僕がジョン・グラントの音楽を聴くことになったのは、ジャケットの彼と目が合ったからである。なんとなく海外のレヴュー・サイトをウロウロしているときに一際鋭い視線に捕らわれて、ついクリックしてレヴューを読んでみたらば、彼はゲイで、HIVポジティヴであることをカミングアウトしているという。思わずぎょっとして再びジャケットを見てみる……髭面のいかつい男は相変わらずこちらを睨んだままだ。それがたしか、5月のこと。気がつけば、この年僕はこのアルバムをもっとも繰り返し聴いている。
ジョン・グラントはフォーク/カントリーを基調としたバンド、ザ・シーザーズの元ヴォーカリストであり、本作『ペイル・グリーン・ゴースツ(青緑色の幽霊たち)』がソロの2作目。2010年のソロ・デビュー作『クイーン・オブ・デンマーク』は評論家の間でそこそこ高く評価されたらしいが、僕は知らなかった。恐らくゲイ・シーンの繋がりでヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアとツアーを回ったこともあるそうで、HIVに関してはそのツアーのときに発表したそうだ(ゲイのオーディエンスを意識した上での決断だったのだろう)。
サウンドは70年代シンガーソングライター風バラッドとフォーク、80年代ニューウェイヴをほどよく交配したよく出来たものである。ちなみに、シネイド・オコナーがパートナーのように3曲でコーラスとして参加している。ゲイ・アーティストで言えば……ルーファス・ウェインライトとジョン・マウスとヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアの間のどこかにいるような。近年のモリッシーのソロ作を聴く感覚とも遠くはないだろう。冒頭を飾るタイトル・トラックは仄かにダークで攻撃的な、ニューウェイヴ調のシンセ・ポップだ。その上でグラントがバリトン気味のよく伸びる声で朗々と歌う。続く“ブラック・ベルト”はややディスコ調のダンス・トラック。ヴァースごとにサウンドをガラッと変えるオールドスクールなマナーも気が利いている。続く“GMF(グレイテスト・マザーファーッカーの略)”はフォーキーなバラッド……普通に聴いていれば、良い声を持った40代のシンガーソングライターによる、影響元を上手く消化したソングブックとして楽しめたのかもしれない。
だが、このアルバムでグラントが隠さないネガティヴな言葉と感情を耳と頭が探り当ててしまったとき、もう簡単に聞き流すことはできなくなってしまう。続く優雅なバラッド“ヴェトナム”では彼の元恋人、もちろん男の恋人に、「お前の沈黙は兵器だ/まるで核弾頭のような/ヴェトナムで使われた枯葉剤のような」と断罪の言葉を浴びせる。ヴィデオも象徴的だ。白黒の映像に映るのはグラントそのひとで、そして彼はよくあるMVのように口ずさみもせずに、ひたすら画面の向こうからこちらを見つめ、ときどき視線を外す。そしてまたこちらを睨みながら、こう告げるのである。「俺を慰めるただひとつのことは、お前がこの先誰といようが、お前はいつも孤独だろうってわかることだよ」……とても、穏やかに、深い声で、美しいストリングスとアナログ・シンセの和音に乗せて、そう歌うのだ。画面の前で、僕はただ彼と見つめ合うことしかできない。
これも同様に、かつて愛した人間を「心配するフリなんかしなくていい/思ってもないことなんて言わなくてもいい」と責める“ユー・ドント・ハフ・トゥ”もなかなか強烈だ。「ひと晩中ファックしたのを覚えてるか?/俺も覚えてない、いつもへべれけだったから/痛みを扱うのにたくさんの酒が必要だったんだ」……。だが、サウンドはどこかファニーですらあるシンセ・ポップ。そもそも歌い出しからして、「犬を連れて、寄り添って公園を散歩したのを覚えてるか?」と言いながら、すぐさま「ま、俺たち犬なんて飼ったことないし、いっしょに公園も行ったことないんだけど」とオチをつけずにはいられない。しかしながらこの皮肉は、彼の傷痕から血が吹き出るのをどうにか抑えるための苦肉の策のようでもある。“センチメンタル・ニュー・エイジ・ガイ”におけるパーカッシヴなディスコ・トラックで、なかばやけっぱちにおどけて歌うグラントはしかし、そうして理性をと保とうとする。
続く“アーネスト・ボーグナイン”(グラントが尊敬するという性格俳優)はHIVポジティヴだと発覚した心境についての歌だという。「医者は俺を見ずに、きみは病気だと言った」。ここで、どうして彼がジャケットからこちらを真っ直ぐに見つめていたかがわかる。グラントは目を逸らされたくないのだ。自らのみっともなさからも気まずさからも卑小さからも。混乱はある、が、錯乱はしていない。「俺はこのクソのような町が大嫌いだ」と軽やかに歌い、過去との訣別を宣言する。そしてラスト・トラックの“グレイシャー”で誇らしげに鳴らされるピアノの高音はそのことを自ら祝福するかのようだ。グラントはそして、アイスランドへと移住したという。
僕にとってこれは穏やかな精神状態で聴ける作品ではないが、しかしそれなりの覚悟を持って向き合いたいと思える音楽だ。ジョン・グラントはありったけの憎悪と皮肉と悲哀をこめて、愛を歌っている。ユーモアも忘れずに。だから僕は、ジャケットの彼と睨み合いを続けようと思う。
「Fã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
Paisley Parks - Cold Act Ill EP
Shinkaron
ペイズリー・パークスとはプリンスのレーベルではない。日本で生まれたジャパニーズ・ジュークのプロジェクトで、TMTも大絶賛、海外ではすでに人気に火がついている。ところで、つい先日、筆者はKESが〈ダブソニック〉やWOODMANのレーベルから作品を出していたことを知って衝撃を受けた。その初期作品(カセットテープ・リリース)を聴くと、たしかにジュークの青写真とも言えるゲットー・サウンドなのだ。つまり、10年前からやってきたことが、いま、たまたまシカゴと共振したということか。
ドミューンでのライヴも格好良かった。「F」ワードが乱発される音楽が特別好きなわけではないけれど、この3人組からあふれ出るパンキッシュなエネルギーに降伏したので、早速CD-Rを買った。ブレイクコアのときと似ているのかもしれない。ペイズリー・パークスにしろフードマンにしろ、ジュークは日本との親和性が高いことを証明している。
Tiny Hearts - Stay EP
Dirty Tech Records
