「Man」と一致するもの

創造の生命体 - ele-king

 連載第二回目は、KPTMがBZDによってどのような不調を経験し、やがてそれが処方薬の離脱症状によって引き起こされているということを認識するに至ったのかをたどる。話を聞いていると、BZD問題の極めて難しい点の一つは、そもそもの心身の不調や異常がBZDによって引き起こされていることを認識・自覚することであるようだ。

 どんな症状であれ、何よりもまずは原因を突き止めなければ、それを克服するための根本的な取り組みや努力もできない。しかしながら、BZDの副作用がどのようなものなのかがまだあまり周知されていないために、自覚のないまま原因不明の症状に苦しんでいる人も多い。KPTMもそんな一人だった。では、彼女の場合はどのようにしてそれを自覚するに至ったのか、彼女の体験を共有することが、周知のきっかけになれば幸いだ。

 とはいえ、ひとくちにベンゾジアゼピン系といっても、めまい、耳鳴り、肩こり、睡眠を促すものからパニック障害の緩和等々、様々な用途や強さの薬が様々な症状に対して処方されている。また、薬がどのように作用し、どのような反応を起こすかには個人差があり、長期服用しても離脱症状を経験せずに断薬できる人もいれば、服用し始めてからすぐに副作用を感知する人もいる。そのため、医師にも診断が非常に難しいのが現実である。ここに紹介するのは、KPTM一個人の体験であり、症状や服用歴が同じでも、必ずしも同じ副作用や離脱症状が引き起こされるわけではないことはあらかじめ強調しておきたい。また、これからこの連載でも掘り下げていくが、実際に不調の原因がBZDの副作用や離脱症状だったという判断に至っても、急な断薬や減薬は極めて危険なので、服用中の方はくれぐれも自己判断で行わないようくれぐれもお願いしたい。これは、KPTMが最も伝えたいメッセージの一つでもある。

PTSDとBZD

 BZD服用のきっかけは様々だ。レクリエーション、いわば遊びで気持ち良くなるために飲んでみる人もいれば、この薬なしでは日常生活に支障をきたすという人もいる。KPTMの場合は、海外で「怖い思い」をしたことが引き金となった。どのようなことがあったのかについては、彼女も語りたがらないので聞いていない。ここでは、めまいから始まり、後に「そのことを思い出すとパニック発作のような、胸が締め付けられて血の気が引いていくような」PTSD(心的外傷後ストレス障害)症状を緩和するために飲み始めた、という事実を踏まえるだけで十分だろう。KPTMがこのことを神経内科医に相談したところ、「セパゾン」というBZD系の薬が処方された。

 BZDを服用すると、その症状は抑えられた。それ以外はそれまで通りの生活・活動が続けられた。「私はもともと薬が嫌いなので、お医者さんに『飲みたくない』というと、『これは軽いやつだから、一生飲んでも大丈夫。いつ飲んでもいいし、頓服で使えるよ』って言ってました。『調子悪くなりそうな時に飲んで』みたいな感じでしたね。父が薬剤師なので聞いてみると、『うちの病院でもよく処方される比較的軽い薬だよ』って言ってました」

 これが2005年前後のことだ。当時、少なくとも日本においては、医師も薬剤師も厚労省も、この薬について継続的に服用することの危険性を認識していなかった。「軽い」薬だという説明を受けて、KPTMは1日1錠、これを服用するようになった。そうすることで、PTSD症状を起こす心配をしなくて良くなり、しばらくはまたスムーズに日常生活を送ることができるようになっていた。はじめから「依存したくない」という気持ちが強かったので、あらかじめ1日1錠以上は飲まないと決めていた。

『私に起きたこと①』

  • 1. 元々の私は、ストレスから心身を守ってくれるGABAのおかげで、どんな困難があってもたくましく元気に生きていた
  • 2. あるとき、あまりにも大きすぎるストレスを受けつづけ、私のGABAは働く能力を失ってしまった
  • 3. 長期のストレスでめまいや貧血を起こすようになり
  • 4. 病院に行って相談してみた。薬が嫌いだった私は「副作用が強く依存性のある薬は嫌だ」と医者に伝えると
  • 5. “セパゾン”というベンゾジアゼピン系の薬を処方された。医者が「とても軽くて安心安全なクスリだ」と強調していたのを信じ、中の自分(GABA)は嫌がっているのに、生きるために飲むことにした

何かがおかしい

 しかし、次第に何かがおかしいと感じるようになる。「自分もそうだったんですけど、多分みんな、この薬を飲んでいることをなるべく気にしないようにしているところがあると思います。飲んでいることが、なんとなく良くない気はずっとしているんですよ。ごまかしている感じがずっとある。良くないだろうなと思いながら、止められない。なんか体の調子がおかしいなあと思いながら、それを意識するとよけいに悪化するような気がして、なるべく考えないように、考えないようにしていましたね。多分、この薬を飲んでいる人の多くはそんな感じだと思います。『なんかヘンだな』と思いながら、それがこの薬のせいだという因果関係までは考えないようにして生活していた。(KPTMが牽引した女性アーティスト集団)WAG.のメンバーで、最も親しい友人の一人である○(マル)ちゃんにも言われました『KPTMちゃん、ずっと昔にもこの薬がおかしい気がするんだって言ってたよ』って。だから、やっぱりずっと感じてはいたんですよね」

 薬の作用により、その頃の記憶は混乱している。「離脱症状が出始めた頃の記憶はぐちゃぐちゃです。あまり思い出せません」そして心身の不調はさらに悪化していった。「薬剤師の父も、精神薬系のものは何がどういう症状に効くという情報としては把握していても、なぜその効果がもたらされるのか、『頭がぐちゃぐちゃになる』と訴えてくる患者さんを、どう理解していいのか分からなかった、と言っています。分からないから、やや避けてきたところがあるとも。お医者さんも同じだったのかもしれないと思います」

 「離脱症状」と言うと、薬を減らしたり、止めたりした瞬間から始まるのかと思っていたが、そうとは限らない。「私の場合は『常用量離脱』になったんですよね。つまり、それまで飲み続けてきた量では足りなくなる状態です。同じ量を飲んでいても効き目が十分ではなくなり、不調になり、普通は病院に行って処方量を増やしてもらうことになります。少し増やすことで、前と同じような落ち着いた状態に戻ることができるけれど、結局そうやって量は増え続けていくことになるわけです。でも、私の場合は基本的に飲みたくなかったので、1日1錠以上は増やさなかった。『これ以上はイヤだ』という気持ちが強かった。だから足りなくて不調になっていきました。それが薬が足りないせいだと認識していなかったので、もし認識して薬を増やしていれば、もっと状態は楽になったとも言えます。でも増やさなかったので、それによって引き起こされた不調を何年も我慢していた。少し出かけたりすると尋常じゃない疲労感に襲われて、家に帰ると何もできない。それがもう限界になって、動けなくなったのが2014年頃です」

 その状態で広島に帰ってきた。そのころは、自力では体温調整ができなくなっていて、33℃台になったかと思えば、40℃台がずっと続いたりしたという。常用量を増やすことを拒んだせいで離脱症状に苦しむことになったわけだが、では、その頃に医者に言われるがままに常用量を増やしていたとしたら、今頃はどうなっていたのだろうか。思いを巡らせずにはいられない。

 「増やし続けて飲み続けると、ゾンビみたいになってしまう場合がありますね。両親の近くにもそういう人がいて。ずっとボーッとしていて、『心ここに在らず』という状態が長い。意思がなくなって、感情もあまりなくなっていく。時間の経過とか空間の把握もよくわからなくなっていくんですよね。遠近感もぐちゃぐちゃになります。痛いとか辛いとかいう感覚は抑えられるけれど、そのぶん他のすべての感覚も鈍っていってしまうようです。少しオカルトっぽくもあるんですが、ここではない、異次元に入っていってしまうような奇妙な感覚に陥ったりして。自分だけがおかしくなったような感覚で、生きることが苦痛になってしまう。それがなぜ、どのようにしてそうなるなのかはまだ解明されていないようですが、少しでも、この世界にこういうことが起こっている、こういうことを経験している人がいるということだけでも、伝えることは大事なのかなと」

