「MARK」と一致するもの

Kendrick Lamar - ele-king

アメリカンドリームに慎重ながらも楽観的:ケンドリック・ラマーの『GNX 』(2024年)

 昨年の秋、ケンドリック・ラマーのサプライズ・リリース『GNX』は、カリフォルニア出身のラッパーがヒップホップ界の勝者であることを決定づけた。このアルバムは、ラップというジャンル自体について語り、同時に、この情熱的で重要な作品についても多くを物語っている。

 日本でも、ラップの起源やその文化はほとんど神話となって広く知られている。人種的、経済的に疎外された人びとが楽曲をリミックスし、パフォーマンスを通じてコミュニティを形成し、アメリカの都市の裏通り——ブロンクスからシカゴ、ロサンゼルスからマイアミなどなど——から、ときに社会への怒りも表現した。しかしながら、ヒップホップがアメリカ(そして世界中)で主流文化となるにつれ、このジャンルの枠組みやルールは変容している。かつては協力関係やコミュニティを基盤としていたものが、いつしか競争と個人主義を中心とするものになったのだ。

 ある意味ヒップホップの進化は、いわゆる「アメリカンドリーム」というパラドックスを象徴している。この「アメリカンドリーム」もまた、「アメリカでは努力さえすれば何でも達成できる」と約束するという、世界中で知られるほぼ神話的な概念である。だが、実際のところそれはどうだろうか? アメリカでは、資本主義が民主主義と混同されることがしばしばある。この「自由の国」では「お金で投票している」と言われているが、まさに先日の、ドナルド・トランプがイーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、マーク・ザッカーバーグといった火星行きの取り巻きを従えて1月20日に大統領に就任した時点で、私たち99%の人びとはこれらの億万長者を打倒するための民主的な力を十分には持っていなかったことが明らかになった。

 アメリカでは、金は「何を成し遂げられるか」という点で価値を持つと考えられる一方で、それ自体が目的になっている。一部の人びとにとっては、金で買えるものよりも、どれだけの額を蓄えられるかのほうが重要なのだ。このことが、なぜラップ文化が主流の商業商品として地位やお金への執着に取りつかれているのかを説明しているように思える。それは、カニエ・ウェストが“The Good Life”で「人生でいちばん大切なものは無料のものだ」と主張していたのにもかかわらず、“I Am A God”では「早くクロワッサンを持ってこい」と怒鳴るようになった理由でもあり、また、ジェイ・Zが「俺はビジネスマンじゃない、ビジネスそのものだ」とラップしたことにもつながるだろう。

 しかし、『GNX』では──ドレイクやその「ロリータ・コンプレックス」に向けた一連のディス・トラック、さらにはP・ディディの醜悪な性的スキャンダルを経て──ケンドリックはラップを使ってこのジャンルが象徴するものへの反旗を翻している。彼はライヴァルたちを、ラップの純粋性を損ねる敵として位置づけ、このアルバムを通じてジャンルの喪失を嘆きつつも祝福し、あるいはその回復を求めているのだ。冒頭の“Wacced Out Murals”という曲において、このメッセージをすぐさま打ち出されている。ここでケンドリックは「みんな怪しい」と宣言し、リル・ウェインやスヌープ・ドッグ(「古臭いフロウ」と批判)など一部のラッパーを名指しで非難する一方で、ドレイクに対してはより間接的に、しかしアルバム全体を通して繰り返し批判を展開している。

 『GNX』には、「White Lives Matter」以前のカニエを思わせる感覚が随所に見られるように思う。まだ彼がプラットフォームをポジティヴな目的で使おうとしていた頃の話だ(『Graduation』の“Everything I Am”で、カニエはこう宣言している——「普通ならこんなことラップしないだろうけど、俺にはこれを裏付ける事実がある/去年だけでシカゴでは600以上の棺桶が必要だった/殺しなんてくだらないクソだ」)。ほかにも、アルバム全体を通じて、キリスト教的な救済のテーマが強く感じられるほか、“Man at the Garden”という楽曲では自分自身への賛辞(「俺にはすべての価値がある」)と、母親への感謝(「そうさ、彼女にはすべての価値がある」)という、カニエ風のオマージュさえも垣間見える。
 しかし、ケンドリックとカニエ、さらには他の現代ラッパーとの違いは、ケンドリックが名声と権力の誘惑に負けなかった点にある。彼はいまもなお、自分の地位を使って「より良いもの」を求めるメッセージを伝え続けている。アルバムの白眉ともいえる“Reincarnated”では、エゴと謙虚さ、そして権力や金銭の誘惑との間で揺れる古典的な葛藤を、驚くほど正直に探求している。ケンドリックは、自らを過去の偉大な黒人の系譜に位置づけ、「俺の人生を捧げて調和のなかで生きることを誓う/多くの人びとは苦しみ、思いは閉じ込められている/そんな敵を俺が作り出してしまったことを恥じている/さあ、いまいる場所を喜び合おう/悪魔の物語を書き直し、俺たちの力を取り戻すために、生まれ変わった」と宣言しているのだ。

 音楽的に見ると、『GNX』は華麗でありながら簡素という二面性を持ち合わせている。これは、成功の頂点に立つ人生の豊かさと孤独感、そして大きな力を持つことに伴う孤立した責任を見事に捉えているように思える。不規則なリズムやケンドリック特有のキャラクターになりきる能力に乗せられて、アルバムの音楽的印象を際立たせるのが、全編を通じて織り込まれた、無名の歌手によるマリアッチのヴォーカルだ。このメキシコ音楽が、ドナルド・トランプが2期目の大統領職に就いてから1週間足らずの状況ではとくに心に響く。その間に、トランプは大量の不法移民を国外追放する計画を公表し、メキシコ湾を「アメリカ湾」に改名することを示唆した。
 とはいえ、こうした歌詞の内容を超えて、『GNX』は包括性へのラヴレターと言えるだろう。これは個人ではなくコミュニティを、個人主義ではなく協力関係を慎ましく祝福する作品なのだ。アメリカは夢見る者たちの国であり、異なる文化の断片がひとつの全体として結集するという実験でもある。ここでは物事は複雑で混沌とし、騒々しく、押しつけがましく、何ひとつ予定通りには進まない。ときには暴力的なこともある。そして、フルタイムで働いても請求書の支払いに苦労し、漫画に出てくるような悪党たちに支配されている政治現状では、「アメリカンドリーム」は悪い冗談でしかない。

 ケンドリックの『GNX』は、慎重ながらも楽観的な祈りのように感じられる。たしかに状況は最悪だ。が、そう、だからこそいまは、正直になって過去の過ちから学び、アメリカのみならずこの世界をより良い場所にするため、私たちに与えられた力を何であれ使うべきときなのだ。

Cautiously Optimistic for the American Dream: Kendrick Lamar’s GNX (2024)

Last fall, Kendrick Lamar’s surprise release GNX cemented the California-based rapper as the winner of the hip-hop game — which says as much about the genre of rap itself as it does about this blistering, important album.

Even in Japan, rap’s origins are so well-known as to be almost mythical: the racially and socio-economically disenfranchised remixing songs, creating communities through performance, and raging against the machine in the back alleys of America’s inner cities — from the Bronx to Chicago to LA. But as hip-hop went mainstream in the US (and around the globe), the parameters of the genre — and the rules of its game — morphed from a foundation of collaboration and community to one of competition and individualism.

In a sense, hip-hop’s evolution represents the paradox of the so-called “American Dream”: another near mythical concept known around the world which promises that you can achieve anything in the USA, so long as you work hard enough. In actuality, though, capitalism is conflated with democracy in America. Here in the “Land of the Free,” we’re told that we “vote with our dollar”— although since Donald Trump was sworn in as president on January 20th with his Mars-bound henchmen of Elon Musk, Jeff Bezos, and Mark Zuckerberg in tow, it’s clear that we 99% didn’t have enough democratic capital to to overthrow the billionaires...

In America, then, money might be coveted for what it can do for us, but often ends up becoming the goal in and of itself. To some people, what money can buy you isn’t as important as how much money you can accumulate. I can’t help but think that this is why rap culture, as a mainstream commodity, is so status and money-obsessed. It explains why Kanye West went from reminding us that the best things in life are free on “The Good Life” to barking at people to hurry up with his damned croissant on “I Am A God.” It’s why Jay-Z rapped, “I’m not a businessman, I’m a business, man.”

But on GNX — fresh off a series diss tracks aimed at Drake and his Lolita- complex, and the hideous sex scandal surrounding P. Diddy — Kendrick uses rap to fight against what this musical genre has come to represent. He frames his rivals as opponents of rap’s integrity, which the album both mourns and celebrates— perhaps even demands. He wastes no time establishing this message, either. On the opening track of “wacced out murals”, Kendrick declares that “everybody questionable,” and calls out some rappers explicitly (like Lil Wayne and Snoop Dog, the latter with his “old-ass flows”), and others — specifically Drake — more implicitly, and repeatedly throughout the entire album.

Aspects of GNX have a distinct feel of pre-White Lives Matter Kanye, when he tried to use his platform for positivity (“I know people wouldn’t usually rap this,” Kanye pronounces on Graduation’s “Everything I Am,” “But I got the facts to back this / Just last year, Chicago had over six hundred caskets / Man, killing’s some wack shit”). There’s strong themes of Christian redemption throughout the album as well, and even a decidedly Kanye-esque homage to both himself (“I deserve it all”) and his mother (“Yeah, SHE deserves it all”) with “Man at the Garden.” The difference, though, between

Kendrick and Kanye— and other rappers of our time— is that Kendrick didn’t fall prey to the siren song of fame and power. He continues to use his status to preach for something better. Perhaps the crown jewel of the album, “Reincarnated” investigates the age-old struggle between ego and humility, and the temptation of power and money, with stunning honesty. Inserting himself into a lineage of Black greats before him, Kendrick promises: “I vow my life to just to live one in harmony now/ You crushed a lot of people keeping their thoughts in captivity/ And I’m ashamed that I ever created that enemy/ Then let’s rejoice where we at / I rewrote the devil’s story just to take our power back, reincarnated.”

Musically, GNX is at once ornate and spare, which captures the lush loneliness of life at the top, and the isolating responsibility that comes with great power. Against some off-kilter rhythms and Kendrick’s signature ability to get into character, though, GNX’s musical stamp might be the Mariachi vocals from a previously unknown singer woven throughout the album. This Mexican music is especially haunting in Donald Trump’s second presidency, which less than a week in promises to deport undocumented people en-mass, and rename the Gulf of Mexico the Gulf of America. Beyond its lyrics, then, GNX is a love-letter to inclusion: a solemn celebration of community over individual, and collaboration over individualism.

America is a nation of dreamers, and is an experiment in separate cultural pieces coming together as a whole. It’s complicated and messy here. It’s loud, it’s in-your-face, nothing runs on time. Sometimes it’s violent. And while the American Dream may seem like a bad joke as people struggle to pay bills working full-time jobs, and while our politics are overrun by comic book-levels of villainy, I dare say that Kendrick’s GNX is a cautiously optimistic prayer. Yes, this is the shit show we’re in, but now is the time to get honest, learn from our mistakes, and use whatever power we may to make something better— in America and beyond.

Talking about Mark Fisher’s K-Punk - ele-king

 まもなく彼が亡くなってから8度目の1月がやってくる。この間、ここ日本でもマーク・フィッシャーの紹介は進み、2024年はついにそのすべての単著が日本語で読めるようになった。音楽をはじめ映画やSF文学といったポピュラー・カルチャーから鋭い思想を紡いでいったイギリスの批評家──死後に刊行されたアンソロジー『K-PUNK』はその最後の単著にあたる。
 文学や映画、TVドラマについての論考をまとめた『夢想のメソッド』、音楽や政治をめぐって舌鋒が振るわれる『自分の武器を選べ』、表題の未発表原稿だけでなく主著『資本主義リアリズム』の本人による平易な解説も収めた『アシッド・コミュニズム』──日本では三分冊のかたちで刊行された大著『K-PUNK』は、フィッシャーの出発点であるブログ「k-punk」の主要テキストを軸に、『ガーディアン』などに掲載された文章から各種インタヴュー、未完の草稿までを網羅している。つまり、若かりし初期のフィッシャーから晩年の彼にいたるまで、その変化のプロセスを知るうえでも見過ごせない1冊というわけだ。
 そこで以下、シリーズ完結を記念し、『K-PUNK』の訳者のうち3名による特別座談会をお届けしよう。第2巻『自分の武器を選べ』で音楽パートの翻訳に参加したロンドン在住の髙橋勇人、『資本主義リアリズム』の訳者であり、今回第3巻『アシッド・コミュニズム』を担当したセバスチャン・ブロイと河南瑠莉──それぞれどのようにフィッシャーの著作と出会い、彼の文章のどこに惹かれ、いかにしてその思想を継承・発展しようとしているのだろうか。

マーク・フィッシャーとの出会い

なによりほかにはいないんですよね、こういう書き方をするひとは。社会的なポジションについて、イギリスに固有の音楽や文学、映画などの文化的、社会的状況に即して書きつづけている。(髙橋)

マーク・フィッシャーの『K-PUNK』日本語版が完結したということで、訳者のみなさんにいろいろお話をお伺いできればと思います。まずは、それぞれがマーク・フィッシャーの文章と出会ったきっかけから教えてください。

ブロイ:『n+1』というニューヨークに拠点をもつ文芸誌をよく読んでいるのですが、そこに『資本主義リアリズム』に触れた評論が載っていたのがきっかけだったように覚えています。実際に読んでみたら、ポストモダニズムの「後」の世界への展望、そしてクリティークの行き詰まりを冷徹に分析したその眼差しに惹かれました。

河南:わたしが彼の思想に初めて触れたのは2013年か14年で、ベルリンの大学院に通いはじめたころでした。その時点で彼の「資本主義リアリズム」ということばを聞いたことのないひとはあんまりいなくて、名前としてはみんな知っているというくらいの知名度がすでにありました。大学院で美学のコースをとっていたときに、「資本主義下における美学とはなにか」というようなことをディスカッションする機会がよくありました。当時は加速主義がトレンドだったこともあって、その文脈でよくフィッシャーが言及されていましたね。でもそのときはちゃんとは読んでいなくて。あるときセバスチャンが『資本主義リアリズム』を本気で読みはじめて、翻訳したいと。なぜ翻訳したくなったのか、おぼえていますか?

ブロイ:たしか2014年から15年にかけての冬、ふたりでクロイツベルクにいたとき、バーでビールを飲みながら『資本主義リアリズム』の話をして。「そういえばこの人、まだ邦訳がぜんぜん出ていないよね」というところから話が進んで、その後、とりあえず2章ほどサンプルとして翻訳し、出版社を探しながら「日本語訳に興味はありませんか?」ってマーク・フィッシャー本人にもメールを送ってみたんです。数日後に好意的な返事が戻ってきて、イギリスの出版社(Zer0 Books)の担当者につないでもらうことになりました。そこから彼とのやりとりがはじまりましたね。

髙橋:『資本主義リアリズム』の邦訳〔※堀之内出版〕が出たのは、原書が出てからけっこう時間が経ってからでしたよね〔※原著は2009年、邦訳は2018年〕。10年近く差がありますけど、訳すときに時間が経ってしまっていたことによる誤差のようなものは感じませんでしたか?

