「Noton」と一致するもの

Martha Skye Murphy - ele-king

 マーサー・スカイ・マーフィの音楽を聞くと胸の中に恐ろしさと美しさが同時にやってくる。ひんやりとしていておごそかで、何かよくないことが起きそうな不安を覚える緊張感と、ゆらぐロウソクの灯を見つめているようなやすらぎがあって、それらちぐはぐな感情がわからないものとして頭の中で処理されてそのまま出る。彼女の音楽は調和のとれた風景の奥にある違和を表現するかのように美しく不安に響くのだ。

 マーサー・スカイ・マーフィと聞いてスクイッドの “Narrator” のヴォーカルを思い出す人も多いだろう。あるいは〈Slow Dance Records〉のことが頭に浮かんだり、10代の頃にニック・ケイヴのツアーに参加したということ思い出す人もいるかもしれない。初期の作品のクレジットにはジャースキン・ヘンドリックスことジョセリン・デント=プーリーやデスクラッシュのベーシスト、パトリック・フィッジラルド、ブラック・カントリー・ニュー・ロードのルイス・エヴァンスなどの名前が並ぶ。こうしたことからも彼女の立ち位置が見えてくるのような気もしてくるが、しかし彼女はそれらの人物と関わりながらそこから少し距離を置いてどのようなシーンにも属さないような音楽を作り続けてきた(それはゴシックの香りがするアート・ポップのような音楽だった)。美しく、恐ろしく、孤高で孤独、イーサン・P・フリンと共同プロデュースで作り上げたこの1stアルバムは現実の向こうから何かを見出そうとするようなそんな空気が漂っている。それはおそらく気配と呼ばれるようなもので、見えないがそこに何かが確かにあると感じられる類いのものだ。

 テープレコーダーのスイッチが押される音と「開始」という声とともにアルバムははじまる。ハミングともやのかかった楽器の音で空間が歪んでいくような、ゆったりとしたイントロダクション “First Day” によって幕が開くこのアルバムはピアノが中心にあり、フルートやストリングスといった柔らかいアコースティックな楽器で組み立てられている。そこにエレクトロニクスの固いサウンドのテクスチャーが重ねられ緊張と緩和を繰り返しながら進んでいく。そうしてそこに声がのる。マーサ・スカイ・マーフィのこの声こそがこのアルバムの気配を作り上げているといっても過言ではないだろう。ヴォーカリストというよりかはメッセージを伝える占い師、あるいは心を深層に向かわせる催眠術師のような声、細くそれでいて芯があり、ゆらぎ、言葉と響きの間にある意味をたぐり寄せる。それが音と重なり聞き手の感情を迷子にさせる。身体の支えとなるようなものはなく、どこに軸足を置いていいかわからずに、方向感覚を失う。しかし不思議と不安はない。フルートのささやきとアンビエント・ドローン、ピアノとフィールド・レコーディングされた物音でノスタルジックな空気を作る “Theme ParKs” の中で、彼女の声は遠くで瞬く光のような、何もない砂漠での道しるべのように感じられる。幾重にも重なった音のテクスチャーが頭にぼんやりとした考えを浮かばせ、そうして砂をかぶせるようにして消していく。それが浮遊感ともまた違う、音の空間の中で迷子になったかのような感覚を生み出すのだ。
 “The Words” においてもそれは顕著で、アコースティック・ギターの上でヴォーカルが人工的に処理されて、声の重なり、楽器の重なりの中で所在を不確かにさせる。ここにいる彼女の奥、遠くで聞こえるその声はまるで過去に存在した人物の声のようでもあり、あるいは未来におこりうることを予見したかのような声でもある。そうやっていくつもの像が重なり、万華鏡のように広がっていくのだ。
 クレア・ラウジーが参加した最終曲 “Forgive” はピアノとフィールド・レコーディングされた物音と気配の音楽だ。それが頭の中のおりを洗い流すかのように響いていく。ぼんやりと何かを思い出すかのように、あるいはこれから起こりうる未来のできごとを感じるかのように。「that’s enough」という声とともにレコーダーの停止ボタンが押され現実に突如引き戻されるまで、この不思議な感覚は続いていく。

 アルバムのミキシングを担当したマルタ・サローニはこのアルバムを初めて聞いたときに「まだ起きていない経験の、その記憶を体験しているかのようだ」というコメントを残したというが、まさにこれは体験の音楽なのだろう。重なる響きの中で方向感覚を失い、声を頼りにゆっくりと糸を手繰るように深層に潜っていくこの奇妙な体験はしかし不思議とやすらぐものでもある。恐ろしく美しい迷路のようなやすらぎに、気付けばハマりこんでいる。

Mouchoir Étanche - ele-king

 ブラック・トゥ・カムの変名とは気づかずに何度か聞いていたムショワー・エタンシェ(=防水ハンカチ)名義の2作目『ジャズマン』。ジャズでもなんでもないし、名義を変える意味がぜんぜんわからない。強いていえばブラック・トゥ・カムよりもタッチが軽く、重みを感じさせないことぐらい。とはいえ、ブラック・トゥ・カムについてそれほど詳しく知っているわけではなく、アンビエント寄りのリリースがいくつかあるのでひと通りは聴き、それ以前にやっていたクラウトロックの成れの果ても聞くだけは聞いた。元々はナース・ウイズ・ウーンドのフォロワーであることは本人も自覚していたようで、2010年代に入ってからはナースの基本であるエレクトロアコースティックに作風を絞り、ここ数年は〈Thrill Jockey〉から『Before After』(19)、『Seven Horses For Seven Kings』(19)、『Oocyte Oil & Stolen Androgens』(20)と調子よくリリースを続け、評価も以前より高まっている。ひと言でいえば表現はどんどん洗練度を増しているにもかかわらず、実験性が様式化されたわけではなく、どうしても音楽をやりたいんだなという精神性は伝わってくると。それはムショワー・エタンシェ名義でも同じくで、いわゆる実験音楽を楽しんでつくり、何かを前に進めているとか、唯一無二の感覚を追求しているとかではない気がする。

 一方で、ブラック・トゥ・カムことマーク・リヒターは昨年、ブラック・トゥ・カムの最新作『At Zeenath Parallel Heavens』をリリースした際、「自分のやっていることはAIがやっていることとあまり変わらないような気がしてきた」と〈Thrill Jockey〉のサイトで語り、AIが人間のやっていることに取って代わるのではなく、人間がロボット化し、プログラム通りに動くようになっていることを示唆していた。リヒターの手法はサンプリングとコラージュが多いので、なおさら、情報を集めてきてお題通りのものをつくるという過程は似ている。どんなものをつくるのか、それを考えているのは自分自身だということを除けば、だけれどもも。いずれにしろ初めてフレンチ・ジャズを意識したという『Le Jazz Homme』にはチャットGPTを使ってつくった “Le drôle de singe(面白い猿)” という曲が収録されている。中世のファンファーレをループしてランダムに再生させ、アモン・デュールIIのように聞かせるとかなんとか説明されていて、そういわれるとそのようにしか聞こえなくなってくる。ソリッドでシャープなアモン・デュールII。彼らはリヒターにとってはヒッピー・コミューンを代表する存在らしい。

