「Noton」と一致するもの

Binker and Moses - ele-king

 南ロンドンのジャズ・シーンや周辺のアーティストたちの間で、よく名前が挙がるライヴハウス兼ラボにトータル・リフレッシュメント・センターがある。ロンドン北東部のダルストンという町にあるのだが、南ロンドンのミュージシャンもよく利用しており、箱側としても彼らの活動をサポートしている。リハーサル・スタジオなどの設備も完備しており、比較的安価な料金で誰でも利用できるという点がポイントで、通常のライヴ営業時間の後にフリーで飛び入り参加できるアフター・アワーズ・セッションがある。このセッションでミュージシャンたちは腕を競い、お互いの技術向上を図り、横の繋がりが生まれていく。こうした環境が南ロンドンのジャズ・シーンが発達していく要因のひとつでもあるのだ。トータル・リフレッシュメント・センターはレーベル運営もおこない、ヴェルズ・トリオがEPを出しているほか、サンズ・オブ・ケメットザ・コメット・イズ・カミング、トライフォースなどが録音スタジオとして用いている。今回紹介するビンカー・アンド・モーゼス、イル・コンシダードのアルバムは、共にこのトータル・リフレッシュメント・センターでのライヴ録音だ。

 ビンカー・アンド・モーゼスはテナー・サックス奏者のビンカー・ゴールディングとドラマーのモーゼス・ボイドによるユニットで、これまでに『デム・ワンズ』(2014年10月録音)、『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』(2016年7月録音)という2枚のアルバムをリリースしている。また、ビンカーはモーゼスのソロ・ユニットであるエクソダスにも参加することがあるほか、モーゼスがプロデュースするザラ・マクファーレンの『アライズ』(2017年)でも演奏しており、お互いに重要なパートナーとなっている。ビンカーはそもそもフリー・インプロヴィゼイション畑出身で、英国フリー・ジャズ界の重鎮サックス奏者であるエヴァン・パーカーあたりからの影響が見られる。実際に『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』にはエヴァン・パーカーがゲスト参加したほか、バイロン・ウォーレン、ユセフ・デイズ、サラシー・コルワルらも加わってのセッションを展開している。モーゼス・ボイドは南ロンドンのジャズ・シーンを牽引するドラマーで、ジョー・アーモン・ジョーンズ、ヌビア・ガルシア、テオン・クロスなど数多くのセッションに参加している。トニー・アレンからアフロ・ビートを伝授され、自身のエクソダスではヒップホップからジュークなどクラブ・ミュージックに接近する一方、ピーター・エドワーズのトリオでは正統的なジャズ・ドラミングも見せ、ザラ・マクファーレンの『アライズ』ではジャマイカ音楽へのアプローチを見せるなど、非常に柔軟でレンジの広いミュージシャンである。ビンカー・アンド・モーゼスではビンカーのプレイに対応して即興的でフリー・フォームなプレイを見せ、ライフタイムを率いていた頃のトニー・ウィリアムスを彷彿とさせるような、スリリングで激しいドラミングを展開している。

 最新作の『アライヴ・イン・ジ・イースト?』は、こうしたビンカー・アンド・モーゼスの活動を総括するもので、前述のとおりトータル・リフレッシュメント・センターで観客も交えてのライヴ(2017年6月録音)となっている。ただし、『デム・ワンズ』と『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』との曲の被りはなく、すべて新曲で構成されている。ゲスト参加者は『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』のときと同様に、エヴァン・パーカー(テナー&ソプラノ・サックス)、ユセフ・デイズ(ドラムス)、バイロン・ウォーレン(トランペット)、トリ・ヘンズレイ(ハープ)。モーゼスとユセフのツイン・ドラムは強烈極まりなく、彼らのリズム上でビンカー、エヴァン、バイロンがソロのバトルを繰り広げ、観客も交えたトータル・リフレッシュメント・センターの熱気がそのまま真空パックされている。

 イル・コンシダードの『ライヴ・アット・トータル・リフレッシュメント・センター』も同様に、ジャズのライヴの興奮をそのまま凝縮したものだ。彼らはそもそもライヴ活動に主軸を置くグループで、デビュー・アルバムもロンドンのカンバーウェルにあるザ・クリプトという会場でのライヴ盤(2017年7月録音)だった。メンバーはアイドリス・ラーマン(サックス、クラリネット)、レオン・ブリチャード(ベース)、エムレ・ラマザノグル(ドラムス)、サテン・シン(パーカッション)で、自主で『ライヴ・アット・ザ・クリプト』、『イル・コンシダード』(2017年)、『イル・コンシダード3』(2018年)をリリースしている(『イル・コンシダード』のみパーカッションはヤエル・カマラ・オノノが担当)。アイドリス・ラーマンはイギリス生まれだが、父親がベンガル(バングラデシュ)系で、スースセイヤーズ、ワイルドフラワー、ユナイティング・オブ・オポジッツでも演奏する。レオン・ブリチャードはアイドリスとトム・スキナーと共にワイルドフラワーを組むほか、イビオ・サウンド・マシーン、メルト・ユアセルフ・ダウン、タイ、ロンドン・アフロビート・コレクティヴなどのセッションに参加してきた。エムレ・ラマザノグルはトニー・ウィリアムスとレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムの影響を受け、ノエル・ギャラガー、リリー・アレン、デヴィッド・ホルムズ、マーク・ロンソンなどさまざまなセッションに参加している。サテン・シンは在英インド系で、メルト・ユアセルフ・ダウン、リール・ピープル、バー・サンバなどでも演奏している。イル・コンシダードもビンカー・アンド・モーゼス同様にフリー・インプロヴィゼイションを志向しているが、インドやバングラデシュ系のメンバーがいる点、パーカッションも交えたより有機的なリズム構築がポイントで、楽曲によってインドや中近東から、エチオピアなどアフリカの民俗音楽のエッセンスを取り入れたジャズやジャズ・ファンクを演奏する。

