「Noton」と一致するもの

ボビー・ウーマック - ele-king

CLIFFORD JORDAN - ele-king

CALVIN KEYS - ele-king

IgG BAND - ele-king

壊れかけのテープレコーダーズ - ele-king

 宇多田ヒカルがシミュレーション仮説に言及したり、コーネリアスこと小山田圭吾がループ量子重力理論的な思考を歌に込めたり、最近、サイエンス・フィクションにかなり近づいた哲学や物理学がポップ・ミュージックの歌詞にも影響するようになっている。それらは、現実の危うさ、不確かさ、頼りなさを積極的に肯定することで、「現実の現実感」や「現実の現実性」を忘却させ、それらに疲弊した存在を慰撫し、そこから逃避させ、この複雑怪奇な現実を生きる者の気持ちをすこし楽にさせる処方箋みたいになっているところがなくもない。「戦争の始まりを知らせる放送も/アクティヴィストの足音も届かない/この部屋にいたい もう少し」(宇多田ヒカル “あなた”)。すべては胡蝶の夢。時間は不連続であり、存在しない。そんなふうに思えたら、どんなに楽だろうか。ブルー・ピルを飲みたい者も、科学や資本主義の糖衣にくるまれたレッド・ピルを選びとりたい者も、結局、そう変わりはないように見える。そういう思考のゲーム的な傾向は現代における一種のブームのようなものにも思えるし、20世紀後半から21世紀という時代における流行だったと22世紀や23世紀の人間は──もしまだ人類という種が、この星を使いつくさずに生きながらえていたら──言うかもしれない。
 同時に、まったく無意味な対比であることはわかっていながら、こうも思う。現実の重さや確かさが増してきているのも、また事実だと。現実に起こっている戦争や殺戮は、シミュレーションでもヴァーチャルなものでもない。もちろん、戦争や殺戮だけ/こそがなにか重いものなのだと言いたいわけでもないけれど、そういうものの抗いがたい重みや確実性に打ちひしがれ、押しつぶされそうになりながら歌われる言葉も、一方で存在している。壊れかけのテープレコーダーズの『楽園から遠く離れて』は、まさにそういうことを歌っているレコードだと思う。

 壊れかけのテープレコーダーズは、リーダーの小森清貴(ヴォーカル/ギター)を中心に、遊佐春菜(ヴォーカル/オルガン)、shino(ベース)、高橋豚汁(ドラムス)からなるカルテットで、2016年、ドラマーの44Oが脱退したのちに現在のラインナップになった。小森は、大森靖子 & THEピンクトカレフ(2015年に解散)や元昆虫キッズの冷牟田敬のバンドなどでギターを弾いており、ソロ・アーティストとしても活動している。また、遊佐は、Have a Nice Day!の一員としても知られているだろう。ソロでは、〈MY BEST!〉からのインディ・ポップ的な『Spring Has Sprung』(2015年)、〈KiliKiliVilla〉からのエレクトロニックな『Another Story of Dystopia Romance』(2020年)という優れた作品をものにしており、2023年10月にもEP「夏の雫」を上梓したばかりだ。
 彼らが〈ハヤシライスレコード〉からリリースした最初のアルバム『聴こえる』(2009年)は、バンド名のとおりのローファイで荒削りなサイケデリック・ロックないしガレージ・ロック・レコードで、1960年代や1970年代の同様の音楽を、あるいは1980年代や1990年代のアンダーグラウンドでインディペンデントなそれを直接的に想起させるものだった。当時、〈ハヤシライス〉は三輪二郎や前野健太の作品も発表しており、いわゆる「東京インディ」のバンド群も現れつつある時期だったが、東高円寺のU.F.O CLUBのムードにぴったりと重なった(この形容が正しいかどうかはわからない)壊れかけのテープレコーダーズの音は、先行世代や同世代の音楽家たちとの狭間で、不思議と遊離したものに聴こえていた。
 バンドは、その頃から変わっていないといえば変わっていないし、大きく変わったといえば変わった。前作にあたる6作めのアルバム『End of the Innocent Age』は、不運にも新型コロナウイルス禍のとば口だった2020年5月に発表されていて、なおかつ、これまでになくポップや親しみやすさへの志向性が開花していた作品だった。高橋の加入も影響したのだろう、ファンクやディスコ的な16thフィールの活用など、リズムへのアプローチがまったく異なっていたのも特徴だ。

 『楽園から遠く離れて』は、それから4年ぶり、古巣の〈MY BEST!〉を離れて自主レーベルから発表した新作である。端的に言って、これは、彼らのキャリアの中でもっとも素晴らしいレコードだと思う。前作は若干、過度に、無理にポップへ向かっているように聴こえたが、4人は今回、そこでの試みやとりくみを引き継いで反映させつつも、バンドの根っこにある原像を改めて捉えかえして、さらにかき混ぜ、「壊れかけのテープレコーダーズらしい」としか言いようがないロックとして吐きだしている。痛快で、シリアスでありながらも聴き手を突き放さず、軽やかで、かわいらしくて、あたたかくて、どこかかなしげで、人間味にあふれている。
 プレス・リリースには、「コロナ禍、相次ぐ戦争、気候変動、、、未曽有の禍が現前する2020年代という時代の中で生まれた全8曲。この現実と向き合いながら生きていくことへの問いと意志を、信じるロック音楽へと込め、鳴らす」とある。4年間の出来事、いままさに起こっていることを直視したリリックは、とはいえ、小森らしく宗教的な言葉や終末的なイメージを挿しこみながら、個人的な視点や具体性よりも、シンボリックで示唆的な面がやはり強調されている。アクチュアルでありながらも、特定の時代性は嗅ぎとれない。失楽園と救済。過去と未来の併置。「映されたノスタルジア/進歩に潜むアイロニー」(“ノスタルジア”)。それでも、このひとつの現実の中で時間は単線的に進み、私たちは未来へと否応なしに押し流されていく。冷めつつも希望をかすかに透かして見るような現状認識は、ceroの髙城晶平が『e o』(2023年)で歌っていたことに重ならなくもない。そして、それらの言葉は、まさに、「死と再生のメロディー」(“梢”)にのせて歌われる。

