「S」と一致するもの

DJ Python & mad miran - ele-king

 不定期ながらいつも刺戟的なパーティを開催しているブランド〈C.E〉より、最新情報です。3月に来日した人気者、ニューヨークのDJパイソンが早くも再来日。オランダのマッド・ミランとともに長月の一夜を彩ります。9月6日、表参道はVENTにて。
 なお、9月発売予定の紙エレキング最新号には、前回来日時に収録したDJパイソンのインタヴューが掲載されます。そちらもお楽しみに。

[8/29追記]
 パーティ会場限定でTシャツの販売が決定! フライヤーのデザインが分解~再構築され、フロントとバックに配されています。これはかっこいいぞ。


C.E presents
DJ Python
mad miran

C.Eのパーティが9月6日土曜日にVENTで開催。

洋服ブランドC.E(シーイー)が、2025年9月6日土曜日、表参道に位置するVENTを会場にパーティを開催します。

Skate Thing (スケートシング)がデザイナー、Toby Feltwell(トビー フェルトウェル)がディレクターを務めるC.Eは、2011年のブランド発足以来、不定期ながら国内外のミュージシャンやDJを招聘しパーティを開催してきました。

9月6日に開催となる本パーティでは、アメリカはニューヨークよりDJ Python、そしてオランダからmad miranをゲストに迎えます。

C.E presents
DJ Python
mad miran

開催日時:2025年9月6日土曜日午後11時
会場:VENT
http://vent-tokyo.net/

料金:Door 3,500 Yen
Advance Tickets 2,000 Yen
http://ra.co/events/2216407

Over 20’s Only. Photo I.D. Required.
20歳未満の方のご入場はお断り致します。年齢確認のため顔写真付きの公的身分証明書をご持参願います

■DJ Python
ニューヨークはクイーンズを拠点とするDJ兼ミュージシャンのブライアン ピネイロによるプロジェクトにおいて最も知られるエイリアス。
NYのクラブ、Nowadaysにおける長年のレジデンシーや、Anthony Naples(アンソニー ネイプルス)とJenny Slattery(ジェニー スラッタリー)のレーベルInciensoを通じて、ブルックリン/クイーンズのシーンの柱となっている。
近年、DJ Pythonはディープハウスのダイナミクスとラテンリズムを融合させた革新的な音楽スタイルによって、世界中のレコードショップ、ミックスシリーズ、クラブで注目を集めている。
2020年にリリースしたアルバム『Mas Amable』(Incienso)はResident AdvisorやBoomkatのアルバム・オブ・ザ・イヤーに選出された。
その後、EP『Club Sentimientos Vol. 2』や、DominoのアーティストEla Minusとのコラボレーション、Nick LeónとのスプリットEPなどをリリースし、さらにKelman DuranとFlorentinoのグループSangre Nuevaなども手がけている。
2023年には、アンビエント・ポップの先駆者Ana Roxanneとチームアップし、『Natural Wonder Beauty Concept』名義で、ムーディーでIDMの影響を受けたポップソングとユニークなインストゥルメンタルを収めたアルバムをMexican Summerから発表。同アルバムは、再び年間ベストアルバムリストに名を連ね、ヨーロッパ、イギリス、北米を巡るライブツアーが行われた。

2024年にはBBC Radio 1の「Essential Mix」に初登場し、未発表のトラックやAir、Alex G、Nina Simone、Autechreなどのエディットを含むミックスを披露した。同ミックスはResident AdvisorやMixmagから「Best Of」の評価を受け、Mixmagは「xxxx」と絶賛をした。
2025年3月にはEP「I Was Put On This Earth」をXL Recordingsよりリリース。
soundcloud.com/worldwideunlimited
ra.co/dj/djpython
www.instagram.com/dj__python

■mad miran
オランダのアンダーグラウンドが生んだDJ。
Garage NoordやDe School、Nitsa、Blitzなどのクラブだけではなく、DekmantelをはじめPrimaveraやSolstice、Love Internationalといった音楽フェスティバルにも出演。
soundcloud.com/madmiran
ra.co/dj/madmiran
www.instagram.com/madmiran

FEBB - ele-king

 昨年リリース10周年を迎えたFEBB AS YOUNG MASONの『THE SEASON』。同作のアートワークを用いたスケートデッキ・セットが完全受注生産で販売されることになった。Fla$hBackSのMVも手がけていたDiaspora skateboardsとのコラボ企画です。
 また、同デッキの展示も実施される。7月19日(土)から7月27日(日)まで、Diaspora skateboardsの旗艦店「PURRBS」にて。詳しくは下記をチェック!

FEBB 『THE SEASON』とDiaspora skateboardsのコラボによるスケートデッキ3本セット(シリアルナンバー入り)が完全受注生産で発売決定!また7/19(土)より駒沢「PURRBS」にて『THE SEASON』のポップアップも開催!

 2014年1月29日にリリースされ、2024年1月29日にリリース10周年を迎えたFEBB AS YOUNG MASONの1stアルバム『THE SEASON』の10周年記念企画の最後を飾るのは『THE SEASON』のジャケット・アートワークを使用したスケートデッキ・セット。
 FEBBと関係が深く、Fla$hBackSのMV制作も行ったスケートレーベル / ビデオプロダクションのDiaspora skateboardsとのコラボレーションでの制作となり、NYのレジェンドGUESSデザインの『THE SEASON』の印象的なジャケットを3本のデッキに落とし込んだシリアルナンバー入りのスペシャルセット。完全受注生産での販売となります。3本セット売りのみでの販売になり1本ずつの購入は出来ません。

 また7月19日(土)から7月27日(日)までの期間、Diaspora skateboardsの旗艦店「PURRBS」にてデッキの展示を行ないます。是非実物を手に取ってご覧になってください。展示期間中はFEBB 『THE SEASON』のLP/カセットテープ/CDの販売なども「PURRBS」にて行ないます。

アイテム:Diaspora skateboards | FEBB "THE SEASON" Deck(3pcs Set / シリアルナンバー入り)
販売価格:50,000円(税抜)
受注締切:2025年7月31日(木)正午
発送予定:2025年10月下旬頃予定
*ご予約ページ
https://anywherestore.p-vine.jp/products/febb-skateboard

※オーダー後のキャンセル・変更は不可となります。
※商品発送は10月下旬頃を予定しております。
※配送の日付指定・時間指定は出来ません。
※配送は日本国内のみとなります。
※おひとり様2セットまでの購入とさせていただきます。
※お支払いはクレジットのみとなります。
※デッキは北米産カナディアンメープル使用。 数多くの有名ブランドと同様の高品質な工場でのプレス。
キック:ミディアム / コンケーブ:ミディアム
※サイズ(Width x Length x WB)
8.0” x 31.5” x 14 (Left)
8.125” x 31.5” x 14 (Center)
8.25” x 31.5” x 14 (Right)

<PURRBS>
〒154-0012
東京都世田谷区駒沢2-16-1 染小ビル 101
TEL: 03-6413-8729
STORE HOURS: 12:00-19:00
REGULAR HOLIDAY: Wednesday
https://www.instagram.com/purrbs.store/

interview with LEO - ele-king

 日本の箏(こと)。そう聞いてどんな音楽を連想するだろうか。お正月の定番。平安貴族っぽい。素朴にエキゾティック。なんとなく堅苦しそう。もしくは「失われた日本」……とか?
 この伝統楽器と幼いころに出会い、早くも19歳でデビュー。2017年の『玲央 1st』以降すでに5枚のアルバムを送り出している箏奏者のLEOは、しかしそうした型にはまったイメージを粉砕する。相棒のもつ可能性をとことん探求し、大胆にエレクトロニック・ミュージックなどと融合させてみせるのが彼だ。
 純邦楽にとどまらず、ハイカルチャー/ポピュラー・ミュージックの区別なく西洋音楽を吸収してきた彼のひとつの到達点は、ジョン・ケイジ坂本龍一スティーヴ・ライシュらの作品を箏で演奏した『In a Landscape』(2021年)かもしれない。ことエレクトロニック・ミュージックとの接点という意味では、前作『GRID//OFF』(2023年)も見すごせなかろう。LEOはそこでリディム・イズ・リディム “Strings of Life” をカヴァーしたり、2010年代に実験的な電子音楽の分野で頭角をあらわしてきたアーティスト、網守将平と共同作業したりしている。彼のなかでエレクトロニック・ミュージックが小さくはない位置を占めていることがありありと感じられるアルバムなのだ。
 そんなLEOが、従前とは異なる意気込みで制作に挑んだのが最新作『microcosm』である。本人いわく、これまでのアルバムには、LEOというメディアをとおして箏の魅力を伝えるような側面があったという。ひるがえって今回は、箏(や電子音)をとおしてLEOという音楽家をアウトプットするような表現に到達しているそうだ。
 エレクトロニック・ミュージックだけではない。ドラマーの大井一彌を招いた先行シングル “Vanishing Metro” によくあらわれているように、ここにはプログ・ロックやジャズがもつ演奏することそれ自体の醍醐味もあるし、U-zhaanによるタブラやLAUSBUBによるヴォーカル、フランチェスコ・トリスターノのピアノなどもいい感じでアルバムに花を添えている。つまるところ、箏に限らず音楽そのものが好きなのだと主張する彼の作家性が、いよいよ全面開花した作品がこの『microcosm』なのだ。
 箏と聞くといろんな先入見が邪魔をしてしまうかもしれないけれど、とにもかくにもまずは聴いてみてほしい。間違いなく唸ることになるだろうから。

ジョン・ケージや坂本龍一さんの作品群には、人為的でないものを許すような感覚があって、そういう哲学的な部分が伝統的な邦楽を学んだときに教わった精神性と共通するように思えて。

最初に素朴な質問ですが、箏とはどういう特徴のある楽器なのですか?

LEO:ほかの弦楽器と見た目はぜんぜん違いますけれども、箱に弦が張ってあるという点で、構造としてはギターやヴァイオリンと似た楽器です。大きな箱に弦が張りめぐらされているという点では、ピアノやその前身のハープシコードもそうですね。構造自体はありふれていて、それらのなかでもとくにシンプルなかたちなのが箏です。とくに日本の箏はそうで、張られた弦の張力をいじることによって音高を変えます。可動式のコマみたいなもの、「柱」と書いて「じ」と読むんですが、それを動かしてピッチを決めて、あとは弾くだけという、かなりシンプルな楽器ですね。
 お箏自体は中国にも韓国にもあるんですけれど、中国のお箏も韓国のお箏も時代を経るにつれて進化していって、たとえばもともとは弦に絹糸を使っていたのがいまはスティール弦になっていて、発音のよさや余韻の長さ、音量の大きさを確保して、ホールでの演奏に対応したり、弦の本数も中国の場合はどんどん増やしていって新しい音楽に対応してきました。でも日本の箏はまったく進化していなくて、ほぼ昔からのままでつづいています。だからとっても素朴で、よく雅な音がするって言いますけれども、奏者の中身が透けて見えてしまうような楽器がお箏なのかな、と思います。

箏と出会ったのはインターナショナル・スクール時代だったそうですね。当時はご自身のアイデンティティの問題もあったそうですが、まずはやはりその音の響きに惹かれたのですよね。

LEO:そうですね。幼少期はわりとシャイで内向的な性格だったんですけど、お箏はそんなに派手なわけでもなく、音数もすごく多いわけでもなく、ちょっと静かな感じで。音の鳴っていないところにも意識を持っていくような音楽っていうのが自分には合っていました。あと、箏の古典の曲ってどれも暗い音階なんです。都節(みやこぶし)音階というんですが、その暗い感じも好きで。ただ、箏自体がよくて箏をはじめたわけではなく、授業でたまたま出会ったのが箏だったんです。だから、たとえば今回のアルバムも、ぼくが違う楽器の奏者だったとしても、似たことをやっていたと思います。もちろん伝統から離れて自分のやりたいことをやるというところにたどりつくまでには紆余曲折ありましたけれども。箏も好きではあるんですが、音楽全般が好きなんですね。

音楽全般がお好きとのことで、学校で習ったり教えてもらったりした音楽とはべつに、自発的に音楽を聴くようになったのはいつごろなのですか?

LEO:母が洋楽が好きで、マイケル・ジャクソンのファン・クラブにも入ってて、車ではいつも音楽がかかっていました。あとはNE-YOとか、スティーヴィー・ワンダーとか。あと祖父がビートルズが好きで、それもよく聴かされていましたし、ぼくが小学生のときに初めて自分の小遣いで買ったCDは当時のはやりのJ-POPでした。だから、箏をはじめたのは9歳ですが、ふだん聴いている音楽とはまったく結びついていませんでしたね。当時はやっていたのがブルーノ・マーズとかテイラー・スウィフト、マルーン5とかで、そういうのは箏では弾けないから自分でギターを練習したり、ベース、ドラム、キーボードもひととおり触って、友だちとバンドを組んでカヴァーしたり学園祭で弾いたり。そういうことをしていくなかで音楽が好きになっていきましたね。
 自分で最初にハマったのはスクリレックスでした。スクリレックスはエレクトロニック・ミュージックですが、それとほぼ同時に、なぜか坂本龍一にもハマりだして。坂本さんからはいまでもずっと影響を受けつづけています。そこからクラシック音楽も真剣に聴くようになりました。ジャズも、スナーキー・パピーがきっかけで掘るようになって。

坂本龍一は幅が広いですが、どのあたりのものからお好きになったんですか?