 『ライヴ・アット・トータル・リフレッシュメント・センター』は2018年3月の録音で、これまでの3枚のアルバムでやってきた曲を選りすぐって演奏している。“デルージョン”を筆頭に、これまでのスタジオ録音に比べてテンションの高いパーカッシヴな演奏を披露する。後半にいくにつれてどんどんエキサイトしていき、“サンフラワー”や“アンリトゥン・ルール”で盛り上がりはピークに達する。後者でのベース、ドラム、パーカッションによる立体的なリズムの出し入れと、それに対するサックスのインタープレイの応酬は、これぞジャズの醍醐味と言えるだろう。一方で“ナダ・ブラーマ”における瞑想的でミステリアスな光景も、またイル・コンシダードの魅力のひとつでもある。

 2作品とも非商業的なジャズで、USの新世代ジャズと比較しても非常にアンダーグラウンドな部類に属するものだが、現在の南ロンドン・ジャズ・シーンの現場の風景、その盛り上がりを体感することができるアルバムと言えるだろう。また、ジャズはあくまでライヴ・ミュージックであり、スタジオ録音では生み出せないテンションやエネルギーがそこに存在していることを教えてくれる。

Khalab - ele-king

 ひと言で言えば、ぶっ飛ばされますね、これは。トーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』から歌メロを削除して、あの音響のみを凝縮し、さらにダブ・ミキシングを加えて、高速で再生してみる。アフロ・ファンクのえもいわれぬエコーとグルーヴ。ポリリズミックな武装。圧倒的なトランス・ミュージック。
 いまでもまだ、アフロ・ミュージックのフレーズ/リズム/音色を取り入れているエレクトロニック・ミュージックには多少はもの珍しさという価値があるのかもしれない……いや、もうないか。ま、なんにせよ、しかしDJカラブのこれ──その名も『ブラック・ノイズ2084』は、記号的にアフロを取り入れているから面白いというわけではない。情報をかき集めて作ったものであることはたしかだろうが、小手先で作った音楽とは思えない濃密さと説得力がある。雑食性の高いサウンドだが、すべての音は有機的に結びついているし、そのすごさは下調べを要することなく伝わる。
 基本的に、『ブラック・ノイズ2084』はダンス・ミュージックのアルバムだ。その冴えたミキシングによる音響の独特さを備えた1枚であり、なんといってもここにあるリズムの迫力、躍動感に満ち満ちたアフロ・エレクトロが展開される。

 まずはアルバムの前半、Tenesha The Wordsmithという女流詩人がリーディングする表題曲“Black Noise”からシャバカ・ハッチングスがサックスを吹きまくる“Dense”という曲までの展開が最高。続く“Chitita”もヤバい。ダブ処理されたチャント、地面を這いつくばるベースライン、ゴーストリーなエコー……超越的なアロフ・フューチャー・テクノ。
 
 DJカラブは、クラップ!クラップ!のマブダチで(ele-king vol.20参照)、モー・カラーズニノス・ドュ・ブラジルとも親しくしているそうだ。もともとはラジオDJだったというが、10年以上前からローマでアフリカをコンセプトにしたパーティをはじめている。イタリアの音楽は将来的によりアフリカと交わっていくだろうという読みが、カラブにはあった。
 そしてアフリカの多彩なリズムのミキシングを試みるようになったというそのパーテで、カラブはエチオピアン・ジャズのリジェンド、ムラトゥ・アスタトゥケを招いているし、マリのベテラン・シンガー、ババ・シソコ(※アート・アンサンブル・オブ・シカゴにも参加している)にも出演してもらっている。そんな縁もあってカラブは2015年、ババ・シソコとのコラボ・アルバムを出しているが、それもまた素晴らしいです。
 2015年といえば、カラブはその年、〈ブラック・エーカー〉からのEP「Tiende! 」(クラップ!クラップ!も参加)によって注目を集めているようだが、しかし本作『ブラック・ノイズ2084』は、とてもそのEPなんかの比ではない。

 アフロ・ミュージックに精通している人が聴いたら、いろんな地方のいろんな音楽が、そして多彩な楽器音が再編集されていることに気づくだろう。シャンガーン、ゴム……、まあいろいろ。ぼくは最初はマーク・エルネトストゥスのンダガ・リズム・フォースを思い出したけれど、先述したように、『ブラック・ノイズ2084』はより雑食的であり、雑種である。そういう意味でも“ブラック・ノイズ”だし、そしてたしかにこの音楽はとことんやかましく、つまりノイジーなのだ。
 アルバムの制作時に、カラブはブリュッセルの王立中央アフリカ博物館を訪ねている。同所には、国王レオポルド2世による非情な植民地政策の痕跡も残されているというが、『ブラック・ノイズ2084』の背後には、植民地主義への批判精神、ヨーロッパ中心主義への怒りが込められている。2084とはリズムにちなんだ数字のようで、リズムは、呪いを振り払うための手段でもあった。
 とはいえこのアルバムは、政治的な音楽にありがちな悪い重さに支配されてはいない。アルバムの後半、コラージュ・アートめいたクラップ!クラップ!との共作“Cannavaro”から気鋭のUKジャズ・ドラマー、モーゼス・ボイドが参加している“Dawn”への流れもまったく拍手もの。