 壊れかけのテープレコーダーズは、「原ロックを求め続ける」という言葉を掲げている。その意味するところを、私はよく理解できていない。ただ、たしかなのは、彼らの音楽が聴く者の深いところに眠っている原初的な記憶や感覚にアクセスしようとすることだ。彼らの歌や演奏には、どこか童謡のような簡潔さや虚飾のなさ、直接性があり、同時になんとも未完成で不器用でもあり、その率直さや純粋さは時におそろしくもある。このアルバムは、その性向が特に強く、だからこそ彼らの最高傑作たりえている。
 『楽園から遠く離れて』は、小学生時代の音楽の時間を思いおこさせる。音程の高低差が少ない簡素なメロディ、小森と遊佐のシンプルなユニゾンの歌唱、輪唱、叩きつけるようなあまりにも単純な拍子……。目的の音にめがけてストレートに向かう小森の歌唱も、遊佐のかすれた声も、私にはクラスメイトの歌や有孔ボードが一面に貼られた音楽室の景色を思いださせる。演奏楽器に「オルガン」とわざわざ明記されている遊佐のプレイは、もちろん、サイケデリック・ロックの伝統に連なるものであるのと同時に、オルガンという楽器が明治以降、近代日本における音楽教育で果たしてきた役割の大きさをもう一度意識させるものでもある。あるいは、小森の歌詞とあいまって、当然、キリスト教の世界観も強く喚起させるだろう。
 強調しておきたいのは、こういった壊れかけのテープレコーダーズの音楽は、専門的なレッスンによって鍛えられた見事なヴォーカリゼーション(ミックス・ヴォイスやらエッジ・ヴォイスやら)、せわしない転調、複雑な和音の多用、ペンタトニック・スケール、奇妙な構成や変拍子などを好んでつかうことによって特異性を増す一途をたどっているJ-POPの、ちょうど反対項に存在するものである、ということ。

 小森は以前、ある小学生の子どもがライヴに来るようになり、最前列で拳をあげて演奏を見ている、と語っていた。このアルバムこそは、そのことを見事に物語っているのではないだろうか。
 インタヴューは8年前のものなので、その小学生は下手したら成人しているかもしれない。もっと言うと、壊れかけのテープレコーダーズのライヴにはもう来なくなっているかもしれない。それでも、『楽園から遠く離れて』は、彼/彼女の奥底にあるなにかに語りかけるものをどこかに内包しているはずだ。それに、ここでたびたび歌われている「未来」というものは、疲労感と諦念を浮かべた表情が日常的に貼りついてしまった私たちのためというよりも、むしろ、彼や彼女のためにあるのだから。

Bingo Fury - ele-king

 ブリストルの青年ジャック・オグボーンのプロジェクト、ビンゴ・フューリー。彼は石畳の冷たさと厳かな空気が漂う街を描いた映画のサウンドトラックのような音楽を奏でている。2020年、白黒の画面のなか、小さな教会の前でジャズとノーウェーヴを混ぜた音楽にあわせ歌っていた若者のバンドがあっという間に解散した後、彼は残ったメンバー数人とともにビンゴ・フューリーという50年代、60年代のノワール映画から抜け出たようなペルソナをまとい再び表舞台に帰ってきた。
 ビンゴ・フューリーの名が初めて世に現れたのは同年にリリースされたコロナ禍における音楽ヴェニューを守るためのチャリティー・コンピ・アルバム『Group Therapy Vol. 1』だった。ゴート・ガールのロッティのソロ名義ムッシー・P、ブリストルの年上の盟友ロビー&モナ、ザ・ラウンジ・ソサエティ、ソーリー、ブラック・カントリー・ニュー・ロードのルイス・エヴァンスのグッド・ウィズ・ペアレンツ、果ては 〈Speedy WunderGround〉ダン・キャリーのサヴェージ・ゲイリーまで、そうそうたるメンバーのなかに収められた小さなデモは部屋のなかの空気がそのまま入っているかのような暖かさがあって、いまこうやって聞くとビンゴ・フューリーのコンセプトがこのときすでに完成していたようにも思える。キーボードで弾き語られるそれはまるで映画のなかに挿入されるワン・シーンのように映像的で、そして音楽が作り出す空気を表現しているようだった。