LEO:最初は『/05』とか『BTTB』とか。ピアノで弾いてるものが入口でした。そのころ同時進行で、藝大でアカデミックに箏を学ぶ準備もしていたので、いわゆる現代音楽も勉強していくなかで、坂本さんの『out of noise』と『async』に出会い、そこからノイズや環境音に対してもすごい興味が湧いてきました。そうして「ジョン・ケージも面白いじゃん」とか、自分の箏の師匠(沢井一恵)がジョン・ケージとつながっていることに気づいたり。そういう順番でしたね。

わりとリアルタイムというか、ゼロ年代以降の坂本さんに惹かれていったという。

LEO:20歳ぐらいになってから、YMOは聴きましたね。そこからスクリレックスとはまた別軸で、エレクトロニック・ミュージックにもハマっていくんですけれども。

前作『GRID//OFF』(2023年)でカヴァーされていた坂本さんの曲が『async』の曲(“Andata”)だったので、意外と言うと変ですが、わりと直近の坂本さんに惹かれていたのかなと思いまして。

LEO:『In A Landscape』(2021年/“1919” を収録)のときはそうでした。『GRID//OFF』でもそうですが、カヴァーするレパートリーを選ぶときは、箏のよさが伝わる楽曲を選ぶようにしています。ジョン・ケージや坂本さんの作品群には、人為的でないものを許すような感覚があって、そういう哲学的な部分が伝統的な邦楽を学んだときに教わった精神性と共通するように思えて、カヴァーしてきました。
 ただ今回の新作は、箏っぽさであったり、この楽器の魅力を届けないといけないというような思いから解放されて、いま自分が聴いている音楽や好きなアーティストに声をかけてつくっていきました。たとえば自分の前にお箏が置いてあると、それをどう弾くかについてぼくは一から十まで手ほどきを受けてきているわけですから、どう触ればいいかわかるわけです。でも、今回のようなアーティストたちといっしょに音楽をつくっていくとき、「いま目の前に箱状の楽器があるぞ、さてどうやって音を出そう?」みたいに無になって。ビートありきの音楽ですので、伝統の奏法もまったく関係なく、一からこの楽器をどう弾くかを見つめ直して、「ミュートしてみよう」とか「ハーモニクスしてみよう」とか「こういう音を重ねてみよう」とか、「ライヴではできないけれども、レコーディングだから、小さい音しか鳴らない奏法を活かしてみよう」とか、まっさらの状態から考えました。すごくラフな、フリーな感覚で制作に臨みましたね。

聴いていて思ったのですが、もしかして箏を叩いたりもしています?

LEO:してます、してます。

やはり。今回のアルバムもまさにそうですが、そもそも箏奏者ないし音楽家として、いわゆる純邦楽の道というか、古典的な奏法や伝統の方向に進まなかったのはなぜですか?

LEO:食べていけないので(笑)。もちろんそれだけじゃないんですけど、10代でデビューしたころはそういう伝統的な路線からスタートして、でもほどなくして食べていけないことに気がついて。ただ、まだ自分のやりたい音楽というのも固まらない状態で早くにデビューしすぎたのもありました。

クラシック音楽に「現代音楽」というくくりがありますけど、いまほんとうに現代性を感じるのはTikTokで流れてくるような音楽です。

デビューされたのは何歳ですか?

LEO:19歳です。藝大に行きながらCDを出したりしていました。当時から今回の新作のような音楽は好きだったんですが、仮に当時のぼくが今回の新作のアイディアを思いついていたとしても、実行する技術がぜんぜんありませんでした。箏の演奏の技術もそうですし、アンサンブルとかも。そもそもぼくが受けてきた箏の訓練っていうのはクリックと合わせて弾くことには向いていないですし、自分で作曲もしていますけども、コードや音楽理論について勉強したわけでもないですので、当時の知識では成しえなかったと思います。いろいろ仕事をして知識もだんだん増えていって、さらにミュージシャンの友だちもできていって、ようやくいま、これができるようになったという感じです。心技体がようやく一致してここまで来た、みたいなイメージです。

先ほどエレクトロニックに目覚めたきっかけがスクリレックスだったというお話を伺いましたが、その後エレクトロニック・ミュージックはどういう方面を好んでお聴きになっていたんですか?

LEO:坂本さんはもちろんなんですが、ティグラン・ハマシアンも電子音使っていて最近好きですね。あと、いわゆるポスト・クラシカルに入ると思うんですが、ハニャ・ラニ(Hania Rani)という女性のピアニストで、エレクトロニクスを入れつつ歌ったりする方がいて。オーラヴル・アルナルズ(Ólafur Arnalds)もめっちゃ聴いてます。箏で近しいことができそうだなと思いましたね。
 ぼくの場合、箏に飽きて、ものたりないからエレクトロニクスを入れているのではなくて、箏の音を支えるというかちょっと拡張するというか、自然な必然性を感じてエレクトロニクスを使っています。箏はどうしても音が小さいですし、それに現代のようにいろんなエンタメがあふれていて消費スピードも速いなかで、大げさに言いますけど、ポーンと箏を弾いて、次の音まで5秒待ってまたポーンと弾くような音楽というのは、なかなか聴いてもらえないと思うんです。もとからその魅力を知っているひとじゃないと。たまたまインスタでぼくの音楽に気づいてくれたひとがいても、ポーンと鳴って、次の音が鳴るまでに3秒も待てないというか。そういう感覚はぼく自身にもあるし。そういうのが現代の音楽で。クラシック音楽に「現代音楽」というくくりがありますけど、いまほんとうに現代性を感じるのはTikTokで流れてくるような音楽ですし。もちろん、TikTokでバズる曲をつくりたいとかではないんですが、そこに面白い表現はいっぱいあって、そういうものもオープンにとりいれていきたいと思っています。だから、エレクトロニクスを入れることもぼくにとっては普通なことなんです。現代に箏を弾くのであればそれが自然ですし。もちろん箏の音を潰したいわけはないんですけれども。

エレクトロニック・ミュージックがお好きなのは前作『GRID//OFF』からも伝わってきました。あのアルバムではデリック・メイをカヴァーされていましたよね。エレクトロニック・ミュージックのなかでもデリック・メイの音楽はダンス・ミュージックですが、ほかの曲をやるときと違った点ってありましたか?

LEO:ぼくはとにかくクリックに合わせて弾くこと、縦線をグリッドと合わせて弾くのが超苦手で。ちょっと前まではタイミングを合わせること自体すごい大変だったんですけど(笑)。あとはフレーズをたゆたいながら歌うとかもできないので、ある意味鍵盤で弾いてるような感覚で弾いたりとかはあるのかな。でもどうなんですかね、今回のアルバムでもたぶんグリッド音とかテクノっぽい曲調でつくっていますけども。

新作の1曲目 “Cotton Candy” もダンサブルなビートが入っていましたね。

LEO:そんなに意識はしていないんです。普段聴いてる音楽をたまたま目の前にある楽器で弾いたらこうなった、という感じで。それは前回のアルバムも含めてこれまでいろんな経験をしてきたから、ようやく無意識下でもできるようになったのかもしれないですけど、曲によって弾き方を変えることはやってはいます。音色もそうですね。ただ、あまりジャンルを区別して考えると壁をつくる気もするので、グリッドで曲をつくった場合でも、たとえばU-zhaanさんと弾いたときに得たインスピレイションを持ってこられるような柔軟さが欲しい、というか。アルバムをつくりながらたくさんの経験をして、いろんな音楽の知識を吸収して、成長しながらつくっているので、まったく異なるジャンルの音楽いっぱい入ってますけれども、ぜんぶぼくのなかでは線でつながってるようなイメージですね。

ご自身でトラックもつくられるんですか。

LEO:そうですね、DAWで。このアルバムをつくりはじめてからすごい勢いで勉強しました。今回の4、5、8、10曲目はソロの曲なんですけど、自分で録った後に編集しています。それまでは楽譜上でしか作曲をしてなかったんですけど、DAWを使いはじめるようになってからまったく違うアプローチがとれるようになって。たとえば4曲目 “moments within” と8曲目 “moments between” は楽器が違うだけでまったく同じ内容なんですけれども、一定のテンポでおなじフレーズを何回も繰り返しているトラックと、おなじフレーズだけどテンポがだんだん速くなっていくトラックと、そのぜんぜん違うテンポで進んでいるものが最終的に辻褄が合う、みたいな感じでつくったフェーズ・ミュージックなんです。それって楽譜には書けないし、一拍ずつずれていくのではなく徐々にずれていくんですが、それをどう辻褄を合わせるかっていうのはDAWで試行錯誤しました。DAWを操れなかったら自分では書けないようなタイプの曲です。5曲目 “Night Scape” も、ほぼなにも決めずにスタジオに入って即興で録ったものを、あとで家で組み替えたりエフェクトを足したりしてPC上でつくった曲です。このアルバム制作中に学んだことを自分なりにアウトプットしてみたような感じですかね。

プロデューサー的なこともやられてるということですよね。

LEO:そうですね。ほかの曲でも、トラックはこうしたほうがいいみたいなことは提案させていただいたりはしました。これまでは奏者として箏を弾くことでしか音楽に携わっていなかったのが、ミックスまで介入できるようになって、よりほんとうに自分の声みたいなものを届けられるようになった感覚があります。

これまでのアルバムたちは、ぼくというメディアを通すことで箏という楽器自体を広げているような。でも今回のアルバムは、ぼくという人間を、箏というメディアをとおして、そして箏だけじゃなくてパソコンとかいろんなメディアを使いながら表現したアルバム。

今回、最後の曲でフランチェスコ・トリスターノと共作・共演されていますが、トリスターノと出会ったのは、もしかして彼がデリック・メイと共作したアルバムがきっかけですか?

LEO:前回デリック・メイをカヴァーしたのは、たしかにトリスターノからの影響があるんですけれども、もともとずっとトリスターノのファンで。彼を知ったのは坂本龍一さんとの『GLENN GOULD GATHERING』でした。演奏も好きですし、テクノをやりながらバッハみたいなのを弾くという音楽家としてのあり方もめっちゃ好きです。ずっとファンで遠い存在だったんですけれども、今回お声がけしたらいっしょにやってもいいよって言ってくれて。こんな機会滅多にないと思うので、すごく悩みながら曲をつくって録りましたね。

9曲目 “音の頃 feat. LAUSBUB” でヴォーカルが入ってくるのは意外性がありました。ヴォーカルを入れようと思ったのはどういう理由から?

LEO:このアルバムのコンセプトとかが決まる前に、たまたまLAUSBUBの曲を車で聴いて。めっちゃいいなと思って、今回のアルバムがどうとか関係なくコラボしてみたいと思って連絡をして、結局その後いろいろ考えていくうちに今回のアルバムはコラボレーションのアルバムにすることに固まったんですけど、いちばん最初に決まったコラボですね。いきなり歌が入っちゃったとか思いながら、でも歌はやりたいなと思ってもいたので。コラボレーション・アルバムという性質上、どうしても曲ごとに個別に進行していきますし、それぞれのアーティストたちと共同制作していくから、曲ができるまでなにができるかわからないんですよね。なので、どんなアルバムになるかは7曲くらい完成するまではぜんぜん見えませんでした。

今回も、これまでいっしょにやられてきた網守将平さんが参加しています。網守さんとはとくに親しい感じでしょうか。

LEO:コラボレーションのアルバムにしたいというのが見えてきたときに、網守さんと飲みに行って。「今度LAUSBUBとやるんですけど、レコーディングのプロデュースみたいな感じで参加していただけませんか」ってお願いして。あと、「それとはまたべつにドラムの方ともやりたいんです」みたいにお伝えして、大井(一彌)さんを紹介していただいたんです(2曲目 “Vanishing Metro” と7曲目 “GRID // ON” に参加)。網守さんは最終的には2曲に携わっていただいていますが、最初に相談に乗っていただきながらアルバムをつくっていった感じですね。

具体的なところは7曲ぐらい完成するまで見えなかったというお話でしたが、最初のほうのお話に出たように、箏を使いつつエレクトロニック・ミュージックをやるというイメージは当初からあったわけですよね。

LEO:ありましたね。エレクトロニクスのアルバムにしようとまでは考えてなかったんですが、たぶんあまりにも自然なことすぎて、考えるまでもなくこうなったみたいな感じですかね(笑)。たとえば、ドラムと生のお箏の音とではさすがに噛み合わないので、コンデンサーで音圧をピシッと揃えつつEQをいじるとか、箏の音圧を上げるためのなにかが絶対に必要なんです。だから、当たり前にそうなるだろうなあとは思っていました。ただ想定していたより知識が必要でしたので、制作しながら勉強して、結果的につくりはじめる前よりも自由にエレクトロニクスを扱えるようになりました。

若い頃からおぼろげに描いていたものの集大成になったと思いますか?

LEO:集大成というのとはちょっと違っていて。

逆に、やっとファースト・アルバムができたというような感じですか?

LEO:そのほうが近いですね。もちろん、これまでのアルバムもとっても気に入っている作品ではありますが、これまでのアルバムたちは、極端に言うと、箏っていう楽器があって、それを弾いているぼくというメディアがあって、ぼくというメディアを通すことで箏という楽器自体を広げているような考えで。それはそれで今後もつづけていきたい。でも今回のアルバムは、ぼくという人間を、箏というメディアをとおして、そして箏だけじゃなくてパソコンとかいろんなメディアを使いながら表現したアルバムという感じなんです。そういう意味では1枚目になるかもしれないですね。

LEOさんの作家性が確立した1枚みたいな。

LEO:そうですね。以前の技量じゃここまでのものはできなかった。紆余曲折を経てきたこと自体がよかったことで、ここに来てひとつ新しい世界を開けたような感じはあります。

ちなみに、活動名として名前をシンプルに「LEO」にしたのはどういった理由からでしょうか? ほかにもおなじ名前の方がいたり、検索しづらかったり……

LEO:これはね、ぼくはデビューがすごく早くて19歳だったんですが、お話をいただいたのが18のときだったんですね。高校生で、音楽業界のこともまだ右も左もわからず、当時は師匠の沢井一惠先生にもいろいろディレクションしていただいていました。その師匠の案が「LEO」でした。たぶん、純邦楽、伝統的な文脈のリスナー層に向けて、現代的なインパクトのある名前に、という意図があったのではないかと思います。たしかに、検索しづらいんですけど。

なるほど。最後に、また最初の話に戻りますが、『In A Landscape』のライナーノーツで松山晋也さんがLEOさんにインタヴューされていて、インターナショナル・スクールで箏をはじめた背景としてご自身がハーフだったこともあり、日本人らしさを伝えるためのツールとしても箏があった、という経緯が語られていました。そうした日本への葛藤みたいなものは、いまでも抱えていますか?

