2021年があけました、めでたい。ここはひとつ、装いもあらたに読者諸兄姉のおひきたてを願いたてまつるところなれど、年があらたまればなにもかもきれいさっぱり片づくとはいかないものらしい。旧年に突いた除夜の鐘の音が新年にひびきわたるように、三山ひろしのけん玉が歌の尺内におさまらないように、七輪にかけた餅がディジー・ガレスピーのほっぺたばりに膨らむように、事物と事象とを問わず、対象が予想の枠組みを越えるとき世界はざわめき、時間や空間、あるいは主体の連続性をあぶりだす──年初から胡乱なものいいで恐縮だが、新型コロナウイルス第三波にともなう緊急事態宣言という昨年からの重たいつみのこしを前に、暮れに脱稿するはずの原稿をしたためる私にとって正月とはなんだったのか。途方に暮れわれ知らず「去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如きもの」(虚子)の句をつぶやく私の面前のスピーカーから Line6 でピッチベンドしたギターの音色があたかも棒のごときもので押し出される心太(ところてん)のようににゅるりとはみだしてくる。
音源の主はコード・ガールを名乗るジャズ集団。かけているのは昨年暮れの新作『Artlessly Falling』である。グループをひきいるメアリー・ハルヴォーソンはウェズリアン大でアンソニー・ブラクストンの薫陶を受け、2000年代初頭に活動をはじめるやいなやニューヨークをハブにしたアヴァンギャルドなジャズの界隈で頭角をあらわしだした米国の女性ギタリストである。これまでトリオ編成による2008年の『Dragon's Head』を皮切りにすでに十指におよぶリーダー作をものしているが、ギター+ベース+ドラムのコンボを基本ユニットにときに七、八重奏団までふくらんだ編成をきりまわし、師匠格のブラクストンはもとよりエリオット・シャープ、マーク・リボー、ノエル・アクショテやジョン・ゾーンといった錚々たる面々と協働し、作曲と即興をよくする彼女をさして現代ジャズ界のキーパーソンと呼ぶことに異論のある方はおられまい。とはいえ上のような説明には難解さやとっつきにくさを感じられる方もおられるかもしれない。ジャズなる分野の性格上、うるさ型のリスナーを納得させないわけにもいかないが、同好の士の想定内にとどまっては元も子もない。彼女がそのように考えたかはさておき、2010年代後半ジャズの岸辺を洗った潮流もあいまって、ハルヴォーソンは新たな領野にむけて漕ぎ出していく、その最初の成果こそ2018年の『Code Girl』であり、この2枚組のレコードは彼女初の歌入りの作品でもあった、その詳細と私の所感は2018年の「別冊ele-king」のジャズ特集号をあたられたいが、その2年後にあたる2020年秋にハルヴォーソンはその続編ともいえる作品を世に問うた。
それこそがこの『Artlessly Falling』である。まずもって目につく変化は前作の表題だった「Code Girl」を明確にプロジェクト名に格上げしたところか。それによりギター・トリオに1管(トランペット)とヴォーカルを加えた編成にも意味的な比重と持続性が生まれた。ただしメンバーには異同がある。同じく昨年に〈ブルーノート〉からリーダー作を出したアンブローズ・アキンムシーレに変わりアダム・オファーリルが加わっている。ヴィジェイ・アイヤーのグループで名をあげたこのトランペット奏者は冒頭の “Lemon Tree” で、霊妙なコーラスとギターのアルペジオ、抑制的なベースにつづき、マリアッチ風のフレーズを奏で、本作への期待を高めるが、オファーリルのトランペットが鳴り止むやいなや、リスナーはハルヴォーソンが『Artlessly Falling』に仕込んだサプライズに出合うことになる。切々とした管の吹奏にもまして哀切な声がながれはじめる。レギュラーの女性ヴォーカリスト、アミーサ・キダンビともとりちがえようのないささやくような男声、やわらかく耳朶を撃つこの声の主こそ、だれあろう『Artlessly Falling』を基礎づけるロバート・ワイアットである。
楽曲にふれたことのない方でも名前はご存じかもしれない。プログレッシヴな音楽の道においてワイアットの名は道標である。道祖神のようなものといってもいい。その一方で、その道もなかばをすぎた古株たちからは彼はすでに引退したのではないかとの声が聞こえてきそうである。じっさい2014年の「Uncut」誌で音楽制作の停止(stopping)は明言しているが、停止は引退(retire)ともニュアンスが異なるようである。たしかにその後も参加作をちらほらみかけた気もする。あの声と存在感はなかなか放っておけないのだろう、とはいえ本作への参加もつけ焼き刃ではない。2018年の前作リリースのさい英国の「Wire」誌によせた、歌ものアルバムをつくるにあたっての参照楽曲のプレイリストの冒頭にハルヴォーソンは『Rock Bottom』(1974年)冒頭の “Sea Song” をあげている。今回の参加はハルヴォーソンのラブコールにワイアットが応えた構図だが、ワイアットが彼の音楽をとおして彼女にあたえた示唆とはなんだったのか。
“Sea Song” を例にとれば、点描的な歌と和声にたいしてポルタメント的なキーボードやコーラスとの位置関係、その総体がかもす持続と移行が私にはコード・ガールないしハルヴォーソンの音楽性を彷彿させる。むろんこれは基調の部分要素にすぎず、そのほかにも作曲の書法や各楽器の音色と合奏の強度、即興の質、歌ということをふまえると歌詞の中身まで、論点は多岐にわかれるが、そのぶん多角的な方向性をとりうるともいえる。もはや形式としてのジャズも埒外なのかもしれないが、しかし今日のジャズとはそのようなものなのだろう。細田成嗣氏の『Code Girl』のレヴューのくりかえしになってしまうが、ここ(https://www.thewire.co.uk/audio/tracks/wire-playlist-mary-halvorson)に選曲があるので興味のある方はご覧いただくと楽しいが、リストを眺めて最初に思うのは1980年生まれのハルヴォーソンらの世代にはジャズもロックもソウルも実験音楽もひとしなみに等価だったという、ありきたりな世代論である。とはいえそれらの参照項が加算的、単線的な働き方をするのではなく面的、領域的な現れ方なのもまた、音楽の内的な蓄積を体験とみるか遍歴と捉えるかという世代論を背景にした認識論に漸近するきらいがある。本稿の主旨をそれるので深追いはしないが、ハルヴォーソンにはネタバレ上等どころか、リスナーとリソースを共有して生まれる聴き方の変化に期待をかけるかまえがある。そしてじっさいコード・ガールの楽曲やハルヴォーソンのギター演奏にこれらの楽曲からの影響を聴きとるのはさほどむずかしいことではない。とはいえそれは下敷きにするというより、掠めるというか寄り道するというか迂回するというか、原典や系譜とのこの微妙な距離こそハルヴォーソンの旨味であろうと私は思う。