 しかし、先に触れたように個人差がかなりあるのも事実だ。「ラッパーの知り合いの子で、『15年間眠剤を飲み続けていたけど最近止めた』って言ってた人がいて、その人はなんともないって言ってるんですよ。びっくりしました。だから、飲み続けて量を増やしても、大丈夫な人もいるみたいです。かと思えば、私のインタビューを読んだ人から、『私も15年くらいずっと眠剤を飲んでいて、一度止めてみたらリアルに2ヶ月間一睡もできなかった。だから、また飲んでいるけどいずれ止めたい』という人が連絡をくれたりも。実は、密かに悩んでいる人がたくさんいて、『誰にも相談できなかったから、インタビュー読んで救われました』という連絡はいくつかもらいました。薬を飲んでいることって、なかなか人には言えないんですよね。私もほとんど話したことなかったです。『自分の中で何が起こっているんだろう?』って、自分だけで悩んでしまう」

『私に起きたこと②』

  • 6. 1日1粒ずつ飲んでいると、弱ったGABAの代わりにストレスからベンゾジアゼピンが守ってくれて、なんとかやり過ごせるようになったが、いつの間にかないと調子が悪くなるようになり、長期的に服用することになった
  • 7. 10年後、原因不明の高熱や低体温やめまいや貧血や疲労感がしょっちゅう起きるようになり、日常生活が困難になってきた
  • 8. よく観察してみると、守ってくれるはずのベンゾジアゼピンが自分のGABAを殺していて、自分で自分を守る機能がなくなっていることに気がついた
  • 9. これはまずいと思い、自分の機能を取り戻すため、ベンゾジアゼピンを飲むのを中止してみた
  • 10. ストレスから守ってくれていたベンゾがなくなり、自分のGABAも機能せず、誰も助けてくれない状態になり、あらゆる症状がどんどん出てきた
  • 11. この世界の全てがストレスに感じられ、いてもたってもいられない狂気の魔境世界へ突入してしまった。言葉にできない異常で奇妙な体験で、人間が入ってはいけないアンタッチャブルワールドにふみ込んだような感覚だった

常用離脱症状と減薬・断薬による禁断症状

 常用離脱症状は、いろんな形で出た。頭の中が混乱し、めまいも酷く、急激な体温の上昇や下降、神経痛で体のあらゆるところが痛く、内臓もおかしい。「あらゆる病院であらゆる検査をしました。お腹も変になるからエコー検査して、脳波も検査したし、脳脊髄液減少症じゃないかとか... でも検査結果には大した問題がなくて。なんでそんなに調子が悪いのか分からなかった。だから色んな健康に関する情報をチェックするようになって、例えば白砂糖が悪いんじゃないか、って白砂糖を抜いてみたり、色んなものを排除してみることも試したけど、全然良くなってこない。だから調べ続けていたら……出てきたんですよね、ネットで。『BZDの離脱症状』というものを知って、その症状の記述を見たらことごとく一致していた。『これだ』と確信しました」

 不調の原因が見つからぬまま苦しみ続け、消去法で最後に残ったのがBZDだったというわけだ。BZDを飲み続けることが良くないようだということは、ずっと薄々気づいていた。「確信は、多分ずっとあったんだと思います。でも疑いもあったというか」しかし、長かったのはそれを確信してからの道のりだった。この薬を「飲み続けることを止める」とどうなるのか、KPTMが思い知らされる出来事が起こる。

 「広島に弱って帰ってきたあとに、一度東京でWAG.のパーティーを企画したことがあって、ゲストにDJ YASさんが出てくれることになったんです。それで、せっかくのパーティーだし、クリーンな状態で楽しもうと思って、東京に行く7日前くらいに薬を抜いてみたんですよ。で、なんかどんどん体調が悪くなっているのを感じながらも東京へ行き、パーティー中に久しぶりに色んな人に会って、ワーッって楽しくやってるんだけど、だんだん誰が誰だか分からないような変な気分になってきて。どんどん『何かおかしい、ヤバイ!!』って、すごい危険を感じたんですよね。とにかくすごく怖くなって、イベントの途中でその日泊まらせてもらっていた友達の家にタクシーで一人で帰りました。お風呂に入って、BZDを飲んでから寝た。そしたら、次の日はまるで何もなかったみたいにケロッとしてたんですよ。逆に楽しいくらいの気分になっていた。その体験が強烈で。その時に初めて、アンタッチャブルな世界を体験してしまったと思ったんですよね。それが禁断症状というものだった」

 しかし、自分自身でそれを確信しても、それを医者を含む周囲の人に説明し、理解してもらうことが次なるハードルだった。「広島に帰ってきて病院に行って、『この薬を抜くと体が痙攣したり変になるから、この薬の方に問題があると思う』って言ったんですよ。経過報告として。そのころにはBZDの減・断薬に関する本とかも出始めていたので、その本を持っていってお医者さんに見せたりして。そしたら、後になって親に聞いたら、『あの子は総合失調症の気があって、妄想を言っている』ってその先生が言ったらしくて(笑)。それには『オイ!』と思いましたよね。でもそういう診断をされている人もいるかもしれない。本当のことを言っているのに、虚言だと思われてしまう。両親が薬のせいだと相談に行ったのに『時間の無駄だ』と言った医者もいました。この薬の問題点を訴えている人はかなりいるのかもしれないけど、『気が狂ってる』で処理されてきている人が潜在的にかなりいるかもしれないんですよね。でも、本当に妄想を言う人も診療に来るわけだから、お医者さんも難しいだろうなという気もしますが……」

『私に起きたこと③』

  • 12. これはとんでもなくヤバいことが自分に起きてると感じ、ベンゾジアゼピンを飲んで一晩寝ると症状は落ち着いた
  • 13. ベンゾジアゼピンがないと生きられない状態になっていることに愕然とし、自分がどこにもいなくなったように感じた
  • 14. 少し減薬しただけでも離脱症状が起きるため、水溶液タイトレーションという方法で少しずつベンゾジアゼピンを抜きながら自分を取り戻す決意をし、まずは1g(100%)から0.1g(90%)を抜いてみた
  • 15. 10%抜いた分の離脱症状にしばらくの期間耐え、自分の生命力を取り戻し、ある程度楽になるまで地獄の苦しみを我慢
  • 16. 少し離脱症状が落ち着いてから次の減薬に入る。前回と同じ0.1g(10%)ではキツすぎたから0.05g(5%)抜いてみた
  • 17. それでも地獄の苦しみを味わいつづけ、毎日限界で耐えられなかったが、なんとか根性で乗り越えた

精神科医療と精神薬処方

 KPTMは、そもそものメンタル・ヘルスの問題の診断や、薬の処方にまつわる難しさも指摘する。「メンタルのことってお医者さんも患者の言葉を通してしか症状が把握できないので、どの症状をこちらが言うかによって病名や処方される薬が変わってくる場合がある。患者本人が認識していない部分は分かりようがないので、処方の精度というのはその程度なんじゃないかと思うんですよね。私もいろんなお医者さんに診てもらいましたけど、結局、聞かれた質問に答えるから、違うことを聞かれたら他の医者に言ったことと違う答えになるじゃないですか。それで診断が決まっちゃうから『テキトー!!』って思いましたよね。何を引き出す先生かによって、処方される薬も変わる場合がある。『こういう症状の人にはこういう薬』っていうのがあらかじめ決まっているんだと思うから、ある程度目星をつけて、そのパターンに沿うように誘導尋問していくみたいなところもあるのではないか、と。多くの医者の診断って、前例のみに頼っていると思うんですよ。いまここにいる目の前の患者の症状ではなくて、過去を向いているんですよね。そういう意味では、患者だけが最先端を知っている」

 原疾患の診断ですらも難しさが伴うのだから、処方薬の効果や副作用を測ることはさらに輪をかけて難しくなる。薬からの離脱症状は原疾患を増幅させるので、薬を増やすことに繋がりがちになり、そのせいで薬が不調の原因になっている場合でもそれに気づきにくい。「BZDは原疾患を『ないこと』にしてしまう薬だと感じます。ないことにすると、やっぱり怒るんですよ、体が。人間って無視されたら傷つくのと同じで、人間の体の中もそうだと思います。自分の中からの叫びをないことにすると、めちゃめちゃ傷つくし怒るんですよ。(体からの)メッセージですから」

