「ファクトリー」と一致するもの

interview with New Order - ele-king

なぜニュー・オーダーなのかと言われたらわからないけど、みんな精神的な繫がりを感じているようだ。ぼくたちの音楽は凄くエモーショナルだから、人生で何か困難に直面したとき、ぼくたちの音楽に気持ちの慰めを見出すことができるのかもしれない。あと、人を惹き付ける物語がこのバンドにはある。


New Order
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[ボーナストラック収録 /大判ステッカー付 国内盤]
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 新作はダンス・アルバムであり、エレクトロニック・サウンドに戻っているという前評判を耳に入れて、いざシングル曲“レストレス”を聴いたら、どこがダンスでエレクトロニックなんだよと思ったコアファンもいるかもしれない。しかしご安心を。“レストレス”はアルバムの1曲目だが、2曲目以降にはそれが待っている。“ブルー・マンデー”から『リパブリック』までのニュー・オーダーを特徴付けるエレクトロニック・サウンドは引き継がれ、ある意味アップデートされている。
 ちなみに、“レストレス”のシングル盤のリミキサーはアンドリュー・ウェザオール。ファンはここで名曲“リグレット”を思い出すだろう。あの切ないメロディとエレクトロニックのマンチェスター的折衷……これ、これ、そう、これだよ、俺たちのニュー・オーダーが帰ってきたのだ。

 ジョイ・ディヴィジョンの最初の2枚、いや3枚、まあ……3枚の重要なシングル盤を加えると6枚……は、いま聴いても、リスナーが「重荷を背負った若者」ではなくなっても、あらためて歴史を切り拓いた音楽だったと思う。本当に、よくもまあこんな作品をあのセックス・ピストルズとあのザ・クラッシュの後に作れたものだ。社会や政治というよりは内面という曲の主題(彼らが社会や政治に無関心だったわけではないが、作品にはパンクにはなかった深い内省があった)、そしてその革新的音響(マーティン・ハネットの天才的録音)、ピーター・サヴィルの革命的アートワーク(ジャケの紙質までこだわっていた)、それらすべてをひっくるめて永遠のクラシックだ。『アンノウン・プレジャーズ』のアートワークがインディ・ロック・Tシャツにおける最高の地位になっていることに異論もない。

 で、ニュー・オーダーとは、その永遠のクラシックを作った後の、当時のロックのセオリーで言えば中心人物を失った後の、10番のいないサッカーチーム、4番バッターとエースのいない野球チーム……みたいなものだったが、それでも世界レベルで最高の結果を残すチームになりえた。作る曲すなわち作品でもって常識をひっくり返し、そして、そのとき、おいてけぼりにされた若者の内面はダンスへと向かったのである(しかも作品によっては、あの頃のぼくたちからもっとも遠かった太陽と海へと、そう、向かってしまったのである)。
 そんなことをつらつらと思えば、バーナード・サムナーの自伝『ニュー・オーダーとジョイ・ディヴィジョン、そしてぼく』に記されているように、たしかにぼくたちの人生はニュー・オーダーとともにあったのだろう。初めて『ムーヴメント』に針を下ろしたときのこと、“ブルー・マンデー”に心底震えた夜、耳にたこができるほどあらゆる場所で聴かされた“ビザール・ラヴ・トライアングル”や“パーフェクト・キッス”、あるいは“ワールド・イン・モーション”や“ラウンド・アンド・ラウンド”のリミックスEP、そして異性(同性)と別れ出会う度に聴かなければならない“リグレット”……、その他いろいろ、ぼくたちはニュー・オーダーの切ない歌とエレクトロニックな楽曲の向こうにそれぞれの時代を思い出す。

 ほがらかなメロディの“ラヴ・ヴィジランティス”は、NYエレクトロを思い切り吸収した『ロウ・ライフ』のオープニング曲で、クラブ・サウンドを我がモノとしながらアルバムはしかし古風にはじまるというひねくれ方は、なるほど、いかにも英国風と言えるだろう。新作『ミュージック・コンプリート』にもそれは引き継がれている。
 ちなみに『ミュージック・コンプリート』のバッキング・コラースには、インディ・ロック・ファンにはお馴染みのデニス・ジョンソン(プライマルの“ドント・ファイト・イット〜”の人です)が参加しているが、ラ・ルーも歌っている。たしかに新作には、イタロ・ディスコ(コズミック)めいた箇所がいくつかある。バーナード・サムナーのドナー・サマー趣味がここにきて噴出したのかもしれない。ほかに話題としては、ケミカル・ブラザースのトム・ローランズが3曲参加していること、イアン・カーティスのヒーローだったイギー・ポップが1曲参加していることも挙げられる。

 ニュー・オーダーは、いくつかの困難を乗り越えてここまで来ている。彼らの人生から滲み出るものが、ニュー・オーダーの背後にはある。それは泥臭さである。電子機材が普及してからの華麗なるモダンデイ・ポップ・ミュージックの先駆けだが、その音楽には普遍的なエモーションがあり、だからこんなにも多くの人から、世界中の人たちから、そして新たにまた、内面が敏感な世代から愛され続けているのだろう。
 『ミュージック・コンプリート』は、ピーター・フック脱退後の、新生ニュー・オーダーの最初のアルバムだ。しかも〈ミュート〉からのリリース。例によってバンド名もタイトルも記さないピーター・サヴィルのアートワークにも、思わずニヤっとしてしまう。
 ニュー・オーダーが最初に輝いた10年はサッチャー政権時代であり、それを思えば『アンノウン・プレジャーズ』のTシャツは巷でさらに増殖するかもしれない。まあニュー・オーダーに限らずだが、昨年のモリッシー、先日アルバムを出したPiLなど、あの時代のUKのミュージシャンたち、いい歳した連中は、いまもなおエネルギッシュで、しかも新たな輝きを見せはじめている。さまざまな話題性を含めて、今回は注目の新作なのである。

ダンス・ミュージックをやっているけど、いまどんなサウンドが流行っている、といったことは一切考えずに作った。自分たち独自のことをやった。ダンス・ミュージックが一時期から細分化され過ぎて、作っていて拘束着を着せられているように感じた。「このジャンルはこのサウンドでこのビートじゃなきゃ駄目」といった縛りが多すぎるって。

実はあなたの自伝をライセンスして、ニュー・オーダーの新作のリリースに合わせて刊行する予定でいます。そもそも自叙伝を書かれた理由は何だったのでしょうか? 

バーナード・サムナー(BS):自伝のなかでは、まさにそこのところも語っている。ぼくの音楽はぼくがこれまで生きてきた人生がもとになっている。子供時代、そして青春時代の経験や記憶だ。それはジョイ・ディヴィジョンにおけるぼくの音楽的貢献にも間違いなく繫がっている。ぼくが子供時代、そして十代を過ごした環境の雰囲気が表れている。自分に「音楽を作りたい」と思わせてくれた、自分の原点だ。
 それとは別に、新しい音楽との出会いについても触れている。ぼくが15歳、16歳のときに影響を受けた音楽について語っている。あとマンチェスターについても語っている。マンチェスターで生まれ育つのがどういう感じか、という。正確にはサルフォードという街でぼくは育ったんだ。サルフォードというのはマンチェスターに隣接した街で、マンチェスターから西に向かって進むといつの間にかサルフォードに入っている。マンチェスター首都圏のなかでもとくに工場が密集した工場地帯だ。そういう街でぼくは育った。それが後に自分の音楽にどう影響したかということを自伝のなかで語っている。

わかりました。さて、『ミュージック・コンプリート』は、大雑把に言って、ニュー・オーダーとはこういうバンドなんだという、自己確認するアルバムであり、原点回帰的なところもあるアルバムだと感じました。つまり、ニュー・オーダーらしいニュー・オーダーのアルバム、最初に聴いた瞬間に、「あ、ニュー・オーダー」と思うしかないアルバムというか。いかがでしょうか?

BS:ありがとう。

あなた個人にとって「ニュー・オーダーらしさ」とは何だと思いますか?

BS:……。何だろう。ファンの人たちに訊いたほうが上手く答えられるんじゃないかな。ライヴの後、ファンの人たちと会場の外やホテルで会ってサインとかする際によく言われるのは、「貴方の音楽と出会って人生が変わりました」、または「貴方の音楽は自分の人生を彩るサントラです」だ。彼らの心に深く刺さっているのがわかる。なぜニュー・オーダーなのかと言われたらわからないけど、みんな精神的な繫がりを感じているようだ。ぼくたちの音楽は凄くエモーショナルだから、人生で何か困難に直面したとき、ぼくたちの音楽に気持ちの慰めを見出すことができるのかもしれない。それがひとつある。
 あと、人を惹き付ける物語がこのバンドにはある。イアン・カーティスのこともそうだし、イギリスにおけるインディ・レーベルの台頭に大きく関わっていたことも大きい。〈ファクトリー・レコード〉の物語をひとつとっても面白い。すでに2本の映画が作られたくらいだ。〈ファクトリー・レコード〉のトニー・ウィルソンの生き様を描いた『24アワー・パーティ・ピープル』とイアン・カーティスの生き様を描いた『コントロール』だ。こうやって2本の映画ができるほどの興味深い歴史があるということも人びとがニュー・オーダーに惹かれ、共感し、そこに慰めを見出す所以なんじゃないかな。

ピーター・フックが脱退したとき、バンドは事実上解散したと思いますし、あなた自身にも再結成するプランはなかったと思います。しかも、バンドにとってベースラインはトレードマークでした。それがどうして、このように新しいアルバムを完成させ、発表するまでになったのでしょうか?

BS:まず……、彼不在でライヴを幾つもやるところからはじめた。その前にはっきりさせておきたいんだけど、彼はバンドを自ら辞めたのであって、決してぼくたちがクビにしたわけじゃない、ということ。

(笑)。

BS:そのことで彼にはずっと文句を言われっぱなしだからね。

そもそも彼はなぜ脱退をしたのでしょうか?

BS:もうやってられない、と思ったのだろう。おそらくぼくと彼が性格的にそりが合わなかったことが要因だった。彼はかなり対抗心を燃やしてくる性格で、でもぼくはそうじゃない。むしろ、そういうのが苦手だった。だって、同じチームなんだから、同じ目標に向かってみんなで力を合わせて頑張るのが当たり前だと思っていた。でも、同じチーム内で自分に対して対抗心を燃やしてくる人がいたら、それはチームにとっても良くないと思ったし、ぼくとしてもすごく嫌だった。
 それと、彼がぼくにやって欲しいと思っていたことをぼくがやらなかった、というのもあったと思う。彼は常時ツアーに出たいと思っていた。でもぼくはまだ幼い子供もいて、家族と離れるのが嫌だった。バンドに対して決してめちゃくちゃなことを要求しているは思わない。でも彼はそれが気に入らなかった。ぼくと彼は全く違うタイプの人間だったということに尽きると思う。考え方も懸け離れていた。それが限界に達していたのだろう。彼もぼくにうんざりしていたし、ぼくも彼にうんざりしていた。
 彼は、ぼくだけじゃなく、みんなを自分の思い通りにしたかったんだと思う。いまは自分のバンド、フリーベースでそれができるようになった。他のメンバーはおそらく彼の言う通りに動いてくれるのだろう。でもニュー・オーダーでそれをやろうと思っても無理だ。

そこからどうやって、彼抜きでニュー・オーダーを続け、このように新しいアルバムを完成させ、発表するまでになったのでしょうか?

BS:彼不在でライヴをやりはじめた頃は、正直多少の不安もあった。しかも彼はプレスに対して「俺抜きでは絶対に上手くいかない」と言い張ったんだ。「自分がいないニュー・オーダーはフレディ・マーキュリーのいないクイーンのようだ」ってね(笑)。「やったところで大失敗するだけだ」って。
 つまり、「俺は去るけど、せいぜいみんなで失敗すればいい」というのが彼の態度だった。「俺抜きで続けるなんて不可能だ」ってね。だから最初は多少の不安もあった。人びとがどう反応するかわからなかったから。でも、いざライヴをやってみると観客の反応は素晴らしく、世界各国で最高のライヴをいくつもおこなうことができた。新作の制作に取りかかるためにスタジオに入った頃には、すでに3年半ライヴをやってきていたから、彼がいないことに慣れていた。だから全く問題にはならなかったよ。

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曲作りでいちばん難しいのはいいメロディを書くことだ。ビートを作るのはさほど難しいことではない。いまではネット上でビートを買うことだってできるわけだからね。


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ジョイ・ディヴィジョンのときはポストパンク、ニュー・オーダーのときはディスコやエレクトロ、『テクニーク』のときはアシッド・ハウスとセカンド・サマー・オブ・ラヴなど、あなたはわりとムーヴメントとともにアルバムを作ってきたと思うのですが、『ゲット・レディ』以降は、音楽文化自体が、ムーヴメントなき時代に突入したました。そういう時代の変化と、ニュー・オーダーのやり方がズレはじめたと感じたことはありますか?

BS:ダンス・ミュージックに関しては多少あったね。ダンス・ミュージックが細かく区分化され過ぎてると感じた。ディープ・ハウスにファンキー・ハウスにアシッド・ハウス……という具合にジャンルが細分化され過ぎてしまって、ダンス・ミュージックの曲を書こうと思っても、まずどのジャンルに当てはまるかを考えなきゃいけないような気にさせられた。音楽はそうあるべきじゃないのに。
 今度の新作でもダンス・ミュージックをやっているけど、いまどんなサウンドが流行っている、といったことは一切考えずに作った。自分たち独自のことをやった。ダンス・ミュージックが一時期から細分化され過ぎて、作っていて拘束着を着せられているように感じた。「このジャンルはこのサウンドでこのビートじゃなきゃ駄目」といった縛りが多すぎるって。
 あともうひとつ感じたのは、ぼくたちは“ブルー・マンデー”でダンス・ミュージックにおけるパイオニア的存在だと見られていたのもあって、常に人がこれまで聴いたことのない音を出すことを期待されていた。でもそれって不可能なことなんだ。「新しい車輪を毎回発明しろ」と言っているようなものだ。それもあってダンス・ミュージックから少し距離を置こうと思ったんだ。ギターを核とした作品を作った。『ゲット・レディ』にしても『ウェイティング・フォー・ザ・サイレンズ・コール』にしてもダンスの要素が薄れ、ギターが前面に出たアルバムになった。ギターで曲を作るときというのは、サウンドをそんなに気にせず歌をそのまま書けばいい。ギターの音は所詮ギターの音であって、ベースにしてもドラムにしても同じだ。サウンドのことをあれこれこだわる部分は少なく、単刀直入な作業だ。当時はそれが凄く新鮮だった。
 ジョニー・マーとやったElectronicの3作目、つまり最後のアルバムがギター中心のアルバムだった。その後の『ゲット・レディ』もギターが前面に出たアルバムだった。その後の『ウェイティング・フォー・ザ・サイレンズ・コール』は少しエレクトロニックの要素もあったけど、ギターが主だった。その後ぼくはサイド・プロジェクトのバッド・ルーテナントで『ネヴァー・クライ・アナザー・ティア』というアルバムを出して、それもギター・アルバムだった。
 という流れがあって、もう十分ギター・アルバムはやったと思って、エレクトロニックなサウンドに戻るのにちょうどいま機は熟したと感じた。やりたくて飢えていたんだよ。ぼくだけじゃなく、スティーヴン(・モリソン)やジリアン(・ギルバート)もそう感じていたんだと思う。たとえるなら、ある食材を長い間全く口にしていなかったと想像してみて欲しい。チョコレートとか。で、ある時思い立ってまた口にしてみたら、美味しくてしょうがないと思うよね。それと同じで、今回またシンセサイザーを多用したことは、まるでおとぎの国にいるようだった。テクノロジーの進化がまた、制作をさらに面白いものいしてくれた。前はやりたいことがあってもそれを上手く音にすることができないこともあった。ジョイ・ディヴィジョンや初期のニュー・オーダーでは、持っていたシンセでかなり苦労をした。やりたいことがあっても、当時のシンセには限界があった。シンセそのものよりも、シーケンサーやコンピュータのテクノロジーがいまほど進んでいなかったから。それがいまはできるようになった。いまは音楽をまるで粘土遊びのように扱うことができる。曲やサウンドを粘土や石膏のように自在に形作ることができるようになった。それがすごく面白いと感じる。

アルバムのなかのジョルジオ・モロダー的なミニマルなビートに関しては、スティーヴン・モリスがファクトリー・フロアのような若いバンドに触発されたところがあるようですが、あなた自身がUKの若いクラブ・ミュージックに触発されることはありますか?

BS:う〜ん……ないかな。

なるほど。では、シングルのリミキサーで、たとえばですが、ジェイミーXXのような、クラブ系の若いタレントを起用することは考えませんでしたか?

BS:彼に限らず可能性はいくらでもあると思っている。リミキサー選びはこれからの作業になるから、いまからじっくり時間をかけて才能ある人を選びたいと思っている。ただ、いまの時代、可能性や選択肢が多すぎるというのも、それはそれで困ったものなんだよね。ニュー・オーダーの初期の頃はリミックスをお願いする人にしてもひとり、ふたりくらいしか選択肢はなかった。でも、いまは何百と優れたリミキサーがいる。いまの段階ではまだ話せないけど、いろいろ進めているものもあるよ。

マンチェスターの新しいシーンには関心がありますか? 

BS:さっきも若いクラブ・ミュージックに触発されることは「ない」って話をしたけど、ぼくの場合、音楽のインスピレーションは自分の内側からくるもので、外から受けるものではないんだ。最初に自伝の話をしたときにも話したけど、ぼくという人間の生い立ちから来るものなんだよ。

ニュー・オーダーの曲にはダンスもありますが、メロディアスな曲調もバンドを象徴していると思います。“レストレス”なんかは、ぼくには“リグレット”を彷彿させわけですが、あの当時“リグレット”は、サマー・オブ・ラヴが終わった感じをとてもよく表していました。そのセンで考えると“レストレス”にも時代が描かれているのでしょうか?

BS:おかしなもので、本来エレクトロニックなアルバムを作るつもりだったのに、アルバムの1曲目にアコースティック調な曲を持ってきたんだよね。まあ、それもニュー・オーダーらしいよ。矛盾だらけのバンドだ。「こうする」と言っておきながら、違うことをしてしまう(笑)。今回もエレクトロニック・アルバムだって言うのにアコースティックな曲で幕を開ける。なんでかって聞かれたら、これがシングルだからだろう。これまでもシングル曲を1曲目にしてきたことが多い。そして、君が言うように非常にメロディアスな曲でもある。
 曲作りでいちばん難しいのはいいメロディを書くことだ。ビートを作るのはさほど難しいことではない。いまではネット上でビートを買うことだってできるわけだからね。あるいは勝手にビートを作ってくれるプラグインだってある。当然、独自のサウンドのビートを作ろうと思ったら、もっと難しくなるわけだけどね。“ブルー・マンデー”のような独特のビートを作ろうと思ったら。それでもいちばん難しいのはいいメロディを書くことだと思う。曲を書く上でいちばん苦労する部分だ。で、今回いちばん意識した部分でもある。全員が今回いいメロディに重点を置いて曲作りをした。どの曲にもいいメロディが不可欠だと思った。
 “レストレス”は、我々がいかに慢性的な消費社会になってしまったかってことを反映している。大量消費ついて考えていたんだ。本当の意味では何も我々を満たしてくれないって。何かを買っても、数日間は満たされた気持ちになるかもしれない。でも、すぐにまたもとに戻ってしまう。だったら何が自分を幸せにしてくれるのかって疑問に思った。お金では買えないもので自分を幸せにしてくれるものは何かって。この曲は消費者主義に対するぼくなりの所見を述べている。消費者主義を批判しているわけではない。誰もが消費者はわけで、ぼく自身も一消費者だ。つい先日もApple Watchを購入したばかりだ。立派な消費者さ。でもふと考えたんだ。個人のみならず、社会全体をより幸せに、より満たしてくれるものは何か?って。
 現代社会において、日々の生活のなかで満たされる気持ちがどんどん欠けてしまっているんじゃないかって思うんだ。それは我々が消費することに取り付かれていることに起因しているのではないかって。例えば大量消費とは無縁の熱帯の島で暮らしている人たちに比べたとき、彼らのほうがずっと満たされた生活を送っている。例えば日本の何処かの島ないしは沿岸の漁村に住む人たちは非常に素朴な生活を送っている。消費者主義とは無縁の彼らのほうが幸せなんじゃないかなって思うんだ。(この曲は)批判しているわけではないし、所見というよりも、むしろ疑問に近い。「何が我々を幸せにしてくれるのか」「何が我々の生活をより幸せにしてくれるのか」「いかにして我々は嘗てあったものを失ってしまったのか」という。大きな疑問だね。

そうした資本主義の行き過ぎてしまっているような社会状況に関連した歌詞は今回のアルバムの大きなデーマのひとつと言えるのでしょうか?