Kanye West - ele-king

 タイトルの「ye」とはもちろん〈Kan“ye”〉のことだ。しかし同時にこれは古語で「汝ら」を指す。アートワークで宣言される、双極性障害との付き合い。オープニングの“I Thought About Killing You”の「You」とは誰か。
 計画殺人。カニエはその暗い企図を吐露する。それは、アウト・オブ・コントロールの自己だ。
 人の思考は自由だ。人の発言は自由だ。それは何者にも抑圧されてはならない。俺は自分自身を愛している。お前よりもずっと。だけど俺は自殺について考える。そしてお前を殺すことを真剣に考える。これは計画殺人だ。
 カニエが語りかけるその声色は、度々ピッチが上がり下がり、変化する。ふたつの極を行き来するように。そして挿入される、オートチューンでコントロールされた鼻歌。無意識的に現れる、もうひとりの自己。

 度々ピッチ/フォルマントが変わりゆく声色によるまた別のヴァースを、僕たちは知っている。ケンドリック・ラマーの“PRIDE.”(=傲慢さ)がそれだ。死の観念に取り憑かれているのは、ケンドリックもカニエと同様だ。しかしそれ以上に共通点はあるだろうか。ふたりが匿う、別のピッチを持つ声色は、一体誰のものか。
 ふたりのヴァースに共通する言葉がある。「go numb=感覚が麻痺する」というフレーズ。
 同曲の後半のラップパートでカニエは「とても眩しいが/太陽じゃない/とてもでかい音だけど/俺には聞こえない/でかい声で叫んで/声量はなくなって/傷付いて/俺の感覚は麻痺する(I go numb)」とライムする。
 一方のケンドリックは「この前はどうでもいいって感じだったけど/今でもそれは変わってないぜ/俺の感覚は麻痺してるのかもしれない(My feelings might go numb)/お前はそんな冷たい奴を相手にしてるんだ」とヴァースをキックする。彼が自分の不完全さをあからさまに描くヴァースの一節だ。そのピッチの上下の不安定さは、七つの大罪のうち最も重いとされている、傲慢さとの関係性を示している。ルシファーが紐づけられた、罪の重み。自分の意思で自由にコントロールできない傲慢さが現れたり消えたりするにつれて、ピッチは上下する。
 ではカニエはどうか。ピッチの変化は、アウト・オブ・コントロールになった自己が、ある極へと振られている様を示す。件のラインでは、双極性障害を考え合わせれば、躁状態の症状でもある尊大さの表れとして「太陽」が引き合いに出される。だがすぐに太陽は堕ち、暗闇で何も聞こえない震える自己の身体だけが残る。「感覚が麻痺する」ことで、自分の身体がより一層意識される。
 その輪郭を意識させるのは、言葉だ。そしてその言葉を発声することだ。発声し、ビートに寄り添わせることだ。ビートのグリッドに、自らを押し込むことだ。
 同曲の後半のビートは、ウワネタに叫び声(=スーパーヒーローの雄叫び)がコラージュされた電気仕掛けの箱だ。カニエは箱の内側から、ライムでドンドンと壁を叩きまくる。それが壊れてしまうまで。だが声色のピッチはもはやブレない。
 その尊大さと、これまでヒップホップの歴史の中で、ラップの一人称が培ってきたメンタリティの違いを、どのように見ればよいのか。その境界は極めて曖昧だ。
 同曲のラストをカニエはこう締めくくる「“ye”のことを話し続けろ/お前の歯がフリトレーみたいに欠けちまわないように」。

 ヒップホップは、これまで新しい一人称像を求め続けてきた。ギャングスタ、コンシャス、ブラックリーダー、ナード、グッドキッド……。ありきたりな話を聞いてもつまらない。だからギャングスタであれば一層ハードコアな描写が求められるし、逆にマッチョなステレオタイプに抗うように、自分の殻に引きこもったり、悶々と悩んだりするキャラクターが要請される。「ye」の存在を公言するカニエは、これまでもそうだったが、その一人称の新しさの地平を開拓し続けている。

 このピッチの不安定な一人称は、続く“Yikes”においても顕著だ。
 上目遣いで自身の窮乏を訴えかけるようなフックのトーン。ヴァースをキックしているカニエの自信過剰でこちらを煽るようなトーン。そしてその煽りを凝縮し爆発させる喋りのトーン。
 これら三つのトーンの危ういバランス感が、この曲に名状しがたい緊張感を張り巡らせている。ビートの浮ついたシンセ音が、まさに地に足のつかない感覚を助長する。「ときどき自分が怖くなるんだ」とフックで歌い上げる彼のトーンには、確かに切実さが宿っている。しかしラストの喋りのパートでは、リスナーやメディアを挑発し、嘲笑するかのように、このアウト・オブ・コントロールの自己こそを「ye」と名付け、スーパーパワーなのだと喝破する。
 楽曲を締めくくる、スーパーヒーロー「ye」誕生の雄叫び。あるいはそれはルシファーの咆哮なのだろうか。しかしその雄叫びの直後に聞こえてくるのは、その声の持ち主の誕生を賛美する、柔らかく静謐なオルガンの調べに他ならない。
 4曲からラストの7曲目までに通底する感覚は、このオルガンのサウンドにも象徴されるように、「ソウルフル」の一言に尽きる。家族を賛美するコーラスが、妻のキム・カーダシアンと二人の娘たちに捧げられる。家族と魂。かつての子供が親になり、子供を持ち、子供に歌う。
 混迷した私生活とソウル・ミュージックといえば即座にマーヴィン・ゲイ、スライ・ストーン、そしてダニー・ハサウェイと言った名前が想起させられる。一方に『Yeezus』のような緻密で攻撃的なサウンドがあり、他方に今作のようなラフでソウルフルなスケッチが鎮座する。これらもまた、互いに「極」を示しているのだろう。
 ここで聞こえるのは、これまでの彼のアルバムの緻密なプロダクションとは対極的な、先行する感情だけを凝縮しパッケージしたような非常にラフなものだ。しかしそれだけに、余分なレトリックなしに、彼と音楽の関係性が透けて見えるようなのだ。