とりわけ歌という回路をもつコード・ガールは彼女の活動でももっとも制約のすくない形態であり、デビュー作である『Code Girl』ではそこに潜在するものをできるかぎり浚おうとしていた。2年後の『Artlessly Falling』もその延長線上だが、歌の比重は前作に積み増したかにみえる。先述の幕開け以外にも3曲目と5曲目でリード・ヴォーカルをとるワイアットの印象もあろうが、小節線を跨ぐハルヴォーソンの軟体めいたギターのごとく、前作の経験をもちこんだことで楽曲の意図と輪郭も明確になった。話題性はワイアットの参加曲に譲るにせよ、“Muzzling Unwashed” や “Mexican War Streets (Pittsburgh)” の後半3曲といったキダンビの歌う曲での充実ぶりも聴き逃せない。
コード・ガールの人的構成をあえて図式化するなら、ハルヴォーソン、トマス・フジワラのリズム・セクションとキダンビ、オファーリルのフロントにわかれるといえる。ハルヴォーソンはその緩衝地帯の役割を担うといえばよいだろか。バッキングでリズムの影に隠れたかと思えば、アンサンブルにちょっかいをかけ轟音を響かせる。プレイスタイルからはフリゼール、リボー、シャープ、アクショテなどの特異さもトラッドな教養もふまえていることもわかるが、強度だのみの闇雲さやテクニック信奉からくる変態性もない。どこか恬淡とした佇まいは転落事故で下半身不随になったワイアットの復帰後初のアルバムである1974年の『Rock Bottom』の収録曲を霊感源とみなすハルヴォーソンらしい感覚といえるだろうか。「どん底(Rock Bottom)」と名づけたあのアルバムでワイアットは私たちのよく知るワイアットになった。その幕開けの “Sea Song” のエーテルめいた肌ざわりがコード・ガールに通じるのは先に述べたとおりだが、ロックにかぎらず、ジャズや民俗音楽の要素を室内楽的な空間性におとしこむ、ワイアットの方法そのものに彼女たちは親和的だった。パンクとジャズとレゲエが同じカマのメシを食ったワイアットがいたころの〈ラフ・トレード〉みたく、ここでいう方法とは多義性、多様性の謂だが、90年代以降の記号的折衷とは核心においてすれちがう。ことば遊びを承知でいえば、越境的(across the border)というより学際的(Interdisciplinary)、ジャズやロックやソウルやフォークの意匠をシャッフルした上澄みを掬うのでなく、おのおのの領野から自律しつつ、全体を貫く、いわば棒のような一貫性をたくらみながら心太のようにふるまうということではないか。
ほとんど不条理めいたあり方だが、それらはすでに、規則、符号、暗号、和声など意味をもつコード(code)の語を掲げつつ、規範との奇妙な距離を保つ、彼女らの音楽にあらわれていた。2年ぶりの2作目でその度合いは亢進する一方だが、たやすく気どらせない密やかさも帯びている。この密やかさはハルヴォーソンの言語感覚にも通底し、表題は日本語では「巧まざる落下」とでもなるのだろうが、原題の「Art- less-ly Falling」を深読みすればいくつかの単語がうかびあがってくる。音楽において言語を感傷的に作用させたくなければ共感的、補完的な役割を押しつけてはならない──コード・ガールは音楽と同程度に入り組んだハルヴォーソンの言語感覚を堪能できるおそらく唯一の場でもある。だって “Artlessly Falling” のこざっぱりした韜晦と諧謔なんて “Rock Bottom” とタメをはるもんね。
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重要なお知らせです。今月下旬に予定されていたサンダーキャットの来日公演、および、2月に予定されていたスクエアプッシャーの来日公演が、ともに再延期となりました。
海外で猛威をふるう変異種ウイルス、日本国内での入国制限強化、緊急事態宣言再発令の予定など、現在の厳しい状況を受けての判断です。楽しみにしていた方も多いと思いますが、状況が状況ですのでここはぐっとこらえましょう。
振替や払戻しについては近日あらためて発表されます。チケットをお持ちの方は大切に保管を。
THUNDERCAT、SQUAREPUSHER
来日公演に関するお知らせ
海外での変種ウイルスの感染拡大を受け、12月24日以降の当分の間において、英国からの新規入国拒否および米国からの入国制限を始め、海外から水際対策強化に係る措置が実施されることとなりました。さらに現在では、外国人の新規入国の全面停止も検討されています。またPCR検査の陽性者の拡大を受け、緊急事態宣言の発令も予定されており、そして未だイベントに対する規制緩和も延期されている状況です。
弊社並びにアーティストサイドは互いに協力し、ビザ取得に加えレジデンストラックでの入国、また公演前に15日間の隔離期間を設ける等々、様々な対策を講じることで、予定通り公演を開催すべく準備を進めてまいりましたが、今回の政府による規制強化及び、開催会場のキャパシティ制限などの規制を受けて、公演を再延期せざるを得ない状況となりました。
THUNDERCAT、SQUAREPUSHERともに来日に対する意欲は強く、新たな日程で開催を実現できるよう再調整中です。ご来場を心待ちにしていらしたお客様には、大変ご心配とご迷惑をお掛けいたしますが、振替公演、払戻し等の詳細についても、現在関係各所と調整中ですので、近日改めて発表いたします。
2021.01.27-29 THUNDERCAT JAPAN TOUR 2021 << 公演延期
2021.02.16-18 SQUAREPUSHER JAPAN TOUR 2021 << 公演延期
・現在、振替公演を開催すべく調整中です。既にチケットをお持ちのお客様は、お手持ちのチケットで振替公演にご来場いただけますので、大切に保管していただくようお願いいたします。
・振替公演に都合がつかないお客様には、払戻しの対応をさせていただきます。払戻しの詳細につきましても、現在調整中ですので、お手持ちのチケットを大切に保管していただくようお願いいたします。
外務省:新型コロナウイルス感染症に関する水際対策の強化に係る措置について
お客様には、ご迷惑をおかけすることになりますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
お問い合わせ:ビートインク info@beatink.com
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INFORMATION REGARDING
THUNDERCAT AND SQUAREPUSHER TOURS IN JAPAN
Due to the spread of a new variant of the novel coronavirus overseas, on December 24 the Japanese government decided to enforce new restrictions on travel from all foreign countries, including refusal of new entry from the United Kingdom and the United States. In addition, due to an increase in the number of local positive PCR tests, the deregulation of events has once again been postponed.
