「Noton」と一致するもの

interview with Yukio Edano - ele-king

去る9月末、突然の衆議院解散と前後して野党第一党だった民進党が分裂し、その後も混乱が続いている。そのような状況のなか、来る22日には48回目となる衆議院議員総選挙が実施される。私たち『ele-king』はおもに音楽を扱うメディアではあるが、いまのこの政局を重要なものと捉え、初めて政治家への取材を試みることにした。以下のインタヴューは必ずしもその政治家への支持を呼びかけるものではないが、これを読んだ各々が自身の考えを深め、政治や社会に関心を寄せる契機となれば幸いである。

interview with Yukio Edano

 「僕は(自分たちを)少数派だとは思いません」──たったひとりで5日前に立憲民主党を立ち上げ、その呼びかけに応えて集まった候補者たちと選挙に臨もうとしている枝野幸男はそう言った。
 9月の衆院解散後の野党第一党の崩壊劇で、小池百合子の「排除します」の一言は、その3ヶ月前に首相が放った「こんな人たち」よりもさらにストレートに私の胸に届いた。この国の与党と野党第一党のトップは、自分と違う考えを持つ人たちを、まさに「排除」している。そんな国で「つねに死票を投じてきた少数派の人間は、政治を考えると無力感を覚えてしまう」というような話をしたとき、枝野幸男は「僕は少数派だとは思いません」と、それまでよりも少し強い口調で言った。

 「我々は少数派なんて自分で言っちゃいけないですよ。いま、顕在化しているのは一部だから少数派に見えているだけで、潜在的には多数派だと思うから僕は勝負しているんです。だって現に国民の半分は投票に行っていないですよ。少数派だと思っている人たちが集まってきたら、それが実は多数派だったんです。
 ええ。いや、実は個々人のことを考えればマイノリティーなんです。例えばLGBTの人たちはたしかに少数派ではあります。障害のある方もいます。でもそういう少数派に対する多様性を認めよという価値を共有している人たちは、マジョリティーなんです。
 でもいままでその人たちは社会的にはつながっていなかった。政治的にはもっとつながっていなかった。そういうところを動かしていく、ということが、僕らがいま、図らずもやっている営みなんじゃないかなと、この数日で思っています。
 従来の選挙でも、動員型の運動をすれば同じくらいの反応の量はあったんです。でもいま感じているのは量ではない。明らかに、いままではどこともつながっていなかった、自分は少数派であると諦めていた人たちが、もしかしたら今回はそうではないのかもしれないと感じてくれているかもしれないという空気感が、ネット上、ツイッター上にもある。
 民主党、民進党のなかで、僕は保守本流だと思っています。日本の保守本流イコール・リベラルだからね。それで、いままでもこういう勢力に対して期待をしてくれて、こっちも名前に記憶のある人たちが紛れてしまうほどに、今回は違う人たちが入ってきているんです。その人たちの反応って面白くて、自分で言うのは傲慢かもしれないけど、党首討論を見て『枝野って、こういう討論、得意なんだ!』って驚いているんですよ。以前から政治に関心のある人たちからすれば、これはいまさら驚くことではないんですよ。僕は地盤も看板もないなかで、討論でここまでやってきたという自負もあるし、世のなかの受け止めもそうなんです。でもそんなことは知らない人たち、枝野という存在を初めて知った人たちが来ている。量的なものではなく、質的なものというのはそういうことです」

 「右か左かではなく上からか下からかだ」という枝野のスローガンを見聞きした人のなかには、エレクトロ・パンクのスリーフォード・モッズやグライムMCたちからも愛される、英国労働党党首のマルクス主義者ジェレミー・コービンや、ヴァンパイア・ウィークエンドやグリズリー・ベアのようなインディ・ロック・バンドからも支援されながら、ヒラリー・クリントンと大統領候補の席を争ったアメリカ民主党のバーニー・サンダースを思い出す人もいるかもしれない。しかし、くどいようだが、彼らも枝野も、長年、左派から失望されてきた“野党第一党”の政治家たちだ。そういう大野党の左派から生まれた政策が、若者を中心に熱狂的に支持されている。
 枝野幸男はコービンやサンダースよりも若く、そして彼らのようなねっからの左翼でもない。けれども立憲民主党の政策もまた、ナショナリズムやネオリベ経済に対抗する潮流にいる。それは気高くドリーミーな理想でも、何かをゼロや百にするといったキャッチーなプランでもない。その代わり「すぐにでもできる」「現実に対して真面目」「効果は確実だが地道」「その政策を採用した後の社会が見えやすい」ものになっている。
 それはこんな経済政策だ。

    interview with Yukio Edano

格差が拡大、富が偏在すれば、全体で消費に回るお金が減るんです。それなのにいまの日本は人口減少に合わせて格差を拡大させちゃったから消費が冷え込んでいるので、この格差を是正して貧困層を中間層に戻せば確実に消費は増えます。まさに下から良くしていかなければならないんです。

「下からの経済政策」について具体的に教えてください。

枝野:ええ、どこから話しましょうか。まず、景気が悪いのは消費が冷え込んでいるからです。輸出は頑張っています。消費冷え込みの理由は格差の拡大です。今、子どもがいて4人家族ということになれば年収500万でも貯蓄や投資にまわせる金額はほとんどないでしょう? 子どもが学校に行って、家のローンがあって、消費性向はほぼ100パーセントです。その人が年収200万になれば300万の消費が減るわけです。逆に年収100万の非正規の人が年収300万の正社員になれば、増えた分、全部消費するでしょう。一方ね、年収1億の人が2億になったからって、増えた1億は使わないでしょ。所得が高くなればなるほど、手にした所得の中で消費に回る比率は低くなるんです。
 つまり、そのように格差が拡大、富が偏在すれば、全体で消費に回るお金が減るんです。それなのにいまの日本は人口減少に合わせて格差を拡大させちゃったから消費が冷え込んでいるので、この格差を是正して貧困層を中間層に戻せば確実に消費は増えます。まさに下からよくしていかなければならないんです。そのために単にお金をばらまくというのは持続可能性がないんです。ところが幸いなことに、需要があるのに供給が少ないサービスってものすごく多い。その代表が介護や保育です。需要があって供給が少なければ、普通は価格が上がるのに、そうなっていない。これは市場原理からいっておかしい。本当は保育士さんや介護士職員の給与はものすごく上がらなければおかしいんですよ。でも現実に上がってないのは政治が抑えているからです。そこに流す金を抑えている。それを本来の市場原理に合うようにお金を出せば、人手不足も解消できる。そのお金を給料としてもらった人は地域で消費するわけで、経済波及効果は大きいんですよ。つまり二度おいしいんです。

公的資金に市場原理を適用させられるのですか? いまはそれができないと思われていると思います。介護も保育も直接には利益を生まない仕事なので賃金も抑えられてしまうと。

枝野:公共的な仕事に従事する人たちの非正規雇用は深刻な問題です。公的にいくら突っ込むかで給料が自動的に決められてしまって、マーケット・メカニズムが働かない。だけど需要があるところにお金を突っ込む。公的なお金だから、もちろん公的な必要性の高いところにお金を流さなければいけないんだけど、介護も保育も必要性が高いことははっきりしている。賃金の決まり方は本来は需要と供給のはずなのに、その市場原理でいけば、上がるはずのものが上がっていないので、市場原理に合わせた形でお金を流していくしかないわけです。でなければ人手不足は永久に解消しません。
 で、実は、公的なサービスには、そこに流すお金が足りないせいで人手不足・低賃金という分野は山ほどあるんです。例えば、ノーベル賞級の研究をするには、大きなチームが必要で、准教授くらいになれば別だけど、その研究をサポートするチームは大部分が非正規なんです。低賃金なんですよね。いわゆるポスドクの問題で、ここを安定的な雇用にしてちゃんと一定の給与を払って人手を確保してくれれば、日本の研究開発はもっともっと進む。研究開発というと、バカでかい設備投資の話ばかりだけど、実は地道に研究開発しているところのそういうスタッフの待遇改善をしたら、まずそれが景気対策になる。その人たちが手にしたものを消費に回すから。しかもそれで研究開発の基盤が充実すれば、二度三度おいしいんです。
 あるいはいま問題になっている教師の部活動の話がありますよね。あれがサービス残業になっている。それなら部活動を担当する先生に対して、昼間の授業を減らすとか、部活動を担当する先生を別枠で増やすとか、いろんな手はあるわけです。
 どれも公的なサービスですから、結局、何らかの形で税か保険料から払うしかないわけです。で、投資効果の小さい大型公共事業をやる金があれば、その金をそっちに回しましょう。その方が経済波及効果は大きいし、二次的三次的な効果もある。これが下からの経済政策です。
 そして、そういうところが人を集められるようになれば、民間の方は労働市場がタイトになって、否応なく給料を払わざるをえなくなる。僕は社会主義者ではないので、マーケットはいい部分は使っていこうということです。でないとカネをばらまいたって持続可能性ないわけだし、経団連の幹部を呼んで「給料あげろ」なんてそれこそ社会主義じゃないですか。うまくいくわけがない。マーケット・メカニズムを使って、賃金の底上げをして、非正規を正規に移していく。こういう発想です。

経済波及効果は大きいと言い続けてきたんだけど、まさに崇高な理念だからそんなこと言うなみたいな意見によって塞がれてきたんだけど、いまは言うチャンスだから(笑)。でも子ども手当なんてまさに景気対策でしょう? だけど同時に、崇高な理念にも通じているんです。こういうことをまとめてやるというと、「下から所得を押し上げる」。こういうことなんです。

まさにトリクルダウンの逆ですね。政府に決定権限のある低賃金の仕事の給料を上げることで、もう少し楽な境遇にいる人にも良い影響が期待できる。トリクルダウンだと失敗したら、「下」は餓死ですが、下からの経済政策なら、上の人にはもう少し待つ体力がありますね。

枝野:もちろんいろんなことを同時にやるんですよ。例えば、これも公的な世界の話ですが、小さな公共事業で公契約条例というのを一生懸命作らせているんです。公共事業の受注額って、人件費がいくらと試算をして、その積み重ねで予定価格が決まります。でも実際にはその賃金は払ってない。だから、それを払えと。入札時に想定されている賃金をちゃんと払わなければならないという条例が公契約条例で、地方自治体はすでに始めているんですよ。これをやることで、公共事業で流した金からも人件費にもっと流れる。これも景気対策です。あえて言えば、高校授業料無償化も幼児教育無償化、それから奨学金も、それは教育政策であり社会政策でもあるけれど、景気対策なんです。
 例えば未就学児を抱えている親御さんは、若くて全体的にはほとんど低賃金の人たちじゃないですか。その人たちが保育園や幼稚園に払っている金が減れば、もともとかつかつでやってるから、その分可処分所得が増えるんです。高校授業料が無償化されればおそらく教育投資になるけど、浮いた金はほとんど消費に回るんです。こういう言い方をすると教育政策をやっている人には嫌がられるんです。もっと崇高な理念に基づくんだと(笑)。
 もちろんそれはそれでいいんです。でも同時にそれは経済対策でもあるんですよ。経済波及効果は大きいと、僕は民進党時代から言い続けてきたんだけど、まさに崇高な理念だからそんなこと言うなみたいな意見によって塞がれてきたんだけど、いまは言うチャンスだから(笑)。民主党は、だから景気対策がないと言われてきたんです。でも子ども手当なんてまさに景気対策でしょう? だけど同時に、崇高な理念にも通じているんです。こういうことをまとめてやるというのが「下から所得を押し上げる」ということなんです。再分配というと、生活保護とか給付という話に行くんだけど、違うんです。仕事がある、その仕事に正当な対価を払う、その払った対価が消費に回る、というルートで行うんです。

いまはお金がある人も将来が不安だから使わないのではありませんか? 若者はとくにそう言われていますよね。「将来不安」ということについてはどうお考えですか? 

