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interview with Taylor McFerrin

interview with Taylor McFerrin

僕らはジャズか?

──テイラー・マクファーリン、インタヴュー

矢野利裕    通訳:原口美穂   May 21,2014 UP

Taylor McFerrin
Early Riser

ElectronicaJazzDowntempo

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 あらゆる音楽を取り込みながら進化を続けるテイラー・マクファーリンが、フライング・ロータスが主宰する〈ブレインフィーダー〉から、初のフルアルバム『アーリー・ライザー(Early Riser)』をリリースした。ジャズとクラブ・ミュージックの融合をはかりつつ、さらにネオ・ソウルやポストロックの要素までをも詰め込んだ本作は、ロバート・グラスパーに代表される2000年代のジャズ・シーンに新たな道を示すことになるだろう。ゲスト・ミュージシャンも、そのロバート・グラスパーはもちろん、父親であるボビー・マクファーリンやセザール・マリアーノまで多岐にわたっており、本作における多彩な音楽性を物語っている。

 本インタヴューでは、そんな多彩な音楽性がどのように形成され、また実際に『アーリー・ライザー』がどのように作られたのかを探った。伝説的な歌手を父にもち、学生時代にヒップホップにはまってビートを作るようになったというテイラー・マクファーリンの、ユニークで現代的な音楽観に注目してほしい。ジャイルス・ピーターソンが激賞し、フライング・ロータスがリリースをオファーしたことの意味がわかるようである。テイラー・マクファーリンは、どこから来て、どこに向かっているのだろうか。

テイラー・マクファーリン
Taylor McFerrin

ブルックリンを拠点として活躍するプロデューサー、ピアニスト、DJ。〈Brainfeeder〉の設立者で、コルトレーン一族の末裔であるフライング・ロータスや、グラミー賞の栄冠に輝く凄腕ドラマーの兄と世界的ジャズ・ドラマーの父を持つサンダーキャット同様、ジャズ界の大御所ヴォーカリスト、ボビー・マクファーリンを父に持つサラブレッド。ホセ・ジェイムズやロバート・グラスパーと共演するなど、デビュー前からその実力が高く評価され、すでに来日も決定している。ファーストEP「ブロークン・ヴァイブス」が話題を呼び、デビュー・アルバム『アーリー・ライザー』には驚くばかりに豪華なアーティストが参加した。

曲を作り出したのは1997年くらいかな。(中略)……あのときMPCを選ばなかったのはバカだった(笑)。あのときは、MPCがビートを作るのにベストなマシンだってことにまだ気づいてなくて。

音楽をはじめた経緯を教えてください。

TM:曲作りは、高校1年くらいではじめたんだ。ミネアポリスの名門高校……っていってもべつにそこまで名門じゃないんだけど、そのお坊ちゃま高校に入ったときに、クラスにいた5、6人がヒップホップにはまっていて、俺はその中の一人だったんだ。
 俺は、あまりヒップホップの歌詞は聴いてなくて、それよりもビートに興味があった。で、そこから自分でビートを作るようになったんだ。父親が新しいキーボードを買って、古いキーボードを俺にくれたんだけど、あれも音楽をはじめる大きなきっかけになったね。その後、DR-202のドラムマシンも手に入れたんだ。だから、DR-202とXP-80を持っていた。曲を作り出したのはそこからだから……1997年くらいかな。
 そこからマシンをアップグレードしてサンプルにもハマりだしたり……あのときMPCを選ばなかったのはバカだった(笑)。あのときは、MPCがビートを作るのにベストなマシンだってことにまだ気づいてなくて。MPCをあのときゲットしていれば、俺のプロダクション・スタイルは断然ベターなものになっていたかも。
 でも、これはこれでよかったのかもしれない。MPCがなかったから、キーボードをプレイすることによりフォーカスできたんだ。

プロとして活動しだしたのはいつごろだったのでしょう?