『私に起きたこと④』

  • 18. 抜けば抜くほど耐性がつくのに時間がかかり、少しの減薬でも耐えられないレベルの離脱症状が出るため、0.01g(1%)の極少量ずつ抜く方法にした
  • 19. 2年半の間、減薬しては離脱症状を耐え、また減薬しては離脱症状に耐えるという、先の見えない苦行を繰りかえし、残り50%にまで減らしたが離脱症状がひどくなるばかりで、これ以上減らすことができず身動きがとれずどうしていいかわからなくなった
  • 20. どん詰まりのある時、衝撃的な覚醒体験をして、狂気の世界に突入した
  • 21. 狂っていた私は無敵モードになり、これまで少しずつの減薬を頑張っていたのに、一気に30%も抜いてしまった
  • 22. 当然のごとくものすごい離脱症状が私を襲った。この世界の全てが恐怖に感じ、どんどん魔境へおちいり、異常な神経の痛みで何もかも全てが耐えられない極限状態になった
  • 23. 自我が崩壊し、3次元を認識できなくなり、目もろくに見えず、言葉を失い、痛み以外の全ての感覚がなくなってしまった。身体の中は火傷が剥き出しているような強烈な炎症状態で、家族とも誰とも地球の全てとコミュニケーションをとることができなくなり、まるで冥王星へぶっ飛ばされたような異常世界を1年間彷徨いつづけた

薬物中毒と薬物依存の違い

 薬物中毒と薬物依存の違い薬物依存に関しては、あまり縁のない人にとっては中毒との違いすら分かりにくいかもしれない。中毒となって止められない状態と、依存によって止められない状態は何が違うのだろうか。「普通の薬物中毒の場合は、成分が体から抜けて、いわゆるデトックスができたら終われると思うんですよ。シャブにしても、時間はかかるかもしれないけど、体の中から成分が抜けて、2度と同じものに手を出さなければ離脱症状から解放されるはず。でも、BZDの場合は神経そのものを傷つけてしまってそれが障害を起こすから、早く抜こうとするとよけい大変なことになってしまう。傷が治らないことには、薬だけ抜いても治らないので、傷を治しながら徐々に抜いていかないといけないんです。だから、意思とか気合いの問題ではないんです。我慢できないから飲むというのは精神的薬物依存ですが、飲まないと体がおかしくなってしまう、機能しなくなってしまう状態、要するに離脱症状が出るのが身体的薬物依存です。『(意思が)弱いから薬を飲んでしまう』という精神的依存ではない」と強調する。

周囲に理解者がいることの重要性

 「自分でネットでいろいろ調べて、最初に『アシュトン・マニュアル』(イギリスの精神薬理学者であるヘザー・アシュトン氏がBZDの作用や離脱症状、及びその治療メソッドをまとめた、1999年に発表されたマニュアル)を見つけた時に、『これは誰にも信じてもらえないんじゃないか』って思いましたね。私も基本的にはネットの情報はあまり信用しないようにしているんで、私自身も半信半疑で見ていたら、見事に自分の症状とビンゴで全て当てはまってしまって。でも、やっぱりネットって色んな人が色んな主張をしているから、『薬のせいにして逃げている』みたいな考えもけっこうあるし、これは絶対に親に分かってもらえないからどうしようか、と思いましたね。私は自分で調べた資料をまとめて、親にメモをいっぱい書くなどして伝えたんです。ベンゾの離脱症状だということに理解を示してくれた両親が、『協力するから微量減薬をがんばろう』って言ってくれて、それが一つの大きな安心になりましたよね。そこで分かってもらえなかったら、ずっと大変だったと思います」

 次のステップは、実際に断薬をするために薬を減らしていくことだったが、これが途方もないプロセスだった。意志が弱いから薬を飲んでいたわけではないのと同様に、身体的な薬への依存には、どんなに強い意志を持っていても逆らえない。「急に減らしたり抜いたりすると大変なことになるので、薬を水に溶かして、その水の量を1%ずつ減らして抜いていくという方法を父がネットで発見してくれました。『ワイパックス』の断薬に成功した方の個人ブログがあって、それを参考にしました。そのブログを参考にしている人は多いと思います。その方は、BZD問題を啓蒙する活動をされています。『アシュトン・マニュアル』には、離脱症状の原理みたいな部分は説明されて自分に何が起きているかについては理解できるんですが、具体的にどう抜いていくかという説明は不十分というか、人によってかなり差があるので」

 とにかく、離脱症状を訴えてもお医者さんには信じてもらえず、回復するために参考になるものは『アシュトン・マニュアル』しかなかったという。「両親は、2018年にできた『全国ベンゾジアゼピン薬害連絡協議会』という組織のメーリングリストには入っていたみたいです。私は自分自身にも疑いを持っていたというか、本当は違う理由なのに、『薬のせいにして逃げていないか、自分?』ていう自問自答を繰り返していました。だから、特に外部の組織などに相談を持ちかけることはなく、まず抜いてみてどうなるかを自分で実験してみよう、というところから始めました。減薬を始めた最初の半年くらいは、XX月XX日、これだけ抜いたらXX時にすごい耳鳴りがきた、みたいな記録をノートにびっしり書いたりしていたんですけど、嫌な症状ばかりだから、自分で自分にその記憶を植え付けているような気がしてきて、『これ良くないかも』と思って止めました。でも、記録して研究することで、自分でも私に起きてる体調不良は薬のせいだ、っていう確信を得たかったところもありますね。医者が頼れなかったから、自分で実験してみるしかなくて。バカなものも含め、色んな実験を自分でしてみた。もうトライしてみるしかなくて。『この状況を逆利用してやるわ!』って腹をくくったんです」

こうして、KPTMとBZDの長く壮絶な戦いと、そのための様々な実験が始まった。

『私に起きたこと⑤』

  • 24. あり得ない状態を根性で我慢し、耐え続けて1年後、言葉が少しずつ戻り、それと同時にこの世界を認識できるようになり、人としての自分が戻りはじめてきた。気がついたら身体の中には、激痛を走らせる巨大ムカデが生まれていた。
  • 25. ある日鍼灸師のP先生と出会い、田舎にあるP先生の鍼灸院へ住ませてもらうことになった。自分の意志も感情もわからなくなり、焦燥感と痛みでギリギリの状態の中、身体が勝手に動くことにただ従う日々を送った。
    畑仕事をしたり料理や家事をしたり、自分が何をしているのかわからない狂った状態のまま時間がすぎた
  • 26. 6ヶ月後、ギリギリ状態でもこの時点でまだ残り20%のベンゾジアゼピンを飲みつづけていることに絶望を感じ、強烈な離脱症状の地獄はわかっていたが、薬を抜かないことには自分が戻らないと思って、ある日勇気を持って思い切って完全断薬を決行した
  • 27. やはり地獄の離脱症状はとてつもなかったが、魔境の中で死に引っ張られ続け、強烈な痛みに唸りながらも自分の生命力を信じてなんとか生き続けた
  • 28. 離脱症状に耐え続け、1年後くらいから少しずつ家族のこと、友だちのこと、音楽や自然を感じられるようになってきた。自分がKLEPTOMANIACで絵と音楽をやる人だという本来の自分を思い出してきた
  • 29. 現在、まだまだ続く激しい離脱症状に耐えつづけ、自分の中のベンゾに破壊されたGABA(生命力)を再生しながら、ムカデと共に共存して生き抜くことを決意し、毎日を乗り越えている。歩くのも動くのも困難で、痙攣がたびたび起きる状態の中生き続けていられるのは、長い間応援して協力してくれて助けてくれる家族や友だちの存在のおかげ。遠くで応援してくれるみんなのおかげ。
    本当にありがとう!