枝野:いや、100万が200万に増えたら必ず使う。まずはそれからです。それが順番。政策によって将来不安を小さくするには5年、10年かかります。しかし景気対策はそんなに悠長なことは言って入られません。まず即効性のある景気対策が必要なんです。
 でもこうも言えます。保育所の人手不足が解消に向かい、介護士の人手不足が解消に向かえば、子育てや老後の不安は小さくなるんじゃないですか? 一石二鳥なんです。だから象徴的に「保育と介護」を言っているのは、同時に将来不安を小さくすることにもつながるからなんです。だけどそれは2番目、3番目の目標です。僕が経済政策に自信を持っているのは、いまよりも民主党政権時の方が実質経済成長が高かったからです。なぜなら可処分所得を増やしていたから。子ども手当や児童手当増額、高校授業料無償化もあったし、農村地域に個別所得補償制度ということもやっていました。そういうこと全部がパッケージです。全部パッケージにして、所得が真ん中より低い人たちの、ニーズのある仕事に対してちゃんとしたペイを払います。それでまず消費が増えます。そのことで将来不安は小さくなります。
 ひとつ言いたいのは、世代間の分断に乗ったら、若い人は損ですよという話です。例えば年金制度とか、高齢者の老後の暮らしの話をすると、「若い人は損だ」と言われます。で、若者に重心を置くのか高齢者に置くのかと論争になる。こんな分断に乗っていたら若い人は損をするし、実は違うんです。だって年金制度がなくなったら、あなた、自分の両親と場合によっては配偶者の両親も含めて4人、祖父母までみんな生きていたら16人、年金生活が崩壊したら、その人たちの老後の生活を個人で見なければならないんですよ。むしろ実は困るのは若い人です。自分が将来受け取る年金の前に、年金制度を維持してもらった方がいい。親の世代をどう支えるか、いまはあまり意識しないで済んでいるのは年金制度があるからなんです。介護保険制度が充実すればするほど、自分の親が寝たきりになったときでも、自分でやらなければならないことが最小化できるんです。これが、年金や介護政策が若者を無視しているなんていう批判に載せられないことが大事な理由なんです。若者に向かって、高齢者の安心を語ります。そして高齢者に向かっては、「あなた、近所に保育園ができて喧しいとかいって反対などしていると、あなたの年金や医療は誰が支えるんですか」と問いかける政治をしなければならないんです。

本当は若者も高齢者も一緒に生きているんですよね。でもいつの間にか一緒に生きていられなくなっていたんですね。

枝野:それは政治が無意識にやってきてしまったことなんです。分断していた方が選挙には得だから。「こいつけしからん」と敵を作って分断して、票を集める。この20年、政治はそうやってきたんです。あえて言えば、僕が初当選した日本新党もそうだったかもしれない。2009年の民主党政権もそうだったかもしれない。でもね、それはもう限界にきた。というのは、この解散以来、永田町界隈は予測不能なカオスになっている。それは僕が動いたとか、民進党がどうしたからというのではなく、たぶん限界にきたんだと思うんです。敵を作って分断して、それで一時的にマジョリティーを形成するというやり方が。
 これはもしかしたら間違っているかもしれないし、今回、まだ早すぎるアプローチで、同じところに行くのに今回挫折して、また5年10年とかかることになるかもしれないけど、でも、僕がこの世界に入って24年間やってきた、どうもみんな無意識にやってきたその手法、というか前提が、壊れはじめているのは確実だと思うんです。

interview with Yukio Edano

この解散以来、永田町界隈は予測不能なカオスになっている。それは僕が動いたとか、民進党がどうしたからというのではなく、たぶん限界にきたんだと思うんです。敵を作って分断して、それで一時的にマジョリティーを形成するというやり方が。

「下からの民主主義」という言い方に惹かれているという若い人の声も聞きます。この数年の国会はくだらなさすぎるヤジや噛み合わない質疑答弁、強行採決のような決め方が横行していましたから。

枝野:何年も言われ続けているのが「強いリーダーシップ」です。その前に「決められない政治」という批判があって、とにかく強いリーダーシップでどんどん決めていくことに対して期待が集まりましたよね。これは一理あると、僕は認めるんです。なぜかというと、世のなかの変化のスピードが速いから、それに対応するためには政治決断も早くないといけないという側面がある。異論があっても押し切るという強いリーダーシップは、一面では正しいんです。でも、同時に、世の中の価値観は多様化してもいる。しかし強いリーダーシップは、価値観の多様化には対応できていないんです。
 価値観が多様化した社会では、どんな決定にも、不満、異論というものを常に抱えざるをえません。一億総中流の時代には、異論反論は少ないわけです。利害関係が共通していたから。いまは格差も拡大しているし、価値観も多様化しているから、どんな決定をしても必ず異論があるわけです。それを強いリーダーシップで、意見も聞かずに強引にやればやるほど、不満は大きくなるんです。一個一個はスピード感があっていいように見えても、積み重なっていくと不満の累積の方が大きくなる。で、社会が不安定化するんです。安倍内閣が4年過ぎたくらいから、いろんな意味でフラフラになっているのは、スピード感のある強引なやり方というものへの期待は一方であるんだけど、結局やりすぎて不満が積み重なり、そっちの方が大きくなっているんでしょう。だから強いリーダーシップと同じくらいのパワーを持って、「スピードも大事だけど、同時にみんなの意見もちゃんと聞こうよ、みんな意見が違うんだから」ということが必要です。
 そのために重要なのは政治姿勢です。1億3000万の意見を全部聴けるわけはないので、まずは国会運営です。どんなに野党が反対しても丁寧に時間をかけて、真摯に国会質問に対して答弁をする。その姿勢をある程度の時間繰り返されたら野党は抵抗のしようがないんです。それは仕方ない。それをちゃんとした説明も答弁もしないで時間が来たからと質疑を打ち切るようなことを積み重ねていけば、それは声を聞いてないということになる。
 民主主義のプロセスですね。その具体的な手法は模索しながら進めていくんです。実際にいまそうです。例えば2年前の安保法制、あのとき、国会前に集まってくれた多くの人たち、その相当はそれまで政治にはあまり興味もなく参加もしなかった人たちでした。でもそのネットワークが、各地でギリギリ維持されてきた中で、もちろん、各地域で従来から市民活動、政治活動に関わっていた人たちは少なからずいるけれど、そうでない人も含めた大きな輪、ネットワークとして、これで野党を一本化しろと政治に圧力をかけにきたんです。我々は圧力をかけられたんです。それは間違いなく政治を動かしたんです。こういう人たちの声を無視して俺たちは政治をやれないという、それが立憲民主党を立ち上げ、希望の党に行かなかった人たちのひとつの理由だったんです。それはもう僕たちがどうこうするというのではなく、主体である国民の皆さんがいろんな動きをすることに対して我々がセンシティヴに反応できないと、我々が立っていられない、そういう土壌は、安保法制以降できている。それにちゃんと応える政治勢力です、我々は。

 

「#枝野立て」「#枝野立つ」というような新しいコミュニケーションも出てきています。そこでちょっと不躾ですが伺いたいのは、もし枝野さんや立憲民主党の候補を応援したら、政権奪取までの間、あなた方は政治家として、私たちやこの社会に何をしてくれますか?

枝野:いま僕らが言えることは、「筋を通します」ということです。つまり、こういう政策を実現したいと言っても、それは議会の多数派を占めないとできないことなので──いや、必ずしもそうではなく、野党でも少数派でも一定の力を持っていれば、社会的なプレッシャーや政治的なプレッシャーとしてある程度は可能なんです。やっぱり政府、与党も国会で揉めたくはないから、妥協するんですよ。妥協できる範囲のことは。だから一定の影響力さえ持てば、例えば与党が憲法改悪をごり押ししようとしても、一定のパワーを示せば、「国民投票が不安だから」あるいは「世論が盛り上がっちゃっても心配だから」という抑止力にはなる。でもそれはできるかどうかはわからない。間違いなくできるのは、マジョリティーをとって、政権を取ったとき。だから、いま、約束できることは、「筋を通します」ということです。
 従来の政治、永田町の合従連衡とか、政治家の都合や思惑などとは違うものを、今回、皆さんに感じてもらえていると思うので、そこはブレずにやります。意外に大変なのだけど。
 国会の運営は、従来のルール、慣習で動いています。我々だけがそれと違うことをやっても通用しないから、そのなかで、ちゃんとブレないで筋を通して期待通りにやっていると、ちゃんと思ってもらえるようにしたい。そう思っていただき続けるのはけっこう大変なんですよ。大変だけど、それをやり続けないと、我々はたぶん立っていられない。

では有権者、なかでも立憲民主党に期待しはじめている人びとに、投票の他にしてほしいことはありますか?

枝野:できることをやってください。わたしもできることをやります。

 インタヴューの翌日、新宿アルタ前では集会が開かれた。元SEALDsのメンバーも含むさまざまなアーティストや著名人、スタッフたちが準備したらしい。集会では学生や市民が選挙について思い思いのスピーチをした。枝野幸男と福山哲郎もそのひとりとして脚立に立って話をした。時間より前から広場を埋め尽くしている聴衆には若者から中年までさまざまだが、その表情はなんだかにこやかだ。事故のような経過だったとしても、選挙直前に突然、選択肢が増えたのだ。それってなんと自由なことだろう。アルタ前にはこの自由を満喫するような笑顔が輝いていた。
 「私たちは少数派ではない」──多くの世論調さは与党圧勝を予測している。そういう数字が、また私たちに無力感を植え付ける。大雑把に見れば、この100年、世界はリベラルに向かってきたし、いまもそれは続いている。グローバル経済、ネオリベ経済は、個々の多様性や人権を重視する政治的リベラルの副作用のようなものだ。行き過ぎれば、人権ではなく、グローバリズムが否定される。そして排外主義という副作用を生んでいる。この悪循環はどこから断ち切ることができるのか。枝野幸男の提案する「下からの経済政策」はひとつの答えだ。
 だから、根気よく信じよう。私たちには民主主義を機能させる能力があるということを。あ、これはたしか、アルタ前で誰かが話していたことだ。政治家ではない。自分たちの力を信じたい。

(敬称略)

Ghostpoet - ele-king

 USのラッパーとは異なるUK独自のカラーを持つラッパー/リリシストとして、1990年代から活動する草分け的存在のルーツ・マヌーヴァの名前がまず上がる。彼の特徴にレゲエのトースティングの流れを汲むフロウ・スタイルがあるのだが、マッシヴ・アタックトリッキーのようなブリストル・サウンドにしろ、UKのアーティストにはレゲエやダブから影響を受けている者が多い。2010年にデビューしたゴーストポエットことオバロ・エジミウェは、そのルーツ・マヌーヴァやトリッキーに通じるところを持つロンドンのシンガー/ラッパー/トラックメイカーだ。ジャイルス・ピーターソン主宰の〈ブラウンズウッド・レコーディングス〉からリリースされたデビュー・アルバム『ピーナッツ・バター・ブルース・アンド・メランコリー・ジャム』(2011年)は、ルーツ・レゲエやダブの源流から、ブリストル・サウンドの影響が伺えるダウナーでスモーキーなサウンドに貫かれ、その上でルーツ・マヌーヴァの系譜に位置するゴーストポエットの低くしわがれた声が虚無的なムードを放っていた。ブリアルやコード9のようなダークなダブステップ系がある一方、シングル・カットされた“ライーンズ”はキング・クルールのようなオルタナ・ロック調で、このユニークなアルバムは2011年のマーキュリー・プライズにもノミネートされた。