BEATINK along with both artists were fully prepared to comply with all government regulations including undergoing quarantine in order to make these performances happen. However due to the further tightening of regulations by the government and restrictions imposed on venue capacity, we are now left with no choice other than to again postpone both tours.
Both THUNDERCAT and SQUAREPUSHER are highly motivated to perform for fans in Japan and fully intend to announce new tour dates at the earliest possible moment. We sincerely apologise for any inconvenience caused to customers who have purchased tickets, and we are currently coordinating with all parties regarding new performance dates and refunds, which will be announced very soon.
2021.01.27-29 THUNDERCAT JAPAN TOUR
2021.02.16-18 SQUAREPUSHER JAPAN TOUR 2021
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- We will gladly provide a refund to customers who are unable to attend the rescheduled performance date. Details of the refund are currently being arranged, so keep your ticket in a safe place until further notice.
Ministry of Foreign Affairs announcements may be read here.
We sincerely apologise for any inconvenience these new arrangements cause and trust that all understand that these are circumstances completely beyond the artists' or Beatink’s control.
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シューゲイザーの現在形とは何か。私はその回答としてナッシングの新作『The Great Dismal』を挙げてみたい。なぜか。ここには「陶酔のシューゲイザー」から「覚醒のシューゲイザー」という変化がうごめいているからである。
サイケデリック・ロック/ノイズ・ロックの極限とでもいうべきシューゲイザーという音楽形式は、伝説的な存在マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、そしてスロウダイヴ、ライドなどのシューゲイズ御三家の圧倒的な影響力のもと、2020年に至るまで世界各地で有名無名問わず幾多のインディ・ロック・バンド(さらにはるシーフィールのテクノ系譜の電子音楽、フェネスなどの電子音響、M83 などエレクトロニカと融合したニューゲイザーなども)によってサウンドの生成と変化を繰り返してきた。
くわえてブラックゲイズやハードコアなどのへヴィー・ロックからの参入によって、さらなる変化を遂げつつある。つまり陶酔のサイケデリアであったシューゲイザー・サウンドが、覚醒のノイズ・ロックに変貌していったわけだ。例えば米国のデフヘヴン、フランスのアルセストなどはその代表的な存在といえよう。
その中にあってアメリカ、ペンシルバニア州フィラデルフィアのノイズ・ロック・バンド、ナッシングはハードコアやブラックゲイズ由来のシューゲイザー・バンドという意味で非常に特異な存在である。2020年にリリースされた新作『The Great Dismal』もまた一聴するとシューゲイザーの正当な後継に聴こえるが、そのサウンドにははっきりと「陶酔」から「覚醒」という変化を聴きとることができるのだ。
結論へと先を急ぐ前にナッシングの変遷について簡単にメモをしておきたい。ナッシングは、ホラー・ショウのメンバーであったドメニク・パレルモを中心とするバンドである。2014年にファースト・アルバム『Guilty Of Everything』をエクストリーム・ミュージックの老舗〈Relapse〉からリリースした。2016年にはセカンド・アルバム『Tired Of Tomorrow』、2018年にはサード・アルバム『Dance On The Blacktop』も同レーベルから送り出した。『Tired Of Tomorrow』はピッチフォークで8.0という高得点を獲得し、インディ音楽ファンにも認知が広がった。
いっぽうメンバーは、いくつかの変遷を経てきたバンドでもある。バンドの影の首謀者ともいえる人物はデフヘヴンの元ベーシスト、ニック・バセットだが、しかし彼はサード・アルバム『Dance On The Blacktop』で脱退し、変わってベーシストとしてフィラデルフィアのハードコア・バンドであるジーザス・ピースのフロントマン、アーロン・ハード(Aaron Heard)が加入した。
ギタリストのブランドン・セッタもまた『Dance On The Blacktop』を最後に脱退し、USインディアナのポストロック/シューゲイズ・バンドのクロークルームのドイル・マーティンがギタリストとなった。つまりポストロック、へヴィー・ロック系譜のUSハードコア・インディの混沌としたメンバー変遷・構成となっているのだ。
ここで注目したいのが、本作『The Great Dismal』に、フィラデルフィア出身のハープ奏者メアリー・ラティモアが参加している点である。メアリーはアンビエント的な穏やかな作風で知られる音楽家である。意外な人選に感じられる。フィラデルフィアつながりであろうか。ともあれ彼女の参加はナッシングの音楽性の広さを象徴している。