LEO:ああ、それはまったく抱えてないですね。

もうなくなりましたか?

LEO:はい。当時、家ではずっと日本語を喋っていて、英語がうまく話せなかったんです。でもインターナショナル・スクールでは授業もぜんぶ英語で、言語の壁のせいでコミュニケーションが苦手になっていて。だから、音楽というコミュニケーション・ツールがすごく刺さった。そこでさらに箏という楽器のキャラクターが自分とも噛み合った。その後、藝大に行ったり、ありがたいことに注目も浴びたり、箏をいろんなところで紹介する機会も増えて、責任みたいなものも感じるようになって。師匠の沢井一恵先生だけじゃなくて、いろんな方からもお話を聞きますし、同級生のほかの和楽器をやっているひとたちとか、いろんなひとを見て、いろんなことを考えました。そうするなかで、葛藤も、逆に責任も、徐々に吹っ切れていって。だから、そういうことをもう考えなくなってつくったのが今回のアルバムです。もっと自由なスタンスで、自由に音楽をやるほうが、表現は楽しいなと思っています。なのでいまは葛藤はないです。

Homie Homicide - ele-king

 東京を拠点に活動するバンド、Homie HomicideがついにデビューEPを送り出すことになった。Rio(ヴォーカル)、北山ノエル(ギター)、伊郷寛(ベース)、そして小山田米呂(ドラム&ギター)の4人から成る彼らは、ライヴを重ねつつ、これまでSoundCloudにデモ音源を発表してはいたものの、正式なリリース作品としては今回が初となる。
 7インチは表題曲 “Long Goodbye” に “Pixels” と “Slumber” を加えた計3曲を収録、発売は8月15日とのことだが、フィジカルに先がけ本日より各種ストリーミング・サーヴィスで配信がスタート。アートワークはメンバーのRioが手がけている。まあまずは聴いてみてください。夢のようなヴォーカル、美しきギターの肌理、宅録のよさがぎゅっと詰まってます。
 そして喜ばしいことに、リリース・パーティも開催されるとのこと。9月15日(月)は幡ヶ谷FORESTLIMITに集合です。

◆Debut Release
Homie Homicide
Long Goodbye

・フィジカル
https://form.jotform.com/251900975945467
・バンドキャンプ
https://homiehomicide.bandcamp.com/album/long-goodbye
・ストリーミング
https://linkco.re/db1dByTH

◆Long Goodbye Release Party
会場:幡ヶ谷 FORESTLIMIT
日時:9/15(月)18:30 open / 19:00 start
出演:Homie Homicide, Cali Dewit, ROTTENLAVAII, 根本敬
入場料:¥2,000+1 drink

イベント予約リンク
https://app.jotform.com/homie-homicide/homie-homicide

Greil Marcus - ele-king

 映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』を、去る5月某日水曜日の午後、下高井戸の映画館で観た。都心での興行を終えてからの上映だ。平日の昼過ぎ、さぞかし空いていることだろうと思ったが、上映時間の10分前に到着したら長い列が待っていた。整理券をもらうと69番目、ぼくのうしろにも人は並んだ。客席の7割はぼくよりも年配の方々だった。彼ら・彼女らは、このスタア誕生物語をどのように思われたのだろうか、と観終わってからぼくは思った。
 何人かの知人からは「これで若い子たちが興味を持ってくれればいい」という前向きの感想を聞いた。映画の内容はともかくディランに注目する機会をもたらしたんだからそれでいいんじゃないのか、と。じっさいに年齢が若い子や若くはないがこれまでディランに関心のなかったひとたちがこれでディランを聴くことになればいいじゃないかという意味だ。
 なるほど、だとしたら、この映画で興味を持った人たちたちが、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルではハウリン・ウルフも出演して、5万人の聴衆のなかの黒人たちは立ち上がって踊っていたこと、“風に吹かれて”を聴いてサム・クックが“チャインジ・ゴナ・カム”を作ったこと、ディランが市民運動史における最初のクライマックス、ワシントン行進でジョーン・バエズらと歌っていること、もっと言えばスーズ・ロトロが公民権運動にコミットしていたこと等々の基本的なこともいずれは知ることになるのだろう。“ライク・ア・ローリング・ストーン”が6人編成のバンドといっしょに2日間にわたって24テイク録音し、4ヴァースで構成された6分ほどの曲を通して演奏できたのはわずか2回だけだったことであるとか、そして、バエズをして「最高のプロテスト・ソング」と言わしめた、あのすばらしい“ハッティ・キャロルの寂しい死”、あるいは“はげしい雨が降る”を聴いて、ぼくのようにあとから聴いた人間のなかにも忘れがたい深い余韻を残すことになるのだろう。
 だとしたら、あの映画では、古い価値観に縛られた迷惑な化石として描かれているアラン・ロマックスのような人たちの、「フォーク・ミュージック」を探し、集め、その魅力を伝えるために費やした労のことも知ることになるのだろう。というか、本来「フォーク・ミュージック」というものが、アコースティック・ギターの弾き語りのことではないという歴史的な事実を知ることになるのなら、ぼくも「これで若い子たちが興味を持ってくれればいい」と言おう。音楽には二種類あって、権威に守られてきた音楽、庶民のあいだで(記譜されることなく)歌いつがれてきた音楽、「フォーク・ミュージック」は後者の音楽のことである。
 映画が間違っていると言いたいわけではない。あれはあれでたしかにディランなのだ。夜でもサングラスをかけるファッション・スタイルを確立し、ストーンズと同様に「生意気な振る舞い」を定着させたのはディランだ。既存の価値観をせせら笑うアウトサイダー、そんなロックスターの原型を作った男……。
 もっとも、ディランのなかにはいろんな人格(キャラ)があって、そのすべてがディランであるという、ややこしさがある。もうひとつのディラン公認のディラン映画『アイム・ノット・ゼア』では、6人の役者が六つのディランを演じているわけだが、我らがボブ・スタンレーはディランについてこんな風に書いている。「ディラン以前には、すべてのポップスターは外の世界にペルソナを投影していた。(…)ビートルズやストーンズでさえ自分たちが何者であるかをはっきり伝えていた。ボブ・ディランは違った。(…)彼はまるで自分だけの惑星のようで、人びとは必死にその惑星への行き方を知りたくなった」。ガーランドにしろホリデーにしろシナトラにしろプレスリーにしろ、彼女・彼らにははっきりとしたひとつの個性(自己イメージ)があった。しかしディランというのは、自分をひとつの個性で売り出すことを拒んだ最初のポップスターだった、とスタンレーは言っている。
 ディラン研究のベテラン、グリール・マーカスも大枠はそうだ。ディランの多面性を「他者のなかに自分を見る」能力に由来すると見ている。ディランの共感力、他者の人生との同一化、ディランの本質はそこにあると。

******

 マーカスが2022年に上梓した『フォーク・ミュージック——ボブ・ディラン、七つの歌でたどるバイオグラフィー』の日本版を7月末に刊行できることになった。この本では映画の “スタア誕生物語” 的な性質は削除され、話の単純化によって犠牲になったものたちが幽霊のように浮かび上がっている。とくにアメリカの抑圧と暴力のなかで存在する黒人文化(ブルース、そして公民権運動)、それらと共鳴していたアメリカのフォーク・ミュージックに焦点が当てられている。それはもう、マーカスのおはこである。
 ぼくもグリール・マーカスの『ミステリー・トレイン』に衝撃を受けたひとりだ。ロックについて書くことが、その人気にへつらった付属物でも、偉そうな審査員でも、安っぽい自分語りでも、情報オタクでもなく、ひとつの独立したエッセイたり得るか、それを最初に、しかも極めて大胆に、かつ学究的でありながら情熱的に具現化した最初の本だ。音楽作品と映画、文学を横断しながら歴史を往復し、「衝動と欲望の権化、自由と復讐、スタイルと死を体現する存在、限界のない生を生き、ときには帽子ひとつのために人を殺すような悪漢」——スタッガー・リー神話をもってスライ&ザ・ファミリー・ストーンについて書いた文章は、ぼくのなかで音楽について書くことの意味をすっかり変えてしまった。もし音楽ジャーナリズムと学問の架け橋というものが存在するなら、それはこの人の功績である。
 『フォーク・ミュージック——ボブ・ディラン、七つの歌でたどるバイオグラフィー』はいまから3年前にグリール・マーカスが上梓した本で、これまでさんざんディランについて書いてきた作家による最新版だ。ディランの七つの曲を取り上げ、マーカスはディランについて語るわけだが、それはアメリカを語ることへと拡張される。マーカスの文章に親しんでいる方にはお馴染みのマーカス節だが、扱うべき領域が広大で、直線的な時間軸から逸脱し、その学識がしばしば突飛な推論へと転じることから、初めて読む人は面食らうかもしれないが、これが60年代のアメリカが生んだもっとも尊敬されているロックの文章だ(マーカスに匹敵するライターは、ほかにレスター・バングスしかいない)。最初の一曲は、もっとも有名な“風に吹かれて”だが、ディランが21歳のときに書いたこの曲が南北戦争の記憶へと結ばれ、そして『フリーホイーリン』のジャケットではほとんどフェチ化(映画でもなかばその扱いだったが、要するにかわい子ちゃん扱い)されているように見えるスーズ・ロトロが、この章ではどれだけ同曲において重要であったか主体化される。また、“時代は変わる”の章では、1964年の同曲が2021年1月6日のアメリカ連邦議会襲撃事件に照射される。マーカスが60年近く聴き続けていると書いている、あの怒りと悲しみの“ハッティ・キャロルの寂しい死”に関しては、かなりアクロバティックではあるが、ローリー・アンダーソンの“オー! スーパーマン”との対話をもってその予言的な曲を再考する。悲運の天才シンガー、カレン・ダルトンについて書きながら、囚人たちの嘆きを綴ったバラッド曲“ジム・ジョーンズ”におけるディランの翻訳力を説いた章も読み応えがある。本書の掉尾を飾るのは、2020年発表の“最も卑劣な殺人”——最初に聴いてから、何回も聴かずにはいられなかった曲——だが、どうかこの最後の一文までたどり着いてほしい(読書の快楽だ)。

 誰もが問う問題。では、ディランとは何者か? そのつかみどころのない存在をマーカスが表現したのが本書『フォーク・ミュージック』であるのだが、この翻訳権を得るために交渉した際、日本版を出すにあたってマーカス本人からひとつだけリクエストがあった。それは最初のページに入っている写真(ジェイムズ・ボールドウィンとの2ショット)は必ず入れること。つまり、黒人文化とディラン、そして「フォーク・ミュージック」(庶民の歌)、これらは大きなキーワードになっている(計らずとも、映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』がまったく言及しなかった領域は語られている)。また、もうひとつ、1960年代(*)という歴史の大いなる分水嶺、話は飛ぶが、いまエレキング編集部はまさに「アメリカとは何か?」(誰もが知っているつもりでいながら、じつはしっかり理解されていない)という特集号を作っているのです。こうご期待。

 最後に、ディランに興味はあるけど、いきなりマーカスは難しい、という人のためにディラン入門として最良の一冊を紹介します。2年前に刊行された北中正和の『ボブ・ディラン』(新潮新書)。中古盤で揃えている人には、60年代から70年代前半までの重要作の日本盤には、たいていは中村とうようと北中正和による質の高いライナーノートが付いているのもありがたいし、北中さんの『ボブ・ディラン』と一緒に『フォーク・ミュージック』もよろしくお願いします。

(*)1960年代、グリール・マーカスは、アメリカにおけるカウンター・カルチャーの一大拠点となったカリフォルニア大学バークレー校で文学を専攻した。彼はそこで、抗議と議論の熱狂のなかで『リヴォルヴァー』や『ブロンド・オン・ブロンド』、『ザ・ドアーズ』などをリアルタイムで聴き、あるいはロバート・ジョンソンをはじめとするブルーズを温ねている。西海岸の抵抗勢力を鎮圧すべく反動保守を味方に、レーガンが州知事となった瞬間を知っているマーカスは、レーガンが大統領になった年には鬱病になり、そして、彼にとって初めてアメリカの外側にある音楽=パンクについての論考を9年かけて書き上げる。それがかの有名な『リップスティック・トレイシーズ』である。

グリール・マーカス/坂本麻里子 訳
『フォーク・ミュージック——ボブ・ディラン、七つの歌でたどるバイオグラフィー』

P-Vine/ele-king books
7月29日発売
3500円+税

■グリール・マーカス(Greil Marcus)
 1945年カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。1963年にカリフォルニア大学に入学、『ローリング・ストーン』を創刊するヤン・ウェナーと知り合い、ロック評論家の第一世代の最前線として活動。1975年には、いまもなお読み継がれている『ミステリー・トレイン』の初版が上梓する。
 未訳だが1989年に出版された『Lipstick Traces』は、セックス・ピストルズの源流としてシチュアシオニズムやダダ、はては中世の千年王国論宗派にまで遡り、パンクを民衆の抗議詩の文脈のなかで論じた重要作として知られる。また、これも未訳ながらディランとザ・バンドが趣味で録音した「The Basement Tapes」からアメリカを論じた『Invisible Republic: Bob Dylan 's Basement Tapes』も影響力ある一冊。
 ほかにも多数に著作があるが、日本では以下の翻訳書がある。『ロックの「新しい波」 パンクからネオ・ダダまで』(三井徹 訳、1984年、晶文社)、『ミステリー・トレイン ロック音楽にみるアメリカ像』(三井徹訳、1989年、第三文明社)、『デッド・エルヴィス』(三井徹 訳、1996年、キネマ旬報社)、『ライク・ア・ローリング・ストーン─Bob Dylan at the Crossroad』(菅野ヘッケル 訳、2006年、白夜書房)