 その後、〈PIAS (プレイ・イット・アゲイン・サム〉へ移り、『サム・セイ・アイ・ソー・アイ・セイ・ライト』(2013年)、『シェッディング・スキン』(2015年)と2枚のアルバムを残している。『サム・セイ・アイ・ソー・アイ・セイ・ライト』にはディス・ヒートなどで知られる伝説的なドラマーのチャールズ・ヘイワードから、トニー・アレン、デイヴ・オクム(ジ・インヴィジブル)などのジャズやアフロ系ミュージシャンが参加し、『ピーナッツ・バター・ブルース・アンド・メランコリー・ジャム』のダークな世界観を継承しつつ、サウンドの奥行やスケールを拡大させている。音響的にもダビーさが増し、ゴーストポエットの歌はより深遠さを感じさせた。『シェッディング・スキン』にはメラニー・デ・ビアシオ、ナディーン・シャー、ルーシー・ローズ、エッタ・ボンド、ポール・スミス(マキシモ・パーク)と多くのシンガー・ソングライターが参加し、ところどころに日本語の女性MCも挿入される面白い作品集。アルバムの試みとして彼らゲスト・シンガーとのデュエットがあり、そしてサウンドは“ライーンズ”のようなオルタナ・ロック~インディ・フォーク色が強くなっていった。“ナッシング・イン・ザ・ウェイ”のように雄大なストリングスを効果的に用いた曲もある。ゴーストポエットの歌も今までのクールで淡々としたものから、ときにダイナミズムや野性味を感じさせるものが増えてきており、どこかルー・リードを思わせる作品もあった。全体的にシンガー・ソングライター色を打ち出したこの『シェッディング・スキン』は、再び2015年のマーキュリー・プライズにノミネートされた。その後もゴーストポエットは、マッシヴ・アタックの“カム・ニア・ミー”(2016年)にフィーチャーされるなどしていたのだが、『シェッディング・スキン』から2年ぶりの通算4枚目のアルバムとなるのが『ダーク・デイズ+カナッペ』である。

 過去3作はほぼセルフ・プロデュースだったが、『ダーク・デイズ+カナッペ』ではブライアン・イーノ、ジョン・ホプキンスなどを手掛けたレオ・エイブラハムズが共同プロデュースし、マッシヴ・アタックのダディGや女性シンガー・ソングライターのEERAが参加。エイブラハムズはギタリストとしても著名で、“ブラインド・アズ・ア・バット…”に顕著な彼のギター・サウンドが、『ダーク・デイズ+カナッペ』を彩る要素のひとつになっている。オープニングの電子音がうごめく“ワン・モア・シップ”やジューク/フットワークの要素も感じさせる“カロシ”からは、『シェッディング・スキン』とはややテイストの異なるアルバムであるという印象を抱かされる。ダディGとデュエットした“ウォウ・イズ・ミー”は、フォークやブルースの影響を感じさせるトリップ・ホップで、枯れた雰囲気のマッシヴ・アタックとでも言おうか。ダーク&ソリッドさが漂う“メニー・ムーズ・アット・ミッドナイト”も、マッシヴ・アタックやポーティスヘッドなどブリストル・サウンドに通じるナンバーだ。『シェッディング・スキン』路線のロック調のナンバー“ライヴ>リーヴ”もあるが、全体的にはアブストラクトなムードの“(ウィー・アー)ドミノズ”をはじめ、比較的ファースト・アルバムの頃に戻ったような感じだ。“トラブル+ミー”はロック、ファンク、トリップ・ホップがミックスされたようなナンバーで、リチャード・ラッセルがプロデュースしたギル・スコット=ヘロンの生前最後のレコーディング『アイム・ニュー・ヒア』(2010年)を思い起こさせる。ミュージック・ヴィデオも公開された“フリークショウ”は、ダブの影響が強いオルタナ・ロック~パンク的なナンバーで、“ドーパミン・イフ・アイ・ドゥー”では重厚なゴーストポッツの歌と可憐なEERAの歌が好対照を見せる。同じくミュージック・ヴィデオが作られた“イミグラント・ブギー”は、エイブラムスのギターがカオティックで催眠的なグルーヴを作り出し、ゴーストポエットの歌もパンキッシュな匂いを放つ。UKのメディアには“トラブル+ミー”や“フリークショウ”をレディオヘッドになぞらえているものもあったが、実験的な音響効果が施されたアルバム最後の“エンド・タイムズ”も同様で、エイブラハムズのギター・サウンドを含めてレディオヘッドを投影できるところもある『ダーク・デイズ+カナッペ』だ。

Ariwo - ele-king

 フィジカルにこだわったのがいけませんでした。またしても半年かかってしまいました。キューバで新たに設立された〈マニャーナ・レコード〉からアリワならぬアリウォのデビュー・アルバムをようやく入手。パッと試聴した時はシャクルトン・ミーツ・アフロ・キューバン・ジャズといった感触で『マーラ・イン・キューバ』から思わぬ余波が生じているのかなと。アリウォとは西アフリカの言語、ヨルバ語で「ノイズ」のこと。マニャーナはスペイン語で「明日」。ゴングのデヴィッド・アレンが生前、「マニャーナ、マニャーナ」を連発していたことを思い出す(合掌)。
 ロンドンをベースにエレクトロニクス担当のイラン系1人+キューバ系3人の生演奏で構成されたアリウォは、昨年、キューバ初のインターナショナル・ エレクトロニック・ミュージック・フェスティヴァルでプラッドと共演し、ベスト・アクトの声が高かった。その模様がユーチューブで流れ、それ以前に行われていたボイラールームでのライヴ・パフォーマンスにも興味は集まった。一見、単調なのにどんどん盛り上がって行くスタイルはすでに確立されていて、エレクトロニクスとライヴ演奏が完全に融合している様子がそこでは確認できた。同フェスにはちなみに地元勢だけでなくイギリスからエイドリアン・シャーウッドクァンティック、アメリカからニコラス・ジャーやイタリアからはDJカラブ(本誌20号クラップ!クラップ!インタヴュー参照)ほか多数が参加。

 情熱的なトランペットが耳を引くので、プレスなどではアフロ・キューバンという性格が強調されているものの、全体的にはユーロ・ジャズの文脈にあるといえる。それがベーシック・チャンネルのようなクラブ・ミュージックとの接点を模索し、独自のスタイルに辿り着いたものと思われる。それこそブライアン・イーノとジョン・ハッセル(と故ナナ・ヴァスコンセロス)の『ポッシブル・ミュージック』(80)を現在の視点で移民たちが作り変えたようなものに聞こえてしまうというか。リズムが走り出すとドラムン・ベースにも近いものがあったり。もしくはキューバ系の3人はこれまでにもブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブなど様々な場で客演歴があるので、彼らをひとつのヴィジョンでポウヤ・エセイ(Pouya Ehsaei)がまとめたとしたらエイドリアン・シャーウッドがヒップホップのサポート・ミュージシャンたちをタックヘッドとして組織し直したときの契機にも重なるものがあるのかもしれない。シャーウッドがヒップホップにダブを掛け合わせたのと同じ要領で、アフロ・キューバン・ジャズとダブ・テクノを橋渡したのである。イラン系のポウヤ・エセイは2015年に〈エントラクト〉から『172』でソロ・デビューしていて、その時はイランの伝統音楽を素材にしたインダストリアル・ドローンを聞かせていた。宗教的なチャントなどをフィーチャーしているあたりはなるほどペルシャ音楽が背景にあることをうかがわせるので、どうしてキューバ音楽の演奏者たちと結びついたのかは不明。ゾロアスター教をテーマとした曲などもあるし。

 かつてキューバ発のパチャンガやデスカルガは国交が途絶えてからもアメリカの音楽に多大な影響を与えていた。カンディードやグロリア・エステファンはディスコにも大きな影響を与えていたし、ピッツブルのようにキューバを憎むあまりマッチョに磨きがかかっていくタイプもいただろう(それは米大統領選の裏テーマでもあリました)。ジャイルズ・ピーターソンが敷いたレールは着実にその流れをブリテン島におびき寄せている。ジャマイカのミュージシャンが現在はアメリカに進出したがるのとは対照的にキューバからイギリスへ向かう流れが生まれつつあるのだろう。人種の衝突からしか新しい音楽は生まれないかどうかはわからないけれど、こういったものがもっと出てくるとしたらカルチャー・クラッシュもグローバリゼイションもぜんぜんありでしょう。よくある先進国と途上国という組み合わせではなく、途上国同士によるトランスローカルな結びつきというのがいいと思う。

 コンガがいい感じで跳ね回っている。最終的には、しかし、そこかな。ピアノとドラムで明暗をはっきりと付けた『マーラ・イン・キューバ』よりも基調はやはりミニマルだし、等しく呪術的とはいえ、モノトーンなエレクトロニック・リズムの繰り返しをコンガがとっちらかしていくプロセスは実にスリリング。90年代のダンス・ミュージック・ファンにはファビオ・パラスだったり〈ゲリラ・レコーズ〉が高級になって戻ってきたような錯覚というか。


Fleet Foxes - ele-king

 耳を澄ませば、海が囁く声が聞こえる。目を凝らせば、温かな木漏れ日が見える。
 フリート・フォクシーズの6年ぶり、3枚めのアルバムには、気をつけていなければ聴き逃してしまいそうな小さな音がたくさん録音されている。まずもってその幕開けに用意されたのが「静けさ」だ。ポロンと小さく弾かれるアコギの弦と、呟くように抑制された男の歌声。それは1分を過ぎた辺りでバッと視界が開けるように多人数・多楽器によるアンサンブルとなるが、よく聴けば、鳥のさえずりが後ろで響いている。雄大なストリングスの旋律と、聴いていると背筋が正されるような毅然とした歌声。そしてそれは、やがて波の音を導いてくる……。ダイナミックな風景の移り変わりの後景には、たくさんの生き物や自然の気配がざわめいている。密室的なところがまったくない。これは旅の音楽だ。見たこともない場所へと、自分の足で踏みこんでいこうとするフォーク・ミュージック……。