〈ダーティ・テック〉は、デトロイト・ヒップホップのキーパーソン、ワジード(スラム・ヴィレッジのオリジナル・メンバーおよびPPPで知られる)が昨年立ち上げたレーベルで、〈サブマージ〉もどこまで関わっているのか定かではないけれど、それなりにサポートしているんじゃないかと思わせるレーベルだ。それほどのポテンシャルはある。昨年1枚、今年1枚出ている2枚のepは、彼のエレクトリック・ストリート・オーケストラ名義の作品だったが、マイク・バンクス、セオ・パリッシュ、アンドレスなどテクノ/ハウスの大物も参加している。
その2枚も、まあ悪くはなかったのだが、この〈ダーティ・テック〉の第3弾には痺れた。ワジードのR&Bプロジェクトのデビュー作で、初期のスラム・ヴィレッジを彷彿させるメロウなヴォーカルとタイトなビート、そして分厚いシンセのリフが素晴らしい。実験的だがポップで、まさにフューチャーR&Bと言いたくなるような……。これは注目しよう。
Hilaru Yamada And The Librarians - The Rough Guide To Samplin' Pop
CD-R

https://ekytropics.blogspot.jp/
カットアップ/サンプリング・ミュージックで、インナーにはネタが表記されているわけだが、そのネタの選び方が面白い(そのセンスはコーネリアス的だ)。洒落が効いていて、カラフルで、チャーミングなドリーム・ポップとして成立している。大昔、ちょうどこれと同じ方法論で、砂原良徳がブートを作ったことがある。推薦です!
Duppy Gun - What Would You Say About Me?
Stones Throw
サン・アロウとロブドア、そしてマシューデイヴィッド、LAの3人のジャマイカ旅行、第3弾。迫力ゼロのビートにふにゃふにゃのエフェクト。ジャマイカのディージェイ、Fyah FlamesとI Jahbarが勇ましい声を上げている。ディプロのへなちょこヴァージョンとでも言えばいいのか。格好いいポスターが付いているので、見つけたら買うことをオススメする。
Jay Daniel -
Scorpio Rising EP
Sound Signature
待っていた人も多かったでしょう。沈没していく街とは裏腹に、デトロイトらしい上昇する感覚を兼ね備えたジェイ・ダニエルのデビュー・シングル。デリック・メイ的とも言えるタフなリズムとシンセリフの“No Love Lost”も良いが、母であるナオミ・ダニエルの歌う“スターズ”のインロ(大本はラリー・ハードの“スターズ”だが)を微かに使った“I Have No Name”が最高。ついに未来のクラシックが登場したね。
Audio Tech - Dark Side
Metroplex
これも聴くのをずっと楽しみにしていたんですよね。ホアン・アトキンスとマーク・エルネストゥスというふたりの先達のコラボ作。モーリッツ・フォン・オズワルドとの共作のミニマリズムとは打って変わって、こちらはエレクトロ。ホアン・アトキンスは歌っている。B面ではマックス・ローダーバウアとリカルド・ヴィラロボスのコンビが12分にもおよぶ幻覚性の高いリミックスをしているが、オリジナルとの関連性は見られない。
Archie Pelago - Hall Of Human Origins
Styles Upon Styles
太陽のスタンプでお馴染みの、NYのアンソニー・ネイプスと〈Mister Saturday Night Records〉は今日の90年代ハウス・ブームの主役のひとりだが、昨年末に同レーベルからリリースされたアーチー・ペラゴ(ブルックリンの3人組)のシングル「The Archie Pelago EP」は、ジャズ・ハウスとしては実に幅広い層にアピールしたヒット作となった。その後の「Subway Gothic / Ladymarkers」では、実験的なアプローチも見せて、最近出た「Hall Of Human Origins」でも、IDMの領域にも手を出しているし、下手したらジュークさえも自分たちの養分にしようとしているのかもしれない。ラテンのリズムも冴えを見せ、サン・ラーの雄大なブラスをも引用しているのでは……。いつアルバムが出るのでしょう。
日本のクラブ・カルチャーの草分けのレーベルと言えば〈メジャー・フォース〉で、歴史にあるように、ECDやスチャダラパーを世に送り出すという日本のヒップホップの開拓者でもあったレーベルだが、今年はタイニー・パンクス(高木完+藤原ヒロシ)の「Last Orgy」から25周年なのだった。このパイオニアたちに敬意を表する、25周年のイヴェントが代官山AIRで開かれる。
〈メジャー・フォース〉レーベルの第二弾では、当時ブリストルのワイルド・バンチ(後のマッシヴ・アタック)に所属していたDJ Miloがフィーチャーされているが、彼も駆けつけて、今回の「25周年」を高木完 & K.U.D.Oとともに盛り上げてくれる。なんでも「ワイルド・バンチのクラシック・セット」をお披露目するのだそうで、レアグルーヴが好きなひとも見逃せない。なにせMUROも出演するし、そしてアフターアワーズではDJノリ(日本のハウス・シーンの大先輩)がプレイする。

■Sound City feat. DJ Milo[The Wild Bunch] meets MAJOR FORCE 25th ANNIVERSARY
11月9日(土)@代官山AIR
DJ Milo [The Wild Bunch]
- Exclusive Wild Bunch Classics Set -
MAJOR FORCE DJ SET
[高木完 & K.U.D.O]
MURO
and more
AFTERHOURS
DJ NORI
さあ、いよいよ今週末! 「何気にいいメンツでしょう」でお馴染み、〈ANTI GEEK HEROES vol.2 -CASUALS UTOPIA-〉! Seiho、LUVRAW & BTB (Pan Pacific Playa)、カタコトという、フロンティアをカオッシーに盛り上げるアーティストたちを一気にコンパクトに楽しめる宵。
さらに、あの“Pool”(THE OTOGIBANASHI'S)で脚光を浴びたアンファン・テリブル、あらべえもDJとして参加決定! ようやく大学生となり、ライヴ活動もはじめたてという初々しい彼は、“Pool”のあとどのような成長を遂げているのだろうか……。今回はライヴではないが、その動向をうかがう上では興味深い出演だ。
場所はTHREE。至近距離で目撃しよう!