バンド発足当時はレーベルのカラー、さらにデフヘヴンの元ベーシストであるニック・バセットがバンドの発足において重要人物であったため、そのシューゲイズ/ドリーム・ポップ的なサウンドながらもいわゆるブラックゲイズに分類されていた。しかしじっさいはパレルモの波乱に満ちた人生(乱闘の末に彼が人を刺してしまい2000年初頭に刑務所で二年間の服役をする。パレルモは正当防衛を主張)に対する音楽療法が主な目的でもあった。つまりシューゲイザー的なノイズ・ギターは、自己/他者への暴力と治癒を表現しているとすべきだろうか。
他罰と自傷。そのネガティヴな状況の認識と表現をするために、彼らは90年代のインディ/オルタナティヴ・ロックの形式を起用し、00年代以降のドリーム・ポップ的なサウンドも援用したのだろう。まるで現実から夢うつつで浮遊し、いまここの自己を見つめるために。その意味でナッシングは、ハードコア・へヴィ・ミュージックを出発点としつつもジャンルにとらわれない折衷的な音楽表現の場であった。
ちなみに2019年にリリースされたレア・トラック集『Spirit Of The Stairs - B-Sides & Rarities』にはロウのカヴァー曲 “In Metal”、ライドのカヴァー曲 “Vapour Trail”、グルーパーのカヴァー曲 “Heavy Water / I'd Rather Be Sleeping”、ニュー・オーダーのカヴァー曲 “Leave Me Alone” なども収録されており、彼らがインディ音楽全般を参照にしていることもわかってくる。
とはいえその音楽の基本的な形式は90年代のシューゲイザーやオルタナティヴ・ロックであることに間違いはない。『The Great Dismal』もまたサウンド面では、モダンな録音によるシューゲイズ・サウンドの追求にこそあるように思える。楽器とサウンドの分離は明晰で、曲によっては弦楽器のオーケストレーションも取り入れた豪華なプロダクションとなっている。90年代以降のインディ・ロックとヘヴィー・ロックが交錯し、モダンなノイズ・ロック/ドリーム・ポップへと至ったとでもすべきだろうか。
もちろん根底に流れるのはパレルモの無慈悲な暴力への恐怖なのだ。“Famine Asylum” のMVでバットを振り下ろす血まみれの男は、その象徴だろう。ドリーミーな音に、このような映像の組み合わせはショッキングだが、そのようなショックを積極的に表現することがナッシングにおける自己治癒のミッションでないか。このバンドの根底にあるオブセッションは自己/他者に巣食う暴力への恐怖だ。
『The Great Dismal』の各曲をざっくりと述べていきたい。まず1曲目 “A Fabricated Life” は意外にもアコースティック・ギターとヴォーカルによるフォーキーな楽曲。次第に霧のようなオーケストレーションが折り重なっていく。メアリー・ラティモアのハープも不穏で美しい。
2曲目 “Say Less” では古い女性の歌声のサンプルが曲のカウントのようにしてドラムが炸裂する。剃刀のようなギター・ノイズの向こうに、ゆらめくヴォーカル、ダンサンブルなビート。90年代のマイブラからの影響が濃厚な曲だが、インディ・ロック系譜のシューゲイザー・バンドが陶酔的なサイケデリックな音を目指していることに対して、ナッシングはハードコア経由の覚醒的なサウンドに仕上げている。
アレックス・G(!)が参加した3曲目 “April Ha Ha” も出だしのスネアの連打からしてマイブラ『Loveless』の “Only Shallow” を思わせもする曲だが、やはりサウンド全体にキリキリとした切迫感が強く流れている。
90年代のインディ・ロックのようなはじまりの4曲目 “Catch a Fade” も途中から硬めのノイズ・ギターが投入される。5曲目 “Famine Asylum” では、メタリックな響きのノイズ・ギターと硬質なビートのアンサンブルにより、覚醒へと導くような硬質なシューゲイザー・サウンドを展開する。
以降、6曲目 “Bernie Sanders”、7曲目 “In Blueberry Memories”、8曲目 “Blue Mecca”、9曲目 “Just a Story”、10曲目 “Ask The Rust” まで、ハードコア経由のピリピリとした緊張感に満ちたシューゲイザー・サウンドを展開し、まさに至福とでもいうべき時間が流れていく。中でも10曲め “Ask The Rust” はアルバム屈指の名曲。硬質なシューゲイザー・サウンドのむこうから悪夢から立ち直るようなヴォーカルのコントラストが絶妙だ。
全10曲(日本盤CDはボーナストラック1曲を追加収録)、本アルバム『The Great Dismal』もまたパレルモの実存的な不安を表象しているアルバムだ。この無慈悲な世界への恐怖と生きることの恐怖を巡る実存的な問いかけと、その恐怖と絶望の記述とでもいうべきか。それは先行きの見えない状況を生きるわれわれにとっても切実な問題でもあるはず。
『The Great Dismal』は「実存的」不安によって、90年代以降のシューゲイザー・サウンドを深化させた。陶酔から覚醒へ。不安から実存へ。まさに「いまここ」に満ちる不安を強く表現してみせた稀有なアルバムである。
いまなお語り継がれるサックス奏者、阿部薫。29歳という若さで生涯を終えながら、彼の限界の限界まで荒れ狂う演奏の記録は、その死から40年以上経とうがあらたなリスナーを惹きつけて止まない。昨年も未発表音源を加えたライヴ・アルバム『完全版 東北セッションズ 1971』がリリースされている。
そして、この度は阿部薫へのトリビュート本というべき『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』も刊行された。これまでにも『阿部薫覚書―1949-1978』(1989)、『阿部薫1949〜1978』(1994)などが出版されているが、大友良英の言葉からはじまる本書もまた、ミュージシャンや文筆家たちが思い思いの阿部薫を語っている。阿部薫や鈴木いずみの原稿もありつつも、アンビエントの伊達伯欣や畠山地平のような人たちも文章を寄せていたりで、あらためて阿部薫の影響力の大きさを思い知る次第だ。このような伝説を語ると必要以上に力んだり、我こそは理解者とでも言わんばかりの文章が集まりがちだが、ほとんどの人が自由に自分の言葉で書いていて、杉本拓の「私は阿部薫やデレク・ベイリーが苦手だった」のようにいろんな視点を楽しむこともできる。
阿部薫とは、音楽ファンであれば人生の何処かで(しかも10代〜20代の若い頃に)出会うべく音楽であることはおそらく間違いない。そして出会った人たちには、本書をぜひ手に取って欲しいです。
阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった
文遊社
https://www.bunyu-sha.jp/books/detail_abe2020.html
1992年の活動休止宣言以来、すべての音源を廃盤としていたザ・KLF(ザ・JAMs、ザ・タイムローズ、ジャスティファイド・エンシェンツ・オブ・ムー・ムー)が、ついにストリーミング・サーヴィスを開始すると、これが2021年元旦のニュースとして世界に流れたことは、すでにご存じの方も多いことと思います。遅ればせながら、ele-kingでも取り上げておきます。