■坂本麻里子
 1970年東京生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業。ライター/通訳/翻訳者として活動。ロンドン在住。訳書にコージー・ファニ・トゥッティ『アート セックス ミュージック──コージー・ファニ・トゥッティ自伝』、ジョン・サヴェージ『この灼けるほどの光、この太陽、そしてそれ以外の何もかも──ジョイ・ディヴィジョン ジ・オーラル・ヒストリー』、マシュー・コリン『レイヴ・カルチャー——エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語 』、ジェン・ペリー『ザ・レインコーツ——普通の女たちの静かなポスト・パンク革命』、ハンナ・ロス『自転車と女たちの世紀』、マーク・フィッシャー『K-PUNK 夢想のメソッド——本・映画・ドラマ』『K-PUNK 自分の武器を選べ——音楽・政治』、ネイト・チネン『変わりゆくものを奏でる——21世紀のジャズ』ほか多数。

 マーク・スチュワートの遺作は素晴らしかったが、蝉さえ鳴かない高不快指数の街=東京で暮らしていると、どうしてもゆるくて、暑くない音楽に流れてしまうのが人のサガ。涼しくなる音楽で良いのがあったら教えてください〜。


Various Artists
Edna Martinez Presents Picó: Sound System Culture From The Colombian Caribbean
Strut Records

 ピコ、日本語にしたらこのカワイイ言葉は、コロンビアではサウンドシステム文化を指す。サウンドシステム文化とは、何もジャマイカの専売特許ではない。それは、音楽を聴きたいけれど家に再生装置やラジオなど高価で買えない人たちをターゲットにはじめた音楽がかかる酒場のことで、コロンビアのカリブ海沿い地帯では、それは「ピコ」という呼称で生まれ、栄え、いまも栄えている。ピコは見た目も面白いので、ぜひネットでその画像を探してほしい。二台のターンテーブルに2台のCDJとミキサーが一体となったそれぞれのピコは、それぞれの個性を表すためにカラフルな模様や絵が描かれている。 ピコの歴史は古く、庶民の祝祭の場として発展した。政府から10代の妊娠を促していると弾圧されても祝祭は止まらず、当然そこからは良い感じの音楽がたくさん生まれた。これは、ピコを探求したベルリンのDJ、エドナ・マルティネスがコンパイルしたアルバムで、その魅力を満載した素晴らしい編集盤だ。マルティネスによる詳細なライナーも素晴らしく(フィジカルで買った方がいい。ブックレットがある)、その歴史と展開──どんな音楽で踊り、どんな曲をもってサウンドクラッシュにおけるバトルを繰り広げてきたかを知ることができるし、チャンペータ、ハイライフ、ルンバ、ズークといったカリビアン音楽のパワーをもらって、ラテンを見習おうという気持ちになれる。全16曲、基本的にダンスのための音楽で、これを聴いていると猛暑も悪くないなと思えてくるのだ。大推薦。


KiF Productions - Still Out

 ザ・KLFの『Chill Out』のカヴァー・アルバムといえば、DJヨーグルトのがあった。デボン海岸の孤立した小屋で録音された『Still Out』はミュージシャン兼プロデューサーで幼なじみのウィル・クックソンとトム・ハヴェリーによるオマージュ・アルバム、英国の田園地帯を意識して作られたというだけあって、牧歌的な心地よさと瞑想的な音響が相まっている。聞き流しもできるけれど、『Chill Out』のファンはついつい注意深く聴いてしまうという悪いクセがあっていけない。ますます暑くなるじゃないか。でも、総じて良い感じだ。少なくとも清涼飲料水のChill Out(この言葉の出自/意味を知っているのだろうか)よりは落ち着く。


Pan American & Kramer - Interior of an Edifice Under the Sea
Shimmy-Disc

 シカゴのパン・アメリカ(マーク・K・ネルソン)のギター・サウンドは、基本的にどれを聴いても、少なくとも暑くはならない。元1/2ジャパニーズで〈シミー・ディスク〉のクラマーとの2度目のコラボレーション作品は、絵画的で、まったく素晴らしいアンビエント・ミュージックになっている。秋でも冬でも聴いていられる、至高のミニマル・ミュージック。大推薦。


Madalitso Band - Ma Gitala
Bongo Joe

 アフリカ南東部に位置し、国土の5分の1を湖が占める美しく、細くてもっとも貧しい国、マラウイから素晴らしい音楽が届いた。ギターをもって、ほこりっぽい路上で演奏された音楽は数年かけて磨かれ、いまでは世界中にファンを増やしている。これはスイスのレーベルからの3枚目のアルバムで、まったく飾り気のないシンプルな演奏が聴ける。最高に楽しい演奏が、この猛暑をぶっ飛ばすだろう。


Lophae - Perfect Strangers
Gregory J E Sanders

 ロ・ファイとはUKジャズ・バンドで、グレッグ・サンダース(ギター)、ベン・ブラウン(ドラム:ムラトゥ・アスタテケとの共演でも知られる)、トム・ハーバート(ベース:ポーラー・ベア他)、サム・レイプリー(サックス)から成り、本デビュー・アルバムのエンジニアはベネディクト・ラムディン(ノスタルジア77)。総じてメロディアスで、ゆったりとした演奏が魅力的。UKらしくボサノヴァかラテンなんかも入ってくる。とくに目新しさはないが、しかし確実に役に立ち、何度も聴いていられる。


Biosphere - The Way of Time
AD93

 ノルウェイーはオスロ在住、アンビエントのベテラン、バイオアフィアがロンドンの〈AD93〉からアルバムをリリース。透明感のある心地よい寒さが部屋のなかに広がれば、気分すっかりスカンジナビア半島……というわけではないが、没入観は抜群にある。曲中には1951年のラジオ・ドラマ『The Way of Time』の台詞がカットアップされている。


Jonny Nash - Once Was Ours Forever
Melody As Truth/Plancha

 毎週末、オレンジのシャツを着て、オレンジの自転車に乗って、オレンジのタオルで汗を拭きながらオレンジのチームを応援している世田谷在住のじじいにしたら、数年前に参政党が出てきたとき、まずその政党カラーにむかついた。オレンジとは、清水であり(新潟、大宮、愛媛であり)、バレンシアであり、そして栄えあるオランダ代表チームの色だ。というわけで最後はオランダから、日本で人気のジョニー・ナッシュの新作。池田抄英(マヤ・オンガク)、トモ・カツラダ(ex幾何学模様)、サトミマガエが参加。フォーク、アンビエント・ジャズ、ドリーム・ポップの境界をまたぐアルバムだと解説に書いてある通りで、やたら気持ちいいこのサウンドに包まれながら、オレンジ色の夕陽を見てチルするしかない。

Stereolab - ele-king

 未来を見つめるために過去を振り返るのは、つねにステレオラブの習慣の一部だった。アートワークには1960年代の実験的なステレオ・テスト・レコード盤の要素を取り入れ、音のルーツはクラウトロックの攻撃的でモータリックなモダニズム、フランス現代思想や戦後のマルクス主義の変種などの緩めの解釈、ルチア・パメラやノーマン・マクラレン等の創造力豊かな変わり者たちによるポップ・カルチャーの難解な奥義などの多岐にわたる過去から引き出したあらゆる要素が、政治批判、技術楽観主義、そして子どものようなクリエイティヴな遊びを融合させた、進歩の土台となる精神を構築してきた。
 
 だが、その進歩という考え方が、なかなかトリッキーではある。ステレオラブの新譜があなたを本当に驚かせたのはいつが最後だっただろうか? 私にとって、それはおそらく2001年の『Sound Dust』だったのではないかと思うが、すでに1997年に『Dots and Loops』がリリースされた時点で、ステレオラブのアルバムを思い浮かべるときに必要なすべての要素が揃ったと感じていたことにも言及しておきたい。とはいえ、それ以降の作品に創造性が欠如していたわけではない。グループはしばしば、自分たち自身で障害物をこしらえて、グルーヴを壊し、プロセスを複雑化して、お決まりのパターンに陥るのを防ぐことを繰り返してきた。2004年の『Margerine Eclipse』で特にその手法が際立っているが、このアルバムは“デュアル・モノ”方式で録音され、ふたつの独立した録音が各チャンネルにあり、それらが組み合わさって音が聴こえてくるというものだった。

 『Instant Holograms on Metal Film』の制作過程でもそのような仕事がなされたのかは知る由もないが、2008年の『Chemical Chords』のセッションからの音源で編まれた2010年の『Not Music』以来の今回の新譜は、まさにステレオラブのアルバムらしい音に聴こえる。完璧なメロディの再構築、音楽的要素やテーマなど、愛聴家たちが期待するものが揃っている。私の周りの人びとの意見はというと、眩暈がするような興奮を覚えた人と、期待はずれだったという人に二分されている。ある人は“自動操縦(オートパイロット)化されたバンド”という表現で総括した。
 私はその批判は、的外れであると思う。何よりもその精緻な再現性だけで、“オートパイロット”化という言葉がほのめかす怠惰という疑いを晴らすことができるからだ。それよりも私が感じとったのは、17年ぶりに集まったミュージシャンたちがこの“ステレオラブ”と呼ばれるものの記憶を呼び覚まし、再構築するために懸命に努力する様子だった。最後に一緒に奏でた音楽から彼らを隔てた長い時間自体が、そのプロセスを複雑化する障害物として機能し、再びステレオラブになるという行為がその概念の枠組みとなっているのだ。
 これは、単なる技術の実践を超えたもののように感じてしまう。長い時間、離れていた音やプロセス、そして人同士が再接続を果たすという感情的な行為なのだ。

 冒頭から、“Mystical Plosives”の電子的なアルペジオが“Aerial Troubles”へと突入すると、何か強烈なものの存在を感じる。ビートが予想より一瞬だけ早く始まり、ポップなフックに辿り着こうと焦っていかのようだ。メロディとテーマだけで、アルバム発売前のシングル“Melodie Is A Wound”が“Ping Pong”と同じ作曲者によるものだとわかるが、いずれも、より広がりのある密度の濃い作品となっている。この曲とA面全体が、新しい家のすべての部屋を見せたくてたまらない、無我夢中な案内人に連れまわされているような感覚だ。
 ティム・ゲインとレティシア・サディエールはどちらも前回のアルバム以来、活発な活動を続けており、この再構築されたステレオラブの構造にも、それぞれの作品の要素が絡まっている。ティムのプロジェクトであるキャヴァーン・オブ・アンチ・マターのホルガ―・ツァップもゲスト参加した、インストゥルメンタルな“Electrified Teenybop!”はふたりのアルバムの一枚にも違和感なく収まりそうな曲だ。一方、レティシアが頻繁にコラボレートするマリー・メルレ(アイコ・シェリーの)がバック・ヴォーカルで参加している。
 ある意味、ティムとレティシアの、その間の数年にわたる活動が、彼らが自分たちの過去を振り返るというプロセスを必要とした大きな理由のひとつかもしれない。キャヴァーン・オブ・アンチ・マターがシンセティックなモダニズムのサウンドに激しく傾倒したのに対し、レティシアの方は、特に昨年の『Rooting For Love』では物理的なものと精神的なものに対峙していた。ステレオラブの開発ツールは、両者が再び一緒に演奏できるようにするだけでなく、それぞれの創造的なこだわりを追求する余地を提供しており、その枠組みのなかで両者のアプローチが絡み合うことが織り込み済みなのだ。

 『Rooting For Love』では、現代政治がかなり強調されていたが、それはより抽象的な形で詩的に表現されていた。だが『Instant Holograms on Metal Film』 では、資本主義の破壊的なダンスと、機能不全を好む独裁体制を、執拗に、鮮明に描いている。

「Is there some form of justice possible or (なんらかの正義の形というものは実現可能なのだろうか、それとも)/So long, public’s right to know the truth(国民の真実を知る権利の終焉か)/Gagged, muzzled by the powerful(権力者に口を塞がれて封じられ)/Cultivate ignorance and hate(無知と憎しみを増殖させる)」

 と、レティシアは「Melodie Is A Wound(メロディとは傷である)」で問いかけ、こういった率直な真剣さを嫌がる人たちの目を白黒させる。

 A面の、歌詞を通じて現在の混乱した社会情勢に対する社会的、政治的、そして経済的な批判をアルバムの基盤とするやり方は、音楽のより理論に基づいた側面と結びつき、彼女の宇宙的な進歩の処方への、ある程度の具体的かつ抽象的な入口を構築している。
 そして、おそらくここが A面の政治に対する真剣さに賛同していた人のなかでも、レティシアの政治観が精神的なものばかりでなく、ニューエイジの領域に近い要素にまで密接に結びついているために、離れてしまう人が出てくる分かれ目になっているのかもしれない。とはいえ、このアルバムは、ステレオラブがこれまで表現してきたなかでもっとも完全な、政治的かつ個人的な宣言となっている。全体を貫いているのは、ただ問題点を明らかにする
だけでなく、ある種の解決策への道筋を示そうとする献身である。 

「Juncture invites us to provide care (この岐路は私たちにケアの提供を促している)/Palliative (一時しのぎの緩和ケアを)/ For dying modernity (死にゆく現代性に)/While offering antenatal care for the inception of the new, yet undermined future (一方でまだ定まっていない新たな未来の始まりに産前ケアを提供しながら)/ That holds the prospect for greater wisdom (より大きな英知の可能性を持つ未来のために)」

 レティシアはこのように“Aerial Troubles”で語り、『Rooting For Love』の歌詞は、彼女の革命的な実践において、対立ではなく愛と共感を中心に据えていると言及している。

 “Wisdom(知恵・英知)”は彼女が繰り返し使う言葉だが、その使い方は“明晰さ”と大体一致しており、社会という名のフィルターを通して見る訓練がなされる前に世界を見透かしてしまう、子ども特有の純真さのような感覚のことなのかもしれない。おそらく、多少はフランス左派の哲学者、コルネリュウス・カストリアディスの影響もあるのだろう。彼はイド、自我と超自我に分割される前の子どもの精神を、精神的な単子(サイキック・モナド)と説明し、健全な社会には、内省のための精神分析的なツールが不可欠であると考えた。そのような自己分析なしでは、私たちは自分たちの意欲に気付けないばかりか、真の自律性を獲得することができず、自治制のない社会は機能しないからだ。
 フランス語のつづりによる“Monade”は、もちろん、レティシアが自身の名前のみを使って活動するようになる前に音楽をリリースする際に使用した名称だが、これは単なる精神分析学的な用語ではなく、グノーシス主義とも強く結びついた神秘的な言葉である。
 アルバムのB面へと進み、とくに豊かでサイケデリックなC面になると、歌詞の社会批判は、診断的な内容から治療の段階へと進み、彼らが描く救済への道には、だんだんとグノーシス主義的な宇宙論が映し出される——資本主義の現実主義的支配者、デミウルゴス(“Vermona F Transistor”の神のふりをするジョーカー)が、人類が英知や啓発を得て、モナドの高潔で純粋な光の中で真の人間性を手に入れるのを妨げようとするが、その神聖な一部の火花は本来、我々がそれぞれ内包しているものなのだ。