 鍵は6曲目の“Ghost Town”にある。PARTYNEXTDOOR が歌い上げる冒頭部。天まで響きわたるオルガンと、温かみのあるオーヴァードライヴのギターサウンドは、否応無しに教会という場における歌の効用を思い起こさせられる。
 白眉は後半だ。オルガンの持続音が響くなか、天上を指差しながら Kid Cudi が歌うのは、Vanilla Fudge の“Take Me For A Little While”の冒頭の一節だ。「俺は君に愛されるように努力してる/でもそうすればするほど君は遠くへ行ってしまう」。
 すると雲の間から漏れる光のように 070 Shake の歌声が降臨する。ゴーストタウンを闊歩しながら、彼女は朗々と歌い上げる。
 「もうなにがあっても傷つかない/なんだか自由を感じる/私たちはあのときと同じ子供のままだから/ストーブに手を当てて/まだ血が流れているか確かめる」
 背後で響きわたるスネアと炸裂する残響音は、子供のころに見上げた花火の残照だ。七色の閃光が、ゴーストタウンを見下ろす。大人が築き上げ、やがて荒廃した世界を見下ろす。
 そしてこの子供であることの自由は、カニエの Kid Cudi との KIDS SEE GHOSTS 名義のセルフ・タイトルのアルバム収録の“Freeee (Ghost Town, Pt.2)”へと引き継がれる。「もう痛くない/なんでか分かる?/自由だからだよ/もうなにがあっても傷つかない」。
 070 Shake は「ローリングストーン」のインタヴューに答えて言っている、「血を流しているときは、感覚が麻痺してなくなって(it’s so numb)なにも感じさえしない」と。
 カニエとケンドリックのリリックに表れていた「go numb」に連なるようにここで示唆されているのは、子供になること=感覚をなくすことではないか。
 感覚をなくすこととは、音楽制作に没頭することだ。ワイオミングの大自然の中で。さらには、頭を空っぽにして、韻だけを頼りに即興的にリリックを書いていくことだ。たとえば“I Thought About Killing You”では「親戚(cousins)」と「ムスリム(Muslims)」が、“Yikes”では「ゾンビ(zombie)」と「ガンジー(Gandhi)」と「アバクロ(Abercrombie)」が隣に並び、突発的に縁を持ってしまう。
 精神の空白地帯に頭をもたげる言葉を、即興的に吐き出すこと。彼のライムも、そして様々の発言も、そのような突発を患っている。

 カニエが連発する7曲入りのアルバム群もまた、突発の申し子だ。その中でも、『KIDS SEE GHOSTS』のリズム/サウンドの両面で子供が持ちうる冒険心に溢れる楽曲の数々は、『ye』と対にして、あるいは併せてひとつのアルバムと捉えうる性質を持っている。
 両者が示してくれるのは、カニエが決して手放さないサンプリングという手法を交えて音楽を作ることが、いかに子供に「なる」という感覚と密接かということだ。人生のあるモメントにおいて、それが重要な役割を果たしてくれるかということだ。
 カニエの自己への倒錯的な愛情が、表面張力ギリギリで形をなす彼の音楽に、どのような波紋を広げていくのか。彼自身がまさにそれを期待しているように、僕たちはその一挙手一投足から、目が離せない。

Kajsa Lindgren - ele-king

 W杯期間中、とうぜんJ1リーグはお休みで、その間それぞれのチームは休養したり、練習したりしていたわけだが、ぼくが応援している清水エスパルスというここ数年ぱっとしないチームは、18チームのなかでもっとも長い休暇を取っていた。長谷川健太が指揮を執るFC東京などほぼ休みナシで練習していたというのに、スウェーデン人のヤン・ヨンソンが監督を務める清水エスパルスは16日間も休んでいたし、練習再開後も休みが多いので、サポーターは「大丈夫かよ?」と不安視しているのだが、考えてみればスウェーデンは「短縮労働」の先進国だ。高度化した育児休暇制度をはじめ、「フレキシブル・ワーク」の一般化のみならず、1日6時間労働による生産性の向上という実験もはじめている。欧米では評価されているこうしたスウェーデン式だが、忙しくしていないと落ち着かないという日本社会ではまだまだ浮いてしまっているのが実情だろう。

 カイサ・リンドグレンはスウェーデンの作曲家/エレクトロニック・ミュージッシャンで、本作『ウーム(子宮)』は彼女のファースト・アルバムになる。自然、そして身体におけるフィールド・レコーディングの素材をさらに水中で再構成したという作品で、まったく独特の音響が生成されている。アンビエントともウェイトレスとも言いたくない、引き合いに出されているのはイーノとジョン・ハッセルの『Possible Musics(第四世界の鼓動)』だが、というのもこのアルバムは、まだ見たことのない(聴いたことのない)世界を表現したいという欲望による、ある種の異世界を描いているからだ。彼女は最終的には、無生物の世界さえも空想しているようだ。