ちなみにこのニュースは、最初はロンドンの鉄道橋下に貼られたポスターや落書きによってアナウンスされたようです。まあ、俺たちは俺たちのやり方をいまでもやっているんだぜってことでしょう。大晦日にはジミー・コーティのガールフレンドがその落書き現場の写真をインスタにアップしたことも話題になっているし。……しかし、いい歳なのにすごいなぁ。。。
ストリーミングのシリーズ名は、「 Solid State Logik」。まずは「1」なので、この後、いろいろ続くのでしょうな。
なお、懐かしのヴィデオはこちらまで(https://www.youtube.com/channel/UCbsEHtpoQxyWVibIPerXhug)。
ダンスホールに新時代を切り開いたイキノックスからタイム・カウことジョーダン・チャンによるソロ1作目。これがまたダンスホールをさらに未来へと、それもかなり遠く未来へ突き進めるものになっている。アルバム・タイトルの「Live Prog」はリアルタイムでプログラミングを行なったという方法論と「生成発展し続けている」という意味を掛け合わせたものなのだろう。「From Home」はもちろんジャマイカのこと。この変化はイギリスではなく、ジャマイカで起きたことだとタイム・カウは告げ知らせている。レゲエ文化はそのすべてをイギリスに奪われてしまったわけではないと彼は言いたいのだろう。ラヴァーズ・ロックもドラムン・ベースもイギリスで生まれた。しかし、ダンスホールはあくまでもジャマイカで「生成発展」しているレゲエの本流なのだと。
このアルバムには前日譚がある。イキノックスの2人がバーミンガムのMC、RTカル(RTKal)にジャマイカの首都キングストンで人気のエアーBnBに招かれた時のこと。カルが街の騒音をシャット・アウトしようとしていたのを見て、改装中で使えなかったスタジオの代わりにバーに機材を設置させてもらおうと2人は考えた。3人は2018年にフォックスらを加えて総勢6人で“Jump To The Bar”というオールド・スタイルのダンスホールをリリースしていたこともあり(これはブルージーなフォックスのデビュー・アルバム『Juice Flow』として結実)、夜になるとバーでダンスホールの話で盛り上がり、とりわけ2000年代初めに活躍したエレファント・マンの話になると勢いは増した。3人はエレファント・マンがパロディ文化を広めたことに最も意義があるという点で考えが一致し、言ってみれば彼はグレース・ジョーンズとリー・ペリーがバスタ・ライムスと出会ったジギー(イケてる)なミクスチャーだと。その時に勢いで録音したのが、以下の“Elephant Man”。
最初はたしかにバーで行われたディスカッションの延長上にある曲に思える。しかし、早々にエレファント・マンがどうしたというMCが途切れ、簡素なビートとひらひらとしたメロディだけになってからは僕はむしろホーリーな気分に満たされ、どちらかというとプランク&メビウス『Rastakraut Pasta』を思い出していた。彼ら自身が「ゴースト」と表現するシンセサイザーの雰囲気も桃源郷を思わせる恍惚としたそれであり、クラウトロックに特有の鉱物的なムードが強い。正直なところ、エレファント・マン云々というエピソードはこの曲のリスナーを限定してしまう気がしてもったいないと思うほどである。『Time Cow’s Live Prog Dancehall From Home』も明らかに“Elephant Man”のそうした側面を拡大してできたアルバムで、もしかすると、勢いでできてしまった“Elephant Man”をもう一度再現しようとしてつくり始めた側面があるのかもしれない。いずれにしろ同作はアルバム・タイトルに「Dancehall」と入っていなければミニマル・ミュージックとして認識するリスナーの方が多いかもしれず、ダンスホールとの連続性は作家性の内面に大きく依存するものではある。ダンスホールとは思えないほど抽象化したビートに「ひらひらとしたメロディ」は同じフレーズの繰り返しに置き換えられ、全体的にはアカデミックな印象もなくはない。聴けば聴くほどタイム・カウというプロデューサーのバックボーンが謎めいていく。
『Time Cow’s Live Prog Dancehall From Home』に収められているのは“Part1”と”Part2”の2パターン。淀みなく伸び伸びとした“Part1”に対して”Part2”は少しダークな変奏が加えられ、イキノックスの作品では大きな比重を占めるダブ・テクノとの境界も取り払われていく。“Elephant Man”が醸し出していたホーリーなムードが抑制されているのはちょっと残念だけれど、ダンスホールの可能性をここまで押し広げたものに文句を言うのはさすがにおこがましい。名義もタイム・カウだし、丑年というだけですべてを受け入れてしまおう。
あけましておめでとうございます。今月からコラムを書かせていただくことになりました、小山田米呂です。普段は学生の身分を利用して得た時間で音楽を作ったり、たまに頼まれたら文章を書いたりしています。
ここ3年くらい海外の学校に行ってたのですが、なぜかはわからないのですが、オンライン授業に移行したこともあり、久しぶりに東京で生活しております。僕は自己紹介が苦手なので僕のことは追々、少しずつ書いてみたいと思います。
僕が最近聴いた音楽、買ったレコードのなかからにとくによかったもの、皆さんとシェアしたいものを紹介します(予定)。
せっかくの機会なので、ele-king読者の聴かなそうなものもを紹介していければと思います。
1. Shitkid - 20/20 Shitkid
スウェーデンはストックホルム、PNKSLM Recordingsから、ガレージ・ポップ?バンド、Shitkidのアルバムです。Shitkidは Åsa Söderqvistという女性のプロジェクト。僕が彼女を知ったのは2019年の『DENENTION』というアルバムからですが、2016年から活動していて’17年にファースト・アルバムを出していてコンスタントにリリースしています。'17年リリースのデビュー・アルバム『Fish』は割れたボーカル、歪んだギターとディケイのかかった乾いたドラムとシンプルでDIYなサウンド。
ShitKid - "Sugar Town" (Official Video)
みんな大好き長い黒髪と赤リップ
ShitKid - "RoMaNcE" (OFFICIAL VIDEO)
ミュージック・ヴィデオの手作り感がフロントマンの Åsaをものすごく映えさせている。お金かけてヴィジュアル作ったり外注しても、ここまで彼女を強く、セクシーに写せない、それを自覚しているであろう眼力。ミュージック・ヴィデオはRoMaNcEにも出演したりライヴではベースやシンセを担当したり、かつてはÅsaのルームメイトでもあった相方的存在、Linda Hedströmが作っているそう。 何より星条旗のビキニとライフルがよく似合ってる!!