THE OTOGIBANASHI'Sの存在を知らしめるきっかけとなった“Pool”……。そのトラックを手がけたことで知られる、若干19歳のトラックメイカー、あらべえがDJとして参加します。
また、カタコトは前回とは趣向の異なるライヴを行う他、限定グッズの販売もあるかも……!?
前売りまだありますので、ぜひぜひチェックよろしくお願いします!
■ele-king presents
"ANTI GEEK HEROES vol.2 -CASUALS UTOPIA-"
日時:10.27 (sun)
場所:下北沢 THREE
OPEN 18:30 / START 19:00
ADV 2,300 yen / DOOR 2,800 yen
(+ drink fee)
LIVE: Seiho / LUVRAW & BTB / カタコト
DJ: あらべえ
*公演の前売りチケット予約は希望公演前日までevent@ele-king.netでも受け付けております。お名前・電話番号・希望枚数をお知らせください。当日、会場受付にてご精算/ご入場とさせていただきます。
INFO: THREE 03-5486-8804 https://www.toos.co.jp/3
平日の深夜、いったい何が起きたのだろう、僕は都内のゲイバーに橋元といた。壁には四谷シモンと金子國義の絵が見える、反対側には、そのバーを訪れた世界中のクイーンが残していった紙幣が貼り付けられている。テーブルには『ベニスの死す』のサントラと演歌のCD……。外見は男性だが内面は女性のママさんは、グラスを傾けながら、我々に向かって、パリのモンマルトルのことを話した。ボヘミアニズムの大いなる故郷に生きる娼婦や男娼たちの話だ。
『北回帰線』(1934年)、原題「Tropic Of Cancer」は、ヘンリ・ミラーのもっとも有名な小説だが、僕はまだ読んだことがない。が、もっとも有名な小説なので、それがパリで書かれた退廃的で淫靡で性的な内容をもっていることは知っている。貧困と放蕩とセックス三昧は、ある意味では古典的なロマンティシズムに思えるが、トロピック・オブ・キャンサーの、「アイ・フィール・ナッシング(私は何も感じない)EP」に続く『レストレス・アイディル(不穏な田園生活)』なるデビュー・アルバムは、いままさにその名の由来への忠誠を示すかのように、暗いロマンティシズムをぶちまける。
ゴシック/インダストリアルの拠点として一貫した美学を貫いているロンドンの〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック(BEB)〉は、今年、精力的なリリースを展開している。そのなかには元SPKのメンバーでもあった、ラストモード名義で知られるブライアン・ウィリアムズのアルバム『ザ・ワード・アズ・パワー』も含まれている。屠殺場でのフィールド・レコーディングとチベットの呪文とのおぞましい混合や聴覚を脅かすような低周波数の実験で知られるダーク・アンビエントの先駆者だが、彼のような過剰だった先人が〈BEB〉のようなクラブ系のレーベルから作品を出すことは個人的には面白いと思う。
まあ何にせよ、〈BEB〉は、もっとも暗い、もっとも悲観的な思いに陶酔しきっているのだ。さあ、この暗さを楽しもう。そんなレーベル側の思いが伝わってくる。トロピック・オブ・キャンサーはロサンジェルスだが、レイムと並んでレーベルにの顔でもあるので、これは待望の1枚目なのである。
音的なことを言えば、これはニュー・インダストリアル時代のジョイ・ディヴィジョンに喩えられるかもしれない。もともと〈ダウンワーズ〉という老舗のテクノ・レーベルから作品を出しているのでエレクトロニックな要素はある。電子ドラムはクラウトロックの系譜で、淡々とリズムを反復する。ギターは美しい旋律を爪弾き、歌は深いエフェクトのなかで霧となって消えていく。なるほど、ジョイ・ディヴィジョンとコクトー・ツインズを目一杯スクリューしたようなこの感覚は、古典的な暗いロマンティシズムを新鮮なものにする。レイムほどの斬新さはないが、メロディは悪くはない。ハウスのハッピーなノリへの反発心の表れだとしても、クラブ・カルチャーを通過している分、解放感があっていい。ヘンリ・ミラーからの引用も、何か仰々しい思いがあるようには感じないけれど、訴えたい感情はあるはず。さもなければ、真のクラブ・カルチャーたるもの、どうせイクならここまでイケということか。しかし、夜更かした翌朝は、本気でつらいから困ったものである。
ソーシャルTV局こと2.5Dと『ele-king』が、音楽好きなベッドルーマーたちへ贈る季刊音楽情報&トーク番組、「10代からのエレキング!」が今週金曜2.5Dに登場!