BS:アルバムを通してひとつの大きなテーマがあるわけではない。歌詞に関して言うと、ぼく自身のことを歌っていると思われることが多いんだけど、必ずしもそうではないんだ。架空の人物や架空の人物たちについて書いた、自伝的でない曲を書くことだってある。人間関係についての歌にしても、ぼくの実体験というよりも、作り話であることだってある。
 今作の曲にしても歌詞の内容は多岐にわたっている。自分の歌詞を解説するのは好きじゃないんだ。自分の歌詞を聴いた人が、その人なりの解釈を加えることで、聴き手側も関与する、曲を介した双方向の対話になったほうが、ただ聴き手が受動的に曲を聴くだけよりもいい。それに、ぼくの歌詞は抽象的なことが多い。そもそも音楽はもっとも抽象的な芸術的表現だ。絵画における抽象画が登場する以前から、音楽は常に抽象表現だった。人びとはいくつかの和音を組み合わせたり、旋律を書く、あるいは太鼓のリズムを作ることで音楽を表現した。言葉などを使って具体的な何かを示しているわけではない。完全な抽象芸術だ。
 実はアルバムのタイトルを『アブストラクト(抽象的)』にしようかとも考えたんだ。なかなかいいタイトルだといまでも思う。でも実際、曲に歌詞をつける段階で、書き手としては抽象的であることを諦めなければいけなくなる。言葉で曲に意味をつけなければいけない。さらにはそれを聴き手が解釈をする、ということを念頭に書かなければいけなくなる。最初の頃はそこにかなり抵抗があった。ニュー・オーダーの初期の頃。自分のことを語るのが苦手だった。自分が何を考えているのか人に知られるのが嫌だった。自分だけの大切な逃げ場所だったから。でも、バンドのシンガーになったことで、自分の殻から出ることを強いられた。だから最初の頃は非常に曖昧な歌詞を書いた。ぼんやりとした表現をすることで真意をわざと隠した。いまでも自分の歌詞はそういう要素を引きずっていると思う。いまは、表現はより明瞭になったかもしれないけど、想像上の物語だったり、架空の人のについて書くようになった。ちょっとした短編小説のようにね。

バンドとしてもアルバムを完成させるのにとにかく集中して力一杯取り組んだ。作業に費やした時間も長かった。クリスマスでも週に50時間働いた。仕上げの1ヶ月は週に70時間働いた。それくらい大変な作業だったけど、そこまで頑張ったからこそ出来たアルバムには凄く満足しているよ。

シンガーという話が出ましたが、『ミュージック・コンプリート』を聴いてもうひとつ思ったことがあります。あなたは以前よりも歌がうまくなっているんじゃないかということなんですが、ご自身ではどう思いますか?

BS:ミュージシャンとしてもシンガーとしても常に成長していると思う。音楽をやってれば、必ず何か新しいことを学ぶ。だからいつだって成長し続けている。だからこれだけ長くミュージシャンを続けられているんだと思う。学校に通っていたときと違ってね。
 学校は大嫌いだったよ。学校で教そわる科目も嫌いだったし、先生も嫌いだった。つまらないと思ったし、だから勉強する気になれなかった。学校で教えてることがたわいもないものにしか思えなかったから、知識として得ることができなかった。それに比べて音楽は興味をそそられた。音楽のことを学ぶ過程にも興味が尽きなかった。ぼくをはじめ、バンドの全員が独学で音楽を身につけた。他のミュージシャンを聞いて学んだり、彼らのことを読んで学んだり、実際に自分たちでプレイすることで学んできた。人から教わるのではなく。全て独学で覚えた。その辺りがクラシックのミュージシャンたちとは違う。
 決して彼らが間違っていて自分のほうが正しいと言ってるわけじゃない。そうやって独学で習得する部分がぼくとしては気に入っている、というだけ。いまでも学ぶことはたくさんある。そしてぼくはヴォーカリストだ。昔と比べて、ヴォーカリストであることに慣れて自信が持ててきたといのはある。ニュー・オーダーの初期の頃はヴォーカリストであることが苦痛だった。そもそもヴォーカリストになんてなりたくなかったわけで。イアンが亡くなったからそうするしかなかった。でもいまは、自分がシンガーという事実を受け止めて、やるべきことをやると割り切っている。……それでも難しいけどね。
 いつも、曲が先にでき上がるんだ。今作では3つのグループに別れて曲作りをした。スティーヴンとジリアンは彼らのスタジオで曲作りをして、トムとフィルはスティーヴンとジリアンと共同で作業することもあれば、トムの家で自分たちで作業することもあった。ぼくもスティーヴンとジリアンのスタジオまで行って彼らと作業することもあったけど、かなりの時間をいまいる自宅のこの部屋で過ごした。すごく狭い部屋をスタジオとして使っているんだ。邪魔されることなく作業に集中できる。一つのスタジオに全員が集まって作業する代わりに、そうやって今回は曲作りを進めた。そこでできた曲やアイディアをみんなで持ち寄るんだ。ぼくが発案したアイディアを誰かが発展させることもあったし、他の人のアイディアをぼくがさらに発展させることもあった。正直、凄く集中力を要した張り詰めた制作プロセスだった。「凄く楽しんで作ることができた」とは決して言えない。というのも、ニュー・オーダーにとって重要なアルバムになるとわかっていたから。バンド内で起きた変化を経て、バンドの歴史においても節目となる作品だった。それだけに、バンドとしてもアルバムを完成させるのにとにかく集中して力一杯取り組んだ。作業に費やした時間も長かった。クリスマスでも週に50時間働いた。仕上げの1ヶ月は週に70時間働いた。それくらい大変な作業だったけど、そこまで頑張ったからこそ出来たアルバムには凄く満足しているよ。バンド全員が満足している。

トム・ローランズは3曲で参加していますが、彼が関わることになった経緯について教えて下さい。あなたは彼のどんなところに期待をしたのですか?

BS:ケミカル・ブラザーズとは、ぼくが個人的に参加した「Out Of Control」がこれまでもあったし、トムもニュー・オーダーと“Here To Stay”で共演している。これまでも何度か一緒に仕事をしたことがあったし、ケミカル・ブラザーズのふたりと考えも似ていると思っている。自然と噛み合う。だから今回もトムに何曲かプロデュースを依頼したいと思った。あまり保守的な人には依頼したくないというのもあった。勢いのあるトラックに関してはとくに。もちろんトム自身も好きなものがはっきりしているから、アルバム全部をお願いするつもりはなかった。結果的に2曲を手がけてもらうことになった。ケミカル・ブラザーズの音楽は非常に革新的で進歩的で、畳み掛けてくる迫力がある。だから今回彼が手がけた曲に関してはそういう彼ならではのテイストが反映してもらいたいと思ったんだ。

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 ファースト・アルバムのジャケットには、人肌の表現としてはいささか大胆な色づかいの、抽象的な自画像が用いられていた。『トータル・ストライフ・フォーエヴァー(Total Strife Forever)』と名づけられたその作品は、タイトルやアートワークにたがわず混沌とした印象のサウンドだったが、人気もメディアによる評価も高く、同年の英マーキュリー・プライズにノミネート。彼自身、その後はロンドンという舞台を同じくして活躍するファクトリー・フロアとのツアーを行ったり、ジーズ・ニュー・ピューリタンズのサポート・アクトを務めるなど、目ざましい──そして自身にとってもかけがえがないと述べる体験や活動を経てきた。
 イースト・インディア・ユースことウィリアム・ドイル。彼は特定ジャンルにおけるフロンティアの掘削者というよりも、英ポップ・シーンの表舞台でマイペースに自己探求をつづける、みずみずしいプロデューサーである。エレクトロニックな方法を用い、実際にテクノ、インダストリアル、エレクトロ・ポップ、あるいはジェイムス・ブレイクなどと比較されて語られるのを目にするが、大仰にそうしたジャンル名をかぶせるよりは、たとえば“エンド・リザルト”などがそうであるように、レディオヘッドが、キーンが、ザ・スポットライト・キッドが、つまりは英国ロックのある傍系の遺伝子が現在という空気と時間のフィルターをかぶって表出したものだと言うほうがしっくりくるだろう。しかしもちろん、さまざまに比較を受けているエレクトロニック/ダンス・ミュージック的な要素・傾向もまた、アンダーグラウンドの成果やトレンドの渦を反射するようにEIYの音楽を豊かにしている。

 そうした充実の中でかたちを成したこのセカンド・アルバムにはふたたび自画像があしらわれた。今回はより写真的なかたちで自身を映し出しているのが興味深い。それはこのインタヴューのなかでも述べられているように、「プロデューサー気質を発揮するよりも、自分がラップトップの前に出たかった」という気持ちをいくばくか象徴するものなのかもしれない。その意味で、多様性はそのままに、しかし格段に整理され、ポップ・パフォーマンスという方向性を得た音は、前作に比較してもすばらしく表現の威力を増している。

ちなみに、これまた以下に回想されているのだが、ファクトリー・フロアとのツアーの興奮や影響は冒頭の“ザ・ジャダリング(The Juddering)”に思いきり顕著で、微笑ましい。

■East India Youth / イースト・インディア・ユース
現在はロンドンを活動の拠点とする、ウィリアム・ドイルによるソロ・プロジェクト。デビュー作『トータル・ストライフ・フォーエヴァー』が高い評価を受け、FKAツイッグスやボンベイ・バイシクル・クラブとともに2014年度のマーキュリー・プライズにノミネートされた。第10回Hostess Club Weekenderで初来日、本作はその後初にして2枚めのフル・アルバムとなる。

昔のコンピュータにもかかわらず、そんなにレトロな感じがしなくて、どちらかというといまっぽいものになっているんじゃないかと思って

今作も自画像がジャケットのアートワークに用いられていますね。しかしいくらか抽象度が下がりました。これは前作と今作の音における表現の差でもあるでしょうか?

ドイル:たしかに今作は、音としても以前よりカラフルで、それがアートワークに反映されているかもしれないな……。これは80年代のアミーバ(Amoeba)というコンピュータを使ってつくったものなんです。もっとピクセルが粗くって、それによってローファイなアートになっているんだけれど、それをキャプチャー画像として使用していて。おもしろいのは、昔のコンピュータにもかかわらず、そんなにレトロな感じがしなくて、どちらかというといまっぽいものになっているんじゃないかと思って……そのへんが今回のアートワークとしておもしろいところかなと思いますね。

あなたがプロジェクトを始めた当時は2012年ということですね。今作までで機材環境にはどのような変化があったのでしょうか。可能でしたらどのようなものを用いていらっしゃるのかということもふくめて教えてください。

ドイル:メインの機材はラップトップなんだけど、すべてはそこからはじまっていて、ソフトウェアをたくさんつかっているけど、ハードウエアはそんなに使用してないんです。それはライヴでもいっしょで、最近、ベース・ギターはライヴでも楽曲制作のときでもよく使うようにしているんですけど、それ以外はツールも少なくて。どちらかというと個人的にはソフトウェアに興味があるんだけど、プロデューサーやエンジニアさんというのはやっぱりハードに関心のある人が多いんですよね。だからヴィンテージな機材を掘り出して使う人も多いと思います。
僕の場合はソフトの中からいろんな音を出すというのが好きで、そうやって遊んでいますよ。もともとは、前にいたバンドではアコギをメインとして弾いていたし、10歳のころからすでに自分のメインの楽器はギターだったんです。これからはもっとギターをこのプロジェクトにも投入していきたいなと思っていますよ。ただ、機材ということでいえば、このプロジェクトがはじまってからいまでもベーシックは変わっていないですね。3年に一度くらいは自分のセットアップを更新しているというか、コンピュータやソフトを見直して変えていて、それが環境の変化といえばいえるかもしれないです。

音楽をつくりはじめることになったきっかけは? 最初からいまのようなDAWソフトを用いたエレクトロニックなものだったのですか?

ドイル:10歳のときに父がエレキ・ギターを買ってくれたんです。それが音楽人生のはじまりでしょうか。当時、アコギを友人から借りて自分なりに独学で弾いていたのを親が見て、それでギターを買ってくれたんだと思います。いっしょにアンプなども買ってくれたので、自分でももっと練習するようになったし、見よう見まねで曲もつくりはじめました。10歳か11歳のときにバンドも組んだりして、13歳か14歳の頃にはコンピュータを使いはじめたかな……。というのも、生まれ育った町から引っ越したので、友だちもいないし、バンドも組めなかったから。仕方なく自分だけで音楽をつくる方法を探すしかなかったし、ちょうどベックとかモービーとかを好きになりはじめてもいたから、アコースティック要素はあるけどエレクトロニックなところもあるような音楽に心が向かったというところもあったかなあと。そのときキューベース(Cubase)を独学で学ぶようになっていまにいたりますね。10年経ったいまでも同じプログラムを使って音楽を書いています。とくに音楽的な家庭に育ったわけではないし、環境としても音楽的だったわけではないけど、いまでは本当に音楽が人生の一部という感じですね。

マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの『ラヴレス』を最初に聴いたときっていうのは、いまでも覚えているんだけど、その音の印象や衝撃がすごく自分の中に焼きつきましたね。

シーンとして、たとえばベースミュージックだったり、ダンス・ミュージックの流れを意識していますか?

ドイル:じつはぜんぜんシーンやジャンルを意識したりということはないんですよ。自分がどういうところにカテゴライズされているのかとか。ある楽曲はすごくダンス寄りだったり、ある曲はシンセ・ポップだったり、急にインストゥルメンタルなものが入ってきたり、クラシック寄りのものだったり。それから、シーンやジャンルっていうものにずっぷりとはまってしまいたくないなとも思います。そういうものが嫌いなわけではないし、テクノのイヴェントやレイヴなんかに遊びにいくのも大好きですけど、自分がどこにも該当しないというポジションがとても気に入っているので、これからもそんなかたちで活動していきたいとは思っていますね。

“マナー・オブ・ワーズ(Manner of words)”などにとくに顕著ですが、今作においてはリヴァーブや歪(ひず)みがサウンドのひとつの特徴になっているようにも思います。M83など、エレクトロニックな特徴をもったシューゲイザーなどを思い浮かべました。そういった音楽やギター・ノイズ、その増幅によってつくられる音楽に興味があるのですか?

ドイル:そうですね、意識しているというほどではないですが、たとえばマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの『ラヴレス』を最初に聴いたときっていうのは、いまでも覚えているんだけど、その音の印象や衝撃がすごく自分の中に焼きつきましたね。それは根づいているからこそ知らないうちに表現の中に出てきているものだと思います。たしかにそう言われると、この“マナー・オブ・ワーズ”のどの部分を指しているのかということがすごくよくわかります。ただ、それは意識したものではなくて、自分の中の感覚としてすごくナチュラルに出てくるものなんだろうなと思いますね。おもしろいのは、『ラヴレス』とか、いま日常的に聴いているものじゃないのに、そうやって影響を及ぼしているってことですよね。最初の印象が強いばかりに、そんなふうになるのかな。

資料によると、あなたは今回、プロデューサーとしてよりもポップ・アーティストとして歌い、パフォーマンスを行ってみようというひとつの転換点を迎えたということですね。それはマーキュリー・プライズにノミネートされるというような出来事にもきっかけがありますか?

ドイル:そうですね、マーキュリー・プライズにノミネートされたというのもひとつのきっかけだったと思います。このイースト・インディア・ユースのパーソナリティをもっと表に出して、みんなに知ってもらいたいたかったんですよね。自分が前に出ようと思った。以前はラップトップの後ろにいて、地味な感じだったんです。でもライヴをやるごとにみんなが楽しめる要素を増やしてきているかなと思います。そういうことに対するリアクションを見ながら、もっと自分としてもエネルギッシュなパフォーマンスを楽しんでもらいたいと思っていたんですが、まさかこんなに人気の出るプロジェクトになるとは思ってもみなかったので、こうやってノミネートしてもらったり楽しんでもらったりすることで、そうやって好まれるようなかたちになっていきたいなという思いも自然にふくらみましたね。それが、こうやってプロデューサー気質を前に出すというよりも、パフォーマンスを楽しんでもらうというような、そしてそんな道をもっと突き進みたいというような気持ちになっています。

プロデューサー気質を前に出すというよりも、パフォーマンスを楽しんでもらうというような、そしてそんな道をもっと突き進みたいというような気持ちになっています。

詞はどのようにつくるのですか? ご自身が観念的なタイプだと思いますか?

ドイル:じつは、歌詞を書くっていうのが自分にとってもっとも難しいことなんです。苦手なので、いまでもなんで自分がこんなことをしているんだろうって不思議な気持ちになります。いつも苦しむところなんですよ。自分がおかれている環境や場所をモチーフにはしていて、それを最終的には抽象的なかたちで表現するので、歌詞によってはすごくアブストラクトになっていると思います。どちらかというと、空間を絵具で塗ってつくっていくような感覚で言葉をつくっていますね。……本当に自分ではいつも苦しむ、もっとも音楽制作のなかで難しいことだと感じています。

今作にはより大きなスケール感が備わっていて、映像表現との相性もよいのではないかと感じましたが、あなたの「ポップ」なあり方は、今後どのような展開をしていくものなのでしょう?

ドイル:自分の理想的なポップのかたちは、みんなが聴いて楽しめるもの、ですね。でもその背景にはアンダーグラウンドなものの要素が隠れているというのが目指すところでもあります。聴いてすぐに楽しめるものだけれど、何度聴いても発見があったり、耳に冒険を与えられるものだったり、そんなものが見え隠れする曲をつくりたいですね。すぐに惹かれるようなメロディやリズムがあって、ポップ感のあるものがいいけど、その後ろに複雑な要素が見え隠れするもの──でも、そうやってうまく成功している人たちもたくさんいますよね。1曲でそれをやるのは難しいけれど、アルバムを通してそれが感じられるようなものをつくりたいなと思います。自分の好きな要素、ポップに反した要素なんかも、ね。

ファクトリー・フロアとのツアーはいかがでしたか? 印象に残っていることと、もっともよかったと感じるショウの模様について教えてください。

ドイル:そうですね、僕にとってすごく多大な影響を与えてくれている存在です。自分のいまの道すじや、制作において重要な人々につないでくれたキーマンともいえるかも。彼らがツアーにきてくれないかと言ってくれたときは本当に二つ返事で、自分自身もこれはぜったいに行くべきだって心から思えたしうれしい出来事でしたね。彼らとツアーをしてあらためて思ったのは、毎回誰とツアーをやっても素晴らしいなと思うんだけど、そのうちそう思いながらも最初の数曲だけ聴いて場を離れるようなことが増えてきたんですね。でもファクトリー・フロアについては、最初から最後まで本当に目が離せなくて、毎晩ライヴを楽しんでましたね。セット・リストが同じだったりするのに、毎回ちがうワクワク感があって、とくにドラムのゲイヴがライヴで披露するダイナミックさというのはそれぞれの晩で異なっていたんですよね。それが「ゾーン」に入ると、もう言葉では表せないくらいすごいものになっていて……。いまでもその興奮はうまく言い表せないですね。アルバムも大好きですけど、ライヴがとにかく素晴らしい。多大な影響を与えてくれた人だし、よき友人たちです。

ジェイムス・ブレイク、よく較べられるんですよ(笑)。その理由は顔が似てるからだと思うんですよね。

ジェイムス・ブレイクなどはどうでしょう?

ドイル:よく較べられるんですよ(笑)。その理由は顔が似てるからだと思うんですよね。イギリス出身で、同じような髪型で、雰囲気がなんとなく共通しているからなのかなって……(苦笑)。自分としては音楽的にも、背景として持っているものもまったくちがっていると感じています。彼のメロディのうしろにあるものは、どちらかというとソウルとかブルースとかっていうものだけど、僕の音楽はそうではない。そして彼の音楽のほうがデリケートだと思いますよ。僕の場合は、もっとバンってみんなのまえに差し出すものだというか。スタンスも参照点もちがうので、音楽として較べられる理由はあまりよくはわからないですね。

UKにおいて、インディで活動することとメジャーで活動することの差はどんなところにありますか?

ドイル:自分がメジャーとインディのどこに属するかというようなことは、自分でもあまり考えたことはなかったんですけど、こうやって日本のインタヴューを受けさせてもらっているわけだから何かしら成功した部分はあるのかなとは思いますね。ただ、自分としては、外からの変な影響なく音楽をつくりつづけることが夢なので、その理想に近い部分ならインディでもメジャーでもいいなと思います。

出身もロンドンですか? ロンドンでの音楽体験について教えてください。

ドイル:生まれたのはボーマスという場所で、ロンドンに来たのは4年前です。ロンドンというのは音楽にまつわるカルチャーが本当にたくさんある場所で、エキサイティングで楽しいです。でも、最近は自分のライヴが忙しくなってしまって、音楽のイヴェントにはあまり行けてないんですけどね。引っ越した2年間くらいは本当にいろんなところに通いました。すごくメジャーなアーティストから、すごくマイナーなアーティストまで、たくさんのものを同じタイミングで見れる場所ですね。

昨年、今年と、あなたが観た映画や読んだ本などで印象深いものはどんなものでしょう?