ブロイ:感じましたね。

河南:翻訳をはじめた時点で『資本主義リアリズム』の原書が出てから数年経っていましたし、ブログの「K-PUNK」での初出からは10年以上経っていた文章もあったと思うんです〔※『資本主義リアリズム』にはブログの「K-PUNK」の文章をもとにしたものも収録されている〕。ただ、セバスチャンが何度もフィッシャーに連絡をとっていて、その返事からコアの問題意識はいまだに変わっていないなという印象は受けました。もう終わってしまった過去の著作を日本に移植するのではなく、あくまで現代につうじる問題を著者のフィッシャーと共有しながら、べつの言語に訳している、という感覚がありましたね。ただ翻訳に時間がかかってしまって、紙として出たのは2018年の2月で、そのときにはいろいろ状況が変わってしまいましたが……

『資本主義リアリズム』のカヴァーは、なぜレディオヘッドのアートワークとおなじヴィジュアルだったんですか?

河南:よく聞かれるのですが、あれはレディオヘッドのアートワークにも使われたことのある連作のなかのひとつで、ロンドンの地図がモチーフの作品です。アーティストでありライターであるスタンリー・ダンウッドさんの作品と、フィッシャーの文章には、資本主義下のイギリス生活の奇妙さを捉えた部分が共通していると思い、セバスチャンがダンウッドさんに連絡をとったところ、向こうも好意的で、どんどん話が進んでいきました。

髙橋:ダンウッドがフィッシャーの読者だったというのはいい話ですね。(編集長の)野田さんはよく「マーク・フィッシャーは絶対レディオヘッドは好きじゃなかったでしょ」ってぼくに話していて。

編集部でもときどきその話は出ます(笑)。

髙橋:でもダンウッドさんがフィッシャーに賛同してくれたというのは、フィッシャーの本がほかのひとを刺戟して、それが具現化したということだから。

ブロイ:しかもダンウッドさんはこの作品を無料で使わせてくれたんですよ。きっと構想に納得してくれた部分があったんでしょうね。

河南:ダンウッドさんはレディオヘッドと密接に関わって仕事をしてきた一方で、あくまでひとりのグラフィック・アーティストでもあります。彼がひとりの作家としてフィッシャーの邦訳の企画に手を貸してくれたというのは重要なことだと思います。

髙橋くんが出会ったきっかけは?

髙橋:ぼくは実家が浜松なんですが、2009年に上京して、2010年に早稲田に入ります。その年に野中モモさんによるサイモン・レイノルズ『Rip it Up and Start Again』の翻訳も出て〔※『ポストパンク・ジェネレーション 1978-1984』、シンコーミュージック〕、そこからいろいろ調べるようになったんです。2010年前後って音楽的に面白い時期でしたよね。ジェイムズ・ブレイクジ・XXサブトラクトなど、イギリスからすばらしい音楽がたくさん出てきた。ぼくはUKのダンス・ミュージックが好きだったんですが、そこから掘り下げていくと、どんなひとでもかならず〈Hyperdub〉に行き着くんですよ。当時は日本でも〈ビート〉さんのおかげで日本盤が流通していましたし、雑誌を読んでいたらレーベル主宰者のコード9がどんな人間かもわかってきた。コード9だけ明らかにほかのミュージシャンとはちがうんです。DJをやる一方で哲学の博士号をもっていたり大学でも教えていたり。ちなみにそういったことは雑誌『remix』で知ったんですが、そのときコード9をインタヴューしていたのが野田さんでしたね。
 そうしていろいろ調べていくうちにCCRUを知り、ブログの「K-PUNK」も発見します。最初は正直、読みにくいウェブ・デザインだなと思っていました(笑)。でも書いてあることが面白かった。当時ぼくはベリアルが大好きだったんですけど、『わが人生の幽霊たち』に収録されている、彼のファースト・アルバム『Burial』(2006年)のレヴューも「K-PUNK」に載っていました。大学一年生といえば、ちょうどドゥルーズとかデリダとかの現代思想を読みはじめる時期じゃないですか。それで「K-PUNK」を読んで、「音楽を論じるのにデリダを使っているのか」と興味をもったのがはじまりでしたね。ちなみに2010年だから、もう『資本主義リアリズム』(の原書)は出ていたんですが、それを読むのはもうちょっと後になります。その後2011年、3・11があった年にぼくはグラスゴーに留学するんですが、当時行ったデモの現場で「capitalist realism」という単語を見かけたような記憶がありますね。そして日本に帰ってきて、ele-kingで働いていたときに、これまで読んできた現代思想を音楽や美術との関係でもっとしっかり読み深めてみようと思って、強くフィッシャーを意識するようになりました。『資本主義リアリズム』を読みはじめたのはそのときですね。

なるほど。髙橋くんはその後、今度はロンドンに渡るわけですが、フィッシャーと会ったことはあるんですか?

髙橋:ぼくがふたたび渡英したのは2016年でしたが、そのまえに野田さんから「お前はコジュウォ・エシュンを絶対に訳さなきゃダメだ」と言われていて、ちょうど訳しはじめていた時期だったんです。渡英後コジュウォ・エシュン本人とは話したりメールしたりしていたんですけど、フィッシャーとは直接やりとりする機会はありませんでした。ぼくが修士過程をやっていたのはゴールドスミスの社会学部なんですが、マーク・フィッシャーやコジュウォ・エシュンは視覚文化学部というところで教えていて。いちど教員室までコジュウォ・エシュンを尋ねたことがあって、そのときは不在だったんですが、マーク・フィッシャーとおなじ部屋でしたね。2017年の2月からふたりの授業を聴講する予定だったんですが、その1月にフィッシャーが亡くなってしまって。学部全体が戦慄していた感じでした。授業も休講になりましたし。ともあれ、エシュンやコード9とは会う機会もありましたので、ポストCCRUの交流関係はよく知っていると言えると思います。その後、ゴールドスミスの文化研究学部でぼくの博論の指導教官になったマシュー・フラーはフィッシャーの旧友で、彼が亡くなったときにはその家族を支援するためのクラウド・ファンディングを立ち上げていましたね。

ブロイさんはフィッシャーの講義を受けていたんですか?

ブロイ:ゴールドスミスには2015年にカンファレンスで行ったことはあるんですが、講義は受けていないですね。マークさんとはメールでやりとりはしていたんですけど、そのときはゴールドスミスには2日くらいしかいなくて、風邪を引いていたのもあって、会う機会がありませんでした。じつは、『資本主義リアリズム』刊行を機に、マーク・フィッシャーを日本に呼ぼうと思っていたんですよ。企画が完成したことを伝えられないまま決別となり、ほんとに残念でした。

河南:みんな出会った文脈が違うのが面白いですよね。髙橋さんは音楽からで、わたしは美術論からで、政治思想にかんする英米の雑誌をたくさん読んでいるセバスチャンはそうした左派的な文脈からで。その交差点にフィッシャーがいたっていうこと自体が、彼の仕事の広さを物語っています。
 わたしの場合は美術の文脈ですが、当時その文脈では、「なにをやっても資本にとりこまれてしまうんだったら、昔のアヴァンギャルドがやっていたような、外部を目指すとか、変わったことをやるっていう戦略(いわゆる侵犯)はもう通用しなくなるんじゃないか」というようなことが盛んに議論されていました。なにをやってもとりこまれてしまうことを専門用語で「包摂」というのですが、2015年ころまでは「資本の外部を目指すのが難しければ、それを逆手にとって、資本の内部から破壊すればいいんじゃないか」というような、左派加速主義的な考え方が一定の説得力をもっていた時期がありましたね。もちろん、フィッシャーを加速主義者だと言ってしまうと彼を矮小化してしまうことになりますので注意が必要ですが。

ブロイ:それまでみんながふわっと、ぼんやり感じていたような、「こういう手法がもう通用しない」ということが、フィッシャーのようなひとを通じて前景化して、よりはっきりしたことばになった、という感覚はありましたね。ぼくはアメリカ文学をよく読んでいたんですが、90年代以降のアメリカ文学史のなかでも、フィッシャーの議論と響き合うような考え方が浮上するようになりました。とりわけデイヴィッド・フォスター・ウォレスに代表される「新誠実」(New Sincerity)と呼ばれた現象はそうですね。1993年に書かれたエッセイのなかで彼は、それまでの文学におけるポストモダニズムの風潮、とくにアイロニーの支配的役割について鋭い考察をしました。「当初、偽善や固定観念を破壊する手段として機能していたアイロニーが、当時のTV文化のなかではすでに普遍化してしまったので、その有効性の大部分を失い、『反逆』からむしろ『共犯』へと変質してしまった」という議論を展開します。そして彼は、これからは状況が逆転し、真摯さや共感といった「自分の身を晒すもの」が再び出てくるようになり、そこにかつてアイロニーが果たしていたような解放的な力が宿るのではないか、という可能性をほのめかしています。このような「ポスト・アイロニー」の文脈のなかに、フィッシャーの批評的な論調をみてとることも可能でしょう。

マーク・フィッシャーの魅力

いろんな失敗をしながらも、そういう自分の変化を恐れずに露出していったところがあります。それが、ひとりの「思考する個人」としてどうあるべきかという姿の、ロールモデルになっているのではないかなと思います。(河南)

お三方はそれぞれ、マーク・フィッシャーのどういうところに惹かれますか?

髙橋:まず前提として、ぼくはイギリス在住ですが、日本人としてここで暮らすということは、エイリアンとして生きることを意味します。なので、もともとイギリス人であるフィッシャーとおなじ視点では語れません。あくまでそれを踏まえたうえでの話ですが、いまぼくが惹かれているのは、フィッシャーがイギリスにおける階級意識にもとづいて文章を書くところですね。イギリスの階級やその意識を理解するうえで、彼の文章は非常に参考になるというか。
 たとえば『K-PUNK』には、マンチェスター出身のバンド、ザ・フォールについての文章が入っていますよね〔※「クラーケンのメモレックス」、『自分の武器を選べ』所収〕。あれは完全にホラーと階級の話です。「ヴァンパイア城からの脱出」〔※『アシッド・コミュニズム』所収〕にも出てきますが、「労働者階級の出自をもつ者が社会のなかでどのようにして立ち位置を確保しなければならないか」とか、「どのようにして自分がいま属している社会的なもの・構造的なものにたいして自覚的になるか」というような話なんですね。フィッシャーはその例として、労働者階級に生まれながら知的なものに目覚めた自身を怪物として歌ったマーク・E・スミスについて書いている。そんなスミスの出自について、大衆的なホラー作家のM・R・ジェイムズなどを参照しながら書くというフィッシャーの姿勢は魅力的に感じます。なによりほかにはいないんですよね、こういう書き方をするひとは。社会的なポジションについて、イギリスに固有の音楽や文学、映画などの文化的、社会的状況に即して書きつづけている。イギリスの階級社会は日本とはやはり意識的な面で違っています。物質的な部分、たとえばアクセスできる技術だったりサーヴィスの面では日本とイギリスは似ているところも多いですが、社会構造のなかにいる自己のとらえ方にかんしては、イギリスと日本とでは何百光年も離れていますね。

ブロイ:共感できますね。

河南:わたしは、フィッシャーを読むようになって10年以上が経過するなかで、惹かれる部分も変わってきました。大学院生として初めてフィッシャーに触れたときは、そのシャープさ、理論的な精密さだったり、アグレッシヴで論争的な物言いに惹かれていました。でもいざ自分が働くようになって、ある意味フィッシャーと同じく、そしていま話しているこの3人ともそうだと思うんですが、高等教育機関で不安定雇用で働くようになると、理論のための理論ではなくて、理論と生活を媒介していくようなものが必要になってきます。

髙橋:100パーセント同意ですね。

河南:10数年前には面白いと思っていた「この対象について、理論を駆使して論破してやる!」みたいなことにはもうまったく魅力を感じなくなったんです。だからわたしは後期のフィッシャーにすごく惹かれるんですけれど、フィッシャー本人も自分の経験に応じて自分の見方を変えることを厭わなかった。思想家はつねにアップデートしてくので、特定のある時期に書いたものがすべてではないんです。すごく当たり前の話なんですが、でも読み手はそれを忘れがちです。「フーコーが○○年に書いたものがフーコーの思想だ」とか、そういうふうに考えてはいけない。フィッシャーも、大学院生としてCCRUにいたときと、いざ自分がイギリスの新自由主義下の雇用形態のなかで働きはじめて不安定労働者になってからとでは文体が変わっているように思います。ジャーゴンや記号を爆発させて読み手を圧倒させるような文体から徐々に離れていっていますよね。フィッシャーはインターネットで書いていたからこそ、いろんな失敗をしながらも、そういう自分の変化を恐れずに露出していったところがあります。それが、ひとりの「思考する個人」としてどうあるべきかという姿の、ロールモデルになっているのではないかなと思います。
 ただし、失敗もしながらですけどね。フィッシャーも「ヴァンパイア城からの脱出」でやらかしています。先ほど髙橋さんが階級の問題についておっしゃっていましたが、階級の問題に注目することは、同時に、ほかの問題に盲目的になることでもあります。そういう側面が「ヴァンパイア城からの脱出」のフィッシャーにあったことは否めない。でもフィッシャーはそれを自分で反省して観点を更新しつづけること、思想家として可塑的であることを亡くなる最後まで追求していた、そこが尊敬するところですね。ただ、追求しすぎて槍が自分に戻ってきてしまった面もあるとは思うんですが。

ブロイ:おふたりの話と響きあうところもあると思うんですが、ぼくの場合は、フィッシャーを読む以前にまず、アドルノやベンヤミンのようなマルクス主義の哲学や思想をたくさん読んでいました。そういう経路からフィッシャーに出会って、10年ちょっと前に初めて『資本主義リアリズム』を読んだときに親近感をおぼえたのは、20代後半のいち生活者の知的な関心と通じるものがあったからです。「この著者は自分と似たような目線で世界を見ているんだな」と。その目線には深い洞察力があって、一見平凡だったりささやかに見えるものをより大きな理論的なトピックまでつなげていく才能がありました。それは彼のひとつの魅力だと思います。
 もうひとつの魅力は、マルクス主義の理論には、レイモンド・ウィリアムズやアドルノのように、日常生活に焦点を当てた考察のそれなりに長い伝統があるんですが、そこにフィッシャーの先例を見ることもできます。資本主義下における日常生活をイデオロギーや意識の観点から分析したアドルノの『ミニマ・モラリア』なんかはまさにそうですね。他方で、フィッシャーにはそうしたマルクス主義の系統とは一線を画すところもあります。生きられた経験を重視しながら、エリート主義的な「硬さ」にはとらわれず、大衆性やユーモア、普通のものにたいする愛を感じさせるところです。いわば、大学教授の立場からではなく、むしろぼくたちのような普通のひと、ジャンクやポピュラーなものと共存しながら生きる不安定労働者とおなじ目線や経験から書かれた『ミニマ・モラリア』ですね。

髙橋:たしかにそこはほかにいないかもしれませんね。日本にもあまり似た書き手はいないですよね。國分功一郎さんは少し似ているのかなと思いましたけどね。アプローチは違いますが、ふたりともスピノザについて考えていたり、共通点もあるんですよね。哲学と文化、社会的事例をリンクさせて、社会的状況のなかにおける自分からものごとを考えたり、「自然」とされているものを疑い、人間の精神状況を条件づけるものをとりまく社会に見出したり。これは書く視点が生活のなかから生じるような、書き手の「高さ」の問題です。ぼくはフィッシャーと國分さんの文章をパラレルに読んでいたおぼえがあります。

ブロイ:フィッシャーを読んでいると、その書き方や姿勢に勇気をもらっているような感覚がありましたね。『資本主義リアリズム』の翻訳が出たときに、「話が深刻すぎて落ち込んだ」というような感想も見られたんですが(笑)、ぼくは読んで勇気をもらいましたよ。弱さ、葛藤や矛盾を隠すことなく、現代社会の問題と向き合いながら、それでも希望を探りつづけるという知的な態度に勇気づけられるんです。理想論であるとか、ナイーヴだとか、この種の批判を恐れないどころか、それを引き受ける覚悟さえ示しているのです。このような姿勢が、読者にも政治的思考と表現への勇気を与えるものだと思います。

髙橋:すべての文章がそうというわけではないですが、読者を感動させるのが上手だなとは思いますね。

河南:書き方でいうと、フィッシャーの文章を訳すのはすごく難しくないですか(笑)?