 AIが音楽をつくっているといっても、そのAIが幻覚を見ている状態だとリフターは考えているようで、いわばAIにおけるチャンス・オペレーションを想定しているのだろう。経済番組などでAIと音楽の話題になると、AIにヒット曲をつくらせようという話題しか出てこないので、そのような価値観とは無関係である(AIでヒット曲をつくるって、ほんとお金のことしか頭にないよな……)。確かにコンピュータにはいつもバグが期待されている。ワープロやPCが普及し始めた頃に「誤変換」が楽しくてしょうがないという風潮はあったし、チャットGPTも最初は間違いだらけだと面白がられていた(当時、ツイッターで見かけた「全員、捕まるまでがオリンピックです」というスローガンが面白くて、定期的に生成AIに打ち込んでいたら、毎回のように答えが変わっていって、いつかなどは「森喜朗が捕まるまで」という答えが出てきた!)。そのようなバグったAIが音楽をつくったら……というのが『Le Jazz Homme』のコンセプトなのだろう。実際の曲よりもリヒターの説明の方が面白くて、 “Note à soi(自分用メモ)” はエクトル・ザズーが後ろから押したのでパスカル・コムラードのトーイ・ピアノが階段から落ちているところとか、 “Musique gelée(冷凍音楽)” はフランスの女性アーティストがシャーリー・テンプルについて哲学している時の神秘的な雰囲気だとか。エンディングの “Musique d'arrêt étrange(奇妙な停止の音楽)” はタルコフスキーの口ひげとバッハのかつらの出会いを暴力温泉芸者のように表現したかったけれど、それには少し及ばなかったと(!)。中原昌也が闘病中だということもあり、物悲しいピアノの響きに少しジーンとしてしまう。ほかにも本人の説明とは食い違うような面白い曲がいくつも並んでいて、空想のブルーノートだという “Septième jeudi vide(第7木曜日は空いている)” や、マダガスカル語で偽のサックス・ソロを演奏するマダガスカルのインドリ(キツネザル)という完全に意味不明の “Autoroutes vides(高速道路は空いている)” はジョン・ハッセルみたいで、これらもいい。ブラック・トゥ・カム名義に比べて肩の力を抜いてつくっているのがよくわかるし、前衛音楽なんて横道にそれている時の方が絶対にに面白いよ(なんて)。

相互扶助論 - ele-king

 ECDさんは「大杉栄 日本で最も自由だった男」(道の手帖 河出書房新社)のなかで、自分は一端アナキストをやめると書いている。大震災から一年後の2012年当時、それまでさまざまなアナキズムの文献を読んでいたけれど、原発の再稼働を止めるためには国家という制度のなかで闘わなければいけないのだから、ただ「ぶちこわせ」と言うことはできないのだと書いている。律儀で江戸っ子なECDさんらしい物言いだと思う。それにしてもストリート・ワイズたるECDさんはきっと12年前の路上でアナキズムだけでよいのかという声を聞き取ったのではないか。そういう声がその時どこかに漂っていたのではないだろうか。

 ECDさんの文章から十年以上がたち、今年に入ってアナキズム関連の書籍が立て続けに出されている。アナキズムという言葉が社会に馴染んだのか、社会の方が近づいたのかわからないけれど、アナキズムという言葉を基とするような生き方がさまざまな場所で散見されるようにもなった。何にも拠らないような自由な生き方を試行する人たち。社会的弱者を救援するような活動に携わる人たち、ケア・教育という現場のなかで相互扶助的な思想を体現し始めた人たち。音楽のことを云えば、パンクというコミュニティを経てさまざまな自由で自律的な表現活動をはじめた人たちなど。

 もちろん日本には明治期以降、幸徳秋水・大杉栄以降のアナキズムの歴史があったが、それは基本的に自分を消してしまうような「無名」な運動であったためにマイナーな存在であり続けてきていて、どこかで一端途切れてなくなってしまったものが今年復活してしまったという現象ではなく、見えやすくなってきているというだけのことなのかもしれない。が、とにもかくにも現在本はたくさん出版されている。

 今年4月に新版として出されたクロポトキンの『相互扶助論』は、アナキズムという思想のでき上る時代、1902年が初出の重要な本である。地理学者(今で言うならば人類学者)だったクロポトキンはロシア、ヨーロッパの各地を踏査しながら、紀元前には確固としてあり、中世以前に色濃くあり、資本主義の登場以降にも連綿と受け継がれてきた、人間の考え方の中心にあった「相互扶助」という所与の感覚/思想を人類史という大きな歴史のなかで立ち上がらせた。政治や経済学の立場からマルクス主義とはまた違った立場で資本主義と対抗しようとしたアナキズムを人類学の立場から補強した。デヴィッド・グレーバー(彼は本書の序文も書いている)の『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』(光文社)やユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(河出書房新社)など、現在も文化人類学者による人類史の本はベストセラーになっているが、百年前、資本主義が人間の生活を大きく変化させていく時代にこの本は書かれている。

 1924年、大正13年に大杉栄が本書を翻訳して紹介をしたが、以降現在新本として原典の補遺と注釈すべてを含めた形の新しい邦訳はなかった。大杉栄訳にしても、その後の大沢正道の翻訳にしても、アナキズムという思想を紹介するという役目が大きかったけれど、今般の新訳は一冊の古典学術書としての完訳がなされたといってよい。また文化人類学の百年以上の蓄積も翻訳者によって本書には活かされており、古典を現在の言葉に近い形で読む上で今までの翻訳よりも読みやすく作られている。500頁にわたる本を読むのは難儀をするだろうけれど、別に一気に読まなくたっていい。流行りの本ではないのだから、何年もかけてゆっくりと読んで人生に反映させるような大きな内容を持つ本だ。

 ダーウィンの進化論を資本主義にとって都合よく解釈し、弱肉強食・自然淘汰などという概念を人間の在り方として広く行き渡らせてきたのは、そうすることによって国家の権力を持つ者たちが国家の成員たちを馴致しやすくするためである。『相互扶助論』はダーウィン批判としても書かれているけれど、ダーウィンが間違っているとただ看破するのではなく、それを自らのために改謬するもの、その勢力、その人間の精神をこそ批判する。前回本の紹介文を書かせていただいた川口好美さんの批判の方法にも似て、クロポトキンがダーウィンを語るときのリスペクトの感覚はとても大切なものに思えてくる。

 あとがきに訳者によってクロポトキンの人生が描かれる。百年前に各地を踏査するとともに索引に並んでいる膨大な書籍を読み、さらに社会運動にもかかわったクロポトキンの生涯のスケールの大きさはやはりすごい。まるで生き字引のように文中にさまざまな学者の引用を散りばめながら自らの論を進めてゆく。むろん批判のための引用もあるけれど、それよりもさまざまな学者や市井の人の考えが接ぎ木のように反映されていき一体誰の書いたものなのかがわからなくなっていくような大きさを持つ本なのだ。