その名のとおりヤングな皆さんとともに、気になるアーティスト、気になる作品、気になるシーンについて考える番組です。DJタイムを楽しみながら、『ele-king』を片手に、さまざまなゲストやライター陣とお話しましょう。
第一回目のテーマは、熟読ele-king! 「いまさらきけないSEAPUNK & Vaporwave」ゲストに〈maltine records〉主宰tomad氏と、Hi-Hi-Whoopeeの管理人ことハイハイさんを迎え、新刊『ele-king vol.11』の特集記事を解きほぐす座談会です。特集の焦点となる「SEAPUNK」や「Vaporwave」というキーワードをわかりやすく解説しながら、この謎多きインディ・ムーヴメントについて探っていきましょう。
今回は、ゲストを含めた真剣Vapor世代がしゃべり場スタイルで激討論! みなさん、どうぞツイッターなどでツッコミいれてやってくださいね!
また、redocompass、tomad両氏によるDJタイムもお聴き逃しなく! DJを挟む前後半2部スタイルで、夏期~秋期話題盤をめぐる話題とテーマ・トークをじっくりとお楽しみください。
■ele-king×2.5D「10代からのエレキング!」
出演:
中村義響、 竹内正太郎、 斎藤辰也、 橋元優歩、 ちゃんもも◎、 redcompass、 tomad、 ハイハイさん(スカイプ出演)
内容:TALK&DJ
時間:OPEN 19:30 /START 20:00/END 23:00
観覧料:¥1,500
場所:2.5D(PARCO part1 6F)
配信URL:https://2-5-d.jp/livestream/
DJ
redcompass、tomad
第一部
「シーズン&トレンド」
出演:中村義響、redcompass、ハイハイさん
司会:橋元優歩
春期~夏期リリースの重要作を、スピーカー1人1枚全力レヴュー。そのなかからトピックを抽出してクロストーク!
第二部
「いまさらきけないSEAPUNK & Vaporwave」
出演:竹内正太郎、斎藤辰也、ちゃんもも◎、redcompass、tomad
司会:橋元優歩、中村義響
しゃべり場スタイルで激討論!
※放送内容は予定です
「エイフェックス・ツインも『ミュージック・フォー・エアポート』も好き。でも、だからといってアンビエント・ミュージックのファンというわけではないの」「わたしはヴォーカル・ミュージックが好き。ドレイクをとてもよく聴くって言ったら、みんな驚くんじゃないかしら」(参照 https://pitchfork.com/features/update/9182-julianna-barwick/)
ジュリアナ・バーウィックの音の背景には、もちろんさまざまな音楽の系譜と歴史が連なっているが、そんなことはこの「ヴォーカル・ミュージックが好き」の一言のもとにすべて溶け合わされてしまう。2006年のデビュー作から、一貫して自身の声とループ・ペダルのみで曲を生むというミニマルなスタイルを崩さない彼女は、人の声というものの持つ情報量に対して並ならぬ感度を持っているのだろう。ひょっとすると、会話などよりも、声やその波長からのほうがより正確に相手のことを理解できるのかもしれない。「ヴォーカル・ミュージック」とはおそらく彼女にとって人そのものであり、感情そのもの。その一点で、彼女のなかにジャンルの概念はほとんど意味をなしていない(とはいえ、一方でジャンルの概念の必要性を理解し、そうした自身の性質を対象化してもいるところが彼女のクールなところなのだが)。
よって、声が好きといっても、バーウィックの音楽は声をフェティッシュに彫琢したりするものではない。声は素材ではなく、声になったときにすでに完成しているものだ、という思いがあるのではないだろうか。それは、ある感情が身体を離れるときの副産物とも言えるかもしれない。痛みにああと声を上げるとき、感動にああと声を漏らすとき、感情にはやっと出口が与えられる。もし声がなかったら、その気持ちをたえることができるだろうか。声は感情の分身であり、バーウィックはその出口が与えられた分身が飛んでゆくべき場所を指し示してやるだけ。彼女の作品において、音はそのように音楽になる。
『サングイン』『フロライン』『ザ・マジック・プレイス』、2枚の美しいアルバムとEPのあとには、イクエ・モリとの『ジュリアナ・バーウィック&イクエ・モリ』とヘラド・ネグロとの『ビリーヴ・ユー・ミー』(オンブル名義)が続いた。前者は〈リヴェンジ〉の実験的なコラボ・プロジェクト・シリーズの一作として、後者は〈アスマティック・キティ〉からのパーソナルでカジュアルな歌ものプロジェクトとしてリリースされたが、こうした関わりのなかで、バーウィックは彼女のなかの実験音楽的な側面と歌うたいとしての側面を自然なかたちで伸ばしていった。小節線のないスタイルがバーウィックの曲のひとつの特徴だが、今作には、“ワン・ハーフ”のような歌曲としての拍子とフレーズを持ったトラックに存在感がある。“ルック・イントゥ・ユア・オウン・マインド”など、ピアノを含めた弦楽器がフィーチャーされている曲も増えた。
とくにこのトラックにおいて増幅されたバスが果たす役割は大きい。オーヴァー・コンプ気味な音像は、大きくて黒い影のように、天をゆくコーラスに地を与え、重力を与えている。“ピリック”でもピアノとコントラバスによって重みが加えられており、バーウィックにはめずらしく、それらの旋律によって声たちに方向づけと色づけがなされている。鳥の群れを先導する鯨、といった印象。ふわふわと和音をなす声の層は、今作では翳りと重力によって、地面の影響を受けている。光ばかりだった彼女の音楽には、地面と海と風が与えられた。創世だ。