 だが、ここで重要なのは、これらの表現方法のすべてが、本質的には個人的なものへと行き着くことなのだ。レティシアが“Vermona F Transistor”で「The architect, our higher self (建築家という私たちの高次なる自己)」と歌うその言語は霊的なものであり、「Explore without fear the rhizomic waves (恐れることなく、根茎状の波を探索せよ)」と歌うところでは、ドゥルーズとガタリの批判理論を想起させるが、“Esemplastic Creeping Eruption”のタイトルでは、コールリッジの詩の言葉を引いており、一体感(wholeness)と結合(union)という繰り返されるテーマは、宗教、心理学、政治と愛における語彙の核心的な部分だ。  「統合」のテーマは、バンドの再結成という文脈において、特に心に迫るものだ。“Esemplastic Creeping Eruption”のエンディングの歌詞

「It is because I am you, it’s because you are me (なぜなら、私はあなたであり、あなたは私だから)/Eternally entwined, mirage of separateness(永遠に絡み合った、分離と言う幻影)/Meeting with a stranger, a lost part of myself (見知らぬ人との出会い、失われた自分の一部) /It’s because I am you, it’s because you are me (なぜなら、私はあなたであり、あなたは私だから)/Two halves of one(一個の二つの半身)/Union, compound (結合、複合)」

は、人間に共通する普遍的なテーマとしても解釈できるが、ステレオラブ自身にとっても、強力な響きを持つ文脈となっている。

 アルバムの最終面は、注目を集めたがるA面や暗さのあるB面、サイケデリックなC面とは対照的に軽やかで、爽やかさと安心感のある音調になっている。最終面より前の面でも探求された多くのテーマを再訪するが、アルバムと同様に、次へと漕ぎ出す出発点として過去に焦点を当てている。“Colour Television”が「Open are the possibilities(可能性は無限に広がっている)!」と宣言し、“Flashes From Everywhere”では、「冒険的な進み方」を約束している。

 最終的に、政治批判や哲学、心理学、宇宙論といった深遠な風景を駆け抜ける、目の回るような旅の後にステレオラブが『Instant Holograms on Metal Film』で提示する前進への道は、決して不明瞭なものではないし、大袈裟なものでもない。彼らはただ、こう言っている。「自分自身の意欲と偏見について熟考し、明晰さと自律性を獲得しよう。その明晰さで異なる可能性を探求し、自分自身と他者を、精神的、社会的に、あるいは長年離れていたポップ・グループとして、同一のものの一部として結びつき、大胆に、自由に創造しよう」


by Ian F. Martin

The idea of looking back in order to look forward is one that’s always been a part of Stereolab’s praxis. The artwork that drew from 1960s experimental and stereo test records, their sonic roots in the aggressive, motorik modernism of krautrock, various loosely interpreted strains of French Theory and postwar mutant Marxism, the pop cultural esoterica of creative eccentrics like Lucia Pamela and Norman McLaren — it all drew from the past to construct an ethos combining political critique, technological optimism and childlike creative play as a platform for progress.

That idea of progress is a tricky one, though. When was the last time a new Stereolab album really surprised you? For me, perhaps that was 2001’s Sound Dust, although I’d argue that all the key elements you need to imagine a Stereolab album were in place with the release of Dots and Loops in 1997. That’s not to say there was a lack of creativity at work beyond that point, though: the group would often construct roadblocks for themselves to throw themselves off their groove, complicate their process and prevent themselves from falling into patterns. They do this most strikingly in 2004’s Margerine Eclipse, which was recorded in “dual mono” with two independently coherent recordings, one in each channel, that combine to create the song you hear.

Whether there was some process of that kind at work behind the scenes of Instant Holograms on Metal Film, I don’t know, but this first new album since 2010’s Not Music, which was itself pieced together from recordings made during the 2008 sessions for Chemical Chords, sounds exactly like a Stereolab album: an immaculate recreation of the melodies, musical elements and themes a fond listener would expect. Opinions among people around me have been split between giddy excitement and disappointment: a feeling one person summed up as of “a band on autopilot”.

I think that criticism misses the mark. The meticulousness of the recreation alone absolves the band of the suggestion of laziness “autopilot” implies. Rather, the sense I get is of musicians working together for the first time in seventeen years, working hard to remember and reconstruct this thing called Stereolab — the gulf of time that separates them from their last music together itself functioning as a roadblock that complicates their process, the act of becoming Stereolab again its own conceptual framework.

It feels more than just a technical exercise, though. It’s an emotional process of reconnecting with sounds, processes and people after a long time.

From the start, as the electronic arpeggio of Mystical Plosives bursts into Aerial Troubles, there’s something insistent, beats kicking in just a moment before you’re expecting them, almost an impatience to get to the pop hook. Both in melody and themes, early single Melodie Is A Wound is identifiably the same songwriters who wrote a song like Ping Pong, but it’s both more expansive and densely packed. The song, and the whole of side A, really, feels like being swept along by a deleriously enthusiastic guide, eager to show you all the rooms of their new house.

Tim Gane and Laetitia Sadier have both been active over the years since their last album, and elements of both their own work twine through the structure of the reconstructed Stereolab. Holger Zapf from Tim’s project Cavern of Anti-Matter makes an appearance, and the instrumental Electrified Teenybop! would fit just as easily into one of their albums. Meanwhile, Laetitia’s frequent collaborator Marie Merlet (of Iko Chérie) joins on backing vocals.

In a way, Tim and Laetitia’s work in the intervening years may be a big part of what makes this process of looking back on their own past necessary. Where Cavern of Anti-Matter leaned hard into the sound of synthetic modernism, Laetitia, especially on last year’s Rooting For Love, sought to engage with the physical and the spiritual. The Stereolab toolkit allows them both to play together again, offering space for each to explore their own creative obsessions within a framework where the intertwining of those approaches is baked in.

Where contemporary politics underscored much of Rooting For Love, they do so lyrically in a more abstract way. Instant Holograms on Metal Film, though, lays out with urgent clarity the destructive dance of capitalism and its dysfunctional lover authoritarianism.

“Is there some form of justice possible or / So long, public's right to know the truth / Gagged, muzzled by the powerful / Cultivate ignorance and hate,” Laetitia asks on Melodie Is A Wound, no doubt causing all the sorts of people who cringe at such direct earnestness to roll their eyes.

The way Side A grounds the album in a social, political and economic critique of the current troubled climate both links the album lyrically with the more theoretical side of the music, and constructs a more or less tangible entry point for her more cosmic prescription for progress.

This is probably the point where even some of those who were OK with the political earnestness of Side A begin to check out, because Laetitia’s politics are woven intimately with something spiritual, even new age-adjacent. However, the album maps out what might be the most complete political and personal manifesto Stereolab have ever expressed. What underscores it all, throughout, is a devotion to not just identifying problems but mapping out some sort of route to a solution.

“The juncture invites us to provide care / Palliative / For dying modernity / While offering antenatal care for the inception of the new, yet undetermined future / That holds the prospect for greater wisdom,” she says on Aerial Troubles, and ss on Rooting For Love, the lyrics here centre love and compassion rather than conflict in her revolutionary praxis.

The word “wisdom” is one she returns to again and again, used in a way that seems to be roughly congruent with “clarity” and perhaps the sense of childlike innocence that sees the world clearly through eyes that haven’t yet been trained to see through society’s filters. There’s perhaps the influence of French leftist philosopher Cornelius Castoriadis in this, who describes a child’s psyche before it is broken up into the id, ego and superego as the “psychic monad”, and saw the psychoanalytical tools of self-reflection as crucial to a healthy society, because without such examination, we cannot be conscious of our motivations and therefore be truly autonomous, and a society cannot function without autonomy.

Monade (in the word’s French spelling), of course, was the name Laetitia used to release music under before settling into using her own name alone, and it’s not just a psychoanalytical term but a mystic one with strong connections to gnosticism.

As the album moves into Side B and especially the richly psychedelic Side C, and the lyrics’ social critiques move from the diagnostic to the curative, the route they sketch out towards salvation increasingly mirrors gnostic cosmology — the archons of the capitalist realist demiurge (“the joker who pretends a God to be,” of Vermona F Transistor) holding humanity back from attaining wisdom or enlightenment and experiencing their full humanity in the incorrubtible pure light of the monad, part of whose divine spark we each contain.

Importantly, though, all these modes of expression come down to something fundamentally personal. The language is spiritual on Vermona F Transistor when Laetitia sings “The architect, our higher self”, it recalls the critical theory of Deleuze and Guattari where she sings “Explore without fear the rhizomic waves”, it draws language from the poetry of Coleridge in the title Esemplastic Creeping Eruption, and the repeated theme of wholeness and union is a key part of the vocabulary of religion, psychology, politics and love.

That theme of union is a poignant one in the context of the band’s reunion. The ending of Esemplastic Creeping Eruption with the lines “It is because I am you, it's because you are me / Eternally entwined, mirage of separateness / Meeting with a stranger, a lost part of myself / It’s because I am you, it's because you are me / Two halves of one / Union, compound” can be read as a general statement about collective humanity, but rings powerfully in the context of Stereolab itself.

The final side of the album takes on a lighter, breezier, more reassuring tone than the attention-hungry Side A, the darker side B and the psychedelic Side C. It revisits many lof the points explored on the earlier sides, but perhaps like the album itself, its focus is on summarising the past as a kicking off point for where to go next. “Open are the possibilities!” declares Colour Television, with Flashes From Everywhere promising an “Adventurous way to proceed”.

For all the giddy journey they take you on through this esoteric landscape of political critique, philosophy, psychology and cosmology, the route forward Stereolab offer on Instant Holograms on Metal Film isn’t an obscure one, in the end. It’s not a grand one either. It simply says: reflect on your own motivations and biases in order to achieve greater clarity and autonomy; use that clarity to explore different possibilities; see yourself and others united as part of the same thing, whether spiritually, as a society, or maybe even as a long-separated pop group; and create boldly and with freedom.

Nick León - ele-king

 レゲトンのサブジャンルにネオペレオ(Neoperreo)がある。簡単にいえば少し陰のあるレゲトンで、10年代前半にチリのトマサ・デル・レアルとアルゼンチンのミズ・ニーナがハッシュタグに用いたことでジャンル名として定着したという。ペレオというのはレゲトンと呼ばれる以前のレゲトンのことで、レゲトン自体がいつ始まったのか定かではないために(ノリエガでよくね?)どの時期までを指すのか人によってまちまちだけれど、いずれにしろネオペレオという呼称自体はレゲトンの新たな展開を意味している(ネオ・ペレオ=ニュー・レゲトン)。ちなみに黎明期のレゲトンに回帰する動きはペレオコアなどとも呼ばれたり。勃興期のネオペレオは女性中心で、セクシュアリティに言及する歌詞が多く、すぐにもスペイン系のバッド・ギャル(Bad Gyal)やロザリオ、ホンジュラス出身のロウ・ジャックがプッシュするクララ!などヨーロッパの女性プロデューサーへと飛び火していった。10年代後半に入ってネオペレオがL.A.で隆盛を極めるとブラック・アイド・ピーズやバッド・バニーなどメジャーへと波及し、その一方で、ジャム・シティやケルマン・デュランなどアンダーグラウンドなプロデューサーたちがデコンストラクティッド・クラブとしてマイナー・チェンジを重ねたものがより音楽的な面白さにフォーカスしていった。僕が最初に興味を持ったのもコード9とベリアルによるミックスCD『Fabriclive 100』に収録されていたウルグアイのレチュガ・ザフィロ(Lechuga Zafiro)で、ぴちゃぴちゃと水の跳ねる音をビートに使った“Agua y puerta”は実にシュールで、ヴィデオも鮮烈な印象を残した。レタス・サファイアという意味のレチュガ・ザフィロが同じ年にリリースした「Aequs Nyama Remixed」では早くも700ブリスがリミックスに起用されていて、音楽的な広がりに対する期待が一気に加速したことも忘れがたい。さらにはアルカである。コロナ禍に5枚連作でリリースされた『Kick』にはシリーズの前半でレゲトンとともにネオペレオがフィーチャーされ、ストリート・ミュージックとして発展してきたネオペレオがそれはもう見事なほどグリッチと手を結んでいた。アルカはその後もシングルで“KLK”(20)、“Prada/Rakata”(21)、“Chama”(24)、“Puta”(25)、“Sola”(25)とネオペレオを連発。優雅で高貴な世界観を増幅させることに余念がない。バッド・バニーとアルカは同じ2020年のリリースであり、メジャーにもアンダーグラウンドにも広がっていたネオペレオはコロナ禍でやや減少傾向に転じたものの音楽的な勢いが衰えた印象はなく、ニコラ・クルズ&イザベル・ラヴストーリー、フロレンティノ、デング・デング・デング、シャイガールと様々な方向に触手を伸ばし、ビリー・アイリッシュやビョークともコラボレイトしたロザリア『MOTOMAMI』(22)やリズ『Extasis Silicone』(23)などメジャーでも充実作が続いている。トキシャ(Tokischa)“CANDY”やLSDXOXO(エルエスディーエックスオーエックスオー)“Freak”のヴィデオを観ていると『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の人気がどこから来たものなのかよくわかるというか。