「僕はそれ(ビンゴ・フューリー)を人生よりも大きなものにしたかったんだ……映画みたいになることを僕は求めた」。地元ブリストルのメディア365Bristolのインタヴュー(2022年)にジャック・オグボーンはそんな言葉を残しているが、その言葉通りビンゴ・フューリーの音楽は音楽のためだけのものではないのだろう。ミュージック・ヴィデオや写真がどのような影響を曲に与えるのか? もしくは曲がヴィデオやビンゴ・フューリーというプロジェクトにどんな影響を与えるのか? 彼は考え、このペルソナが生きる世界を構築しようと試みた。それはデヴィッド・ボウイが70年代にジギー・スターダストとしておこなったことと同じようなことなのかもしれないが、ビンゴ・フューリーは違う星ではなく、ブリストルの片隅に存在する現実の隣にあるほんの少しズレた世界を作り出したのだ。冷たい空気と暗闇、窓のなかの明かり、アートワークに描かれた彼の姿は等身大を離れ、想像の世界、物語の確かな美しさを提示する。

 そんな風に作られたこの1stアルバムの世界は暗く柔らかに日常のなかに溶けていく。地元ブリストルの教会で録音されたというジャズともノーウェーヴとも言えないような音楽はギラギラと目を引くような派手なものではなく、不協和音の緊張とそれに反するような安らぎの両方を持ち、ピアノとコルネットが空気を作り感情に静かに波を立てていく。それはまさに日常に寄り添うサウンドトラックのようであって、心のなかの景色をほんの少し特別なものに変えていくのだ。
 いくつものムードが交じり合い同時に存在するという感覚はともすればぼんやりとしたものともとらえられかねないが、しかしこれこそがこの奇妙な心地の良い空間を作り出しているものなのだろう。たとえば何かが起きそうな不穏な空気を作り出すホーンにピアノ、どこかから聞こえる物音、渦巻くような危険な気配を持った “I'll Be Mountains” はしかし、結局は何も起きずに静かにフェードアウトしていく。「パンのように霧をちぎる」。抽象的な歌詞をわずかに抑揚をつけてオグボーンは歌い、それがなにもない日常の空気のなかに溶けて消えていく。ほんの少しのズレにほんの少しの心地よさ、それは壮大なものではなく感情の機微みたいなもので、何かの気配や物音がズレや違和感を作り出し漂う空気を形作っていく。“Power Drill” や “Mr Stark” といったギターやエフェクトが引っ張っていくような曲であっても、裏で鳴るピアノや落ち着いた低い声のヴォーカルがチグハグなムードを作り出し心を極端な方向に持っていかせない。そうしてそれがこの奇妙に落ち着く空間を作り出すのだ。
 ビンゴ・フューリーは空気を描く、28分と少しの短い収録時間とも相まってこのアルバムは日常の小さなサウンドトラックとして素晴らしく機能する。繰り返し聞くたびに心に触る静かな刺激がなんとも心地よくなっていく。

 春が来た。なにかが一新されたようなこの感覚が錯覚であることはわかりきっていても、やはり嬉しいものは嬉しい。幸い花粉症に悩まされるのは(個人的には)まだまだ先のことみたいだから、外をフラフラしながら街の香気や陽の光をのびのびと楽しんでいる。
 音楽と結びついている自分の記憶のなかの春っぽさは、快晴の軽やかさではなくむしろ曇天のようにまとわりつく気だるさだ。どこかに逃げたいな……という気持ちでかつて縋った音楽は、春には似つかわしくない陰気なものがどちらかといえば多かったような気がする。

 日が落ちると肌寒くなったり、自身を取り巻く環境が一変したり、理想と現実のギャップに気が滅入ったり。調子が狂いやすくなるこの季節、普段なら心地よく感じられるはずの陽気をついうっとうしく感じてしまうこともあるでしょう。そんな感情の移ろいをケアするための、日本のユースによる「ポスト・クラウド・ラップ」とでも形容すべきダルくて美しいトラックをいくつか取り上げてみようと思います。


tmjclub - #tmjclub vol.1

 2021年前後にtrash angelsというコレクティヴがSoundCloud上で瞬間的に誕生し、メンバーであるokudakun、lazydoll、AssToro、Amuxax、vo僕(vq)、siyuneetの6人それぞれがデジコア──ハイパーポップをトラップ的に先鋭化させた、デジタル・ネイティヴ世代のヒップホップ──を日本に持ち込み、ラップもビートメイクもトータル的に担いつつ、独自のものとしてローカライズさせていった。
 2021年というとつい先日のことのように感じられるが、彼らユースにとっては3年弱前のことなんかはるか遠い昔の話だろう。trash angelsは2022年ごろには実質的に解散した。そして2024年の年明けごろ、SNS上に @tmjclubarchive というアカウントが突如現れた。そこにはVlog風のショート動画やなんてことのないセルフィーが、いずれも劣化したデジタル・データのような質感でシェアされていた。
 そう、このtmjclubこそ当時のtrash angelsに近いメンバーが別の形で再集結した新たなミーム的コレクティヴなのだ。突然公開されたミックステープ『#tmjclub vol.1』には上述したlazydoll、okudakun、AssToroに加え、日本のヨン・リーンとでもいうべき才能aeoxve、ウェブ・アンダーグラウンドの深奥に潜むHannibal Anger(=dp)やNumber Collecterといった、同じSoundCloudという土地に根ざしつつもけっして前述のデジコア的表現に当てはまらない、よりダークでダウナーなラップを披露していた面々が合流。日本におけるクラウド・ラップの発展と進化、そして今後の深化を感じさせる記念碑的な必聴盤として大推薦したい。ここには未来がある。