 あるいはまた、フランスの実験派の女性アーティスト、フェリシア・アトキンソンと比較されるリンドグレンは、安易な音旅行には舵を取らず、音響の深海へと潜水しているかのようだ。水中ミキシングということで涼を求めるなんてとんでもないです。とはいえ、この音楽は耳障りなわけではないし、人を動揺させるものでもない。極めて静的な音楽だ。
 彼女はこのアルバムのリリースにあわせて、ストックホルムでは水中コンサートを開いたそうだが、なんかそれも生活のなかに気持ちの余裕のあるスウェーデンらしさがゆえの実験なのだろうか。こんな生産性のないことに夢中になれることが羨ましい。それにしても最近は、エレクトロニック・ミュージックにおいて、聴いて良かったので作者を調べてみたら女性だったということがじつに多い。

butaji - ele-king

 一橋大学で起きたアウティング事件は、性的指向を本人の意思によらず明らかにしてしまうことが人権侵害にあたるということを世に知らしめたという点で、報道されたことにじゅうぶんな意義があったものだ。ほんの数年前まで性的指向がテレビでとくに疑問もなく笑いのネタとされていたような国で、だ。が、同時に報道やそれを巡る言説からどうにも痛ましさが消えなかったのは、それがある「恋心」の問題でもあったからだと思う。人権やカウンセリングにまつわるガイドラインを作る手助けにはなるだろう、しかし、彼の想い自体は永遠に行き場を失ってしまった。わたしたちはSNSや何やらで事件に対する自分の意見を述べながら、じつは、その行き場のなさに立ち尽くすしかないことを忘れているのではないか。
 butajiは本作に収録されたスロウなソウル・バラッド“秘匿”において一橋大のアウティング事件から影響を受けたと表明し、そして、死んでしまった彼の「恋心」の内側にたどり着き、そこに留まろうとする。歌のなかで。「まっすぐに声も出ないほどの拒絶をどこか求めている/何もかも 暴かずにいれたら/愛は特別なまま/君は特別なまま」……ファルセットを駆使しながら、情感のこもった歌を聴かせながら、そしてbutajiは混乱を隠さない。“秘匿”はそして、「認められたら」と何かを切望するように繰り返して終わる。それはつまり、いわゆるLGBTマターが社会に「認められたら」、だろうか。いや……。

 七尾旅人の大ファンだったというシンガーソングライターbutajiのセカンド・アルバム『告白』。いわゆる素朴なSSW作を想像して再生ボタンを押したリスナーは、いきなりの重たいビートの連打に面食らうだろう。やがて重ねられるファンキーなブラス・セクションと女声コーラス、シンコペートするメロディをなぞるセクシーなヴォーカル。オープニング・トラック“I LOVE YOU”は誤解を恐れずに言えば、昭和時代の歌謡曲のテレビ・ショウのような煌びやかなアレンジだ。もちろんプロダクション自体はモダンなので近年の「オルタナティヴR&B」とのシンクロを感じるひとも多いだろうが、なんと言うか、華やかな衣装を着たシンガーがオケを従えているイメージが浮かぶのである。ドゥワップ風のコーラスが導入となる2曲めの“奇跡”もハンド・クラップがアクセントになるエレクトロニック・ソウルで、得意のファルセットからときにかすれる低音までヴォーカルが自在に行き来する艶やかなポップ・ナンバーだ。ファーザー・ジョン・ミスティがアメリカのショウビズ文化を参照しているように、どこか日本の歌謡曲文化を遡っているように聞こえると書けば伝わるだろうか? J-POPのリスナーにもリーチするキャッチーさと色気でもって、まずはbutajiが華美なポップ・ソングの名手であることを『告白』はアピールする。

 ところが、先述の“秘匿”を過ぎたころから、このアルバムがじつは非常に内省的なアルバムであることがわかってくる。“Over The Rainbow”を想起させるピアノ唱歌の小品“someday”、柔らかいアコースティック・ギターの調べと誠実な歌があくまで中心にある“花”。ピアノの和声にどこか日本風のメロディが寄り添う“あかね空の彼方”やフォークトロニカ~ポスト・ロックのアンサンブルを思わせる静謐な“予感”といった比較的長尺の楽曲は、歌にじっくり浸ることを聴き手に要求するバラッドである。そうしてbutajiはゆっくりと時間をかけながら、自分だけの抽象的な感傷や心の揺らぎをひとつずつ解き放っていく。「予感」というのは彼の歌が醸す感情をよく表した言葉で、つまり、はっきりとした形を取らない心象風景を繊細に立ち上げるのがbutajiの歌だ。「じっと目を見る/その顔にある迷いも/幾ばくかの優しさの 予感がする」。ふと日々のなかに現れる慈しみや愛情に似た何か。ここまで来ると、“I LOVE YOU”や“奇跡”のようなゴージャスなポップ・ソングも、butajiの内面の奥から絞り出されたものであることが伝わってくる。どれもが生々しく、官能的だ。

 『告白』はファースト『アウトサイド』で提示したシンガーとしての表現力の豊かさを保ったままトラック・メイカーとしてのbutajiの音楽性の広さを示したアルバムだが、強いて言うならこれはソウル・ミュージック集だろう。それも、とてもパーソナルでデリケートな。「認められたら」と彼が懸命に歌うとき、その歌が願うのは恋心がその行き着く場所を見つけることだ。彼自身がその感情を「認められたら」。これは恋なんかに苦しんでしまうか弱い男の子による(/のための)ソウル音楽であり、ということは、フランク・オーシャン『チャンネル・オレンジ』からのそう遠くない反響である。このラヴ・ソング集は弱さや迷いを隠さないがゆえにこそ、とても勇敢に響いている。