アルバム・タイトルともなっているネーペンテースとはウツボカズラのこと。古代ギリシャ人はこれを悲しみや苦痛を忘れさせる薬になると考えたという。なるほど、筆者が翳りと感じたものはこの悲しみや苦痛にあたるのだろう。しかし、この音楽を痛みを忘れるための麻薬や麻酔であるとは考えられない。いずれ癒えるべくして癒える痛みに寄り添い、暗がりから視界がひらけるところを示そうとしてくれる音だと筆者には感じられる。ここではないどこかや、あるいはあの世などに救いがあるのではない――今作に与えられた地面や海は今生の景色であり、現実のいろかたちをしており、バーウィックのささやかな創世はそのことを力強く、しかしやさしく示してくれる。“ザ・ハービンガー”のようなベタが『ネーペンテース』においてはあまりに心の琴線を揺さぶる。
どうしよう、ポエムになってしまった。彼女については3つレヴューを書き、『ele-king vol.6』においてインタヴューも行っているので、こんな回もあることを許してください。ぜひそちらもご参照のほど。
巷では新世代のインダストリアル・サウンドが拡大するなか、オリジナル・インダストリアルにも脚光が当たっている。こんな本も出ているし、〈ミュート〉はキャバレ・ヴォルテールのバックカタログを再発する。そして、11月には、インダストリアル・ファンのあいだでは長年愛され続けているスペインの巨匠、名前をイタリアの未来派詩人マリネッティの言葉から引用した筋金入りのインダストリル・グループ、エスプレンドー・ジオメトリコが来日する!
来日に合わせて、彼らの最新盤もリリースされる。その多くが限定発売のため入手困難となっているので、興味のある人は思い立ったら吉日でいこう。詳しくはココ→https://suezan.com/eg/
![]() 三宅純 Lost Memory Theatre act-1 Pヴァイン |
三宅純はインターナショナルに活動しているパリ在住の日本人作曲家である。わりと最近では、2009年の寺山修司版『中国の不思議な役人』の音楽を担当して国内外で話題になった。昨年は、ドイツの高名な舞踏家、ピナ・バウシュを描いたヴィム・ベンダースの映画『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』にも楽曲を提供しているが、映像や彼女のパフォーマンスもさることながら、その音楽も国内外で賞賛されている(そういえば、1996年の大友克洋の『MEMORIES』にもフィーチャーされています)。
近年欧米では、賛辞の意を込めて、現代のクルト・ワイル、新時代のギル・エヴァンス、未来のバート・バカラック……などと喩えられているが、こうした表現が正しいか否かはさておき、それが多彩な音楽(ジャズ、ボサノヴァ、エレクトロニカ、クラシック等々)がミックスされた魅力的なものであることはたしかだ。エレガントで静謐で、そしておおらかで、想像力を喚起する面白さがある。「記憶を喚起するような音楽」を主題とした新作『ロスト・メモリー・シアター-Act-1』には、とくにそうした魔法があるように感じる。一流の料理人が用意したご馳走であり、旅人の描いたオデッセイアの断片でもあり、美しいミュータント音楽でもある。
ゲストも豪華で、アート・リンゼイをはじめ、大御所デヴィッド・バーン、ピーター・シェラー(exアンビシャス・ラバーズ)、かつて〈4AD〉からの作品で一世を風靡したブルガリアン・ヴォイス、天才ベーシストのメルヴィン・ギブスなどなど……、それからなんとニナ・ハーゲンの名前まであるじゃないですか。
小学6年のときにチャーリー・パーカーとマイルス・デイビスを聴かされて、雷に打たれたようになりました。その和声感、リズムの躍動、即興で奏でられる旋律、すべてにスリルを覚え、自分のやりたいことはこれしかないと思いました。
■ 『Lost Memory Theatre act-1』はとても美しい作品ですが、まず、「失われた記憶の劇場」という主題が興味深く思いました。ヴィム・ヴェンダースがライナーで言っているように、それは「心象風景」に関する音楽ということなのでしょうか?
三宅純(MJ):ヴェンダースさんにはご自身が感じられた通りに書いて下さいとお願いしました 。僕は常々言葉で限定することで、リスナーの感性を制限するようなことはしたくないと思ってきました。コンセプトノートに書いたように、失われた記憶が流入する劇場が自分のために欲しかったのです。そして結果的に失われた記憶を喚起するような音楽を創れたら良いと思いました。
■ それは、郷愁という言葉にも置き換えられる感覚なのでしょうか?
MJ:むしろ単に懐古的にはしたくありませんでした。「過去はいつも新しく、未来はいつも懐かしい」という言葉が好きです。パーツを見ると層になった記憶の断片から作られているのに、全体として聴くといままで聴いたことがないものが出来上がったという風にしたかったのです。
■ 「失われた記憶が流入する劇場があってもいい」という考えは、音楽がしうることのひとつを表していると思います。記憶を喚起する音楽、思い出すことを促すであろう音楽を今回お作りするにあたって、何を重視されましたか?
MJ:僕個人の記憶を投影するのではなく、 失った記憶を呼び覚ますトリガーになるような音楽とはどんなものだろう? というのが大きな課題でした。言うのは簡単ですが、実現は極めて困難です。まだ語り尽くせていないと感じるのでシリーズ化するかもしれません、『act-2』の曲はすでに出揃っています。
■ 三宅さんご自身のリスナー体験として、自らの記憶を刺激するような音楽というと何がありますか?