vq - 肌

 SoundCloudで育まれるユースの才能には大人が手を伸ばした瞬間に消えゆく不安定さがあり、その反発こそがすべてをアーカイヴできるはずのインターネット上にある種の謎を残している、と僕は考えている。情報過多の時代のカウンターとして、だれもがミスフィケーションという演出を選択している、とも言い換えられる。
 とくに、前述したtrash angelsでもいくつかのトラックに参加していたvq(fka vo僕)はその色が強く、過去発表してきた数枚のEPはいずれも配信プラットフォームから抹消されており、現在視聴可能なのはこの2曲入の最新シングル『肌』のみである。
 がしかし、彼がミスフィケーションしようとしているのはあくまでも自身のパーソナリティのみで、音楽それ自体に対する作為的な演出はまるでない。むしろあまりにイノセントで、あまりに剥き出しの純真さをもって音楽に向き合っていて、そこにはヒップホップという文化を下支えするキャラクター性、つまりはスターであるための虚飾的な要素を解体し、ただただ透明であり続けたいという切実な思いが込められているように思える。
 あえて形容するなら “グリッチ・アコースティック” とでもいうべき不定形なビートに乗せられる、まっすぐな言葉による心情の吐露。削除された過去作をここで紹介できないことが悔しい。原液のような濃度を持ったこの表現者のことを、より多くの人に、痛みを抱えたあらゆる人に見聞きしてほしい。


qquq - lost

 以上のように取り上げた、trash angelsに端を発する日本のデジコア・シーンは猛烈なスピードで動きつづけていて、はやくも彼/彼女たちに影響を受けた次世代が誕生しはじめている。そのひとりが、qquqという日本のどこかに潜む若きラッパーだ。
 おそらくはゼロ年代以降の生まれだろうと(電子の海での)立ち振る舞いから推察できるものの、自身のパーソナリティはほとんど公にせずSoundCloudへダーク・ウェブ以降の質感を纏ったトラックを粛々と投稿する、という「いま」がありありと現れているスタイルも込みでフレッシュな才能だ。クラウド・ラップやヴェイパーウェイヴが下地にありつつもデジコアの荒々しさがブレンドされる初期衝動的なラフさもあれど、決してアイデアにあぐらをかかず、自分だけの表現を勝ち取ろうともがいているようにも見える。彼の孵化がいまは楽しみだ。


松永拓馬 - Epoch

 神奈川県・相模原を拠点とするベッドルーム・ラッパー、松永拓馬の最新作。2021年にはEP「SAGAMI」をリリースし、2022年には1stアルバム『ちがうなにか』を発表するとともにいまを羽ばたくトランス・カルト〈みんなのきもち〉とリリース・レイヴを敢行するなどアクティヴに活動をしていた彼が、1年半に及ぶ沈黙のなか、Miru Shinoda(yahyel)によるプロデュースのもと生み出した力作だ。
 アナログ・シンセサイザーによってゼロから作成されたトラックには、昨今の潤沢かつ利便性に富むDAW環境では探し当てることのできないクリティカルな音の粒が立っており、そのすべてがユースのプロパーな表現手法とは一線を画している。リリックには男性性を脱構築したかのような新しいスワッグさも漂う特異なバランス感覚があり、エレクトロニカ~IDM的な領域へと移行しつつありながらも、やはりバックボーンにはクラウド・ラップ以降の繊細なヒップホップ・センスが横たわっている。ドレイン・ギャングの面々やヨン・リーンなどを輩出したストックホルムの〈YEAR0001〉が提示する美学に対する、日本からの解答がようやく出るのかもしれない。まだ始まったばかり、これからの話だけれど。



rowbai - naïve

 バイオグラフィをチェックしようとした我々を突き刺す、プロフィール写真の鋭い眼光。「過剰さ」が共通項である2020sの新たな表現とは異なる、プレーンでエッジの効いた、ソリッドなミニマリズムを感じさせるSSW・rowbaiの2年2ヶ月ぶりとなるこの作品を、あえてクラウド・ラップというテーマになぞらえて取り上げたい。
 前作『Dukkha』では「弱さの克服」をモチーフとしていた彼女が今回願ったのは「弱さの受容」とのこと。朴訥としたフロウから送り出されるリリックには、足りない、聞こえない、見えない、止まれない……そうしたアンコントローラブルな不能感が随所に織り込まれつつも、歌いたい、誰も邪魔できない、光が見たい、ここにいたっていい……そうした自身を鼓舞しながら聴き手をエンパワメントする意志が交わり、暗くも明るい、痛みに寄り添ったケアとしての表現、慈愛が感じられる。トラックはエレクトロニックとアコースティックを折衷した有機的なデジタル・サウンドでヴァラエティに富んでおり、まっすぐなポップ・センスで真正面から表現と向き合っている切実な印象を作品全体に与えている。それでありながら、歌唱に振り切ることはなくあくまでもフロウとしての歌がある。現代のポップスがラップ・ミュージックといかに強く結びついているかを改めて考えさせられてしまった。