 2011年の前作『ヘルプレスネス・ブルーズ』とそれに伴うツアー以降、おもにバンドとフロントマンのロビン・ペックノールドの内的要因から活動を休止していたフリート・フォクシーズだが、この『クラック・アップ』では彼らの最大の美点が見事に返り咲いている。つまり、清らかさだ。研ぎ澄まされたアコースティック楽器の音と、迷いなく完璧な音程で発せられる歌声、そしてそれらが折り重なることによって生み出される美しいハーモニー。その厳格なまでの「調和」がフリート・フォクシーズの魅力だったわけだが、それは6年の時を経てもまったく色褪せないまま蘇っている。
 その若々しい潔癖さ、凛々しさは相変わらずだが、ひとつバンドの成熟を見て取れるのは録音である。クレジットを見ると大量の楽器が使用されていることがわかるが、それらは大抵ごくごく繊細な形でアンサンブルに溶け込んでいる。たとえば“サード・オブ・メイ/大台ケ原”はタイトルの通り日本がテーマになっているため琴が使われているが、それはこれ見よがしなオリエンタリズムとして導入されておらず、他の弦楽器と同等のものとして扱われている。ギター、ピアノ、ハモンド・オルガン、メロトロン、ムーグ、マリンバ、パーカッション、ハーモニカ、フルート、クラリネット……それら多彩な音色は少しずつ登場し、ざわざわと雑多な人間の息づかいのように共存している。彼らが登場したときというのは、どこかノイズや余分なものを「許さない」厳かさが目立っていたように思うが、それを幾分緩めた前作を経て、『クラック・アップ』では細やかな音の集合がお互いを疎外せず、むしろ総体としての輝きを高めている。近年の音楽作品のなかでもっとも近いのは、森は生きているのセカンドだろう。小さな音を執念深く拾い集めて丁寧に録音することで、より複雑な色彩の風景を描こうとしている。“ケプト・ウーマン”、“イフ・ユー・ニード・トゥ、キープ・タイム・オン・ミー”で精妙に演奏される鍵盤がもたらす豊穣な陰りは、これまででもっとも奥行きのあるものとして響いている。

 ストリーミング時代に逆行するように、1曲のなかで組曲形式となっている曲も多く、また、アルバムは全体を通して途切れのない流れを作っている。あるいは、濱谷浩による写真を掲げた厳かなアートワーク。それはまさに、『クラック・アップ』が現代におけるボヘミアン精神を体現する作品だということを示しているように思える。つまり、まだ見ぬ場所を想像し、その景色を探す過程を実際に音で表そうとすること。初期はアパラチアン・フォークやバロック音楽などいまよりも参照元がはっきりしていたが、アフリカ音楽や中近東の音楽も取り入れられているというし、クラシックからの影響も多様な時代へと広がっている。さらに多様な土地と時代の音楽が融合しているのだ。フリート・フォクシーズの音楽がその寓話性や文学性からある種のフォークロアなのだとしたら、これはいわば架空の土地の伝承歌だ。どこにも属さず、様々な場所を移動しながら、そこで偶然出会ったひとたちと夜の焚き火を囲んで演奏する歌。歌詞はペックノールド個人の内省を綴った叙情詩だが、それはたくさんの人間のざわめきとともに発せられる……「ハーモニー」として。“アイ・シュッド・シー・メンフィス”の優しげな酩酊、そしてタイトル・トラック“クラック・アップ”の壮麗なブラス・アンサンブルのスケールは、それ自体が「ここではない場所」への渇望の凄みを宿しているようだ。
 世界は今日も誰かが引こうとする線によって閉じていく。だがそんな時代だからこそ、フリート・フォクシーズの清廉と高潔が眩しい。

Good Time - ele-king

 これ、なかなかおもしろい映画ですよ。前作『神様なんかくそくらえ』で東京国際映画祭グランプリと最優秀監督賞を受賞したジョシュ&ベニー・サフディ監督による新作、『グッド・タイム』。下層に生きる人間の生を独特の角度から捉えつつ、ハラハラドキドキも忘れない、素敵な映画に仕上がっております。OPNによる音楽も刺戟的で、挿入箇所がこれまたなんとも絶妙なのです。そんな『グッド・タイム』、日本での公開は11月3日ですが、それに先駆け、10月24日に渋谷ユーロライブにて先行試写会が催されます。本編上映後には、映画・音楽ジャーナリストの宇野維正氏をお迎えしたトーク・イベントも開催される予定です。
 その『グッド・タイム』試写会に、10名様をご招待いたします。件名に「グッド・タイム試写応募」と入れ、本文にお名前とメール・アドレスをご記入の上、下記までメールをお送りください。当選された方にのみ、編集部よりご案内を差し上げます。

応募先:info@ele-king.net
応募〆切:10月15日(日)23:59

『トワイライト』『ディーン 君がいた瞬間(とき)』
ロバート・パティンソンの神演技を世界が絶賛!
第70回カンヌ国際映画祭 コンペティション部門選出作品
『グッド・タイム』
試写会プレゼントのご案内

【日程】 10月24日(火) 
18:30開場 19:00スタート予定 (上映時100分)

【場所】 ユーロライブ

住所:渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 2F ユーロスペース内
JR・地下鉄 渋谷駅から徒歩10分。駅よりかなり遠いため、余裕を持ってお越しください。
ご招待数:10名様 (提供:ファインフィルムズ)

●応募先・当せん案内:ele-king編集部(info@ele-king.net)
●当日は受付で、当せん案内メールもしくは、当せん案内メールをプリントアウトしたものを確認させて頂きます。
満席の際、及び開映後のご入場はいかなる理由でも、一切お断りいたします。予めご了承ください。
●本試写会はSNSアカウントをお持ちで、SNSからの感想、口コミ拡散をご協力頂ける方のみご応募下さい。
●当日は上映後にトークイベントがございます。
本作はR15+の作品の為、15歳未満の方の応募はご遠慮ください。

●主演は『トワイライト』シリーズで一躍世界的に有名になり、『ディーン 君がいた瞬間(とき)』(アントン・コービン監督)、『コズモポリス』(デヴィッド・クローネンバーグ監督)など、著名監督の作品にも次々出演してきた人気俳優ロバート・パティンソン。本作ではニューヨークの最下層で生き、投獄された弟を助けようともがく孤独な男コニーを演じ、カンヌ映画祭で“パティンソンのキャリア史上最高の演技”と称賛された。監督は、『神様なんかくそくらえ』で2014年・第27回東京国際映画祭グランプリと最優秀監督賞をW受賞した兄弟監督ジョシュ&ベニー・サフディ。コニーの弟ニック役にはベニー・サフディが監督と兼任し、他『ヘイトフル・エイト』のジェニファー・ジェイソン・リーらが出演。音楽にも監督自ら力を注ぎ、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(OPN)に音楽制作をオファー。伝説のロックスター、イギー・ポップも参加したサントラで「カンヌ・サウンドトラック賞」を見事受賞している。本作は11月3日(祝・金)よりシネマート新宿、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国公開。

【ストーリー】 ニューヨークの最下層で生きるコニーと弟ニック。2人は銀行強盗を行うが、弟だけ捕まり投獄されてしまう。コニーは言葉巧みに周りを巻き込み、夜のうちに金を払って弟を保釈できるよう奔走する。しかしニックは獄中で暴れ病院送りになっていた。それを聞いたコニーは、病院へ忍び込み警察が監視するなか弟を取り返そうとするが……。

出演:ロバート・パティンソン(『トワイライト』)、ベニー・サフディ(監督兼任)、ジェニファー・ジェイソン・リー(『ヘイトフル・エイト』)、バーカッド・アブディ(『キャプテン・フィリップス』)
監督:ジョシュ&ベニー・サフディ(『神様なんかくそくらえ』)
2017/アメリカ/カラー/英語/100分
原題:GOOD TIME
配給:ファインフィルムズ
© 2017 Hercules Film Investments, SARL
公式HP:www.finefilms.co.jp/goodtime

エンドレス・ポエトリー - ele-king

 初めてルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』(74)を観たときは「なんてスゴい映画なんだ」とトリハダ大感動だったにもかかわらず、2~30年してもう一度観たら、ぜんぜん意味がわからなかったことがある。とくに後半の政治談義はさっぱりで、なんで、学生時代の自分にはこれが面白かったのか、それもまたナゾであった。二度観ることで印象が変わってしまう映画はざらにあるし、間隔が空いていればそれはなおさら。ちゃんと楽しめるようになっていたり、前よりも深く没入できた時はいいけれど、たいていは前に観た時よりもヒドいと感じてしまい、好きな映画がどんどん減っていくのはけっこう笑える。こんなものに長く囚われていたのかと。意味もなく大切にしていたゴミをついに捨てた気分。
 アレハンドロ・ホドロフスキー『エル・トポ』(69)にも同じようなところがあり、最初に観た時はそれこそ圧倒された。そして、その記憶だけが増幅されていった。難解な映画の代表作のように言われる作品だし、それ以上、自分の言葉にできなかったというのはやはりダメなのだろう。これもやはり30年ぐらいしてからもう一度観たことで何かが頭の上からどいた気分になった。もう一度観ることがないとは思わないけれど、とりあえずいったんは捨て去ることができた。もう一度観るにはやはり新たなキーワードが必要である。『アモーレス・ペロス』や『散歩する惑星』が「虚無」をアップデートした時代に『エル・トポ』というのはどれだけ応えてくれる作品なのか、それを説いてくれる言葉が。『クスクス粒の秘密』や『パラダイス:愛』が束になってかかってくる現代に。

 とはいえ『エル・トポ』を観直そうと思ったのは、4年前、『リアリティのダンス』(13)にまたしても異様な感動を覚えたからだった。同作はホドロフスキーが23年ぶりに映画界に舞い戻った凱旋作で、強権的で異常なほど抑圧的だった父親(スターリン主義者)の半生を受け入れるためにどうしてもつくらざるを得なかったとしか思えない自伝作であり、世界というものがどんなところかわかり始めてきた少年の視点と実際の時代背景が絶妙に入り混じった自己セラピー映画だった(悪くいえば捏造記憶の映像化)。『リアリティのダンス』を観れば氷解することだけれど、『エル・トポ』は父親のやったことはすべて徒労でしかなく、あげくに焼身自殺させてしまうというストレートな父殺しの映画だった。それと同じようなことを今度はコミカルにやり直したのが『リアリティのダンス』で、人というものは幼少期に感じた恐怖を笑いにすることでしか乗り越えられないという学説を裏付けているようなところがある。そういうことを80歳過ぎてもやったと。しかもそれが無類に面白かった。さらには父親の人生をテロリストとして再生することでそれなりの意義も認めているところは大きな変化である。もともと『エル・トポ』でも父に捨てられた息子は再会した父に向かって「殺す」と告げたにもかかわらず実際には殺せず、自分の手で父殺しはできないという留保は付けられていた。このちょっとしたためらいを彼の人生という別なスケールの中に移し変えてみると、ホドロフスキーが創作へと向かうエネルギーはすべて父親がくれたようなものだと無意識に理解していたということにはならないだろうか。『エル・トポ』で父を殺せなかった自分という図式は『リアリティのダンス』ではイバニェス大統領を暗殺できなかった父親という関係でもう一度リピートされる。権力が強大であればあるほどカウンターの力も増すという図式を彼は温存したかったのだろう。そう、『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』を読んでいただいた方には伝わったかもしれないけれど、戸川純は同じように幼少期に父親から受けた暴力を“好き好き大好き”という曲にして、早々と笑いに転化していた。ホドロフスキーよりもぜんぜん早熟である。しかも“シアー・ラバーズ”という曲では父との距離感を次のステップまで進めている。ホドロフスキーが生きている間にその境地まで辿り着くとは思えない。そんなことはないのかな。どうだろう。そう思っていたら『リアリティのダンス』の続編にあたる『エンドレス・ポエトリー』が公開されることに。青年期の始まりである。