ドイル:スカーレット・ヨハンソンが主演の『アンダー・ザ・スキン(邦題:アンダー・ザ・スキン 種の捕食)』という映画があるんですが、それが素晴らしかったですね。スカーレット・ヨハンソン自身もブリティッシュ・アクセントだったりするんですけども。久々にすごいものを観たと思いました。サントラもいいんですよ。それがとても印象に残ってますね。

Courtney Barnett - ele-king

 思い出して欲しいんだよな。君がどこから来たのかを。“インディ”と呼ばれるものの意味をさ。
 最初はUKだった。ラフトレードやファクトリー、チェリー・レッドといったレーベル……ジョイ・ディヴィジョン、エコー&ザ・バニーメン、ザ・スミス、それからマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン……。
 インディは、ビートルズよりもヴェルヴェット・アンダーグラウンドを支持したが、マイナー・バンドのTシャツを着ているだけの物好きな連中ではなかった。バンドは自分たちの悲観的な内面を露わにした。自分たちの経済的な貧困さも隠さなかった。ヴィヴィアン・ウェストウッドの洋服をありがたがらずに、フリーマーケットに行けば500円で売っているような服を着たってこと。自分のサイズよりも微妙に違った服。大きめのコート、ごてごてのブーツ、安っぽいチェックのシャツ。ぼさぼさの髪。基本、アンチ・エレガントかつユニセックスだった。彼らは世間並みの夢を裏切り、貧しい者が夢見る夢を見た。
 その流れを汲んでいるのが、たとえばグランジやライオット・ガールだ。考えてみよう。カート・コバーンの外見はセックス・ピストルズに近かったのか、ビート/ヒッピーに近かったのか。そのどちらでもあり、そのどちらでもない。だからレイヴ・カルチャーとも正反対の文化ってわけでもなかった。あからさまなドレスダウンだった。ダボダボのセーター、ルーズフィットなズボンの男女は、90年代初頭の野外フェスにもごろごろいたしな。

彼はちゃんと気づいてる 大豆と亜麻のベジマイトのくずを そこらじゅうにまき散らしてること コンピュータを見て吐き気をもよおし スワントンの通勤の人混みを押しのけ ネクタイをはずし メトロバスの停留所の隅で寝ているホームレスの男に渡す 彼は叫ぶ 「今日は仕事に行かないぞ! どの電車が何分遅れるかチェックしながら 草むらに座ってコーラの缶でピラミッドを作るんだ」 コートニー・バーネット“Elevator Operator”

 もったいぶったイントロはない。いきなり歌とギターが入る。“スウィート・ジェーン”の頃のヴェルヴェット・アンダーグラウンドのようだ。そうとう格好いい。曲も歌詞も。
 声は、ときおり涙を含みながら乾いている。観察力のある言葉もクールな音もリズミックで、颯爽している。グルーヴもある。キャット・パワーの『ムーン・ピックス』を忘れよう。本当に忘れなくてもいいんだけど、この音楽はブルースも歌っているが、泣いて聴くアルバムではないのだ。ユーモアもある。声は大きくはないが、歌の存在感は大きい。躍動的で、同時に艶めかしいギター・サウンド。素晴らしいドラムとベースもある。このアルバムの隣にテレヴィジョンやオンリー・ワンズを並べてやってもいい。
 いまどきこんな音楽をやるのは、いったいどんな女だろう。僕は我慢できなかった。高橋のように、インターネットで画像検索した。セックス・ピストルズのポスターが貼られた彼女のベッドルームの写真を発見した。こうして、1988年生まれのこの女性がいかにわかっているのかを確信した。言っておくが、1980年にインディ・キッズだった人間が長いあいだ冷凍保存されて、現代に解凍されたときに共感できるのは、ノスタルジーってことではない。その音楽に芯があるってことだ。
 彼女の歌に描かれる若者は、陰鬱だが、おおよそ間違っていない。人生に戸惑いを覚えないほうがどうにかしている。木津毅がどうしてこの音楽にひっかからなかったのかが僕にはわからないんだよね。

「飛び降りたいのはあなたのほうでしょう 僕は自殺なんてしない ただボーッとしたいだけ ここに来るのは空想を楽しむため シムシティで遊んでるっていう想像するのが好きなんです ここから見ると みんながアリに見えて 風の音しか聞こえない」と彼は言う。 コートニー・バーネット“Elevator Operator”

 インディ・キッズっていうのはね、いまでは、ときとしてシニカルな言葉なんだよと、実際にUSインディ・シーンに属していた人が僕に教えてくれた。お決まりの服装のおきまりの髪型の、ちょっとナイーヴな子たちへの皮肉も込められているんだと。けど、それを言ったらなんでもそうだからね。クラバーなんて言葉もそれなりに滑稽だろ。インディ・キッズっていうのは、ミュージシャンとお友だちであることを自慢することでも、異性関係を自慢することでも、ele-kingに数えるほどのレヴューを書くことでもない。コートニー・バーネットが歌っているように、平日ひとりで屋上に上がることだ。
 ほんのわずかな期間だったとはいえ、人生でインディ・キッズだったことがある僕は、コートニー・バーネットのデビュー・アルバムをちょっと大きめのヴォリュームで聴いている。ビルの谷間の長く暗い通路を歩きながらこれを聴いたら泣いちゃうかもな。我ながら矛盾している。そもそもイヤフォンもiPodも捨てた頑固ジジイにそれはない。まあ、とにかく、屋上でひとりで過ごしたことがある人は、年齢性別問わずに、必聴。

The Pop Group - ele-king

 サヴェージズが引き金になったのか、スリーフォード・モッズが風穴をあけたのか、モリッシーが背中を押したのか、まあとにかく、「パンク」が帰ってきつつある……のかも? あるいは、リップ・リグ&パニックが再発されたり、90年代のマッシヴ・アタックがリヴァイヴァルしたり、まあとにかく、ザ・ポップ・グループが35年ぶりに新作を出すのは、わかる。
 ファンにとっては、マーク・スチュワート、ブルース・スミス、ギャレス・セイガー、ダン・カトシスの4人が一緒にスタジオに入って録音したという事実に感慨深いものもあるだろう。が、ザ・ポップ・グループはノスタルジーをはねのける。バンドのヴォーカリスト、マーク・スチュワートといえば、2年前のソロではいち早くブリストルのヤング・エコーのカーン、あるいはファクトリー・フロアといった若手を起用して、「さすが!」と周囲を唸らせた人でもある。だから今回もまた……と思いきや、なんと、プロデューサーはエレクトロでならしたPaul Epworth。これも興味深い組み合わせだ。

 ザ・ポップ・グループとは、ポストパンクにおけるジャズ・ファンク・ダブの壮絶なハイブリッド、ブリストル・サウンドのゴッドファーザー。「ウィー・アー・オール・プロスティテュート」や「いったいいつまで我々は大量殺戮をやり続けるのか?」は、メッセージ的にも古びていない。昨年は、ザ・ポップ・グループの未発表音源集『キャビネット・オブ・キュリオシティーズ』もリリースされている。
 ここに、35年ぶりの新作『シチズン・ゾンビ』をひっさげて、ザ・ポップ・グループのミュージック・トレイラー公開!

THE POP GROUP CITIZEN ZOMBIE (Album Trailer) 【日本語字幕版】



■ザ・ポップ・グループ、初の来日単独ライヴ!
3月1日(日曜日)
@恵比寿リキッドルーム


The Pop Group
CITIZEN ZOMBIE
ビクター(2015年2月25発売予定)
Amazon


interview with Daniel Miller - ele-king

 年末年始のお年玉企画の第一弾は、UKの老舗のインディ・レーベル〈ミュート〉の創始者、ダニエル・ミラーのインタヴュー。2014年は、プラスティックマンアルカスワンズなどの話題作をリリースしている。ニュー・オーダーと契約を交わしたこともニュースになったが、2015年の春には待望の新作が控えているらしい。  〈ミュート〉は、80年代のUKポストパンク時代を代表するレーベルのひとつであり、いまだアクチュアルなポップ・センスを失わない数少ないベテラン・レーベルである。相変わらずノイズ/インダストリアルをわんさと出しながら、他方ではポップスにも力を入れて、しっかりビジネスをしているところもすごい。2014年の春、筆者はいかにも仕事ができそうな同レーベルの経営者のひとりにお会いしたのだが、そのときに真顔で、「いまは名前が言えないが、我がレーベルはついにとんでもない大物と契約した。楽しみに」と言われたので、それは誰だ? 誰のことだ? と思っていたら、スワンズだった。たしかにスワンズは「とんでもない大物」である。我々が見習うべきは、このぶれない愛情だろう。

クロックDVAと契約できたらいいね。実はアモン・デュールやノイ!のカタログもリリスしたかったんだけどできなかったんだ。いろいろとややこしくてね。とても出したかったんだけど。

初めてお会いできて本当に光栄です。

ダニエル・ミラー(以下、DM):ありがとう。こちらこそ光栄だよ。

先日あなたがニュー・オーダーと契約したニュースにもすごく驚きました。

DM:どうして彼らとの契約に驚いたの?

当時のポスト・パンクの時代、〈ミュート〉と〈ファクトリー〉はライバル・レーベルという印象を持っていました。〈ミュート〉にはデペッシュ・モードがいて、〈ファクトリー〉にはニュー・オーダーがいましたからね。

DM:いや、むしろ友だちであり同士みたいなものだよ。

初期の頃、〈ミュート〉はユーモアを大切にしていましたが、それに対して〈ファクトリー〉はもう少しシリアスなレーベルだったので。

DM:〈ファクトリー〉創設者のトニー・ウィルソン自身はかなりユーモアに溢れていた。僕の経験では、ユーモアのあるひとほどダークな音楽をやっている。当時、僕はジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダーと交流があったわけではないから、彼らにユーモアがあったかどうかはわからないけど、〈ミュート〉もダークな音楽は出していたよ。

現在の〈ミュート〉にはニュー・オーダーやキャバレー・ヴォルテールもいるし、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンやスロッピング・グリッスルのカタログも持っています。80年代に重要だと思われていたエレクトロニック・ミュージックのほとんどのカタログが〈ミュート〉にはあるのではないでしょうか?

DM:ノイバウテンやスロッピング・グリッスルにしても当時は自主レーベルから出していた。だから〈ミュート〉から出せたことが嬉しいよ。バンドが解散したあとメンバーがもめていたんだけど、そういう困難を乗り越えて〈ミュート〉からのリリースが決まったから自分としても喜ばしかったね。

80年代に活躍したバンドで、〈ミュート〉が契約したいバンドはいますか? カタログを入手したいバンドでも結構です。

DM:クロックDVAができたらいいね。実は、これらはクラウトロックだけど、アモン・デュールやノイ!のカタログもリリスしたかったんだけどできなかった。いろいろとややこしくてね。とても出したかったんだけど。

あなたは、クオリティがが高いけど売れそうもない作品を出してしっかりビジネスにするところが、すごいなと思います。ご自身のビジネス・センスを客観的にどう思いますか?

DM:お金にならないものもあるよ(笑)。けれども売れるものあって、そのバランスが大事だと思う。様々なレーベルが世のなかにあるなかで〈ミュート〉が大事にしているのは独自の声と色がある音楽。他でやっていることをやっても意味がないと考えている。その指針となっているのは、ポップから実験的なものまで幅広い僕自身の音楽のテイストで、さっきも言ったバランスがやっぱり大事だよ。異なった音楽の共存が大事であって、それらの相乗効果が〈ミュート〉の生態系を作っている。

クロックDVAが売れると思いますか?

DM:それなりには売れると思うよ。ちゃんとリマスターをしてパッケージにもこだわってやれば、世界で1,000枚は売れるんじゃないかな。それだけ数字が出せればビジネスは成立する。カタログだとどのくらいの結果が出るのか先が読みやすいけど、難しいのは新人だよ。マーケティングで売り出すためにお金がかかるし、どういうひとが買うのかも考慮しなきゃいけないからね。

そういう意味ではもうすぐ発売されるアルカは〈ミュート〉らしいアーティストで、しかも、ポップにもアプローチできるアーティストだと思うんです。

DM:いま僕が言った意味でアルカはかなり〈ミュート〉らしい。ずば抜けてユニークだ。まだ非常に若く才能に溢れていて、ヴィジュアル面にもこだわっているしね。ライヴやアートワークにも力を入れているから、こちらとしてもやりがいを持っている。実は彼と契約するのに時間がかかったんだけど、リリースが決まって嬉しいし、ひととしても仕事がしやすいアーティストだよ。

アルカの音楽は新しい世代のエレクトロニック・ミュージックですが、彼のどこにあなたの世代にはない新しさや若さを感じますか?

DM:言葉で説明するは難しいね。音楽の構築が非常に独自で、いろんなジャンルの要素のミックスが見事だ。各楽曲から出ているムードや雰囲気がこれまでにないものになっている。サウンドそのもの組み立て方もユニークで、そういったものを総合的にみても、いままでにないオリジナリティに溢れた作品になんじゃないかな。

あなたは音楽シーンに30年以上携わっているわけですが、その間にエレクトロ・ミュージックはとても普及しました。ですが広く普及した反面、クオリティが下がったかもしれません。あなた個人はどうお考えですか?

DM:多くの点で評価しているよ。まず僕のなかで電子機材を自分の音楽で使うミュージシャンと、エレクトニック・ミュージックを作るミュージシャンは大きく違う。僕のエレクトロ・ミュージックの定義は電子機材を使って世界観を作り上げることだけど、いまとなってはコンピュータのなかにソフトがあって、そこからプリセットの音源を使って自分の音楽を作ることが一般化している。
 例えば、80年代にデペッシュ・モードとデュラン・デュランはライバル関係にあったけど、前者はエレクトロニック・ミュージックをやっていて、後者は電子音を自分の音楽に取り込んでいたバンドだった。これは音楽を作る上での哲学の違いでもあると思う。
 今日の制作現場では多くのひとたちがエレクトロニクスを使っている。なぜなら、それが安くて簡単だからだけど、僕はそれはそれでいいと思う。もちろんクオリティが低いものもあるけど、それはどのジャンルでも同じことだよね?
 数多く作り手の一握りから素晴らしい音楽が生まれてくる。エレクトロ・ミュージックの作り方が簡単になって、作り手が増えたことは肯定的に捉えているよ。その何万人のなかからポっと天才が現れるわけなんだけど、それがアルカだと思う。

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絶対的な自信があったのに、しかし売れなかたのは、レネゲイド・サウンドウェイヴだった。彼らはしょっちゅうケンカしていて、最終的にはメンバーの仲の悪さが原因で空中分解してしまった。バンドのポテンシャルはものすごかったんだよ。

あなたが昔やっていたザ・ノーマル名義の作品はリリースしないんですか?

DM:シンプルに答えよう。ノーだね(笑)。

(笑)でも当時はヒットしたし、グレイス・ジョーンズがカヴァーもしました。だから、あなたが音楽を続けなかった理由がいまひとつわからないんです。

DM:自分のことをミュージシャンやソングライターだとは思っていないんだ。自分はアイディアを出してそれを形にしただけであの作品はできた。曲を作るよりも、アーティストと仕事をしているほうが楽しかった。

シリコン・ティーンズも自分のなかで満足しているんですか

DM:シリコン・ティーンズはそれとはまた違って、たまたまの流れでできたもの。シンセを手に入れて曲を作っていたんだけど、それがすごく楽しかった。いろんな既存の曲のカヴァーを遊びでやっていて、そのうちのひとつが“メンフィス・テネシー”だったんだよ。それとは別に、当時の〈ラフ・トレード〉の店員と話していたときに、そのカヴァーの話になって聴かせてみたら、みんなが気に入ってくれてリリースしようという流れになった。だからザ・ノーマルとは違ったプロジェクトにしなきゃいけなかったから、コンセプトを考えてみた。それは近い将来に音楽をはじめるきっかけがギターとかドラムみたいにバンドなんじゃなくて、シンセサイザーになるんじゃないかってことだったんだけど、それがいま現実になってきているよね。そういった未来を思い描いていて、「10代のための音楽アルバム」というサブタイトルをつけた。リリースためのアルバムのジャケも将来のエレクトロ・ミュージックを想像しながら完成させたんだ。

いままで多くのリリースがありましたが、あなたの自信作でありながら思っていたほど売れなかったものはありますか?

DM:それはいっぱいあるけど、ひとつ挙げよう。絶対的な自信があったのに、しかし売れなかたのは、レネゲイド・サウンドウェイヴだった。彼らはしょっちゅうケンカしていて、最終的にはメンバーの仲の悪さが原因で空中分解してしまった。バンドのポテンシャルはものすごかったんだよ。音楽的にも素晴らしかったし、歌詞もとても知性を感じるものだった。ルックスも、カリスマ性も充分にあった。私はものすごく期待していたんだが、うまくいかなかった。

レネゲイド・サウンドウェイヴのメンバーは現在何をされているんですか?

DM:ひとりはどうなったか全然わからない。ダニー(・ブリオテット)はまだ音楽を作っているけれど、大学で国際関係の学位をとって国連で働いているんだ。専門はバルカン半島だったな。カール(・ボニー)はフランスに住んでいて、ホテルか宿をやっているらしい。

いまもUKにはインディ・レーベルがたくさんありますが、あなたが〈ミュート〉をはじめた頃、〈ファクトリー〉、〈チェリー・レッド〉や〈4AD〉、〈サム・ビザール〉など、多くの個性的なレーベルがありましたね。現在のインディ・レーベルのシーンはどう見ていますか?

DM:個性あるレーベルもあると思う。1978年の初めに、僕は最初のシングルを出して、同じ年に〈4AD〉もスタートした。僕たちはみんなラフ・トレードにシングルを置かせてもらって、毎週のようにお店に集まっていたね。当時はどこかのインディ・レーベルがそこでシングルを出すと、ガーっと一気に話題になって、気付けばみんなが自主レーベルをはじめていた。でもインディ・レーベルで溢れていたけれど、すべてが個性を持っているわけではなかったよ。簡単にレコードが出せたから、みんな飛びついたんだ。現在はネットによってそれがもっと簡単な時代になっただけで、状況は昔とあまり変わっていないじゃないかな。

現在のUKシーンは元気だということですか?

DM:以前と変わらず元気だよ。いまはもっと多様になってきたと思う。もちろん、ずっと好調なわけではないし、波はあるよ。ただ、私はブリット・ポップのときはそんなに興奮しなかったんだ。私はシーンごとに音楽をみたりしない。国を意識することは好きじゃないからね。そういう意味で一般的に見ても、現在のUKは健全なんじゃないかな。ゴミもたくさん混じっているけどね。

1991年かな、僕はロンドンの〈リズム・キング〉のオフィスを訪ねたことがあって……。

DM:そこが〈ミュート〉だよ(笑)。

ええ、ですから、〈ミュート〉へ行ったことがあるんです。現在の〈ミュート〉もああいったサブ・レーベルを作って、よりカッティング・エッジなアーティストをリリースしていくという噂を耳にしたのですが本当でしょうか?

DM:実はもうやっているよ。それが〈リバレーション・テクノロジーズ〉だね。12インチとダウンロードのリリースを展開している。是非聴いてみてほしいね。

どんなアーティストがいるんですか?

DM:キング・フェリックスのデビュー・シングルが最初のリリースだね。Sndのマーク・フェルも出している。

日本人のアーティストのリリース予定はありますか?

DM:ノー・プランだね。でもドミューンのフェスに出ていたアーティストで面白いミュージシャンを見つけたんだよね。ギャルシッドっていう女性ユニットだよ。

DJはよくやるんですか?

DM:いいかい、人生においては、いつかDJをする段階が訪れるんだ。〈ミュート〉をはじめる前は何年かDJをしていた。リゾート地でヒット曲をかけていたよ(笑)。私の好きな曲はかけられなかったけど、楽しい仕事だったね。15年くらい前には〈ノヴァミュート〉をやっているセスと一緒にやっていたよ。数年前には友人のテクノDJのリージェスがベルリンのベルクハインにDJとして呼んでくれた。すごく楽しい夜だったね。いまは年間10本くらいセットはやる。私にはエージェントがついているんだよ(笑)。そのお陰で今年は東京にも来れたから嬉しいね。またDJとして戻ってくるよ!

はははは。あなた自身は踊るんですか(笑)?

DM:DJは踊らずに音楽を流すからDJなんだよ(笑)。すごく酔っ払ったときは別だけど。

90年前後のダンスが空前のブームだったときにあなたはDJをしていたわけではないですよね?

DM:当時のダンス・ミュージックは面白いと思ったけど、やっていなかった。私にとって、レコードでDJするのは難しかったしね(笑)。いまは曲に専念できるようにソフトを使っているよ。

人生でいろんなことを達成してきたと思うんですが、いまも持っている夢や目標があれば教えてください。

DM:〈ミュート〉は僕が〈EMI〉に売ってからそのままだったんだけど、4年前に買い戻してからインディに戻った。〈EMI〉との最後の時期はとてもフラストレーションが溜まっていたから、いまはレーベルの再建にとてもやりがいを感じているよ。ニュー・オーダー、アルカ、ゾラ・ジーザスなど面白いアーティストと契約して、日本では〈トラフィック〉から出ているしね。

音楽以外では何かありますか?