髙橋:音楽パート、大変でしたよ。さっきのザ・フォールの文章は、歌詞が感覚的でかなり難解なので、それにたいするフィッシャーの批評も、難解にならざるをえなかったというか。

河南:学術論文は平坦だから訳すのはある意味では簡単なんです。でもフィッシャーは技巧的であったり、洒落っけがあったりして難しい。

髙橋:ぼくが『K-PUNK』の音楽パートを訳したのは、ちょうど自分の博論を出し終えたタイミングでした。フィッシャーも最初に書いていましたよね、苦行を強いられた博論のリハビリとして「K-PUNK」をはじめたと。同じように、ぼくの頭も博論後でクレイジーになりつつの作業だったので、翻訳が修行のように感じられたときもありました(笑)。でも、彼の学術的なトピックにかんする記述がもつ独自の平易さには救われる思いもしましたね。

ブロイ:とくに音楽の「情景」にまつわるくだりがほんとうに難しいです。形容詞、メタファーの使い方であったり、一文がすごく長かったり。

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『K-PUNK』でいちばん好きな文章

「この著者は自分と似たような目線で世界を見ているんだな」と。その目線には深い洞察力があって、一見平凡だったりささやかに見えるものをより大きな理論的なトピックまでつなげていく才能がありました。(ブロイ)

『K-PUNK』のなかでみなさんがいちばん好きなフィッシャーの文章を教えてください。

髙橋:ぼくは、フィッシャーが音楽を論じるとき、テクスチャーのような「モノ」の側面に着目して論じるのがうまいと思っています。たとえば『わが人生の幽霊たち』でいえば、ベリアルやザ・ケアテイカーの音楽にあるレコードのクラックル・ノイズに注目して論じていましたよね。そのアイディアは『K-PUNK』にもあります。今回訳していて、またリアルタイムで読んでいたときもいちばん好きだったのは、DJラシャドの『Double Cup』(2013年)についての文章〔※「ブレイク・イット・ダウン」、『自分の武器を選べ』所収〕です。そこで論じられているのは、フットワークというとても速い音楽、BPMが160~170ある音楽です。そのリズムのぎこちなさについて、当時ネットで流行っていたGIFアニメのぎこちなさとつなげて論じていて、批評のしかたとして面白いと思いました。たとえば、ラシャドは「アイ・ラヴ・ユー、アイ・ラヴ・ユー、アラヴユアラヴユアラヴユアラヴユ」みたいな感じで、だれのものかもわからない声をぶつ切りにしてカットアップしているんですが、それをウィリアム・バロウズの『爆発した切符』におけるカットアップと接合するところも興味深い。そういうふうにリズムや音の「モノ」的なところに着目するところが魅力的です。
 さらにいえば、そのカットアップから、どこから来たのかわからないけれど愛がそこに存在している、その叙情性みたいなものについても論じていて。ダンス・ミュージックを論じるときに、愛の観点から書くひとってあまりいなかったというか、むしろ避けられていた気がするんです。フィッシャーは『奇妙なものとぞっとするもの』でも映画『インターステラー』について愛の観点から書いていましたけど、彼はそういうちょっとクサいかもしれない視点から、通常ことばの表現からは遠いと思われているダンス・ミュージックを、ことばが持つマジックみたいなものとつなげて語っている。

ブロイ:ぼくは、やはり3巻目の『アシッド・コミュニズム』を担当した身としては、「アシッド・コミュニズム」〔※『アシッド・コミュニズム』所収〕と「ヴァンパイア城からの脱出」が目玉かなと思います。

河南:やはりそのふたつですね。

ブロイ:「No Future 2012」〔※『アシッド・コミュニズム』所収〕も好きですよ。シチュアシオニスト的な散歩の話が民族誌学的に書かれていて、風景論として面白いです。資本主義の仕組みとともに描かれる風景が変化していくんですが、そのなかには写真論も音楽論も織り込まれていて、フィッシャーの多元性がよくあらわれている文章だと思いました。

河南:「ヴァンパイア城からの脱出」は、それ自体が好きというよりも、「ヴァンパイア城からの脱出」から「アシッド・コミュニズム」へと向かうその過程が好きですね。だからセットです。「アシッド・コミュニズム」には、先ほど髙橋さんがおっしゃっていた愛の話であったり、セバスチャンが言っていたような、これまでの左派的な文章にはなかった解放感があったりします。それは、欲望の肯定について、抑圧の否定について正面から書いているからです。それまでの左派的な言説は、「資本主義の抑圧がひどいのでわたしは傷ついている」「われわれはどれほど傷を負ってきたか」というような話に始終する傾向がありました。左派的な資本主義批判にとって、資本主義は欲望を助長させるものだから、欲望の肯定はタブーだったんです。フィッシャーは、そんなふうに欲望を否定する左派には限界があるということを、ポップ・カルチャーの再評価やマルクーゼへの言及などの理論的なフレームワークのなかで論じていく。もちろん、そのまま過去のカウンター・カルチャーへ戻ることもできないということもわかったうえで、ではいま、どういう条件で欲望を再肯定して新しいコミュニティをつくることができるのか、ということを書いています。なので、ひとつだけ選ぶなら「アシッド・コミュニズム」ですね。

ブロイ:「ヴァンパイア城の脱出」は、じつは読んだときけっこう笑っちゃったんですよね。

髙橋:わかります。ぼくも笑いました。ツイッター上だけで批判した気になっているネオ・アナーキストのくだりとか、自分の周りにもこういうやつ本当にいるなって思いました(笑)。

ブロイ:論争としての力があるテキストだと思うんですよね。「アシッド・コミュニズム」では「不思議の国のアリス」の映画化の話が出てきますが、資本主義社会で暮らす大人のぎくしゃくした行動や怒りが不思議なものとして描かれている。アリスの視点、子どもの視点から観たらおかしなものなのに、という書き方で、そういうところも読んでいて面白かったですね。

イギリスやドイツでのマーク・フィッシャーの位置づけ

どこから来たのかわからないけれど愛がそこに存在している、その叙情性みたいなものについても論じていて。ダンス・ミュージックを論じるときに、愛の観点から書くひとってあまりいなかったというか、むしろ避けられていた気がするんです。(髙橋)

本国イギリスではフィッシャーはどのように受容されているんでしょうか?

髙橋:彼が亡くなるまえから「資本主義リアリズム」ということばはよく使われていましたし、亡くなってからも大学や書店などでメモリアル・イベントがありましたし、大学で学生がなにか書くときにフィッシャーを引用することは一般化していると思います。ただぼくが注目したいのは、フィッシャーが文章を書いていただけではなくて、出版社を立ち上げて、書店の空気を換えようとしていたところです。イギリスで本屋に行くと、いわゆる社会批評やアカデミック系のテーマがポップに語られている本がわりと普通に置いてあるんですね。日本でも紀伊國屋の規模ならそうかもしれないですが、イギリスだと小さめの書店でもそうだったりする。それはおそらく、フィッシャーが00年代に〈Repeater〉をはじめたころから盛んになってきたのではないかと思います。もちろん、学術書のコーナーに行けば昔からあったんですけど、いわゆる一般書のコーナーにそういう本があったりして、明らかに書店の空気が変わりました。フィッシャーがそういう「ポップ・カルチャーと知」のインフラをつくった面は重要だと思いますね。

先日ガリアーノがインタヴューでフィッシャーの話をしていて驚いたんですが、そんなふうにミュージシャンのあいだでもけっこう浸透しているんですか?

髙橋:「資本主義リアリズム」ということば自体がウケがいいし、ほかにもフィッシャーのことばはインターネット・ミームになっていたりもしますので、かならずしも大学のなかで知ったわけではなく、そういうところからフィッシャーを知ったひとも多いような気はします。そういうレヴェルでは浸透はしているといえるんですが、かならずしもそういうひとたちがフィッシャーを完全に理解しているわけではないと思いますね。おそらく本を理論的な文脈を踏まえてしっかり読んでいるわけでもないでしょうし。でもやっぱり、平易なことばで社会について語るという意味では、すごく重要な仕事をしたひとだろうと思います。

なるほど。ベルリンではどういう状況でしょうか?

ブロイ:髙橋さんのインフラづくりの話でいうと、フィッシャー自身も『K-PUNK』のなかで、自分が育ってきた知的な環境としての雑誌がもうほとんどなくなってしまったという状況について述べています。それを新しくつくらないと、次の世代の批評家やキュレイター、音楽家などが育たないのではないかという問題意識が彼のなかにはあったと思います。ドイツでも左派的な雑誌や音楽誌といったそういうインフラは一応はあって、文化施設などもあるんですが、フィッシャーはそうした制度的な文脈で受容されているような気がしますね。やはりベルリンは文化の中心で、フィッシャーのドイツ語訳を出した複数の出版社もベルリンの、クロイツベルクにあります。たとえばアメリカの社会主義系の雑誌『ジャコビン(Jacobin)』のドイツ語版を出しているブリュメール社(Brumaire Verlag)がそうですね。『ポスト資本主義の欲望』〔※原著2020年、邦訳は大橋完太郎訳、左右社、2022年〕のドイツ語版もそこから出ているんです。ただ、とくにドイツに限らずヨーロッパ全域というか、フィッシャー自身が分析していた対象がそうであるように、フィッシャーもグローバルに読まれていると思います。逆にいうと、ドイツ文化圏ならではの特徴的な読まれ方がそれほどないとも言えるんですが。

河南:ドイツでフィッシャーがどう受容されているかざっくり挙げてみると、たとえばベルリンの芸術祭「トランスメディアーレ」でワークショップが開かれたり、美術センターの「世界文化の家(HKW)」でカンファレンスが開かれたり、本が出るたびに書店イベントがあったり、そういうことはあるんですけれども、英語圏とのタイムラグがそれほどないからか、ドイツでとくに特別な受容のされ方をしているという感じはしませんね。ただ、ベルリンのローカルな、クロイツベルクの出版社がフィッシャーの本や翻訳を出していることは特別なことかもしれません。ドイツにはローザ・ルクセンブルク財団のような昔ながらのオーソドックスな左派系の言論空間がありますが、そこからも受容されつつ、かつ『ジャコビン』のような新世代のプログレッシヴな左派にも受容されているというのは、世代間を繋ぐという意味で重要なことだと思います。
 なので、フィッシャーはベルリンでも知名度の高い存在ではありますが、ちゃんと読まれているかというとべつです。以前『アシッド・コミュニズム』のカンファレンスがあったんですが、いまドイツの社会の関心はどうコミュニティをつくるかということにあり、その一環としてカウンター・カルチャーを振り返るということがありましたが、フィッシャーが言っていたような左派的な言論空間に階級の問題が欠落しているという問題意識は、話題としては机上にのぼりはしても、ベルリンのインフラのなかで本質的に考え直すというレヴェルにまではいっていない。ベルリンはもともと貧しい都市で、クロイツベルクも豊かなエリアだったわけではないんですが、そこにさまざまな国際的な資本を呼び込んで、飛行機代もホテル代も出すかたちでゲストを呼んでカンファレンスをやって、いざ「コミュニティをつくろう」というのは、もしフィッシャーが生きていたら、どう思っただろうというのは脳裏をよぎりますね。だから、話題として言及はされるけれど、彼の思想を受け止めて引き継ぐようなひとや機関はまだ出てきてはいないなという印象ですね。

ブロイ:そういえば、どこが拠点かはわかりませんが、「アシッド・コミュニズム」の話につながるような、「プランC」という草の根的なアクティヴィスト・グループがありましたね。フィッシャーはそのグループのイベントに定期的に参加し、文を寄せたこともあるようです。また、憑在論をテーマにした音楽フェスもありました。ポーランドのクラクフで催されたアンサウンド・フェスティヴァルがフィッシャーのシンポジウムもやりつつ、サウンド・アーティストを呼んでいたのは知っています。

髙橋:マーク・フィッシャー・リーディング・グループですね。

音楽批評家としてのマーク・フィッシャー

フィッシャーがネオリベラリズムをただの経済システムとしてではなく、ある種の精神構造として分析したことは、意義のあることだったのではないかと思います。(ブロイ)

音楽批評家としてのマーク・フィッシャーについてはどう思いますか? フィッシャーは音楽という対象からこれほどいろんなことを考えられるんだぞという、ひとつの可能性を示した書き手だと思いますが、それにかんして思うところを語っていただきたいです。

髙橋:ある意味では、フィッシャーがやったことはかならずしも新しいわけではないと思うんです。たとえば少し前にDJ Fulltonoさんがフットワークを論じたエッセイが話題になりましたけど、そのなかで「フットワークのサウンドというのは書道における楷書体みたいなものだ」というような話をしていました。そういうふうに音をモノとしてとらえて論じること自体はけっこう昔からあります。フィッシャーの書き方も、彼自身が創始したというよりはCCRUのなかで衝動的に生まれたものです。彼のよさは、それを政治社会的な文脈のなかでモノをとらえなおすというところにあると思います。だから、フィッシャーは書き方それ自体にオリジナリティがあったのではなくて、展開の仕方にオリジナリティがあった書き手だと思いますね。
 もうひとつ思うのは、フィッシャーが音楽について書いていたときに、音楽そのものが社会で担っていた意味だったり、ミュージシャンがやろうとしていたこと・現にやっていたことが、いまだと変わってきていることです。〈Hyperdub〉周辺のアーティスト、ディーン・ブラントについて、多くのライターたちが批評を書いていますが、そこでもフィッシャーはしばしば言及されてきました。そんなブラントは、最近、マティ・ディオップという監督の『ダホメ』というドキュメンタリー映画の音楽を担当しています。現在アフリカのベナンのあるところに昔はダホメ王国という国がありました。フランスの植民地だったので、当時のダホメのアートは現在フランスが所有しているんですが、それを返還する話なんです。映画に限らず、現代アートにおいてポスト植民地主義はここずっと重要なトピックですが、そういう理論的な文脈で、アンダーグラウンドから生まれたポップ・カルチャーが機能している。かつて理論的、批評的に分析されていた音楽家が、みずからそういう文脈を生み出すようなプロジェクトに参加しているんです。
 そんなふうに、音楽のあり方そのものがこの10年20年でいい意味で変わったと思います。フィシャーは『K-PUNK』の最初に、90年代のジャングルはそれについて論じなくてもすでに理論的だった、と示唆的な言葉を残しています。音楽が理論的な側面をもっているというのが当たり前になった時代で、ライターたちは批評していかなきゃいけないわけです。だから、その方向性で活動する音楽ライターは、たんに理論や知識を応用するだけじゃなくて、音楽がすでにもっている理論的な部分を他の領域に展開していく必要があると思いますね。フィッシャーはポスト植民地主義的なことや、エコロジーなど近年の重要なトピックを重点的に書いていたわけではないので、彼の示したスタイルが、彼があまり書いてこなかった領域でどう展開していくかも気になります。