『成功したオタク』 - ele-king

 2012年から世界的な広がりを見せたK-POPのなかでもトップを切り、16年には韓流グループで初めてフォーブス誌の「世界で最も稼ぐ有名人100人」に選ばれたBIGBANGは日本の観客動員数も(2位の嵐をダブルスコアで抑えて)1位となるなど破竹の勢いで10年間を駆け抜けた……と思いきや、その年の暮にメンバーのV.Iがケータイを没取して女性たちとパーティをやっているという報道が出たと思ったら、そこからスキャンダル報道がとまらなくなり、翌年にはT.O.Pが大麻で逮捕、事務所の株価暴落、兵役で特別扱いに非難、19年2月にはV.Iが経営するクラブ、バーニング・サンで暴行事件、同クラブで麻薬と性犯罪の疑惑も取り沙汰され、V.Iは警察に出頭、3月に入ると隠し撮りしていたセックス・ヴィデオを芸能関係者8人がアプリで共有していたことが発覚し、V.Iは引退を発表、韓国よりも日本のファンがV.Iを擁護したことも話題になった。さらにアプリを運営していた歌手のチョン・ジュニョンも逮捕され、同アプリに登録していたHIGHLIGHTやFTISLANDのメンバーもグループを脱退もしくは引退。この時も日本のファンが脱退阻止を働きかけて話題となり、V.Iは資金の横領など計9件の容疑(売買春あっせん、買春、違法撮影物の流布、業務上横領、常習賭博、外国為替取引法違反、食品衛生法違反、特定経済犯罪加重処罰などに関する法律違反、特殊暴行教唆)で実刑を課され、昨23年には早くも出所、チョン・ジュニョンには7年の刑が言い渡された。一連の事件はバーニング・サン事件もしくはスンリゲート事件と呼称され、V.Iと警察の癒着も明らかになったため警察幹部も立件されたことで疑惑は警察組織全体へと広がっていった。韓流衰退の合図だったともされる同事件を題材に『ガールコップス』や『量子物理学』といった映画もつくられ、うまく逃げおおせたと考えられている特権階級に対しては手段を選ばずに追及する姿勢がいまも続いている。

 ここまでのことは韓国では誰もが知っていて、それを前提につくられたドキュメンタリーが『成功したオタク』。チョン・ジュニョンがアイドルとして人気を博していたシーンを冒頭にちょっとだけ置いた以外は事件以後の余波が扱われ、彼らのことを「推し」ていた監督のオ・セヨンや他の女性ファンが自分たちの気持ちに整理がつけられず、怒りや虚無感、あるいはどう名づけていいのかわからない感情に振り回される場面が延々と記録されている。「成功したオタク」というのは「推しに覚えられるほど熱心なファンになった」という意味で(英題は『FANATIC(熱狂的)』)、セックス・ピストルズの親衛隊だったスージー・スーがデヴィッド・ボウイのようなメイクで有名になったプロセスとまったく同じ。そのようにして他のファンにも認識されるほど目立つファンになったことが、しかし、推しが(ここではバーニング・サン事件によって)ロクでもない存在になった途端に仇となり、「成功したオタク」だったことを悔いるようになっていく(ファンダムが崩壊した時に事態をどう受け止めればいいのかというケース・スタディというか)。「推し」というのは説明するまでもないけれど、ひいきのアイドルのことで、アイドルの応援を生きがいにすることは「推し活」や「推しごと」などと呼ばれている。「推し活」は人生を豊かにし、生き生きとしたものにしてくれ、たとえば鈴木愛理のソロ曲〝最強の推し!〟(https://www.youtube.com/watch?v=k8YRcE6BPNY)を観ると、「推し活」が無限大のパワーを与えてくれ、会社で出世し、政治家として成功する原動力になるものとして描かれている。基本的に「推し活」の背景には労働環境が劣悪で、働くことに喜びが感じられないという前提があり、そのような社会とのつながりを強化する効果が期待されている。社会に背を向けるような感覚は微塵もない。

 オ・セヨンは他の女性ファンたちと語り合い、彼女たちの声を記録し、慰め合い、裁判を傍聴しに遠くまで出かけ、買い集めたグッズの葬式を行う。捨てられるようで捨てられない。過去に対する複雑な感情が思いもかけない角度から滲み出す。セヨンはバーニング・サン事件を報道したパク・ヒョシル記者に最初は罵声を浴びせたことを反省し、謝りに行く。ヒョシル記者はセヨンを優しく慰めてくれ、このような事件が起きてもなお「推し」を擁護するファンは「パク・クネ元大統領の支持者たちに似ている」と言われる。セヨンはパク・クネを支持する人たちの集まりに足を運び、「ファナティック」を客観視することができ、かつてのファンたちにこれ以上、カメラを向けても仕方がないことを悟る。どんどん内省的になっていくセヨンは、さらに自分の母親もまた#Me Too運動で自分と同じように「推し」が犯罪者として糾弾され、自殺したことに苦しんでいることを知る……