■国産エクスペリメンタリズムの臨界 EL NINO がasiaに帰還!KLEPTOMANIACも出演を果たします!
https://clubasia.jp/events/4383

Milford Graves With Arthur Doyle & Hugh Glover - ele-king

  森は、不可知の風景であり、深い知識が集積した生態系の謎が散乱しているが、その謎は生態系そのもののみが知り得る。森は、森自体が脈動する惑星で、自らを養い、存在し、再生していくことができる。一方、人間は年齢に関係なく怖がりの赤ん坊であり、真の自由に戸惑い、未知なるものへの不安に尻込みしてしまう。ミルフォード・グレイヴスによるこの黄金の宝に、なぜ「森の子どもたち」というタイトルがつけられたのかを想像してみると、ライナーノーツに書かれているように、グレイヴス自身が所有していた音源のテープは“Pygmy”(ピグミー)とラベリングされ、アルバムの内容とは関係のないオーディオ・ドキュメンタリーが収録されていたが、それは歴史と不安から自由になり、森に放たれた勇敢な子どもたちのみが本当の自由を体験し、知ることができるという意味なのかもしれない。それは形式を捨て去り、厳格な伝統を回避し、未知なる空間へと飛び込むフリー・ジャズ・プレイヤーたちが到達したいと望む種類の自由なのだ。子どもは真のユートピアを提示する隠喩なのである。

 ミルフォード・グレイヴスはレジェンド中のレジェンドだ。そして、地球上でもっとも重要な、忘れられたジャズの伝説である。教授という肩書のほか、心臓の類まれな研究者であり、武道家でもあった。ミルフォードの存在なしに、伝統的なブラック・ミュージックのドラム・スタイルと前衛音楽の間にある橋を乗り越えて理解することはできなかっただろう。ミルフォードなしでは、ドラミングが持つ、心臓の異常に対するヒーリング効果についての有効な研究や関心はほとんどなかったのではないか。ミルフォードなしには、アメリカのライトニング・ボルトや、日本、アメリカ、そしてヨーロッパの、そのほかのノイズ・ジャズ・バンドの存在もなかったかもしれない。ドラムスでの総攻撃をすることが可能で、最初は野蛮なパンクのように聴こえるかもしれないが、ミルフォードの演奏は、黒人の歴史、大陸、そして無数のディアスポラ文化が完全に繋がったものなのだ。今日もなお、彼がドラムをたたくか、カオスのようなヴァースを歌ったとしても、東京からラゴス、ロンドン、ニューヨークまでのクラブにいるあらゆる年齢層の人たちの共感を得られるだろう。世界共通言語のクリエイターであるミルフォードは、はじめこそ静かに活動を開始したが、1964年にニューヨーク・アート・カルテットで、アミリ・バラカと悪名高い『Black Dada Nihilismus』を録音し、歴史に名を刻むような評判を確立した。それ以降、彼はジョン・コルトレーンの葬儀やサン・ラーのレコーディングでジャムをし、セシル・テイラー、ソニー・シャロック、ルー・リード、日本のジャズ・レジェンドの阿部薫、アルバート・アイラ―など、“ジャズの神様”のサークルで演奏するようになり、その後自身のグループで、ミルフォードは『Babi』 や『Nommo』、『Meditation Among Us』などいくつかの正真正銘のジャズの名盤を録音した。日本のオーディエンスなら、偉大なる舞踏家、田中泯とのコラボレーションによる日本ツアーで自閉症の人のための学校や子どもと地元のお年寄りのためのコンサートなどでの演奏を覚えているだろう(YouTubeをチェック!!!)。ミルフォードの美学は、ジャズのみならずほかのジャンルのミュージシャンと比べてもじつに革命的だった。日本の地方の町の神社の舞台で、フリー・ジャズのレコードを買うことなど絶対に想像もできないような地元の高齢者に囲まれて演奏したばかりでなく、聴衆を巻き込んで一緒に演奏し、対話への参加を促したのだ。このようなことができるのは、ごく限られたミュージシャンだけである。

 私がミルフォードを発見したのは90年代。世界でフリー・ジャズが復活した頃で、とくに活動の中心地ニューヨーク・シティでは、伝説的なニッティング・クラブや多数の地元のフェスでも受け入れられ、知られていた。NYCで一番ホットなアーティストのジョン・ゾーンがダウンタウンでフェスをキュレートしたのだが、そのヘッドライナーのひとりで、黒人たちのヒーローである詩人のアミリ・バラカが30年以上ぶりにニューヨーク・アート・カルテットと再会し、舞台に上がることが発表された。これは過剰な宣伝が展開されたギグのひとつだった。『Black Dada Nihilismus』 を読んだ時の記憶が蘇り、逃してはならない公演となった。コンサート自体は猛烈に激しかったが、詩が轟くその先に佇むミルフォード・グレイヴスが注目をさらい、歴史的な結果をもたらした。こうして、私は初めてミルフォードを知った。私の父親と同じ姓を持つ男のことを。

 興味をそそられた私は、数か月後に興奮してミルフォードとゾーンのデュオを観に出かけた。この時期は、ミルフォードの音楽と哲学にとっての再生の時でもあった。80年代と90年代の多くの時期にも忘れられた存在だったが、激しいパフォーマンスと真新しいレコーディングでその名声を取り戻し、「彼はまだやれるのか?」という人々の疑問とのギャップを埋めてみせたのだった。

 ステージ上でのミルフォードは、プログレッシヴなビートのなかに多文化を宿し、やがてその無数のテンポがひとつに融合する。彼の百科事典のようなブラック・ミュージックの歴史、アフロ・キューバン・リズムとネイティヴ・アフリカン・ミュージックについての知識は、彼を神秘主義者のようにみせた。彼は決して単一文化を信仰、実践することはなかった。「彼はまだそんなことできるのか? まだあれを保ち続けているのか?」白髪頭で60歳を過ぎたミルフォードは、ステージ上でたくさんの魔法を呼び覚まし、30分以上、ノンストップのライヴ・セットの終わりに、何度もゾーンを肩車したのだ。その間も、ゾーンはメロディックな叫びを爆発させ続けた。この数年間がミルフォードの最後の美しい旅となった。目撃することができ、それについて彼と話しができたことは私にとって僥倖だった。

 だからこそ、この新しい録音がいかに貴重なものであるかということを否定するべきではない。私が観たのは、長年かけて収穫され、集積した知識の頂点であった一方、『Children of the Forest』は、彼の成熟期のはじめの頃を聴いているかのようだ。

 これらの録音は、猛烈だ。1976年に数か月にわたって行われた個別のセッションが収録されているが、それを受けとめるのには骨が折れる。とくに2023年に生きる私たちの、インスタグラムの5秒間に慣らされたマインドにとっては。悲しくなるほど、注意力が低下しているからだ。したがって、これらのセットの魔法は、歴史的かつ文化的であるというばかりでなく、高次元の力が私たちを内面の傷から救うべく提供してくれる、本物のソノリティ(響き)に耐えるレッスンでもあるのだ。

 ミルフォードは、ニューヨーク・シティという地球上で唯一の、磁石のようなエネルギーを自然に育む場所で、このように輝けるサウンドを提供できる演奏者たちを選んだ。アーサー・ドイルとヒュー・グローヴァーは、新しい音楽の文化と信念が浸透した、最盛期を迎えた男たちだった。絶え間なく疾走するミルフォードが、瞬時にジャンル間を行き来するのに追随し、補完することまで出来た彼らはミルフォードのもっとも有名な代表作のひとつ、『Babi』の録音にも参加した。そのため、この魔法の証拠にさらなるアクセスができるのは……とても刺激的なことだ。彼らのインタープレイの美を解するには、複数回の傾聴と、深い分析と審美眼が問われる。なにせ未来は、フリー・ジャズにとって何年も優しくなることはないからだ。

 ニューヨーク・ジャズ・シーン最盛期の1976年、レーガノミクス、クラック世代、エイズ世代、ヒップホップやヘヴィメタルの誕生など、80年代に突入する4年前に録音された『Children of the Forest』 は、ファイヤー・ジャズ/フリー・ジャズという芸術形式が一般社会での重要性を失いかけた時期を記録したともいえる。フリー・ジャズは60年代から70年代にかけても、常に広い尊敬を集めていたわけではないが、80年代には変化する文化力学により、大きく影を潜めることとなった。消滅こそしなかったものの、ジャズは大きく停滞した。この停滞期のはじめ頃、ミルフォード自身も姿を消した。学者としての活動と、家庭生活の中に行方をくらましたのだった。ドラム・キットを抱えてのツアーという厳しい道程は、ほぼ脇に追いやられた。ミルフォードは、90年代後半にゾーンと出会うまで、ほとんど何も録音することはなかった。入手可能なミルフォードの音源は、両手で数えられるほどだった。この状況をサン・ラーやセシル・テイラーと比べてみると、歴史的な重要性の高さを認識できる。私が最後にミルフォードを訪ねたのは、ジャマイカ郊外とニューヨークのクイーンズの、彼が自らの手で装飾した自宅で、私は録音の少なさを彼に訴えた。すると、彼は、地下室のコンパクトな書斎の片側に、リリースされたばかりのニューヨーク・アート・カルテットのボックス・セットとその他のものが山積みになっている所を指さし、希望を捨てるなと言った。まだほかに控えているものがある、と。幸いなことに、『Children of the Forest』で、私たちには彼の演奏芸術とビートセントリック(ビート中心主義)の世界観への新たな窓が残されている。