『リアリティのダンス』と同じくシュールレアリズムというものの方法論を再認識させられる作品である。しかし、父親との確執を前面に押し出した前作と違い、貧しい暮らしを背景に芸術を求める青年像という筋書きはややありきたりに感じられた。まったく様式性の異なる演出にしてしまえばよかったのかも知れないけれど、やはりイメージを喚起する力はさすがなので観ている間は圧倒されっぱなし。モノクロとカラーを組み合わせて異なる時間軸を共存させ、ギターケースには肉を、巨大なアトリエにカーニバルを詰め込んだり。それらが洪水のように流れていくものの、彼にとっての父親と違い、目の前を流れていく風景はトラウマには発展していかない。どちらかというとホドロフスキーにも普通の時期があったんだなという感慨の方が僕には強く残ってしまった。チリからパリに移り、シュールレアリズムから神秘主義へ転じ、最初にハプニングを始めたアート・パフォーマーとも言われ、メキシコでは前衛演劇、さらにはLSD、映画、コミック、マジックショーと知れば知るほどこんな人間が本当に存在するのかと思うような才能がともすると『ゲゲゲの女房』や『苦役列車』と同じ地点に立っていたことがわかるような映画なのである。これは微妙である。いっそのこと自分とは完全にかけ離れたような存在でいて欲しかったような気もしてしまうし、共通点がないとそもそもこの人に興味を抱かなかったかも知れないし。ただし、経歴からもわかるようにホドロフスキーの作品は徹底的に身体性から発しているものなので、一見、整合性のないストーリーでも、なるほどダンスを踊るかのように意識も持って行かれてしまい、体を動かすことが嫌いではない人たちは興味の有無とは別に作品には同調しやすいのではないかと。それこそ身体性のまったく欠如したデヴィッド・リンチの映画が苦手だという人にはアピールしやすいとも(ホドロフスキーもリンチも同じように好きだという人はちょっと信用できない)。全身を真っ赤なタイツで包んだ人々の行進と同じように黒と白でドクロ模様が描かれたタイツを着た人たちの行進が混じり合い、めくるめく血と骨のイリュージョンに包み込まれたかと思うと赤と黒と白がナチスの旗に変換される刹那など政治的に支配されていくプロセスを的確にコントロールされたようで、恐怖感は倍増だった。あのシーンにはほんとに逆らえなかった。

『エンドレス・ポエトリー』では父親との確執を前面に押し出さなかったと先に書いた。しかし、エンディングはパリに向かおうとしたホドロフスキーが港で父親とケンカになるシーンである。両者ともに罵りまくる。これもホドロフスキーにしては普通すぎる。『リアリティのダンス』では暴力でしかなかったものがコミュニケイションに変化している。実際に父と息子はこの時が今生の別れとなったらしく、もしかするとリアルに再現したのかも知れないけれど、『リアリティのダンス』をつくったからこのような屈託のない描き方もできるようになったのだろう。セラピー後の表現というのは概して面白くないものである。それは仕方がない。それに第3部としてパリ編もこの後につくられるらしく、つなぎとしてはどうしても必要なシーンだったのだろう。「父親」後の世界が始めるためには。

 僕は『スター・ウォーズ』を一本も観たことがない。同シリーズはホドロフスキーがハリウッドに持ち込んだアイディアの残骸だったと明かされる『ホドロフスキーのDUNE』を観た時、僕はそのことをちょっと誇りに思った。


私たちは慢性的な危機を目撃している。そのような危機は、今や過去のことだと思っていた緊縮財政と衝突のあった古い時代、あるいは人種と国民をめぐる政治に私たちを連れ戻したように見える。私たちは立ち往生しているのかもしれない。しかし、昔に引き戻されているわけではない。警察による職務質問、学校からの除籍、若者の失業といった重要な指標が示しているのは、1979年の総選挙におけるサッチャーの歴史的勝利に沸いていた37年前よりも、事態が悪くなっているということだ。(本書、日本版序文より)

 ポール・ギルロイは、こと今日のDJカルチャー/(とくにUKにおける)ブラック・ミュージックを思考するうえでは外せない思想家のひとりである。人種問題の文化研究などというと堅苦しいが、ギルロイがこの日本版の序文で書いている言葉を引用すれば「生きた社会運動を学術的に考察する」こと、本書におけるギルロイの場合、それはおのずと音楽について語ることになる。
 黒い英国における音楽と社会運動史の考察、『ユニオンジャックに黒はない』は、その後『ブラック・アトランティック』で有名になるギルロイのデビュー作で、初版は1987年だが、有名なのは2002年の増補版で、それにしても15年目にしての本邦初翻訳だ。が、これはいま読んでも充分にパワフルで、震える本であり、ここに書かれている過去の闘争が現在と交差する瞬間、その持続する瞬間においてこれからも多くの人が訪ねて来るであろう本だと言える。ザ・インプレッションズでカーティス・メイフィールドが歌う勇敢で前向きな“キープオ・ン・プッシング”を聴いているとき、聴き手のなかに、たんなる過去の名曲として消費する以上の何かが生まれるかもしれないように。
 あるいは、アレサ・フランクリンの“シンク”(1968)、ボビー・ウーマック“アメリカン・ドリーム”(1984)のような曲……一見たんなるラヴソングでありながらそれ以上の解釈も可能なこうしたソウルという名で呼ばれるポップスを、ギルロイは次のように説明している。「個人の歴史と公共の歴史のそれぞれの領域がもつ特性は、両者が分節されつつも節合していることを表現すべく引き合いに出され、ひとつにまとまることで真実と自由の双方を生みだしている」。つまり、「個人の歴史と公共の歴史との相互作用によって喜びをつくり」だしていると。
 『ユニオンジャックに黒はない』は、資本主義批判/社会運動の本であるが、面白いほど、音楽についての本である。ソウル、ファンク、ブルービート(スカ)とレゲエ、そしてヒップホップ……こうした音楽が趣味にとどまることを許さずに、黒い英国においてどのように社会と“関わり合っていた”のかを綴り、パンク・ロックを起爆剤に生まれた「ロック・アゲインスト・レイシズム」という運動についてもじつに詳しく描写している。思想書において、この本ほど音楽誌からの引用が多い本もそうないだろう。
 もっとも、本書が刊行された15年前と比較して、福祉を破壊し、格差を増長する新自由主義が(英国ではニュー・レフトを通じて)加速的に進行した現在についてギルロイは手厳しく、なかば敗北的に、避けがたく悲観的な態度を以下のように見せている。「政治的な発話と疑われるものを非公式に差し止めることが威を振るっている風潮のもとでは、怒りも道徳もどちらも表立っては示されない」。かくして「最近の数年間で支配的になっているのは、説教臭いラップや布教的なパンクではなく、つねにほとんど歌詞のないエレクトリックなダンス・ミュージックである」。そして、「内面への沈潜とエクスタシーという身体の快楽の徹底した追求とによって、そこから生じてきたサブカルチャーは、古き政治の趣をほとんどすべて失っている」と。で、「そうしたサブカルチャーはまた、部分的には企業の権力と結びつき、政治ないし経済的な資産としての価値を評価する政治あるいは政府と結びつきのある人間がいなくても、世界中に輸出されている」。これは悪しきにつけ、良しにつけでもあろう。ひとつたしかなのは、ギルロイが言う「感覚を麻痺させたいという諦め」、すなわち逃避したいという流れが音楽のなかでより強まっていることだ。(ぼく個人が日常聴いている音楽の多くも、この流れにある)
 またギルロイは、こうした事態のなか、15年前に本書が触れた(たとえばUKレゲエと社会運動がリンクするような)抵抗のネットワークは、「デモクラシー、フェミニズム、社会主義という各要素への日常における希望と同様に、ほぼ崩壊している」とぶっちゃけている。「そのような希望とこのネットワークは、かつて居心地悪くではあるが、生産的に提携していたのだが。それに代わって、今や無力さを引き起こす反知性主義が、倫理なき民営化と日和見主義の後押しする強欲さと利己心というよくある悪を牛耳っている」。
 日本もいよいよトランプや、そしてサッチャーのことを他人事のように語れない窮地に追い込まれている。他方では、数ヶ月前の世間的には注目度の低かった民進党の代表戦において、枝野幸男氏がヴァンパイア・ウィークエンドやグリズリー・ベアが全力で応援したバーニー・サンダースと多くのところで重なる政策を掲げていたことに音楽ファンの何人かは気づいたかもしれないし、新党結成時の氏の会見における「下からの政治」という言葉がブレイディみかこの「地ベた」というコンセプトと重なるんじゃないかと、おそらくだが……何人かは気づいたかもしれない。
 しかしながら、何度もくじけそうになる信念と希望を、黒い英国のサブカルチャーが支え合ったように我々にもできるとしたら、いったいどのように、いったいどうしたものかと……ギルロイが序文で吐露するような深い敗北感を覚えている人も、とくに年増になってくると、少なくはないだろう。本書が訴えるところでは、そして現実的なせんとしてこの本を咀嚼して言えるのは、まずは連帯意識(コミュニティ意識)というものを見失わないこと。まあ、現代の英国にスリーフォード・モッズがいるように、日本にもBullsxxtのようなバンドががんばっているし、水曜日のカンパネラだっている。終わった過去は無駄にはならず、それはまた何かのきっかけでいつはじまるのかわからない、そういうぎりぎりの希望についても、ギルロイは次のように力強く書いている。

 権利と人間の尊厳を求める闘いはいくつかのささやかな暫定的勝利を収めているが、そのあとには長期にわたる重苦しい敗北が続いている。そうした敗北が示しているのは、ある異なった種類の社会へと英国が変容していく様だ。最初は不安定で慢性的に危機に陥った市場社会へと英国は変容したが、その次には今日目の当たりにしているように、ヴァーチャルでネットワーク化された社会生活における、恐るべき新自由主義的な実験へと変容した。それは私有化、軍事化、金融化のトライアングルをなしている。だがいくつかの闘争が残したものは、豊かな創造的追求のなかにいまだ顕著である。それは、言葉のないエレクトロニック・ミュージックのなかに、共同体のアンダーグラウンド文学や詩作のなかに、そして新たに生まれつつある世代の抵抗芸術のなかに反響している。これらの反体制的な布陣は戦闘的な過去に彩られており、型破りで多文化的な亡霊たちを呼びだすことができる。そのような亡霊の存在はその潜勢力を失っているかもしれないが、私たちが今や当たり前のものと思いかねない危機に陥っている抑圧的な秩序に反対する、ポストコロニアルな抵抗という抵抗的な歴史を、時としてふたたび甦らせることが今なおできる。(本書、日本版序文より)