 チョン・ジュニョンもパク・クネもいわば間違った指導者である。セヨンの言葉を借りると「推し活」というのは「(推しを)自分自身と同一視し限りなく信頼するという経験」で、「〝推し〟その人になりたい」という欲望へ発展していくという。それはおそらく指導者が他者ではなくなることを意味し、一種の神秘体験と同じ意味を持っている。ナチズムを研究した思想家、エリアス・カネッティは社会を構成する個々人には潜在的に接触恐怖があり、その恐怖から解放されたくて人々は群衆を形成するという(『群衆と権力』)。コミュニケーションがSNSなどの間接的な場で行われる頻度が増えれば、当然のことながら現実の生活において接触恐怖は増すだろうし、「群衆」も小規模なものが生まれやすくなる。「推し活」が増えるのもむべなるかなで、そうすれば間違った指導者と自分を同一視する機会も増えていくのは明らか。チョン・ジュニョンの例とパク・クネの例をここで重ね合わせているのはおそらく偶然ではないし、『成功したオタク』で描かれているのは、共同体が壊れたことで、むしろ、様々な接触が生まれていくプロセスである。複数で多様なコミュニケーションの増大。セヨンが最後に出会うのが、そして、母親だったという流れはそれこそ彼女がなぜ「推し活」に向かったかを示唆しているようで、かなりやるせない。

Alex Deforce & Charlotte Jacobs - ele-king

 声と音。言葉と音。その交錯、その融合、その反発、その共存。独自の世界観を持ったアルバム『Kwart Voor Straks』は、それらの問題を考えるヒントが込められていた。非常に批評的な音楽作品であった。
では、このアルバムを作ったのは誰か。ひとりは、ベルギーはブリュッセルにおいて詩人として活動しているアレックス・ディフォースである。もう一人は、ブルックリンのサウンドアーティスト/ボーカリスト シャーロット・ジェイコブである。この二人のコラボレーション・アルバムが本作『Kwart Voor Straks』だ。
 リリースは、ベルギーのエクスペリメンタル・ミュージック・レーベル〈STROOM〉からである。この〈STROOM〉は、オランダのニューウェイヴ・バンドW.A.T.の『WORLD ACCORDING TO』の再発、ヴォイス・アクターのアルバムなど、リイシューから新譜まで広くリイシューしている注目のレーベルだ。 
 昨年リリースされたヴォイス・アクターの新作『Fake Sleep』もそうだったが、「声と電子音」のミックスも、このレーベルの方向性なのだろうか。じじつ本作『Kwart Voor Straks』も、アレックスとシャーロット、二人の声によるポエトリーリーディングと独創的でどこか優雅な電子音のミックスによる楽曲によって成立している。
 『Kwart Voor Straks』 のポエトリーリーディングとエレクトロニクスのコンビネーションによるサウンドは、なかなかユニークである。実験的な電子音楽からリズム/ビートを導入したトラックまで変幻自在なサウンドを展開し、そこにアレックスの言葉がレイヤーされ、まるで映画/演劇のサウンドのような音世界を存分に展開しているのだ。
 越境的な音楽・音響作品であり、ある意味では、アレックスとシャーロットによるヴォイス・パフォΩマンスを音源として定着した作品ともいえる。ここで語れている「詩」を理解できる能力を持たな自分としては、本作を(無理を承知で)まずもって声と電子音による「電子音楽作品」として位置付けしたい。

 じっさい声と電子音というのは不思議と相性が良い。有機的なものと無機的なものという対称的なものだからという面もあるだろう。声の持っている「音の肌理」と電子音が放つ「音の肌理」の相性はとても良いように感じるのだ。どちらの「音」のテクスチャーが複雑かつ繊細、かつ強靭という意味で。
 アルバムには全7曲収録されている。1曲目“Kwart Voor Straks (Deel 1) ”では、アレックスによる詩を朗読する「声」がグリッチ状に加工され、そこに透明なシャーロットの歌声に近い「声」が折り重なる。この見事に対称的な音/声は、本作のサウンドを象徴しているように感じられた。声がエディットされ電子音に近くなることで、より物質的な音になるし、なにより「声」の言葉を伝えるという機能性が若干「遅延」するような感覚も生まれ、その「ズレ」の感覚こそ、本作の肝ではないかと思ったのだ。2曲目“Kwart Voor Straks (Deel 2+3)”は曲名からして、1曲目からして連作だが、ミニマルで乾いた音色のピアノに、シャーロットの歌声が折り重なる曲だ。どこかフォーキーな印象があるが、時折、挿入されるアレックスの声/朗読と微かなノイズがレイヤーされていく。
 3曲目“Aeiou”(どうやら日本語モチーフにした言葉らしい)は声と電子音のコラージュ的な楽曲だ。4曲目“Turquoise”は二人の声のコンビネーションに、アトモスフィリックな電子音とどこか古典的な電子音のアルペジオが展開し、どこか映画の1シーンのようなサウンドを展開する曲である。5曲目“Mantra Voor Mikes”も声と電子音のコラージュ的なトラックだ。楽曲前半では実験的なドローン・サウンドに、二人の声による朗読と歌声が交錯し、中盤以降は、分断されたビートのようなサウンドへと変化していく。本作中でも多彩な音楽性が圧縮された曲といえよう。
 6曲目“Umami”(この曲名も日本語由来だという)では、リズムが明瞭化し、ウワモノのシンセがコードを鳴らすにより、さらに「楽曲」的になっていく。二人もユニゾンで朗読すれる。その結果、」「声」と「電子音」が一体化する。アルバムに満ちていた「ズレ」と」「遅延」の感覚が希薄なり、何かが統合されたような、感動的ともいえる躍動感に満ちた曲に仕上がっている。まさにこの曲こそアルバムのクライマックスともいえよう。アルバム最終曲にして7曲目“Dit Gedicht”もアレックスとシャーロットのユニゾンによる朗読に、透明な電子音が重なり、アルバムは終焉を迎えていくだろう……。