 12歳でレゲトンに人生を変えられたというニック・レオンによる9年ぶりのセカンド・ソロでもネオペレオは大々的にフィーチャーされている。 マイアミ・オールスターズによる『Homecore!』で書いた通り、「マイアミを音楽都市として再浮上させたプロデューサー」として高く評価されるニック・レオンはかねてからDJパイソンやケルマン・デュランと同じくレゲトンとアンビエントの接点を探ってきたこともあり、ここでもネオペレオから陰の部分を多く引き出すことに成功している。冒頭から初期のソフィを思わせるザンダー・アーマドのヴォーカルを起用した“Entropy”。ファヴェーラ・ファンク(バイレ・ファンキ)を基本としながら仕上がりはマイアミ流のバブルガム・ベースといった趣で、これにアトモスフェリックな浮遊感をたっぷりと混入させ、後半はパーカッションを強調。続く“Ghost Orchid”と“Metromover”はその余韻を受け継ぐかたちでネオペレオとUKガラージの接点を模索しながらゆらゆらと水の中を漂っていく。前者にはダンスホールのエラ・マイナスが起用され、カリブ海文化に対するレオンの強い執着を窺わせる(ニック・レオンはオークランド出身説もある?)。『熱帯の無秩序(A Tropical Entropy)』というタイトル通りヘンな効果音にまみれた“Millennium Freak”はアグレッシヴなチャンガ・トゥキ。中南米産とはかけ離れたシャープなプロダクションが臨場感を掻き立て、勢いを増したパーカッションはM.I.A.を彷彿させる。
“Hexxxus”、“Crush”とソリッドでクールな展開が続き、“R.I.P. Curren”で少しテンポ・ダウン。海中を疾走していくようなイメージに変わる。珍しく男性ヴォーカル(Lavurn)を起用した“Product of Attraction”は竜宮城を巡るイメージでしょうか。“Ocean Apart(海から離れて)”でも男性ヴォーカル(Casey MQ)が続き、ビートが後退してメランコリックなムードに沈んだバブルガム・ベースを展開。短くまとめた“Broward Boyy”を波打ち際の音で締めくくり、エンディングにはヴォーカルにエリカ・ドゥ・キャシエを起用した先行シングル“Bikini”を再録。全体の出発点となった曲なのか、この曲が最も無邪気なムードにあふれている。この曲だけはなぜかマスタリングがラシャド・ベッカー

 レオン自身は彼のサウンドを建築を意味するアルキテクトロニカ(Arquitectronica)と称している。マイアミの建築物を指す典型的な用語だけれども、おそらくクラブ・ミュージックを自在につなぎ合わせたデコンストラクティッド・クラブと同じ意味なのだろう(?)。『A Tropical Entropy』の元になったイメージはジョーン・ディディオンの異色ルポルタージュ『マイアミ ― 亡命ラテン・エリートのアメリカ』(87)で、ケネディ暗殺、ウォーターゲート事件、レーガン・ドクトリン、イラン・コントラ事件などを通してキューバ革命でカストロに祖国を追われたキューバ人たちが亡命先となったマイアミでアメリカの外交政策にどのような影響を与えたかを考察した本だという。ドナルド・トランプの横にいつも立っているマルコ・ルビオ国務長官がまさにそうした出自を持つキューバ系で、祖国を憎むあまり、共産主義を憎み、イランや中国に対してかなり強硬な姿勢で臨む外交政策を現在進行形で続けているところである。『A Tropical Entropy』にはさらにドラッグ体験と睡眠不足によって引き起こされたオルタード・ステーツから得たインスピレーションも反映されているそうで、社会の崩壊にともなって人生が崩壊していく様を目撃したという個人的な体験が重ね合わされているのだという。さすがにそこまでは聴き取れなかったw。

マーク・スチュワートが永眠したのは2023年4月のことだった。そしてここに、彼の最後の言葉が綴られた遺作がリリースされた。

 昨年、思うところあってフランクフルト学派について、ほんの少し……ほんのひとかけらでありますが、でも勉強したことがあった。こと文化批評に関心がある人なら、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ヴァルター・ベンヤミン、マックス・ホルクハイマー、ユルゲン・ハーバーマスといった、いかにも気難しそうなドイツ人の名前にどこかで出会っているだろう。20世紀初頭、正確には1923年にフランクフルト大学との提携関係で生まれたマルクス主義(およびフロイトの精神分析学)の研究機関を通して論じられた資本主義批判および先駆的な文化批評は、こんにちでも、とりわけ悲観的な社会論評でしばしば引用されている。より身近なところで言えば、いまから8年前に我らがジェイソン・ウィリアムソン(スリーフォード・モッズ)がこの学派の本を読んで、歌詞のなかに活かしたことはコアファンの間では知られている(*)。また、マーク・フィッシャーの「アシッド・キャピタリズム」ではマルクーゼが再訪されているが、それは心が病むような労働からの解放を期して書かれた、フィッシャー最後の論考のほとんど下地になっている。

 フランクフルト学派はドイツ革命後に始動した、言うなれば(具体的な党派性には依拠しない)「文化系マルクス主義」、その先駆けだ。のちに実践派マルクス主義(肝心ななことは変革というマルクスの言に従った実力行使派)からの批判を大々的に浴びながら、彼らの研究は止むことなく数年後にはドイツを支配するファシズムへと向けられる。当然のことながらユダヤ系ドイツ人たちにとって、自分たちの生存のため、アメリカへの亡命は避けられなかった[*ベンヤミンのみ欧州で自害]。
 マルクス主義のドイツ人たちが1940年代のアメリカで歓迎されたのは、批判の矛先が両者ともにナチスにあったからだが、興味深いことにフランクフルト学派は、ファシズムを否定した精神をもって、自分たちを歓迎したアメリカへも批判の眼差しを向けるのだった。のちにマルコムXが「私たちはだまされていたんだ」と憤慨したり、ザ・レジデンツが「サード・ライヒン・ロール」と皮肉ったり、パブリック・エナミーが「ハリウッドなんて燃えちまえ」とラップしたように、もちろんムーディーマンがアメリカを「地上最大の盗人」と呼ぶよりもずっと前に、この理論家たちはアメリカに対して、ドイツから逃げてきたけどなんだかここにもファシズムの匂いがするぞと、おおよそ同じようなことを(マルクスという言葉を隠しながらも)遠慮なく言っているのだ。
 これら怒れるドイツ人たちは、戦争が終わってドイツに帰国しても資本主義への批判を緩めず、そしてまた、自らも大いに批判されもした。とくに学派の中心人物で、もっとも辛辣な皮肉屋として知られるアドルノは、実践こそを重視する新左翼にとっては批判の的だった。この頑固じいさんがジャズにケチを付けている話は有名だが、プロテスト・ミュージックも格好の批判対象で(*2)、当然ビートルズに対してもいい顔などしなかった。書を捨て町に出ようだと? そんなものは考えることを諦めた人間の自己憐憫だ、アドルノならそう言っただろう。嫌われて当然というか、それでもぼくは、アドルノが「理論を爆弾に変えること」を「安易」だと批判し、急進派のあまりの一途さを警戒した点については理解できる。ハーバーマスにいたっては、60年代後半に「左翼ファシズム」(*3)という言葉を発しているが、気難しいドイツのオヤジ連中は革命的衝動が全体主義へと、わりと容易に変貌してしまうことを知っていたのである。
 ただし、それがすべてではない。ここ10年で、スリーフォード・モッズやフィッシャーが蘇らせたマルクーゼは60年代末、若い実践派たちを擁護したどころか、新左翼の思想的支柱となり、自らも運動に参加した。おそらくベンヤミンも生きていたら同じことをしただろう、というのが識者たちの大方の見解だ。
 いずれにせよ、みんな同じなわけではなかった。活動家たちからは「所詮あんたらは、アカデミアという安全圏から不毛な批判理論を見せびらかせているだけ」と糾弾されても、ひたすら理論の研磨を続けたアドルノと、アメリカにおけるカウンター・カルチャーの拠点たるカリフォルニア大学に在籍し、その熱狂のさなかにいたマルクーゼは激しい論争をしている[*ちなみにその頃のマルクーゼのもっとも高名な教え子のひとりに、アンジェラ・デイヴィスがいる]。とにかく賛否両論、つねに矛盾をはらんでいたと言えるフランクフルト学派が、ではなぜいま関心を集めているのかと言えば、文化系マルクス主義者としての彼らが、誰よりも先んじて、文化産業や消費社会への容赦ない批判を繰り広げていたからにほかならない。アドルノたちが提示した資本主義がもたらす精神的荒廃は、現代ではスリーフォード・モッズがストリート言葉に翻訳しているのだ。

 少々乱暴に言う。労働者階級が自分の好きなブランドの服や車を買えるようになった時代においては、革命の主体となるはずだったプロレタリアートはすでに満足しているのだから、もはや世界を変える必要はない。そうなのか、いや、違う、マルクーゼが提起したのはこういうことだった──資本主義社会のなかで、車や洗濯機、しわになりにくいスラックスに囲まれて暮らしている者こそ、もっとも貧しい存在であり、そればかりか、もはや正気を失いかけてすらいると、そういう話だ。「貧困」とは生々しい経済のそれを指していると同時に、抑え込まれた可能性への意識も意味し、疎外され、非人間化された意識も含意している、と。なぜなら我々は、広告の正体をわかっていながらも買うことを止められない。我々は服を買っているのではなく、服が我々に買わせているのだ。消費社会が仕向ける支配構造。ぼくが「消費者ファシズム」という言葉を初めて聴いたのは高校生のときだった。ザ・ポップ・グループの7インチ・シングル「We are all Prostitutes」の歌詞で繰り返されていたのだ。

 ザ・ポップ・グループがUKポスト・パンクを代表するバンドであることは周知の通りである。彼らのサウンドが形式化されたパンクから著しく離れていたことは──要するにパンクにはできなかったことをやったという本来の意味でのポスト・パンクであったことは、きわめて重要だったとここで強調しておきたい。ザ・ポップ・グループには、形式化されたパンクが絶対にやらなかったリズムがあった──ファンクだ。
 また、ザ・ポップ・グループはマーク・フィッシャーが「ポピュラー・モダニズム」と呼んで賞揚したもの──20世紀初頭の芸術運動としてのモダニズムの要素(文学からシュルレアリスムまでの、その実験性、革新性、形式の刷新など)を大衆文化のなかに持ち込むこと──これはもう、パンク/ポスト・パンクに限らず、ザ・フーしかりデイヴィッド・ボウイしかりロキシーしかりイーノしかり、ほか多数しかり──、その象徴的なひとつでもあった。
 マーク・スチュワートは大きな人だった。じっさい背も高かったが、寛容力もあったと思う。いくつかの取材のなかで、ぼくはあまり面白くない質問、そのときの流行の音楽についての感想を訊いた。たとえば──フレンチ・エレクトロのような、ファッショナブルな流行はどう思うか? スチュワートは全面的に肯定してみせる。素晴らしい、俺は大好きだ。新しい世代の台頭にも肯定的だった。LCDサウンドシステムのような連中はどう思うか? 素晴らしい、俺は彼らのファンだ。一途な左翼思想を曲に込めたブリストル人の心は広かった。それは、経験のなかで拡張されたのかもしれない。ザ・ポップ・グループ時代には、共産主義者連盟や反アバルトヘイト運動、CNDなど、ガチな政治団体——すなわち実践派マルクス主義——との接触が多々あったわけだから、それはもういろいろ経験しているだろう。

 この夏にドロップされるマーク・スチュワートの遺作『The Fateful Symmetry』を聴いていると、彼のそんな大きさを思い出す。ここにも「ポピュラー・モダニズム」が生きている。カフェOTO[*実験/即興などハイブローな音楽のライヴで知られるロンドンのヴェニュー]系とトム・モウルトン[*70年代ディスコのDJ。リミックスの発明者]を分け隔てるべきではない主張するスチュワートにしたら、アルバムで援用されているクンビアやダブは、言うなれば敷居の低い大衆的な実験音楽だ。
 だが、そんなことよりもひっかかるのは、アルバムの題名である。これは、おそらくはウィリアム・ブレイクの有名な詩(The Tyger)の最後の一文からの引用だろう。だとしたら、スチュワートは本作が遺作になることをわかって作ったと言える。10代の彼は、ロートレアモンやフランス象徴主義の詩作品を好む文学青年だった。ブレイクも若き日に心酔した詩人のひとりで、彼のマフィア時代の12インチ・シングル「エルサレム(Jerusalem)」も極貧を生きた19世紀英国の詩人の言葉から取ったのではないだろうか。
 遺作にロマン主義文学といえばマリアンヌ・フェイスフルもそうだった。彼女の場合はキーツやバイロンの詩の朗読で、そしてスチュワートがブレイクときた。反資本主義から反植民地主義と、“政治的な”作品で知られるマーク・スチュワートの遺作はなんとも詩的で、いかにもロマン主義的なアプローチによって「魂の栄光」に向けられている。ピアノ演奏をバックに歌う“ This is the Rain”のような詩情あふれる曲が、これまでのスチュワートにあっただろうか。“Everybody’s Got to Learn Sometime”(エイドリアン・シャーウッドがミックス)は彼のダブへの愛情がたっぷり注がれたカヴァー曲だが、アルチュール・ランボー風の激しく幻想的な詩がこだまする“Stable Song”や“Twilight’s Child”、そしてより深く沈潜した“Crypto Religion”を聴いていると、スチュワートは自分の最期をわかっていて詩を書いたに違いない、そう思えてくる。