 そのような百年前の思考方法を感じることができることは、時に冗長な表現があったとしても(だからこそある種錯綜した書かれ方の「万物の黎明」が現在あるのではないか)、無駄なことなどではない。「現在の社会システムのもとで、同じ通りや近所の住民を結びつける絆はすべて分解してしまった」と本書には書かれているけれど、それよりもさらにさらに社会システムも人びとの心のなかも分断の進んでしまった現在、本書が有効なのかどうかを問うよりも、ロシア革命がおこる少し前、さまざまな不安が顕在化し第一次世界大戦が始まろうという少し前にこのような本が作られたということを知ることは大切なことだ。

 日々何の気なしに生きていて、ぼくらは資本主義以外の世界があると想像することすらできない。災害の最中、誰に命令されるでもなく金銭のためにでもなく身体が他者のために動いてしまうという心。ケアという行為のなかで相手・他者がしてほしいことをしてあげたいと思ってしまうことなど、「交換」というよりももう少しわけのわからない自律的な私たちの行いを、それが資本主義からまったくかけ離れて行われているものなのかどうかぼくには判断することはできないが、それらの瞬間をきっかけに今ここが資本と自分の行為の交換だけでは成り立っていないことが感覚できるのではないだろうか。『相互扶助論』はきっとその瞬間の強度を高めてくれるはずだ。厚い本だけれど、気後れしないでまずはあとがきから読み始めてほしい。

Amen Dunes - ele-king

 声以上に発声、ソングライティング以上に歌唱の揺らぎでデイモン・マクマホンは聴き手を魅了してきた。歌が彼の喉を通過するとき、それは微妙に曲がり、ひしゃげ、不定形なものへと姿を変えて現れる。僕にはそれが世間の定型にはまらない(はまれない)人間から生まれるもの、あるいはそういう類の人間のためのものに聞こえたし、その音楽は「アヴァン・ポップ」、「サイケデリック・フォーク」といった形容からも居心地悪そうにはみ出すように感じられらた。彼のプロジェクトであるエーメン・デューンズは〈セイクリッド・ボーンズ〉からリリースした『Love』(2014)と『Freedom』(2018)でクラシック・ロックのソングライティングに接近したとして批評的な成功をおさめたが、それもまた、マクマホンの世間ずれしたイメージに依拠したものではなかったか。なにしろ「愛」と「自由」である。彼のカウンター・カルチャーの時代への憧憬は、荒んだ現代におけるレイドバックした逃避として聴く者を癒していたかもしれない。僕だって、『Freedom』に収録されたヒプノティックなフォーク・ロック・チューン “Believe” を何度も何度も聴きながら、立ちあがる酩酊に身体と精神を預けていたのだった。

 スリーフォード・モッズとコラボレーションしたニヒリスティックなシングル “Feel Nothing” (2021)を挟み、〈Sub Pop〉からのリリースとなった6作め『Death Jokes』(邦題『死をネタに』)は、ここ2作で深めた内省の先でより曖昧な領域に踏みこんでいる。まず変わったのはサウンドだ。生音主体のフォーク・ロック色が強かった前作とは異なり、乾いた音のドラムマシンの上でサンプリングとストリングスやシンセの断片が入り乱れるサウンド・コラージュの趣が強くなっている。アルバム前半、“What I Want” などを聴くとマクマホンらしい脱力しつつもメランコリックに光るメロディを感じられるのだが、たとえば “Rugby Child” は打ちこみのビートのズレが平衡感覚を失わせ、そちらのほうに気を取られる。サイケデリック……と言っていいのかもしれないが、そこでは激しさとゆるさがぶつかり合って撹拌されている。リード・ナンバー “Purple Land” のフワフワしたサイケ・ポップは2000年代なかば辺りのアニマル・コレクティヴを連想させるかもしれない。いずれにせよ締まりのない音楽で、つねにルーズな感覚を持った彼の声……いや発声もあり、エレクトロニックな要素を高めて過去作以上に浮遊感に包まれた一枚になっている。
 この淡いトリップとともに現代社会のカオスが現れては消えていく。“Rugby Child” はロックダウンを背景とした孤立のなかのオーヴァードーズをモチーフにしているというし、叙情的なギターが聞こえる “Boys” は暴力が連鎖する様を描写しているように思える(「子どもたちが殺しにやって来る/なぜならあなたがしたことはすべて、あなたがされたことだから」)。ウディ・アレンとレニー・ブルースの死にまつわるジョークがサンプリングされているように、このアルバムはどこか死そのものを夢想するようなところがある。現実社会を厭い、この世ではない場所を思うことで発生する酔いなのだ。
 しかしながら、本作でもっとも弾き語りフォーク色が強い “Mary Anne” はマクマホンが幼いときに女性から受けた性的虐待をテーマとし、同じような経験を持つ者たちで精神的なつながりを生み出しうることを歌っている。マクマホンは過去に「女性とコレボレーションはできない」と発言したことが切り抜かれて批判され、その背景に虐待のトラウマがあったことを説明せざるをえない状況に陥ったのだが、歌のなかではそうしたソーシャル・メディア上での騒ぎと異なる次元での内省が親密に共有される。そして、9分にわたって正気を失っていくような “Round the World” では自分の内側で起こっている混乱と世界の混沌が混ざり合った状態で示され、ふと子どもに向けて「世界はだいじょうぶだ」とつぶやくのである。それはもう理性的な言葉とは言えないかもしれないが、破滅的な世界を見つめてなお何かしらの希望を持つためのトリップがそこには存在する。
 正気を保って生活を送ることすら困難な毎日だ。恐ろしいことがありとあらゆる場所で起き、その情報の断片が次々に入ってくる。自身の内面の混乱そのものに耽溺するという意味でエーメン・デューンズは間違いなく逃避的な音楽だが、逆説的にその時間は世界で起きていることと向き合い、どうにか日々の暮らしをやり過ごすための力を蓄えさせてくれる。

『蛇の道』 - ele-king

「経済を回す」というのが最近は宗教の標語に思えて仕方がない。「求めよ、さらば与えられん」とか「たゆまず祈りなさい」とか、あの手の精神的な強迫のようで、真面目な信者が教会とかお寺に通うようにショッピング・モールやスーパーマーケットに熱心に通いつめ、それ以外に道はないと信じて疑わない感じがしてしまう。大勢の人が経済を回さなきゃ、回さなきゃとスローガンを唱えながら資本主義を支えようとする姿は、かつて、共産主義は人々をアリのように働かせて個性を失わせるといって批判していたイメージががそのままブーメランとして返ってきたみたいで、主体性が失われるのはもはや資本主義も同じではないかと。