過去のインタヴューで彼女はエレクトロニック・ミュージックに対してあまり興味がないようなことを言っていたが、今作は割とエレクトロニカ・テイストを凝らしていて、格段に音質が良くなり、いままでの荒削りな雰囲気より安定感のある印象の曲が多く、Shitkid第二章とでもいうような洗練を感じる。でもローテンションで割れたヴォーカルは相変わらず。自分のいいとこわかってる。
こういう音楽が好きだと、時を経るごと上手になってきたり、露出が増えて注目されはじめると“普通”になっていっちゃって曲は良いんだけどなんだか寂しいな〜……なんて思いを何度もしているのですが、今作『20/20 Shitkid』はまだまだ僕のなかに巣食うShitkid(クソガキ)を唸らせる。
パンクでもロックでも、才能でたまたま生まれちゃう名盤よりも、自分の才能に自覚的だったり、もしくは自分に才能がないのがわかっていながらもストラテジックに、少し無理して作られた物のほうが僕はグッとくるのかも。
2020年、僕もほとんどの人と同じくいつもと変わった1年を過ごしたわけですが、多くの人と違ったのは僕が今年20歳になったということ。いままで何度行きたいイヴェントの会場の前でセキュリティにごねたことか。このご時世、未成年は深夜イヴェントやクラブに出ているアーティストの一番のファンであったとしてもヴェニューは入れられないのです。
そしてようやっと20歳になったと思ったら誰も来ないし何もやってないじゃないか! 話が違う!
とはいえ悪いのはヴェニューでもなく、インターネットの余計なお世話でも相互監視社会でもなくコロナウイルスなのです。多くの人から奪われた掛け替えのない時間の代わりに僕らに与えられたのは美しい孤独。
2. Skullcrusher - Skullcrusher
アメリカインディレーベル〈Secretly Canadian〉からHelen Ballentineのソロプロジェクト、Skullcrusherのデビュー・シングル。アメリカの田舎の湖畔の情景が浮かびます。ニューヨーク北部出身でロサンゼルス在住でこの曲は長い失業中の孤独の中で書いたそう。だいぶノスタルジーとホームシックにやられてるな。しかし僕らも今年家にいる孤独のなかで少年少女時代の豊かな記憶に思いを馳せ現状を憂いたのは一度や二度ではないはず。ただ目まぐるしく世界が動く慌ただしいこの世のなかに飽き飽きしていた人にとってコロナが与えた孤独はなんと優雅で慈悲深く美しい時間であったことでしょうか。このEPはおそらく去年作られたのでしょうが、きっと彼女はその孤独のなかでこの儚いEPを作り上げたのでしょう。目新しく独創的なでは無いけど、繊細で柔らかな声と胸の痛くなるような問いかけをする歌詞は涙ものです。
Skullcrusher - Places/Plans
3. caroline - Dark blue
〈Rough Trade Records〉からロンドンの8人組バンドcaroline。全くやる気の感じられない名前。ほぼインストのバンドで曲もだらだらと長いのですが8人もいるから手数豊富で飽きない。いまの段階ではギター、パーカッション、ヴァイオリンにベースとドラムという編成ですが、元々3人で出入りを繰り返して8人で落ち着いたらしい。派手ではないけどセンス抜群で気持ちの良いタイミングで聞きたい音が入ってくる。さすが天下の〈RoughTrade〉、Black MidiやSOAKなど話題性のあるアーティストも輩出しつつこういうバンドももれなく拾う懐の深さ。
caroline | Pool #1 - Dark blue
4. Daniel Lopatin - Uncut Gems-Original Motion Picture Soundtrack
〈Warp Records〉から言わずと知れた巨人、OPNことダニエル・ロパティン。OPNのニュー・アルバムはすでにele-kingでもその他多くのメディアでも取り上げられていますがこちらも聴いて欲しい……。映画『Good Time』でもダニエルとタッグを組んでいたJoshua and Benjamin Safdie兄弟監督の映画『Uncut Gems』(邦題:アンカット・ダイヤモンド)のサントラです。アダム・サンドラー演じる主人公、宝石商のハワードはギャンブルにより多額の借金を背負っており、ある日手に入れた超デカイオパールを使って一攫千金を狙い、家族に愛人、借金取り果てにはNBA選手も巻き込みどんどんドツボに嵌っていくという映画だが、アダム・サンドラーがいつもの調子のマシンガントークで借金取りをケムに巻こうと幕しているので状況は切迫し、悪化する一方なのにどこか笑っちゃう。だが音楽はどんどんテンポが上がり不安を掻き立て、ハワードの借金は増えて後がなくなっていく。
なんだか映画のレヴューみたいになっちゃったけど、サフディー兄弟の写す宝石とダニエルのシンセは双方壮大でギラッギラで最高なので映画もサントラもぜひ。
『アンカット・ダイヤモンド』予告編 - Netflix
Behind the Soundtrack: 'Uncut Gems' with Daniel Lopatin (DOCUMENTARY)
5. 坂本慎太郎 - 好きっていう気持ち/おぼろげナイトクラブ
〈zelone recordsから坂本慎太郎のシングル。僕は日本のアーティストってあまり聴かないのですが、その理由のひとつは歌詞が直接入ってきすぎて嫌なんです。僕は音楽は歌詞よりも音色が心地よかったりよくなかったり、リズムが気持ち良かったり悪かったりが優先されるべきで、音自体がより本質的だと思っているのですが、坂本慎太郎の歌詞は言葉や詩というよりも楽器的で言葉遊びの延長に感じてファニーだしとにかく気持がいい。
The Feeling Of Love / Shintaro Sakamoto (Official Audio)
ele-king読者の知らなそうなと冒頭に書いておきながら割とみんなすでに聴いていそうな曲ばっか紹介しております。レヴューという形をとっているので仕方ないですが僕がとやかく言っているのを読む前に一度聴いて欲しい……聴いてから読んで欲しい……
年末に書き出したのにダラダラしてたら年が明けちゃった。今年から、今年も、よろしくお願いします。
音楽も作っているのでで自己紹介代わりに僕の曲も是非聴いてください。
filifjonkan by milo - Listen to music
Shades Of Blue by milo - Listen to music
