Home > Interviews > interview with TOWA TEI - 祝、ソロ活動20年
今年の夏から秋にかけてのテイ・トウワ祭りとでも言えばいいのか……ちなみに『94-14 REMIX』のリミキサーは、砂原良徳、コーネリアス、マスターズ・アット・ワーク、細野晴臣、テイ・トウワ自身ほか。テイ・トウワ対談集「ハタチ」の対談相手は、細野晴臣、高橋幸宏、バカリズム、阿部潤一、山本宇一、五木田智央。
その頃は、レッド・アラートが週末ラジオやっているのを知っていたので、毎週エアチェックをしていました。朝から晩までPファンクを聴いたり。学校にも行かずにレコード屋でダンクラとかPファンクを買って、ブレイクビーツものだとか、「レッスン 1-3」に入っているようなネタを全部集めたりとかね。
TOWA TEI 94-14 ワーナーミュージック・ジャパン |
TOWA TEI 94-14 COVERS ワーナーミュージック・ジャパン |
Various Artists 94-14 REMIX ワーナーミュージック・ジャパン |
■テイさんの場合はもともと……。
TT:もともとは電通にいきたかったから(笑)。
■はははは、最初はグラフィック・デザイナーになりたかったんですよね。10代の頃のヴィジョンとしては、音楽で生活するのは無理だろうからグラフィック・デザインをがんばろうっていう。でも、結果、音楽を頑張っちゃったっていう感じなんですよね。
TT:最近不定期でやっているMETAFIVEという僕とまりんと小山田くんとかがメンバーのバンドは、高橋幸宏さんがリーダーなんです。幸宏さんは僕より一回り上ですが、僕らよりも飯を食うし、酒を飲むし、スケジュールも埋まっているし。そういう特殊な人の影響で、僕やまりんは音楽に興味を持ってしまったから、幸宏さんはいつまでも追い越せない先輩だと思っていますね。
■でもトーフ・ビーツみたいな若い世代からしてみれば、テイさんだってそういう存在だと思いますよ。まあ、今日は20周年記念取材なので昔のお話も訊いてみたいと思います。YMOで人生が変わったという話は有名ですけど、YMOからDJカルチャーへアプローチしたのはどういう流れなんですか?
TT:自然な流れだったんですよね。『HATACHI』のなかの五木田(智央)くんとの対談にもけっこう出ている話だと思いますが、ニューヨークに行った理由も美大だったんです。それまで短大に2年行ったけど、いろいろあって編入できなくて、ブラブラしていました。YMO周辺の〈MIDI〉の人たちからレコードを出さないかとオファーがあったけど、それも断ったり。ヴィジョンが描けなかったんです。
そんなとき、親も「男が4年制を出てなくてどうすんだ?」って、お金を出してくれると言ってくれて、じゃあ海外行ってみるかと。最初なんとなくロンドンかニューヨークがいいんじゃないかと思いました。ロンドンにはホックニーがいるけど、ニューヨークに決めたのは、バスキア、ウォーホール、ラウシェンバーグとか好きな人が多かったからです。美大だったらそっちの方がいいのかなという軽いノリで決めました。
■それが87年でしたっけ?
TT:そうですね。87年の2月に行きました。当時僕は少しヒップホップにかぶれていましたね。日本で、高木完ちゃんとか近田春夫さんがインクスティックとかで着ていたアディダスがカッコよくて、自分も持ってましたから。さらにコム・デ・ギャルソン着てみたいな(笑)。で、現地でエリックB&ラキムとかEPMDのライヴに行くと、日本人はぼくたち3人しかいない(笑)。
その頃は、レッド・アラートが週末ラジオやっているのを知っていたので、毎週エアチェックをしていました。朝から晩までPファンクを聴いたり。学校にも行かずにレコード屋でダンクラとかPファンクを買って、ブレイクビーツものだとか、「レッスン 1-3」に入っているようなネタを全部集めたりとかね。
ハウスにハマったのは、フランキー・ナックルズを見てからですね。あるときマントロニクスを見に行ったんだけど、フランキーもDJやっていて。まだ彼のことは知らなかったんですけど、すごい気になる曲があったからブースまで行って話しかけたんです。向こうからしたらかわいい東洋人だったろうし、フランキーはゲイだったから、「おいで〜」って呼ばれて、レコードをいろいろ見せてくれたんですね。それを一生懸命ナプキンにメモって帰りました(笑)。
■ハウスとヒップホップが一緒だった時代、ハウスとヒップホップとのあいだに今みたいな溝がなかった時代ですよね。そこを往復していたという意味で、テイさんはすごく幸運だったと思いますよ。
TT:それぞれの頂点にいる人たちが、お互い毛嫌いしてやっているわけではなく、たとえばレッド・アラートが0時00分くらいで終ったら、トニー・ハンフリーズやフランキーとかに「お疲れ〜よろしくね〜」ってバトンタッチする。こういう感じのシーンを目の当たりにしてましたから。
■いろいろあるなかで、とくに好きだったのは何ですか?