 ぼくは『The Fateful Symmetry』を聴きながら、いまあらためて彼の不在を悼んでいる。2011年に渋谷で観た、再結成したザ・ポップ・グループのライヴにぼくはそれほど興奮したわけではなかったけれど、パブで1パイントのビールを呑んでいたオヤジたちがそのままステージに上がってパンク・ファンクを演奏しているみたいで、自分が大好きな世界ではあった。彼らには──アンチエインジグなどクソ食らえとでも言わんばかりの──正直な格好良さがあったのだが、でも待てよ、ライヴを観ながらぼくは思った。考えてみれば、ザ・ポップ・グループの『Y』は連中が18歳のときの作品じゃないか。ああ、なんということだ! あの「We are all Prostitutes」 も、あの『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?(我々はいったいいつまで大量殺人を黙認し続けるというのか?)』も、19歳の若者たちが作ったなんて、とても信じられない。サウンド面においても政治性においても、だ。
 “She is Beyond Good and Evil” がニーチェの『善悪の彼岸』[*このドイツ語の書物の英訳が “Beyond Good and Evil” ]で、“Thief of Fire” がギリシャ神話のプロメテウスの火を主題にしていることをぼくが知ったのは、それらを聴いてから15年以上もあとのことだ。「We are all Prostitutes」 も『For How Much Longer〜』もリアルタイムでは批判もあった(*4)。歌詞が左翼の説教じみているという話だったが、しかしこれらのメッセージは、悲しむべきことにいまでも十二分に有効なのである。後者のアルバムには、当時の彼の一途さがうかがえる、“There are no Spectators(傍観者などない、中立などありえない)”という重要曲のひとつがある。

 2023年4月のクワイエタスに載ったマーク・スチュワートの追悼記事には、彼がインポスター症候群に苦しんでいたと書いてある。最初はなんのことか理解できなかった。あんなに豪快に笑う彼が、自分のやっていることに自信を持てずに悩んでいたと、そういうことなのだろうか。泣き叫ぶようなあの声は、どうしても自分を肯定できない彼の内的な叫びだったのだろうか。思い当たる節もある。初来日時の、アダムスキーとのライヴ・パフォーマンスは、すごかったと言えばとんでもなくすごかったが、観客に指を突き刺すようなナルシスティックな振る舞いとは対極にあった。どこか自分の身の置き場のない、どこか居心地の悪そうな、不安定な大きな塊に見えたこともたしかだ。『The Fateful Symmetry』の“Blank Town”で反復される「虚無」とは、自分自身に向けている言葉なのかもしれない。
 しかしスチュワートは、自分の苦しみを最後まで外に見せなかった。周知のように、彼は前向きで闊達な人だったと思われていたし、音楽もまた身体性に根ざしていた。たとえば、アルバム冒頭の“Memory of You”[*ユースとの共同プロデュース、ホリー・クックがバッキング・ヴォーカル]はスチュワートのダンス・ミュージック愛の賜物だろう。高校生の頃からファンクがかかる地元のクラブに通って、80年代にはワイルド・バンチがニューヨークから輸入したヒップホップに刺激を受けた。踊れる音楽であることは、たとえどんなに政治的に過激であっても、実験とポップが一体となる彼の作品に不可欠な要素だった。ダンスは、「コミュニティ」や「仲間」という概念と違って人を内側と外側に選別しない。だから、1990年の“Hysteria”には遠く及ばないとしても、続く“Neon Girl”[*ユースとの共同プロデュース、元レインコーツのジーナ・バーチをフィーチャー]もそうだが、彼はクラブ・ミュージック的なものとの接点を失いたくなかったのだ、とぼくは想像する。
 とはいえ、『The Fateful Symmetry』には踊れない曲が多い。何度も聴いていると、むしろ最初の2曲のほうが全体では浮いているようにも感じる。ソロ・アルバム『The Politics of Envy』(2012)以降も、それからザ・ポップ・グループの再出発のアルバム『Citizen Zombie』(2015)以降も、70年代末〜1990年までの作品にあったような圧倒的な何かを感じることはぼくにはなかったけれど、彼はノスタルジア産業に吸い取られないよう未来に向けてのメッセージを言い続け、音響工作にも変わらぬ情熱を注いでいたことは、多くの共演を介して生まれた晩年の作品からもわかる。周囲からの注目がなくなっても手を緩めなかったが、マーク・フィッシャーの追悼会で弔辞を読んだ彼は、あるとき力尽きたということなのだろうか。
 いや、そうではない。ウィリアム・ブレイクの詩から引用したこのアルバム・タイトル(すさまじき対称性というような意味)を日本人が解すのは、19世紀英国のロマン主義文学を専攻していたとしても難しいと思われるが(*5)、アルバムをなんども聴いていると見えてくることがある。ザ・ポップ・グループのフロントマンとしてデビューして以来、ずっと「虎」であり続けてきたスチュワートとは 、たしかに対称的な側面がここでは晒されているのだ。こんな思いを抱きながら俺は闘ってきたんだよと、アルバムの向こうからは、そんな声が聞こえる。クローザーとなる“A Long Road”という曲は、リスナーへのお別れの挨拶のようだとぼくには思える。「長い道が続いている。君は俺の命を連れてどこにでも行けるだろう。俺は、自分のベストを尽くしてみるよ、大丈夫オッケーだ」
 これが彼の最後の言葉である。当方、ぜんぜん大丈夫オッケーではないが、ベストを尽くすしかない。2023年4月、ぼくたちは偉大なアーティストを失った。だが、失ってはならない魂はここに、いや、すべての作品に残されている。

(*1)https://www.theguardian.com/music/2017/mar/05/sleaford-mods-guide-to-modern-britain-lots-of-pain-english-tapas

(*2)アドルノの辛辣さは、いまも生きている。その例をひとつ言うなら、ビヨンセの『レモネード』を「よくできた資本主義の商品だこと」と両断したベル・フックスだ。

(*3)パンクもまた急進的左派からファシスト呼ばわりされている。コーネリアス・カーデュー[*英国にジョン・ケージを紹介し、イーノに影響を与えたひとり]が1977年に刊行した機関誌『コグズ・アンド・ホイールズ』の創刊号で「パンク・ロックはファシストである」という記事を掲載したことはその筋ではよく知られた話だ。いわく「若者の怒りの資本化で、それはガス抜きにしかならず、ザ・クラッシュは反動的」……。ロック・アゲインスト・レイシズムが立ち上がってから、カーデューたちはその言葉を撤回したが、しかし英国の急進派たちの一途さもパンクに対する疑いを失うことはなかった。ザ・ポップ・グループが「ナショナル・フロント」を歌詞のなかで名指しで批判しているにも関わらず、である。
ちなみに、ファシズムに陥りやすい人間のことをアドルノは次のように表現している。「伝統的価値基準の衰退に異様に取り憑かれ、変化への適応力を欠き、自分たちの『内集団』に属さない他者への憎悪に囚われ、退廃から伝統を『守る』ためと称して暴力的行動に出る」ような人物。

(*4)「We are all Prostitutes」を「左翼の説教」だと真っ先に批判したのは『Y』を絶賛したイアン・ペンマンである。マーク・フィッシャーやサイモン・レイノルズに影響を与えたポスト・パンク時代の『NME』の人気ライター。『For How Much Longer〜』は、当時の第三世界における欧米の植民地主義をかなり具体的に批判した内容なので、これまた賛否両論だった

(*5)鏡像関係を意味していていると思われるが、ブレイクの「虎」の訳に関しては、岩波文庫の『ブレイク詩集』でもそうとうご苦労されている。「汝の恐ろしい均斉」では、難しい漢字を使っているだけで意味がようわからんです。ちなみに「虎」とは、ヴァルター・ベンヤミンが革命家のメタファーとしても使っている。

interview for 『Eno』 (by Gary Hustwit) - ele-king

 ブライアン・イーノのドキュメンタリー映画『Eno』は、信じがたいことにジェネラティヴ(自動生成)される映画のようだ。イーノのまったく素晴らしい自動生成音楽や自動生成アートのように、映画自体も観る度に変わっているそうで、まいったいな、編集部コバヤシのようなハードコアなファンは2回以上は観ないと気が済まないシロモノなのである。
 まあ、さすがに映像すべてが自動生成されたらサイケデリック過ぎて何のことかわからないだろうけれど、じっさいの『Eno』は、いくつものパーツ(章)がシャッフルされ、再構成されていく仕掛けになっているようだと推測する。映像の、カットアップに近い(ローリー・アンダーソンはどのヴァージョンでもあの一瞬だけなのだろうか……)。だからひじょうに小気味よく、じつにスタイリッシュに、ブライアン・イーノという多面的なアーティストの人生が観れる。これ、ファンは必見ですが、ぜひとも多くの人にも観てもらいたい。東京は売り切れ間近なので、急いで!

たとえば「ロキシー・ミュージックについて一切触れないヴァージョンがあってもいいか?」って。そしたら、ブライアンはOKを出してくれて。「50年前に1年だけやっていた活動について、毎回自分の話のなかに加え入れなきゃいけない理由はないと思う」って言ってたんだ。『Music for Airports』はもちろん大きな存在だから、それが出てくるヴァージョンもある。だけど、ドキュメンタリーというのは結局そういうもので、なにを入れてなにを外すのかはフィルム・メーカーが決めてしまっているから。

どうして今回のようなジェネラティヴ・フィルムという手法を思いついたのか、そしてそれがなぜ可能だと思ったんでしょうか。

ギャリー・ハスウィット(以下、GH):うまくいくかわからなかったけど、とにかく思いついちゃったから。あと、それは自分自身にたいする疑問でもあった。要するに、「なんで映画って毎回同じじゃなきゃいけないんだろう?」という。

あなたがどうしてブライアン・イーノに興味を持って、なぜイーノの生涯を撮ることになったのか教えてください。

GH:ぼくはグラム・ロック時代から30年以上、イーノの作品を聴いていて。2017年にドイツのデザイナー、ディーター・ラムスの映画(『Rams』)を作るにあたって、制作者に「サウンドトラックはだれに頼む?」と訊かれて、ぼくは「夢だけど、イーノ」と答えたんです。すると、「イーノならつい2週間前、マネージャーに会ったよ」と言うんです。そしてメールで「こういう話の映画です」と伝えたら、イーノから快諾されて。映画を作りながら音楽を使わせてもらっているうちに、「じゃあ、なぜイーノのドキュメンタリーは無いんだろう?」と思うようになって。本人に訊ねたら、嫌いだから、と(笑)。音楽系のドキュメンタリーはひとりの考えや記憶に基づいているものばかりだから、ぼくのは無いんだよ、と言っていて。それで、「ぼくらはこういうシステムを作っていて、こういう映画を撮りたい」と伝えて。初期ヴァージョンのソフトウェアができた2019年当時にそれを見せたら、イーノは「こういうのだったらいいよ」と。

グラム・ロック時代からイーノを聴いていたとおっしゃいましたが、おいくつですか?

GH:60歳。80年代に大学生だった。ざっくり言って、パンクやDIYのようなムーヴメントに影響された世代だから、やりたい物事や見たいものがあったら、だれかがそれをやってくれるのを待つこともできるけど、待つのではなく自分で作るという性質なんだよね、ぼくは。

パンクで育ったあなたが、イーノを本格的に好きになったきっかけは? たしかに、イーノとパンクはすごくリンクしていたけれど。

GH:それはやっぱり2ndソロ(『テイキング・タイガー・マウンテン』)からかな。収録曲の〝サード・アンクル〟という曲がすごく印象に残っている。パンク以前に、すでにパンクだった人だとぼくは思っていて、彼がその後に影響を与えたミュージシャンは本当に驚くほど多いし、彼ほどリーチの広いミュージシャンはいないと思っている。あともうひとつ付け足すと、今回用いたオブリーク・ストラテジーズ・カードもそうだけど、彼のクリエイティヴィティにぼくはもっとも興味がある。なにを用いてなににアプローチしていくか。音楽そのものというよりも、ブライアンがやっているクリエイティヴなプロセスと、それを踏まえてほかのアーティストやデザイナー、ミュージシャンがさらにクリエイティヴなものを作れるようにしていくというその部分。音楽そのものよりも、ブライアンのそういった側面にぼくはすごく惹かれているんだと思う。

ぼくらはまだ1回しか観ていないんですけど、2回観た人によると「どちらかはあまり面白くなかったけど、片方はすごく面白かった」と言っていて。当たり外れがあるんですか?

GH:それは個人の嗜好だから、どちらがベターかというのはありえないと思う。今回、映画を作るにあたって、どの素材を外す、どれを入れるか、どういう流れにするか、どのシーンを作るか、といった選択肢がつねにあって、普通はフィルム・メーカーが決めると思うんだけど、そういった個人的なフィルム・メーカーの見解は今回の試みにおいてはすべて取っ払っているので、素材であるところのブライアン・イーノとそこに出てくる素材によって、ストーリーがおのずと語られていくという性質のものなので、ぼく自身もどれが好きってのはない。「あなた自身のフェイヴァリット・ヴァージョンは?」とよく訊かれるんだけど、それも存在しないぐらい(笑)。どれかが優れているってことはありえない。個人の好みの問題だと思う。

ぼくらが見たヴァージョンだと『Music for Airports』のエピソードがなくて、あと『Another Green World』に関するエピソードもなかったんですね。クラスターとのコラボレーションのエピソードもなかったんですけど、これは観るヴァージョンによっては存在することもあるんですか?

