Home > Reviews > Album Reviews > Julianna Barwick- Nepenthe
「エイフェックス・ツインも『ミュージック・フォー・エアポート』も好き。でも、だからといってアンビエント・ミュージックのファンというわけではないの」「わたしはヴォーカル・ミュージックが好き。ドレイクをとてもよく聴くって言ったら、みんな驚くんじゃないかしら」(参照 http://pitchfork.com/features/update/9182-julianna-barwick/)
ジュリアナ・バーウィックの音の背景には、もちろんさまざまな音楽の系譜と歴史が連なっているが、そんなことはこの「ヴォーカル・ミュージックが好き」の一言のもとにすべて溶け合わされてしまう。2006年のデビュー作から、一貫して自身の声とループ・ペダルのみで曲を生むというミニマルなスタイルを崩さない彼女は、人の声というものの持つ情報量に対して並ならぬ感度を持っているのだろう。ひょっとすると、会話などよりも、声やその波長からのほうがより正確に相手のことを理解できるのかもしれない。「ヴォーカル・ミュージック」とはおそらく彼女にとって人そのものであり、感情そのもの。その一点で、彼女のなかにジャンルの概念はほとんど意味をなしていない(とはいえ、一方でジャンルの概念の必要性を理解し、そうした自身の性質を対象化してもいるところが彼女のクールなところなのだが)。
よって、声が好きといっても、バーウィックの音楽は声をフェティッシュに彫琢したりするものではない。声は素材ではなく、声になったときにすでに完成しているものだ、という思いがあるのではないだろうか。それは、ある感情が身体を離れるときの副産物とも言えるかもしれない。痛みにああと声を上げるとき、感動にああと声を漏らすとき、感情にはやっと出口が与えられる。もし声がなかったら、その気持ちをたえることができるだろうか。声は感情の分身であり、バーウィックはその出口が与えられた分身が飛んでゆくべき場所を指し示してやるだけ。彼女の作品において、音はそのように音楽になる。
『サングイン』『フロライン』『ザ・マジック・プレイス』、2枚の美しいアルバムとEPのあとには、イクエ・モリとの『ジュリアナ・バーウィック&イクエ・モリ』とヘラド・ネグロとの『ビリーヴ・ユー・ミー』(オンブル名義)が続いた。前者は〈リヴェンジ〉の実験的なコラボ・プロジェクト・シリーズの一作として、後者は〈アスマティック・キティ〉からのパーソナルでカジュアルな歌ものプロジェクトとしてリリースされたが、こうした関わりのなかで、バーウィックは彼女のなかの実験音楽的な側面と歌うたいとしての側面を自然なかたちで伸ばしていった。小節線のないスタイルがバーウィックの曲のひとつの特徴だが、今作には、“ワン・ハーフ”のような歌曲としての拍子とフレーズを持ったトラックに存在感がある。“ルック・イントゥ・ユア・オウン・マインド”など、ピアノを含めた弦楽器がフィーチャーされている曲も増えた。
とくにこのトラックにおいて増幅されたバスが果たす役割は大きい。オーヴァー・コンプ気味な音像は、大きくて黒い影のように、天をゆくコーラスに地を与え、重力を与えている。“ピリック”でもピアノとコントラバスによって重みが加えられており、バーウィックにはめずらしく、それらの旋律によって声たちに方向づけと色づけがなされている。鳥の群れを先導する鯨、といった印象。ふわふわと和音をなす声の層は、今作では翳りと重力によって、地面の影響を受けている。光ばかりだった彼女の音楽には、地面と海と風が与えられた。創世だ。
アルバム・タイトルともなっているネーペンテースとはウツボカズラのこと。古代ギリシャ人はこれを悲しみや苦痛を忘れさせる薬になると考えたという。なるほど、筆者が翳りと感じたものはこの悲しみや苦痛にあたるのだろう。しかし、この音楽を痛みを忘れるための麻薬や麻酔であるとは考えられない。いずれ癒えるべくして癒える痛みに寄り添い、暗がりから視界がひらけるところを示そうとしてくれる音だと筆者には感じられる。ここではないどこかや、あるいはあの世などに救いがあるのではない――今作に与えられた地面や海は今生の景色であり、現実のいろかたちをしており、バーウィックのささやかな創世はそのことを力強く、しかしやさしく示してくれる。“ザ・ハービンガー”のようなベタが『ネーペンテース』においてはあまりに心の琴線を揺さぶる。
どうしよう、ポエムになってしまった。彼女については3つレヴューを書き、『ele-king vol.6』においてインタヴューも行っているので、こんな回もあることを許してください。ぜひそちらもご参照のほど。
橋元優歩