ジャーナリズムの話をすると、今年2月にコード9が来日したときに、UKではジャーナリズムの質の低下がひどいという話をしていました

髙橋:ジャーナリズム的な観点でいえば、イギリスの音楽メディアは10年くらい前に比べると、スポンサーの存在がどんどん前に出てきています。媒体も批評よりインタヴューが中心になっていっていますね。かならずしも悪いことだとは言えないと思いますが。

ブロイ:ジャーナリズムの生産条件が変わったと思いますね。ぼくの学生のなかで、そういうマスメディア系の仕事に関わっているひともいるんですが、その業界での記事の作成なんかは、もう基本的にChat GPTのようなAIモデルをとおして生成されることが常識だそうです(笑)。AIを導入して「出力」の速度はアップするんですが、そのぶん、思考のクオリティがアップするわけではないでしょう。

髙橋:なるほど(笑)。いずれにしても、ぼくはいま、フィッシャーが書いてこなかったことに興味があります。彼の書いてきたことをもっと抽象化してべつの文脈に落とし込んだりすることに関心がありますね。さっきの理論的なことだけではなく、そういった技術文化についても音楽の側から書けることはもっとあるかもしれません。いま、音楽家だってAIを使っているし(笑)。

河南:フィッシャーはフェミニズムやポスト植民地主義について、最後の講義で少し触れてはいるんですが、本格的に文章にするまえに亡くなってしまった。未完の書き手なんですね。彼が書いてこなかったことはたくさんあると思いますし、それはそれぞれの立場から補っていく必要があると思います。先ほど髙橋さんがおっしゃっていたように、彼は「外国人」として生きた経験はほとんどもっていないでしょうし、イギリス人であり白人男性異性愛者としての経験からしか書くことができなかった。本人もそれは認めている。でもだからといって「なんで書いていないんだ!」と責めるのではなく、彼の議論を引き受けてほかのものに接続していくような作業がこれから必要なんじゃないかなと思います。異邦人として暮らしている髙橋さんの視点は、フィッシャーは永遠にもつことができない目線ですから。

髙橋:そこはまさにそう思います。音楽から広がる可能性についていうと、逆に考えれば、フィッシャーの思想や存在が音楽だけには収まりきらなかったということですよね。

映画も文学もすごく論じていますよね。

髙橋:音楽だけに絞っても、テクノロジーの話からは逃れられないし、政治や階級の問題からも逃れられない。そういうことを彼は人生をもって証明したのではないでしょうか。そこで書いてあることの接続可能性のようなことをべつの文脈にどんどん応用していくのが、いまのライターたちの役目なのではないかなと思います。

ブロイ:ちなみに、ぼくは音楽批評家ではないんですが、じつは音楽をやっているアマチュアではあるんですね。

髙橋:えっ! そうなんですか!?

ブロイ:音楽をめぐって、モノとして考える重要性はいろいろあると思います。テクスチャーなどにたいする感性という意味でもそうだし、ベンヤミンが言っていたような意味でのメディアの生産条件、つまり音楽の場合、それを制作するのに必要な条件に目を向ける視点の必要性という点でもそうです。フィッシャーがドラムンベースの話を書くとき、それが未来へのショックだったという話は非常に面白かった〔※『わが人生の幽霊たち』〕。当時のひとたちにとって、ギザギザに切りとられたサンプルや人間の手では演奏できないような高速度のドラム・パターンはまるでエイリアンなもので未来的なもののように感じられたけれど、あの時代に出てきた技術のあとに、音楽の生産条件はどれくらい変化したのだろう、と考えることがありますね。こんにちでは基本的にみんなDAWを使うわけですが、そのような音楽制作技術(たとえばDAWの発展やMIDIの歴史から考えた音楽表現の変化など)を軸に置いた音楽批評、つまり様式を支えるマテリアルな条件への視点も必要だと思いますね。

髙橋:ぼくはそういうことも研究しています(笑)。そうした点についてフィッシャーが言及していたかというと、あまりやっていないですよね。書いてはいるけれど、つくり手の視点、当事者の視点はなかったような気がします。それはほかのひとが引き継いで書けばいいことだとは思いますが。

いまマーク・フィッシャーを読むことの重要性

読んでいるだけで楽しいんですが、残された読み手にとってたいせつなのは、そうしたキャッチワードで遊ぶだけではなくて、それらを自分の実際の生活のなかで理解し直すことだと思います。(河南)

では最後に、いまマーク・フィッシャーを読むことの重要性についてお伺いします。

ブロイ:彼の読み方は、すごく開かれていると思います。彼の思想自体もオープンエンドで、未完で終わったものだから。思想史的に振り返るにはまだちょっと早いという気もしますが、仮にそういう視点で眺めてみたとしたら、それまでにあった資本主義にたいする考え方がフィッシャーという思想家を経由したことでどうシフトしたのかを考えることでヒントは得られると思います。たとえば、フィッシャーがネオリベラリズムをただの経済システムとしてではなく、ある種の精神構造として分析したことは、意義のあることだったのではないかと思います。あるいは現代社会の精神構造を「リアリズム」と名づけたこと、それ自体が重要な貢献だったとも思いますね。名づけるだけで変わることもありますから。

髙橋:名づけるだけで変わるという考え方は重要ですね。

とらえ方が変わりますからね。

髙橋:先ほどブロイさんがジャングル~ドラムンベースのエイリアン性の話をされていましが、なぜエイリアンだったのか。それも名づけることだと思います。名づけ親としてエラそうにしていないのも大事なポイントですが。

ブロイ:名づけることで問題の観点をずらしたことは彼の功績だと思いますね。フィッシャーがつくった概念は、通常はつながりが見えないもの同士だったり断片化されていたりする経験を、ひとつにまとめて組織化するための手がかりですよね。だからキャッチーで面白い概念であればあるほどよくて。そうして、みんながもっているばらばらの経験が、ひとつの、いわば星座のなかで見えるようになってくる。じっさい、左派的な批評の対象がこの10年、15年で少し変わってきた印象があります。メンタルヘルスの問題を視野においたもの、または資本主義「以降」のヴィジョンを再び考えるような論者が増えてきたのではないでしょうか。それはもちろんフィッシャーひとりだけの影響ではないですが、でも彼もそのなかでひとつの貢献をしたと言えます。

河南:フィッシャーはけっこう遊び心があって、いろんなネーミングをしていますよね。「資本主義リアリズム」もそうですが、「再帰的無能感」とか「リビドー的快楽」とか「ビジネス・オントロジー」とか。「アシッド・コミュニズム」もそのひとつです。半分ジョークだけど、でも半分は本気。そういう概念がこれからもっと一般化されてくると思います。そういう意味では読んでいるだけで楽しいんですが、残された読み手にとってたいせつなのは、そうしたキャッチワードで遊ぶだけではなくて、それらを自分の実際の生活のなかで理解し直すことだと思います。「資本主義リアリズムの時代だから、もうなにをやってもダメだ」って諦めるような、ただ浅い理解をするだけではダメで。「アシッド・コミュニズム」も、「快楽主義で新しいコミュニティをつくればいいじゃん」っていう表面的な理解に留まっていてはダメなわけですよね。フィッシャーのつくった概念が標語としてポピュラーになるにつれて、それがもともともっていたメッセージ性が忘れられがちだと思う。読み手としてはつねに自分のなかで彼の思想をどう活かすかというのを考えていかないといけない。だからこそ、『K-PUNK』という彼の原点に立ち返って読むことはたいせつだと思います。

 マーク・フィッシャーの集大成たる『K-PUNK』には、上記で触れられているような哲学的・社会的なテーマやダンス・ミュージックの話以外にも、じつに多くの文章が収められている。SFなどの大衆文学や映画を論じる『夢想のメソッド』は、たとえばバラーディアンが読めばまた違った感想が出てくるだろうし、『自分の武器を選べ』からは、たとえば新しいロキシー・ミュージック像が浮かび上がってきたりもする。まずは読者おのおのの関心から気になった巻を手にとっていただければ幸いだ。
 最後に、エレキング編集部を代表して、『夢想のメソッド』と『自分の武器を選べ』で翻訳を担当してくださった坂本麻里子さんに感謝の念をお伝えしておきたい。これら2巻は、イギリスの社会や生々しい政治家の言動、大衆文化や風俗に精通した氏のこまかな訳注をはじめ多大なる助言と協力がなければ世に出ることはなかっただろう(なお、五井健太郎は連絡されたし)。

(聞き手・構成:小林拓音)

K-PUNK 夢想のメソッド──本・映画・ドラマ
マーク・フィッシャー(著) ダレン・アンブローズ(編)
サイモン・レイノルズ(序文)
坂本麻里子+髙橋勇人(訳)
https://www.ele-king.net/books/009508/

K-PUNK 自分の武器を選べ──音楽・政治
マーク・フィッシャー(著) ダレン・アンブローズ(編)
坂本麻里子+髙橋勇人+五井健太郎(訳)
https://www.ele-king.net/books/011401/

K-PUNK アシッド・コミュニズム──思索・未来への路線図
マーク・フィッシャー(著) ダレン・アンブローズ(編)
セバスチャン・ブロイ+河南瑠莉(訳)
https://www.ele-king.net/books/011511/

わが人生の幽霊たち──うつ病、憑在論、失われた未来
マーク・フィッシャー(著)
五井健太郎(訳)
https://www.ele-king.net/books/006696/

奇妙なものとぞっとするもの──小説・映画・音楽、文化論集
マーク・フィッシャー(著)
五井健太郎(訳)
https://www.ele-king.net/books/008958/

The Cure - ele-king

 16年という歳月は、少なく見積もっても16通りの可能性と熟考を伴う16の人生を反映した期間だ。しかしながらこの16年間、ザ・キュアーからの言葉は一切なかった。ザ・キュアーの最後のリリースから16年が経過したというのは、控えめに言っても驚くべきことだ。これほど多作なバンドが、ただ消えてしまったのだ。実際には、彼らは断続的にツアーを行い、Instagramのアカウントを維持するなど、なんらかの発信はあった。しかし、それでもなお、どこか意図的に現実から切り離されていた。
 ザ・キュアーの「多くの現実」は、『Wish』から2008年までのリリースがどこか断片的で、かつての激しさを失っていたことが私に少なからぬ不安を与えていた。彼らのデビュー・アルバム『Three Imaginary Boys』(1979)における軽快で鋭いポップ・サウンドを思えば、その期間のキュアーが「憂鬱のゴスキング」としての最終的な戴冠へと向かっているようには思えなかったし、いまふたたび80年代半ばの明るく軽快なポップ路線へ転向するとも、あるいは、ゴシック・サイケデリアへと見事な弧を描きつつ大人びたサウンドにいくようにも思えなかった。

 そんな私がある寒い静かな夜、外の寒さをしのぐために立ち寄ったタワーレコードで偶然新作を見つけたときに覚えた不安をお察しいただきたい。白黒で不明瞭な、控えめで魅力的とは言い難いアートワークには、バンド名さえ自信なさげだ。それは喜びではなく、私に戸惑いを引き起こした。最初の30秒を聴いても歌がなく、1分経っても、2分経ってもヴォーカルが現れない。レトロでシンプルなシンセサウンドも最初は火花を散らすような魅力は感じられなかった。だが、不思議なことに私はそれを聴くのをやめられなかった。各楽器はじょじょに感情を重ねていき、やがて魔法のように濃厚なスープのようなサウンドが私を捕らえて離さなかった。そして3分20秒後、ロバート・スミスの変わらぬ声がフェイドインすると、1997年から2024年までの弧がおのずと架けられたのだった。

 『Songs of a Lost World』は、私が今年もっとも強く愛着を感じた、もっとも暗く、悲しく、それでいて抗えないほど聴きたくなるアルバムだ。そのリリースは一見すると目立たない一過性の出来事のように見えるが、不安定な世界、トランプ大統領の再登場、喜びとシリア解放への不安定な期待、さらには韓国の驚くべき混乱という状況下においては、なんともその存在感がしっくりくる。スミスは、このアルバムがそんな「タイムカプセル的瞬間」になるとは意図していなかったのだろうが、宇宙に間違いはない。いまこそ人びとはザ・キュアーを必要とし、その必要性は際立っている。スミス自身、シングルらしくないスローテンポの“Alone”が英国のラジオ局で頻繁に流れていることに驚いているではないか。

 エモが誕生する以前のエモ、固定観念の市場において多面的な存在感を放つザ・キュアーは、可愛らしく踊れるポップ・ソングを送り出したかと思えば暗く荒涼とした英国ゴシックへと逆戻りし、感情、愛の危うさ、そして究極的には死の未知なる本質について、荒々しく論じている。
 『Songs of a Lost World』、とくに“Alone”と“Warsong”を聴くと、サイケデリック期の“Burn”を思い出さずにいられない。苦痛に満ちた感情表現と音響的な魅力において、ザ・キュアーはその不在期間中、自らの最良の要素を見直し、それらを集約して最高のものを絞り出したのだ。
 それは単なる作曲だけでなく、バンドのソウルとエモーションに根ざしたものだった。各楽器は録音上でクリアに響き、バンド全体がまるでポップ・ジャズ・バンドのように一体化して機能している。コーラス部分もぎこちなくなく、むしろ強烈で、新規リスナーも古参ファンも歌いたくなるような誘引力がある。この新しいアルバムは彼らのディスコグラフィーに自然に溶け込みつつ、しかし過去の作品のいくつかを凌駕している。

 2020年代は、新しい形でのゴシックが再興した。だからこそ、ザ・キュアーの復活は奇妙にも筋が通っている。運命に間違いがないと信じるならなおさらだ。人びとはいまザ・キュアーを必要としている。『Songs of a Lost World』は、1992年以来初めてビルボード・チャートの数々で1位を獲得した。それは正気の沙汰ではないが、同時にザ・キュアーの音楽がいかに普遍的であるかを物語ってもいるのだ。


16 years reflects 16 lifetimes with at least 16 possible outcomes and ruminations and yet not a word from the Cure. For it to be literally 16 years since the last Cure release is jaw-dropping to say the least. For such a prolific band to just. . .disappear. In reality, they were touring on and off while maintaining an Instagram account among other transmissions. But still somewhat intentionally disconnected from our reality.

The many realities of the Cure has previously created a bit of anxiety for me as the later releases after “Wish” before 2008 were slightly fragmented without the previous coherence and intensity. Peering back at their very first album of flat, agile, angular pop “Three Imaginary Boys,” it would never seem to point toward their eventual crowning as goth kings of sadness and gloom. Nor their coin toss change to bright skippity pop in the mid 80’s. Then their amazing arc to goth psychedelia which would end up truly defining their most adult sound.