MJ:物心ついた時から音楽とともに生きて来たので、数限りない音楽 、そして風景や香りが、さまざまな記憶と結びついています。特定するつもりはありません。
■ ご自身の記憶の風景のなかで、いつか音楽の主題にしたいものがあれば教えてください。
MJ:脳裏に残る情景があったとしても、実際に音にするかどうか、そのときが来るまでわからないのです。僕にはいつか音にしたい「感情の備蓄」のようなものがありますが、風景の備蓄はそれに比べると少ないように思えます。
■ 三宅さんとジャズとの出会い、トランペットとの出会いについて教えて下さい。日野皓正さんに憧れて、ジャズの入ったと聞いたことがありますが、ジャズのどんなところが三宅さんにとって魅力だったのでしょう?
MJ:小学6年のときにジャズ狂のお母さんを持つ友人宅で、チャーリー・パーカーとマイルス・デイビスを聴かされて、雷に打たれたようになりました。その和声感、リズムの躍動、即興で奏でられる旋律、すべてにスリルを覚え、自分のやりたいことはこれしか無いと思いました。当時はまだジャズは進化の途中でしたから、音楽の様式に惹かれたというよりも、日進月歩で進化する自由な魂に憧れたのだと思います。
それから独学でやみくもに練習をはじめましたが、大学受験の時期に両親の反対にあって、日本でもっとも尊敬できるトランペッター日野皓正さんの門を叩き、彼に才能が無いと言われたらやめようと思ったのです。彼は僕を沼津の自宅に連れていってくれ、聴音の試験をし、奏法上の問題を指摘し、音楽家として生きる厳しさについて話をしてくれました。つまりやめろということだと思った時 、心配した母親から電話があって、日野さんはいきなり電話口で「お宅の息子さんはアメリカに行くことが決まりました」と宣言されたのです。大騒動になりました。
■ バークリー音楽院では学んだことで、いまでも大きな財産となっていることは何でしょう?
MJ:むしろ学校外の演奏活動で多くのことを学びました。学校では……良くも悪くも楽曲をシステマチックにアナライズすることでしょうか。
■ とくにアメリカではジャズの演奏家の層も厚いと思いますが、そういう競争率の高い、演奏能力の高い次元で活動することは、それなりのプレッシャーやストレスもあったと思うのですが、いかがでしょうか?
MJ:日々が他流試合の連続だったのでプレッシャーやストレスもあったと思いますが、そういう環境のなかで突出できないのなら、やる意味がないとも思っていました。
[[SplitPage]]日本は美しく愛すべき祖国ですが、地理的には残りの世界から隔絶していますし、文化的にも閉塞しています。僕は一定の国や文化に執着せずいつも浮遊していたい、自分の創作のためのコラボレーションの起点になりうる場所に身を置きたいたいと思うのです。
![]() 三宅純 Lost Memory Theatre act-1 Pヴァイン |
■ アート・リンゼイとは長いお付き合いになっているかと思いますが、彼との出会いについて教えて下さい。
MJ:89年頃プロデュースした作品のミックスをNYでしているときに、当時アンビシャスラヴァーズでアートのパートナーだったピーター・シェラーが隣のスタジオで仕事をしていて、話すうちに仲良くなり。アートにも紹介され、その後交流がはじまりました。彼らが初めて僕の作品に参加したのは93年の『星ノ玉ノ緒』で、ピーターもいまだ参加ミュージシャンの常連です。
■ 彼のどんなところがお好きで、また、彼とはどんなところで気が合うのでしょうか?
MJ:彼のなかには天使と悪魔が同居していて、そのふたりともがインテリで、壊れやすく、ユーモアに富んで います。 音楽のセンスは合うと思いますが、よく喧嘩もするので、気が合うと言えるのかなぁ……
■ アート・リンゼイもある種、自由人というか、エクレクティックというか、ひとつの型に固執しないタイプのミュージシャンという点では似ていると思います。三宅さんはジャズ出身ですが、クラシック音楽の要素もありますし、ブラジル音楽の要素も、キューバっぽいリズムや東洋の旋律もあります。どのような過程をもって、現在のようなハイブリッドな音楽に辿り着いたのでしょうか?
MJ:80年代のバブル期に創造的な広告制作の現場に携わった経験が、ハイブリッドな手法やセンスを磨いてくれました。 僕らは音楽様式が飽和した時代に生きているわけで、そんな時代に自分の『ヴォイス』を探し出すには、ハイブリッドな異種交配という手法がふさわしい気がしたのです。
■ “The World I Know ”はブリジット・フォンテーヌみたいだと思ったのですが、いかがでしょう?
MJ:全然意識していませんでした。ストリングスのバックトラックは アニメのサントラに書いたもので、そのスコアを活かして、全く別のリピートしないメロディを乗せてみようと思って作りました。
■ “Ich Bin Schon”はドイツ語ですが、何を歌っているのでしょう?
MJ:そんな時、Google translationは役に立ちます。ある程度。
■ 『Lost Memory Theatre act-1』にはいろんな言語で歌われていますね。“White Rose”はロシア語ですか? 他に英語、日本語、フランス語、ポルトガル語の歌がありますね? 他にあるのはスワヒリ語ですか?
MJ:White Rose”はブルガリア語です。後はスワヒリ語ではなく……シラブルだけで言語ではないものがあります。
■ こうした試みは何を意味しているのでしょう?
MJ:試みという意識はありませんでした。僕を取り巻く、この星の日常です。
■ 広い意味での、ワールド・ミュージックというコンセプトは意識されましたか?
MJ:いいえ、僕を取り巻く、この星の、そして自分の脳内の日常です。
■ ちなみに“Calluna”の旋律はどこから来ているのでしょう?