 1998年に公開された『蛇の道』(DVD化された時のタイトルは『修羅の極道 ~蛇の道~』)を黒沢清本人がセルフ・リメイク。脚本は高橋洋から黒沢清に代わり、全体の改変率は60~70%ぐらいか。東京都下の日野市周辺(?)が舞台だったオリジナルからロケ地をフランスに移し、曇り空のゴルフ場だったシーンも鮮やかな緑が一面に広がる田舎の風景に様変わりし、これまで黒沢作品にはなかった美しさを楽しむことができる。とはいえ、そうした開放感はもちろん限定的で、薄暗い室内だとか、遠景の多用、人物そのものではなく人間がいた気配だけを撮るなど黒沢作品の特徴に変化はなく、観客は闇の濃淡を見つめ、場面転換とともに大きな音に驚かされるあたりもとくに変わりはない(ルンバの動きを追うシーンはなかなかにユーモラス)。

 オープニングはパリの裏通りを歩く新島小夜子(柴咲コウ)。なにやら切迫感に突き動かされている様子で、小夜子がそばにいたアルベール・バリュレ(ダミアン・ボナール)に話しかけると、2人はあっという間にティボー・ラヴァル(マチュー・アマルリック!)を拉致し、その場から車で連れ去っていく。袋詰めにしたラヴァルを引き摺り回すシーンが必要以上に長く、人間を「モノ扱い」していることが強調される。廃屋に拘束されたラヴァルは8歳の女の子がピアノを弾く姿をヴィデオで見せられ、その子が殺されたこと、そして、責任がお前にあると告げられる。ラヴァルは身に覚えがないと絶叫するもまったく相手にされず、小夜子とアルベールに虐待されまくる。

 場面変わって小夜子の診療室で吉村(西島秀俊)が精神薬の処方を受けている。吉村は愚痴っぽく、小夜子がパリで立派に暮らしていることに妬みをぶつけるようなことを言い続ける。再びラヴァルが拘束されている廃屋。ラヴァルは窮地から逃れようとして真犯人はピエール・ゲラン(グレゴワール・コラン)だと主張する。小夜子とアルベールはゲランを拉致しに出掛け、同じように袋詰めにされたゲランが引きずり回されるシークエンスはラヴァルよりも長い。長過ぎる(笑)。ゲランもラヴァルと同じように娘がピアノを弾くヴィデオを見せられ、同じように自分は殺していないと訴える。このあたりから、いま目の前に見えていることとは違うことが実際には起きているののかもしれないという感覚が湧き上がってくる。誰かが操作し、洗脳した結果だけを見ているのかもしれない。そのような疑念に突き動かされる感じは『CURE』(97)と同じで(オリジナルの『蛇の道』は『キュア』の次につくられている)、この気分を味わうことが黒沢作品を楽しむ際の半分近くを占めている気がしてしまう(オリジナルはこの辺りからシュールさが倍増する)。ラカン用語でいえば1人の人間のなかにある現実界と想像界の両極に振り切れた世界観を行ったり来たりする面白さを味あわせてくれるということかもしれない。

 ゲランはアルベールも自分たちと同じ組織にいたことを小夜子に告げ、それまで復讐の主体だったはずのアルベールは小夜子に組織を内偵していただけだと弁解する。3ヶ月前、白く輝く病院内の景色が続き、何が起きたのかと思っていると娘を失ってへたりこんでいるアルベールに小夜子が「大丈夫ですか』と声をかけるシーンが短く挟まれる。小夜子からアルベールに近づいたことがわかり、小夜子の動機が謎めき始める。小夜子はアルベールのいないところでラヴェルとゲランに取引を持ちかけ、ほかに誰か犯人に仕立て上げられる奴はいないかと相談する。そして、クリスチャンの名前が候補に挙がり、小夜子は2人以上は拘束できないので、どっちか1人がもう1人を殺せと2人の足元に銃を転がす。ラヴァルとゲランが銃を奪い合う音が聞こえ、やがて銃声が鳴り響く。

 後半の展開はもはやオリジナルとは別物になっていく(以下、ネタバレのような解釈)『蛇の道』で意志を持っているのは女だけ(柴咲コウの役をオリジナルで演じているのは哀川翔)。男は組織の一部として動いているだけで、全体像を把握している者は1人もいない。ラヴァルもゲランも自分が何をやっているのかわかっていなかったとしか思えない描かれ方で、闇とはいえ、彼らも経済を回すだけの存在でしかなかったとしか思えない。自分は殺していないと思っているのも、だから本当のことであり、その最たる存在がアルベール・バリュレであり、彼もまた自分が何を運んでいたのか知らなかったと言い張ることになる。男たちに何かをやらせていたのも、そのシステムを破壊するのも女性で、まるで男社会の無用性をあぶり出して叩き壊したかのような話である。ただし、そうした女性たちの意志もまた正気とは思えない描かれ方をしていて、このままでも社会はダメだし、女性たちがリーダーになってもうまくいかないという話に思えてしまう。穿っていうと組織のボスが女性になることを黒沢清は無意識に恐れている作品だと受け取ることもできなくはない。

 舞台をフランスに移したのは大正解で、日本人はフランスで暮らし始めると買い物や日常会話などあらゆる場面で自己主張の強さについていけず、若い女性がとくにパリ症候群にかかりやすいという話をよく聞く。吉村の症状がまさにそれで、彼は組織から離れて個人としてフランスにいるために主体性が試される結果となり(以下、ネタバレ)、結局は死を選んでしまう。診療所で小夜子に「一度、日本に戻った方がいいかもしれません」と告げられるのは、いわば、あなたは男なんだから日本に帰って男社会に復帰すれば治るよと言われたようなもので、吉村との対比で小夜子がいかに自己主張が強く、他人を引きずり倒していくキャラかということが納得させられる(小夜子はこれといったオシャレをせず、いつも地味なジャケットを着ていて、そのことが自分は自分であるという強いメッセージに感じられる)。アルベールを道具として使い倒した小夜子が組織に大打撃を与え、さらにその動機が最後に語られる。これがもうひとつ素直に受け取っていいものかどうなのか。小夜子が自己主張の強いキャラを通り越して単なる狂人だったという可能性を示唆して物語が終わったように感じたのは僕だけだろうか。もう一度観たらそれがわかるという感じでもなさそうなところが黒沢作品の空恐ろしいところ。

 いずれにしろ本作は『CURE』に迫る傑作だと思う。そして、今月10日、嫌味なことに黒澤清はフランスの文化勲章にあたるオフィシエ賞を受賞した。

ドライブアウェイ・ドールズ - ele-king

 ラナ・デル・レイが昨年リリースしたアルバム『Did You Know That There’s A Tunnel Under Ocean Blvd』に収録された〝Margaret〟は、同アルバムをプロデュースしたジャック・アントノフの妻で役者のマーガレット・クアリーの名前をタイトルにしている。アントノフはクアリーに一目惚れだったとデル・レイが最初に歌い、それを受けてアントノフ本人(=ブリーチャーズ名義)が現在のパートナーに少しでも疑問がある人はすぐにその場から逃げろ、逃げろ、逃げろと強く訴える。さらにデル・レイが自分の恋愛に迷いがある人はアントノフとクアリーの結婚式に参列したらいいと結婚式の日取りを告げる。複雑な構成だけれど、基本的には自分の恋愛に漠然とした不安を抱いている人は時間がそれを解決してくれると繰り返す曲で、デル・レイのなかでもとりわけ甘ったるく、暗いカントリーである。アントノフはデル・レイだけでなく、テイラー・スウィフトやロードも手掛ける売れっ子のプロデューサーで、〝Margaret〟はどことなく〝Royals〟などを思わせる。