彼女がその名を知らない鳥たち - ele-king

 東日本大震災が起きる前だったか、作家の保坂和志が会うたびに「たとえば蒼井優がさあ」を連発していた時期がある。「たとえば」というのだから、続く名前はほかの人になっていてもいいじゃないかと思うし、「蒼井優」と言いたいのなら「たとえば」はいらないじゃないかとも思うんだけど、なぜかいつも「たとえば蒼井優がさあ」なのである。その後にどんな話が続いたのかは忘れてしまった。きっと楽しい会話だったのだろう。「たとえば蒼井優がさあ」で始まる会話があり、それが地震で吹っ飛んでしまっただけ。とはいえ、そのことが妙に懐かしい。
 昨年、『オーバー・フェンス』で場末のキャバ嬢役を務めた蒼井優が久々の主演作となる『彼女がその名を知らない鳥たち』でまたしてもディープな汚れ役に挑んでいた。働かず、男からもらう小遣いで遊びまわり、自堕落な日々と荒みきった仏頂面。寝っ転がってデパートにクレームの電話を入れるオープニングからして様子が違う。ああ、蒼井優も着実に芸風を広げようとしてるんだなと最初は思いかける。『オーバー・フェンス』で見せた強烈なイメージの変化に引きずられたのだろう。
 いや、そうではないのではないか。蒼井優のデビュー作は『リリイ・シュシュのすべて』(01)である。有名なエピソードのようだけれど、蒼井が演じた津田詩織は援助交際を強要されていたにもかかわらず、それをものともせずたくましく生きていくという設定だった。ところが、レイプされ、自殺する予定だった久野陽子を演じる伊藤歩の演技と蒼井のそれを観ていた監督(岩井俊二)は二人の演技に突き動かされ、撮影の途中で二人の運命を入れ替えてしまったというのである。簡単にいうと岩井俊二は蒼井優の中にタナトスを見たということで、蒼井の演技が自殺というストーリーを引き寄せたことになる。保坂さんが「たとえば蒼井優がさあ」を繰り返していた時期は『ハチミツとクローバー』や『フラガール』がヒットし(共に06年)、蒼井のイメージがメジャーなフィールドで定着しつつあった頃だった。そうなると蒼井の中でタナトスは眠りにつかざるを得なくなるだろう。実際、黒柳徹子は蒼井を清純派と呼んでいたし(トリビア:蒼井は役名が黒柳徹子だったことがある)、そうしないとTVをつければ「ビオフェルミン!」などと発音しているタレントにはなれなかっただろう。しかし、蒼井はいま、その時に封印したタナトスを解禁しつつあるのではないだろうか。初期衝動が再燃しつつあるのではないだろうか。

 最も心に残ったセリフは「生きていたくない」だった。蒼井が演じる北原十和子は「死にたい」とは一度も言っていなかった(はず)。生きてはいるけれど、そのことをまったく楽しんではいない。自分のために何でもするという佐野陣治(阿部サダヲ)が北原十和子の生活を支え、家事から何からすべてのことは彼がやってくれる。ヴィリエ・ド・リラダンいわく「生きることはすべて召使いがやってくれる」という状態である。佐野がどうしてそこまで北原に尽くすのか、最初はまったくわからない。結論からいうと最後まで観ても解釈はひとつに絞れない。むしろ、この男の存在はファンタジーではないかと思えてくる。一緒に共同生活を始めた男がどれだけダメかという例をあげつらった『深夜のダメ恋図鑑』(小学館)のようなマンガを読んでしまうと、いまの日本の現実とは真逆ではないかと思ってしまう。しかし、阿部サダヲの演技がこれをありにしてしまう。これはちょっとしたマジックで、『夢売るふたり』を観ている時にも思ったことだけれど、阿部という役者にはどこか女性を前近代的なお姫様として成立させてしまうところがある。かたちは変えているかもしれないけれど、阿部は女性の夢を異次元で成立させてしまう白馬の王子様なのである。『彼女がその名を知らない鳥たち』も阿部以外の役者で説得力を持ったかどうかは興味深い。すぐに思い出したのは『春琴抄』で、男女関係はいわゆる対等ではなく、主従の関係も見た目通りに機能しているわけではない。マゾヒズムをテーマとした『春琴抄』も最後は現実の春琴は素通りして佐助が崇めるのは観念としての春琴にすり替わっている。マゾヒズムの方が現実よりも優先されている。阿部サダヲ演じる佐野陣治も現実の北原十和子を自立した女性として扱っているわけではなく、彼女の好きにさせているようで、言ってみれば彼女に仕事もさせず、社会との接点を失わせ、「生きていたくない」と感じさせる状態に追いやっているともいえる。この映画はそこにミステリーのエッセンスを詰め込んだ。春琴の晩年と同様、プライドを失った女性の心理をミステリー形式で肥大させてみたと言った方がいいだろうか。物語は、そして、北原がデパートの店員に色目を使い出し、佐野の寛容さにストップがかかるところから急激に転がり始める。佐野は異常なのか、それとも北原があまりに誠実さに欠けるのか。

 佐野が取っていた行動の謎は最後に一応は解ける。それしかなかったようには思えてくる。問題なのは、いや、観たいのは「このあと」ではないかという気持ちが残ったまま、そして、街に放り出される。「生きていたくない」と言っていた北原十和子はどうなっていくのか。観終わった後にそれを考えさせる映画だと言われてしまえば、これはもうミステリー映画の範疇ではない。そして、僕は必ずしも蒼井優の演技がポジティヴな方向にものを考えさせるばかりではないと思ってしまった。岩井俊二と同じく、彼女の表情にタナトスを読み取ってしまう方が自然なのではないかと。一緒に観に行った友人(アメリカ人でもわかる関西弁!)が「さすがに可哀想だと思った」と同情心をあらわにしていたのが印象的で、最後まで蒼井演じる北原十和子には強さが感じられない。この世から消えてなくなってしまうしかないような表情に思えて仕方がなかった(監督の白石和彌は逆に蒼井を撮りながら強さを感じていたという)。
 この映画が意地悪なのは北原十和子の姉がシングルマザーで、しかもバリバリに仕事をこなしているワーママとして設定されていることで、周囲に男がいない女は成功し、いろいろな意味で男に取り巻かれている妹は何ひとつうまくいかないといった対比が強調されていることである。それこそ白馬の王子様に空振りを食らわせた『アナと雪の女王』を現実へと引き戻したミサンドリー(ミソジニーの反対語)の映画ではないかと考えたくなってくる。登場する男たちはことごとくヒドいし(とくに國枝?)、男としてはこの映画のどこにも身の置き場がないではないかと思ってしまう。そのような世界観を剥き出しにしているにもかかわらず、それでも「白馬の王子様」を必要とするのかという疑問もあるし、最後まで観ても佐野陣治の存在をどう捉えればいいのかわからないというのは、そのせいではないだろうか。監督はしかし、佐野の取った行動は無償の愛だという解釈でアプローチしたらしい。そうなのかー。うむー(ちなみに白石和彌の前々作『日本で一番悪い奴ら』は個人的には昨年の邦画ベスト・スリーに入ります。スコセッシを思わせるロック的な皮肉が素晴らしいです)。

 邦画でどうしようもないなと思うのは、とくに予告編の作り方と音楽が使われ過ぎだということ。『彼女がその名を知らない鳥たち』で驚かされたのは音楽をほとんど使用せず、ある一点に凝縮させて流したことだろう。音楽はまるで洪水のようで、その流れに呑み込まれていることが自覚できるのにどうすることもできない。これにはやられた。邦画でこういう経験は珍しい。


第2回:バクダン、ミサイル、てやんでい - ele-king

バクダンとは地球である
パンパーンッ、ドカン、ドカーンッ

 パンパーンッ、ドカン、ドカーンッ。民衆はバクダンが好きだ。ひとを殺したり、殺されたりするのが好きだっていってるわけじゃない。そういうことじゃなくて、なにかがふっとんだ、ガラガラ閉店みたいなその感覚が好きなのだ。ハラハラ、ドキドキ。ハラハラ、ドキドキ。ああ、たまんねえ。
 じっさいのところ、バクダンってのはぶっぱなしたら制御不能だ。意図していないものもふくめて、一瞬にして、そこにあるものすべてをふっとばしてしまう。他人だけじゃない、自分の命や人生もひっくるめて、残酷なくらいすべてを無に帰してしてしまうのだ。おしまいだ、おしまいだ、ぜんぶおしまいだ。この何世紀か、民衆をひきつけてやまなかったのは、そんなカタストロフそのものなんじゃないかとおもう。
 で、いつもおもうのだが、これって地球にちかいんじゃないだろうか。ちょっと子どものころをおもいだしてほしいのだが、台風で停電になって、雨戸をしめて、あやういところは窓に板をうちつけて、そんでもってロウソクをかこんで、暗がりのなかで家族や友人とくっちゃべっていたとき、妙な高揚をかんじやしなかっただろうか。ハラハラ、ドキドキ。ハラハラ、ドキドキ。ああ、たまんねえ。地球だ!
 この非日常的な感覚っていうのだろうか、外からはパンパーンッ、ドカン、ドカーンッと異様な音がきこえてきて、一切合切がふっとばされている。しかも、それでひとにも被害がでているわけで、とても残酷なわけだ。でもそれでもいやおうなしに、なんにもねえところからまたあたらしい生をいきることになる。それが自然だ、カタストロフだ、再生だ。きっと、民衆がバクダンにひかれるのは、そこにおなじようなものをかんじているからじゃないだろうか。バクダンとは地球である。
 でも、国家はそういうのをだいなしにしてしまう。バクダンでも、いまだったらミサイルでもいいが、民衆の武器をとりあげて、たんなる殺人兵器にしてしまうのだ。戦争の論理である。殺るほうも殺られるほうも、人間はただの人口でしかない。だって、無差別に大量殺戮するのだから。何人ぶっ殺せたのか、ひとが数にしかみえなくなる。あるいは、まだなんにも撃ちこまれていなくても、こわいよ、こわいよ、死んじゃうよって恐怖があおられると、みんな思考停止させられてしまう。
 で、生きのびるためには、国のいうことをきかなきゃいけないとおもわされてしまうのだ。ぜったいに無意味だとわかっていても、「ビービッビッ、緊急速報です」とかいわれると、地べたにひれふして、頭をかかえたりしなきゃいけない。これ、政府のお偉方がいっているだけじゃない、マスコミもほんきだ。
 このまえ、北朝鮮がミサイルをぶっぱなしたとき、たまたまテレビをつけていたら、地べたにひれふさないで、目をキラキラさせながら空をみあげていたおじいちゃん、おばあちゃんがいて、それをみていたクソみたいな記者が、「あなたたちなにやってんですか!」って、まるで犯罪者でもぶったたくかのように叱責していた。チッ、おまえがなにやってんだ、このやろう。
 人間が人口でしかなくなっている。国にいわれたとおりにうごくコマでしかない、数でしかない。ジジイ、ババアをみならいやがれ。ひとはミサイルがとんでくるとかいわれたら、テンションあがってみにいっちまうものなのだ。敬老、だいじ!
 だから、いまこそいっておかなきゃいけないんだとおもう。バクダンの想像力をとりもどせ。殺人兵器をもてってことじゃない、ムダにひとをぶっ殺せってことじゃない。この手に地球の力をにぎりしめろってことだ。ハラハラ、ドキドキ。ハラハラ、ドキドキ。バクダンとは地球である。パンパーンッ、ドカン、ドカーンッ!

ハクション、ちくしょう!