 『Kwart Voor Straks』は、電子音はドローン、ノイズ、テクノ、アンビエントと多彩なサウンドを展開しつつ、アレックスとシャーロットの朗読/歌声によって、どこか「アルバム全体でひとつの楽曲」とでもいうような不思議な統一感が生まれている作品だ。
 何より、他にはない独自の世界観に満ちているアルバムなのである。エレクトロニック・ミュージックの形式を包括しつつも、しかし、ジャンル内の方法論のマナーにとらわれることなく、自由に音楽/音響世界を展開している、とでもいうべきか。だからといって破壊的というわけでもない。どこか優雅なのだ。貴族的な実験音楽作品?
 しかし不穏と不安に満ちた現在において、この「優雅さ」はとても貴重とも思う。未聴の方は日常のふとした隙間にこのアルバムを1曲目から聴いてみてほしい。時代の空気から浮遊しているような、エレガントな電子音楽作品とわかるはず。何より声と電子音のエレガントな舞踏のように鳴り響いていることに驚きを感じるはずだ。声と音。歌声と電子音。声とノイズ。有機と無機の交錯。そんな優雅で実験的な音の舞、音の舞曲、それがこの『Kwart Voor Straks』なのである。


Philip Glass - ele-king

 2024年1月にリリースされた『フィリップ・グラス・ソロ』は、フィリップ・グラスが、彼自身の曲を、彼がいつも作曲で使っている自宅のピアノで弾いた、隅々までグラス本人の息がかかったアルバムである。
 この個人的で親密なアルバムを作ったきっかけはCOVID-19のパンデミックだ。あれから4年も経ったのかと、今考えると遠い日々のようにも思えるが、2020年4月頃からしばらくの間、これまでの価値観、生活習慣、経済や社会の仕組みなど、多かれ少なかれ世界中の誰もが再考を迫られた。音楽界への影響として、コンサートや音楽フェスティヴァルの中止の知らせが常に国内外を駆け巡り、その代わりにコンテンツ配信が盛んになった。長年マンハッタンに暮らすグラスにももちろんパンデミックの影響があった。
 収録曲は全7曲。1曲目 “オープニング(Opening)” は1981年に作曲され、1982年のアルバム『グラスワークス(Glassworks)』に収録されている。2曲目 “マッド・ラッシュ(Mad Rush)” は元々ダライ・ラマのニューヨーク初訪問を記念したオルガン曲として1979年に作曲された。後にピアノ・ソロに編曲され、グラス自身もこの曲をコンサートで演奏することが多い。3〜6曲目 “メタモルフォーシス(Metamorphosis)”I , Ⅱ, Ⅲ, Ⅴはカフカの小説『変身』から着想を得たピアノ曲で、作曲は1988年。音楽的には、この曲は1曲目の “オープニング” をさらに発展させた楽曲といえる。この2曲の関係に限らず、グラスの楽曲では、一つのテーマやパターンを他の曲と共有していることがしばしば起こる。それゆえに、どの曲を聴いてもなんとなく似ている印象を与える。7曲目の“トゥルーマン・スリープス(Truman Sleeps)” は1998年に公開された映画『トゥルーマン・ショー(The Truman Show)』のサウンドトラックをピアノ・ソロへと再構成したもの。どの曲も今ではコンサートのレパートリーとして、グラスのみならず、世界各国のピアニストによって数多く演奏されており、このアルバムの選曲はグラスのピアノ曲のベスト盤と呼べるだろう。
 1937年生まれのグラスは音楽家として半世紀以上にわたって絶えず音楽活動を続けてきた。ミニマル音楽の創始者のひとりであると同時に、今では映画音楽、交響曲、オペラの分野でも活躍している。パンデミック以前は作曲、演奏、新作初演といった慌ただしいスケジュールに追われて世界を飛び回っていた彼だが、他の多くのミュージシャンと同じく、パンデミックによって対外的なスケジュールのすべてが止まってしまった。その期間、つまり2020年から2021年の間は、彼自身が何年も演奏してきた自作のピアノ曲に改めて向き合う期間となった。「このアルバムは2021年のタイムカプセルのようなものであり、また、この数十年の作曲と演奏のふりかえりでもある。言い換えると、私の最近の音楽観のドキュメントなのだ。」*1と彼は語る。
 ミニマル音楽の作曲家(本人はこう呼ばれるのが本意ではないらしいが)として知られているグラスは、作曲活動と同じくらい演奏活動にも積極的にかかわってきた。高度な演奏技術と、時に作曲家の哲学と独自の方法のもとで記された楽譜の解読を要する現代音楽の場合、作曲家は作曲に徹し、演奏はその道のプロフェッショナルな演奏家に託すのが一般的だ。だが、グラスはこのような分業性をあまり好まない。

 作曲家に演奏のスキルは必要ないという考えがどこから来たのか、私にはまったくわからない。曲を書くのと演奏するのは別だとしてしまうなんて、ばかげている。音楽の根本的な性質を誤解している。音楽とは何よりもまず奏でるものであり、単なる研究対象ではない。
 私にとって、演奏は作曲にとって欠かせない部分だ。今の若い作曲家たちを見ると、みな演奏もしている。それは私の世代に勇気づけられてのことだ。われわれはみな演奏家だった。自分の曲の解釈を自ら行うということ自体が、われわれの反抗の一部だったのだ。*2