ウインド・リバー - ele-king

 『スリー・ビルボード』を観た人間の評価を分けるのはおそらくラストで示される独特の倫理だと思うのだが、そこに至る大きな前提として「いまのアメリカでは警察が、ひいては法が役に立たない」ということがあるのではないか。とくに田舎町では。娘がレイプされ殺されたというはっきりとした暴力があり、しかし法はそれに対して無力を示すばかり。そのとき個人や特定のコミュニティによる私刑は下されるべきなのか、どうか。そこで問われるのはアメリカ的正義なるものがあるとして、誰の手によって誰のために行使されるのかということだ。
 西部劇は言うに及ばず、アメリカ映画はフロンティアにおけるある種の無法状態を繰り返し取り上げてきた。法治国家たるアメリカのエッジでは必ず法が無効化される場合があり、そこでルールが根本から問い直されるのである。クリント・イーストウッド『グラン・トリノ』(08)は当然アメリカ的正義を体現してきた人間が己の限界を吐露するものだったろうし、あるいは近年ではデブラ・グラニク『ウィンターズ・ボーン』(10)には目を見張るものがあった。ミズーリの山奥に住むヒルビリーたちの間には警察も手出しできない独自の掟が存在し、コミュニティに属する者たちはそこから外れることが許されない。だが、その掟から否応なく零れ落ちてしまう少女が現れたとき、コミュニティのルールが根幹から問い質されるのである。そこでは「法」でも「掟」でもない倫理が再考されていると言える。

 『ボーダーライン』(15)の脚本で名を挙げたテイラー・シェリダンが、『最後の追跡』(16)の脚本に続く初監督作として撮りあげた『ウインド・リバー』。『ボーダーライン』ではメキシコ国境地帯を、『最後の追跡』ではテキサスの田舎町を舞台にして、無法状態のなかでこそ立ち上がる倫理を探っていたシェリダンは、〈フロンティア3部作〉とする連作のラストとなる本作でもまったくもってその路線を踏襲している。今回の舞台はワイオミング州の極寒地帯であり、ネイティヴ・アメリカンの保留地だ。そこで暴行を受け逃走中に死亡したネイティヴ・アメリカンの少女が発見されるところから物語は始まる。しかも、この保留地では似たような犯罪が繰り返されていることが次第に明らかになってくる。
 体裁としてはクライム・サスペンスになっており、ベテランの白人ハンターであるコリー(ジェレミー・レナー)と若手のFBI捜査官ジェーン(エリザベス・オルセン)が事件を追っていく過程が中心になるのだが、ここでもFBIという「法」を体現する人物が明らかに経験不足であるものとして描かれる。つまり、この土地ではアメリカ全体のコンセンサスを得た正義など通用するわけがないということで、そしてこの映画においてもまた私刑がどこまで認められるかが重要な問いとして立ち上がってくる。シェリダンはどうも、この3部作で法を超越した裁きの可能性を探っているようなのである。たとえば米墨の境界をモチーフとして取り上げているという点で『ボーダーライン』の横に並べられるであろうドキュメンタリー『カルテル・ランド』(15、キャスリン・ビグローが製作総指揮を務めている)では自警団が過剰に暴力化する様が容赦なく映されていたが、シェリダンも私刑の危険性をもちろん承知だろう。それでもなお、だからと言って「法」が守るべき人間を守れていないではないかという怒りが収まらないようなのだ。(ただしその意味では、ジェーンが曲がりなりも成長していく様が同時に描かれていることからは、「法」にも変わる余地があるとしているようにも思えるが。)

 そもそも、ネイティヴ・アメリカンたちが住む土地としてこのような厳しい土地を与えたこと自体が「アメリカ最大の失敗」だとシェリダンは糾弾している。そして、ひとが住めるような土地ではないところでは「法」は通用しなくなり、若い女性の多くがレイプされるような「掟」が幅をきかせることになる、と。だからこそ西部劇をはじめとするアメリカ映画の伝統を持ちこんで、正義の本質を問いかける。『ウインド・リバー』にはある種のカタルシスがあるが、それは監督の「法」の無能に対する苛立ちの表れであり、素直に受け止めるのが躊躇われるほど重いものだ。そして、ハリウッドが現在「多様性」への取り組みをアピールするために称揚するようなマイノリティではない、本当に弱い立場の人間にこそアメリカの正義があるとする。いま、田舎を舞台にしたアメリカ映画に説得力と重大さが備わっていることを証明する一作である。『ウインド・リバー』の画面を覆い尽くす真っ白な雪を染める血の赤さを、わたしたちはもっとしっかりと見たほうがいいだろう。
 なお音楽を担当しているのは、様々な映画作品で活躍を見せるニック・ケイヴとウォーレン・エリスのコンビ。この厳格な映画にきわめて抑制された叙情をもたらしている。

予告編

Amen Dunes - ele-king

 60年代後半のサイケ・ロックの名盤がアニマル・コレクティヴ『サング・トンズ』を通過して蘇ったような……と書けば、褒めすぎなのはわかっている。だが、〈セイクリッド・ボーンズ〉最後の秘宝といった佇まいだったエイメン・デューンズが、この通算5作めでこれまでにない注目と称賛を集めているのは紛れもない事実だ。はっきりとブレイクスルー作である。21世紀、サイケはインディの内側でインになったりアウトになったりを繰り返してきたが、このニューヨークのサイケデリック・フォーク・バンドはシド・バレットなどを引き合いに出されながら、どこか悠然と、のらりくらりと自分たちの酩酊を鳴らし続け、ますます逃避が難しく感じられるこの時代にこそインディのフロントラインに立った。僕は今年、このアルバムをもっとも多く聴いている。

