Home > Interviews > interview with TOWA TEI - 祝、ソロ活動20年
今年の夏から秋にかけてのテイ・トウワ祭りとでも言えばいいのか……ちなみに『94-14 REMIX』のリミキサーは、砂原良徳、コーネリアス、マスターズ・アット・ワーク、細野晴臣、テイ・トウワ自身ほか。テイ・トウワ対談集「ハタチ」の対談相手は、細野晴臣、高橋幸宏、バカリズム、阿部潤一、山本宇一、五木田智央。
TOWA TEI 94-14 ワーナーミュージック・ジャパン |
TOWA TEI 94-14 COVERS ワーナーミュージック・ジャパン |
Various Artists 94-14 REMIX ワーナーミュージック・ジャパン |
テイ・トウワがニューヨークに渡った時代は、クラブ・カルチャーにとって、細分化をまだ知らなかったという意味では幸福な時代だった。ヒップホップはハウスと手を組んでいたし、どちらか片方だけを追求するオーディエンスもまだいなかった。UKジャングルなんていうのも、実を言えばヒップホップとハウスを両方聴いていた耳が作り出したもので、ヒップホップ(ブレイクビート)を45回転のプラス8でかけたら面白かったというわけだ。
なんにせよこの原稿で重要なのは、テイ・トウワとは、そんな無邪気な時代の空気を思い切り吸って吐いていたひとりである、ということだ。
1987年、ニューヨークに渡ってDJ活動をはじめると、彼はスーパー・ポップ・ハウス・グループのディー・ライトに参加している。1990年の「グルーヴ・イン・ザ・ハート」は、ナイトクラブでも街中でも、そしてお茶のでも流れた大ヒット曲だが(全米4位/全英2位)、このブレイクビート・ポップ・ハウスではブーツィー・コリンズがベースを弾いてQティップがラップをしている。メイシオ・パーカーはサックスを吹いている。ディー・ライトは、華やかで、デイジーな時代を象徴するポップ・アイコンだった。そして当時のテイ・トウワは、どこか別の惑星で売られているコミックの世界からやって来たかのような、ピカピカの青年だった。彼は輝いていた……いま輝いてないわけではないが、1990年の時点では最高に眩しいポップの住人のひとりだったのだ。
今年2014年は、1994年に彼が最初のソロ・アルバム『フューチャー・リスニング!』を出してから20周年にあたる。ディー・ライトを脱退してからもテイ・トウワは順調にリリースを重ね、ソロ活動を展開している……と言っていいだろう、端から見ている分にはそう見える(人知れない葛藤や苦難があったと思うが、それを前面に出さないのがテイ・トウワでもある)。
去る7月末には、彼の曲のベスト・リミックス・アルバム『94-14 REMIX』(いろんな人たちにリミックスされた楽曲のベスト盤)をリリース、9月には五木田智央のアートワークによるベスト・カヴァー集『94-14 COVERS』、そして同時にベスト・アルバム『94-14』をリリース。また、20周年を記念した対談集『HATACHI』も刊行した。
筆者の10歳ほど年下の友人には、「グルーヴ・イン・ザ・ハート」のお陰で人生をクラブ・ミュージックに捧げてしまった人が少なくない。また、打ち込みをしている日本の人に話を聞くと、好きなプロデューサーでよく名前が挙がるひとりはテイ・トウワだ。ポップとアンダーグラウンドを股にかけるとはよく言われることだが、それを長年実践するのは容易なことではない。
今回は、YMOチルドレンのひとりだった10代からNY時代、帰国後の東京から軽井沢への移住など、これまでの経歴をざっと回想してもらった。ダブル・ディー&ステンスキーの「レッスン1,2,3」の話など若い世代にはピンと来ないかもしれないが、他人曲を盗んで(カットアップして)新しいモノを創作するという、サンプリング・ミュージックの最初期のクラシックであり、いま聴いても名作なので、ぜひチェックして欲しい。
ひとつ言えることは、ネガティヴがあってのポジティヴだと思うし、つらいことがあってのハッピーだと思うんです。人生がハッピーだけの人っていないと思うんだよね。絶対に陰影というか、光があるところには影がある。
■初めてテイさんと取材で会ったのが、『サウンド・ミュージアム』(1997年)のときでしたね。ゲストがすごくて、ビズ・マーキーとかモス・デフとか、カイリー・ミノーグとか参加してて、リミキサーにはQティップもいて。この頃は、テイさんがドラムンベースを取り入れた時期でしたよね。
テイ・トウワ(以下、TT):“エヴリシング・ウィ・ドゥ・イズ・ミュージック”の1曲だけそうですね。
■よく覚えているのが、ドラムンベースはハウス以来の衝撃だったと答えていたことです。
TT:そうです。それ以降は2ステップもちょっとハマりましたけど、ドラムンベースほどでもなかったです。自分のなかで2ステップはドラムンベースのテンポが違うものという認識でしたね。
■実はテイさんって、2000年ぐらいの早い段階で、2ステップやUKガラージをやっているんですよね。
TT:早かったと思います。リファレンスがなかったので。
■MJコールをリミキサーにしたりとかね。
TT:野田さんほどではないかもしれないですけど、そのときはクラブ・ミュージックのトレンドを先取りするアンテナが自分に生えていたんです。興味がなくなっちゃうのはそのあとですね。
■そうですよね。
TT:「そうですよね」って言われてしんみりしちゃう人が多いと思うんですけど、全然僕はそんなことなくて(笑)。もっと積極的に……。
■積極的に、20年間もコンスタントに作品を出されているじゃないですか(笑)。
TT:結果的にそう言われますね。
■それはすごいことだと思いますよ。エイフェックス・ツインの新作も13年ぶりだったし……。テイさんは自分のなかでマンネリ化したり、煮詰まったりはしなかったんですか?
TT:まだ何もやってはいないんですけど、小山田くんと砂原くんと一緒にOSTっていうプロジェクトを作ったんですよ。名前を決めてから2年くらい経っちゃったんですけど。
その話が出たころ、砂原くんは何度作っても制作が終らないっていう時期でしたね。で、YMOの打ち上げで3人が一緒になることが多くて、「そういえば小山田くんも出してないよね」、「ていうか、このなかでテイさんが一番出してるよね」みたいな話になったんです。僕は彼らの音楽を聴きたかったから、では、どうしたらいいんだろうって考えたとき、3人でやればいいと、で、3曲くらい持ち寄ればEPにはなると。アルバムだったら何曲だろうって訊いたら、「6曲じゃないですか」って言うんですね(笑)。
■少ない(笑)。
TT:それは初期のクラフトワークとかの話だろって(笑)! 「それこそコンピ気分で3人が3曲ずつ持ち寄れば立派なアルバムじゃん」という話をみんなでして。そのときには、3人でアルバムを作るということが心の支えになりましたね。
■誰かの取材のときにその話聞きました。
TT:で、まりんはめでたく10年ぶりに『リミナル』(2011年)を出して、それ以降は活動が活発になりましたよね。ライヴもしているし、DJもやっている。この前、僕のパーティでやけにアゲアゲのDJがいるなって思ったら、まりんでした(笑)。
いまはそんなに新作が聴きたい人っていないんですよ。エイフェックスにも興味はあったけど、13年もリリースがないと、どうしたのかなって不安に思いますよね。でも、この13年のあいだにエイフェックス・ツインのことを思い出したのは2回くらいしかなかったんじゃないかな(笑)。でも、こうやってみんな世代交代していくんですよ。それでいいと僕は思うんです。結論を言えば、誰かのために作っているわけじゃないし、自分が聴きたいから作っているのだから。
野田努(2014年9月17日)