GH:もちろん(笑)。

じゃあ、もう一回観なきゃ(笑)。

GH:そう、もう一度劇場に行ってもらわなきゃいけない(笑)。じつを言うとそういう展開についてはブライアンとかなり早い段階で話しているんだけど、たとえば「ロキシー・ミュージックについて一切触れないヴァージョンがあってもいいか?」って。そしたら、ブライアンはOKを出してくれて。「50年前に1年だけやっていた活動について、毎回自分の話のなかに加え入れなきゃいけない理由はないと思う」って言ってたんだ。『Music for Airports』はもちろん大きな存在だから、それが出てくるヴァージョンもある。だけど、ドキュメンタリーというのは結局そういうもので、なにを入れてなにを外すのかはフィルム・メーカーが決めてしまっているから。そういう意味では、つねに観ることができない素材というものはどんなフィルムにもあるわけで。今回、500時間分の映像があって上映時間は2時間ということは、毎回499時間分の映像が捨てられているわけだよね。だから、それを思えば違うヴァージョンを観ることができたら、それ以上のものを観てもらえる。

たとえば最近日本ではボブ・ディランの映画をやったんです。『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』という。あれはボブ・ディランの本当に一面的なものしか物語っていなくて、たとえばブラック・ミュージックとのつながりであったり、ワシントン行進の話だったり、数々のエピソードが削除されている。でも、あなたが作ったものは「これはたまたまのバイオであって、ほかにもいろいろとあるよ」っていうことを言っているわけだから正直ですよね。

GH:それはある意味キュレーションというディレクターの仕事にもなるよね。ただ、ぼくは映画を作るというよりはぼくが作りたい映画を可能にするシステムを作る、という感覚で映画を見ていた。だから自分で映画を作ったという実感はあまりない(笑)。とはいえ、実際の作業が本格化したのはだいたい18ヶ月ぐらいのこと、といっていいかな。素材が選び出されて、技術とともに映画にしていく作業。ソフトウェアの開発もずっと続いていたから、映画としてまとまっていったのは最後の18ヶ月間だと思う。途中、ファイルネームやコードが出てくると思うけど、あれはソフトウェアが次になにを出すかを考えているということなんだけれど、それを見せるかどうか、ソフトウェアの存在を画面に見せるかどうか、というところを考えたりなんかもするのも含めて、実験がずっと続いていた。だから本当に、リアルタイムでソフトウェアが次になにを出すかっていうことアーカイヴのなかから選んで決めていて、それはぼくらがやってるわけではなく。やっぱりお客さんに対してはそれがシグナルになっていて、(コードが)出てきたら選んでるんだ、さあ次はなにかな? って。なにが出てくるかわからない、たとえば70年代に戻るかもしれないし、庭いじりの現在に行くかもしれないし、その間のどこかの時代かもしれないし。それに対して、観てる側がちょっと構えられるっていう意味であれをあえて残したんだ。

とにかく彼の話題についていくのが大変で。あそこまでハイパー・インテリジェントな人の話についていくっていうのが、ぼくはいちばん大変だったかもしれない(笑)。なにが学びになったかというと、それは好奇心の大切さについて。ブライアンはいまも好奇心の塊で、あれだけの年齢であれだけのことをやってきた人が、いまだ次にやる新しいことを考え続けていて、新しいテクノロジーを追いかけ続けている。

今回、こうした特殊な映画を作るなかでとくに苦労したことってなんでしたか?

GH:すべてが試行錯誤で、すべてが実験だった。ワン・ヴァージョンをとにかく作って、これで語られているブライアンのストーリーの核になる部分がほかのヴァージョンでもきちんと伝わるだろうか心配だったし、それをすべてのヴァリエーションに持たせなければいけない。ただ、嬉しいことにソフトウェアをさらに改善していくことももちろん可能で、実際それも進んでいるんだ。公開してからもうすでに1時間分ぐらいの素材がプラスされていて、そういう意味では機能的な部分もそうだけれど、素材自体も増えていくからどんどん映画自体が発展していく、進化していくっていうのがすごい点だと思う。

素材が増えるというのは、あらたに撮影をして、ということですか?

GH:ああ、どんどん足しているよ。実は2週間前にも「ちょっといいな」と思うものを新しく見つけたので、入れてみた(笑)。ジェームスってバンドがブライアンと一緒にやったときの話(『Wah Wah』)をしていて、イーノとやってどうだったかを話していたのが面白かったので、ああ、これいいじゃんって思って入れちゃったんだけど、日本版に出てくるかどうかはわからない。けれど、どこかに出てくるんじゃないのかな。映画づくりとしては根本的に全然違うものだと思う。

じゃあ、ロンドンで上演された『The Ship』のライヴ場面っていうのもあるんですよね。

GH:あるよ。出てこなかったですか? ほかにもいっぱいあるよ(笑)。明日またブライアンが新しいことをやったら、それがまた入ってくる可能性もある。「しかるべき映画とはなにか?」という固定概念がずっとあったけど、技術、ソフトウェアができてきたらそれすら変えることは可能なんだ、ということはだれも思わなかっただろうね。でも、映画の制作者側としては、そういうものがあるんだからそれを使って従来とは違う伝え方ができるんじゃないか、ということにまず気がつかないといけないし、ぼくはそれをこれからも追求していかなきゃいけないと思ってる。

日本でも7月中旬から公開されるんですけど、それも観るたびに違ったりするんですか? 

GH:同じ日なら日本のどこで観ても同じままだけど、たとえば、月曜に観にいったら火曜日はまた違う、というように。もちろん全部が違うわけではないけれど。オープニングのブライアンがスタジオにいる場面と、エンディングのブライアンが庭にいる場面はブックエンド的に決まっていて、あとはほかに4つの場面が全部のヴァージョンに必ず出てくる。それを含めておよそ30%は毎回繰り返される内容。ただ、真夜中の4つのシーンに関して出方が変わったりはする。残りの7割に関しては、まったくどうなるかわからない。構成というか、スケルトン的にそういうふうに組み立ててはいる。ある程度伝えたいストーリーが毎回伝わるように、というのが構成がある理由で、完璧に実験的なだけのランダムなクリップを集めた素材ではないんだ。あくまで映画としてのドキュメンタリーであるという意味でも構成は作ってある。
 でも、実は168時間ヴァージョンというのもあって。それはループしてなくて、まったく違う素材だけで168時間流していく、という企画。これはヴェニスでちょっと実験的にやった1日24時間1週間って流しておくっていう企画で、だからそういうことも可能なんだ。ちなみに、おかしな話なんだけど、168時間ヴァージョンをやった会場のギャラリーは10時から18時までしか開いていなくて、夜は閉館するけど閉まってる間もずっと上映が続いてる。夜中は誰も観てなくて、どうだったのって訊いてもだれも知らないみたいで。「どうなったの?」って訊いてもだれも知らなかったんだ(笑)。最近、ドキュメンタリーという名称でやってるのが、その場の記録をもちろん映像でするけど、そこにいる人しかわからない、要するにそれを後で残して公開するのではなく、そこで起こっていることを同時上映みたいな形でやって、そこにいる人だけが観られるというもの。とにかくぼくらがやりたいのは、映画とはなんだ、という概念を壊していくこと。映画とはこうやって作って、こう見せて、こういうふうに体験してもらうものでなきゃいけない、といままでみんなが思ってきたけれど、そうじゃないやり方がいくらでもあるということをぼくらが提示していきたいんだよね。

なるほどね。ブライアン・イーノの人生も、彼の活動もすごく多面的だから、この企画でのかっこうの材料でしたね。ボブ・ディランやデイヴィッド・ボウイでもそれができたんだろうけど。

GH:イーノは自分の映画なんか嫌だって言ってた人だからね(笑)。実験だからやりたいって思ってくれたっていうことが面白いところだよね。自分がボウイと喋ってる映像なんて、ただ見せられてもそんなのは嫌だって言う人だから。彼の多面性がこの映画のなかですべて組み合わさって、かつ筋が通っている。

膨大な素材を作る過程で、印象に残っている「自分が知らなかったブライアン・イーノ」について教えてください。

GH:ブライアンがニューヨークに住んでいたとき、初期のヴィデオ・カメラを買って実験をしている映像があって。それはヴィデオ・アート的なものもある一方で、アパートに来た友だちを撮ったりしているものもあったりして。40年くらい前の話なので、ブライアンは自分でも忘れていたんだよね。それが出てきて、ぼくらも驚いたけど、本人も驚いていた。VHSテープって上書きで録画してしまうものだったよね? ブライアンもそれをやっていたから、テレビ番組の『MASH』のラスト・エピソードのテープが出てきて。それを録画していたんだなって思って再生してみたら、たしかに『MASH』なんだけど、15分ぐらい進んだところでブライアンが台所で踊っているシーンが1分ぐらい入ってて(笑)。それで、また元に戻ったりとか。それも映画のなかにあるから、ヴァージョンによってはどこかに踊っているブライアンが出てくるよ(笑)。

今回の映像を作ってみて、あらためてブライアン・イーノとはどういう人間だと思いましたか?

GH:彼がすごく面白い人だということがわかった。(映画を撮らなければ)彼がユーモアのセンスのある人だということをぼくは知らなかっただろうな、と思う。彼は自分のことをあまり深刻に考えすぎない人なので、映画に出ている姿は、たぶん普段の彼そのものだと思う。ぼくはいままでドキュメンタリーをたくさん作ってきたけど、カメラが回るとありのままじゃなくなるのが普通だった。その点、彼はそのままの姿が映画でも観られると思う。あと、インタヴューを何十回にも渡ってやらせてもらったんだけど、すごく気後れした。気難しいからとかでは全然なく、それは彼がとにかく頭のいい人で、かつ幅も広かったから。あらゆる作家を知っていて、あらゆる世紀のことを知っている。そういう人と話す上では、とにかく彼の話題についていくのが大変で。あそこまでハイパー・インテリジェントな人の話についていくっていうのが、ぼくはいちばん大変だったかもしれない(笑)。なにが学びになったかというと、それは好奇心の大切さについて。ブライアンはいまも好奇心の塊で、あれだけの年齢であれだけのことをやってきた人が、いまだ次にやる新しいことを考え続けていて、新しいテクノロジーを追いかけ続けている。その姿勢は、自分にとってすごく啓発されるものがあったし、好奇心を持ち続けるということの大切さを学べた気がする。

東京
会場:109シネマズプレミアム新宿 シアター7
期間:2025年7月11日(金)〜 7月17日(木) ※1週間限定上映
※一般上映は日毎に上映ヴァージョンが変更となりますので、別ヴァージョンを鑑賞希望のお客様は別日の上映チケットをお買い求めください。
<平日>
・1回目:18:00〜
・2回目:20:30〜
<土日>
・1回目:15:30〜
・2回目:18:00〜

名古屋
【会場】109シネマズ名古屋 シアター4
【上映日】2025年7月12日(土)、7月13日(日) ※土日限定上映
※一般上映は日毎に上映ヴァージョンが変更となりますので、別ヴァージョンを鑑賞希望のお客様は別日の上映チケットをお買い求めください。
・1回目:15:30〜
・2回目:18:00〜

大阪
【会場】109シネマズ大阪エキスポシティ  シアター5
【上映日】2025年7月12日(土)、7月13日(日) ※土日限定上映
※一般上映は日毎に上映ヴァージョンが変更となりますので、別ヴァージョンを鑑賞希望のお客様は別日の上映チケットをお買い求めください。
・1回目:15:30〜
・2回目:18:00〜

GARY HUSTWIT/ギャリー・ハストウィット プロフィール
ギャリー・ハストウィットは、ニューヨークを拠点に活動する映画監督兼ビジュアル・アーティストであり、ジェネレーティブ・メディアスタジオ兼ソフトウェア企業「Anamorph(アナモルフ)」のCEO。これまでに20本以上のドキュメンタリーや映画プロジェクトを制作しており、ウィルコを題材にした『I Am Trying To Break Your Heart』、アニマル・コレクティヴによる実験的な長編映画『Oddsac』、ゴスペル/ソウル音楽のレジェンド、メイヴィス・ステイプルズを描いたHBOドキュメンタリー『Mavis!』など、数多くの話題作をプロデュースしている。2007年には、グラフィックデザインとタイポグラフィに焦点を当てた世界初の長編ドキュメンタリー映画『Helvetica(ヘルベチカ)』で監督デビューを果たし、その後も『Objectified(2009年)』『Urbanized(2011年)』『Workplace(2016年)』、そしてブライアン・イーノが音楽を手がけた『Rams(2018年)』といった作品を通じて、デザインが私たちの生活にどのように影響を与えているかを探求し続けている。これらの作品はPBS、BBC、HBO、Netflixをはじめ、世界20か国以上のメディアで放送され、300以上の都市で上映されている。最新作『Eno』は、2024年のサンダンス映画祭で初公開され、サウス・バイ・サウスウエストやトロント国際映画祭などでも上映された。ギャリーの映画および写真作品は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、スミソニアン・クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館、ロンドン・デザイン・ミュージアム、ヴェネツィア・ビエンナーレ、ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)、ポール・カスミン・ギャラリー(ニューヨーク)、アトランタ現代美術センター、ニューヨークのStorefront for Art and Architectureなど、世界各地の美術館やギャラリーで展示されている。ギターにも強い情熱を持ち、エレキギターメーカー「Koll(コル)」ではデザイン協力も行っています。また、オリンピック開催都市の“その後”を追うスローフォト・ジャーナリズム・プロジェクト『The Olympic City(ザ・オリンピック・シティ)』にも参加。

「ブライアン・イーノのキャリアの多くは、プロデューサーとしての役割だけでなく、『オブリーク・ストラテジーズ』や音楽アプリ『Bloom』のようなプロジェクトでのコラボレーションを通して、彼自身や他の人々の創造性を可能にすることでした。私は、映画『Eno』をクリエイティビティを題材にしたアート映画だと考えていて、ブライアンの50年にわたるキャリアがその素材です。ブライアンの音楽とアートへのアプローチと同じくらい革新的な映画体験を創り出すこと、それがこの作品を制作した目的です。」
- ギャリー・ハストウィット

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 750 751 752 753 754 755 756 757 758 759 760 761 762 763 764 765 766 767 768 769 770 771 772 773 774 775 776 777 778 779 780 781 782 783 784 785 786 787 788 789 790 791 792 793 794 795 796 797 798 799 800 801 802 803 804 805 806 807 808 809 810 811 812 813 814 815 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 827 828 829 830 831 832 833 834 835 836 837 838 839 840 841 842 843 844 845 846 847 848 849 850 851 852 853 854 855 856 857 858 859 860 861 862 863 864 865 866 867 868 869 870 871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 881 882 883 884 885 886 887 888 889 890 891 892 893 894 895 896 897 898 899 900 901 902 903 904 905 906 907 908 909 910 911 912 913 914 915 916 917 918 919 920 921 922 923 924 925 926 927 928 929 930 931 932 933 934 935 936 937 938 939 940 941 942 943 944 945 946 947 948 949 950 951 952 953 954 955 956 957 958 959 960 961 962 963 964 965 966 967 968 969 970 971 972 973 974 975 976 977 978 979 980 981 982 983 984 985 986 987 988 989 990 991 992 993 994 995 996 997 998 999 1000 1001 1002 1003 1004 1005 1006 1007 1008 1009 1010 1011 1012 1013 1014 1015 1016 1017 1018 1019 1020 1021 1022 1023 1024 1025 1026