DM:カメラが趣味なんだけど、写真家になりたい(笑)。カメラがよくても腕がないと意味がないから磨いていきたいな。写真には情熱をもって取り組める。この歳で世界をDJとして回るのも不思議な話だけどね(笑)。

いまのUKの政治には関心がありますか? 先日は、スコットランドの独立の投票もあったし、UKのEU脱退問題とか、国が揺れ動いていますほね?

DM:もちろん政治は関心がある。スコットランドの独立は間違いだよ。もし自分がスコットランド人だったら独立がもたらす結果に疑問を抱くと思う。通貨はどうなるとか、EUとの関係とかね。スコットランドでは投票という民主的な形で独立しないという結果が出たわけだけど、独立の影響がでるUKの他の地域に投票権がなかったことは非民主的だったと思う。
 EUに関しては、コンセプトは評価している。ヨーロッパでは歴史的にずっと戦争があって、それをもう終わりにする理念がEU(欧州連合)にあるわけだからね。だけどその方針に100パーセント賛成できるわけではない。非常に官僚的な国がEUの中心で動いていたりするからね。でもイギリスとしては連合に居続けて、中から制度を変えていってもらいたい。ヨーロッパでこれだけ平和が続いているのはEUの存在が大きいし、旧ソ連から独立した国々とも連合を組もうとする姿勢も肯定的に思っている。

interview with Traxman - ele-king


Traxman
Da Mind Of Traxman Vol.2

Planet Mu/Melting Bot

FootworkJukeGhetto

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 本当に暑い。夏の真っ直中だ。少しでも身体が動けば汗が噴き出る。え? フットワークだと? 
 人生に「たら」「れば」はないが、自分がいま20歳ぐらいだったら「シカゴのフットワーク以外に何を聴けばいい!?」ぐらいのことを言っていただろう。そして、DJラシャドが逝去したとき、本気でシーンの行く末を案じたに違いない。DJラシャドは、衝動的とも言えるこの音楽に多様な作品性を与えた重要なひとりだった。
 DJラシャドの他界の前には、シカゴ・ハウスのパイオニア、フランキー・ナックルズの悲報もあった。シカゴはふたりの大物を失った。
 で、しばらくするとトラックスマンの『Da Mind Of Traxman Vol.2』がリリースされた。
 以下のインタヴューで本人が言っているように、前作『Vol.1』と同じ時期に作られたものだそうだが、マイク・パラディナスの選曲だった『Vol.1』に対して、今作『Vol.2』は自身が手がけている。ヨーロッパからの眼差しをもってパッケージしたのが前作で、シカゴ好みが全面に出ているのが今作だと言えよう。どうりで……
 豪快な作品である。笑えるほどの大胆なサンプリング使いとユニークで力強いビートは、この音楽の勢いが衰えていないことの証左でもある。圧倒的なまでにファンキーだ。
 しかも……この猛暑のなか、トラックスマンは来日する。くれぐれも充分に水分を取ってから、ギグに向かおうじゃないか。

“ゲットー”は心理状態や人格だ。住んでいる場所や経済状況ではない。ゲットー・エリアに住んでいた奴がゲットーな街を出て行っても、そいつはゲットーなままだ。ネガティヴな意味で使われがちだけど、俺はポジティヴな意味で使う。ハングリーさとかそういうメンタリティを表しているからな。


海法:〈Juke Fest〉はどうでしたか? 今回は〈Booty Tune〉のD.J.AprilとD.J.Fulltono、あとダンサーのWeezy (SHINKARON) もいました。日本人がシカゴの現地のシーンへ訪問することをどう受け止めていますか?

トラックスマン:〈Juke Fest〉は最高だったよ。日本でジューク/フットワーク・シーンを広めてるDJやダンサーがジュークのメッカ、シカゴに来てくれた事は物凄く意義があったと感じている。シーンの現状を見せることが出来たし、彼らをシーンのパイオニアであるJammin' GeraldやDJ Deeon、X-Rayとか若手のSpinnやK.Locke、ダンサー集団のThe Eraに紹介することも出来たし、双方にとって素晴らしい機会になった。〈Dance Mania〉の本社にも連れて行ったよ。

DJラシャドの死についてまずはコメントをください。彼を失ったことはジューク/フットワークのシーンにおいて、どのような意味を持っているのだと思いますか?

トラックスマン:ラシャドの死についてコメントするのは本当に難しいな……。シカゴにはラシャドをDJとしてだけでなく、個人的に親しくしていた人もたくさんいたから彼の死はとても衝撃的だった。実際に会って話をして、彼を『DJ Rashad』ではなくひとりの人間として接すると、本当に素晴らしい人間だということがすぐにわかるし、そういう人たちにとってのショックは計り知れない。彼を失ったことは非常に残念だけど、彼がこの世を去った後もシカゴのプロデューサーやダンサーはかならずこのシーンをさらに世界中に広めようと心に誓っている。

少し前にフランキー・ナックルズが亡くなり、DJラシャドまで亡くなるというのは、シカゴ・ハウスの歴史を知るあなたにとって重い出来事だったと思います。

トラックスマン:そのふたりが亡くなったのは1か月も離れていないんだ。ラシャドとは17〜8年の付き合いだったので、本当の親友を失ったと感じているよ。フランキーの死に関しては、シカゴ全体がショックを受けたニュースだった。ハウス・シーンを最初期から見ている古い世代がもっともショックを受けていると思う。もちろんそれはシカゴに限ったことではなくて、世界中のハウス・ミュージック好きにショックを与えた出来事さ。いい出来事も、悪い出来事も、受け入れなくてはならない。

いまはジューク/フットワークのシーンは日本にも広がっているときだったので、彼の死はとても残念でした。とくにDJラシャドは音楽的な才能に恵まれた人だったし、あなたとはもう古い付き合いだったと思います。ぜひ、彼と出会った頃の話を聞かせてください。

トラックスマン:日本にジューク/フットワーク・シーンがここまで広まったのは本当に素晴らしいことだ。今度の来日も出来る事なら1ヶ月くらい滞在したいよ。
 ラシャドに出会ったのは、1997年か98年のことだな、あるパーティでRP Booに紹介されて初めて会った。その後しばらく会わない時期があったけれど、仲が悪かったわけでは決してなくて、DJでお互いの曲をプレイしていたりもした。2004年に再開して、そこからは完全に意気投合して、シカゴのウェストサイドで「K-Town 2 Da 100'z」というミックステープを俺とラシャド、スピンの3人でリリースしたりもした。その頃ラシャドとスピンはDJ Clentの〈Beat Down〉クルーに所属していたんだけど、それを抜けて俺を含めた3人で〈Ghettoteknitianz〉クルーを始動させた。そこから新しい時代が幕を開けたと言っても過言ではない。もちろん当時は俺らのやってる音楽がここまで大きなものになるなんて誰も予想すらしていなかったけどね。

あなたは子供の頃からディスコ、初期ハウス、ガラージ・ハウスを知っているし、そしてロン・ハーディのDJも知っています。そして、シカゴ・ハウスがミニマルでクレイジーな方向、ビート主体で、テンポも速いゲットー・ハウスへと展開していった過程も知っていますよね。先ほども言いましたが、シカゴの歴史を知っているひとりですが、まずはあなたにハウスを定義してもらいましょう。ハウスとは……何でしょう?

トラックスマン:ロン・ハーディをもの凄くリスペクトしているし、フランキー・ナックルズも尊敬してる。だが、彼らがシカゴのクラブでプレイしていた1983〜85年くらいの時期は、まだ俺は10歳くらいの子供で、クラブに行くことすら出来なかった。音楽の情報源はもっぱらラジオだった。ロンやフランキーのプレイを見ることが出来るようになったのはもう少し歳をとってからだ。
 これは本当に世に知られてないことだけど、俺らの世代のDJはみんなWBMXというラジオ局を聴いて、ハウス・ミュージックの洗礼を受けたのさ。俺は当時WBMXでDJをしていたKenny Jammin Jason、Scott Smokin Silz、そしてFarley Jackmaster Funkのプレイを聞いてハウスを学んだんだ。彼らのことは本当に死ぬほど愛しているし感謝しているよ。彼らラジオDJの存在がなければ、いまのシカゴにここまで多くのDJやプロデューサーがいる状況は生まれていなかっただろう。
 俺より上のロンやフランキーの時代にクラブに行ってた世代は、クラブで流れる曲に注目しただけで、DJのスキルやミックスのテクニックに注目はしていなかった。だがラジオDJは違った。例えば1曲かけるだけでも最初にインストゥルメンタルをかけて、じょじょにヴォーカル入りのヴァージョンにミックスして、そのあとダブミックスのブレイク部分をかけるなどして、ミキシングで展開を作った。俺らはそのスタイルにとても影響を受けている。
 ハウス・ミュージックの歴史に関しては、ラジオDJが後の世代にいかに大きな影響を与えたかなどの重要な情報は、シカゴの街から外に出ることは無かった。ハウス・ミュージックは70年代後半に生まれたと言う人もいるけど、現在も受け継がれているハウス・ミュージックのスタイルが誕生した本当のスタートは、1985年だ。その年にChip Eがリリースしたレコードに"House"(85年発表の「Itz House」)、そして"Jack"(同じく85年の「Time to Jack」)という言葉が初めて使われた。ちなみにChip Eは、十数年前に日本に引っ越して、いまも住んでいるよ。シカゴに戻りたくなくなったのかもね(笑)。
 俺にとってハウスは、キックとスネア、サンプルで構成されたとてもシンプルなもの。それのスタート、そして現在のハウスのスタイルの元となったものの誕生が1985年、とても重要な年だ。俺はハウス・ミュージックについての正しい知識と知識を広めるのが宿命だと思っている。そのためにCorky Strongという名義でも活動している。昔のことを知らないで、良い方向で未来に向かって行くことは難しいからね。
 シカゴは昔から、それこそアル・カポネの時代からとても閉鎖的で、隔離されていて、それでいて自分たちのテリトリーを重要視する街なんだ。ゲットー・ハウスもジュークもフットワークもシカゴではまったくリスペクトされていないのが実際のところで、地元で力のある多くのベテランDJやラジオ、テレビはまったくピックアップしない。インターネット上で盛り上がってるだけだ。これは本当に根深く大きな問題だ。自分たちの街で、自分たちに当てられるべきスポットライトが当たった試しがない。インターネットは比較的最近の媒体で、いまだに多くの人びとはラジオやテレビで新しい音楽と出会っている。なのにそれらのメディアが取り上げてくれないと広がりようがない。俺たちの作った音楽がいつの間にか海を渡って、日本やその他の国で愛されていることを知ったのもつい最近のことだ。いつも海外での評価の方が地元の評価より高いのさ、例えばジミ・ヘンドリクスがアメリカを出てヨーロッパで評価されるまでは、アメリカでまったくと言っていいほど評価されていなかった。それと似た感じだな。このあいだ日本のフットワーカーのWeezyがシカゴに来たとき、ゲットーのレストランでフットワークを披露したんだけど、地元の人間は本当に驚いた。フットワークのダンス・カルチャーが世界に広がってるなんて想像もしていないかったからね。


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俺より上のロンやフランキーの時代にクラブに行ってた世代は、クラブで流れる曲に注目しただけで、DJのスキルやミックスのテクニックに注目はしていなかった。だがラジオDJは違った。例えば1曲かけるだけでも最初にインストゥルメンタルをかけて、じょじょにヴォーカル入りのヴァージョンにミックスして、そのあとダブミックスのブレイク部分をかけるなどして、ミキシングで展開を作った。


あなたがハウスにハマった理由について教えて下さい。

トラックスマン:いい質問だな。最初にChip Eの「Itz House」を聞いたときは全然好きになれなかったんだ。いまは大好きだけどね。同時期にChip Eが発表した「Time to Jack」がハウスにハマった大きなきっかけのひとつだな。電子的なシーケンス・パターンに完全にやられたよ。
 その前年にJesse Saundersが「On and On」を発表して、リズムマシンを使ってファンクを表現するスタイルを確立した。初期のハウスはTR-808リズムマシンのサウンドが多く使われていたんだけど、808のドラム・サウンドに本当に虜になった。その後1987年にハウス・ミュージックのサウンドに変化が見えはじめた。TB-303を用いたアシッド・ハウスが登場して、そのサウンドにも夢中にさせられたね。当時ちょうどティーンネイジャーだった俺は、ロン・ハーディらがDJしていた〈ファクトリー〉に遊びに行きだした。いまでも仲がいいHouseboyって友人とよく一緒に遊びに行っていたよ。〈ファクトリー〉はシカゴのウエストサイドにあったティーンのクラブで、Jammin Geraldとかがプレイしていた。
 あるとき〈ファクトリー〉で遊んだ帰り、夜中の2時くらいにHouseboyが「サウスサイドのクラブに行ってみよう」と誘ってきて行ってみたんだ。そこではロン・ハーディがDJしていて、初めてドラッグ・クイーンとかゲイのパーティ・ピープルを見て衝撃受けた。ロン・ハーディーは選曲のセンスはパワフルで人を引き付ける物があった。だけどDJとしてのテクニックはいまひとつだと感じたのを覚えてる。そのサウスサイドのクラブで流れていたのは、メロディやハーモニーが重視されたキレイ目な楽曲が多かった。いっぽうウエストサイドではビート重視でリズムマシンが多用された電子的な、さっき出たChip Eの楽曲のようなスタイルが好まれた。同じハウス・ミュージックでも、サウスがハウス・クラウド(客)、ウエストがビート・クラウドという風に言われていて、同じ市内でもビート系とハウス系ではまったく違うシーンだったよ。俺はもちろんビート・クラウドさ。

どうしてあなたは、ゲットー・ハウスの流れの方に進んだのでしょうか? たとえばディープ・ハウスではなく、ゲットー・ハウスの側に惹かれた理由を教えて下さい。

トラックスマン:最大の要因はまわりの人間だな。俺がいまでも住んでいるウエストサイドの人間、みんなビート系ハウスの流れを組んだゲットー・ハウスが好きだった。もちろん自分でも好きだったけど、パーティに遊びにくる人たちも、まわりのDJもみんなゲットー・ハウス好きだった。まわりの人たちを喜ばせるためにもゲットー・ハウスに進んだのは自然な流れだったね。80年台後半から90年代初頭にはハウス・ミュージックはシカゴでは落ち着いてしまって、ヒップホップの時代に突入した。そのかわりハウスは、世界中に波及して、当時シカゴを盛り上げていた尊敬していた先輩DJはイギリスやヨーロッパの国々に行ってしまった。
 ヒップホップが勢いを増すなか、シカゴに残ったプロデューサー、Armando、Steve Poindexter、Robert Armani、Slugo、Deeon、そして俺なんかは、ラジオでもすっかりプレイされなくなってしまったハウス・ミュージックを作り続けていた。つまり、ハウスはストリートに戻ったってことさ。その頃は400〜500ドルくらいの少額な契約金でレコード契約を地元レーベルと結んでいた、何より作品を発表し続けたかったからね。その頃から考えるといまの現状は考えられないね。

Traxmanを名乗ったのも、〈TRAX〉ものが好きだったからですよね?

トラックスマン:良くわったね。その通りだよ。〈TRAX〉レーベルから出ていた楽曲は的を得ていたというか、何か俺に語りかけているような魅力があったんだ。DJをやりだした頃はDJ Corky Blastっていう名前で、そのあと90年頃からDJ Jazzyっていう名前だったな、Jazzy Jeffが好きだったからね。93年頃にTRAXMANと名乗りだしたんだ。93年ごろにPaul Johnsonと知り合った。彼は銃で背中を撃たれた直後で車いす生活を余儀なくされたばかりだった。同時期にTraxmenメンバーのEric Martinと親しくなり同じくTraxmenのメンバーとして活動していたGant-manを紹介された、当時まだ13〜4歳の子供だったよ。仲間が増えてきた矢先に、俺たちの活動の場だったウェストサイドの〈ファクトリー〉が火事で焼失してしまい、〈ファクトリー〉の歴史は急に終わってしまった。その直後からJammin Gerald、DJ FUNK、Paul Johnsonなどがレコードをリリースしはじめて、その流れに乗って俺もリリースをはじめた。
 同時期にサウスサイドのDJ/プロデューサーの噂が耳に入るようになってきた。DJ Deeon、Slugo、Miltonとかだ、サウンドを聞いたら彼らは最高にイケてたよ。ちょうどこの時期が85年以降のハウスのオリジネーターとゲットー・ハウス世代の世代交代の時期だったな。その頃はギャング抗争がもの凄く激しくて、ストリートはとても危険だった。俺たちは音楽に救われていた、音楽にハマっていなかったらギャング抗争に巻き込まれて、殺されていてもおかしくなかったからな。実際に殺されてしまった友人もたくさんいる。音楽が俺を救ってくれたから、いまシカゴでくだらない争いに巻き込まれている若いヤツらだって、音楽に救われることが出来るんだということを伝えていきたいと本気で思っている。

DJとして活動するのは何年からですか?

トラックスマン:1981年だね。

DJ以外の仕事はしたことがありますか?

トラックスマン:それもいい質問だ。むかし、1989年から1年ちょっとのあいだ地元のトイザラスで働いて、それ以外の仕事は全部音楽に携わる仕事さ。レコード屋で働いたり、〈Dance Mania〉のディストリビューションの手伝いをしたりしてた。

あなたが〈Dance Mania〉からデビュー・シングルを発表するのは、1996年ですが、自分でトラックを作るようになったきっかけは何だったのでしょうか?

トラックスマン:俺の原点ともいえる初期のハウス・ミュージックに大きく影響されている。アシッド・ハウスも好きだったけど、ビートやシーケンスが強調されたスタイルがやはり好きで、作曲に関してはそれにもっとも影響を受けているな。〈ファクトリー〉でJammin Geraldがプレイしていたり、ラジオで流れていたSleazy Dの“Lost Control"を聴いて、俺もトラックを作ってみようと決めた。Adonisの“No Way Back"っていう曲もかなり影響を受けたな。
 当時は近所にリズムマシンを持っている人が本当に少なくて、87年か88年ごろにSlick Rick Da Masterと知り合い、彼がチャック(=DJ FUNK)を紹介してくれた。リズムマシンを持っていたのは、そのふたりだった。Fast Eddieも割と近所に居たけど、彼はヒップ・ハウスが流行ってきて忙しくなってきた頃だから全然会えなかった。当時はレコードはたくさん持っていたけど、リズムマシンは持っていなかったんだ。DJ Raindeerっていう仲間がいたんだけど、そいつは逮捕されしまって今度はそいつの弟とよく遊ぶようになって、ある日「俺、実はリズムマシンもターンテーブルも持ってるよ」と言ってきたんだ。その頃、DJ FUNKも近所に越してきていて、俺のターンテーブルとFUNKのカシオRZ-1を交換した。ついに機材が揃ったから曲作りが出来るようになった。そこからは夢中になって、トラック制作に取り組んだね。DeeonとかGantmanとかサウスサイドの連中ともどんどん仲良くなって、ゲットー・ハウスシーンが広がっていった。

「Westside Boogie Traxs - Vol I」を出してから、「vol.2」はいつ出たんですか?

トラックスマン:Vol.2はフランスの〈Booty Call〉から2012年に発表したよ。1と3は〈Dance Mania〉だね。

90年代末から2000年代の最初の10年前、あなたはとくに目立った作品のリリースはしていませんが、それは何故でしょうか?

トラックスマン:コンスタントに曲は作っていたんだけど、〈Dance Mania〉も止まってしまい、発表の場が無くなった。デトロイトのDJ Godfatherがそのあいだの時期にシカゴのアーティストの作品をリリースしていたが、俺は彼とはあまり繋がっていなかったからな。それからじょじょにフランスの〈Moveltraxx〉みたいなレーベルから声がかかるようになって、自分の作品を発表する場が出来てきた。

ゲットー・ハウスがどんどん発展して、音楽的に独創的になり、ジュークが世界的に認知されるまでのあいだ、シカゴのシーンはどんな感じだったのでしょうか?

トラックスマン:シーンはあったんだけど、前後の時期ほど盛り上がってはいなかったね。なんとなく続いていた感じかな。

ちなみにシカゴでは、いつぐらいからヴァイナルではなくファイルへと変わっていったのでしょう?

トラックスマン:それは他の連中がPCでDJをはじめて時期と一緒くらいだよ。2000年代半ば頃から、ちらほら増えだしたな。俺は筋金入りのヴァイナル・フリークでターンテーブリストだけど、昔からテクノロジーも好きだから、いまはPCも使っているよ。PCDJを否定する連中もいるけど、彼らはテクノロジーをどこか恐れている部分がある気がする。


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初期のハウス・ミュージックに大きく影響されている。アシッド・ハウスも好きだったけど、ビートやシーケンスが強調されたスタイルがやはり好だ。Sleazy Dの“Lost Control"を聴いて、俺もトラックを作ってみようと決めた。Adonisの“No Way Back"にもかなり影響を受けたな。


Traxman
Da Mind Of Traxman Vol.2

Planet Mu/Melting Bot

FootworkJukeGhetto

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2012年の『Da Mind Of Traxman』以来のセカンド・アルバム、『Da Mind Of Traxman vol.2』は、相変わらず勢いのある作品で、ビートがさらにユニークになっているし、カットアップもより大胆になっているように感じました。

トラックスマン:実は『Vol.2』も『Vol.1』も収録楽曲はほぼ同時期に作られている。もちろん新しい曲も収録されているけどね。いちばんの違いは、前作は〈Planet Mu〉が楽曲をチョイスした楽曲しているが、今作のほとんどは俺が選曲したってことだ。もちろん前作も気に入っているけど、今作の方が実験的な曲を収録出来たし、気にっているよ。

ジャングルからの影響はありますか? 15曲目の“Your Just Movin”など聴くとそう思うのですが。

トラックスマン:言われてみればそう聞こえるかもな。良いところをついてくるな。とくにジャングルを意識して作ったわけではないよ。さっきも言ったように、今作は本当に実験的なアルバムだから、かなり珍しいサンプルとか、変わったネタ使いをしているというだけ。

ジューク/フットワークはダンスのための音楽なわけですが、あなたはアルバムというものをどのように考えていますか?