 さて、そんなことを考えるのに、すごくいいなとおもったのが、ドラマ『僕たちがやりました』だ。主人公は窪田正孝扮するトビオ。ボケ高にかよう2年生だ。ふだん、オレの人生はソコソコなんだ、そんなもんでいいんだと、ちょっとばかし、人生にあきらめの気持ちをもっているのだが、べつにくらいわけじゃなくて、通学中にチラッと女子高生のパンツがみえちゃっただけで、うひゃあ、こりゃたまらんと心躍らせ、「ソコソコ、サイコー!」っておもっちゃうような高校生だ。自分、ビンビンであります。
 高校では、フットサルの部活にはいっているのだが、かんぜんに名前だけの部活で、毎日、部室で友だちとくっちゃべったり、マンガをよんだり、AVをみたり、人生ゲームをやったりして、ダラダラ、ゴロゴロと時間をすごし、帰りには、もうちょい遊んでいこうぜってことで、ボーリングにいったり、カラオケにいったりしてかえるみたいなことをやっている、そんな日常だ。友だちはマルとイサミ。そしてOBにして、空前絶後、超絶怒涛の大金持ち、パイセンだ。
 このパイセンをお笑い芸人の今野浩喜がやってるのだが、これがまたいい味をだしている。20歳くらいの役なのだが、みためは30代。高級車をのりまわしているものの、イガグリあたまにサングラス、そして白のノースリーブに短パンとサンダルっていう、すげえダサイかっこうだ。いわゆるダメ人間で、いつもハイテンションなのだが、絵にかいたようなトンマでなにをやらせてもダメ、ダメ、ダメ。高校時代は友だちもなく、つかいっぱしりにされていて、卒業してからは、就職もせずにプラプラしていたのだが、トビオたちが遊んでくれるので、毎日、高校にあそびにきていた。
 第1回の放送で、センコーにつかまって、「おまえみたいなクズはもう学校にくるな。わかってるだろ、おまえは生きていても、なんの意味もないクズなんだ。どうぜ、カネしかとりえがないしな。へへへっ」みたいなことをいわれて、歯をくいしばって号泣するシーンがあるのだが、いやあ、わたしはカネこそないものの、おなじダメ人間として、もう涙なしじゃみられなかった。こ、今野さんっ……!!! とにかく、今野さんの演技をみるだけでもおすすめだ。ぜひ、ユーチューブでもみてもらいたい。
 とはいえ、4人でたのしくやっていたのだが、ある日、転機がおとずれる。マルがおとなり、ヤバ高の市橋ひきいる不良軍団につかまってしまったのだ。監禁されて、おなじくらいよわっちい子とたたかわされて、勝ったらかえっていいといわれて、死闘のはてに勝利したのだが、殺さなきゃダメだといわれて首をしめるも殺しきれない。で、ボーナスラウンドとかいわれて、マッチョな不良に半殺しにされたのだ。血まみれのまんま素っ裸にされて、ダンボールにつめられ、トビオたちのところにおくられてくる。箱をあけたら……。で、トビオたちは決意した。アイツら、殺ス。トビオたちの復讐戦がはじまった。ヤレ、ヤレ、ヤッチマエ。
 それで今野さんが材料を買ってくれて、みんなでいっぱいバクダンをつくった。ハラハラ、ドキドキ。ハラハラ、ドキドキ。やばい、たのしすぎる。もちろん、ほんとうに殺すわけじゃない。ヤバ高の窓ガラスのちかくにしかけて、かるくパリンッ、パリンッてのを期待していたのだ。みんなで夜中にしのびこんでバクダンをしかけ、翌日、屋上でながめながら爆破をした。
 ジャスティス、そうさけびながら今野さんがスイッチをおすと、パンパーンッ、ドカン、ドカーンッ。あっ、あれ……。マジでヤバ高がふっとんだ。マジヤベエ! じつは夜中しのびこんだときに、今野さんがスッころんで、はずみでプロパンガスのまえにバクダンをおっことしちまったのだ。不良軍団が火車になってもだえ苦しんでいる。10人死亡。自分、地球をかんじます……。ハクション、ちくしょう!

やりたいときにやりたいことをやるだけだ
オープン・ザ・ゲート!

 トビオのソコソコの人生がふっとんだ。まず、ソッコウで今野さんがとっつかまる。やべえ、逃げろっ。みんな、事前に今野さんから300万円ずつもらっていたので、それで逃亡生活をおくろうとした。でもトビオはマルにうらぎられて、カネをもち逃げされてしまう。あの、クソやろう。すぐに警察にみつかって、もみあいになりながらも逃走。でもそのときに、ズボンとクツをひきはがされてしまった。ひとり裸足にパンツ姿で、街をさまよう。おしまいだ、おしまいだ、ぜんぶおしまいだ。
 そうおもったやさき、たすけてくれたのがホームレスのヤングさんだ。「ズボンないの?クツないの?」ときいてきたのでハイというと、これあげるという。ズボンとクツだ。すかさず、「歯はみがいた?」ときいてきたので、首を横にふるとついてこいという。スッとコンビニにはいってでてきたとおもったら、トビオのポッケに歯磨きセットがはいっていた。うおおお、マジかよ。おどろいたトビオをみて、ヤングさんがニッとわらって「オレ、窃盗二段だから」という。やばい、かっこよすぎだ!
 ヤングさん、オレついていきます。というか、社会生活なんてなくても、これで生きていけんじゃねえか。そうおもって夜、寝ようとおもっていたら、ヤングさんがこうつぶやいた。「トビオ、やりたいときに、やりたいことをやるだけさ。人間の可能性はまだ半分しかひらかれちゃいない」。うおおお、名言がでました。ハイッていって寝ようとすると、とつぜんヤングさんがトビオにとびのってきた。トビオのズボンをぬがし、ケツをプリンッてさせてまたこういうのだ。「やりたいときにやりたいことをやるだけさ。トビオッ、オープン・ザ・ゲート!」。なんて日だ。
 ヤングさんがつよすぎて、あらがえない。でも、それでトビオがピイピイ泣いていると、パッと手をはなしてくれた。ヤングさんの哲学だ。やりたくないことはやらなくていい。ホラッ、いけよと。で、トビオは号泣しながらダッシュで逃げた。オレはいったいなにをやっているんだ。自問自答だ。ふと、携帯をみれば、親や妹、おさななじみの蓮子ちゃんから、じゃんじゃん連絡がきていた。留守電をきいてみれば、かあちゃんが泣きじゃくっていて、マジで心配してくれている。
 それをききながら、トビオはふたたび涙をながし、こうおもった。いまつかまったら、未成年だから死刑にはならないけど、社会的には死を意味するだろう。世間からも一生、クソみたいなあつかいをうけるわけだ。でも、それでもまわりから、どんなあつかいをうけることになっても、ぜったいに変わらずに自分のことをおもってくれている人たちがいる。死んでもなおいっしょに生きる。この社会の道徳や利益なんかじゃとらえられない、そんなものとびこえちまった無償の生ってのが、この世のなかには存在してるんだ。もう、それだけでいいじゃないか。トビオは自首を決意した。

ギッコンバッコン、ギッコンバッコンー、ズッコンバッコンー!!
あるのは無希望、それだけだ

 と、そうおもったときのことだ。なんと、目のまえに今野さんがいるじゃないか。ええっ! 「ムショよりー、ふつうにー、シャバが好きー、アイッ!」。今野さんはそういうと、すげえキレのあるダンスをひろうした。ふ、ふざけてんのか? じつは今野さん、ムショにはいっているあいだ、ひたすらあたまのおかしいことをいいまくっていた。とりしらべで犯行動機をきかれてもこうこたえる。「吟じます。ギッコンバッコン、ギッコンバッコンー、ズッコンバッコンー!!」。このやろうと、ポリにけりとばされたりしたのだが、必死にたえる。で、そのあいだに真犯人が名のりでてきて、無罪放免となったのだ。
 バンザイ、バンザイ、万々歳! 4人でおちあってよろこんでいたが、そこで今野さんがほんとのことをいってしまう。そう、ほんとうに真犯人がいたわけじゃなくて、今野さんのお父さんが事件をモミけしたのだ。じつは今野さんのお父さん、裏社会の帝王で警察にもコネがある。で、殺人犯の父親とかいわれるのがイヤだから身代わりをたてて、事件をヤミにほうむったのだ。「ホレッ、ヤミのなか、ホレッ、ヤミのなか、ホレッ、ヤミのなか……」。みんなで手拍子をとって連呼してみるが、いえばいうほどくらくなる。
 トビオは良心の呵責で生きた気がしない。死んだ10人の顏があたまからはなれないのだ。ウヴェッ、ウヴェッ。ゲロにつぐゲロ、そしてさらなるゲロである。自首したい、でももうできない。自首したい、でももうできない。アァッ、アァッ、アァッ、アァッ、オレはなんでダメなんだ。気づけば、学校の屋上にのぼっていて、えいっといって夕日にむかってジャンプした。とびおり自殺だ。しかし人間、そうかんたんに死ねやしない。いいかんじに木にひっかかって、ちょっとしたケガで入院となった。
 病院で目をさますと、そこにはヤバ高で爆発にまきこまれ、下半身不随になった市橋がいた。バイクのレーサーになりたいという夢をたたれ、おまけにヤバ高の友だちだとおもっていた連中にも、おまえはおわったんだとコケおろされ、抜け殻みたいになっていた。かれはかれで社会的に死んだのだ、いろんな連中にぶっ殺されたのだ。
 それをみて、トビオはもちろん犯人なわけだし、もともとこいつ死んだらいいのにとおもっていたのだが、自分の経験とかさなって共感してしまう。心から応援しようとおもって、リハビリをささえ、いっしょにカラオケにいって尾崎豊の「卒業」をうたったりして、親友になった。
 でも、それで希望がみえたとおもったのだが、そんなときに市橋の唯一の肉親だったおばあちゃんが病死してしまう。しかもわるいタイミングで、トビオがおさななじみの蓮子ちゃんとつきあっちゃうのだ。市橋も蓮子ちゃんにホレていたってこともあって、かれは希望をぜんぶうしなっちまう。トビオに、コングラチュ・ネーションっていって、病院の屋上からとびおりてしまった。死亡だ、この支配からの卒業だ。アァッ、アァッ、アァッ、アァッ。もうなんにもみえやしねえ。あるのは無希望、それだけだ。