Kinnara : Desi La

The forest is an unknowable landscape deep in knowledge and littered with mysteries of ecosystems only the ecosystems themselves understand. The forest to itself is a pulsating planet that feeds itself and knows how to exist and regenerate. Humans on the other hand no matter their age are scared babies hesitant toward real freedom always held back by trepidation of the unknown. If I were to imagine why this golden treasure by Milford Graves were named “Children of the Forest,” besides the linear notes stating the original tape from Graves himself was labeled Pygmy and included unrelated documentary audio of said subject, it might be to say that courageous children released into the forest, free from history and apprehension, only can experience and know true freedom. The type of freedom that free jazz players who discard formality, avoid strict tradition, and dive into unknown spaces are eager to achieve. The child state a metaphor of real utopia.
Milford Graves is a legend above legends. And also one of the most important forgotten jazz legends on Earth. Besides being a professor, heart irregularity researcher and a martial artist. Without Milford, there would be no understanding of the bridges between traditional Black music drum styles and avant garde music. Without Milford, there would be little valid research or interest in the healing properties of drumming toward heart

irregularities. Without Milford, there would be no bands like Lightning Bolt (US) and other noise jazz bands in Japan, the US, and Europe. Capable of creating an all out of assault on drums that might mirror savage punk at first listen, Milford`s playing is a complete connection of Black history, continents and numerous diaspora cultures. Even today were he to drum or sing chaotic verses, it would be relatable to all ages in clubs from Tokyo to Lagos to London to New York. A creator of a universal language, Milford started off quieter but no less historic establishing his reputation with the New York Art Quartet in 1964 recording the infamous cut “Black Dada Nihilismus” with Amiri Baraka. From then on he was always in the “jazz god” circles playing at John Coltrane`s funeral, jamming and recording with Sun Ra, Cecil Taylor, Sonny Sharrock, Lou Reed, Japanese free jazz legend Abe Kaoru, Albert Ayler and then his own groups. Milford recorded several bonafide jazz classics like “Babi”, “Nommo,” and “Meditation Among Us.” Japanese audiences should remember well his collaborations with Japanese dance / acting legend Min Tanaka and their amazing tours around Japan at a school for autism, rural concerts to both kids and elderly locals, and concert stages. (check YOUTUBE!!!!). Milford`s aesthetic was more revolutionary than most musicians jazz or not. In the middle of a rural Japanese town, on a Shinto stage surrounded by elderly locals who would never know to buy a free jazz record, he not only played to the audience but played with them, encouraging them to join in the

dialogue. Few musicians have the language or confidence to do this.
When I discovered Milford, it was the 90`s. Free jazz resurging around the world and especially in its epicenter NYC, was appreciated and celebrated in the many clubs like the legendary Knitting Factory and numerous local festivals. John Zorn was one of the hottest artists in NYC and curated a seaside festival downtown. One of the headliners, Amiri Baraka. A hero poet to all Black people, the announcement that he would take the stage in a 30 year + reunion with the New York Art Quartet was one of the strongest hype gigs going round. Memories of reading “Black Dada Nihilismus” made the date impossible to miss. The concert itself was absolutely blistering but standing out beyond the bellows of poetry was the drummer. Milford Graves took the stage and the results were historic. And so I came to know of Milford for the first time. A man who had the same last name as my father.
Intrigued I excitedly ran to see Milford play in a duo with Zorn months later. This period would become a renaissance for Milford`s music and philosophy. Nearly forgotten in the 80`s and much of the 90`s too, he reclaimed his fame with blistering performances and brand new recordings that filled the gap of “could he still do that?”

On stage, Milford inhabited multi-cultures within a progressive beat that merged numerous tempos in one. His encyclopedic knowledge of black music history, afro- cuban rhythms and native African music as well made him almost a mystic. He was never monocultural in belief or practice. “Could he still do that? Does he still have it?” Milford, gray haired and past his 60`s conjured so much magic on stage and more than once lifted Zorn on his shoulders right at the end of the 30 minute nonstop live set while Zorn would continue blasting his melodic screams. These years would be Milford`s final beautiful journey. One I was blessed to witness and talk to him about.
So it should not be dismissed at how valuable this new recording is. While what I saw was the culmination of years of harvested knowledge, CHILDREN OF THE FOREST, on the other hand is like listening to him at the beginning of his maturity.
The recordings are brutal. Several separate sessions over months in 1976 but still it is a lot to take it. More so now in 2023 because of our 5 sec instagram minds. Our attention spans have incredibly deteriorated. Sadly. Hence the magic of these sets are not only historical or cultural but lessons in patience for the moments that higher powers provide us genuine sonorities to rescue us from our internal injuries.

Milford chose players who could provide these glorious sounds in New York City, the one place on Earth that naturally nurtured this type of magnetic energy. Arthur Doyle and Hugh Glover were men in their prime seeping in the culture and belief of the new music. Able to follow and compliment Milford`s continuous gallop between split second genres. These men would follow Milford in recording one of his most famous works, Babi. So having access to more evidence to the magic is .......so exhilarating.The beauty of their interplay demands multiple listenings and deep analysis and appreciation. Especially because the future would not be kind to free jazz for many years.
Recorded in 1976, at the height of the New York City jazz scene, 4 years before entering the 80`s, Reagonomics, the crack generation, the AIDS generation, the birth of hip hop and heavy metal, CHILDREN OF THE FOREST is a recording of the art form of fire jazz / free jazz at the end of its significance in general society. Free jazz was not always wildly respected in the 60`s or 70`s but in the 80`s it would largely be overshadowed by a shifting cultural dynamic. Jazz didn’t disappear but it did grow largely stagnant. At the beginning of this stagnancy, Milford himself disappeared. Disappeared into scholastic life and family life. The rough road of touring with a drum kit largely cast aside. Milford recorded almost nothing again til meeting with Zorn in the late 90`s. I think I can count the

number of available Milford recordings on 2 hands. Compare this situation to Sun Ra or Cecil Taylor and the gravity of historical importance is huge. When I last visited Milford at his self-styled home in a normal suburb in Jamaica, Queens, New York City, I complained about the lack of recordings available. He pointed to his just released New York Art Quartet box set and a pile of things accumulated in the other end of his compact study basement suggesting don’t give up hope. More is on the way. Luckily with CHILDREN OF THE FOREST we are left another window into the art of his playing and his beatcentric world view.

Gap Mangione - ele-king

不屈のペーター・ブロッツマン - ele-king

 何年もの間、ペーター・ブロッツマンの来日は、四季の巡りのように規則的で、晩秋の台風が通り過ぎていくかのように感じられたものだった。彼には、どこか自然で率直なところがあり、それは嵐のように吹き荒れる叫びが、やがては柔和でブルージーな愛撫へと代わるような彼が創りだすサウンドのみならず、その存在自体についていえることだった。セイウチのような口髭、シガーをたしなむその印象的な風貌は人目を引き、無意味なことを許さない生真面目なオーラを纏っていた。ブロッツマンは、侮辱などは一切甘受しなかった。

 6月22日に82歳で死去したドイツのサクソフォン及び木管楽器奏者は、そのキャリアの多くの時間を、無関心とあからさまに辛辣な批評との闘いに費やした。若い頃には、ヨーロッパのジャズ界の伝統的なハーモニーと形式の概念を攻撃して憤慨させ、同時代のアメリカのアルバート・アイラ―やファラオ・サンダーズたちよりも先の未知の世界へと自らの音楽を押し進めた。ドン・チェリーが命名した「マシン・ガン」というニックネームは、1968年に発表したブロッツマンの2枚目のアルバムのタイトルとなり、フリー・ジャズの発展を象徴する記念碑的な作品となった。