 マーガレット・クアリーは5年前にタランティーノ監督『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でクリフ・ブース(ブラッド・ピット)を誘惑するプッシーキャットの役で鮮烈な印象を残し、イーサン・コーエン監督『ドライブアウェイ・ドールズ』で早くも主役の座を射止めることとなった(2年前のランティモス監督『哀れなるものたち』では実験材料の役だった)。『ドライブアウェイ・ドールズ』は簡単にいえばレズビアンのカップルがフィラデルフィアからタラハシーまで南下しながら、スピードを出し、食事をしたり、セックスの相手を探すなどふざけ半分でドライヴを楽しむロード・ムーヴィーで、同作の性格は、脚本を書いたイーサン・コーエンの妻、トリシア・クックの言葉が最もわかりやすい説明となっている。いわく、レズビアンを描いた作品は重くシリアスなものが多いので、楽しいセックスを描こうと思ったと。確かに『アデル、ブルーは熱い色』『キャロル』『ロニートとエスティ』と、10年代に公開されたレズビアン映画は受難の時代を題材にしたものが多く、勇ましい気分になることはあっても楽しい作品とはいえなかった。対して『ドライブアウェイ・ドールズ』は笑いっぱなしに近い。共演のマリアンを演じたヴェラルディン・ヴィスワナサンによればカメラが回ってないところでもマーガレット・クアリーは彼女のことを笑わせにかかっていたという。

 1999年12月、オープニングはキケロのバーでアタッシェ・ケースを抱えたサントス(ペドロ・パスカル)がボックス席に座っている。店内にはリジー・メルシェ・デクローによる〝Fire〟のカヴァーが鳴り響いている。サントスは歌詞の通り火がついたようにいきなり店を飛び出すと後から追ってきた店の主人に殺される。場面変わって隠キャのマリアンが仕事場で同僚の男にナンパされるも無視し、陽キャのジェイミーとレズビアン・バーに出掛けていく。ステージに上がり、みんなから脚光を浴びるジェイミーとは対照的にマリアンは地味な服装に嫌味を言われるなど、まったくその場を楽しめない。ジェイミーはしかし、実際にはガールフレンドと別れたばかりでやさぐれた気分になっていて、マリアンがタラハシーに住んでいる叔母の元を訪ねるという話を聞くと、配送サーヴィスで車を借りて一緒にドライヴしながら行こうと提案する。配送センターでタラハシー行きの車を探すシーンがいきなり面白い。胸に「カーリー」という名札をつけたおっさん(ビル・キャンプ)にジェイミーが「カーリー」と話しかけると、おっさんは芝居がかった芝居をしながら「初対面でいきなりカーリーと呼ぶんじゃねえ」と怒り出す。カーリー・ヘアのジェイミーが怒るならわかるけれど、カーリー・ヘアがカーリーのことをカーリーと呼んでカーリーに怒られるのである。ジェイミーがガールフレンドと住んでいた部屋に自分の荷物を取りに戻ると、留守にしているはずのスーキー(ビーニー・フェルドスタイン)がなぜか家にいて壁に取り付けられたディルドをぶっ壊している。「2人で使わないのならこんなディルドはいらない!」とスーキーは絶叫し、マリアンはひたすら怯えている。部屋のドアを開けてすぐのところにある壁にディルドを取り付けていることがそもそもどうかしている。

 配送センターにギャングがやってくると、タラハシーに向かうはずの車が何者かによって先に持って行かれたことを知る。ギャングたちはカーリーをボコボコにし、スーキーの家を探り当てて部屋に乗り込むと、荒れ狂うスーキーに返り討ちにされる。わやくちゃなシーンが様々に続き、ジェイミーとマリアンの車がフロリダ州に着くとタイヤがパンクし、スペアを取り出そうとしてトランクを開けてみる。そこには冒頭でサントスが抱えていたアタッシェ・ケースと丸い箱があり、箱のなかには切り落とされたサントスの首が入っていた。首だけになったペドロ・パスカルというのも笑うけれど、この構図はどうやらファンカデリック『Maggot Brain』のジャケット・デザインを模倣したものなのである。

 本作はイーサン・コーエンによる初の単独作で、実質的な共同監督だという妻のトリシア・クックとも初めて組んだ劇映画となる(2人はジェリー・リー・ルイスのドキュメンタリーを撮ったことはある)。演出スタイルはラス・メイヤーやジョン・ウォーターズを意識したらしく、なるほどかなりえげつない。とはいえ、僕が観た限り同作の演出はコーエン兄弟の方法論そのままで、複数の要素を絡ませる手際はもはやお家芸。アメリカの政治状況を寓話に落とし込むのが天才的に上手いコーエン兄弟の作品は誰かの自由意志によって物語が進むという印象を与えず、登場人物すべてが神の手のひらで転げ回っているように見えてしまうのが特徴。そうしたセンスはこの作品も同じくで、脚本がつくり込まれ過ぎていて独自に人物造形をする余地がなかったと出演者たちが回想していたようにジェイミーがマリアンを振り回しながらレズビアンが自分たちに必要な感情を探り当てていく過程はそのままクリントン政権下でレズビアンがひとつの勢力として固まっていくプロセスを表しているかのよう。ジェイミーとマリアンがお互いを理解し、最終的には人生のパートナーになっていくことはわかりきったことだけれど、なかなかストレートにそこまで辿り着かないところが『ドライブアウェイ・ドールズ』を、まあ、過分に面白くはしているし、それこそラナ・デル・レイの歌詞が言い得て妙ということになる。

(以下、ネタバレ)ジェイミーとマリアンがアタッシェ・ケースを開けてみると複数のディルドが入っている(!)。だいぶ後になってわかることだけれど、そのうちのひとつは上院議員ゲイリー・チャネル(マット・デイモン)のペニスを形どったもので、これが今後も世に出回ると大統領選に響くと考えたチャネルがこれを回収しようとしてギャングたちを動かしていたのである。この映画にはところどころで挿入されるトリップ・シーンのような映像があり、観ている時はなんだかわからなかったのだけれど、終わってからパンフレットを読んでみると、60年代にジミ・ヘンドリックスやウエイン・クレイマー(MC5)のペニスを実際に型取りしたヴィジュアル・アーティスト、シンシア・プラスター・キャスター(22年没)を題材としたもので、この役をノー・クレジットでマイリー・サイラスが演じている。シンシア・プラスター・キャスターがチャネルのペニスを型取りしたという無茶苦茶な設定はどうなのかと考える暇もなく、さらにはマイリー・サイラスがそのシーンで使うようリクエストした曲が〝Maggot Brain〟だったという……うむむ。