トラックスマン:アルバムは俺の子供みたいなものだ、1曲1曲に俺の好きなアイディアを詰め込んであるし、自分の子供たちを世に送り出すような感覚だね。

よりテンポを落として、ハウスやテクノとミックスしやすいようにしようとは考えませんか?

トラックスマン:それは別名義のCorky Storngでやっているよ。トラックスマンはジューク/フットワークの名義だ。それにDJをやるときは160BPMからはじめることはまずない。いきなり160から入ったら、あまりに窮屈だからね。最初は比較的ゆっくり、128BPMくらいからはじめて、じょじょに上げていくのが俺の基本スタイルかな。

クイーン、クラフトワークなど、大ネタを使っていますが、サンプリングのネタはどのようにして探しているのですか?

トラックスマン:サンプルは俺の家にある音源と親友のX-Rayのレコード・コレクションから選んでいる。X-Rayは本当に凄いコレクターで、彼のコレクションはまさに“Mind of Traxman"だよ。使うサンプルを探してるときはいろいろなレコードを聴いて、気に入るサンプルを見つけるまでひたすらアイディアを巡らせている。気に入った部分を見つけたら部分的に保存しておいて貯金するようにためておくんだ。

あなたにとって「getto」とは、どんな意味が込められていますか? 人はそれをネガティヴな意味で使いますが、あなたはこの言葉をなかば前向きに使っているように感じます。

トラックスマン:gettoは心理状態や人格だ。住んでいる場所とか経済状況ではない。ゲットー・エリアに住んでる奴がいるとして、そいつがゲットーな街から引っ越して出て行っても、そいつはゲットーなままだ。ネガティヴな意味で使われがちだけど、俺はポジティヴな意味で使う。ハングリーさとかそういうメンタリティを表している。ちなみに俺はG.E.T.O. DJzっていうDJクルーに入っているんだけどそれは"Greatest Enterprise Taking Over"(制圧する最高の企業)の略だ。

ゲットー・ハウスは、このままワイルドなスタイルを貫くのでしょうか? それとも音楽的に成熟する方向を目指すのでしょうか? あなたは未来についてどう考えていますか?

トラックスマン:俺たちシカゴの人間、そして世界中のゲットー・ハウス、ジューク/フットワークのプロューサーがいる限り、音楽のスタイルは変わらない。進化は続けるけれど本質が変わることはないよ。

海法:まもなく日本でのツアーが始まりますがその意気込みをきかせて下さい。

トラックスマン:日本にまた行けるのを本当に楽しみにしている! 嬉しくて、フットワークが踊れたらこの場で踊ってしまいたいくらいだ! 前回よりも絶対に最高の内容になるのは保障する! 是非見に来てくれ!



Da Mind Of Traxman Vol.2 Release Tour 2014 In Japan




数多くの逸話を残した衝撃の初来日から2年。80年代シカゴ・ハウス、90年代ゲットー・ハウス、そして00年代ジューク、シカゴ・ゲットーの歴史と共に30年以上のキャリアを誇るシカゴ・マスター、 Cornelius Ferguson (コーネリアス・ファーグソン)こと Traxman (トラックスマン) aka Corky Strong (コーキー ・ストロング)が最新アルバム『Da Mind Of Traxman Vol.2』を携えて待望の帰還!

ツアー会場先行 & 限定特価でTraxmanのハウス名義Corky Strongでの日本限定来日記念盤CDのリリースやオリジナルのTシャツの物販も要チェック!

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SOMETHINN 6 - DA MIND OF TRAXMAN VOL.2 RELEASE TOUR -
■8.8 (FRI) @ Circus Osaka
OPEN / START 22:00 - ADV ¥2,500 / Door ¥3,000 *別途1ドリンク代500円

Guest:
Traxman (Planet Mu / Lit City / Dance Mania / GETO DJ'Z / TEKLIFE / TEK DJ'Z)

DJs:
Kihira Naoki (Social Infection)
D.J.Fulltono (Booty Tune / SLIDE)
Metome
Keita Kawakami (Kool Switch Works)
DjKaoru Nakano
Hiroki Yamamura aka HRΔNY (Future Nova)

More Info: https://circus-osaka.com/events/traxman-release-tour/

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TRAXMAN JAPAN TOUR 2014
■8.9 (SAT) @ Unit & Saloon Tokyo
OPEN / START 23:00 - ADV ¥3,000 *150人限定 / Door ¥3,500

DJs:
Traxman (Planet Mu / Lit City / Dance Mania / GETO DJ'Z / TEKLIFE / TEK DJ'Z)

DJ Quietstorm
D.J.Fulltono (Booty Tune)
D.J.April (Booty Tune)

Live Acts:
CRZKNY
Technoman

Saloon:
JUKE 夏の甲子園 <日本全JUKE連> 開催!

DJs:
D.J.Kuroki Kouichi (Booty Tune, Tokyo)
Kent Alexander (PPP/Paislery Parks, Kanagawa)
naaaaaoooo (KOKLIFE, Fukuoka)

Live Acts:
Boogie Mann(Shinkaron, Tokyo)
Rap Brains (Tokyo)
隼人6号 (Booty Tune, Shizuoka)
Skip Club Orchestra (Dubriminal Bounce, Hiroshima)
Subsjorgren (Booty Tune, God Land)

More Info:
https://www.unit-tokyo.com/schedule/2014/08/09/140809_traxman.php

interview with Ike Yard - ele-king

ダーク・アンビエントがもっとも盛んなのは、これといった特定の場所というよりも、おそらく僕たちの脳内だ。「ダークネスに対する大衆の欲望を甘く見るな」という台詞は、2012年のUKで話題になった。

 アイク・ヤードは、今日のゴシック/インダストリアル・リヴァイヴァルにおいて、人気レーベルの〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉あたりを中心に再評価されているベテラン、NYを拠点とするステュワート・アーガブライトのプロジェクトで、彼は他にもヒップホップ・プロジェクトのデスコメット・クルー、ダーク・アンビエント/インダストリアルのブラック・レイン、退廃的なシンセポップのドミナトリックス……などでの活動でも知られている。ちなみにデスコメット・クルーにはアフロ・フューチャリズムの先駆者、故ラメルジーも関わっていた。

 アイク・ヤードの復活はタイミングも良かった。ブリアルとコード9という、コンセプト的にも音響的にも今日のゴシック/インダストリアル・リヴァイヴァルないしはウィッチ・ハウスにもインスピレーションを与えたUKダブステップからの暗黒郷の使者が、『ピッチフォーク』がべた褒めしたお陰だろうか、ジャンルを越えた幅広いシーンで注目を集めた時期と重なった。世代的にも若い頃は(日本でいうサンリオ文庫世代)、J.G.バラードやフィリップ・K・ディック、ウィリアム・S・バロウズらの小説から影響を受けているアイク・ヤードにとって、時代は巡ってきたのである。


Ike Yard
Remixed [ボーナストラック4曲(DLコード)付き]

melting bot / Desire Records

IndustrialMinimalTechnoNoiseExperimental

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 先日リリースされた『Remixed』は、この1〜2年で、〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉から12インチとして発表されたリミックス・ヴァージョンを中心に収録したもので、リミキサー陣にはいま旬な人たちばかりがいる──テクノの側からも大々的に再評価されているレジス(Regis)、〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉からはトロピック・オブ・キャンサー、〈トライアングル〉とヤング・エコーを往復するヴェッセル……、インダストリアル・ミニマルのパウェル、〈ヘッスル・オーディオ〉のバンドシェル、フレンチ・ダーク・エレクトロのアルノー・レボティーニ(ブラック・ストロボ)も参加。さらに日本盤では、コールド・ネーム、ジェシー・ルインズ、hanaliなど、日本人プロデューサーのリミックスがダウンロードできるカードが付いている。
 
 7月18日から3日間にわたって新潟県マウンテンパーク津南にて繰り広げられる野外フェスティヴァル「rural 2014」にて来日ライヴを披露するアイク・ヤードが話してくれた。

初めてレイム(Raime)を聴いて好きになったときに〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉に音源を送った。すぐに仲良くなって2010年にロンドンで会ったよ。実はまだいろいろリリースのプランがあって、いま進んでいるところだ。

80年代初頭のポストパンク時代に活動をしていたアイク・ヤードが、2010年『Nord』で復活した理由を教えてください。

ステュワート・アーガブライト:2010年の『Nord』は、2006年の再発『コレクション!1980-82 』からの自然な流れで、またやれるんじゃないかと思って再結成した。アイク・ヤードは2003年と2004年にあったデスコメット・クルーの再発と再結成に続いたカタチだ。
 両方に言えることだけど、再結成してどうなるかはまったくわからなかったし、再結成すること自体がまったく予想していなかった。幸運にもまた連絡を取り合ってこうやって作品を作れているし、やるたびにどんどん良くなっているよ。

『Nord』が出てからというもの、アイク・ヤード的なものへの共感はますます顕在化しています。昨今では、ディストピアをコンセプトにするエレクトロニック・ミュージックはさらに広がって、アイク・ヤードが本格的に再評価されました。

SA:そうだね。アイク・ヤードのサウンドは世代をまたいで広がり続けている。いま聴いてもユニークだし、グループとしての音の相互作用、サンプルなしの完全なライヴもできる。1982年には4つのシンセサイザーからひとつに絞った。再結成したときはコンピュータ、デジタルとアナログ機材を組み合わせた。『Nord』は再結成後の最初の1年をかけて作ったんだけど、ミックスでは日本での旅やヨーロッパで受けたインスピレーションが反映されている。

ブラック・レイン名義の作品も2年ほど前に〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉から再発されました。

SA:初めてレイム(Raime)を聴いて好きになったときに〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉に音源を送った。すぐに仲良くなって2010年にロンドンで会ったよ。実はまだいろいろリリースのプランがあって、いま進んでいるところだ。

今回の『Remixed』は、〈Desire Records〉と〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉との共同リリースになっていますが、このアイデアも〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉からだったのでしょうか?

SA:レジス(Regis)のエディットが入っている最初のEP「Regis / Monoton Versions 」は〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉との共同リリースで、その後は〈Desire Records〉からだ。
 レジスとの作業は完璧でお互い上手く意見を出し合えた。スタジオを一晩借りて、そこにカール(・レジス)が来て、ずっと遊んでいるような感じだった。3枚のEPにあるリミックス・ヴァージョンを1枚にするのは、とても意味があったと思う。他のリミックスも良かった。新しい発見がたくさんあった。レジスが"Loss"をリマスターしたときは、新しいリミックスかと思うくらい、まったく違った響きがあったよ。
 2012年のブラック・レインでの初めてのヨーロッパ・ツアーは、スイスのルツェルンでレイム、ベルリンでダルハウス、ロンドンでの〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉のショーケースはレイム、レジス、プルーリエントのドム、ラッセル・ハスウェル、トーマス・コナー、ブラック・レインと勢揃いの最高のナイトだった。

ちなみに、2006年には、あなたは〈ソウル・ジャズ〉の『New York Noise Vol.3』の編集を担当していますよね。

SA:〈ソウル・ジャズ〉は素晴らしいレーベルだ。ニューヨーカーとしてあの仕事はとても意味があった。まずは欲しいトラックのリストを上げて、何曲かは難しかったから他を探したり、もっと面白くなうように工夫した。ボリス・ポリスバンドを探していたら、ブラック・レインのオリジナル・メンバーがいたホールの向かいに住んでいたことがわかったが、そのときはすでに亡くなっていた。あのコンピの選曲は、当時の幅広いニューヨーク・サウンドをリスナーに提示している。

UKのダブステップのDJ/プロデューサーのコード9は、かつて、「アイク・ヤードこそ最初のダブステップ・バンドだ」と言ってましたが、ご存じでしたか?

SA:もちろん。コード9はニューヨークの東南にある小さなクラブに彼のショーを見に行ったときにコンタクトをとった。そのときにいろいろやりとりしたんだが、彼の発言は、どこかで「アイク・ヤードは20年前にダブステップをやっていた」から「アイク・ヤードは最初のダブステップ・バンド」に変わっていた。『Öst』のEPの引用はそうなっている。自分としては、当時の4人のグループがダブステップ的なライヴをできたんじゃないかってことで彼の言葉を解釈してる。

コード9やブリアルを聴いた感想を教えてください。

SA:ふたつとも好きだ。とくにコード9 & スペース・エイプの最初のリリースが気に入っている。最初のブリアルに関しては、聴き逃すは難しいんじゃないかな。ものすごくバズっていたからね。

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レジスはタフだ。彼はまた上昇している。ニーチェが呼ぶ「超人」のように働いている。自分は、テクノと密接な関係にある。やっている音楽はミニマル・ミュージックでもある。

ダブステップ以降のアンダーグラウンドの動きと、あなたはどのようにして接触を持ったのですか?

SA:アイク・ヤードのリミックスが出たときに、シーンからフレッシュなサウンドとして受け取ってもらえたことが大きい。あと、ここ数年のインダストリアル・テクノ・リヴァイヴァルと偶然にも繋がった。僕たちのほかとは違った音、リズム、ビートが面白かったんだろう。

ヴェッセルも作品を出している〈トライアングル〉、ないしは〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉など、新世代のどんなところにあなたは共感を覚えますか?

SA:新しいリリースはチェックしている。いま誰が面白いのかもね。彼らは知っているし、彼らのやっていることをリスペクトしてる。エヴィアン・クライストを出している〈トライアングル〉のロビンから連絡が来て、レッドブル・アカデミーのスタジオでエヴィアンと1日中セッションしたこともある。
 〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉はブラック・レインの『Dark Pool』のリリース後にとても仲良くなった。パウェルはブラック・レインの最初のライヴで一緒になって友だちになった。トーマス・コナーとファクションもいた。〈RVNG Intl.〉のマットのリリース『FRKWYS』の第5弾にもコラボレーションで参加したよ。

『Remixed』のリミキサーの選定はあなたがやったのですか? 

SA:だいたいの部分は僕がやったね。リミックスのアイデアは〈Desire Records〉と企画して、好きなアーティストを並べて決めた。

リミキサーのメンツは、みな顔見知りなのですか?

SA:ほとんど会ったことがある。ない人はEメールでやりとりしている。日本のリミキサー陣はまだ話したことはない。あとイントラ・ムロスとレボティ二。ブラック・ストロボはとても好きだ。2003年のDJヘルの再発で、ドミナトリックス(Dominatrix)の「The Dominatrix Sleeps Tonight」では本当に良いリミックスをしてくれた。

レジスやパウェル、アルノー・レボティーニ(ブラック・ストロボ)のような……、クラブ・カルチャーから来ている音楽のどんなところが好きですか?

SA:時間があるときはできるだけ多くのアーティストを聴くようにしている。クラブの世界は、いま起きている新しいことがアーティストやDJのあいだで回転しているんだ。実際、同じように聴こえるものばかりだし、面白いと思えるモノはたいしてないんだが……。そう考えると、次々と押し寄せる流行の波のなかで生き抜いているレジスはタフだ。彼はまた上昇している。ニーチェが呼ぶ「超人」のように働いている。
 僕は、テクノと密接な関係にある。やっている音楽はミニマル・ミュージックでもある。他のアーティストを見つけるのも、コラボレーションするのも楽しい。新曲でヴォーカルを何曲か録って、アイク・ヤードのマイケルと僕とでザ・セイタン・クリエーチャーと“Sparkle"を共作した。そのときのサミュエル・ケリッジのリミックスはキラーだよ。〈Styles Upon Styles〉からリリースされている。音楽もビートもすごいと思ったから、JBLAのEPもリリースした。自分まわりの友だちと2012年にブリュッセルでジャムして作ったやつで(〈Desire Records〉から現在リリース)、〈L.I.E.S.〉のボス、ロン・モアリとスヴェンガリーゴーストとベーカーのリミックスもある! 最後に収録されているオルファン・スウォーズとのコラボでは、彼らが曲を作って僕が詞を書いた。クラブ・ミュージックと完全に呼べるものは、来年には発表できると思うよ。

とくに印象に残っているギグについて教えてください。

SA:6月にグローバル・ビーツ・フェスティヴァルで見たDrakha Brakha (ウクライナ語で「押す引く」)は良すぎるくらい良かった。キエフのアーティストで、エスノなヴォーカルやヴァイブレーション、オーガニックなサウンド、チェロ、パーカッションが入っている。彼らは自分たちの音楽を「エスノ・カオス」と呼んでいた。
 毎年夏に都市型のフリー・フェスティヴァルがあるが、自分にとってはとても良い経験だ。いつでも発見がある。レジス、ファクトリー・フロア、ヴェッセル、スヴェンガリーゴースト、シャドーラスト、ピート・スワンソン、ヴェロニカ・ヴァシカ……なんかとのクラブ・ナイトを僕もやりたい。

ダーク・アンビエント、インダストリアル・サウンドがもっとも盛り上がっている都市はどこでしょう?

SA:ダーク・アンビエントは、これまでにも多くの秀作がある。アイク・ヤードの4人目のメンバーでもあるフレッド(アイク・ヤードのリミックスEP第2弾でもレコンビナントとして参加)の曲は素晴らしく、『Strom Of Drone』というコンピレーションに収録されいたと思う。
 ドリフトしているドローンが好きだ。たとえば、アトム・ハートの、『Cool Memories』に収録されている曲、トーマス・コナーの『Gobi』と『Nunatak』、プルーリエント、シェイプド・ノイズ、クセナキス、大田高充の作品には深い味わいがある。
 ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』に触発されたブラック・レインの『Night City Tokyo』(1994)は、自分たちがイメージする浮遊した世界観をより正確に鮮明に描いていると思う。つまり、ダーク・アンビエントがもっとも盛んなのは、これといった特定の場所というよりも、おそらく僕たちの脳内だ。「ダークネスに対する大衆の欲望を甘く見るな」という台詞は、2012年のUKで話題になった。

東欧には行かれましたか? 

SA:おそらく東ヨーロッパは次のアルバムのタイミングで回るだろう。母親がウクライナのカルパティア人なんだ。コサックがあったところだ。で、僕の父親はドイツ人。母親方が石炭採鉱のファミリーで、ウェスト・ヴァージニアにいて、沿岸部に移り住んでいった。ウクライナ、キエフ、プラハ、ブタペスト、イスタンブールは是非行ってみたい。

日本流通盤には、コールド・ネーム、ジェシー・ルインズ、hanaliなど、日本人プロデューサーのリミックスがダウンロードできます。とくにあなたが気に入ったのは誰のリミックスですか?

SA:コールド・ネームしかまだ聴けてないけど、とても気にっている。

こう何10年もあなたがディストピア・コンセプトにこだわっている理由はなんでしょう?

SA:「ダーク」と考えらている事象を掘り下げるなら、あの頃はストリートが「ダーク」だったかもしれない。1978年のニューヨークは人種問題で荒れていた。その影響もあってダークだったと言えるけど、実際はそんなにダークではなかった。
 1981年にアイク・ヤードのメンバーに「もし電源が落ちて真っ暗になっても、僕たちはそこでも演奏し続ける方法を見つけよう」と伝えた。そのとき得た回答は、自分がロマンティックになることだった。
 自分たちには陰陽がある。暗闇の光を常に持っている。もっともダークだったストリートにおけるそのセンスは、やがて世渡り上手でいるための有効な手段となった。僕は、近未来のディストピアのなかで前向きに生きることを夢見ていなたわけではなかった。シド・ミードは、未来とは、1984年までの『時計仕掛けのオレンジ』、『ブレードランナー』、『エイリアン』、『ターミネーター』と同じように、世界をエンタテイメント化していると認識していた。
 ジョージ・ブッシュの政権に突入したとき、どのように彼がイラク戦争をはじめるか、その口実にアメリカの関心は高まった。彼の親父はサダム・フセインからの脅しを受けていた。が、当時のディストピアは、時代に反応したものではなかった。ヒストリー・チャンネルは『ザ・ダーク・エイジ』や『バーバリアンズ』といったシリーズをはじめたが、母親のウクライナと父親のドイツの血が入っている僕にとって、自分たちがバーバリアンであると信じていた。バーバリアンから来ているオリジナルのゴスに関して言えば、僕にドイツ人の血が流れているか定かではないけど、ドイツにいるときその何かを感じたことはある。自然環境、場所、そしてミステリーの狭間でね。
 2005年から2009年にかけてのディストピアについても言おう。ブラック・レインのベーシストのボーンズと再結成前のスワンズのノーマン・ウェストバーグは、ペイガニズム、アミニズム、ブーディカといったイングランド教、ドルイド教、その他クリスチャンにさせようとするすべての勢力に反した歌詞を根幹とした。新しい「ローマ」がどこで、それが誰であるかを見つけなければならない。そしてそれがいつ崩壊するのかも。

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1981年にアイク・ヤードのメンバーに「もしも電源が落ちて真っ暗になっても、僕たちはそこでも演奏し続ける方法を見つけよう」と伝えた。そのとき得た回答は、自分がロマンティックになることだった。

80年代初頭、あなたはニューヨークとベルリンを往復しましたが、あれから30年後の現在、ニューヨークとベルリンはどのように変わったのでしょうか?