 00年代のアニマル・コレクティヴのようなゆるいパーカッションの打音とヨレた歌があるが、ただし、『サング・トンズ』~『フィールズ』ほど音響化しているわけではない。よく聴けば奥のほうでノイズや細かな音の処理がされており、モダンな空間設計はあると言えばそうだが、本作を魅力的にしているのはクラシック・ロックの伝統の血筋を引いたソングライティングのたしかさである。これまでも光るものが確実にあったが、TVオン・ザ・レディオ、ビーチ・ハウス、ギャング・ギャング・ダンスなどの仕事で知られるプロデューサー、クリス・コーディの手腕が大きいのだろう、過去のローファイ作よりメリハリの効いた音づくりでメロディが立っている。ギターのアルペジオの柔らかく余韻たっぷりの響きもじつにいい。気持ちよく酔わせてくれる。アルバム冒頭の“Intro”を経て、実質的なオープニング・トラック“Blue Rose”で軽やかにコンガが聴こえてくれば、そこはすでに楽園である。ゆっくりと広がるユーフォリア。エイメン・デューンズは実質デイモン・マクマホンのプロジェクトだが、彼の歌と演奏は力が抜けつつもたしかに人間の体温を感じさせる。
 もうひとつ、『フリーダム』を特徴づけているのは反復だろう。時間が引き伸ばされるようにギターのアルペジオのリフとドラミングが繰り返されるが、それはクラウトロックのマシーナリーさではなく、あくまでオーガニックなものとしてある。シンプルなコード進行の循環と懸命な歌で聴かせる“Time”、ゆるい躁状態にあるようなラリったダンス・フィールが感じられる本作中もっとも軽快な“Calling Paul the Suffering”、存外に厚みのあるギター・サウンドを持った“Dracula”、よりモダンなアンビエントの音響が聴けるクロージング“L.A.”、どれも捨てがたいが、ベスト・トラックには眩いフォーク・ソング“Believe”を推したい。スロウなテンポでメロウなメロディを大事そうになぞる歌。上がりきらずに、しかし静かな盛り上がりを演出する抑揚の効いたリズム。ラスト1分におけるギターの情緒たっぷりの反復がいつまでも続けばいいのにと思う。

 その“Believe”は、マクマホンの母親が末期癌を患った経験から影響を受けてできた歌だそうだ。「あなたのためにしよう/ぼくは落ちこんでなんかない」。これはとてもパーソナルな心の動きがもとになった作品で、彼の震える声はそのまま彼の内面の機微である。前作の『ラヴ』に引き続いての『フリーダム』……と、この期に及んで愛に続いて自由とは、どれだけレイドバックしているんだと思うが、それは愛の夏とは違うもっと小さなものだ。アンノウン・モータル・オーケストラやフォキシジェンなどのいまどきのサイケ・ロック勢にはユーモアや皮肉を交えた知性が感じられるが、エイメン・デューンズはもっと率直に内省的だ。彼が歌う「フリーダム」ははっきりとした言葉にすらならない。「ナナナ、ナナナ、イー、イー、ナナナ、ナナナ、自由を手に、自由を」……。
 足元がフラつくフォーク・ソング“Miki Dora”で歌っているのは、5~60年代のカリフォルニアにおける伝説的なサーファーであるミキ・ドーラのことだという。ファッション・リーダーでカリスマ的な魅力を備えた彼は有名な波乗りとなったが、詐欺でのちに収監されている。アウトローのアイコンなのだという。マクマホンがニューヨークにいながら、なぜ西海岸の夏の海を憧憬せずにいられないのかはわからない。が、彼はここで欠点を持った人間のことを思い出しているのではないだろうか。この、ポップ・ミュージックに立派なステートメントがごった返す時代に。そして歌う……「波は行ってしまった」。ミキ・ドーラは、そして、刑務所のなかにいてもなお「終わらない夏」の象徴なのだと言うひともいたという。『フリーダム』のサイケデリック・フォークの温かさは、行ってしまった「愛の夏」ないしは「終わらない夏」の残響なのだろうか。それでもここに溢れ返る揺らぎと震えは、人間の欠点や弱さをも飲みこんでわたしたちを陶然とさせる。

Jamie Isaac - ele-king

 深夜のチルアウト。彼は午前1時過ぎの深い時間が大好き。ひとりで、ときには友人を誘って、ときには煙をくゆらせながら真夜中に音楽ばかり聴いている。自堕落かつロマンティックな時間帯。なんの生産性もないが幸せな時間帯。そんなときに似合う音楽とは、最近の例で言えば、Burialであり、ザ・XXであり、ジェイムス・ブレイクであり……、そしてジェイミー・アイザックの本作もそうだ。いま売れているトム・ミッシュと同じカテゴリー(南ロンドン出身/ソウル・ジャズ系SSW)にも括られる23歳の若者だが、不眠症に合うのは間違いなくこちら。孤独な音楽。午前4時30分の怠け者。この10年顕著なひとつの潮流=悲しみの男の子たち。

 とはいえ、カリフォルニアで書かれてロンドンで録音されたこのセカンド・アルバムは、ボサノヴァのリズムからはじまる。“Wings”という曲、これがなかなか洒脱で、ごくごく初期のエヴリシング・バット・ザ・ガールとジェイムス・ブレイク世代との出会いというか、じつにスタイリッシュにまとめられている。日本独自のサブジャンル「ネオアコ」的感性にも訴えそうだ。“Slurp”という曲にもブラジルからの影響が聞こえる。(その曲もぼくは気に入っている)
 ジャジーでポップな“Maybe”は、シャーデーとジョー・アーモン・ジョンズとの溝を埋めるかのようだが、しかし歌は終始一貫してか細く、クレッシェンドすることもない。ダブステップ以降のビート感、アトモスフィア、空間的音響、チルアウト、そして夜の世界に見事にマッチしている。それは夏の大三角形のはるか下の、ベッドルームで揺れる蝋燭の炎と共振するかのようだ。曲の主題は、表題曲は不眠症ともリンクしているそうだが、あらかたラヴ・ソングの体をとっている。
 
 猛暑の夜のメランコリー。地球温暖化と異常気象、地震への恐怖、腐敗した政治家たち、暗黒郷と化す街並み。豊かにならない生活……こんな時代でも、いやどんな時代でもか、深夜にひとり、好きな人のことを考えている時間帯は幸せなんだと。まあたしかにね。