 チャネルがジェイミーたちとの取引に応じ、バーのボックス席で待っている時にも〝Fire〟が鳴り響いている。100万ドルを用意してきたチャネルの前にジェイミーたちが姿を現すとチャネルが「誰?」と尋ね、マリアンは「デモクラッツ」と答える。普段、アメリカ人は、民主党のことは「デム」と発音するので、ここで「デモクラッツ」とフルでゆっくり答えるところは爆笑だった(チャネルは大統領候補だとされていたので、翌年が大統領選だったことを考えるとやはりブッシュ・ジュニアを念頭に置いている?)。上映中はそういえば女性たちの笑い声が何度も湧き上がっていた。そもそも観ていたのは女性の方が多く、帰り道で興奮したように話し合っている女性たちの姿も微笑ましかった。そう、間違っても反フェミのアニオタは観に行かない方がいい。女性たちをそうした視線で眺める世界観はここにはまったくない。とはいえ、僕にはこの作品のタイトルがもうひとつよくわからなかった。作品の終わり頃、壁に落書きされた「Drive-Away Dykes」の文字に「oll」という文字が飛んできて上から貼り付き、「Drive-Away Dolls」というタイトルに様変わりするシーンがある。「Drive-Away Dykes」はヘンリー・ジェイムズの小説だそうで、「Dykes」はレスビアンを表す俗語。これがなぜ「Dolls」に置き換えられたのか。「Dolls」は明らかにジェイミーとマリアンのことで、彼女たちを「人形」と呼び換える意味がよくわからない。単に「かわい子ちゃんたち」という意味なのだろうか。ジェイミーがレズビアン・バーでワン・ナイトの相手を見つけて帰ってくるとマリアンはいつも本を読んでいて、それもヘンリー・ジェイムズの『ヨーロッパ人』だという。勉強不足でどうもこのあたりのことが腑に落ちないままです。

 日本におけるブルース研究の第一人者にて、我らが拠点〈P-VINE〉の創業者である日暮泰文氏が、去る5月30日に75歳にて永眠した。
 氏は、大学在学中の1968年にブルース&ソウル・ミュージック愛好会を鈴木啓志氏らと設立、1969年から『ニュー・ミュージック・マガジン』に寄稿、ブルースおよびブラック・ミュージックついての原稿を多数発表した。氏は、中村とうよう氏らと並んで、日本においてブルースを研究し、論じてきた第一人者だった。
 幸いなことに、ele-king booksからは、美文家だった氏の、なかば詩的なブルース・エッセイ集『ブルース百歌一望』をはじめ、70年代に氏が立ち上げ編集長を務めていた雑誌『ザ・ブルース』時代からのパートナーである、高地明氏との共同監修のもと、日本においてブルースがどのように輸入され、どのように紹介/語られてきたのかをまとめた大作『ニッポン人のブルース受容史』、そして氏が愛してやまなかったB.B.キングに関する翻訳本『キング・オブ・ザ・ブルース登場-B.B.キング』を刊行させていただけた。また、おそらくは、氏がもっとも深く研究したであろうロバート・ジョンソンに関しては、『RL-ロバート・ジョンスンを読む アメリカ南部が生んだブルース超人』というすばらしい力作がある。
 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

Blue Bendy - ele-king

 サウス・ロンドンのポスト・バンク・バンドを中心にここ数年で大流行した喋るように唄うスタイルは聞くものに新たな感覚を残したのではないだろうか。つまりは芝居がかった演劇的な側面を音楽にもたらして、プレイリスト、曲単位で盛り上がる観賞スタイルが普通になった中で、再びアルバムという物語を意識させたのではないかということだ。歌い手が言葉を使いストーリーを表現し、その主体の感情を描写するように音楽が追従する。ストリングスやサックスがバンドの中にあるというのが当たり前になった編成で、セリフをつぶやくかのごとく唄うバンドの音楽は舞台で行われる演劇やミュージカルに近く、物語性を持った楽曲との相性が非常に良かった。その一番の成功例は高い評価を得たブラック・カントリー・ニューロードの1stアルバム、および2ndアルバムだろう。アイザック・ウッドの固有名詞にイメージを持たせキーワードのようにしてアルバムの楽曲を繋ぐスタイルを1stアルバムでは偶発的に2ndアルバムでは意図的にイメージを喚起させるように楽曲を組み立てたとバンドは言う。
 そうして時間が経って物語を追う感覚がリスナーに浸透したタイミングで違ったアプローチをする流れも生まれて来た。喋るように唄うスタイルではなくもっとメロディアスで、もっと色鮮やかに。HMLTDのデイヴィッド・ボウイ的SF、精神世界の大活劇の素晴らしき復活作『The Whorm』(この作品はエヴァンゲリオンにも影響を受けたという)が昨年リリースされ、今年、24年にはフォークのアプローチをしたテイパー!の傑作『The Pilgrim, Their God and The King Of My Decrepit Mountain』が生み出された。表面の音楽はまったく違うがどちらのアルバムもいくつかの章に分かれ、それらをナレーションで繋ぐという手法を用いより一層アルバムという物語を強調するものだった。

 さて、このロンドンの6人組ブルー・ベンディーのデビュー作『So Medieval』はどうだろう? 僕にはこれが喋るように唄うポスト・パンク・バンドが生み出したシーンのその先に進んだ音楽に思えてならならない。ピアノが鳴りアコースティック・ギターが咲く柔らかなサウンド、楽曲構成にポスト・パンクの気配を残しながら冷たく鋭い音楽から離れ、陽光の差す平原へ。あるいはそれはブラック・カントリー・ニューロードが2ndアルバムで目指した場所なのかもしれないが、ブルー・ベンディはさらにその先へと歩みを進めている。シンセサイザーが奇妙な音を作りシリアスになりすぎないようにバランスを取り、ねちっこく唄うヴォーカルはミュージカルのように熱を持ち、ギターが感情を作り出す。そして現在のロンドンの多くのバンドたちが共有している感覚であるフォークのアプローチを試み、その中に混ぜる。22年のEP「Motorbike」から進化した音楽はまた一つの特定のジャンルとして形容するのが難しい音楽になったが、歴史の流れの中で歩みを進める実験的なポップ・ミュージックとして完璧に機能している。