MJ:え? 頭の中からです。
■ 三宅さんにとってブラジル音楽、とくにボサノヴァにはどのような魅力を感じていますか?
MJ:人びとの暮らしの一部として音楽が存在している国から生まれた、メロディとハーモニーとリズムの関係性が素敵な音楽です。
■ アメリカで活動して、帰国したものの、2005年からはパリを拠点にしていますが、日本に居続けるよりは外に出た方が活動しやすいからですか?
MJ:日本は美しく愛すべき祖国ですが、地理的には残りの世界から隔絶していますし、文化的にも閉塞しています。僕は一定の国や文化に執着せずいつも浮遊していたい、自分の創作のためのコラボレーションの起点になりうる場所に身を置きたいたいと思うのです。
■ ここ10年ぐらいはアンダーグランドなミュージシャンでも海外を拠点に活動している人たちが少なくありません。そういう人たちはたいてい実験的なことをやっていて、海外のほうが、耳がオープンなオーディエンスが多くいると感じています。ミュージシャンが挑戦しやすい環境は、やはり欧米のほうがあると思いますか?
MJ:場所がどこであれ 、ヴィジョンがはっきりしていれば関係無いと思います。ただ、欧米では音楽は独立した言語のひとつとして存在していて、あえて他の言語に置き換えずとも音を聞けば通じるという側面があり、それは僕らにとって非常に楽なところです。
■ 『Lost Memory Theatre act-1』はエレガントで、穏やかなアルバムだと思います。エレガントさ、穏やかさについては意識されていますか?
MJ:いいえ。 お言葉は嬉しいですが、意識はしていませんでした。
■ 穏やかではない音楽、エレガントではない音楽にもご興味はありますか? たとえばノイズとか、ダンス・ミュージックとか。
MJ:世のなかのすべてのものは表裏一体です。
■ たとえば“Still Life”のような曲ではエレクトロニクスも使って実験的なアプローチをしていますが、しかし、三宅さんは、敢えて前衛的な方向に、敢えて難しい方向に行かないように心がけているように思います。その理由を教えてください。
MJ:理由はわかりませんが、自分で何度も聴きたい音楽、反復に耐えうる音楽、しかもいままでに無かった音楽を作りたいと思っています。前衛(という言葉がすでに前衛的ではないですが)に含まれる独善的な成分は排除したい要素のひとつです。
■ ビョークのやっているような電子音楽にはご興味ありますか?
MJ:彼女のやっていることを電子音楽という言葉で括れるのかどうかわかりませんが、彼女の存在自体に興味とリスペクトがあります。
■ 『Lost Memory Theatre act-1』に限らずですが、三宅さんがもっとも表現したい感情はなんでしょう?
MJ:感情は脆く移ろいやすく、常に複数のレイヤーによって構成されています。音楽はそれが表現できるメディアです。
■ 『Lost Memory Theatre act-1』のアートワークは何を暗示しているのでしょう?
MJ:自ら限定するつもりはありません。
■ デヴィッド・バーンは今回のアルバムでどのような役割を果たしていますか?
MJ:皆さんがそれぞれ感じられた通りで良いかと思います。
■ ヴィム・ヴェンダースの映画でお好きな作品を教えて下さい。その理由なども話してもらえるとありがたいです。
MJ:個人的には初期の作品群が好きですが、それを限定してしまうのは避けたいです。どんな芸術にも一度見たり聴いたりしただけでは感じ取れない要素があり、個人の体験値によって感じ方も変わって来るものだと思うからです。
■ パリでの生活のなかで水泳もされているそうですが、体力というものと音楽とはどのように関連づけて考えているのでしょう?
MJ:パリだけではなく、この26年間どこにいても365日毎朝泳いでいます。どんなに体調が悪くても泳ぐので、体力のためかどうかは疑問……ただ脳の疲労と体の疲労のバランスを取るには良いのかもしれませんね。屈折した心象風景を描くためには、健全な身体が必要だと思います。朝の水泳だけでなく、 放電のため深夜に1時間ほど散歩をする習慣があります。
■ パリの街を歩いたことは2回しかないのですが、とても美しい街並みと美味しい料理、あとクラブでのフレンドリーな感覚はいまでも忘れられません。しかし、散歩していると必ずイヌの糞を践んでしまったのですが、あれもフランス的な自由さの表れなんだと受け止めています。日本だったら、怒る人は本当に怒るじゃないかと思うのですが、いかがでしょう?