 最初は自身の〈BRÖ〉レーベルから300枚限定で発売されたこのアルバムは、ヴェトナム戦争やヨーロッパを揺さぶった大規模な抗議活動など、当時の爆発的な雰囲気の世相を反映していた。アルバムではベルギーのピアニスト、フレッド・ヴァン・ホーフ、オランダのドラマー、ハン・ベニンクやイギリスのサクソフォン奏者エヴァン・パーカーを含む、世界のミュージシャンたちがキャスティングされていたが、『マシン・ガン』は明確にドイツという国の、ナチスについての恥とトラウマという過去を標的にしていたようだ。

 「おそらく、それが、このような音楽のドイツとそのほかのヨーロッパの演奏の響きに違いをもたらしているのかもしれない」とブロッツマンは、亡くなる数週間前の6月初旬にディー・ツァイト紙のインタヴューで語っている。「ドイツの方が常に叫びに近くて、より残忍で攻撃的だ」

 その叫びは、今後何十年にもわたり響き続けるだろう。その一方、彼のフリー・ジャズの同僚たちは、若くして死んだか、年齢とともに円くなっていったのに対し、ブロッツマンは以前と変わらぬ白熱した強度での演奏を続けた。それが彼の健康に相当な負担となり、最後の数十年には、生涯にわたって強く吹き続けたことで、呼吸器に問題を抱えるようになった。2012年のザ・ワイヤー誌のインタヴューでは「4人のテナー・サックス奏者のように響かせたかった……。『マシン・ガン』で目指したことを、いまだに追いかけている」と語っていた。

 そのサウンドは、直感的な反応を引き起こすようなものだった。2010年10月に、ロンドンのOtoカフェで彼のグループ、フル・ブラストを聴きに、彼についての予備知識のない友人を連れていった際、演奏開始の瞬間に彼女が物理的に後ずさりをした光景を思いだす。

 しかし、ブロッツマンの喧嘩っ早い大男という風評は、彼の物語のほんの一部に過ぎない。独学で音楽を始め、最初はディキシーランドやスウィングを演奏し、コールマン・ホーキンスやシドニー・ベシェなどのサクソフォンのパイオニアたちへの敬愛を抱き続けた。それらの影響は、『マシン・ガン』でも聴くことができる。ジャン=バティスト・イリノイ・ジャケーのホンキーなテナーや、初期のルイ・アームストロングの熱いジャズなどもそうだ。その凶暴性とともに、ブロッツマンは抒情的でもあり、スウィングもしていたのだった。

 このことは、背景をそぎ落とした場面での方が敏感に察することができるだろう。有名な例としては、1997年にドイツの黒い森にてベニンクと野外で録音した『Schwarzwaldfahrt』があるが、これは彼の生涯のディスコグラフィの中でももっとも探究的で遊び心のあるアルバムのひとつだ。ブロッツマンのキャリアの後期にペダル・スティール・ギタリストのヘザー・リーと結成した意外性のあるデュオも、多くの美しい瞬間を生み出した。彼の訃報に接し、私が最初に手を伸ばしたのは、このデュオにふさわしいタイトルをもつ2016年のアルバム『Ears Are Filled With Wonder(耳は驚きで満たされる)』 で、彼のもっともロマンティックなところが記録されている。

 ブロッツマンは、文脈を変えながら、自身の銃(マシン・ガン)に忠実でいるという特技を持ち合わせていた。そのキャリアを通して、1970年代のヴァン・ホーフとベニンクとのトリオから2000年代のシカゴ・テンテットなど、多数のグループを率いたが、目標を達成したと感じるとすぐにそこから手を引いてしまうのが常だった。2011年にオーストリアのヴェルスでのアンリミテッド・フェスティヴァルのキュレーションを担当した際には、当時の彼の活動の範囲の広さが瞬時にわかるような展開だった。彼はシカゴ・テンテット、ヘアリー・ボーンズとフル・ブラストとともに登場するだけでなく、日本のピアニストの佐藤允彦からモロッコのグナワの巨匠、マーレム・モフタール・ガニアまで、ヴァラエティに富んだミュージシャンたちとのグループで演奏した。(このフェスのハイライトは、5枚組のコンピレーション『Long Story Short』 に収録されており、最初から最後まで聴覚が活性化されるような体験ができるだろう)。

 ブロッツマンの日本のアーティストたちとのもっとも実りの多い関係が、彼自身と匹敵するぐらい強力なパーソナリティを持つ人たちとのものであったのは、至極当然である。私が思い浮かべるのは、灰野敬二近藤等則、羽野昌二そして坂田明だ。彼はまた、若い世代のマッツ・グスタフソンやパール・ニルセン=ラヴなど、彼のことを先駆者としてお手本としたミュージシャンたちをスパーリング・パートナーに見出した。セッティングがどうであれ、中途半端は許されなかった。

 「ステージに立つというのは、友好的な仕事ではない」と2018年のレッド・ブル・ミュージック・アカデミー・レクチャーで、ブロッツマンは語った。「ステージ上は、たとえ親友と一緒だとしても、闘いの場なのだ。戦って、緊張感を保ち、挑戦し、新しい状況が必要で、それに反応しなくてはならない。それが、音楽を生きたものにするのだと思う」

The indomitable Peter Brötzmannwritten by James Hadfield

For years, Peter Brötzmann’s visits to Japan felt as regular as the seasons, like a late-autumn typhoon rolling through. There was something elemental and earthy about him. It wasn’t just the sound he made – a tempestuous roar that could give way to tender, bluesy caresses – but also his presence. He cut an imposing figure, with his walrus moustache and penchant for cigars, his no-nonsense aura. Brötzmann didn’t take any shit.

The German saxophonist and woodwind player, who died on June 22 at the age of 82, spent much of his career battling against indifference and outright vitriol. As a young man, he scandalised the European jazz establishment with his assaults on traditional notions of harmony and form, pushing even further into the unknown than US contemporaries like Albert Ayler or Pharaoh Sanders. Don Cherry gave him the nickname “machine gun,” which would provide the title for Brötzmann’s 1968 sophomore album, a landmark in the development of free jazz.

Initially released in an edition of just 300 copies on his own BRÖ label, it was an album that captured the explosive atmosphere of the times: the Vietnam War, the mass protests convulsing Europe. Although it featured an international cast of musicians – including Belgian pianist Fred Van Hove, Dutch drummer Han Bennink and British saxophonist Evan Parker – “Machine Gun” also seemed to be taking aim at a specifically German target: the shame and trauma of the country’s Nazi past.

“That’s maybe why the German way of playing this kind of music always sounds a bit different than the music from other parts of Europe,” Brötzmann told Die Zeit, in an interview conducted in early June, just weeks before his death. “It’s always more a kind of scream. More brutal, more aggressive.”

That scream would continue to resound through the decades to come. Whereas many of his free-jazz peers either died young or mellowed with age, Brötzmann kept playing with the same incandescent force. This came at considerable cost to his health: during his final decades, he suffered from respiratory problems that he attributed to a lifetime of overblowing. As he told The Wire in a 2012 interview, “I wanted to sound like four tenor saxophonists... That’s what I was attempting with ‘Machine Gun’ and that’s what I’m still chasing.”

It was a sound that provoked visceral responses. I remember taking an unsuspecting friend to see Brötzmann perform with his group Full Blast at London’s Cafe Oto in 2010, and watching her physically recoil as he started playing.

However, Brötzmann’s reputation as a bruiser was only ever part of the story. A self-taught musician, he had started out playing Dixieland and swing, and he retained a deep love for earlier saxophone pioneers like Coleman Hawkins and Sidney Bechet. These influences are audible even on “Machine Gun”: you can hear the honking tenor of Jean-Baptiste Illinois Jacquet, the hot jazz of early Louis Armstrong. For all his ferocity, Brötzmann was lyrical and swinging too.

This was perhaps easier to appreciate in more stripped-back settings. A notable example is 1977’s “Schwarzwaldfahrt,” recorded al fresco with Bennink in Germany’s Black Forest, and one of the most inquisitive and playful albums in his entire discography. Brötzmann’s late-career duo with pedal steel guitarist Heather Leigh – an unlikely combination – also gave rise to many moments of beauty. When I heard about his passing, the first album I reached for was the duo’s aptly titled 2016 album “Ears Are Filled With Wonder,” which captures him at his most romantic.