 粘り気があって艶があるアーサー・ノーランのヴォーカルは喋るようにメロディを唄いストーリーを語る。マコーレー・カルキンにケンダル・ロイ(ドラマの中のキャラクター)、スーパーマンのコミック、超次元ソニックマン、自らを取り囲むポップカルチャーの固有名詞をふんだんに使い、実存的危機にさいなまれる人生がユーモア交じりに物語られる。宗教的な価値観を織り交ぜながら俗っぽく、壮大な物語はしかしミームと物にあふれた小さな生活の中にかえっていく。たとえば“Darp 2 / Exorcism”のインターネットの惑星に漂う孤独は、暖かいギターの音色ともの悲しいヴォーカルメロディ、壮大というには一歩及ばないコーラス、爆発する小さな起伏に彩られ、最後には車の中、鼻で笑うような会話の中に戻っていく。感情を一気に持っていくようなものではなくニュアンスと空気のレイヤーを重ねてシフトチェンジしていくような音楽がなんとも心を揺り動かすのだ。美しい旋律の快感と、それを壊すようなユーモア、静かに積み上げられていく柔らかな興奮、6分を超える冒険“Cloudy”はまさにそんなブルー・ベンディの魅力がつまったもので、ぐるぐる周るピアノとアコースティック・ギターの爆発に彩られドライヴしていく物語は途中で緩み、展開し、まるでミュージカルのようなコーラスを伴った後半へと突入する。柔らかに着実にどこまでも上っていくように、爆発と展開を繰り返すブルー・ベンディのこの柔らかなカオスはたまらない快感を連れて来るのだ。

 「ロンドンで3番目にいいギターバンドであることはどうにかできる」“Mr. Bubblegum”で唄われるこの言葉はおそらくブラック・カントリー・ニューロードの“Science Fair"の「世界で2番目のスリントのトリビュートバンド」のラインを意識した言葉なのだろうが、彼らはその後にこう続ける「でも僕はなにかで一番になりたいんだ」と。
サウス・ロンドンのインディシーンを見つめ続けてきたバンドは見事にその先へと歩みを進めている。極端にならない方法で、カウンターではなく進化するように。そうして作られたこのアルバムはロンドンのポスト・パンク・バンドとテイパー!やアグリーなどのフォークの要素を強めたバンドの中間のグラデーションとして機能する。固有名詞に囲まれた物語と柔らかいサウンドの彩り、ブルー・ベンディのこのデビュー・アルバムはこんな風になったのだと変わりゆく季節、シーンの未来を確かに感じさせ、そしてなんとも胸を揺さぶってくる。

『オールド・フォックス 11歳の選択』 - ele-king

 いまの日本はどこも雰囲気が悪い。それは「努力が報われる社会」から「才能が活かされる社会」に変化したいという要請が行き渡り、その気になっている人が多数いるにもかかわらず才能が認められるプロセスがいつまでも不透明なので、着地点が見つからない人たちの焦りやイライラがあちこちに充満しているからだろう。1989年の台湾を舞台にリャオ・ジエ(バイ・ルンイン)が『オールドフォックス 11歳の選択』で直面する事態も努力以外の価値観があることに気づいたことが端緒となり、11歳の少年が経験するにはあまりに過酷な社会の諸相がむき出しとなっていく。感情表現すらまだ覚束ない少年を中心としながらも登場人物の多い群像劇は勝ち組と負け組のどちらにも肩入れせずに粛々と進行するため、周囲の人々に影響を与えるリャオ・ジエの焦りやイライラは映画を観る者にもダイレクトに貼り付いてくる。どこか突き放したような演出は前期フェリーニを思わせるアトモスフィアを醸し出し、行ったことがないのに郷愁を掻き立てる街の景観や「美人のお姉さん」と呼ばれて「まあ、嬉しいわ」と返す軽口など俗に呑み込まれない俗という意味でもフェリーニの名前はどうしても挙げたくなる(実際にはシャオ・ヤーチュエン監督はホウ・シャオシェンの弟子で、台湾ニューシネマの代表とされたシャオシェンは報道された通りアルツハイマーにコロナの後遺症が重なって引退を発表し、『オールドフォックス 11歳の選択』が最後のプロデュース作となる)。

 同作は台湾でバブル経済が弾け、多くの人々が苦境に追い込まれた時期を背景としている。実話がベースになっているそうで、導入からしばらくは誰1人として孤立したものがいない温かなコミュニティの描写が続く。異なる階級の人間が出会う場所として高級レストランが設定され、分断どころか、適切なコミュニケーションの頻度が多様な人間関係を成立させていることもなかなかに印象深い。ここにあるような人間と人間の距離感は80年代の日本もしくは東京にはすでに存在していなかったもので、若い人が観れば『三丁目の夕日』などを思い出すのかもしれない。冒頭から赤い服を着た女性が1人夜道を歩いている。その場の雰囲気に合っているとは思えない鮮やかな服の色は「夜道で暴漢に襲われる」というフラグにしか思えなかったものの、実際には彼女は地域の家賃を集金して回り、その街と距離があるどころか、資本主義的には効率が悪いと思うほどあちこちで会話の花を咲かせていく。家賃も「取り立てる」というような雰囲気からはほど遠く、『闇金ウシジマくん』の見過ぎで荒んだ心には部屋を借りている者と貸している者がお互いに尊厳をもって接しているとしか見えない温かさをもたらしてくれる。リャオ・ジエは家賃を集めに来たリン(ユージェニー・リウ)からいつものようにおやつをもらい、また同じお菓子だという顔をする。リンはその後も風邪をひいたリャオ親子の面倒を看るなど、家主の代理人という立場からは大きく逸脱した行動をとり続ける(後にわかることだけれど、明らかにそれは無償の行為で、「無償の行為」と注釈をつけて解説しなければいけない日本の現状にも違和感を覚えてしまう)。ジエはまた、平日の午後には父のリャオ・タイライ(リウ・グァンティン)が働くレストランの片隅で宿題のノートを広げ、従業員たちは何かと彼に余った食べ物をくれる。ジエは地域の人たちから可愛がられ、とても大事にされている。

 悪い予感のかけらもなかったムードに初めてバッド・サインが点灯する。リャオ・ジエは学校の帰りに同じ年頃の悪ガキにいじめられ、同年代の子どもたちとは必ずしもいい関係でないことが示唆される。リャオ親子が住むアパートの一階でラーメン屋を営むリー夫婦は戒厳令が解かれたことで歯止めが効かなくなった投資ブームにのって大きな儲けを出し、同時に不動産価格が跳ね上がり、店舗のなかにはしばらくすると立ち退きを迫られる職種も出てくる。ジエは亡くなった母親がやろうとしていた理髪店を自らの手で開くという夢を持ち、父のタイライにはあと3年で開業資金が貯まると告げられる。一方で、タイライの弟の結婚式で会った叔父も株で大金を手にしていて、それを理髪店の開業資金に回してくれると聞いたジエは3年も待てないと思い、自分でも株をやりたいと思い始める。そんなある日、ジエは雨の日に屋台の横で雨宿りをしていると高級車で近寄ってきた家主のシャ(アキオ・チェン)に家まで送ってやると言われて車に乗り込む。シャは知らない人の車に乗ってしまうジエに少し呆れ、街でジエを見かけると車に乗せては勝ち組になる心構えを教えて聞かせる——他人の気持ちを思いやるな。そんなことをする人間は負け組にしかなれないと。