TM:なぜか忘れたけど、大学一年のときに友だちのボーイフレンドでMCのやつがいて、彼が俺の寮に来たときにビートをプレイしたら、彼がその上からライムをのせて、いっしょにやりはじめるようになったんだ。で、彼がEPを作ることになって、当時の俺のプロデューサー名はクロックワイズだったんだけど(笑)、そこからいっしょに何曲か良いトラックを作ったんだ。
 以降、曲をもっと作るようになって、曲を書くミュージシャンになるっていうアイディアを少し持つようになった。大きな変化が起こったのは、その翌年にミネアポリスからニューヨークに引っ越したとき。ミネアポリスにいたとき、すでにニューヨークに引っ越した友だちがいたから、何度か彼を訪ねていったことがあって、もっと本格的に音楽をやるならニューヨークの方がいいかもしれないって話をするようになったんだ。本当はバークリー音楽大学も考えていたんだけど、あれは父親がバークリーで講師をする代わりに俺が無条件で入れる、みたいな感じだったから、それは避けたくて。
 で、実際ニューヨークに越してきてから、ニュー・スクール(大学)でジャズプログラムを専攻しているかなりハイ・レベルのミュージシャンたちに出会ったんだ。その流れで、彼らといっしょにグループを組むことになった。そのバンド名がいけてなくて──グランドファーザー・リディキュラス(Grandfather Ridiculous)っていうんだけど(笑)、彼らといっしょにユニオン・スクエア・パークでショーをやったんだ。それが俺の最初のショーになった。けっこうちゃんとしたショーで、俺のニューヨークのキャリアのはじまりだったんだ。そこからもっと真剣に音楽をやるようになった。で、そのバンドが解散してから自分の作品作りをはじめて、それが“ブロークン・ヴァイブス”になったんだ。

作曲やプロデュースはもう高校の時点からはじまっていたんですね。DJの活動はどのようにはじめたのですか?

TM:DJはそこまでやらないんだ。俺はレコード・コレクターじゃないからね。高校で聴いていた音楽しか持ってない。90年代のヒップホップとか、60年代、70年代のソウルとか。だから、俺の場合どんなパーティでもDJできるってわけじゃないんだ。俺がプレイできるレコードのカタログを持っているクラブやバーでたまにやっていたくらい。小遣い稼ぎって感じで、定期的にはDJはやってない。ここ2、3年はとくにそう。DJよりもやりたいことがたくさんあったからね。

クラブ・ミュージックが自分のスタイルだったことはないんだ。だから、当時もみんなが何を聴いているかとか、そういうことは知らなかった。俺の場合はライヴ・ミュージシャンの友だちの方が多かったし、彼らが演奏するものをチェックすることの方が多かったから。

テイラー・マクファーリンの音楽には、これまでもクラブ・ミュージックの要素が多くあり、ヒップホップ・アーティストとの共演もいくつかありました。あなたにとって、クラブ・ミュージックとはどのような存在だったのでしょう。

TM:どうだろう。自分でもよくわからない。クラブ・シーンは、俺がたくさんのミュージシャンに出会った場所ではある。ニューヨークでの最初の7年は、当時は〈APT〉っていうクラブがあって、そこによく行ってた。すごく小さいんだけど、けっこういいDJたちがプレイしてたんだよね。あの場所は俺にとって新しい音楽の発見の場所だった。インスパイアされたよ。それに関わるようになった最初のころは、ブロークン・ビートのシーンがすごく大きかったと思う。
 でも、俺ってそこまでクラブに行くタイプではないんだよね。そういう音楽やシーンを知ってる理由は、自分が出るショーの会場をチェックしたり、他にどんなアーティストやDJがプレイするのかを調べるからってだけで。クラブ・ミュージックが自分のスタイルだったことはないんだ。だから、当時もクラブのシーンでみんなが何を聴いているかとか、そういうことは知らなかった。俺の場合はライヴ・ミュージシャンの友だちの方が多かったし、彼らが演奏するものをチェックすることの方が多かったから。

初のフル・アルバムが〈ブレインフィーダー〉から出ることになった経緯について教えてください。

TM:フライング・ロータスが俺に連絡してきたんだ。LAで俺のショーがあったとき、彼も来てくれると思っていたんだけど、都合が悪くて来れなくて。だから彼がFacebookで連絡してきて、ゴメン、次は必ず行くからってメッセージをくれたんだ。で、その流れで続いていた会話の中で、俺は自分がどんな音楽を作ろうとしているかを彼に話した。そこから最終的に自分が作ったばかりの3曲、“プレイス・イン・マイ・ハート”と“ダーン・フォー(Done For)”“アウェイク・トゥ・ユー”を送ったら、彼がそれを気に入ってくれて、〈ブレインフィーダー〉からリリースしてみないか? とオファーをくれた。だからすぐに「最高だな!」って返事したんだ。

取材:矢野利裕(2014年5月21日)

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Profile

矢野利裕 矢野利裕(やの・としひろ)
1983年生まれ。ライター、DJ、イラスト。共著に、大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と一九九〇年代』(おうふう)などがある。

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