SA:83年の春にベルリンに来たとき、デヴィッド・ボウイとブライアン・イーノによる『ロウ』や『ヒーローズ』の匂いが漂っていた。その2枚は自分にとってとてつもない大きな作品だったから、ワクワクしていたものさ。
 アイク・ヤードのその当時の友だちはマラリア!で、彼女たちは78年に自分が組んだザ・フュータンツのメンバー、マーティン・フィッシャーの友だちでもあった。マラリア!とは、リエゾン・ダンジェルーズ (ベアテ・バルテルはマラリア!の古き友人)と一緒に79年にニューヨークに来たときに出会ったんだ。
 クロイツベルクではリエゾン・ダンジェルーズのクリスロ・ハースのスタジオで何週間か泊まったこともあったよ。まだ彼が使っていたオーバーハイムのシンセサイザーは自分のラックに残っている。
 当時のベルリンは、ブリクサとアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンが全盛期でね。初めて行ったときは幸運にも友だちがいろいろ案内してくれた。マラリア!のスーザン・クーンケがドレスデン・ストリートにあるスタジオで泊まらせてくれたり、ある日みんなで泳ぎに出かけようてなったときにイギー・ポップの彼女、エスターがすぐ上に住んでいることがわかったり……。78年から89年のナイト・クラビングは日記として出したいくらい良いストーリーがたくさんある。 そのときの古き良き西ベルリンは好きだった。いまのベルリンも好きだけどね。 83年以来、何回かニューヨークとベルリンを行き来してる。アイク・ヤードは8月25日にベルリンのコントートでライヴの予定があるよ。
 ニューヨークももちろん変わった。人生において80年代初期の「超」と言える文化的な爆発の一端は、いまでも人種問題に大きな跡を残してる。いまでも面白いやつらが来たり出たりしてるし、これまでもそうだった。女性はとくにすごい……まあ、これもいつだってそうか。音楽もどんどん目まぐるしく展開されて前に進む。
 〈L.I.E.S.〉をやっているロン・モアリは、近所のレコード屋によくいた。リチャード・ヘルとは向かいの14番地の道ばたで偶然会ったりする。
 しかし、ときが経つと、近所に誰がいるとか、状況がわからなくなってくるものだ。友だちも引っ越したり、家族を持ったりする。僕はイースト・ヴィレッジの北部にあるナイスなアパートに住んでいる。隔離されていて、とても静かだから仕事がしやすい。2012年のツアーではヨーロッパの20都市くらい回って、そのときはいろんな場所に住んだり、仕事もしてるが、ニューヨークがずっと僕の拠点だ。

最近のあなたにインスピレーションを与えた小説、映画などがあったら教えてください。

SA:以前も話したけど、僕のルーツは、J.G.バラード、P.K.ディック、ウィリアム・ギブソンだ。ワシントンDC郊外の高校に在籍していた多感な少年時代には、ウィリアム・バロウズの影響も大きかった。あとスタンリー・キューブリックだな。ドミナトリックスをやっていた頃の話だけど、1984年にワーナーにで会ったルビー・メリヤに「ソルジャー役で映画に出てみないか」と誘われたことがあった。フューチャリスティックな映画だったら良かったが、現代の戦争映画で自分が役を演じているという姿が想像つかなかった。が、しかし、その後、彼女は『フルメタル・ジャケット』のキャスティングをしていたってことがわかった(笑)。
 日本の映画では怪談モノが好きだし、黒澤明、今村昌平、若松孝二、鉄男、石井岳龍、森本晃司、大友克洋、アキラ、ネオ・トーキョー、川尻善昭『走る男』……なんかも好きだ。いまはK.W.ジーターとパオロ・バチガルピが気に入っている。
 ブラック・レインのアルバムでは、ふたつのサイエンス・フィクションが元になっていて、K.W.ジーター(P.K.ディックの弟子で、スター・トレックも含む多くの続編小説を生んだ作家)の『ブレード・ランナー2 :エッジ・オブ・ヒューマン』(1996)の小説。もうひとつはパオロ・バチガルピの『ザ・ウィンド・アップ・ガール』(2010)からのエミコの世界に出て来る新人類。
 いまちょうど著者のエヴァン・カルダー・ウィリアムスと、「今」を多次元のリアリティと様々な渦巻く陰謀を論じる新しい本と音楽のプロジェクトを書いている。
 もうひとつの本も進行中で、2000年頃から10年以上かけてロンドンのカルチャー・サイト、ディセンサスを取り入れてる。このスタイルの情報に基づいた書き方は、イニス・モード(意味を探さしたり、断定しないで大まかにスキャニングする)とジョン・ブラナー(『Stand On Zanzibar』、『Shockwave Rider』、『The Sheep Look Up』)に呼ばれている。ブラナーの『Stand On...』は、とくにウィリアム・ギブソンに影響を与えているようにも見えるね。

アイク・ヤードないしはあなた自身の今後の活動について話してください。

SA:早くアイク・ヤードの新しいEPを終わらせたい。新しい4曲はいまの自分たちを表している。そしてアルバムを終わらせること。『Nord』以降はメンバーが離ればなれで、みんな忙しいからなかなか進まなかった。
 次のアルバムは『Rejoy』と呼んでいる。日本の広告、日本語、英語を混ぜ合わせた言語で、アイク・ヤードにとっての新境地だ。ある楽曲では過去に作った歌詞も使われている。ケニーや僕のヴォーカルだけではなく、いろんなヴォーカルとも作業してる。アイク・ヤードのモードを変えてくれるかもしれない。
 また、新しいアルバムでは、ふたりの女性ヴォーカルがいる。日本のライヴの後、3人目ともレコーディングをする。そのなかのひとりは、エリカ・ベレという92年のブードゥー・プロジェクトで一緒になった人だ(日本ではヴィデオ・ドラッグ・シリーズの一部『ヴィデオ・ブードゥー』として知られている)。エリカは、昔はマドンナとも共演しているし、元々はダンサーだった。最初のリハーサルはマイケル・ギラ (スワンズ)と一緒でビックリしたね。
 新しいアルバムができた後は(EPは上手くいけば今年の終わりに〈Desire Records〉から、アルバムは来年以降)、「Night After Night」の再発にリミックスを付けて出そうかと思っている。ライヴ・アルバムもやりたい。
 あとは初期のブラック・レイン、ドミナトリックス、デスコメット・クルーのリリースも考えたい。サウンドトラックのコンピレーションも出るかもしれない。新しいテクノロジーを使いながら、新しいバンドも次のイヴェント、ホリゾンでやろうかとも思ってる。いまは何よりも日本でのライヴが楽しみだ。


※野外フェスティヴァル「rural 2014」にてアイク・ヤード、待望の初来日ライヴ! (レジスも同時出演!)

■rural 2014

7月19日(土)午前10時開場/正午開演
7月21日(月・祝日)正午終演/午後3時閉場 [2泊3日]
※7月18日(金)午後9時開場/午後10時開演 から前夜祭開催(入場料 2,000円 別途必要)

【会場】
マウンテンパーク津南(住所:新潟県津南町上郷上田甲1745-1)
https://www.manpaku.com/page_tour/index.html

【料金】
前売 3日通し券 12,000円
*販売期間:2014年5月16日(金)〜7月18日(金)
*オンライン販売:clubberia / Resident Advisor / disk union 及び rural website ( https://www.rural-jp.com/tickets/
*店頭販売:disk union(渋谷/新宿/下北沢/町田/吉祥寺/柏/千葉)/ テクニーク
*規定枚数に達しましたら当日券(15,000円)の販売はございません。

駐車料金(1台)2,000円
*当日エントランスでお支払いただきます。

テント料金(1張)2,000円
*当日エントランスでお支払いただきます。タープにもテント代金が必要になります。

前夜祭入場料(1人)2,000円
*当日エントランスでお支払いただきます。前夜祭だけのご参加はできません。



【出演】
〈OPEN AIR STAGE〉
Abdulla Rashim(Prologue/Northern Electronics/ARR) [LIVE]
AOKI takamasa(Raster-Noton/op.disc) [LIVE]
Benjamin Fehr(catenaccio records) [DJ]
Black Rain(ブラッケスト・エヴァー・ブラック) [LIVE]
Claudio PRC(Prologue) [DJ]
DJ NOBU(Future Terror/Bitta) [DJ]
DJ Skirt(Horizontal Ground/Semantica) [DJ]
Gonno(WC/Merkur/International Feel) [DJ]
Hubble(Sleep is commercial/Archipel) [LIVE]
Ike Yard(Desire) [LIVE]
Plaster(Stroboscopic Artefacts/Touchin'Bass/Kvitnu) [LIVE&DJ]
Positive Centre (Our Circula Sound) [LIVE]
REGIS(Downwards/Jealous God) [LIVE]
Samuel Kerridge(Downwards/Horizontal Ground) [LIVE]
Shawn O'Sullivan(Avian/L.I.E.S/The Corner) [DJ]

〈INDOOR STAGE〉
Abdulla Rashim(Prologue/Northern Electronics/ARR) [DJ]
AIDA(Copernicus/Factory) [DJ]
Ametsub [DJ]
asyl cahier(LSI Dream/FOULE) [DJ]
BOB ROGUE(Wiggle Room/Real Grooves) [LIVE]
BRUNA(VETA/A1S) [DJ]
Chris SSG(mnml ssg) [DJ]
circus(FANG/torus) [DJ]
David Dicembre(RA Japan) [DJ]
DJ YAZI(Black Terror/Twin Peaks) [DJ]
ENA(7even/Samurai Horo) [DJ]
GATE(from Nagoya) [LIVE]
Haruka(Future Terror/Twin Peaks) [DJ]
Kakiuchi(invisible/tanze) [DJ]
KOBA(form.) [DJ]
KO UMEHARA(-kikyu-) [DJ]
Matsusaka Daisuke(off-Tone) [DJ]
Naoki(addictedloop/from Niigata) [DJ]
NEHAN(FANG) [DJ]
'NOV' [DJ]
OCCA(SYNC/from Sapporo) [DJ]
OZMZO aka Sammy [DJ]
Qmico(olso/FOULE) [DJ]
raudica [LIVE]
sali (Nocturne/FOULE) [DJ]
SECO aka hiro3254(addictedloop) [DJ]
shimano(manosu) [DJ]
TAKAHASHI(VETA) [DJ]
Tasoko(from Okinawa) [DJ]
Tatsuoki(Broad/FBWC) [DJ]
TEANT(m.o.p.h delight/illU PHOTO) [DJ]
Wata Igarashi(DRONE) [Live&DJ Hybrid set]

< PRE PARTY >
Hubble (Sleep is commercial/Archipel) [DJ]
Benjamin Fehr (catenaccio records) [DJ]
kohei (tresur) [DJ]
KO-JAX [DJ]
NAO (addictedloop) [DJ]
YOSHIKI (op.disc/HiBRiDa) [DJ]

〈ruralとは…?〉
2009年にはじまった「rural」は、アーティストを選び抜く審美眼と自由な雰囲気作りによって、コアな音楽好きの間で徐々に認知度を上げ、2011年&2012年には「クラベリア」にて2年連続でフェスTOP20にランクイン。これまでにBasic Channel / Rhythm & Sound の Mark Ernestusをはじめ、DJ Pete aka Substance、Cio D'Or、Hubble、Milton Bradley、Brando Lupi、NESS、RØDHÅD、Claudio PRC、Cezar、Dino Sabatini、Sleeparchive、TR-101、Vladislav Delayなどテクノ、ミニマル、ダブ界のアンダーグラウンドなアーティストを来日させ、毎年来場者から賞賛を集めている野外パーティです。小規模・少人数でイベントを開催させることで、そのアンダーグラウンド・ポリシーを守り続けています。
https://www.rural-jp.com

interview with Kiyoshi Matsutakeya - ele-king


松永孝義
QUARTER NOTE
~The Main Man Special Band Live 2004-2011~

Precious Precious Records 
ライナーノーツ:こだま和文 / エマーソン北村

Tower HMV Amazon

 80年代の日本で、ふたりの偉大なベーシストを見つけるとしたら、ひとりはじゃがたらのナベ、もうひとりはミュート・ビートの松永孝義である、と言いたくなるのは僕だけではないでしょう。ニューオーリンズのファンクからジャマイカのレゲエ、UKのポストパンクまで、異種交配を繰り返しながら、ビート・パンク全盛期の日本で、ふたりはグルーヴを意識したダンス・ミュージック作りのひとりとして演奏に励んでいた。1986年には、インクスティック芝浦ファクトリーの「東京ソイソース」がそのうねりの拠点となって、S-KENのホットボンボンズ、ミュート・ビート、じゃがたら、そして松竹谷清のトマトスの4バンドが集まった。

 初期のじゃがたらは、いまからざっと30年ほど前の下北沢のとあるバーにたびたび集まっていた。当時その店で働いていたのがトマトスを結成する松竹谷清、通称、清さんだった。パンクの熱が容赦なく残っている時代において、音楽の探求者たちは同じ場所と同じ時間を共有した。トマトスには、ベースがナベ、ギターがEBBY──じゃがたらのメンバーして知られたふたりが加入している。

 トマトスはミュート・ビートと同様に、80年代前半の東京の、レゲエのリズムを取り入れたバンドだった。インストのミュート・ビートに対して、しかし、トマトスには日本語の歌があった。やがて初期のフィッシュマンズや一時期のチエコ・ビューティー、あるいはロッキン・タイムなどへと展開する、日本語ロックステディのはじまりと言えるかもしれない。ちなみに、広くはミュート・ビートのベーシストとして記憶されている松永孝義だが、1989年からはトマトスでも演奏している(また、一瞬だが今井秀行もドラムを叩いている)。

 松竹谷清とミュート・ビートとの共演は、1枚の素晴らしい名盤を残している。スカタライツのサックス奏者、ローランド・アルフォンソとの共演盤だ。1988年、松竹谷清はギタリストとして、ローランド・アルフォンソ+ミュート・ビートのライヴに参加していている。それが後に『ROLAND ALPHONSO meets MUTE BEAT』としてリリースされた。また、1992年にはニューヨークの伝説的なレゲエ/ダブ・レーベルのワッキーズにて、『ROLAND ALPHONSO meet GOOD BAITES with ピアニカ前田 at WACKIES NEW JERSEY』の録音にも参加している。後者は、たったの2曲の複数ヴァージョンの収録なのにも関わらず、まったく飽きさせない出来だ。
 
 この6月、松永孝義の3回忌にあわせての未発表ライヴ音源がリリースされる。2004年に、松永孝義にとって生涯で最初で最後のスタジオ録音のソロ・アルバム『The Main Man』を契機に生まれたバンド、The Main Man Special Bandによるライヴ演奏だ(ライナーノートは、こだま和文とエマーソン北村)。ちなみに、カヴァー曲の多いくだんの『The Main Man』のなかで、オリジナル曲を書いているのが松竹谷清である。
 
 写真撮影のときは、チエコ・ビューティーの『ビューティーズ・ロック・ステディ』(こだま和文がプロデュースした日本のロックステディの名作)のなかの1曲、“だいじょーぶ”を弾き方ってくれた松竹谷清は、近年は、日本語レゲエの先駆者として、地味ながらも再評価されている。今回は、清さんに、松永孝義のベースと80年代のミュート・ビート周辺について語ってもらった。

やっぱりミュートからですね。ミュート・ビートが好きで、という感じですかね。それで衝撃を受けましてね。松永は「すげえベースだな」っていうので、まずは音楽ですごく感動しまして。

今回松永孝義さんの3回忌ということで、未発表のライヴ・アルバム『QUARTER NOTE』発売がされます。今回のそのためのインタヴューということで、松竹谷清さんにお時間をいただきました。清さんは松永さんとはもちろん古いつき合いであり、松永さんの唯一のソロ・アルバム『The Main Man』のなかでも作曲されてもいます。

松竹谷清:教えた曲も含めると半分ぐらいになるかもしれないけど(笑)。

松永さんを若い世代にも知ってほしいということで今回の企画があるのですが、まず最初に松永さんがどういう方だったのかのかお話していただきたいなと思ういます。そもそもいつお知り合いになられたんでしょうか?

松竹谷:やっぱりミュートからですね。ミュート・ビートが好きで、という感じですかね。それでおお! という衝撃を受けましてね。

清さんがトマトスをやるのはちょっとあとですよね。

松竹谷:実際はミュートよりもトマトスのほうがちょっと早いんですよ。全然マイナーなんですけど。トマトスは82年ぐらいからやってるんで、トロンボーンズとかルード・フラワーとかやってる頃で。だいたい85年ぐらいだと思うんですけど、こだまとかと知り合ったりとかして、それでミュートのライヴなんかも観ていって。

スタッフ:トマトスがはじまってるのってニューウェイヴより前なんですか?

松竹谷:もうニューウェイヴだね。だから東京ロッカーズのあとだね、ミュートも俺らも。だから80年代入ってからだね。それで松永は「すげえベースだな」っていうので、まずは音楽ですごく感動しまして。で、あとでよくよく考えると、かなり前にライヴハウスで違うバンドで対バンしたこともあったんですけど。やっぱり(意識したのは)ミュート・ビートですね。86年かなあ? 85~6年、そのぐらいですね。

スタッフ:当時は〈クロコダイル〉で?

松竹谷:うん、〈クロコダイル〉とかですね。あと六本木のインクスティックですね。

ミュートもトマトスも、お互いそれぞれ作品を発表された頃ですね。

松竹谷:ミュートが出したのとだいたい同じ時期なんですよ。ミュートが出したのも、86年、87年……『TRA』のカセットが86年で、ファーストの『FLOWER』が87年じゃない。トマトスも87年なんで。一緒ぐらいなんです。まあうちはインディでしたけどね。

その頃パンク/ニューウェイヴがあって、と同時にレゲエがありました。清さんは、じゃがたらやミュート・ビート、S-KENといった、のちの東京ソイソースに繋がるコミュニティのひとりだったわけですけれど、その当時のバンド間の関係っていうのはどんな感じだったんでしょう?

松竹谷:ちょっとこう……俺らはちょっと違うよっていう意識だけは持ってたかもしれないですね(笑)。ツッぱって。あの頃やっぱりイギリスに目が行ってたと思うので。イギリスのクラブ・シーンや音楽が変わっていくっていうのと、俺らも同じところにいるような気持ちでやってたと思いますね。要は、クラッシュにしてもレゲエに影響を受けて変わったり、いろいろあるでしょう。リップ、リグ&パニックとか、あとはファンクとかね。レゲエとかサルサとかアフリカの音楽とかがこう、ぐしゃぐしゃっとなってきた時期だったんで。僕らも同じ気持ちがありましたね。

ちなみに清さんご本人のそれまでのバックボーンっていうのは?

松竹谷:アメリカの黒人音楽ですね。ブルース/ロックンロールですね。しかも、プレスリーのように、違う文化のフィルターがかかって、化学反応が起きているものが好きです。何て言うんだろう……ワープ感というか、そういうようなイメージなんで、僕のなかの音楽って。そのものをやるっていうじゃなく。自分が持ってるものじゃなくて、何かのところに行ってヘンな化学変化が起きたような感じで。根っこはロックンロールやブルースがあったところで、っていうね。この前イエローマンがたまたま日本でツアーしてまして、サポートでバッキングしたんですけど、同世代なので、持っているものは同じというか。アメリカからの影響がレゲエという形で出ていくという。どんなジャンルもそういうのがあっていいと思うので。

トマトスの靴のジャケット(「ROCK-A-BLUE BEAT」)、よく覚えています。ミュート・ビートの『FLOWER』もそうですけど、ああいうのがひとつのメッセージというか。レゲエみたいなものがたんに輸入音楽ではなく、のちに日本に根付いていくきっかけになったんだと思います。

松竹谷:そうですよね、ええ。ありがとうございます。だってねえ、世界中でその国の言葉で歌ってるじゃないですか。いろんなものの影響を受けて。それがグルーヴにすごく影響があるんでね。それが面白いですよ。

ちなみに清さんはレゲエみたいなものはどこから入ったんですか?