So you would have to forgive me my acute anxiety finding their record in tower records purely by accident one quiet cold night while I sought to keep warm from the outside. The unassuming unappealing artwork of unintelligible black and white with even their name somewhat obscured didn’t spark a jump for joy. I reluctantly listened to the 1st 30 seconds with no vocals and then 1 minute with no vocals and then 2 minutes with no vocals with very retro simple synth not creating a spark but i couldn’t stop listening as the band steadily layered more emotions through each instrument creating a thick

soup of magic which refused to let me go. After 3 minutes 20 seconds, Robert Smith’s vocals came fading in and his voice, unchanged, naturally bridged an arc between 1997 and 2024.

“Songs of a Lost World” Is the most bleak, sad but irresistibly listenable record I’ve ever felt so attached to this year. It’s release seems by untrained eyes a blip, an outlier in this incongruent year but feels just so right with a dark unbalanced world, the incoming Trump presidency, joy but uncertain apprehension towards the Syrian liberation, and the surprise instability for South Korea. Smith never meant for the record to be such a time capsule moment but the universe makes no mistakes. People need the Cure and they really need it now. Smith himself felt the surprise of “Alone,” an incredibly un”single”-like slow song being in high rotation on UK radio stations.

Emo before emo, versatile in a un-versatile market, the Cure is a multi-faced burst of energy that squeaks out cute danceable pop songs and then reverses backwards to dark, stark English goth, and stormy dissertations on pure emotion, fraught love, and ultimately the unknown nature of death.

Listening to “Songs of a Lost World” and especially “Alone” and “Warsong” reminded me immediately of “Burn” from their psychedelic period. Torturous and emotional lyrically and sonically, I feel that The Cure took a look during their absence, at their best attributes, collected

them and squeezed out the best. Not just with songwriting but primarily with feeling and with the soul of the band. Each instrument in the band on record is crystal clear with the band itself united like a motor. Almost like a pop jazz band. The choruses aren`t awkward but intense and inviting to sing for anyone new or old. The new album sits snuggly in their discography without sticking out and actually towers some of their other work. The 2020`s have seen a renewal of goth, in a new way of course. So it does strangely make sense that the Cure have returned, especially if we choose to believe that fate doesn`t make mistakes. The people need The Cure and it shows. “Songs of a Lost World” has gained the number 1 spot on numerous Billboard charts, their 1st in 1992. That is quite insane but also speaks to the universality of The Cure sound.

Albert Karch & Gareth Quinn Redmond - ele-king

 ピアノ、電子音、打楽器。それらが織りなす静寂な音楽・音響空間、もしくはアンビエント・スペース。本作『Warszawa』を簡単に言い表すとそういう作品になるだろう。最初に断言してしまうが静謐な音響作品を好む方なら本作は間違いなく気に入るはずだ。

 『Warszawa』は、ポーランドのプロデューサー、 マルチ・インストゥルメンタリスト、サウンド・エンジニアのアルベルト・カルフとアイルランドのアンビエント・アーティストのガレス・クイン・レドモンドのふたりによって制作された。
 ガレス・クイン・レドモンドはアンビエント・アーティストとしても2019年の『Laistigh Den Ghleo』以来、〈WRWTFWW〉の中心的アーティストとして活動を繰り広げてきた。彼は、日本の伝説的な環境音楽家・芦川聡の研究家としても知られている。一方、アルベルト・カルフは青葉市子との共演経験もあるエンジニアにして音楽家だ。
 その意味でふたりとも日本の音楽家に近しいともいえる。何より「静寂」への意識が日本の環境音楽に近いともいえる。本作のピアノと電子音・ノイズの沈黙と静寂のアンサンブルにも、芦川をはじめとする日本の環境音楽からの影響を感じることができるはず。「間」の感覚とでもいうべきか。静寂すら聴かせる感覚とでもいうべきか。
 じっさい『Warszawa』と共に芦川聡の『STILL WAY - WAVE NOTATION 2』を聴くと、まるで50年近い歳月を隔てた双子のような音楽に聴こえてくるから不思議だ。ちなみに本アルバムには “For Ashikawa” という曲も収録されている。
 いっぽうトーク・トークのマーク・ホリスからの影響も反映しているという。トーク・トークのアルバムでは『Laughing Stock』(1991)か、もしくはトーク・トーク解散後に唯一発表されたマーク・ホリスのソロ・アルバム『Mark Hollis』(1997)あたりだろうか。この二作に微かに満ちている「静寂の感覚」は、『Warszawa』に遠く継承されているように思う。とはいえ『Warszawa』はヴォーカル・アルバムではないので、楽器演奏と、その音楽の「間」にある「サイレンスの感覚」と品の良い「キーボード/ピアノの音色の感覚」を継承したというべきかもしれない。
 これらと『Warszawa』を続けて聴くと驚くほどに違和感がない。『Warszawa』は、明らかに最新の機材を用いたサウンドによるアルバムである。電子音の低音の響きなど驚くほど。しかしそれでも80年代や90年代の音楽と通じる「響きの感覚」があるのだ。大切なのはそれだ。これはやはりアルベルト・カルフとガレス・クイン・レドモンドのふたりが音楽を深く愛しているからではないかと思う。音楽の本質をわかっているからというべきか。

 『Warszawa』には全6曲が収録されている。そのどれもが音楽と沈黙のアンサンブルとでもいうべきサウンドスケープを展開している。ここにあるのは沈黙と沈静の美学とでもいうべきものだ。どの曲も美しい「沈黙」に満ちている。そして「沈黙」は静寂を打ち破る音の力によって美しさが際立つ。『Warszawa』において沈黙を際立たせる音は、まずピアノである。
 1曲目 “Ajar” において美しいピアノの音が響く。残響が微かに鳴り、そして消え去る。その果てにあるサイレンス。音はまるで暗闇のなかの歩みのように鳴り続けるだろう。そして静かに演奏される打楽器もまるで環境音のように微かに鳴り響く。なんという絶妙かつ繊細な音響設計か。もしも坂本龍一が存命なら本作をどう聴いただろう? とつい思ってしまう。
 2曲目 “Palette” は弦の刻みに、雨音のようなピアノが折り重なる。そこ微細なノイズがが重なる。現代音楽的ムードの曲だが、無調がもたらす不穏感よりも不思議な安心感がある。ほんの少しだけ打たれる低音も見事さ。ピアノの音色の美しさ。
 3曲目 “A Life (1955-2019) ” ではこれまで微かに鳴っていた打楽器(ドラムセット)が全面化する。きちんとした反復で打たれるリズム(ハイハットも)に、ピアノのアルペジオによるループが演奏される。これまでの2曲とは異なる明らかに「強い」曲だが、静謐なムードは壊されることはない。打楽器とピアノの向こうに鳴る透明な霧のような電子音とのレイヤーも実に見事だ。
 4曲目 “For Ashikawa” はその名のとおり芦川聡へのトリビュート曲だろう。『Still Way (Wave Notation 2) 』という環境音楽史に残る名盤を1982年に発表した翌年、30歳の若さで芦川は世を去った。彼は「静止した瞬間を列ねたような音楽」と語ったようだが、この曲はそんな芦川の音楽性にもっとも近い楽曲といえる。ミニマルな旋律のピアノの音列は、音を鳴らすその場の空気をも透明にしてくれるように美しい。
 5曲目 “251536” は本アルバム中、もっとも電子音響的なサウンドスケープの曲だ。ドローン的な電子音響がいくつも折り重なり、そこに小さな打楽器音が重なる。静謐な音響作品だが、その音響設計は実に見事に思える。高音から低音まですべての音が綺麗に鳴っているのだ。アルバム中、サイレンス・沈黙の感覚をもっとも表現している楽曲に思えた。
 6曲目 “Warszawa” では再びピアノ、そしてシンバルの音が鳴る。小さく刻まれるリズムとリズムを崩すかのようなピアノ。そして曲の中盤においてピアノもシンバルも消えてドローンのみが静かに鳴り響く。そして静かに音楽は消失するだろう。音楽は沈黙へと還っていくかのように。

 静寂のなかにある緊張感。緊張感のむこうに響く音。ピアノ。微かなノイズ、打楽器……。そう、本作『Warszawa』は、楽器と音のアンサンブルとレイヤーによる緊張感と静謐さに満ちた濃密なアンビエント音響作品である。アルベルト・カルフの演奏と音響設計、ガレス・クイン・レドモンドのアンビエント・アーティストとしての力量が見事に交錯した作品といえよう。アンビエント・マニアのみならず、多くの音楽ファンに聴いてほしい傑作といえよう。

Nujabes Metaphorical Ensemble & Mark Farina - ele-king

 ヌジャベスの音楽を未来につなぐプロジェクト、Nujabes Metaphorical Ensemble。ヌジャベスの作品を愛するミュージシャンやDJから成る彼らが出演するライヴが12月29日、恵比寿ガーデン・ホールにて開催される(https://flows-jp.com)。マーク・ファリナやパウダー、活動休止前の最後のライヴを披露するNABOWA、ペース・ロック、寺田創一らが集う同イヴェントの最終ランナップが公開されており、新たにnasthug、Kento Nagatsuka、DJ NORIの出演がアナウンスされている。
 さらに、会場では、ヌジャベスの楽曲のみで制作されたマーク・ファリナによるミックステープ『Tribe Sampler Mushroom Jazz』が先行販売される。チケットなどの詳細は下記より。

Nujabesの音楽を未来に繋ぐプロジェクトNujabes Metaphorical Ensemble、Mark FarinaやPowder、活動休止前のラストライヴとなるNABOWA、Pase Rock、Soichi Teradaに続く最終ラインナップが公開。

2023年に出演したBoiler Roomでのパフォーマンスが120万回以上再生され、一躍注目を集める存在となったnasthugが登場する。

そしてエクスペリメンタル・ソウルバンドWONKのボーカリスト Kento Nagatsukaが豊かな音楽性を背景にしたDJセットにて参加。

さらにキャリア40年を超える日本が誇る至宝DJ NORIの出演が決定した。

全9組による極上のラインナップ。
タイムテーブルはflowsのSNSから近日公開予定となっている。


ミックステープ「Tribe Sampler Mushroom Jazz」がリリース!

Nujabesの楽曲たちとMark FarinaによるMushroom Jazzがコラボレーション。
Hydeout ProductionsのサブレーベルTribeから
ミックステープ「Tribe Sampler Mushroom Jazz」がリリース。

ジャジーなヒップホップからダビーなダウンテンポトラックを中心にミックスされるMushroom Jazzは過去に幾つもの名作を残しており、Nujabesの作品のみで構成された今回の特別な音源はMark Farinaのセンスと手腕により美しい楽曲の新たな魅力を引き出している。
NujabesとMark Farina。時を経て邂逅した必然のコラボレーションとなっている。

flowsにてミックステープの先行発売をおこないます。
完全限定生産となっているので、会場で売り切れた場合、一般販売はございません。

TITLE : Tribe Sampler Mushroom Jazz
ARTIST : Mark Farina
LABEL : Tribe
PRICE : ¥2,500 (taxout)


OUTLINE

TITLE : flows
DATE : 2024.12.29 SUN, OPEN 14:00 CLOSE 21:00
VENUE : The Garden Hall(東京都目黒区三田1-13-2)
LINE UP : Nujabes Metaphorical Ensemble、Mark Farina、Powder、
NABOWA, Pase Rock、Soichi Terada、nasthug、Kento Nagatsuka、DJ NORI
ADV TICKET :
Category 1 : ¥6,800 -SOLD OUT-
Category 2 : ¥7,800
Category 3 : ¥8,800
U-23 : ¥5,000
※小学生以下の児童及び乳幼児は保護者1名につき1名まで入場無料です
※カテゴリー1から順に完売次第、次のカテゴリーに移行します
※規定枚数に達した場合には当日券の販売はございません
TICKET AVAILABLE AT : Zaiko(https://flows.zaiko.io/item/367270)

HP : https://flows-jp.com
Instagram : https://www.instagram.com/flows_jp
X : https://x.com/flows_jp

東京国際映画祭レポート - ele-king

 今年の東京国際映画祭は、ドナルド・トランプが米大統領選での勝利宣言をした同じ日に閉幕するという不運に見舞われた。トランプの勝利は、マイノリティや女性の権利、ウクライナ・パレスチナ情勢、世界の民主主義、そして地球環境の未来にまで深刻な影響を及ぼすものとなるだろう。そのような事態を前にして、日本を代表する映画祭はあまりにも小さく感じられた。

 東京国際映画祭(TIFF)がそもそも話題性の高いイベントであるというわけではない。TIFFという略称からしても、1ヶ月先に開催されるトロント国際映画祭(同じくTIFF)の影に隠れてしまいがちだ。毎年、東京国際映画祭のコンペティション部門で上映される外国映画のうち、日本で劇場公開されるのはほんの一握り。しかも、最高賞にあたる東京グランプリを受賞しても、配給会社が見つかる保証はない。

 しかし、今年最高賞を取った吉田大八監督の『敵』は、2005年以来、日本映画として初めてグランプリを受賞した作品であり、その心配は無用だろう。以下に、その作品と、今年上映された注目すべき映画について簡単にご紹介する。

『敵』

 吉田大八監督はこれまで駄作を撮ったことはないが、この作品は彼の最高傑作と言えるかもしれない。筒井康隆による1998年の小説を映画化した今作は、その穏やかな滑り出しから、後にシュルレアリスムへと突入する衝撃的な展開をみせる。長塚京三は、退職した大学教授を演じ、その日常生活が徐々に、そして最終的には劇的に破綻してゆく様を見事に演じきり、主演男優賞を受賞。このラストは、ルイス・ブニュエルや、ダーレン・アロノフスキーの『マザー!』を彷彿とさせるほどである。トランプ当選のニュースを聞いた後、再びこの映画を鑑賞したのだが、作品が描く死生観や、謎の「敵」に関する噂、そして大量の難民であふれかえる社会の描写は、さらに不吉なトーンを帯びていた。
(2025年1月17日劇場公開:https://happinet-phantom.com/teki/) 

『トラフィック』

2024 © MINDSET PRODUCTIONS – LUNANIME – LES FILMS DU FLEUVE – BASTIDE FILMS – FILMGATE FILMS – FILM I VÄST – AVANPOST MEDIA – MOBRA FILMS
119分/カラー/ルーマニア語、オランダ語、英語/日本語、英語字幕/2024年/ルーマニア、ベルギー、オランダ

 西欧と東欧の格差を赤裸々に描いたテオドラ・アナ・ミハイ監督の社会派ドラマ。ルーマニア人ギャング集団がロッテルダムの美術館から多数の文化財を盗み出したという2012年の事件を基に制作。前半はオランダが舞台で、窃盗集団の1人の内縁の妻(最優秀女優賞を受賞したアナマリア・ヴァルトロメイ)に焦点を当てており、後半よりも面白い。この映画では、裕福な西欧において、出稼ぎに来る移民たちが二流市民として扱われている様子が容赦なく描かれているが、その一方で、彼らの母国にも深刻な不平等が存在することも取り上げられており、そのような背景を思えば、ピカソの作品がどうなろうと、取るに足らないことのように思えてくる。

『雨の中の慾情』

©2024 「雨の中の慾情」製作委員会
配給:カルチュア・パブリッシャーズ
11月29日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開