編集後記(2018年7月17日) - ele-king

 ホイッスル。試合終了。今日からまた憂愁の日々。みなさんもそうでしょう?
 まとめてみよう。今回のW杯で、あらためてフットボールとは幸福なものだと認識した。大人も子供も夢中で観戦する。また、なかんずくW杯は政治とは無縁でいられないということもフランス対クロアチアの決勝戦がはからずとも証明した。
 プッシー・ライオットの乱入。彼女たちの政治的な主張を尊重したうえで言えば、タイミングが悪すぎた。試合の流れをみないと。もうひとつ、プレーしている選手も観ている側も、その瞬間瞬間においてはまったく政治から切り離されている。かつて、ペレがプレーすると紛争中の国同士が休戦したというエピソードがあるくらいだ。愛の営みの最中には戦士だって銃をしまう。それから、彼女たちの乱入は攻めていたクロアチアにとっては不利に働いた。その事実についてもツイッターで触れるべきだった。
 プーチン。とつぜんの雷雨に見舞われた表彰式で、ずぶ濡れのマクロン大統領とクロアチアのグラバルキタロビッチ大統領と横に並びながら、ひとりだけ傘のなかにいるところを生放送されてしまった。今大会を通じてロシアの国際舞台でのイメージ向上につとめたのだろうけれど、あの最後の失態には笑ってしまった。

 クロアチア。それまでの試合ではピッチを駆け抜ける炎だったモドリッチだが、決勝戦では不完全燃焼だったように思えた。しかし、3試合の延長戦を勝ち上がってきたクロアチア代表の奮闘は、紛争によって分裂した旧ユーゴスラビアの多くの人たち(クロアチア人、ボスニア人、セルビア人)に偏狭なナショナリズム以上の、より平和的な融和の感情を持たせたようだ。
 フランス。ポグバが最高。サッカーダイジェストの記事によれば、大統領宮殿の祝賀会において、この屈強なMFはマイクを握って「俺たちはすべてぶっ壊したってことだな! すべてぶっ壊したぞ! すべてぶっ壊したぞ!」と繰り返したそうだ。すると宮殿の庭では「ぶっ壊したぞ!」の唱和がはじまったという……これ、いかにもフランスらしいんじゃない?  レイモンド・コパというフットボール・ファンにはよく知られているポーランド系移民の名選手は、68年5月のバリケードのなかにも参加したというけれど、歓喜に湧くシャンゼリゼ通りの様子もほとんど暴動みたいに見えた(笑)。喜びの暴動とでもいうのだろうか。抑圧されている日本人は、なんでも秩序の言うがままだが、ああいう騒ぎ方は見習ったほうがいいと思う。いまでは毎年のように、歪んだ形の暴力としてその反動が出てしまうのだから、なおさらスポーツは抑圧のシステムに加担しないでもらいたい。

編集後記(2018年7月12日) - ele-king

 ワールドカップは別名、ジュール・リメ杯といって、同名のフランス人が国際サッカー連盟(FIFA)会長時代にはじまった。なので、フットボールの母国であるイングランドは、当然のことながらそんな団体には所属しなかった。イングランドにとっては世界最古の大会=FAカップのほうが重要だったので、何年ものあいだフランス人がはじめたW杯なんぞには参加しなかった。そういう歴史的な因縁もあるので、決勝はフランスとイングランド戦を期待していたけれど、クロアチアの勝利への意欲がそんな妄想を霧散していった。

 眠い。2日連続で、午前3時前に起きて試合を観て、そしてまた寝るというのが老体にこたえないはずがない。延長戦はなおのこと。どうしてこんな馬鹿なことをしているのだろうと思うけれど、マンションの窓の外を見れば、同じように灯りのついているアディクトたちの部屋がひとつやふたつではなく、いくつか確認できる。

 世界中のファンが同じ時刻にひとつの試合を観ているというのは、音楽という細分化された宇宙群を彷徨っている自分には名状しがたい不思議な感覚だ。もちろん蹴球なんどには興味がない人/リーグ戦にしか惹かれない人だって多くいることは知っているけれど、ひとつ言えるのは、この地球上のさまざまな人種や民族や国の人たちが、本当に素晴らしいプレイが観れたときには、ふだんは悪く言っているような国のチームだとしても拍手することだ。こういう考えはひどくナイーヴでロマンティックに思えるかもしれないが、世界でもっとも多くの人がひとつのことに関心を持って、それに歓喜したり悲嘆したりする機会は、いまのところW杯以外にありえない。

 たまに国家的な狂騒を危険視する知識人がいる。こうした大がかりなスポーツ大会というものが政治的に利用されてきているのほ事実だが、アルゼンチンやイタリアが優勝したときにそれが当時の軍事政権/独裁政権のおかげだったなんて思っていたファンの記録をぼくは見たことがない。人びとが憶えているのは、勇敢な部隊めいた選手入場ではなく、純粋にそのプレイのみだ。

 フットボール・ファンにとっての夏はもうすぐ終わろうとしている。今回のW杯で、もっとも無様だったのは誰が見てもドイツだろうが、もっとも勇敢だったチームはベルギーではないだろうか。フランス戦おいても攻撃的なフットボールを貫いたが、W杯は優勝経験国しか優勝できないという神話(ジンクス)にならって言えば、ルカクの大砲を封じたフランスがしたたかだったということなのだろう。ぼくは個人的には耽美的なフットボールが好きなのだけれど、今回はそんなデカンダンスな瞬間はなく、よりタフな試合が多かったような気がする。ま、それでも充分に楽しめたけどね。今週末の残り2試合で、この夏、この眠気ともおさらばだ。

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