松竹谷:ボブ・マーリーとかジミー・クリフとか初期のも好きだったんですが、80年代前後に古いスカやロック・ステディのレコードが若干買えるようになりまして。トリオでトロージャン・ストーリー出たり。あれがまず大きくて。80年代頭の当時は「あのレコード屋に〈スタジオ・ワン〉のレコードが何枚入るぞ」ってスカフレのメンバーとかミュートのメンバーで取り合ってましたよ。早く行って買わないとない、っていう。「ウッドストックに10枚入る」だの……。

はははは。そういうなかでミュート・ビートを通じて松永さんとお会いすると。清さんから見てミュート・ビートというのはどういうバンドでしょう?

松竹谷:いや、もうあのひとたちはワン・アンド・オンリーなんでね。早い話、演奏は素晴らしいですけど、ぶっちゃけて言っちゃうとオーガスタス・パブロの80年代前後のサウンドにかなり近いアレンジとかもしてる。でもこだまの演奏は、日本でないと成り立たないものになってるっていうのが、一番僕がグッときたところですね。日本でないと成り立たないレゲエだっていう。

それはメロディであったり?

松竹谷:メロディであったりですね。でも同じようなトラックの作り方してても……同じような叩き方やベースの弾き方してても、にじみ出てくるものがあって、それがすごく大きかったです。

スタッフ:暗いアルバムってヨーロッパやイギリスでもあるけど、ああいうマイナーな曲が入ってるってないですよね。暗いっていうと違うかもしれないですけど。

松竹谷:いや、暗くていいんじゃない(笑)?

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何て言うんだろう……ワープ感というか、そういうようなイメージなんで、僕のなかの音楽って。そのものをやるっていうじゃなく。自分が持ってるものじゃなくて、何かのところに行ってヘンな化学変化が起きたような感じで。

ニーナ・シモンと美空ひばりとどっちに近いかって言われたら、必ずしもニーナ・シモンとは言い切れないという?

松竹谷:いやいや、ほんとそういうことですよ。僕らはパンク/ニューウェイヴを通ったっていうのが大きかったと思いますね。70年代からロックを聴いていた世代にしたら、パンク/ニューウェイヴっていうのは子どもの音楽だったんですね。僕はそういう風には絶対に思わなかった。壊して新しくなっていくってところにすごく喜びを感じていまして。

ブルースとかブラック・ミュージックをずっと聴いていた方でパンク/ニューウェイヴを受け入れるって――。

松竹谷:だからほんと周りにいなかったですよ。

どちらかと言うとアンチな立場の方のほうがね。

松竹谷:多いですよね。当時だと実際問題「何やってんだ」みたいな感じもありましたからね。

そういうなかで松永さんっていうのは……。

松竹谷:松永なんていうのは、ある種ファウンデーションというか、しっかりと基本的なところを押さえたプレイをする人間なんですけど。人間的には壊していくというか、オリジナリティを出していくことがすごく好きなひとなんでね。だから俺みたいなヘンなのも好きだったんじゃないですか(笑)。こだまとか(笑)。

(笑)じゃあキャラで言うと、こだまさんとは正反対の方だったんですね。いつまでもビールを飲んでいるような感じじゃなくて。

松竹谷:いやーでも、当時は松永もヒドかったよ。朝起きたらビール飲んで、飲酒運転して来てリハして、リハしてるときビール飲んで。(スタッフを指して)こいつなんてミュートのライヴで「このヤロー、ステージにビールないだろ!」って松永に怒られてたからねー。

松永さんは出自がクラシックだから、それが清さんやこだまさんとも違ってらっしゃるというか。

松竹谷:でもあいつ元々は、高校ぐらいまではエレキ・ベースでツェッペリンとかああいうロックをやっていて、ジャズやりたくてウッド・ベースやり出して、足がおかしくなったりで真面目に、ってことで音大でコントラバスやり出したんですよ。根っこはロックなんですよ。

それでレゲエのベースを。

松竹谷:それでレゲエをやりたいっていうんで、ミュートのベースがいなくなるときにピアニカ前田が松永をこだまに紹介したという。それで松永がミュートに入ったんですね。

清さんから見て松永さんのベーシストとしての魅力というのは?

松竹谷:もう言い切れないくらい好きなんですけど……音良しリズム良しセンス良しで、言うこと何にもないですね。で、今回のアルバムのタイトルは俺がつけたんですけど。

『QUARTER NOTE』。

松竹谷:『QUARTER NOTE』って四分音符ってことなんで。そのことで言うと、松永さん四分音符が長いんですよ。それに応える形で俺と松永でグルーヴを作っていったってところがあるんで。「ドゥーン、ドゥーン、ブン、チャッ、チッ」とかね、そういう感じで。簡単な、けど一拍であのしっかりとした四分音符にはまあほんと、しびれましたね。

独特のリズム感ということですか?

松竹谷:うーん、タイム感ですね。独特というか……テンポが遅いわけじゃないんですよ。

僕が思うのは、清さんのトマトスなんかもそうですけど、じゃがたらやミュート・ビートがそれまでの日本のバンドと何が違ってたのかと言うと、それまで日本でロックを聴くって言ってもグルーヴっていうことを言うひとっていなくて。ダンス・ミュージックってことを意識するバンドってそんなにはいなくて。ロックっていうと個人でハマって聴く感じっていうのがどうしてもあったので。

松竹谷:ああー、それがね! それはだから、70年代にそうなっちゃったんじゃないかなあ、主に。

そういう感じがあったところに、たぶんダンス・ミュージックってことをすごく意識されてて。グル―ヴってことをすごく意識したバンドじゃないですか。

松竹谷:それは意識してますね!

レゲエっていうよりはね。そういうなかではベースってすごく重要なポジションですもんね。

松竹谷:重要ですよ。ほんっとに。

そのグルーヴっていうのはトマトスも研究されてましたけど、松永さんもそこなんですね。

松竹谷:ほんとに松永がいなかったらないですね。

たとえばジャマイカのダブの名ベーシストはいろいろいますけど、そういうのと比較して松永さんの持ち味といいますと。

松竹谷:うーん……日本人っぽいのかなあ、それが。カチっとしてますね。柔らかい音で弾いても響きは硬質というか。音色がまず違いますしねえ。まあありがちな言い方だけど、アンプが鳴ってるんじゃなくて、ストリングスが鳴ってますね、松永は。弦が鳴ってますね。極端な話、アンプを選ばないですね。もちろんそれはウッド・ベースにしてもそうなんで。なんせ音色がほんとに色っぽくて、いいですね。

松永さんの唯一のスタジオ録音のソロ・アルバム『The Main Man』っていうのは、彼が初めて主役となって……「メイン」となって作ったアルバムでもありますけれども、そういうときに普通ならもうちょっとベーシストとしての自分が前に出てもおかしくはないじゃないですか。

松竹谷:ブーツィー・コリンズですか(笑)?

ああいうベース・ソロがあっても別に誰も嫌味とは思わないわけじゃないですか。でも、『The Main Man』という作品は、あくまでもひとりのベーシストに徹しているっていう。

松竹谷:それが松永の音楽観だと思うんですよ。メロディあるならメロディを、グルーヴでどれだけ上げるかがベースの役目なんですね。それに徹しているんですよ、ほんとに。

ソロを弾かなかったのは?

松竹谷:いやー、必要ないんじゃないですかね、あのひとにとっては。何て言うんだろう、一音のなかでそういうことを全部表せるっていうか。特別なソロっていうパートは必要ないんですよ。曲のなかでドーンとあることが……だから普通のバッキングで主張しまくってますよ(笑)。

しかも、収録曲はカヴァーであり、あるいは清さんの曲であったり……、要するにご自身で作曲したりしないんですよね。

松竹谷:最初、全部俺の曲だけでやるかって話もあったんですよ。でもそれだと俺のソロ・アルバムみたくなりすぎるんで、で、わざわざ松永が札幌まで来て話して、10曲ぐらい曲作ってあげたんだけど。で、自分で考えて「この曲をこのひとに歌ってもらおう」とか「セッション的に生まれたこの曲を入れよう」とか、そういう風に悩みに悩んでああいう形になったと思うんですよ。松永は、曲のなかに自分の解釈を出したかったんじゃないですか。

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70年代からロックを聴いていた世代にしたら、パンク/ニューウェイヴっていうのは子どもの音楽だったんですね。僕はそういう風には絶対に思わなかった。壊して新しくなっていくってところにすごく喜びを感じていまして。

松永さんはミュート・ビートでベースを弾いて、清さんはトマトスをやってて、そのふたつのバンドの最高の邂逅を音源として残しているものをひとつ挙げるとすれば、やっぱりローランド・アルフォンソとの共演だったと思うんですよね。ワッキーズで録音したヤツ(『ROLAND ALPHONSO meet GOOD BAITES with ピアニカ前田 at WACKIES NEW JERSEY』)です。90年代初頭の美しい隠れ名盤ですよね。

松竹谷:内容は最高ですよね。まずローランド・アルフォンソを呼びたいという石井さ(志津男)んの話があって。その後に、今度はローランドのソロ・アルバムを作らないかってことになりまして。で、トラックをミュートのドラムの今井に作ってもらって、僕らは前田とバッキングして音楽をアレンジして。それをこっちで録って、テープを持ってニューヨークでダビングっていう。1曲は昔やってた“テンダリー”って曲で、もう1曲はまあ俺の曲をやったんですけど……ローランドさんは目が悪くて譜面が読めなかったという(笑)。
 だから前田にメロ吹かせたのを送るんだけど。こんなでっかいお玉(音符)を前田に書かせて(笑)、それを持って行って吹いてもらったりしたんですけど。完璧にはできなかったですけど、でもいいムードになりましたね。

ローランドさんはそのときおいくつだったんですか?

松竹谷:その頃ねえ……だからあれをやったのが20数年前でしょう?

ミュートでもやられてるし、あとはワッキーズでもやってますよね。

松竹谷:そうです。だから……ひょっとすると、いまの僕らぐらいかもしれないですね。僕57なんですけど、60ちょっと手前かぐらい。そんな歳いってなかったと思いますよ。

その当時はほかにもジャッキー・ミットゥが来たりとか。

松竹谷:そうですね。

ただ当時のジャマイカ国内は、スレンテン以降のああいうコンピュータライズした時代で。ジャマイカってやっぱりトレンドが早いんで。

松竹谷:そうですね。ちゃんとしたヒット・ミュージックなんでね。みんなニューヨークにいるって言ってましたね、当時。

そういうなかで、日本で自分たちの曲をこんなにも演奏できる連中がいるっていうのは、やっぱりすごく嬉しかったんじゃないかなって想像するんですけど。

松竹谷:ものすごく喜んでいただきましたね。まずライヴのときにね。

スタッフ:ローランドが来たのは、ミュートとのライヴの当日ですからね。たしかリハぐらいに来て。

松竹谷:いやいや、リハじゃないよ。開演10分前に来たんですよ。で、開演時間30分押して。

それを、ぶっつけ本番の一発でやって、しっかり息が合っちゃったんですからね。すごいですよねえ。

松竹谷:しびれましたけどね、ほんとに。一応、(ローランドは)なしで、こうやって(笑)、練習してました。これは松永の話だからネタとして。じつはリハは松永も京都で足止め食らって来てなかったですからね。で、松永も来ないしローランドも来ないし、どうすんだろって、俺たちしぶーく練習してたんですよ、最初。そのうち松永も戻って来れたんだけど。

今回三回忌ということで、The Main Man Special Bandのライヴ盤が出たわけですけれども、このリリースに関して清さんはどのような感想を持ってらっしゃいますか?

松竹谷:まあ……いいんじゃないですか。スタジオ盤じゃなく、こういうライヴのグルーヴというかムードがちゃんと伝わるものをしっかりまた聴いていただけるっていうのは。

レゲエ以外に、ハワイアン、島唄もありますけれども、そういったものは80年代レゲエをずっとやられてきたなかでの次のステップみたいな風に考えてらしたんですか?

松竹谷:もともと好きでね、松永さん。ああ見えていろんな音楽好きなんで。沖縄にしても小笠原にしてもハワイアンにしてもスウィング感、グルーヴがあるんでね。あと、まず松永は音色でグルーヴするっていうのを大事にしてた。要するにマイク一本で生音でやるハワイアンのCDなんかをあいつよく聴いてたりしたんですけど。昔のジャズとかラテンなんかも同じなんで。音色で、音量も合わせてグルーヴするっていうのがあるんでね、そういうところをすごく大事にしてたことが、よりいっそうそういうところに行ったんだと思いますよ。
 極端に言うと、いまのレコーディングと全然違うんで。たとえばの話、1小節弾けりゃいいでしょ、っていう感じのがあるでしょう? あれってダメですからね。1曲でグルーヴしてないと。何でも直せちゃうとダメなんですよね、やっぱり。いい場合もあるけど。グルーヴが止まったらダメなんでね。影響があるんで、細切れには絶対できない。それって音色も含めてのことなので。

その80年代末、活動のなかでターニング・ポイントだったことは何か覚えてらっしゃいますか?

松竹谷:うーん……自分自身は松永とやることでよりいっそうシンプルになっていったというか。レゲエだアフロだサルサだっていうんじゃなく、ポップスのなかでもロックしているっていう。自分の解釈だったり音色っていうところも含めてやって行きたいっていう風になっていった時期ですかねえ。

松永さんがひとまず入られたのが89年?

松竹谷:そうですね。半年ぐらいミュートとダブってるのかな? ミュートのリズム・セクションに「やれ」って(笑)。引き抜いたっていうより並行してやってもらったんだけど(笑)。

エマーソン北村さんってじゃがたらのキーボードがミュートだったりで。

松竹谷:まあ、ルースターズとかああいうやつらも俺ら仲いいんですけど、ロックンロールが好きなんでね。僕らの好みの音楽をやるにはセンスがやはり、ということで、ただドドドドドドドドってやるわけじゃないんでね。16ビートもラテン色というか。そういうセンスのひとがなかなかいなかったというか。そうするとやはり近場になってきてしまったというのが現状ですね。あんまりいなかったんで、やっぱり。ソイソースやってたメンバーになっちゃうんでね。

ちなみにソイソース・チームのリズム隊が一番お手本にしたものって何かありますか?

松竹谷:僕らはいつも言ってるんですけど、みんなが好きだったのはイアン・デューリーとブロックヘッズかなあ。

それはこだまさんもよく言いますね。

松竹谷:じゃがたらも好きだし、こだまも好きだし、俺も好きだし。松永も大好きだしね。イアン・デューリーとブロックヘッズはね、あれだけフュージョンっぽいアレンジしてもロックだっていうね。あれはほんとにカッコいいですね。ほんっとに大好きですね。ミュートなんてブロックヘッズの曲ちゃんとカヴァーしてるんでね。ブロックヘッズは、71年ぐらいにキルバーン&ザ・ハイローズって名前でデビューしてるんで。もうカリプソとかレゲエやってるからね、そのときに。大好きですね。カッコいいです。
 ちなみに松永に聴かせたいぐらいに、去年出たノーマン・ワット・ロイ(元ブロックヘッズのベーシスト)のソロ・アルバムがいいんですよ。なんか似てるよ。多少ベース・ソロみたいなの入ってるんだけど、松永のセンスとなんか似てるね。曲で(グルーヴを)やるっていうのがあるんで。すごいいいわ。
 まあ、そういう、もちろん(海外のミュージシャンを)お手本にして一生懸命やってたんですけど、日本人なりのノリが混ざって出てくるのも俺はいいんじゃねえかっていうのもあったからね(笑)。

「ROCK-A-BLUE BEAT」も日本語の歌の響きにこだわってますもんね。

松竹谷:戦前からのジャズやシャンソンの替え歌を歌ったりとか、“わたしの青空”とかやってるわけで。60年代入ってから和製ポップス、弘田三枝子が“子供じゃないの”とかやってるのと全然変わらないですよ。感覚的には。向こうのメロディで自分の言いたいことを歌詞で作っていくっていうのは。さっきも言ったけど、多少ズレようがそれが日本人だからいいんじゃないかなっていう。そういう気持ちがありますね。
 だから批判めいちゃうけど、いまみたいに譜割りが細かいのに日本語の歌詞乗せたりするわりと流行ってる音楽は、リズムの譜割り気にするわりに歌詞の量多くて何歌ってるかわからないですからね。それを気にしすぎな気がしちゃいますね。詰め詰めで。グルーヴしてないっていうか。

英語で言うところの子音の部分を何とか埋めようとしちゃってるというか。

松竹谷:そうそう。あれはちょっと違うんじゃねえかなあと思うんですけどね。メロの麗しさみたいなものと一緒になってないという感じがしますね。だって外国語の語感と違うんだからしょうがないですよ。それでいいんですよ。日本人に伝わるのが好きなんで。
 松永もそういうところがあるんで、まあチエコ(・ビューティー)なんかも喜んでやってたしね。英語だけにこだわってるよりは、自分たちが作っていったものをやるほうがすごく好きでしたね。

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松永さん。ああ見えていろんな音楽好きなんで。沖縄にしても小笠原にしてもハワイアンにしてもスウィング感、グルーヴがあるんでね。あと、まず松永は音色でグルーヴするっていうのを大事にしてた。

松永さんとの思い出でよく覚えているものがあれば。

松竹谷:松永との思い出はいろいろありすぎるんですけど(笑)。80年代は松永もヒドかったんでね。飲酒運転してたぐらいなんで。ライヴ終わったあとジェームズ・ブラウンかけたら松永もノってきて義足をひきずりながらこう踊ったりしてて(笑)。

こういう言い方は誤解を招きかねないのですが、義足で、あの大きいダブル・ベースをやるっていうのがまたね。しかもダンス・ミュージックをやるわけじゃないですか。音のグル―ヴってものは、身体的なハンディキャップとは関係ないってあらためて思いますね。

松竹谷:いや、ほんと関係ないですよ。ピッキングに心こもってますからね。なんか日本調の言い方なんだけど(笑)。それで松永に車で送ってもらうんだけど、テキーラ飲みながら帰りましたからね。いまだったら恐ろしいよね。

もう交通刑務所に入れられますよ(笑)。

松竹谷:まあくだらない話ですけどね。松永とは、お互いの楽器でグルーヴし合えたっていうのが大きかったんで。まあ(いまも)松永のことがどうしても浮かんできてしまうんでね。どうしても僕の頭のなかではノリがそうなっちゃいますかね。あまりにも綺麗ごとみたいなんだけど、なんとなくあるんでね。悪く言うと意識してるのかね、やっぱり(笑)。ひとりでやっててもいっしょにやってるような感じですね。

今回のライヴ録音なんかもそうなんですけど、ベースが例によって出しゃばることなく、でもしっかり気持ちよく聞こえるんですよね。

松竹谷:やっぱいい音ですからね。

ほんとライヴ盤っていうのを忘れるぐらいな感じですよね。年齢的にはみんな同じぐらいですか?

松竹谷:松永と俺は学年一緒ですね。こだまは2コ上ですね。前田さんは3つ上です。アケミが1コ上かな。オトも1コ上だね。

飲みの席での音楽談義が白熱したりとかは。

松竹谷:俺が一番やってましたね。オトの譜面ビリビリに破いたりとか。こんなもん見てる場合じゃねーだろ、とかって(笑)。やんちゃでしたね。何言ってんだよ、みたいな(笑)。でもケンカするって言うより音楽の情報交換が楽しかったですね、一緒に飲んでて。それはいろんなジャンルにすごく行くんで。なんせ昔は情報が少なかったからね。
 だからたとえばの話、こだまと話してたりすると、昔の日本の歌謡曲いいよねとかさ、それこそ60年代のイタリアやフランスのヒット曲もいいよねとかさ、マイルスいいよねとか。あっちこっちに飛んでて、そういうとこがお互いの感情わかってる感じがあるよね。

僕なんかからすると、当時はみんなオシャレに見えましたね。古着で着飾っている感じが。

松竹谷:それはイギリス意識であったと思いますよ。ファッションと音楽は一緒のほうが楽しいですね。

ハットかぶってる感じとかがね。

松竹谷:対抗してますから、こだまと俺。あいつには負けねえ、みたいな。

(笑)清さんが札幌に戻られたのはいつなんですか?

松竹谷:94年ですね。ちょっと疲れたってほどでもないんですけど、一回地元に戻ってみるかなって感じですかね。実際問題、俺のファンってこっちのほうが多いんで。当時の空気感っていうのは東京にいたひとじゃないとわからないんでね。僕らの音楽の感じっていうのは、地方にはなかなか伝わってないですね。

それこそフィッシュマンズが有名ですけど、リトル・テンポであるとか、まさにチルドレンたちへの影響があって。

松竹谷:そんな偉そうなことは言えないですけど、いいですよね。フィッシュマンズなんて日本の音楽だって感じがして。ああじゃないとダメですよね。

清志郎さんの音楽は好きですか?

松竹谷:いや、もう大好きですよ。尊敬してますよ。素晴らしいですよ、やっぱり。ブロックヘッズともやられてますからね、いち早く。

でも80年代のときは別々ですよね?