 昭和の時代に描かれた、変態チックでシュールな漫画は、現代の映画制作者に対して「健康を害する可能性あり」という注釈を添えるべきかもしれない。台湾を舞台にした片山慎三監督の映画は、つげ義春の作品いくつかを翻案したものだが、手塚眞が監督した『ばるぼら』と共通する難点があった。最先端の映像技術や、時折織り込まれるドリーミーな空想シーンを駆使しても、時代錯誤的な性描写を美化することはできないのである。さらに、この映画は(現実というものがあるとすれば)現実が何なのかという感覚を揺るがそうと躍起になっているせいで、こちらとしては、結局、何もかもがどうでもよくなってくる。しかし、この作品は散漫・雑然としながらも、見どころのない映画というわけではない。例えば、大日本帝国陸軍による大虐殺を描いた豪勢なシーンなど、現代の日本映画ではあまりお目にかかれないような場面もある。 
(11月29日劇場公開:https://www.culture-pub.jp/amenonakanoyokujo/

『アディオス・アミーゴ 』

118分/カラー/スペイン語/日本語、英語字幕/2024年/コロンビア

 イヴァン・D・ガオナ監督による、マカロニ・ウェスタン風のコロンビア映画。昔懐かしい西部劇の雰囲気が色濃く出ているが(主人公たちのやけに汗ばんだ顔がやけにアップで映るなど)、一筋縄ではいかない展開で予想外の方向へと進み、人類は暴力行為から脱却できるのかという話になる。そして、「イエス・キリスト」という名の先住民シャーマンによって与えられる天然の幻覚剤を大量に摂取することで、復讐に燃えていた登場人物たちに、平和を考える余地が生まれてくる。あまりテンポがよいとは言えないが、『アディオス・アミーゴ』のラストは力強く、パラレルワールドでのメキシカン・スタンドオフ〔訳注:互いに武器を向け合ったまま誰も動けない状態〕で締めくくられ、セルジオ・レオーネというよりもアレハンドロ・ホドロフスキーに近い。

『レイブンズ 』

© Vestapol, Ark Entertainment, Minded Factory, Katsize Films, The Y House Films
2025年3月28日よりTOHOシネマズ シャンテ、新宿武蔵野館、ユーロスペースほか全国ロードショー

 伝記映画『イングランド・イズ・マイン モリッシー、はじまりの物語』に続き、マーク・ギルが制作したこの作品も、悩める芸術家の姿を描いているが、その内面には踏み込めていない。『レイブンズ』は、2時間という上映時間内に、芸術家のキャリアすべてを詰め込もうとするという、ありがちな罠にはまっている。特に、写真家・深瀬昌久のような複雑な人物を扱うとなると、その取り組みはさらに困難なものとなる。この映画は、深瀬役の浅野忠信と、深瀬の妻でありミューズでもあった洋子役の瀧内公美の安定した演技が支えとなり、映像も良く仕上がってはいるが、どこかありきたりな印象が残る。ギルの最も大胆な試みは、深瀬を突き動かした闇の衝動を具現化したことであり、それはホセ・ルイス・フェラーがヴォイスオーバーを務めた、人間サイズのカラスという形を成しているのだが、このカラスは、残念なことに漫画『DEATH NOTE』の死神に酷似している。(2025年3月劇場公開:https://www.ravens-movie.com/

『黒の牛』

2024年/日本=台湾=アメリカ/114分/シネマスコープサイズ/5.1chサラウンド/白黒&カラー
配給:ALFAZBET、ニコニコフィルム、ムーリンプロダクション

 東京国際映画祭でデビュー作『祖谷物語―おくのひと―』が上映されてから10年あまりを経て、蔦哲一朗監督はさらに素晴らしい2作目で返り咲いた。『黒い牛』は、19世紀後半、日本近代化の波に翻弄される山男(リー・カンション)の物語を通して、禅の悟りへの道を描いた作品。70mmフィルムで一部撮影されたモノクロ映像には独特の質感があり、その一方で、音響効果はサイケデリックな域にまで達している。それ加えて、ただただ唖然とするような場面もあったので、この作品は、ぜひとも大画面・大音量で鑑賞していただきたい。

Tokyo International Film Festival Report

written by James Hadfield

This year’s Tokyo International Film Festival had the misfortune to wrap up on the same day Donald Trump declared victory in the US presidential election. In the face of an event that’s likely to have such dire consequences – for minorities, women’s rights, Ukraine, Palestine, global democracy and the state of the planet itself – Japan’s preeminent film festival felt awfully small.

Not that TIFF tends to be a major news event anyway; even its acronym ensures that it’s forever in the shadow of Toronto’s more high-profile festival, which takes place a month earlier. Only a handful of the non-Japanese films screened in competition each year go on to receive a theatrical release here; even winning the top Tokyo Grand Prix is no guarantee of finding a distributor.

That won’t be an issue for this year’s winner, Daihachi Yoshida’s “Teki Cometh,” which became the first Japanese film to take the festival’s top prize since 2005. Here are some brief notes on that, and a few of the other notable movies that screened this year.

Teki Cometh (敵)

Yoshida has never made a bad film, but this might be his finest hour. The director’s adaptation of a 1998 Yasutaka Tsutsui novel starts so gently, its later turn into surrealism comes as a shock. Kyozo Nagatsuka deservedly won the Best Actor award for his portrayal of a retired professor whose domestic harmony starts to unravel, first slowly and then spectacularly, in a final act that recalls Buñuel and even Darren Aronofsky’s “Mother!” Watching it for a second time, after getting the news about Trump’s electoral win, the film’s rumination on mortality and its depiction of a society awash with rumours of a mysterious “enemy” and hordes of refugees took on an even more ominous tone.
(Released theatrically on January 17, 2025: https://happinet-phantom.com/teki/)

Traffic (Reostat)

Europe’s east-west divide is laid bare in this anti-thriller by Teodora Ana Mihai, based on a 2012 heist in which a Romanian gang made off with a clutch of priceless artworks from a museum in Rotterdam. The first, and stronger, half of the movie is set in The Netherlands and focuses on the common-law wife of one of the thieves (Anamaria Vartolomei, who won the Best Actress prize). The film is merciless in its depiction of the second-class status afforded to migrants in the affluent West, though also attentive to the stark inequalities that exist in their native country – compared to which, the fate of a Picasso painting starts to look rather insignificant.

Lust in the Rain (雨の中の慾情)

Kinky, surreal manga from the Showa era should probably come with a health warning for contemporary filmmakers. Shinzo Katayama’s Taiwan-set drama, loosely adapted from several stories by Yoshiharu Tsuge, suffers some of the same problems as Macoto Tezka’s “Tezuka’s Barbara.” Superior tech specs and occasional bursts of dreamlike visual imagination can’t gloss over some retrograde sexual politics, while the film works so hard to undermine our sense of what (if anything) is real that none of it seems to matter any more. This sprawling, messy movie isn’t without its highlights, though, including a lavish set-piece depicting an Imperial Army killing spree – not something you see often in modern Japanese cinema.
(Released theatrically on November 29: https://www.culture-pub.jp/amenonakanoyokujo/)

Adios Amigo (Adiós al amigo)

This Colombian spaghetti western from Ivan D. Gaona goes hard on the throwback vibes (the faces are extremely close and extremely sweaty), but takes a circuitous route to an unexpected destination, where what’s at stake is whether or not people can move on from violence. It takes some liberal doses of all-natural psychedelics – dispensed by an Indigenous mystic named Jesus Christ – to get the film’s vengeful characters to a point where they might consider giving peace a chance. While the pacing is a little off, “Adios Amigo” ends strong, with a Mexican standoff in a parallel dimension, more Jodorowsky than Leone.

Ravens

Mark Gill’s follow-up to Morrissey biopic “England is Mine” is another portrait of a tortured artist that doesn’t get past the surface. “Ravens” falls into the familiar trap of attempting to squeeze a whole career into a two-hour runtime, which is a particularly fraught undertaking when you’re dealing with a figure as problematic as photographer Masahisa Fukase. The film looks good, and is grounded in solid performances by Tadanobu Asano as Fukase and Kumi Takiuchi as his wife-slash-muse, Yoko, but it ends up feeling oddly generic. Gill’s boldest step is to give a literal manifestation to the dark impulses that drove Fukase, which take the form of a man-sized raven, voiced by Jose Luis Ferrer, who bears an unfortunate resemblance to the Shinigami from “Death Note.”
(Released theatrically in March 2025: https://www.ravens-movie.com/)

Black Ox (黒の牛)

Over a decade after his debut film, “Tale of Iya,” screened at TIFF, Tetsuichiro Tsuta returned with an even more impressive sophomore feature. “Black Ox” sets out to depict nothing less than the path to Zen enlightenment, through the story of a mountain man (Lee Kang-sheng) who comes spiritually adrift during Japan’s late-19th century modernisation. Shot partially on 70mm film, the monochrome imagery has a tactile quality to it, while the sound design pushes things to almost psychedelic heights. There are sequences that left me slack-jawed: it’s worth seeing on the biggest screen, and with the loudest speakers, possible.

 2024年のアメリカについて日本の方々に知ってもらいたいことがひとつあるとしたら、今回の選挙における選択肢に、私たち多くのアメリカ人が熱狂していたわけではなかったという点だ。
 まず一方には、近年でもっとも忌み嫌われた政治家、ドナルド・J・トランプがいた。彼はかつて、2004年にスタートしたリアリティ番組『アプレンティス』(※参加者が「見習い」として働き、最後に採決される)において「お前はクビだ!」と叫ぶ役を演じ、それで一躍、アメリカで有名人になった、億万長者のペテン師である。2024年に早送りすると、後期資本主義の典型であるこの人物は、なぜか労働者階級からの支持を得て現状に至っている。支持層の多くは白人の地方住民——おそらくは私たちの社会では一括りにしても問題のない唯一のグループ、無学で人種差別的な「田舎者」たち——で、2024年の選挙ではラテン系や黒人層にも右傾化が顕著に見られた。結果、トランプは国民投票と議論の的となる選挙人団の両方で勝利を収めたわけで、多くのアメリカ人の心に彼のポピュリスト的メッセージが響いたことは否定できない。
 もうひとりの候補者は、2020年の大統領選で民主党予備選挙において支持を得られなかったカマラ・ハリスだった。アメリカ史上初の女性副大統領であるが、しかし、女性である私としては、黒人女性を副大統領に起用したバイデンの人選が「フェミニズムの勝利」などという幻想を抱くようなものではないことを承知している。また、ハリス氏が女性であるからといって、彼女が女性の利益を代弁するなどとは一瞬たりとも考えたこともなかった(事実、民主党はオバマ政権時から妊娠中絶に関する法改正の機会を持っていながら優先事項とせず、最初の任期中に却下した)。もしその女性が優れたアイデアと能力を認められて当選したのであれば、アメリカ社会は真の男女平等を達成したと言えただろう。悪名高いことに、彼女は電撃的な選挙キャンペーン中、ほとんどインタヴューに応じなかった。数少ないそのなかには、ニュース番組『60ミニッツ』も含まれていたが、番組では、彼女の当初の極めて親イスラエル的な立場を隠すように編集されていた。また、彼女の具体的な政策に関心のあるインタヴュアーに対しては、「ウェブサイトを見てください」と答えるのみだった。
 トランプは、過去10年間の大半を大統領選に費やしてきたと言えるような、誇大妄想的なおしゃべり屋だ。彼を打ち負かすのは難しくないはずだった。が、“政策(ポリシー)”ではなく“権力(ポリティクス)”に頼ってアメリカ人の半分を味方につけようとするのは、明らかに勝利のための戦略とは言えない。

 理由はふたつある。第一に、民主党が(アメリカ)国民に対して誠実でなかったこと、そしてそれが私たち(私のような真の左派を自認する人びとを含む)の多くを遠ざけてしまったことだ。アメリカの民主党は決して「左派」ではないことをここに明確にしておきたい。実際には、経済政策に関しては穏健中道、あるいはやや右派だ。しかも、アメリカの主流メディアは民主党に支配され、バイデンや民主党への批判を「保守派の陰謀」に過ぎないとした。また、バイデンの明らかな認知機能の衰え、米国(およびその他の国々)におけるインフレの蔓延、犯罪の増加、そして不法な人権侵害の国境問題は「陰謀説」であって、それも右派によるものとした。現在の平均的な民主党員によれば、右翼であることはナチスであることを意味する。

 そのようなレッテルを貼られるのを避けるために、自分の信念を検閲した人はたくさんいると思う。私もそのひとりだ。なぜなら、私の食料品代は2020年以来ほぼ2倍になっているのに、アメリカは無意味な代理戦争にふたつも関わっている(そればかりか大量虐殺に積極的に資金を提供)。2022年には、私が利用するニューヨーク市の地下鉄駅で起きた集団銃撃事件で10人が撃たれ29人が負傷した、私は何ヶ月も電車に乗るのが怖かった。アメリカの“信頼できる”メディア、たとえば『ニューヨーク・タイムズ』などによると、これらの懸念はすべて私が「右派の白人至上主義者だから」ということになるらしい。
 私が、民主党がトランプを打ち負かすことができなかった理由としてふたつ目に挙げるのは、あからさまな偽善だ。私はドナルド・トランプの内閣や気候に対する態度、最高裁の保守的な人選、1月6日の議会襲撃事件など、数え上げればきりがないが、これらすべてに深い不快感を抱いている。しかし、民主党がヒステリックに主張する「自分たちに投票すれば、ファシズムからアメリカを何とかして救うことができる」という主張は疑わしい。なぜなら、真の左派の候補者たち(とくにコーネル・ウェストやロバート・F・ケネディ・ジュニア、ただしイスラエルに対する姿勢を除いて)は、討論会はおろか、予備選挙にも参加させてもらえなかったからだ。ハリス自身も民主党候補として選出されたわけではない。今年6月のトランプとの討論会の惨憺たる結果によってバイデンの老いがもはやアメリカ国民に隠しきれなくなった後、ようやく戴冠されたに過ぎない。
 トランプは厳密には有罪判決を受けた犯罪者だが、それは捜査を受けたからだ。それに対して、バイデン一家が関わっていると想像される違法な不正行為には驚かされるばかりだ。とくに彼の息子ハンターのノートパソコンにウクライナや中国との家族ビジネスに関するメッセージが含まれていたという噂が事実だったことを考えると——もっとも、その話はアメリカの主流メディアによって大幅に検閲されていたが。
 民主党が自らの権力を脅かす人物を攻撃しようとしたのは今回が初めてではない。民主党と共和党が同じコーポラティズムの硬貨の表裏であることは、何年も前から明らかであった。例えば、バーニー・サンダースの階級意識を意識したキャンペーンは、2016年と2020年の両方で民主党に支配されたメディアによって組織的に破壊された。そして2024年には、ロバート・F・ケネディ・ジュニアの型破りながらも力強いキャンペーン・メッセージ、すなわちアメリカ政治に蔓延する腐敗と取り組むというメッセージも、ナチス(すなわち民主党員と認めない者)からの言論の自由を守ることを主張する「左翼」メディアによって同様に粉砕された。バーニーの選挙運動と同様に、ケネディ・ジュニアの政策も検閲され、ワクチン反対派の気違いじみた戯言にすぎないものに貶められた。なぜなら、彼もバーニー同様、“アイデンティティ”ポリティクスではなく“階級”ポリティクスによって、実際にアメリカの分裂を埋めようとしていたからだ。
 結局のところ、真の左翼であれば、抑圧の本質的な交差点は「階級」だと教えるだろう。カマラ・ハリスの集会でビヨンセやトゥワークをするミーガン・ジー・スタリオンを登場させても、生活費が手頃になるわけでも、パレスチナの戦争が終わるわけでもない。