明日をぶっ殺せ
バクダンの想像力をぶちかませ
それがこの地球を命がけで生きるってことだ

 これでトビオはおもってしまう。自首したい、自首したい、自首したい。そうおもって、ほかの3人にもはなしたら、みんなおなじ気持ちだという。みんな社会的には死ぬことになるだろうし、今野さんにいたっては、20歳こえているから死刑だろう。でも、それでもやらなきゃダメなんだと。もともと、ヤバ高の不良軍団がよわいものいじめをしていて、そんな弱肉強食の社会をぶちこわそうとおもって、かるいバクダンをしかけた。つよいものに服従する、そんな自分の世界観をふっとばしたかったのだ。
 でも、やってみたらムチャクチャひとを殺しちまって、しかも裏社会のドンと警察がグルになって無罪放免。こんどは弱者になった市橋とかをいたぶりつくすハメになっちまったわけだ。管理された社会のなかで、勝ち組として、ソコソコの人生をおくっていきましょう、よわいものたちを犠牲にして。ふざけんじゃねえ。もういちどだ、もういちどこの社会をふっとばしてやろう。
 ただ自首したってダメだ。モミけされるにきまっている。相手は裏社会と警察そのもの。どうしたらいいか、どうしたらいいか。想像力を全開にしよう。4人で必死に知恵をしぼる。ハラハラ、ドキドキ。ハラハラ、ドキドキ。ああ、たまんねえ。こういうとき、ひとってのはたのしくてしかたながい。
 で、つくりだしたわけだ。バクダンを。もじどおりのバクダンじゃない。真のバクダンだ、想像力そのものだ。まず、街じゅうにビラをばらまいた。ただのビラじゃない。裏面に万札をはったビラである。街じゅうのひとが狂喜乱舞してうけとっていく。で、ある有名アーティストのライブにこいとよびかけた。そこに4人でのりこんでいって、ライブをジャック。そして、マスコミもひともすんげえたくさんいるなかで、これまでの経緯をぜんぶぶちまけたのだ。僕たちがやりました!
 じゃあ、どうなったのかというと、とつぜん、ライブ会場に裏社会の人間がのりこんできて、トビオたちはラチされてしまう。で、なぶり殺されそうになったところ、今野さんの反撃だ。裏社会の人間をひとり刺し殺してしまう。警察につかまって、しかも事件はもみけされそうになった。今野さんのお父さんが手をまわしたのだ。今野さんはいちど誤認逮捕されたせいで、頭がおかしくなっちまった、それで自分がやったんだとおもいこんでしまって、トビオたちをまきこんで、あんなふうにさわいだんだってことにされたのだ。ほれ、ヤミのなか、ほれ、ヤミのなか、ほれ、ヤミのなかと。
 でも、そうは問屋がおろさない。さいご、トビオがひとり決起する。高校の屋上にあがり、バクダンをもって、全校生徒、そしてマスコミのまえで、泣きながらさけぶのだ。「僕たちがやりました! 僕たちがやりました! なんでつかまえてくれないんですか、なんで、なんでぇ、うおお、うおおおお!!!」。そういって、バクダンのスイッチをおす。もちろんガラスがパリン、パリンとわれただけだ。でも、これでトビオは逮捕。バクダンから事件の真相もあかるみになって、みんなとっつかまることになった。
 こんなはなしなのだが、なんとなくでもドラマの思想はつたわっただろうか。強者になってひとを支配するのも、弱者になってひとに支配されるのも、まっぴらごめんだ。どっちにしても、この腐った社会のなかで、明日はちょっとだけ強者になりましょう、もうちょっとよくなれ、もうちょっとよくなれと、毎日毎日、その努力を強いられるだけのことだ。明日のために、明日のために。ソコソコの人生。
 そんな人生をぶっこわすとしたら、もうバクダンしかない。でも、それがたんなる殺人兵器になったとき、いくらでも国家や国家のミニチュアみたいな連中に利用されてしまう。強者の論理にまきこまれて、気づけば自分もその一員になってしまうのだ。だから、もしそこからもぬけだそうとするならば、そんな殺人兵器さえも無に帰すようなバクダンをぶちこむしかない。パンパーンッ、ドカン、ドカーンッ。明日をぶっ殺せ。バクダンの想像力をぶちかませ。それがこの地球を命がけで生きるってことだ。自分の人生を爆破しよう、なんどでも、なんどでも爆破しよう。バクダン、ミサイル、てやんでい。あばよ!

『ドリーム』 - ele-king

 『バッド・フェミニズム』(亜紀書房)の著者、ロクサーヌ・ゲイは同書で「マジカル・ニグロ」というタームを持ち出し、2012年のアカデミー賞にノミネートされた『ヘルプ』を酷評していた。オバマが大統領になったことを記念するかのようにつくられた一連の黒人映画を代表する作品である。「どれだけ黒人がすべての難題を解決できちゃうんだよ」と呆れ、自らもハイチ系の黒人であり脚本家でもある彼女は、ハリウッド映画に「マジカル・ニグロ」が出てくるといつも「あー、またか」と白けてしまうという。興味を持って調べてみると、窮地に陥った白人の主人公(だけ)を魔法のような力で助けてしまう黒人は1950年代からその存在を頻繁にちらつかせ始め(『手錠のままの脱獄』)、「そんなやついねーだろ」というニュアンスを込めてわざわざ「ニグロ」と称されているらしい。スパイク・リーもこの問題には早くからブーたれていたり、新聞などでも「マジカル•ニグロとしてのオバマ」という政治批評が書かれたりと、僕が知らなかっただけで、この件に関してはすでに多彩な議論が繰り広げられていた。「マジカル・ニグロ」を演じる俳優のナンバー・ワンはモーガン・フリーマンだという結論も出ている。なるほど。フェイスブックのCEO、マーク・ザッカーバーグが家庭用の人工知能「ジャーヴィス」の声をモーガン・フリーマンに依頼していたというエピソードはそれを補強する最後のピースになるのかも。

 では、「マジカル・ニグロ」が実在していたらどうだろうというアングルを持ち出してきたのがセオドア・メルフィ監督『ドリーム』になるのかもしれない。NASAがまだバージニア州にあってNACAと呼ばれていた時代に数学者としてアメリカの宇宙開発に尽力していたキャサリン・G・ジョンソンを始め3人の黒人女性が人種差別に苦しめられながら、アメリカでは初となる有人宇宙飛行を成功させるまでの話である。現職の職員にも、NASAにはかつてこうしたスタッフがいたことを覚えているものはなく、完全に忘れられていることから映画化の話がまとまったものらしい。キャサリン・G・ジョンソンは現在99歳でまだ存命。ジョンソン役を演じるのはTVドラマ『エンパイア』のクッキー・ライオンとして知られたタラジ・P・ヘンソンで、数学の天才とはいえ、日常生活にも心を配る常識人として丁寧な演技に勤めている。エンジニアとして雇用条件を満たすために州との駆け引きで洒脱なところを見せるメアリー・ジャクソン役にはR&Bシンガーのジャネール・モネイ。意志が強く、ムードメイカーとしての役柄もあるのだろうけれど、モネイが作り出した人物像は実に魅力的だった。そして、最も感動的だったのがIBMのコンピュータ室長に這い上がるドロシー・ヴォーン。『ヘルプ』で名を挙げた(!)オクタヴィア・スペンサーがこの役を演じ、自分のことだけではなく、黒人女性全体の雇用を考えて先回りする機転の早さを印象付ける。

 『ドリーム』がどれほど史実に忠実で、どれぐらいマジカル要素が入っているのかを検証する知識は僕にはない。ジョンソンやジャクソンの夫たちがあまりに優しすぎて、しかも黒人女性の仕事に理解があるので、『ゲット・オン・ザ・バス』のような映画を観た後には素直に受け取れない面もあるものの、ここに登場するのは最下層ではなく、早くから中流化し始めていた黒人たちなので、あながちウソでもないのだろう。無駄な詮索はしても仕方がない。あくまでもスプートニク・ショックに沈むNACA(NASA)という白人主体の組織を成功に導いた「マジカル・ニグロ」は本当に実在したし、「マジカル・ニグロ」というのはご都合主義が生み出した空想の産物ではないと言いたげなムードがじっとりと伝わってくる。ただし、白人のために難題を解決するという「マジカル・ニグロ」の定義からすれば、黒人たちみんなのことを考えて行動したヴォーンの存在はその範疇に収まらず、さらに大きな意味を持ってくる。僕はどちらかというと主人公よりもヴォーンの行動に感動を覚えた口で、あまりにも映画的な描写ではあったけれど、計算室からコンピュータ室まで彼女たちが闊歩していくシーンはかなり爽快だった。おそらく公民権運動のピークといえるワシントン大行進とイメージをダブらせたのだろう。『ドリーム』の原題は「Hidden Figures」で、いわば「縁の下の力持ち」だから、表に出て輝く存在ではないということもタイトルは表している。実際にジョンソンとジャクソンは裏方であることをまっとうしている(だから忘れられてしまったのだろう)。しかし、ドロシー・ヴォーンはそれだけにとどまらず、ビジネス・マネージャーとして次世代にも継承されてしかるべき手腕を発揮したのである。

 「マジカル・ニグロ」に正当性を与えようとするのが『ドリーム』なら、そのこと自体が新たな人種差別を生み出す契機にもなりうると訝しんでいるのが『ゲット・アウト』だろう。リー・ダニエルズの成功が引き金になったのか、このところ黒人の映画監督が矢継ぎ早にデビューしているようで、『ゲット・アウト』もアメリカではコメディアンとして知られるジョーダン・ピールのデビュー作にして黒人同士の階級差もしっかりと飲み込んだスリラー映画である。同作は服装から握手まで、もはや単一の文化を共有することはなくなった黒人同士のすれ違いをこれでもかと描き、もはや「ブラザー」などという呼びかけは、この映画の後には何も意味をなさないものに思えてしまう。『ゲット・オン・ザ・バス』に残っていたなけなしのユニティも砕け散ったということか。
 クリス・ワシントン(黒人)は、恋人であるローズ・アーミテージ(白人)に両親を紹介したいと言われ、二人して車で向かう。設定ではニューヨーク郊外に移動するだけとなっているけれど、ロケ地はアラバマだったようで、クリス・ワシントンを演じるダニエル・カルーヤの表情が一瞬、緊張を帯びたようになるところはメタ・フィクション的にも興味深い。娘の恋人が黒人であることを知らなかった両親は、そして、まったく動じることなくクリスを大歓迎し、その反面、夕食時にはローズの弟が差別的な態度を剥き出しにする。ここから『ゲット・アウト』はどんどん迷路のようなつくりになっていく。この映画は設定がわかった瞬間がほとんどオチなので、これ以上、ストーリーは辿らない。トム・ティクヴァ『ヘヴン』や大塚祐吉『スープ』など設定や大まかなストーリーは何も知らないで観た方がはるかに楽しめる作品はやはり確実に存在するし、『ゲット・アウト』はどこへ向かっているのかさっぱり見当がつかない間が最も楽しいので。この文章を読んでいるあなたはすでに多くを知りすぎてしまった。

 全体的に『ゲット・アウト』は限りなくB級に近いエンターテインメントとして仕上げられている。美術や人物造形もどこかわざとらしい。しかし、ポリティカル・コレクトネス、いわゆるPCについては考え込まされる。ここに描き出されている(白人)社会は黒人を差別し、下に見ることはない。ご近所=ネイバーというものをテーマにしたいくつかの古典を下敷きにしていることはわかるものの、いわゆるネイバーズと新参者を分け隔てるものに人種という物差しが使われていないかのように物事が動いていく仕掛けも巧妙で、それこそPCが世界の隅々まで行き渡ったらこんな世界になるのかなという理想郷のような味もにじませている。だから、主人公は違和感を覚えながらも、誰に対しても「おかしいじゃないか」とか「黒人の命も大事」などというようなことは口に出すきっかけすらなく、ある意味、手も足も出ないままクライマックスへ滑り落ちていく。主人公は「ゲット・アウト=出ていく」タイミングをまったく掴めない。それはどこから始まっていたのか。70年代? 80年代? 90年代?
 誰ひとり差別されることなく、魔法のような力など持っていないにもかかわらず、すべての黒人が「マジカル・ニグロ」として扱われる世界があったとしたら……それが現代であり、『ゲット・アウト』が誇張して伝えるニューヨーク郊外だろう。2本の作品を立て続けに観ると、あからさまな人種差別を受けながらも、自らの夢に向かって突き進む『ドリーム』はまるで現代よりも良い時代であったように思えてしまい、黒人のみならずすべてのマイノリティが尊重され、嫌な思いをしない世界がディストピアのような錯覚に陥ってしまう。この2本は是非、セットで鑑賞することをお勧めしたい。

注*本誌でも書きましたが、アフリカン・アメリカンという呼称は新たな差別語としてアメリカでは退けられるつつあるということで、ここでは「黒人」という単語を使っています。同時にアメリカでは「ブラック・リスト」を「レッド・リスト」などと言い換えることで「ブラック」という言葉に悪い意味を持たせないという流れもあるそうです。


『ドリーム』予告編

『ゲット・アウト』予告編


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