──を描いているという。アルバムの随所にはボイスメールを装ったスキットがあり、たとえば“Black Bitches Matter Hoe”は5日立ってもレコードが届かない客からのクレームに黒人女性が答えるもので、政治的ユーモアにもなっているようだ。
 ときにソウルフルに、ときにコミカルに、そしておおよそ愛らしく描かれる彼らの日常を演出するのは、アンダーグラウンド・ヒップホップの大物マッドリブをはじめとする14人のプロデューサー(オネスト・ジョンズのオーナーの息子、いまはLA在住のDJ/プロデューとして活動するBudgieも参加)。
 ぼくがほかに好きなのはLastnamedavidがプロデュースした2曲、ジャジー・ビートの“Runthafade”、そして“Clean”という曲で、ピアノ・ループを活かしたこの曲もまた“Mind Right”と同様に(最近人気のラッパー、Liv.eがフィーチャリングされている)、いい感じのチルなわけだ。アルバム全体が『Negro』の反動とも言えるほど、メロディアスで、ジャズとファンクがほどよく溶け込んでいながらほっこりしている。なので、これは通して聴くことをお薦めしたい。あたかもレコード店にいるかのような楽しい気分になるかもしれないし、温かく、この空しい冬にぴったりの、ありがたいサウンドトラックだ。

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