 注目すべきは、選挙運動が失敗に終わっていた際に、この国を悩ませている政治的分裂の解消を模索して、ケネディ・ジュニアが民主党と共和党に接触したことである。民主党は彼を無視したが、トランプは最終的に彼に閣僚への参加を要請した。

 民主党は過去8年間、自分たちに反対する人びとの知性や人間性を侮辱してきたという不名誉な実績がある。ヒラリー・クリントンは、自分たちに投票しない人たちを「憐れむべき人びとの巣窟(the basket of deplorables)」と呼び、バイデンは先月、彼らを「ゴミ(garbage)」と呼んだ。私の友人でさえ「トランプに投票する人は悪だ」と宣言している。私が貧しい田舎の白人アメリカで育ち、そこで暮らす大多数の人たちは、ただ生活を営み、そっとしておいてほしいと願う善良で勤勉な人たちであることを知っているからかもしれないが、私は民主党が「蜂を捕まえるには酢よりも蜜を使った方がよい」(*)という古い諺を聞いたことがないのではないかと思わずにはいられない。

 私はふたつの出来事を決して忘れないだろう。どちらも私の政治的信条に影響を与えた出来事だ(私は環境問題に関心があり、所得の平等、中産階級および労働者階級の生活の質に維持、女性の権利に関心があり、アメリカの海外における植民地主義的な存在を排除することに関心があり、性的暴行容疑のある人物には投票しない。民主党がその事実を隠そうとしても、ジョー・バイデンもその対象だ)。
 最初の出来事は2016年、いまは亡き祖父に「なぜトランプに投票するのか」と尋ねた。
 「私は実はバーニーのほうが好きなんだ。でも、トランプには勢いがあるし、ワシントンDCには変化が必要なんだ。民主党の連中は自分たちがみんなにとっていちばん良いことをわかっているつもりだが、そんなことはない。政府は小さく保つべきなんだ」
 「なぜ小さく保つ必要があるの?」と私は尋ねた。「国民皆保険(ユニバーサル・ヘルスケア)制度は必要ないの?」
 「それはいいな」と祖父は言いました。「でも、郵便物を確実に送ってもらいたいなら、米国郵便公社ではなくフェデックスのようなサービスを利用しなければならない。政府のウェブサイトにアクセスしても、動きが遅すぎて使えない。それに政府の電話番号にかけても、何時間も保留音が鳴りっぱなしだ」
 彼の言うとおりだ、と私は思った……
 「では、もし政府が医療を提供したら?  まあ、おそらく世界最悪の医療だろうね」
 オバマが 全国民向け医療制度を試みた際、健康保険に加入できない人には700ドル以上の罰金を科されることを考えると、私も同意せざるを得ないかもしれない。

 ふたつ目の出来事は、私が日本の音楽の博士号を取得するために在籍していたコーネル大学の大学院の仲間たちと、2016年の選挙後のパーティで過ごしたときのことだった。 大学院生たちは、トランプに投票した人たちは無学で愚かで、——そしてまたあの言葉が出てきたわけだが——、邪悪(evil)だ、などと不満を漏らしていた。
 「トランプに投票した人と話したことがある人はいる?」と私は尋ねた。
 「いるわけないだろ!」と彼らは声を張り上げ、誇らしげに言った。「なぜそんなことをする?」
 「まあ、もしそうしたら」と私は言った。「みんなあなたたちをエリート気取りのろくでなしの集まりだと思うだろうね」そして私はその場を去った。
 過去最悪のパーティでの出来事。

 私としては、これは希望の持てる出来事だと考えている。民主党がなぜ負けたのかについて、引き続きよく考えてほしいと願っている。共和党は、相手候補があまりにもひどかったからこそ自分たちが勝てたのだということを知ってほしいと願っている。そして、私は米国が最終的に現実的な第三政党を誕生させることを願っている。私はこれまで3回の大統領選挙でそうした政党に投票してきた。なぜなら、今年のアメリカ大統領選挙の茶番劇が示すように、民主党と共和党は同様に堕落しているからだ。
 おそらくほとんどのアメリカ人が私の意見に賛成してくれると思う。

(*)物事をうまく進めたり人を惹きつけたりしたいなら、批判や冷たさよりも、親切や優しさで接するほうが効果的だという意味のことわざ。

American Politics: There Are No Good Guys in 2024

Written by Jillian Marshall

If there’s one thing I wish Japanese people could know about Americans in 2024, it’s that most of us were not excited about the choices in this election.
On the one hand was the most reviled politician and public figure in recent memory. Yes, Donald J. Trump: the billionaire grifter who cemented his fame in America on a reality TV show called The Apprentice, where he screamed “you’re fired!” at contestants. Fast forward to 2024, and this poster child of late-stage capitalism somehow found his political base in working class America: the very people exploited by the system that rewarded him. And while that base was largely white and rural — perhaps the only group in our society it’s OK to make sweeping judgements about (uneducated, racist rubes, they are!) — this year’s election saw significant rightward movement in Latino and Black populations as well. Having won both the popular vote and the somewhat controversial electoral college, it’s undeniable that Trump’s populist messaging evidently spoke to the majority of American voters.
On the other hand was a candidate so unpopular during her 2020 presidential bid that she received zero votes in the Democratic primary: Kamala Harris, the first woman vice president in American history. But as a woman, I’m under no illusions that Biden’s explicitly tokenistic appointing of a Black, female vice president was any kind of “feminist victory”— nor did I believe for a second that Harris would serve women’s interests simply because she herself is one (Democrats have had the chance to codify pro-abortion legislation into our constitution since the Obama administration, which Obama himself dismissed as a “non-priority” during his first term). If anything, I’d believe that American society achieved true gender equality if a woman got elected by recognition for her good ideas and competency— neither of which Harris demonstrated. Infamously, she gave very few interviews during her blitzkrieg campaign — including one with news program 60 Minutes that was actually edited to redact her original, highly pro-Israel stance— and dismissed interviewers interested in her specific policies to “go to her website.”
Trump is a megalomaniacal blowhard who has spent most of the past decade vying for presidency. It shouldn’t be hard to outwit him, but banking on politics instead of policy to win over half of America is, evidently, not the winning strategy.
The reason why is twofold. First is the Democratic Party’s inability to be honest with the (American) public, and how this has alienated many of us— including people, like me, who identify as true leftists. Let me first clarify that the American Democratic Party is not truly “left”; it’s actually moderate-center or even slightly right on economic policies. At the same time, mainstream media in the US — overwhelmingly controlled by the Democratic Party — have claimed that any critiques about Biden or the party in general were nothing but conservative nonsense. Biden’s obvious cognitive impairment, the rampant inflation in the US (and elsewhere), increased crime, and illegal, inhumane border crossings were not only conspiracies, but right wing ones at that. And according to the average Democrat today, being right wing means you’re a Nazi.
To a certain extent, I’d say that there are many of us who censored our beliefs to avoid being branded as such— myself included. Because, even though my grocery bill has nearly doubled since 2020, the US is in two ridiculous new proxy wars (while actively funding a genocide) and, after twenty-two people got shot at my subway station in New York City in 2022, I was scared to ride the train for months, my concerns — according to America’s “reputable media” sources like the New York Times — must be because I’m a right wing white supremacist.
The second reason I think the Democratic Party failed to defeat Trump is because of its blatant hypocrisy. I am deeply uncomfortable with Donald Trump’s cabinet, his misogyny, his stance on climate, his conservative stacking of the Supreme Court, what happened on January 6th of 2021 — the list goes on. But the Democrats' hysterical claims that voting for them will somehow save America from fascism is suspicious when other candidates running on truly leftist tickets — notably Cornel West and RFK Jr (save for his stance on Israel) — weren’t even allowed a debate, much less a primary election. Harris herself wasn’t even elected as the Democratic candidate; she was essentially coronated only after Biden’s senility was no longer able to be hidden from the American public following a disastrous debate with Trump in June of this year. And while Trump is technically a convicted felon, that’s only because he was investigated. I can only imagine the illegal shenanigans in the Biden family, particularly since rumors about his son Hunter’s laptop (with its messages about family business deals with Ukraine and China) turned out to be real— though that story was heavily censored by American mainstream media.
This isn’t the first time the Democrats have sought to destroy anyone who threatens their power. It’s been obvious for years that the Democrats and Republicans are two sides of the same corporatist coin; Bernie Sanders’ class-conscious campaign, for instance, was systematically destroyed by the Democrat-captured media in both 2016 and 2020. And in 2024, RFK Jr’s unconventional, but powerful campaign message of tackling the rampant corruption in American politics was similarly dismantled by the “left wing” media outlets claiming to preserve freedom of speech from the Nazis (i.e. anyone who doesn’t identify as a Democrat). Like Bernie’s campaign before him, RFK Jr’s platform was censored, reduced to nothing but an anti-vaxxer’s kooky ramblings, because he— like Bernie— threatened to actually bridge the divide in America through class politics instead of identity politics.
After all, a real leftist will tell you that class is the true intersection point of oppression. Trouncing out Beyonce or a twerking Megan Thee Stallion at a Kamala Harris rally does jack shit to make the cost of living more affordable, or end the war with Palestine.
Worth noting, too, is that RFK Jr reached out to the Democrats and the Republicans when his campaign was failing, seeking to bridge the political divide plaguing this country. The Democrats ignored him, while Trump ending up asking him to join his cabinet.
What’s more, Democrats have a nasty track record these past eight years of disparaging the intelligence and even humanity of whomever disagrees with them. Hillary Clinton called people who don’t vote for them “the basket of deplorables”; Biden called them “garbage” just last month. Even my own friends have declared on several occasions that “anyone who votes for Trump is evil.” Maybe it’s because I grew up in impoverished, rural white America and know for a fact that the majority of people there are decent, hardworking folks who just want to make a
living and be left alone, but I can’t help but think the Democrats never heard the old adage: “You catch more bees with honey than with vinegar.”
I’ll never forget two moments, both of which informed my personal politics (I care about the environment, I care about eliminating America’s colonialist foreign presence overseas, and I won’t vote for anyone with a sexual assault allegation — which includes Joe Biden, as much as Democrats try to hide that fact). The first was in 2016, when I asked my now-deceased Grandpa why he was voting for Trump.
“I actually like Bernie,” he said. “But Trump has the momentum, and we need change down in Washington DC. And those Democrats think that they know what’s best for everyone, but they don’t. We need to keep the government small.”
“Why small, though?” I asked. “Don’t you want universal health care?”
“That’d be nice,” my Grandpa said. “But if you want something mailed on time, you have to use a service like FedEx instead of the United States Postal Service. If you go to a government website, it’s too slow to use. And if you call any government phone number, you’re on hold for hours.”
He’s right about that, I thought...
“So if the government offered health care? Well, it’d probably be the worst health care in the world.”
Given that Obama’s attempt at universal health care penalized people upwards of $700 if they couldn’t obtain health insurance otherwise, I might have to agree.
The second moment was during a post-2016 election party with my fellow graduate students at Cornell University, where I was finishing my PhD in Japanese music. Grad students there were sharing their grievances, like how everyone who voted for Trump is uneducated, stupid, and— here’s that word again — evil.
“Have any of you ever talked to anyone who voted for Trump?” I asked.
“Of course not!” they remarked, with something close to pride in their voices. “Why would we?”
“Well, if you did,” I said, “You’d know they’d think you’re all a bunch of elitist assholes.” And I left.
It was the worst party I ever went to, by the way.
So I, for one, see this as a time of hope: I hope that the Democrats keep taking a look in the mirror about why they lost. I hope the Republicans know they only won because the other candidate was so awful. And I hope the US can finally produce a viable third party — which is how I’ve voted for three presidential elections now — because the Democrats and the
Republicans are, as evidenced by the farce that was this year’s American presidential election, equally captured.
And I dare say most Americans would agree with me.

Rai Tateishi - ele-king

 先月のスティル・ハウス・プランツとのツーマン公演でも強力なアンアンブルを響かせていたgoat。日野浩志郎率いるこのバンドのメンバーであり、太鼓集団「鼓童」に属していたこともある篠笛奏者の立石雷が、初めてのアルバムを発表する。篠笛以外にも尺八、ケーン、アイリッシュ・フルートなどが用いられているそうだ。リリース元は日野のレーベル〈NAKID〉で、日野はプロデュースも担当している。
 また発売記念ツアーも決定。11月に四国~中国~関西~北海道~九州の計11か所をめぐる。注目しましょう。

goatのメンバーとして活動する笛奏者の立石雷のデビューアルバム「Presence」の発売が決定。そのアルバムを記念した国内11公演のリリースツアーを開催する。
アルバムはgoat/YPYとして活動する音楽家 日野浩志郎によるプロデュースとなり、日野のレーベル「NAKID」から発売される。

<Tour schedule>
11/5 岡山(ソロ) w/THE NOUP
11/9 高松ルクス(ソロ)
11/10 広島福山NOQUOI (ソロ)
11/11 広島ONDO(ソロ)
11/18 京都UrBANGUILD(デュオ) w/Phew, Bing+YPY
11/19 大阪CONPASS(デュオ) w/Phew, YPY
11/20 神戸BAPPLE(デュオ)
11/23 当別 大成寺(ソロ)
11/24 札幌PROVO(デュオ)
11/28 福岡九州大学(デュオ)
11/29 熊本tsukimi(デュオ)

※上記日程のデュオと記載の公演は日野もライブに参加しエフェクト処理を行う。ツアーに合わせてCD先行発売し、遅れてLPも発売予定。

元鼓童、日野浩志郎率いるgoatの現メンバーとしても活躍する篠笛奏者・立石雷による初ソロ・アルバムが完成!