TT:最初はネタとか、ブレイクビーツにすごく興味を持ったんですよ。ダブル・ディー&スタンスキーの「Lesson 1-3」とか、グランドマスター・フラッシュの「ジ・アドヴェンチャー・オブ・グランドマスター・フラッシュ・オン・ザ・ウィールズ・オブ・スティール」(1981年)のネタをひとつずつ調べていったりとか。ちょっとオタク的なところがあったんです。コレクターとは違うんですけどね。コレクターって、イギリス盤とアメリカ盤があって、ちょっと番号が違うとか書体が違うだけで買ったりするけど、そういう感覚は僕にはない。聴ければいいんですよ。
■ネタを知ったときの喜びってありますよね(笑)。
TT:DJして、汗をかくときって、曲を作っているときと違って速弾き感がないというか、筋肉の動きが見えないというか。ちょっと逸れちゃうかもしれないんですけど、ハウスにいたってはレーベルの色や書体だったり幾何学模様だったりで覚えていたけど。デトロイト・テクノも金色のレーベルとかで覚えてたり。そこにヴィジュアルがついたのがディー・ライトだったんじゃないですかね。
■はっきり言って、ディー・ライトで人生を間違えた友だちは多いですよ(笑)。
TT:そうですか(笑)。
■それまでポップスしか聴いてなかったのに、あれを聴いたおかげでハウスが好きになっちゃったっていう。
TT:そのころ自分たちはハウスのなかにどっぷり浸かっていたものの、ディー・ライトの3人のなかで僕だけがヒップホップのネイティヴ・タンのところを出入りしていたりとか。ブーツィーとやれたらいいよねって思っていたしね。実現出来てラッキーだったし、それがいい時代だったとか言うと「死ね」とか言われそうだけど(笑)。でも本当にそう思うんですよ。
■はははは。テイさんはディー・ライトで大成功して、ポップのスターダムというと嫌かもしれないけれど、そういう高い場所までいってしまいましたからね(笑)。
TT:嫌じゃないですよ! それをやろうと思ってエグザイルの格好で踊っている人たちがいっぱいいるわけじゃないですか。そう思ってもないのに経験できたわけですから(笑)。
■でも、結果、活動に疲弊して日本に帰ってきたということは、アメリカの音楽業界の派手な部分と同時に、業界の嫌な部分も全部見たわけですよね?
TT:そうですね。当時全米ナンバーワンのポルノ女優の……
■はて?
TT:名前が出てこない……宇川君だったら即答するような……
■誰でしょう?
TT:トレイシー・ローズ!
■ああ!
TT:そうだ、トレイシー・ローズ。彼女が家に来ましたからね。マネージャーと一緒にデモテープを持って。そのときは何て答えればいいのかわからなかったですが(笑)。
■何歳のときだったんですか?
TT:ディー・ライトのときに26歳だったので、27歳とかですかね。そのときはもう、他のメンバーはツアーに出かけて、僕は「やーめた」ってなって。メンバーやマネージャーに「トウワはひとりでプロダクションをどんどんやりなさい」って言われても、できなかった時期です。トレイシーさんにも会ったけど、デモテープを貰っただけで何もやらなかったですし。他にも夢のようなオファーはあったんですけど、ひとつもやらなかった。
そのころ、立花ハジメさんとちょっと知り合いだったんですけど、立花さんからある日、ロスでディーヴォと会ってきたって連絡があって、その流れでニューヨークで会うことになったんです。それまでそんなに仲良くなかったんですけど(笑)。で、そのときに“バンビ”っていう曲を作ったんですけど、契約上僕は曲を出せなかったんですね。ソロはワーナー・エレクトラとの契約だったので。結局、クレジットは、「プロデュースド・バイ・ハジメ&トウワでいいです」ってなったんですけど。
ソロになって最初に仕事をしたのは、坂本龍一さんと立花さんなんです。教授に手伝ってと言われたときは「僕にそんなことできるかよ」って思ったけれど、教授にしても、立花さんにしても、ふたりを通してぼくはシーンを知ったようなものだから、がんばって仕事を引き受けようと思いました。でも、ディスコグラフィーを見るとわかるんですが、そのころは全然作品を作ってないんですよ。いま思うと、当時は元気じゃなかったかも。
■帰国直前ですよね?
TT:そうですね。『フューチャー・リスニング!』(1994年)の前ですね。このアルバムを作ることによってだいぶ治ったというか。『フューチャー・リスニング!』は全部ニューヨークで作りました。日本盤は94年に出たのかな。帰国したのは95年ですね。
野田努(2014年9月17日)