ぎょっとするタイトルだ。音楽が聴けなくなる日。それはストリーミングなる形態がはらんでいる大きな問題のひとつで、グローバル企業なりレコード会社なりがひとたび「これは消す」と判断してしまえば、あるいはその運営主体が消滅してしまえば、ぼくたちは音楽を聴くことができなくなる。2019年3月13日のあの日、フィジカル盤を持っておくことの重要性に気づいたひとは少なくなかったのではないだろうか。
社会学者の宮台真司、永田夏希、音楽研究家のかがりはるきによる共著『音楽が聴けなくなる日』は、ピエール瀧の逮捕後に起こったソニーによる電気グルーヴ作品の出荷停止や在庫回収、配信停止に触発されて書かれた本で、その背景や経緯を知るのみならず、「自粛」の奇妙さ・不気味さに気づくためのヒントに満ちあふれている。
いちばん読みやすいのはかがりによる第二章「歴史と証言から振り返る「自粛」」だ。アーティストがパクられたときにその作品などを「自粛」する慣習がいつからはじまったのか、時系列で確認できるようになっている。興味深いのは、起点のひとつが89年の BUCK-TICK に設定され、もうひとつの起点が99年のマッキーに置かれているところ。ご存じのように、89年は昭和天皇が「崩御」した年であり、99年は平成天皇の即位10周年を祝う式典が催された年だ。電グル騒動が発生した2019年もまさに代替わりの年にあたるわけで、「自粛」運動が天皇制とリンクしている可能性をあぶりだしたことは、本書の慧眼のひとつと言える。
その電グル騒動を具体的に追ったのが永田による第一章「音楽が聴けなくなった日」だ。「自粛」運動がとくにポリシーにもとづいて為されたものではないこと、たんに機械的に前例を踏襲しただけのものであること、すなわち思考停止の結果であること、たちの悪い「ことなかれ主義」であることが、社会学の知見を用いつつ丁寧に解き明かされていく。暴力的にまとめてしまえば、ようするにみんな他者の目線を気にしすぎでしょうよ、という話だ。そしてそれこそがいまの日本社会ないしは「(液状化した)近代」(バウマン)の性格でもあるだろう、と。
この章でひとつだけ気になったのが、何度かエクスキューズ的に挿入される「法令を守るのは当たり前のこと」という記述だ。そう書いてしまうと、法令で決まっていることはなんでもかんでも正しいとみなす、現代日本社会のそれこそ「ことなかれ主義」を追認してしまうことになりかねないのではないかしら、とちょっと心配になったのだけれど、その伏線は第三章でしっかり回収されることになる。
先日 Zoomgals のMVへの出演で話題をさらった宮台真司、彼による第三章「アートこそが社会の基本だ」こそ本書の核を為している。法なんてものは統治の必要から制定されているにすぎず、したがって「仕方なく」しぶしぶ従うものであり、間違っても道徳などではない。それに、人間や人間が生み出す芸術や表現はもっと大きなもので、法なんかにはとうていおさまりきらない──ゆえに、悪影響があるとか犯罪者だからといった理由で作品を封印する措置に、合理性は1ミリもない、という話。
と、これまた強引にまとめてしまったが、やはり宮台節──論理展開とそのスピード感──それじたいも、この章の醍醐味だろう。たとえば、作者と作品の関係性について。「作者と作品は別物」というのはよく言われることだけれど、その根拠を彼は、人間が必ずしも主体ではない点にもとめている。表現とは「降りかかってくる」ものであって主体がつくったものではない、ゆえにその主体に貼られたラベルは作品と関係がない──というロジックで、まさしくこれはシュルレアリスムの「オートマティスム」からロラン・バルトの「プンクトゥム」まで、数々の文学的思考によって実践されてきたことだ。
浩瀚な知識と卓越した整理──なんて書くと凡庸なコピーみたくなっちゃうけど、じっさい電グルを出発点に、1万年以上まえの人間の営みまで参照されるからおそろしい。『負債論』にせよ『サピエンス全史』にせよ、ここ10年ほど巨視的な観点から現在の状況をとらえ返す書物が目立つが、宮台もまたその流れに乗っているとも言える。ミクロに考えることに慣れすぎてしまうと見えてこないものは、たしかにある。
正直、彼の天皇主義者的な部分や安倍支持・トランプ支持にはまったく賛同できない。でも、彼が「このクソみたいな社会を変えたい」と本気で思っていることは間違いない。端的に、情熱がある。彼のことをなんとなくのイメージで毛嫌いしているひとはかなり多いと思われるが、しかし宮台はシニカルでもなければニヒルでもない。ストレートに、かなりアツい人間なのだ。地に足がついているというか、研究室で仮説を組み上げるのではなく(いやそれもやってるんだろうけど)、「そんなことまで?」と驚くほど多くの地道な作業を積み重ね、クソに抗おうと奮闘している(電グル騒動にいちはやく反応したのもそうだし、Zoomgals のMVへの出演だってその一例かもしれない)。そしてなにより彼は、その思考を一般に向けて開こうとしている。頭がいいだけの連中ならいくらでもいる。だが閉じないひとはそう多くない。そういう意味で彼は、かつて主流ではなかったテクノを一般の人びとへと開いた電気グルーヴと、共振しているとも言えるだろう。
音楽が聴けなくなる日──彼のような存在がいるかぎり、あるいはあなたがそのような知的営みに手を伸ばすかぎり、けっしてそんな日は訪れないのかもしれない。
セオ・パリッシュが6年ぶりにアルバムをリリースした。6年という月日は随分と待たせたなと思うかもしれないが、個人的にはあまりそう待った感覚はしなかった。前作『American Intelligence』もなかなかの衝撃的な内容だったし、何より曲数も多かったのもあって……消化するのにかなり時間がかかった記憶がある。
14年以降は自身が追求していたライヴ・バンド「The Unit」のプロジェクトも一段落したが、拠点であるデトロイトのアーティストをフィーチャーした「Gentrified Love」シリーズで彼のミュージシャンやプロデューサーとのいわゆる「コラボレーション熱」がより一層加速しているように思えたし、レーベルも個人のリリースよりも後輩や仲間のリリースが目立った印象だ。ジオロジー「Moon Circuitry」やバイロン・ジ・アクエリアス「High Life EP」は彼らのキャリア出世作になったし、UKのベテラン、ディーゴ&カイディ、そしてシカゴの同胞スペクターのアルバムも手がける姿を見ると、自身が先陣を切ってシーンの成長を後押ししているような動きも感じられるくらいだった。