太鼓芸能集団「鼓童」の元メンバーであり、現在は多⺠族芸能集団「WATARA」やパフォーマンス集団「ANTIBODIES Collective」、リズム・アンサンブル「goat」などのメンバーとして活動するほか、関西を拠点にジャンルを跨いだ即興セッションも精力的にこなす篠笛奏者・立石雷による初のソロ・アルバム『Presence』が完成した。リリース元は日野浩志郎が2020年に設立したレーベル〈NAKID〉。録音/編集/ミックス/プロデュースは日野が務め、マスタリングは名匠ラシャド・ベッカーが手掛けた。

今作では、メイン楽器である篠笛のほか、我流で奏法を開拓したという尺八、ケーン、アイリッシュ・フルートなど複数の管楽器も使用し、全編インプロヴィゼーションによる演奏を収録。多重録音や加工/編集は基本的には施しておらず、使用したエフェクターはかけっ放しのリングモジュレーターとディレイのみ、スタジオでの演奏が一発録りでそのまま収められている。(細田成嗣によるインタビューを兼ねたレビュー記事より)


“Presence” カバーアート(写真家:Yuichiro Noda)

<アルバム情報>
Rai Tateishi - Presence

A1. Presence Ⅰ
A2. Presence Ⅱ
A3. Presence Ⅲ

B1. Presence Ⅳ
B2. Presence Ⅴ
B3. Presence Ⅵ

NKD10
Produced, Recorded, Mixed by Koshiro Hino
Mastered and Lacquer Cut by Rashad Becker
Artwork by Yuichiro Noda
Art direction by Yusuke Nakano
Designed by Junpei Inoue

立石雷 RAI TATEISHI(篠笛,打楽器奏者)
日本伝統楽器篠笛奏者。
太鼓芸能集団「鼓童」に入団。
篠笛を山口幹文氏に師事。
歌舞伎役者人間国宝坂東玉三郎、市川團十郎、片岡愛之助、振付家ダンサーSidi Larbi Cherkaouiらと共演。
これまでに世界30か国、1000回を越える公演に参加。
チベット・韓国・日本人音楽家からなる多民族伝統音楽団「WATARA」青森県八太郎えんぶり組と民族芸能をテーマにした活動と、前衛的な表現を行うリズムアンサンブル「goat」パフォーマンス集団「ANTIBODIES Collective」にも参加する。


NAKID
goat/YPYとして活動する音楽家 日野浩志郎による音楽レーベル。世界的な電子音楽家であるMark FellやKeith Fullerton Whitoman、Tobias Freund & Max LoderbauerのデュオNSI.などのリリースの他、日野によるプロジェクトであるgoatやKAKUHANの作品をリリース。それらのリリースはUKの流通会社兼オンラインレコードショップであるBoomkatでは軒並み年間ベストに挙げられてきた。不定期でNAKID showcaseとしてイベントを行っており、これまでMark Fell & Rian Treanor、Bendik Giske、Valentina Magaletti等を招聘した。

SNS
Rai Tateishi(Instagram)
Koshiro Hino(Instagram)
Koshiro Hino(X)

Mark Fisher - ele-king

 こんなご時世であるから、当たり前だ。いろんな国でいろんな人が、政治的良心を歌に、曲に託している。もうずいぶん昔から、60年代から、良いことを言っている歌、メッセージ、そういうものはたくさんある。そしてそういう曲に熱狂したりする。だが、そのすぐ直後にため息が出てしまう人もいる。これが続いてほんとに自分は楽な気持ちになれるのだろうかと。あるいは、その熱狂にいまいち冷めている自分を責めてしまう人もいるかもしれない。抵抗とか反抗とか、威勢の良い言葉にいまいち乗り切れない自分はダメなのかと思ってしまう人だっていよう。マーク・フィッシャーという思想家は、言うなればそうした「ため息」の意味を解明し、そうした「冷め」をどうしたら「ため息」なしの熱狂へと、どうしたらほんとうに人が楽になれるのかをとことん考えていった人だった。
 カウンター・カルチャーをお経のように何度も唱えることがカウンターでもなんでもない、いや、それこそじつは新自由主義のリアルであることはみんなもうわかっている。ひと昔前では雑誌がこうした文化をスタイリッシュに見せることに腐心したものだったが、過去を「すでに起きたもの」として語り直されること、懐古主義に還元されることは、あのとき爆発しようとしていた夢の力を無効化することであり、同時に、それは資本主義の新しい精神すなわち新自由主義に荷担することだ、とフィッシャーは考える。過去ほど安全なものはない。だいたい自由という概念は、パンクの歴史書『イングランズ・ドリーミング』にも書いてあるように権力の側に盗用されてしまったのだ。
 しかしながら、過去の語り直しのなかで、きわめて政治的に、あるいは反動的に、抑圧され、消去された、潜在的な可能性があるのではないか、かつて60年代的な抵抗文化を嘲笑する側にいたであろうフィッシャーは、労苦から解放される世界へと踏み出すための考察において、そう思い立った。そして、70年代とは、60年代の二日酔い、運動の縮小化、しらけの時代などという一般論をひっくり返し、じつはその地下水脈において継続された「カウンター」がより躍動した歴史的な瞬間を調査する。
 それは、若者のサイケデリック文化と呼ばれたものと労働者階級による労働運動という同じ時代を共有しながら反目し、乖離していたものをなんとか接続させることで、「60年代が新自由主義を生んだ」という定説を超えようとする試みである、とここでは言っておこう。集団よりも個人が大事という考え方を植え付けられる前にたしかにあった、「自由になりえたかもしれない世界」の亡霊をいま呼び起こすために。これがフィッシャーの未完の論考、その草稿となった「アシッド・コミュニズム」の入口だ。「資本主義リアリズム」が集団的不幸の理論であったとしたら、「アシッド・コミュニズム」は、そのアンチテーゼとなるべき「集団的精神構造」への未完の路線図だったとは訳者あとがきの説明である。この「アシッド・コミュニズム」という言葉を、フィッシャー自身も挑発的だが「ふざけた言葉だ」と自嘲するが、同時に「そこには真剣な狙いがある」と述べる。彼はそして、ビートルズとテンプテーションズのサイケデリックな瞬間(“ア・デイ・イン・ザ・ライフ”と“サイケデリック・シャック”)を引っ張り出し、論を進めていく——。

 9月30日刊行の『K-PUNK:アシッド・コミュニズム——思索・未来への路線図』(セバスチャン・ブロイ+河南瑠莉・訳)にて、『K-PUNK』全三巻が揃う。既刊には、『夢のメソッド——本・映画・ドラマ』(坂本麻里子+高橋勇人・訳)、『自分の武器を選べ——音楽と政治』(坂本麻里子+高橋勇人+五井健太郎・訳)がある(全巻デザイン:鈴木聖/写真:塩田正幸)。これでマーク・フィッシャーの主要書籍は、すべて日本語訳になった。
 マーク・フィッシャーをなんとなくの印象で語ってしまう人は、彼の「資本主義リアリズム」を「うちら資本主義に支配されているし、資本主義ダメじゃん」、という程度の話だと勘違いしていることが多い。あるいは「世界の終わりは想像できても資本主義の終わりは想像できないよね」、とか。いや、そういう話ではなく、彼が強調したいのは、そういう風に思わされてしまっている「リアリズム」の話なのだ。「リアル」なものなど信用するな。フィッシャーが「サイケデリック」すなわち意識の変容をいまさらながら再訪することは、たしかにひとつの道筋としてある。
 『アシッド・コミュニズム——思索・未来への路線図』の前半に掲載された、生前彼がメディアで受けたインタヴュー集には、語り言葉で「資本主義リアリズム」を説明しているがゆえにもっともわかりやすいガイドになっている。また、ここには『K-PUNK』においてもっとも炎上し、もっとも批判され、もっとも物議を呼んだ「ヴァインパイア城からの脱出」も収録されている。SNSに見られるリベラルの過剰さ、近視眼的なアイデンティティ議論の洪水に疑問を呈している方には必読のエッセイで、これは訳者あとがきといっしょに読んで欲しい。

 つい先日、話題の『HAPPYEND』がいま封切り前の映画監督、空音央氏に取材した際、きっと好きだろうなと『K-PUNK』全三巻を持っていったら、「フィッシャーじゃないですか!」と思っていた以上に喜ばれてびっくりした。まったく、嬉しい驚きである。原書で『資本主義リアリズム』を読み、「ものすごく影響を受けている」とまでいう空監督は、『K-PUNK』も原書で読んでいたようだった。彼に限らず、マーク・フィッシャーが2010年代以降、若い世代にもっとも影響を与えた思想家/批評家のひとりであることは、これまでで計5冊の訳書を出した経験からもよくわかっている。ぼくといえばフィッシャーの、音楽をはじめ映画やドラマ、SF文学などの大衆文化のなかから、じつに示唆に富んだ言葉や政治性、そして考え方のヴァリエーションを独創するその名人芸にずっと惹きつけられていた。日本で最初にフィッシャーを引用したのはぼくだと思う。フィッシャーがまだ生きていたころ、Burialのライナーのなかそれこそ彼のブログ「k-punk」からの一節をつたない日本語訳で引用した。彼はまた、『Wire』においてマイク・バンクスにインタヴューした人物でもあった。ぼくは彼のその記事で見せたデトロイト・テクノ論にも魅了されていた(URが標的にした “プログラマー” こそ「資本主義リアリズム」なのだし、フィッシャーはURがフィクションを通じてメッセージを伝えることに共感を寄せていた)。
 フィッシャーは大衆文化にこだわった。労働者階級出身である10代の彼に、音楽こそが(高度な教育を受けていなければおおよそ出会うことのない)哲学や文学を教えてくれたからだ。フィッシャーが「資本主義を終わらせる」といういまではお決まりの科白ではなく、もちろん「労働を通しての自由」でもなく、「抑圧的な労働そのものからの自由」に向かったのも、彼が生涯を通じて不安定な経済状況のなかで生活してきたことも影響しているに違いない(『K-PUNK』は主にブログをまとめたものなので、そうした彼の生活感も垣間見れる)。前衛よりも大衆性の側に立とうとしたのも労働者が好む文化の肩を持ちたいからだろうし、しかし彼は単純化された物語に対する抵抗感も隠さず、「大いなる拒絶や異議申し立て」が時代の遅れのロマン主義であるという認識もあった。そんな手垢のついた「反抗」では「資本主義リアリズム」の時代に通用しない。もしくは、「オルタナティヴ」が資本主義文化とは相容れない「異なる生きたかのイメージ」としての文字通りの「オルタナティヴ」ではなく、「同じ生き方のなかの変人」の一種へと転じてしまうことも見逃さなかった。「オルタナティヴ」はそうなってはならない。あくまで、この社会とは相容れない「異」でなければ。フィッシャーは、研究と経験のなかで自分の思想を(それこそ過去の自分の言葉に執着せずに)修正し、執筆活動のなかでどんどんハードルを上げていった。「フィッシャーのヴィジョンに私たちはまだ追いついていない」、とホーリー・ハーンドンは語っているが、21世紀もそろそろクォーターに差し掛かっている現在、彼が残した診断がほとんど当たっている以上、その言葉はいまも未来への指針としての力を失っていない。(野田努)


K-PUNK アシッド・コミュニズム──思索・未来への路線図

マーク・フィッシャー(著)セバスチャン・ブロイ+河南瑠莉(訳)


K-PUNK 自分の武器を選べ──音楽・政治

マーク・フィッシャー(著)坂本麻里子+髙橋勇人+五井健太郎(訳)


K-PUNK 夢想のメソッド──本・映画・ドラマ

マーク・フィッシャー(著)ダレン・アンブローズ(編)サイモン・レイノルズ(序文)坂本麻里子+髙橋勇人(訳)

万人のための豊かさへ 新たな方向性を描く

『資本主義リアリズム』で広く知られる思想家/批評家、マーク・フィッシャーの人気を決定づけたブログ「K-PUNK」からのベスト・セレクション・シリーズ、ついに完結!

第三弾は、60年代のアメリカ~イタリアのカウンター・カルチャーを再訪し、私たちが「資本主義リアリズム」からもっとも解放された瞬間を分析する、未完の「アシッド・コミュニズム」ほか、「高級化する左翼」を厳しく批判し英国内で激しい論争を呼んだ「ヴァインパイア城からの脱出」をはじめ、「未来への可能性」をめぐる彼の舌鋒鋭いエッセイ/論考を収録。

互いのエネルギーを枯渇させるような吸血行為をやめ、「階級意識と社会主義・フェミニズム的な意識形成、それからサイケデリックな意識との収斂」のもとに再び集結せよ、そう呼びかけようとしたこのフィッシャーの最後の仕事は、まさしく今こそ読む価値のあるものに思われる。 ──訳者あとがきより

四六判/272頁

いちどは無効化された夢の力を取り戻すために──。マーク・フィッシャー『K-PUNK』全三巻刊行のお知らせ

目次

日本語版編者序文

第五部 
私たちは未来を創造しなければならない:インタヴュー

これからも、物ごとは変わることができる──ローワン・ウィルソンによる『レディ・ステディ・ブック』のためのインタヴュー(二〇一〇年)
資本主義リアリズム──リチャード・ケープスによるインタヴュー(二〇一一年)
今、目先にあるもの──『オキュパイド・タイムズ』(二〇一二年)によるインタヴュー
ポスト資本主義のヴィジョンが必要だ──アンチキャピタリスト・イニシアティヴによるインタヴュー(二〇一二年)
「未来を創造しなければならない」──マーク・フィッシャーとの未公開インタヴュー(二〇一二年)
憑在論、ノスタルジア、失われた未来──ヴァレリオ・マヌッチ、ヴァレリオ・マッティオリによる『ネロ』誌のためのインタヴュー (二〇一四年)

第六部
私たちは、あなたを楽しませるためにここにいるのではない:思索

一年後……
スピノザ、k-punk、ニューロパンク
なぜ不合意(ディセンサス)なのか?
新コメント・ポリシー
コメント・ポリシー(最新版)
慢性的な気力喪失
オイディプスをサイバースペースで生かす方法
われら教条主義者(ドグマティスト)
『ロンドンライト』にあふれた街
No Future 2012(ニック・キルロイによせて)
嘲笑は恐るるに足らず(ちょっとしたお返し)
灰色のアジトを突破せよ
実在抽象(リアル・アブストラクション)──現代世界への理論の応用
いや、仕事なんてしたことない……
新自由主義時代における英国の恐怖と貧困
ヴァンパイア城からの脱出
なんの役にも立たない

第七部
アシッド・コミュニズム

アシッド・コミュニズム(未完の序編)

カウンターフューチャーへの遡行──『K-PUNK』後書き

索引

[著者]
マーク・フィッシャー(Mark Fisher)
1968年生まれ。ハル大学で哲学の学士課程、ウォーリック大学で博士課程修了。ゴールドスミス大学で教鞭をとりながら自身のブログ「K-PUNK」で音楽論、文化論、社会批評を展開する一方、『ガーディアン』や『ワイアー』などに寄稿。2009年に『資本主義リアリズム』を、2014年に『わが人生の幽霊たち』を、2016年に『奇妙なものとぞっとするもの』を上梓。2017年1月、48歳のときに自殺。邦訳にはほかに講義録『ポスト資本主義の欲望』、ブログからの選集第一弾『K-PUNK 夢想のメソッド──本・映画・ドラマ』および第二弾『K-PUNK 自分の武器を選べ──音楽・政治』がある。

[訳者]
セバスチャン・ブロイ(Sebastian Breu)
1986年、南ドイツ・バイエルン生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学(表象文化論)を卒業後、ベルリン・フンボルト大学音楽・メディア学研究科で専任講師、同科のラボ「Signallabor」のキュレーターを務める。研究領域は科学思想史、メディア技術論。チェルフィッチュ(『現在地』『地面と床』)、サエボーグ(『House of L』『I WAS MADE FOR LOVING YOU』)など様々な上演作品のドラマトゥルクを担う。第一JLPP翻訳コンクール(ドイツ語部門)最優秀賞。共訳にマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』。

河南瑠莉(かわなみ・るり)
1990年、東京生まれ。ベルリン在住。早稲田大学政治経済学学部を卒業後、ベルリン・フンボルト大学(ドイツ)の修士・博士課程で文化科学を学ぶ。現在はベルリン自由大学の美術史研究科で専任講師を務める。近代思想史、美術史を専門領域とし、なかでもイメージ論、視覚芸術とジェンダー論/身体論、加速主義やエスノフューチャリズムについて幅広く論じている。共訳にマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』。

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