松竹谷:(笑)だって向こうは売れてるから。だから清志郎さんのセンスのやり方もあるけど、俺らは俺らのやり方で日本の音やりたいんで。

こだまさんとか清さんみたいな先達が元気でいらっしゃるのは僕なんかからしても嬉しい限りで。またこういうアルバムがきっかけで、80年代の日本の音楽でこういうのがあったんだよってひとりでも多く知ってくれればいいかなって思います。

松竹谷:過去の遺物じゃないようにね。だから偉そうに言うと、ちゃんと俺らは俺らで音楽できてるっていうことが、過去にならないってことになるんで。ほんとに松永と一緒にやれたっていうのが誇りなんでね。正直な話、そのことですごく(いまも)やってられますよ。だから、ガンになったって松永から電話あったときは音楽やめようかなって思ったんですけどね。
 今回のレコードのレーベル名が〈プレシャス・プレシャス(precious precious)〉っていうんだけど、これはオーティス・クレイに“プレシャス・プレシャス”って曲があるんですよ。松永がこの曲が好きで、酔っぱらうと「プレーシャス、プレーシャス」って(笑)。70年代のリズム&ブルースで、これが好きなんだわー。それから取ってるんですよ。

~ 松永孝義 三回忌ライブ ~
松永孝義 The Main Man Special Band
『QUARTER NOTE』CD発売記念ライブ 

7月11日(金)
開場:19:00 / 開演:20:00
西麻布 「新世界」 https://shinsekai9.jp/

出演:松永孝義 The Main Man Special Band:
桜井芳樹(Gt) / 増井朗人(Trb) / 矢口博康(Sax,Cl) / 福島ピート幹夫(Sax) / エマーソン北村(Key, Cho) / 井ノ浦英雄(Drs, Per) / ANNSAN(Per)/ 松永希(宮武希)(Vo, Cho) / ayako_HaLo(Cho)

ゲスト: 松竹谷清(Vo, Gt) 、ピアニカ前田(Pianica)、Lagoon/山内雄喜(Slack-key. Gt)、田村玄一(Steel. Gt)

料金: 前売り予約:¥3,500(ドリンク別)

INFO・チケット予約・お問い合わせ先:
西麻布 「新世界」
https://shinsekai9.jp/2014/07/11/the-main-man-special-band/

TEL: 03-5772-6767 (15:00~19:00)
東京都港区西麻布1-8-4 三保谷硝子 B1F

マージナル=ジャカルタ・パンク - ele-king

 インドネシアに熱いパンク・シーンがあるという話はけっこう前から小耳に挟んでいたし、日本からもFuck on the BeachやCheerio、Jabaraといったアンダーグラウンドなハードコア・バンドがインドネシア・ツアーを行って現地バンドと交流しているのも知っていた(FxOxBは東南アジア・ツアーで共演したジャカルタのバンドRelationshitとスプリットCDもリリースしている)。
 そんなジャカルタのパンク・シーンに興味を持ち、取材を続けている日本人女性がいる、ということを都築響一さんがメルマガの記事にしていた。
https://www.roadsiders.com/backnumbers/article.php?a_id=294
https://www.roadsiders.com/backnumbers/article.php?a_id=297

 メルマガでの、フォトジャーナリストの中西あゆみさんへのインタヴューでは、彼女がどのようにジャカルタのパンクに興味を持ち、紆余曲折を経てシーンの中でもある種特別なポジションにあるバンド、マージナルと出会い、彼らに魅せられて取材を続けていったのかが紹介された。最終的にはマージナルのドキュメンタリー映画として完成させることが目標となっているプロジェクトだが、資金調達を兼ねた経過報告として、ライヴハウスなどでの小規模な上映会が行われたのが昨年秋のこと。その際、ぼくは中野のライヴハウス〈ムーンステップ〉で、Cheerioなどいくつかの日本のバンドのライヴと併せた形で行われた上映会に足を運んだ(そのときのことはブログにも書きました。ここで一気に心をつかまれた。

 いわば高度経済成長期にあるインドネシア、とくにジャカルタでは大規模な都市開発が進む一方で、少なからずそれに取り残された人々が存在する。マージナルは学校に行くこともままならないような貧しい子どもたちにウクレレを提供して演奏を教え、自分自身で日銭を稼ぐ術を与えている。バンドの音楽性は代表曲“レンチョン・マレンチョン”をはじめ、人懐っこくも力強いシンガロングをフィーチャーしたフォーク・パンクともいうべきものだが、子どもでも演奏できることが想定されているのだと思うとそれもまた納得できる。



 さらには自分たちが住む住居をコミュニティ〈タリンバビ〉(「豚の牙」の意)として近隣の子どもたちに場所を提供しているのである。バンドのマーチャンダイズ、そしてバンド・メンバーたちによる版画やタトゥーの収入などで家賃を捻出し、みんなで食事をしている姿には、CRASS以来のアナーコパンクの理想が地に足をつけて息づいていることがまざまざと感じられる。

 さて、じつはぼくは1月にインドネシア旅行に行ったので、その際に〈タリンバビ〉を訪れている。数日前からメールや電話でコンタクトを試みていたのだがぜんぜん連絡が取れずにおかしいなと思っていたのだけれど、住所はわかってるからとりあえず行ってみることにした。タクシーの運転手にその住所を見せたところ、「そのあたりは洪水の被害に遭っているから行けないかもしれないよ」と。たしかにちょうどその時期は雨季にあたり、何度か土砂降りにあったりもしていたのだが、それで連絡がつかなかったのか……。でもせっかく来たので「なんなら泳いでいくからとにかく行けるとこまで行ってくれ」とタクシーを走らせて一路郊外へ。1時間ほども走ったところで、「この先だよ」と言って、小さな路地を指差される。見るとたしかに、一歩路地に入ると膝まで水に浸かっている。まあ仕方ない、ここまで来たら行くしかないとザブザブと入っていく。

 道の両脇には民家が並んでおり、ぶらぶらしている人がいるので、前方を指差して「タリンバビ?」と聞いたりしていると、ちょっと前を歩いている女の子たちが「あなたたちもタリンバビに行くの? わたしたちも行くからいっしょいっしょに行こう」と言ってくれた。マレーシアから来たという。
 数十メートルも歩いていくと、小さな一軒家にたどり着く。「ハローハロー」とか言いながら入っていくと、マージナルのヴォーカリスト、マイクや子どもたちが笑顔で迎えてくれた。

 マイクは昨年の上映会の際に来日しており、終了後にぼくもちょっと挨拶もしたのだけど、幸いこちらのことを覚えていてくれて、そこから1時間ほどいろんな話をしてくれた。
マージナルはそもそもスハルト政権時代に、政府に抗議する学生運動を通して生まれたこと、近所の人たちとはうまくやっていて政府から弾圧されるようなことがあってもみんなが守ってくれること、近所の子どもたちからすればタリンバビは第二の我が家みたいなものだということ。洪水の被害は心配していたほどではないようで、雨季にはよくあることなので洪水が来れば近所同士で声を掛け合い、手助けしあって荷物を二階に運んでいること等々。


 そうはいっても大変だろうからせめて何かの足しにでもと思い、Tシャツを買うと申し出たのだけれど、むしろこんな状況でおもてなしもできなかったからと言ってTシャツやらパッチやら次々と「いいから持って帰れ」と言ってこちらに渡してくるので、このままいるとどんどん物をもらうことになってしまいそうなので、再会を誓って帰ることに。
 映画のとおりの魅力的な人物だった。短い滞在だったがいっしょに行った妻(ロックとかパンクとかはぜんぜん興味がないというかむしろ嫌いなのだが)も、マイクの暖かい人柄に、すっかりファンになったのだった。

 そして、そのマイクとマージナルがやってくる。すでにアップリンクにてドキュメンタリー映画(「2014年春版」としてアップデートされている)の上映ははじまっており、マイクおよびバンドのもうひとりの顔であるボブは上映にあわせて一足先に来日してアコースティック・ライヴや版画のワークショップを行っている。「パンク」というものに多少なりとも思い入れを持っているすべての人に見てほしいと思う。



■マージナル=ジャカルタ・パンク 2014年春版
Jakarta, Where PUNK Lives ? MARJINAL


© AYUMI NAKANISHI

渋谷アップリンク・ファクトリー
料金一律¥1,500(別途ドリンク代)
https://www.uplink.co.jp/movie/2014/25940

・5/11(日)アコースティックライヴ&版画ワークショップ
(ゲスト:MARJINAL Mike&Bob)
※5/11(日)版画ワークショップは開場時間から始めさせていただきます。
・5/12(月)アコースティックライヴ
(ゲスト:MARJINAL Mike&Bob)
・6/11(水)トークショー ゲスト近日発表
・6/12(木)トークショー ゲスト近日発表
・6/13(金)トークショー ゲスト:都築響一、中西あゆみ

さらにはほかのメンバーが合流し、バンドとしてのツアーも続く。タートル・アイランド主催の「橋の下音楽祭2014」に出演するほか、各地のすばらしいアンダーグラウンド・ハードコア・バンドたちとの共演や映画上映、ワークショップ等が行われる。

5/16 (Fri): 中野MOONSTEP(東京)
517&18 (Sat)(Sun): 豊田橋の下音楽祭. "SOUL BEAT ASIA 2014," (愛知)
5/19 (Mon): 四日市VOTRTEX(三重)
5/21 (Wed): CAFE BORDER(広島)
5/24 (Sat): PLAYER'S CAFE(沖縄)
5/25 (Sun): 新宿ANTIKNOCK(東京)
5/28 (Wed): 横浜CLUB LIZARD(神奈川)

 フランキー・ナックルズが亡くなったというニュースが私たちのもとに飛び込んで、あらためて彼の功績を振り返り、彼の曲を聴きなおすたびに、とにかく悲しいという気持ちばかりが溢れて仕方がない。直前のマイアミでDJした際の動画には、クラウドに愛され、名前をコールされる最高の瞬間が残されていた。(Frankie Knuckles || Def Mix @ The Vagabond || Miami || March 2014 )そこでプレイされていたのは「僕が居なくなってから、君は僕の愛を恋しくなるはずだよ」と歌うルー・ロウルズ“You'll Never Find Another Love Like Mine”を原曲にした彼の未発売音源……。彼は過去の経歴ばかりにスポットが当てられるけれども、ここ数年の楽曲制作はとくに活発だった。糖尿病を抱えていた自身の身体状況を自覚して、最後の力を振り絞っていたのかと、つい憶測してしまい、とても胸が痛くなる。彼はハウスを生み、「ハウスが生まれた意義」を、きっちり守り続けて人生を全うした。その生々しく輝かしい功績に触れていきたい。

 1955年、彼はブロンクスで生まれた。コマーシャル・アートとコスチューム・デザインの勉強をしていたが、学生のころからスクール・メイトのラリー・レヴァンと一緒に足繁くクラブに通いはじめる。ニューヨークの条例で入場可能な年齢に達していなかった彼らは補導されたり、ときにはラリーがドーナツを盗んで警察に捕まったりしながら、当時劇的に変化していたダンス・ミュージックのナイト・シーンを全身で吸収していた。ニッキー・シアーノがレジデントDJをしていた〈ザ・ギャラリー〉に通っていた彼は、高校生だったため入場料も満足に払えなかったのが功を奏して内装のアルバイトに採用され、そこでニッキーのDJスキルや、パーティがどんなふうに回っていくのかといった、作り手側の仕組みを学んだ。彼が最初にDJをしたのは71年、16歳のとき。ラリー・レヴァンと切磋琢磨しながら、キャリアを重ねてゆく。ラリーが〈パラダイス・ガラージ〉のオープンに向けて準備をしている76年、ラリーに〈ウェアハウス〉でDJの声が掛かる。だが、ラリーが断ったため、2人を少年の頃から知っていたオーナーはフランキーに声を掛けた。77年3月〈ウェアハウス〉のオープニング・パーティをフランキーは成功させた。ところが移住を決意してシカゴに戻った7月には〈ウェアハウス〉はガラガラの状態になっていた。だが、彼が他の店で素晴らしいプレイしたことが評判を呼び、活気を取り戻す。当初は黒人の同性愛者が大半だったが、彼が白人同性愛者中心のクラブでのギグを引き受けたことや、店側のオープンな姿勢もあって、次第に人種や性的趣向の隔たりを越えた場所になっていった。1500人以上が集まっていても、馴染みの仲間が集まる雰囲気があり、シカゴの人びとにとって、大切なスポットだった。

 だが、黒人の同性愛者を象徴するディスコ・ミュージックが音楽シーンを席巻した当時の状況を忌み嫌う人びとが現れ、反ディスコ運動が起こった。ロック愛好者の白人ラジオDJの声かけにより、79年7月、「disco sucks」をキャッチフレーズに大量のディスコ・レコードをシカゴの球場(コミスキー・パーク)に集めて爆破したのをきっかけに(その様子がテレビで放映されたことも追い風となり)、反ディスコ運動は爆発的に加速した。その根底にあるのは明らかに人種そして同性愛に対しての嫌悪であり、シカゴの街に暗い影を落としていく。それでも、黒人で同性愛者のフランキーは、皆の居場所である〈ウェアハウス〉を守り続けていく。彼は、ディスコやフィリー・ソウルなどの客に馴染みのある曲だけでなく、ディペッシュ・モードやソフト・シェル、ブライアン・イーノ&デヴィッド・バーンといったエレクトリックなテイストも積極的に取り入れた。そして、例えば曲のピークにさしかかる直前の2小節を繰り返すなどのエディットを施したり、あらかじめリズムを打ち込んだテープを一緒にミックスするなど、誰もが知っている曲に手を加えて聴かせ、ソウルフルでありつつも実験的なスタイルでクラウドの心をつかんでゆく。いつしか、フランキーのスタイルを「〈ウェアハウス〉でかかっているような音楽」と人びとが口にするようになり、〈ウェアハウス〉が略されて、ハウス、と名付けられた。現在、〈ウェアハウス〉跡地前の標識にはこう記されている。「HONORARY "THE GOD FATHER OF HOUSE MUSIC" FRANKIE KNUCKLES WAY」。

 82年11月、興行的には大成功を収めていたが、あまりに人が集まりすぎて犯罪も起こるようになり、「安全な場所ではなくなった」と判断したフランキーは〈ウェアハウス〉を去り、自身の店、〈パワー・プラント〉を83年にオープンさせる。この頃にはデトロイトのデリック・メイから購入したTR-909をDJプレイに組み込むなどDJスタイルもさらに進化し、同じ年に彼がアレンジを施したファースト・チョイス「Let No Man Put Asunder」(インストとアカペラ)がリリースされる。〈パワー・プラント〉は長くは続かなかったが、ファースト・チョイスのエディットを気に入っていたジェイミー・プリンシプルがフランキーに声を掛けて交流が始まり、87年、フランキーの初期傑作とされる“Your Love”が生まれた(この曲を〈トラックス〉が勝手にリリースした経緯があり、本人は遺憾の意を示している)。

 シカゴのスタイルは、当時人気を博した〈ミュージック・ボックス〉のDJ 、ロン・ハーディの影響もあり、次第にトラック中心になっていく。フランキーのソウルフルな音楽を中心にプレイするスタイルを、「上の世代の人間が聴く音楽」といった評価の声も出始めたという。〈パワー・プラント〉閉店後の87年、フランキーはNY在住のデイヴィッド・モラレスを紹介される。この年は〈パラダイス・ガラージ〉が閉店した年で、エイズが同性愛者や麻薬常習者に感染が広がり、差別が広がるだけでなく、仲間の死や、不治の病への圧倒的不安が大きな混乱を引き起こしていた時期でもあった。88年、フランキーはNYに戻り、モラレスのプロデューサー集団、デフ・ミックス・プロダクションに加入する。エリック・カッパーやテリー・バリスと共作し、この頃からピアノとストリングスを組み合わせた、流麗で哀愁溢れるフランキーの表現世界が確立されてゆく。まず88年にモラレスとの共作でア・ガイ・コールド・ジェラルド“Voodoo Ray (Paradise Ballroom Mix)”を手掛け、89年にフランキーは「Tears」をリリース。サトシ・トミイエを世に送り出し、ヴォーカリストとしてのロバート・オーウェンスを広く認知させた。そして91年には、ハウスの不朽の名作、「The Whistle Song」をリリース。 共作のエリック・カッパーは、制作時間は20分で、デモをフランキーがプレイした際に、ホイッスル(口笛)で作ったのかとお客さんに訊かれたのがきっかけで、このタイトルになったというエピソードをインタヴューで話している。この頃からメジャー・レーベルからのリリースも頻繁になり、ルーファス&チャカ・カーン“Ain't Nobody (Hallucinogenic Version)”、ジャネット・ジャクソン“Because Of Love”、ダイアナ・ロス“Someday We'll Be Together”、アリソン・リメリック“Where Love Lives”、マイケル・ジャクソン“You Are Not Alone / Rock With You”といったリミックスを手掛け、デフ・ミックスの黄金時代をモラレスなどと共に築き上げた。ディスコは確かに、あのシカゴの球場での事件から失速したかもしれない。けれども、ディスコと同じようにメロディアスで、黒人同性愛者によって作られたハウスが表舞台に返り咲いた。「ハウスは、ディスコの復讐なんだよ」というフランキーの言葉は象徴的であり、そしてとても誇らしげだ。何しろ、彼こそがその軌跡を作ってきたのだから。またDJにおいては、92年にNYにオープンした〈サウンド・ファクトリー・バー〉において毎週金曜日を担当し、DJルイ・ヴェガとバーバラ・タッカーがオーガナイズする毎週水曜日のパーティ〈アンダーグラウンド・ネットワーク〉と共に、この箱の伝説を作り上げた。

 94年2月号の、雑誌『リミックス』のインタヴューで、フランキーはこう答えている。「ここ2年くらい、たくさんのダンス・トラックが出たけど、心に残ったものはあんまりないんだ。音楽を作るならやっぱり人の心になにか残さないと。それも一過性のものじゃなく、人びとにずっと覚えてもらえるもの。ただのバカ騒ぎのBGMを作ったって仕方がないんだよ。力強い作品を作っていくことこそ、ダンス・ミュージックを生き残らせていくただひとつの道だからね。それが僕の役割だと思っている。メッセージのある、いつまでも人の心の中に生きていく音楽」
 フランキーには、自分が作るべきものが明確に見えていて、それが揺るぐことはなかった。だが、00年代に入る頃から、彼は制作のペースを落としてゆく。それは、ハード・ハウスやテクノ、トランスなどのサウンドが台頭し、デフ・ミックスの代名詞といえる華やかでメロディアスなスタイルが、ダンス・ミュージックの中心から離れてきた時期と重なる。彼の信じるスタイルを、世の中が必要としなくなったと、彼自身が感じていたのだ。だが、08年にヘラクレス&ザ・ラブ・アフェアの“Blind”のリミックスを依頼され、それがヒットしたのを契機に、制作への意欲を取り戻していく。11年には“Your Love”のジェイミー・プリンシプルとの共作“I’ll Take You There”がヒット。この曲から、エリック・カッパーとのプロジェクト、ディレクターズ・カット名義でのリリースが中心となる。彼はこの時期には糖尿病を患っていて、12年の〈リキッド・ルーム〉での来日公演の時点で、すでに足の一部を切断していた。 それでも彼はDJをしに世界中を回ることをやめなかったし、とくに昨年の楽曲制作の膨大な数には目を見張るものがあった。

 ハウス・ミュージックとはなにか、という問いに一言で答えるのはとても難しい。けれども、フランキー・ナックルズという人間の存在こそが、ハウスだったのだと、いま彼の人生を振り返って思う。差別の強風に堂々と立ち向かい、自身の美意識を貫き、聴くものに生きる力を与え続けてきた彼こそが、ゴッドファーザー・オブ・ハウスの称号に相応しい。私たちに素晴らしいハウス・ミュージックの数々を届けてくれて、本当に有難うございました。


 以下、フランキーの数々の楽曲から10曲選ばせて頂きました。リリースされた年代順に掲載しています。文中で触れた楽曲はあえて外しましたが、“The Whistle Song”は06年、“Your Love”は今年の1月に新しいヴァージョンがリリースされていますのでここで触れさせて下さい。5曲目の“Whadda U Want (From Me)”は、Frankie's Deep Dubがロフト・クラシックスですが、歌の入ったFrankie's Classic Clubもエモーショナルです。文頭に触れたフランキーが今年のマイアミでプレイした楽曲を、最後に紹介しました。

■Frankie's Classics selected by Nagi

Jago - I'm Going To Go (Remix) - Full Time Records (1985)

Sounds Of Blackness - The Pressure (Classic 12" Mix With Vocal Intro) - Perspective Records (1991)

Lisa Stansfield - Change (Knuckle's Mix) - Arista (1991)

Denitria Champ - I've Had Enough (Frankie's Favorite Version) - Epic (1993)

Frankie Knuckles - Whadda U Want (From Me) - Virgin (1995)

Chante Moore - This Time (The Bomb Mix) - MCA (1995)

Un-Break My Heart (Frankie Knuckles - Franktidrama Club Mix) - LaFace (1996)

Frankie Knuckles - Keep On Movin - Definity Records (2001)

Candy Staton - Hallelujah Anyway (Director's Cut Signature Praise) - Defected (2012)

Kenny Summit, Frankie Knuckles & Eric Kupper - Brawls Deep - Good For You Records

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