さて、満を辞してリリースされたアルバム『Wuddaji』。とにかく目を引くのはこの不思議なアートワークだろう。何か等高線のようなものが切り貼りされたアートワークはセオ・パリッシュ自身がコラージュしたもの。LPの中に1枚のインサートが入っておりアートワークについても脚注があるのだが、どうやら「Idlewild(アイドルワイルド)」という地図を用いているのだ。
脚注の中でこの場所はデトロイトから北西部に300キロほど、シカゴからは北東に450キロほど離れたミシガン湖に近い避暑地のような場所で、1912年以降「アフリカ系アメリカ人(African Americans)」の憩いの場として親しまれ、自然観察やスポーツ・レジャーだけでなく、アレサ・フランクリンやフォー・トップスらがライヴを行なったとも記されている。1964年にアメリカで起きた「公民権運動」の影響で一時利用が禁止される時期があったなどしたが、先祖代々この場所での思い出や記憶を語り継ぐ事で第五、第六世代になった家族たちが現在もこの地でヴァケーションを楽しんでいると綴られている。
おそらくインサートに記されたアイドルワイルドはまさしくハウス・ミュージックのメタファー(比喩表現)だと推測できる。多くの「アフリカ系アメリカ人」にとって精神的、肉体的な癒しの存在であったり、そこで行なわれてきた様々なクリエイション、そして世代を超えても忘れ去られることなく脈々と紡がれる文脈も非常にシンパシーを感じるところがある。「歴史」とは? 「伝承」とは? 過去から現在まで続くストーリーをセオ・パリッシュ自身はこのアルバムを通してとても丁寧に伝えている。
アルバム全9曲(E1. “Who Knew Kung Fu” はアナログのみ)を通して基本的に全曲「四つ打ち」をベースとした5分から10分のストイックで全く隙のないロング・トラックがびっしりと並んでいる。アートワークのコンセプトに引っ張られてか少し開放的でオーガニックな雰囲気を随所に感じつつも、相変わらずのセオ・パリッシュ節が随所で炸裂している。
エレクトリック・ピアノの美しい旋律と共に淡々とトラックが進むA1. “Hambone Cappuccino”にはじまり、アルバムに先駆けて先行でリリースされたB. “This Is For You” ではアルバム唯一のヴォーカル・トラックとしてデトロイトのソウル・シンガー、モーリサ・ローズが力強くもどこか妖艶に歌い上げている。
タイトル・トラックにもなっているC1. “Wuddaji” では激しいリズム・セッションを披露したかと思えば、続くC2. “Hennyweed Buckdance” ではジャジーなギターリフのようなサウンドがアルバムの音楽性をグッと高めているなど、どの曲も非常にミニマルで渋さもありつつも、サンプリング主体のトラックメイクから本格的なバンド制作や数多くのプロデューサーとのコラボレーションを経て進化~深化したセオ・パリッシュがプロデューサーとして新たなステージに到達した証拠だろう。
アナログから、CD、カセットテープ、ストリーミングまで全てのフォーマットで積極的にリスナーに届ける気概も含め、アルバム全体のコンセプトやパッケージングまでディテールに拘っている部分はさすがの完成度。ハウスの偉大な先生が2020年に見せてくれた「プライド」に背筋がピンと伸びる。
4年前、2016年のアメリカ大統領選挙直前に通算11枚目となるアルバム『Black America Again』を発表した Common だが、今回の選挙でも投票の4日前に本作『A Beautiful Revolution (Pt 1)』をリリースした。本作はアルバムではなくEP、あるいはミニ・アルバムという位置付けのようであるが、『Black America Again』および昨年(2019年)リリースのアルバム『Let Love』と同じく Karriem Riggins がメイン・プロデューサーを務めており、さらに Common、Karriem Riggins とのスーパーユニット=August Greene の一員でもある Robert Glasper も参加するなど、ここ数年の Common 作品と同じ流れにある。ヒップホップとジャズを軸にしながら、優れたミュージシャンたちと共に高い音楽性を実現すると同時に、人種差別など様々な社会的な問題に対して自らの姿勢を表明し、そして聞く人々を励まし、気持ちを鼓舞する。
アルバムの核となっているのが先行シングルでもある “Say Peace” だ。エッジの効いたアフロビートのトラックに乗った Common と Black Thought によるマイクリレーが凄まじい格好良さで、平和を勝ち取るための彼らの「美しき革命」がポエティックな表現によって綴られている。Common 自ら「黒いダライ・ラマ」をラップしているように、彼らの戦い方はあくまでも平和的な姿勢が貫かれていて、それは女性シンガー、PJ(Paris Jones)のコーラスにある「Say peace, we don't really want no trouble」という一節にも表れている。その一方で Capleton、Super Cat、Shabba Ranks といったレゲエ・アーティストの声がスクラッチで挿入されるパートは実に戦闘的でもあり、アフロビートの本質が強く引き出された一曲となっている。
Black Thought 以外にも、デトロイトの詩人 Jessica Care Moore など、多数のゲスト・アーティストが参加している。たとえば Lenny Kravitz が参加した “A Riot In My Mind” は、ロックの要素が強いこの曲のテイストに Lenny Kravitz のコーラスが見事にマッチしている。さらにインパクトが強いのが、Stevie Wonder が参加した “Courageous” だろう。タイトルが示す通り、「勇気とは何か?」ということを問うこの曲であるが、最初のヴァースで「It's like a lyric by Stevie Wonder」という一節を挟んだ上で、曲の最後の最後で Stevie Wonder の吹くハーモニカが登場するという構成が実に見事で、ハーモニカを手にした Stevie Wonder の姿が見えてくるような生々しく美しいメロディに心打たれる。
『A Beautiful Revolution (Pt 1)』というタイトルから察するに、本作はシリーズとして今後も続いていく可能性が高いが、この「美しき革命」という言葉は今現在の Common が行なっている表現活動そのものとも非常にマッチするし、本作の示す方向性を見事に表している。Common による「美しき革命」がアメリカ社会はもちろんのこと、音楽シーンに対しても少なからず影響を与えることを期待したい。