MJ:自由さの表れ……アハハまさか! フランス人が自由かどうかわかりませんが、少なくとも皆自己中心的で、「横並び」という意識の対極にあります。パリの街を良くしようと思ったら、フランス人にはブランディングだけを任せ、実務をドイツ人に、外交をスイス人に、料理をイタリア人と日本人に、衛生面をシンガポール人に任せれば良いのではないかと思う次第です。
■ アメリカでもっとも好きなところ、パリでもっとも好きなところ、日本でもっとも好きなところと嫌いなところをそれぞれ挙げてください。
MJ:挙げるのは簡単なのですが、やめておきます。繰り返しになりますが、感情は脆く移ろいやすく、常に複数のレイヤーによって構成されています。国や政治も同じ……アメリカはかつてのアメリカではないし、日本も違う。いまの日本はとても心配です。個人としてどのようにいまを生き、どのような意識をもって行動するかが大切ではないかと思います。
■ 最後に、三宅さんにとって重要なインスピレーションをもらった5枚のアルバムを教えてください。
MJ:5枚に限定する事なんて「言ってはいけないこと」のひとつです。
2013年の〈ラスター・ノートン〉は、フランク・ブレットシュナイダー(『スーパー.トリガー』)、ピクセル(『マントル』)、アトムTM(『HD』)、そして待望の青木孝允(『RV8』)などのアルバム・リリースが相次いでおり、いわば「オールスター・リリース」ともいえる状況になっている(しかも11月には池田亮司の新作のリリースも控えている!)。その上、どの作品もある種のアップデートが極端に行われており、00年代以降の電子音響と、それ以前の音楽史が複雑に交錯することで、いわば快楽性と批評性が同時に刺激される極めて豊穣な事態になっているのだ。
そのような状況のなか、センキングのアルバムが遂にリリースされた。前作『ポン』(2010)より実に3年ぶりである。その名も『キャプサイズ・リカバリー』。このアルバムはまるで電子音とノイズとビートによる、ひとつ(にして複数の)のイマジネーションのサウンド・トラックのようである。ミニマル、ノイズ、電子音、ビート、空間、時間、無重力、反転。過剰な情報、その音響物質的な転換。情報化社会のポスト・インダストリー・ミュージック。
結論らしきものへと先を急ぐ前に基礎的な情報を確認しておこう。センキングとはイェンス・マッセル(1969年生まれ)のソロ・ユニットである。マッセルは1990年代より音楽活動を開始し、1998年に〈カラオケ・カーク〉から1998年にアルバム『センキング』をリリースする。2000年以降は〈ラスター・ノートン〉から『トライアル』(00)、『サイレンサー』(01)、『タップ』(03)、『リスト』(07)、『ポン』(10)とコンスタントにアルバムなどを発表していく(〈カラオケ・カーク〉からは2001年に『ピン・ソー』をリリース)。彼はラップトップなどのコンピューターを使わないことで知られている音楽家である。その結果、トラックには独特の音響/リズム(低音)の揺らぎやタイム感などが横溢しており、一度ハマると抜け出せないような中毒的な魅力があるトラック(ある種、ダブ的な?)を生み出しているのだ。そこはかとないユーモアや、イマジネーションを添えて。
本作『キャプサイズ・リカバリー』リリース前に、センキングは2011年にEP『ツウィーク』、2012年に同じくEP『デイズド』を〈ラスター・ノートン〉からリリースしている。青の地にタイポグラフィという鮮烈なアートワークを纏ったこれからのトラック(特に『デイズド』)は、ダブ・ステップ的なビートを内側からズラすかのような独特なビート感がある。いまにして思えばインダストリーな質感も含めてアルバム・リリースの前哨戦ともいえるトラック・ワークといえよう。
さて、コンピューターを使用しないことで知られるセンキングの音楽/音響には、ある独特のタイム・ストレッチ感覚がある。いわば伸縮する感覚とでもいうべきか。先のEPを経由した上で生まれたこの『キャプサイズ・リカバリー』においては、その伸縮感がこれまで以上に拡張させられている。ある種のダブ的な音響でもあるのだ。そのビートには時間の伸縮感覚をコントロールしたドラムン・ベースのリズムを、ロウテンポのビートに不意に挿入させていく。ダイナミックに蠢く電子音/ノイズの奔流が聴覚へのさらなるアディクト・コントロールを促していく。さらには、シンプルなメロディを奏でる夢見心地のシンセサイザー・メロディ。とくに、マリンバ的なミニマル・フレーズと粘着的なノイズ/ビートが交錯する“コーナード”と、ダブ的な処理は素晴らしくイマジナティブなアルバム・タイトル・トラック“キャプサイズ・リカバリー”は最高である。まるでダブ・ミックスされたクラフトワークが、TG的なインダストリーな音響の渦の中でスティーヴ・ライヒと正面衝突したような……。そして、このアルバムのノイズやビートの交錯には、どこかロックな快楽すら宿っており、複雑怪奇になったスーサイドとも形容したくなるのだ(また音楽的には一見正反対だが、ミカ・ヴァイニオの今年リリースの新作『キロ』の音響処理に近いものを感じた)。
そう、複雑怪奇と言いたくなるほどに本作の音響の情報量は濃厚である。しかし、このアルバムにおいては、そのサウンドの奔流がカオスにならずに、見事にデザインされているのだ。まるで都市の雑踏が情報の洪水に転換され、それをひとつのデザインとしてコンポジションされていくかのように。まさにサウンドのカオスを「転覆を修復する」ように、 サウンドのアマルガムに適切なエディットを施すこと。つまりは音響(=情報)をデザインすること。その音楽/音響は、ひとつの(複数の)音響のシグナルのように聴覚から脳を刺激するだろう。
いわゆる、ノイズやインダストリアル・ミュージックと本作を大きく隔てるのは、そのデザインへの数学的ともいえる繊細にしてダイナミックな感性と技術ゆえ、ではないか。これはカールステン・ニコライをはじめ〈ラスター・ノートン〉の音楽家/アーティストに共通する感覚だが、同時に、彼らは時代と共にその個性をアップデートしており、本年のリリース作品にはどれも強靭なビート感覚に支えられたダイナミックなポップネス(エレクトロ的ともいえる?)を獲得している。そう、いまや、サウンド・アートはあるポップネスを内包するに至った、とはいえないか。
「現在の電子音響/エレクトロニクス・ミュージックを聴きたい」という方には、まずは〈ラスター・ノートン〉の2013年リリース作品をお勧めしたい。なかでも、センキングの本作品は、いわゆるミニマル的な状況から一歩先に脱出したような魅惑があり、現代社会特有の複雑さを快楽的な音響とともに提示している。時代の情報と知覚のスピードが、音楽/音響の速度にトレースされている、とでもいうべきか。より多くのリスナーの耳に届いてほしい作品である。