Brötzmann had a talent for sticking to his (machine) guns while changing the context. He led many groups during his career, from his 1970s trio with Van Hove and Bennink to his Chicago Tentet during the 2000s, but would typically pull the plug on each of them as soon as he felt they had fulfilled their purpose. When he curated the 2011 edition of the Unlimited festival in Wels, Austria, it provided a snapshot of the extent of his activities at the time. He appeared with the Chicago Tentet, Hairy Bones and Full Blast, but also in a variety of other groupings, with musicians ranging from Japanese pianist Masahiko Satoh to Morocccan gnawa master Maâlem Mokhtar Gania. (Highlights of the festival are compiled on the 5-disc “Long Story Short” compilation, an invigorating listen from start to finish.)

It makes sense that some of Brötzmann’s most fruitful relationships with Japanese artists were with personalities as forceful as his own – I’m thinking of Keiji Haino, Toshinori Kondo, Shoji Hano, Akira Sakata. He also found sparring partners among a younger generation of musicians, such as Mats Gustafsson and Paal Nilssen-Love, who owed much to his trailblazing example. Whatever the setting, there was no excuse for half measures.

“Being on stage is not a friendly business,” he said during a Red Bull Music Academy lecture in 2018. “Being on stage is a fight, even if you stay there with the best friend. But you have to fight... You need tension, you need challenges, you need a new situation, you have to react. And that makes the music alive, I think.”

George Freeman - ele-king

GEORGE FREEMAN - ele-king

Haruna Yusa - ele-king

 先月、1年ぶりの新曲 “夏の雫” を発表したヴォーカリスト/鍵盤奏者の遊佐春菜。昨日新たな楽曲 “夜明けの夢” の配信が開始されている。

https://big-up.style/nk1y6kHfEA

 また、上記2曲を収める新作EPのリリースもアナウンスされている。オリジナル・ヴァージョンに加え、Eccy による “夏の雫” リミックス、Sugiurumn が遊佐をフィーチャした楽曲などを収録。島崎森哉主宰〈造園計画〉からの作品で注目を集めつつある新世代エレクトロニック・ミュージシャン、大山田大山脈による “夜明けの夢” のリミックスも気になるところです。カセット作品とのことなので、なくなってしまうまえにチェックしておこう。

遊佐春菜1年ぶりの新作をリリース! 
遊佐春菜をフィーチャーしたSugiurumn初の日本語シングル収録

10月13日発売
遊佐春菜 / 夏の雫 ep
KKV-156CA
カセット+DLコード
2,200円税込
2,000円税抜
「Cassette Store Day x Cassette Week 2023」参加作品

収録曲
Side A : 夏の雫、夜明けの夢、All About Z (Sugiurumn feat 遊佐春菜)
Side B : 夏の雫(Eccy Remix)、夜明けの夢(大山田大山脈Remix)、All About Z(YODA TARO Remix)

2022年、ソロとして2作目となるHave a Nice Day!のカバー・アルバム『Another Story Of Dystopia Romance』が大きな話題となった遊佐春菜。自身のバンドである壊れかけのテープレコーダーズをはじめHave a Nice Day!など多くのアーティストのサポート活動をしながら1年ぶりの新曲をリリース。
今回はレーベルメイトであるStrip Jointの名曲「Liquid」を日本語詞にして再構成、彼女のマジカルな声が夏の一瞬を切り取っている。

また日本のクラブ・シーンをリードしてきたハウスDJ Sugiurumn初の日本語シングルで遊佐春菜がシンガーとして抜擢、その楽曲「All About Z」とリミックス「All About Z(YODA TARO Remix)」も収録。
「All About Z」は劇作家、演出家である川村毅作、演出の同名舞台のテーマ曲を再構築した話題曲!
カップリングの「夜明けの夢」ではアンダーグラウンド・シーンで静かに話題となっている大山田大山脈によるリミックスを収録。

Treeboy & Arc - ele-king

 ツリーボーイ&アーク、ヤード・アクトの最初期にメンバーを共有していたこともあったイングランド・リーズのこのポスト・パンク・バンドはコロナでアルバムをリリースすることが難しくなってしまったバンドのひとつだろう。いくつかのシングルをリリースしファン・ベースを広げていくことが必要だった時期に活動することができず、既にアルバムをリリースする計画があったバンドが順番待ちを強いられて、そうこうしていくうちに時代もシーンの空気も変わっていった。同郷のドラーラ(Drahla)やヤード・アクトの1stアルバムがリリースされ、2ndアルバムはどんな感じになるのだろうと気になってくるような2023年のこの時期にやってきたツリーボーイ&アークのデビュー・アルバムはしかし他のバンドとは少し違ったユニークな魅力を放っている。

 初期衝動にあふれた1stアルバムが最高だとその名をあげられるようなバンドの持つエネルギーと、方向性の定まった2ndアルバムで化けたと評されるバンドの、その中間にこのツリーボーイ&アークの『Natural Habitat』は存在する。ロンドンのバンドたちよりもより強くコペンハーゲン・シーンに影響されたような2017年の「Not Yet」期、〈Speedy Wunderground〉からリリースされた自ら不安を煽りイラだちの中に答えを見つけようとしたかのような2019年の傑作シングル “Concept” 、そこに存在していた10代の荒ぶるエネルギーがついに収まるべきところを見つけたかのようにアルバムの中で鋭く小さな爆発が起きている。太いベースとソリッドなギター、不穏な空気を撒き散らすシンセサイザーの音、心をせかせるドラム、そこに乗る小さくイラだったヴォーカル、ツリーボーイ&アークのそのバランスは何かが変わることを夢見るアート・パンクの興奮を生み出すのだ。
 呪詛的なフレーズで幕をあけるオープニング・トラック “Midnight Mass” は否が応でもこれから起こることへの期待感を抱かせて、そうしてノイ!のようなクラウトロック由来の緩やかで力強い推進力を持つ “Retirement” へと繋がっていく。勢いのそのままに突っ走るようなことをせずにここで息を入れるようにしてペースを落とすのがツリーボーイ&アークの変化だろう。しかしスイッチは入ったままだ。「グラスは半分満たされている/だけど頭はほとんど空で/どうすることもできない」。空虚な日々と閉塞感、何も手にしていないわけではないがずっと同じところから抜け出せずにいる、そうしたフラストレーションがこの緩やかな曲の中に渦巻いている。“Behind The Curtain” ではそのフラストレーションがイラ立ったようなベースのフレーズの上でもっと直接的に発露される。理解はできるがそうであっては欲しくない現実、期待は裏切られ望みは薄れる、しかしその中にあってももがき続ける、その姿勢に心がかき立てられていく。ツリーボーイ&アークの音楽は時を経てより一層に強度を増したのだ。

 このアルバムを聞いたときに最初に抱いた印象は上記のような時代とともに変化したバンドのデビュー・アルバムだったが、実際にツリーボーイ&アークは2019年にレコーディングしたアルバムを廃棄したという。バンドが言うにはその最初のアルバムはほとんどライヴ・アルバムのようなもので、パンデミックで全てが止まり、活動を再開した後のいまの自分たちを反映したものではないと考えてもう一度レコーディングし直すことを決めたという。そのときに存在していたうちの5曲は再びアレンジされてこのアルバムの中に収録されているらしいが、“Box Of Frogs” から “Human Catastrophe” にシームレスになだれ込むその瞬間にまるでライヴを見ているような気分になる。それはおそらく昔とは異なった種類のもので、ほとばしる衝動が暗い空気の中、内側で渦巻いているように感じられ、自らに言い聞かせるよう、あるいは理解のために状況を整理し直すかのように言葉が響き、そこで生まれた興奮が広がっていく。ふたりのシンガー、ふたりのソングライターがそれぞれの曲を繋ぐ、この瞬間こそがアルバムの最高の瞬間であるとそんなことだって言いたくなってしまう。

 最初のアルバムのヴァージョンはどんな感じだったのだろう? そう気にならないこともないけれど、しかしこの渦はここまでの過程があったからこそ生まれる渦なのだろう。そうしたバンドの歴史と変化がポップ・ミュージックをより一層魅力的にする。選択と判断、理念と行動、新鮮さがなにより重要でタイミングが大きく作用する世界の遅れてきた快作、ツリーボーイ&アークのこのデビュー・アルバムは僕にはそんなアルバムに感じられるのだ。