 作風はいわゆるネオレアリズモ。これにジエの母親が生きていて理髪店を営んでいるシーンが空想として差し挟まれ、もうひとつ、ゴミの廃棄所でジエが転ぶと、ゴミの山の上にシャが立っているシーンはあまりに不自然で、ありえない場面ではないものの、さすがに作為的といえ、社会の底辺で2人が繋がっていることを象徴的に示す目的が強かったと思われる。そして、誰のことも助けるつもりがないシャがジエだけを目にかけるのは過去の自分をジエに重ねているからだと告げ、利益を度外視した売買の契約を彼は承諾する。それは自分への憐れみであり、かつての自分がして欲しいことをジエにしてあげたという代替行為に相当する。シャはジエに売ってやると告げた物件に足を運ぶと約束を翻さざるを得ない事態に遭遇して日本語で怒鳴り、そのまま子ども時代の回想へと場面は切り替わる。シャは日本語で「部屋を貸して!」と何人もの家主に向かって訴えている。他人を思いやるなというシャの考え方は台湾を占領していた日本人が彼に冷たくしたことで芽生えたものだったということがそこからは汲み取れる。日本人の顔は1人として映し出されず、日本人の表現には人格を伴っていないことが強く印象に残る。

 シャの向こうには日本人が見え、それは台湾にとっての父性という意味を持っているのだろう。ジエにはそして、3人の母がいる。亡くなった母と代理母性であるリン、そして父親のタイライもここで果たしている役割は母性に近い。リャオ・ジエは11歳にして社会に抑圧されていることに矛盾を感じ、父と同じ生き方をしていたのでは、一生、底辺暮らしが続くと考える。(以下、ネタバレ)シャはある情報をジエに教え、それをもってジエは自分をいじめる悪ガキどもにリヴェンジを果たす。「情報」が人生を大きく左右すると知ったジエはよく考えずにリンに関する情報をシャに伝える。結果、いつも自分に優しくしてくれたリンはシャに殴られ、顔に大きな痣ができる。ジエにとっては父性が母性を傷つける場面を自らが招いたことになる。ジエはこのことをどう受け止めたのか。それは33年後に彼が建築設計士として働く様子からそれぞれが考えるというつくりになっている。ジエは富裕層の家を設計し、山の中腹に建てられた豪邸を緑で覆い尽くし、そこに家があることもわからなくしてしまうのがいいのではないかと提案する。発注主は戸惑い、少し考えさせてくれと悩む。ジエは父のタイライからカッターの刃をむき出しで捨てずにダンボールで包んでから捨てるという「気遣い」を受け継いでおり、豪邸を緑で覆い隠すというジエの提案はまるで富裕層の存在を視界から消してしまい、そうすることで他の人たちの心を落ち着かせようとしているかに思えてくる。かつての理髪店を開くというジエの望みは亡き母への執着と捉えることが可能で、他人が住む家を設計するという仕事にモチヴェーションを変形させた彼は、家を建てることによって母性の必要性を人に伝え続けていると考えられる。一方で、タイライの初恋の相手でもあるヤン・ジュンメイを門脇麦が演じており、彼女もまた夫に痣がつくほど顔を殴られる。シングル・ファーザーを中心とした物語のなかで2人も女性が殴られるというのは女性に恨みがあるか、それとも男性にも母性は備わっていて、この社会に女性は必ずしも必要ではないというステートメントにさえ思えてくる。「母」は過剰に慕われるけれど「女性」は殴られる。それとも男性は女性を殴る生き物だということを強調したいだけなのだろうか。女性に対する両義性はやはりフェリーニに通じるものがあり、それはそのまま中国本土に対する感情を表しているのかもしれない。そして、今日、中国からの独立派である頼清徳が新たな新総統に就任した。

Kavain Wayne Space & XT - ele-king

 ジャズが、ことにビバップと呼ばれる音楽が小綺麗な室内の舞台ではなく、ときには俗悪なナイトクラブの夜の営みにおいて、酔っぱらった客を満足させ、あるいは自らの欲望を満たすことで研磨されていったというなら、それがやがて即興へと、そしてたとえば欧州に渡りインプロヴィゼーションとして発展していったとき、ある種性的な衝動や名状しがたい欲望が隠蔽され、何か高尚なものの下位へとすり替えられていったというのは、いくらなんでも言い過ぎだ。むしろ率先して、ジャズの背後にあった猥雑さや悪徳から離れていったことで生まれた遺産の多くをすでに我々は知っている。

 しかしながらシカゴのフットワークの、その原点にある衝動、その爆発力に関してはどうだろうか。まずないことだが、進歩人諸氏は、90年代半ばの〈ダンス・マニア〉というレーベルから出ている12インチを気紛れで買ったりしないことだ。ゲットー・ハウス、その数年後にはジュークとも呼ばれるシカゴのアンダーグラウンド・ダンス・ミュージックは、不適切極まりのないエネルギーが充満している。「ち●●」や「●●こ」のオンパレードなのだから、これはもうけしからんです。とはいえ、もういちど考えるのもいいかもしれない。2010年代において、ローカルは消滅し、文化が減速したと言われながら、ほとんど唯一といってくらいに革新的と言われた音楽スタイルがどれほど猥雑なところから生まれたのかを。

 RPブーという、House-O-Maticsなるシカゴの伝説的ダンサー・チームの元メンバーにして、90年代末にはフットワークの青写真を作ったDJ/プロデューサーが、英国人ふたりのインプロヴァイザー、サックス奏者のシーモア・ライトとドラマーのポール・アボットと共演したライヴ音源(しかも最初のセッションは2018年だった)があると聞いて、警戒をもって接している人間がここにいることは、もう充分にご理解いただけたことだろう。もちろん嬉しさもある。それは、フットワークの可能性が広がっているかもしれないという期待、もうひとつは、たとえばハウス・ミュージックが発展していったうえで、AOR的な展開をしたときのつまらなさを知っている人間からすると、この組み合わせに興味をそそられるのもたしかだ。また、こんにちではインプロヴィゼーションと括られる音楽が、ともすれば鼻につくような、お高くとまった世界で完結しているとしたなら、これは良い薬だ。ぼくも一緒に恍惚となれるかもしれない。

 言うまでもないことだが、この演奏でキーになるのはRPブーだ。シカゴのフットワークのあのビートは音符だけで表現できるものではない。EQを深くかけた裏拍子のクラップ、スネア、ハーフタイムのリズム、そしてサンプリングの容赦ない反復——、あまりにも特徴的なこのダンス・ミュージックの魅力をシーモア・ライトとポール・アボットはある程度は尊重しながらも逸脱させ、その混沌を抽出し、破壊的な音楽へと舵を取ろうとしている。2曲目、とくにその後半からがまったく素晴らしい。もしこのメンバーのなかに政治的なアジテイターがいようものなら、ザ・ポップ・グループもしくはザ・マフィアのパンク・ファンク・ダブの更新版と呼びたいところだ。最近では、ジャズとエレクトロニック・ダンス・ミュージックとの共演に関してはコメット・イズ・カミングが評判だが、自分の好みで言えば、まったくもってRPブーたちのこれだ。作品化されたことに感謝したい。

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