 グラスの言葉をふまえると、彼の肩書きをコンポーザー・パフォーマー(作曲家兼演奏家)、または、単に音楽家やミュージシャンとした方が彼の信念と活動に即しているのかもしれない。
 フィリップ・グラス・アンサンブルを率いるグラス、ドローン音楽の「グル」として影響力を持ち続けるラ・モンテ・ヤング、日本滞在5年目を迎えたテリー・ライリー、今もステージに立って「クラッピング・ミュージック(Clapping Music)」を自ら演奏するスティーヴ・ライヒ—ミニマル音楽の第一世代とされる彼らの出発点は、自身の音楽を演奏するために結成されたアンサンブルやパフォーマンスのグループだった。誰かが演奏してくれるのを待つのではなく、自分の音楽を自分たちで演奏して、観客の反応を直に感じ取る。これはインディーズやメジャーを問わず、バンドやミュージシャンにとっては当たり前のことだ。だが、グラスをはじめとするミニマル音楽の長老たちは、1950年代、60年代の現代音楽、前衛音楽、実験音楽の文脈のなかで高度に分業化されてしまった慣習に異を唱えながら、コンポーザー・パフォーマーとしての態度を一貫してきた。アルバム『フィリップ・グラス・ソロ』はピアノと真摯に向き合う彼の姿を聴くことができる。
 ジュリアード音楽院で作曲を志すようになってからもピアノの練習を欠かさず、グラスはピアノの技術を磨いてきた。また、彼は作曲の大半をピアノで行っている。彼にとってピアノは特別な、そして最もなじみ深い楽器のひとつである。だが、彼のピアノ演奏は技術を披瀝するためのものではない。むしろ、音、音楽、作曲、楽器へのアプローチを彼自身が一演奏者として客観的に確かめていく手段なのだろう。このアルバムに収録されている全7曲はピアノ演奏の難易度でいえば、間違えず楽譜通りに弾くだけなら、むしろ易しい部類に入る。ピアノを齧ったことのある人向けにより具体的な例をあげると、チェルニーの30番練習曲(正式名称はカール・チェルニーによる『30の技巧練習曲』作品849)程度を弾ければ、この7曲を難なく弾くことができるはずだ。繰り返すが、楽譜通りに弾くだけならば。
 グラスのピアノ曲はリズム・パターンを何度も何度も繰り返しながら、新たな和音やパターンへとゆっくりと変化する。ほとんど全部の楽曲がこの方法で構成されていて、見ようによっては(聴きようによっては)、とても単調でつまらない音楽に聴こえてしまうだろう。しかし、パターンの変化の様子を詳しく見てみると、調(キー)と和音(コード)の特徴を知り尽くしたうえでの緻密な音の操作によってできていることがわかる。グラデーションのように変化するパターンと、その構成力はグラスの職人技といってもよい。
 一見、誰も弾けそうなピアノ曲を作曲者であるグラスはどのように弾いているのだろうか。彼は自分の曲だからといって好き勝手に歪曲させることはなく、出版されている楽譜通りのテンポ、強弱、抑揚その他の演奏記号や演奏指示に忠実に弾いている。筆者は実際に楽譜と突き合わせながら彼の演奏を聴いてみて、そのことを確かめた。彼は専業ピアニストではないし、今はかなりの高齢でもある。彼が1980年代に録音した同じ曲の演奏*3と比べると、このアルバムでの演奏には曲中のすばやいパッセージではリズムの粒が揃っていない箇所も散見される。だが、そんなことを指摘しても、ここに収められているグラスのピアノ演奏に対する評価としては無意味だ。他のピアニストたちによるこなれた演奏*4とは明らかに違う観察眼で、彼は自分が過去に書いた音を一つ一つ注意深く確かめながらピアノを弾いている。
 先に引いたグラスの言葉を思い出すと、このアルバムはひとりの音楽家のドキュメントである。そのドキュメントは、音楽を追うだけでなく、音楽家の日常生活の一端を見せる生々しさを呈する。時折、ピアノの音色の背景で微かに聴こえる警報器の音や雑踏が、このドキュメントをより鮮明に描いている。

*1 Philip Glass, “Glass Notes: Philip Glass Solo,” https://philipglass.com/glassnotes/philip-glass-solo/ Accessed February 2024.

*2 フィリップ・グラス『フィリップ・グラス自伝 音楽のない言葉』高橋智子監訳、藤村奈緒美訳、東京:ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、2016年、118頁。

*3 グラス自身がピアノを弾いているアルバム『グラスワークス(Glassworks)』(1982)と『ピアノ・ソロ(Piano Solo)』(1989)のなかで『フィリップ・グラス・ソロ』に収録されている曲を聴くことができる。聴き比べてみるとおもしろい。

*4 たとえば、アイスランド出身のピアニスト、ヴィキングル・オラフソンのアルバム『フィリップ・グラス ピアノ曲集(Philip Glass: Piano Works)』(2017)での “グラスワークス:オープニング” の演奏は、音の強弱の付け方やテンポのゆらぎの点で、グラスの抑制された演奏とは違う、よりロマンティックな解釈だ。

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