K-Lone - ele-king

 K-ローンの新作がこれまたシンプルなんだけどすばらしいテクノ・アルバムで、というのをこの手の音楽が好きそうな人に最近会うたびに言っている、この数週間。このくそ暑いなか、そのリフをクーラーの効いた部屋で、鼻歌まじりで歌いたくもなるメロディアスで涼やかなアルバム。

 その名前を意識したのは2018年のパリスの運営する〈Soundman Chronicles〉からのシングル「In The Dust EP」と自身のレーベル〈Wych〉からの「BB-8 / Barbarossa」。聴きようによってはベーシック・チャンネルのダウンテンポ・ヴァージョンとも言えなくもない “Old Fashioned” にひかれて買ったら、併録の軽やかなチル・エレクトロ “In The Dust Of This Planet” にハマってしまった前者。かたや後者のウェイトレスなグライムに、チップ・チューン的サウンドの鼻歌交じりなメロディにも引っかかってしまい……どちらにしろ、ベース・ミュージック・シーンにおける、そのライトさというか、かわいげというか、とにかくあまり当時他では聴けない「軽やかさ」で気になる存在となりました。前述のパリスとのかかわりに加え、〈Idle Hands〉から出していたり、レーベル〈Wisdom Teeth〉を共同運営する相棒のファクタ(Facta)はホッジ(Hodge)とのコラボ・シングルを出していたり、さらに同年の2018年にはファクタが〈Livity Sound〉から「Dumb Hummer / All the Time」を出していたりと、この人たちはブリストルの……というフォルダに勝手に頭のなかで整理してたんですが、いろいろ調べたらロンドンの人たちなのかと。ちょうどその頃ぐらいからふたりの作り出すサウンドは、どこかラウンジーなライトさをメインに出してきていて、ポスト・ダブステップがひとまわりした2010年代末に、完全に復権したイケイケのUKガラージの傍ら、ベース・ミュージック・シーンのなかでUKガラージも内包しながら、鮮やかな差し色のような音楽性で気になる存在となりました。いま思えばDJパイソンの『Dulce Compañia』も2017年にあってという。いまこうして見ると、いまに続く、わりかしライトでチル・アウトなムードのメロディアスなダンス・トラック、そのサイクルはこのあたりに突端があるんじゃないかなと。結果論ですが。

 2020年4月、コロナ禍での世界的なロックダウンとほぼ時を同じくして、〈Wisdom Teeth〉からK-ローンはファースト・アルバム『Cape Cira』をリリースします。キュートな作品というか、ニューエイジなモードとも、いわゆるUKの叙情的・内省的なテクノとも違った、チルでトロピカルな、どこかイージー・リスニングな空気が漂うこのアルバムが、それこそ初期のロックダウン中に最も聴いたアルバムになったという人も多いのではないでしょうか。2020年といえば、多くのDJたちがロックダウン中にアンビエント/リスニング・テクノの作品を作り、2021年前後にはそうした作品が大量にリリースされるわけですが、それより少し早い、しかもロックダウンが本格的になる4月にリリースされたことを考えれば、制作はその前にあたるわけで、ある種のコンセプチャルなサウンドに思えてきます。2021年には同じく〈Wisdom Teeth〉からは、その『Cape Cira』の軽やかな空気感、パイソン『Dulce Compañia』のトロピカルなリズム感を足して、さらにアンビエント・タッチで骨抜きに溶かし込んだようなファクタのアルバム『Blush』もリリース。さらには先日来日も果たしたトリスタン・アープの、やはり『Cape Cira』を発展させたようなアルバム『Tristan Arp』もリリース。〈Wisdom Teeth〉のサウンド、とりわけレーベルのアルバム単位での路線がこの設立者ふたり+他人で、明確になった印象もありました。でもシングルでは、これまた先日来日したイタリアのピエゾなど外部のアーティストを起用しつつ、主宰の両名もUKガラージやハウスを援用しながら、こうしたアルバムでのライトな音楽性の路線とダンスフロアとの接点を模索していくわけです。また2021年には、もう少しダンス寄りながら、同じようなポップな軽やかさを内包したアルバム『Soaked In Indigo Moonlight』を朋友パリスがリリースして外部から援護射撃したような感覚もありました。

〈Wisdom Teeth〉といえば、2022年、多くの新人とともに、BPM100という、いままでジャンルのフォーマットとして「空き」となっていながらも、実はDJたちにとっては意外となじみ深いBPM(このコンピ以前に、彼らの周辺とは離れたところ、例えば日本にもそうしたコンセプトのパーティやミックスはわりと昔から散見されていた記憶はある)をコンセプトにしたコンピ『To Illustrate』をリリースします。ある種のハウスやテクノの定石であるBPM120~130の、どうしても身体が動いてしまう性急なその “強い” グルーヴィーさを持ったBPMと、それ以下のロウでドープな感覚やチル過ぎるスローでどうしてもグルーヴ感が “弱い” BPMの間。これをレーベルが標榜してきた「軽やかさ」をグルーヴとともに追求するために選んだひとつのコンセプトと考えると、いろいろつながるようにも思えてきます。

 そしてこうした活動の後に、このタイミングでリリースされた本作が、実はわりとオーソドックスなハウスやテクノのBPMの楽曲が多いというのもなかなか興味深いですね。「膨張」と名付けられた本アルバムはゆっくりと空間をカラフルに染め上げていくメロディアスで軽やかなサウンドが続きます。ヴォイス・サンプルとオールド・スクールなビデオ・ゲームのポップな色調のオープニング画面を想起させる “Saws” ではじまり、軽やかなエレクトロ・ハウス “Love Me A Little” でアルバムは走り出します。アルバム中盤の “Oddball”~“Shimmer” は、90年代中頃の〈クリア〉や、ラウンジ・リヴァイヴァル期のエイフェックス・ツインμ-Ziqのコラボ=マイク&リッチを思い起こすようなイージー・リスニングなメロディのエレクトロを展開。ダウンテンポ “With U” のけだるいヴォーカルは、最近のUKガラージのイケイケっぷりを象徴するヒット曲 “B.O.T.A. (Baddest Of Them All)” で知られるエリザ・ローズ。
 そして後半、アルバムのBPMは、ハウスへとシフト・アップしていきます。テクノ的な堅さと、フュージョン的なメロディを併せ持つ、ある意味で正調UKディープ・ハウスとも言えそうな2曲 “Gel” “Love Is”。そしてアルバムはUKのリスニング・テクノのクールな伝統をなぞるようなテクノ・トラック “Volcane” で幕を閉めます。全編、ここ数年、彼が追求してきた「軽やかさ」とメロディアスなイージー・リスニングのような感覚というのが、ダンサブルなテクノやハウスの実はオーソドックスなフォーマットにしっかりと練り込まれたアルバムではないかと。こうしたサウンドが今後、どのようにダンスフロアへと波及していくのかが興味深いポイントで、先日のアンソニー・ネイプルズのアルバムもそうですが、DJカルチャー出身のアーティストがこうしたリスニングにおいてもエポックメイキングな作品を出すのはもまたおもしろいですね。

 彼らの影響もあると思いますが、ここ数年、わりとテクノやベース・ミュージック周辺で、メロディやこうした「軽やかさ」が復権している感じもあって、それはある種のR&Bやソウル、もしくは初期のUKやオランダのデトロイト・テクノ・フォロアー的な叙情性や内省的なメロディ、またはプログレッシヴ・ハウスやトランスの壮大な感じの感覚とも違っていて、このあたりの感覚をふと先日どこかで聴いたな……と思い出したんですが、やっぱり2014年のエイフェックス・ツインの復活作『Syro』なんですよね。特に先行で公開された冒頭の “Minipops 67 (Source Field Mix)”。ひさびさの作品ということで件の曲を聴いて「ああ、こういうのありだよな」というのが実はあって、なんとなくこれがゲーム・チェンジャーになったのではないかという妄想も浮かんだりします。もちろんK-ローンがそこを目指していたかはわかりませんが、サウンドの空気感としては同じモノを感じてしまいます。とはいえ、10年前ですから、いまの音に結びつけるのはちょっと無理筋すか?

DAMN SAM MIRACLE MAN & SOUL CONGREGATION - ele-king

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